派遣メシ友

白野よつは

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■第一話

2-3

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 それきり芳二は居間に戻ってこなかった。若干覚束ない足取りで出ていくと、ややしてトイレが流れる音がし、そのままどこかの部屋の襖が閉まった音だけがした。
 つけっぱなしだったテレビからは、いつの間にか夜遅い時間帯のニュース番組が流れていた。しばし見るともなしにぼーっと眺め、リモコンを探し当ててスイッチを切る。
 ほとんど食べられた料理や空いた一升瓶に使った皿などはどうしようと考え、とりあえず食器類は流し台に下げて、料理の皿にはラップをして冷蔵庫に詰めておく。芳二がほとんど一人で空けた一升瓶は冷蔵庫横の戸棚の近くがいいだろうか。
 そうして片付けをしている最中、ずっと陽史の頭の中を占めていたのは、つい口をついて出てしまった『今の自分に満足してますか?』という質問への負い目だった。
 自分だって、その質問をそっくりそのままされれば、何も答えられない。
 けして言うつもりのないことだった。喜多から芳二が作るメシは美味いと聞かされ、一度だけならと目先のメシに釣られただけのことだった。……そのはずだった。
 しかし料理もさることながら、芳二のあの待ちわびた様子や、ぶっきらぼうながらも手厚いもてなし、励ましに、こんな俺でも何かできることがあるんじゃないかと気が大きくなってしまったことは否めない。バイトの一つも長続きしない自分に一体何ができるのかという話だが、そのときの陽史には、受けた恩を返したいという思いが強かったのだ。
 けれど結果はどうだろう。
「やっちまったなあ……」
 少し休憩しようと卓袱台に覆い被さりながら、陽史は情けない声を出した。
 怒鳴られはしなかったが、確実に怒らせた。そして、ひどく悲しませてしまった。
 あれは六十以上も歳の離れた、人生を何も知らないような若造が思い付きで言ってもいい言葉ではなかったのだ。お互いに信頼し合っているからこそ《派遣メシ友》なんていう突飛な関係を続けていた喜多でさえ、一度もこんな話になったことはないというのに、一度きりのつもりで請け負った陽史には、最初から話せることなんてあるわけがない。
「――やば。帰らないと……」
 数分の記憶の欠落にはっと頭を持ち上げたのも束の間、しかし陽史の体はすでに言うことを聞かなかった。どうやら落ち込んでいる間に眠ってしまったらしい。
 すぐにまた睡魔の波が押し寄せ、あと少し休んだらと思っているうちに、次第に瞼や体が重くなる。そうしてついには陽史は、そのままそこで眠りこけてしまったのだった。

「ん……」
 明け方近くになって、陽史はふと目を覚ました。昨夜の記憶を呼び起こしつつ二日酔いの頭を抱えるその肩から、そのときふいに使い込まれた毛布がはらりと落ちた。
「芳二さん……」
 夜中にわざわざ様子を見に来てくれたんだろうか。
 ふと見ると、卓袱台の上に明け方の群青色に染まった一枚の紙幣が置かれていた。しわくしゃの福沢諭吉と目が合った途端、陽史はなぜか無性に涙がこみ上げてならなかった。
「……春祭り?」
 結局、どう声をかけたらいいかわからないまま、諭吉を掴むと早朝の桑原家を出た陽史は、帰る道すがら道端の掲示板に貼られたポスターを見つけ、ふと足を止めた。
 見ると、この近くにある神社で行われる祭りを知らせるものだった。夏祭りや秋祭りと違って昼間に行われるらしいそれは、しかし毎年、出店の数も多く大変な賑わいを見せる祭りとして長らく地域住民に愛されてきているようだった。ポスターには〝第六十七回〟の文字が誇らしげに踊っている。日時は四月に入って最初の土日。あと一週間ほどだ。
 こういう祭りもあるんだ……。
 大学からはほど近いが、陽史が暮らす部屋とは反対方向だったため、今まで知りもしなかった。というより、都心方面に逆らって移動したことはなかったかもしれない。
 こういう地域に根差した祭りは、陽史にも深い馴染みがある。小さい頃は地元の花巻で九月に行われる花巻まつりへ、よく親にねだって連れて行ってもらったものだ。
 小学校高学年ともなれば、クラスメイトと誘い合わせてチャリを漕ぐ。中学では野球部の仲間たちと。高校ではパソコン部の部員たちと学校から帰りがてら出店や、沿道を練り歩く山車だし神輿みこしに、郷土芸能として全国的にも有名な鹿踊ししおどりを賑やかしたりもした。
「仲直りに誘って……」
 みようかな、と言いかけて、陽史は昨夜の芳二の自嘲じみた微苦笑を思い出した。
 喜多の話では、七年前に妻の幸枝を亡くしてから、近所から孤立しがちだという。こういう誰もが心浮き立つ行事に便乗すればご近所とも親しくなれるんじゃないか、と思ったのだが……。そうそう上手くいくわけがないと、陽史はゆるゆるとかぶりを振る。
 失言をはたらいた陽史を最後まで手厚くもてなしてくれた芳二だったが、そのもてなしとは反対に、言葉はぶっきらぼうだった。とにかく不器用な人なのだ。誤解されることの多かった人生だろうことは、一晩付き合っただけの陽史にも想像に容易い。
 それに、もうこれっきりにしたいと思っているだろうことは、諭吉を見れば否が応にも察せる気がするのだ。派遣完了時に相手から受け取る報酬の相場は、そういえば喜多から聞いていなかった。けれど、怒らせ悲しませた相手に諭吉を持たせるということは、つまりはそういうことなのではないだろうか。……餞別だ、というような。
 そう思えば、陽史の中に再び根性なしな部分がむくむくと顔を出していく。
 ――一度きりのつもりだったんだし。喜多さんは〝新人が行く〟なんて言ってたけど、本当はやりたいわけでもなかったし。いい小遣いをもらったと思えばいいし。
 けれど、そう思おうとしても、どうにも上手くいかない。
 いつものように諦める気持ちを抱く一方で、芳二の『そう思えりゃ、それだけでいいんだよ』という、ぶっきらぼうで優しいあの一言が耳に残って離れてくれないのだ。
 妻を亡くし、近所から孤立しはじめて七年。
 だからこそ一時、ともに飲み食いできる《派遣メシ友》は、その不器用さゆえに誤解されがちだっただろう芳二にとって重宝するものだったのかもしれない。たまのメシ友だからこその気安く後腐れない関係は、芳二の性にも合っているように思う。
 でも、芳二は本当にそれでいいのだろうか?
 考えれば考えるだけ、しわくしゃの諭吉が重みを増してくような気分だった。
 どんな気持ちで陽史の肩に毛布をかけたのだろう。どんな思いで諭吉をそっと置いたのだろう。――これからは、ずっと一人でメシを食うのだろうか。……あの家で。
「……」
 しかし結局、陽史は芳二のもとへ踵を返すことはなかった。どんな顔で、なんと言って会えばいいかわからなかったし、なかなか決心もつかなかった。あと一歩のところで勝ったのは、やはり一長一短では変わりようもない〝根性なしな自分〟だったのだ。
 そんな自分に激しい落胆と憤りを感じながら、陽史は猫背の背中をさらに丸めて黙々と早朝の道を歩いた。後ろ髪を引かれる思いで。けれど一度も振り返れずに。
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