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■第一話
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一週間後――。
「芳二さん、陽史です、いらっしゃいますか?」
遠くドンコドンコと太鼓の音と、ピューヒョロロと笛の音が風に乗って運ばれてくる中、陽史はあれ以来、向けていなかった足を芳二の自宅へと向かわせていた。
時刻は午前十一時ちょっと前。春の陽気に恵まれた、祭り当日。
純和風の平屋建て一軒家の玄関先で、これまた古風なビーとしか鳴らない呼び鈴を押すと、きっとこの祭囃子が届いているだろう中の芳二に向けて、そう呼びかける。
「なんだ、お前か」
「ご無沙汰してます。その節は、お礼も言わずにすみませんでした」
「ふん。それほど親しいわけでもないと思うがな」
ややしてガラガラと引き戸を開けた芳二は、陽史を見てもさして驚いた顔は見せなかった。まあ先に名乗っていたので、来客が誰なのかは筒抜けだったわけだけれど。
「……なんだその茶封筒は?」
しかし、陽史の手に大事そうに握りしめられたそれには、訝しげな顔をした。
「まさかこの間のあれを返しにきたのか? それはお前にやったもんだ、今さらいらん」
そう言うと、玄関の引き戸にかけたままだった手を反対方向に動かそうとする。
「まま、待ってください! 聞こえるでしょう、この祭囃子。今日はこれでメシにしませんかって誘いに来たんです。祭りの屋台で食うメシは格別じゃないですか」
陽史はすかさずそこに足と手を滑り込ませ、さらに訝しげな顔を深める芳二にニッと笑う。一週間前、あの汚いプレハブ小屋で陽史の頭に浮かんだのは、これだった。
――自分で稼いだバイト代で芳二を春祭りに誘い、一緒に飲み食いする。
喜多と芳二の関係は《派遣メシ友》という代金が発生する間柄だった。だからこそ、お互いに深い部分には踏み込まず〝ただ気持ちよくメシが食えりゃそれでいい〟と、気楽だがどこか物寂しい関係のままだったのだろうと思う。喜多だって、陽史がしわくしゃの諭吉を持って相談に訪れた際、それを後悔しているような顔をしていた。
だったら、と陽史は思ったのだ。
ただの知り合いとして芳二を春祭りに誘えばいいんじゃないかと。
普段は芳二を敬遠しがちな近所の人たちだって、この陽気と祭囃子だ。見に行く人は少なくないだろうし、気分が盛り上がっている中では、たとえ芳二を目にしてもあからさまな態度にはならないだろうと思った。そこで一気に打ち解ける作戦だ。そうすれば、わざわざ《派遣メシ友》になんて頼らなくても、きっと美味い酒も美味いメシも味わえる。
それこそが芳二が求めているものなんじゃないかと陽史は思う。一宿一般の恩義というわけではないが、やはり陽史は、自分がどんなに情けなく根性なしで他力本願な男だと自覚していようとも、芳二の手厚いもてなしに対して何か返したかったのだ。
一週間の短期バイトは肉体労働が主だった。道路工事の誘導係。ヘルメットを被って赤い棒を振り、ドライバーにぺこりと頭を下げる。春先なのでそんなに日には焼けないだろうと思っていたが、好天に恵まれたおかげで少し黒くなった気がする。
「そんなもんにわしがのこのこ付いていくと思っとるのか? もう飽きとるわ」
けれど当然、芳二はふんと鼻を鳴らして門前払いだ。頑固ジジイである。一週間前と違って活気に溢れ、肌も少しばかり日に焼けて逞しくなった陽史を見ても〝それが?〟と言いたげに目を眇めただけで、態度も口調も偏屈ジジイのそれに変わりはない。
「そう言わずに、ちょっとだけでも行ってみましょうよ。俺、こういう祭りは上京してから初めてなんです。言いましたっけ? 俺の地元は岩手の花巻なんですけど、花巻にも地域に根差した祭りが多いので懐かしいんですよ。一人で行ってもつまんないですし、知り合いもいないんだから、ぼっちですよ、ぼっち。ね? いいじゃないですか」
しかし陽史は諦めるつもりなんて毛頭なかった。
誘導灯を振り、ドライバーにご協力ありがとうございますと頭を下げ続けた一週間、折に触れて考えていたのは芳二のことだ。気持ちを伝えるのが下手なだけで、本当は優しく人情味に溢れた本来の芳二を、どうすれば近所や多くの人に知ってもらえるか。
一度メシ友を請け負っただけの陽史が、そう易々と踏み込んでいくべきことではないことは、もちろん百も承知だ。それでも陽史は、もう知ってしまっているのだ。
家の前で待ちわびるようにしていた芳二の姿も。よく言う「ふん」の口癖にどんな気持ちが隠されてあるかも。――『今の自分に満足してますか?』という失礼な問いに、聞いた陽史もそうだったが、本当は答えようがなかったことも、全部知っている。
不器用で可愛い人なのだ、この桑原芳二という人は。
そんなの、亡くなった妻だけが知っているなんて、もったいないじゃないか。
「……わしゃ行けん」
しかし芳二は、ふいと顔を背けると、そう言う。
「どうしてですか」
「約束しとったんだ。――死んだ女房と、元気になったら一緒に行こうと」
「え……」
聞くと芳二の口から初めて妻の話が出た。それから、固まる陽史を前に話しはじめる。
しばらく幸枝の体調が優れない日が続いた、その年の秋口。「寝ていればじきに治りますよ」とやんわり頑固に拒否していた幸枝をどうにか病院に連れて行った際、付き添いの芳二にだけ告げられたのは、幸枝はすでに末期のガンであるという事実だった。
ずいぶん迷ったが、結局病名は告げずにそのまま入院させた幸枝のことを、芳二は今でも本当にそれでよかったのかと、当時の自分の選択に大きな後悔を抱えているという。
秋が更け、冬の寒さが厳しくなってきた頃には、幸枝の容態は悪化の一途を辿るばかりだったそうだ。二人には離れて暮らす娘がおり、娘は仕事や子供の世話で忙しい中、ない時間をなんとか工面してたびたび病院へ足を運んでくれたという。
会うたびにやせ細っていく母を見て、娘は毎回、「こんなにも早いなんて……」と嗚咽をもらしていたそうだ。毎日病院へ見舞っている芳二でさえ、日に日に枯れ枝のようになっていく幸枝に同じことを思っていたというのに、数ヵ月おきにしか会えない娘にはどんなに酷な母の姿だっただろうかと、芳二はときおり声を詰まらせながら、そう言う。
「その頃には女房は、自分がどんな病気で、もうじきどうなってしまうか、わかりきっていたんだろうよ。だがな、言ったんだ。……『元気になったら、近所の神社の春祭りに行きましょうね』『約束ですよ』と。細っそい小指を震わせながらよ、無理やりわしに指切りげんまんさせおったんだ。喋ることさえ辛かっただろうに、あいつ、痩せ細って骨と皮だけになった手を差し出すんだよ。頬骨が浮き出たしわだらけの顔で笑ったんだよ。蚊の鳴くような声で歌ったんだよ。そんときゃさすがに、もうたまらなくてな。……女房は結局、春を待てずに死んださ。あの約束はそれっきり、守る相手を失くしたままだ」
言い終えると、芳二は親指と人差し指で鼻を摘まんですん、と鳴らした。
「これで満足か? だからわしゃ春祭りには行けんのだ。行く価値がもうねえのさ。というより、なんでお前なんかに話したんだろうな。鼻たれ小僧のお前なんかに」
「……」
それに対して陽史は何も言えなかった。こういうとき、言葉は無力だ。
その代わりではないが、陽史はおっかなびっくり芳二の肩に手を置いた。手のひらから伝わるものなら、もしかしたらあるかもしれない。あってほしいと、そう思いながら。
「……ふん。一人前に慰めてるつもりか?」
振り払われるかとハラハラしたたが、やがていつものように悪態をついた芳二は、何とも言えない顔をしている陽史を見て口の端をわずかに吊り上げただけだった。
「なんて顔してやがる。だから他人とは関わりたくねえんだ」
「――ねえ芳二さん。やっぱり俺、今日は屋台でメシが食いたいです」
しかしそれには応えず、陽史は真っ直ぐに芳二の目を見つめ返す。
やっぱり今日のメシは屋台だ。青空の下で、祭囃子を聞きながら腹いっぱい食いたい。
「はあ? 今の話を聞いてなかったのか? それでなくても、わしゃ昔から近所付き合いが下手で女房に任せっきりだったんだ。死んで七年、今さら顔を見せられるか」
「だからですよ」
「なんだと?」
「一緒に行けなくてもいいじゃないですか。奥さんはきっと、芳二さんのそういう性格を見越して約束したんだと思います。そのとき〝一緒に〟とは言わなかったんですよね? だったら、一人で行こうと俺と行こうと、約束に変わりないと思いませんか?」
「んな見苦しいこじつけ……」
芳二の怒気を孕んだ声と表情から、次第にその二つが抜けていく。芳二が放心したように呟いたそれには、陽史も大いに同感だった。自分で言って、本当に呆れる。けれど、もうこの世にいない大切な人が残した言葉だからこそ、残された芳二や、それを聞いた陽史には、その言葉に込められた思いの解釈を変えることができるのではないだろうか。
本当はあのとき、幸枝は〝一緒に〟と言ったかもしれない。たとえ言わなかったとしても、当たり前に〝芳二と一緒に〟という前提で、そんな約束をしたのかもしれない。
でも、もうすぐ一人になってしまう芳二を案じていたことだけは確かだ。
だって、近所付き合いが下手な芳二のことを誰よりもよく知っていたはずなのだから。
「ここに来る前、ちょっとだけ祭りを覗いてみたんですよ。お好み焼きに、たこ焼き、フランクフルトにかき氷、わたあめも売ってましたし、お面もヨーヨー釣りもありました。あんなのもう豪遊しなくてどうすんですか。資金ならたんまりあるのに」
そう言うと、陽史はニヤリと笑って茶封筒を振った。一週間のバイト代、55,250円。小銭が封筒の中でチャリンと鳴る音が小気味よく二人の耳に響く。
「……ふ」
するとそのとき、芳二が初めて陽史の前で声をもらして笑った。そのまま豪快に「ふは、ふはは!」と大口を開けて笑うと、芳二は目尻に浮かんだ涙を拭う。
「お前まさか、このためだけに金を作ってきたのか? わしを祭りに誘うためだけに?」
「そうですよ。いただいた諭吉じゃ、フェアじゃないじゃないですか」
その言い方に少しだけむっとしてしまいながら答えると、芳二はさらに笑う。
「どうやら少しは根性が出てきたようじゃないか」
「……え?」
「ふん。仕方ねえから付いてってやるって言ってんだ。ぼっちはお互い様だろう?」
ニヤリ。口の端を不敵に引き上げて愉快そうに笑った。
「芳二さん、陽史です、いらっしゃいますか?」
遠くドンコドンコと太鼓の音と、ピューヒョロロと笛の音が風に乗って運ばれてくる中、陽史はあれ以来、向けていなかった足を芳二の自宅へと向かわせていた。
時刻は午前十一時ちょっと前。春の陽気に恵まれた、祭り当日。
純和風の平屋建て一軒家の玄関先で、これまた古風なビーとしか鳴らない呼び鈴を押すと、きっとこの祭囃子が届いているだろう中の芳二に向けて、そう呼びかける。
「なんだ、お前か」
「ご無沙汰してます。その節は、お礼も言わずにすみませんでした」
「ふん。それほど親しいわけでもないと思うがな」
ややしてガラガラと引き戸を開けた芳二は、陽史を見てもさして驚いた顔は見せなかった。まあ先に名乗っていたので、来客が誰なのかは筒抜けだったわけだけれど。
「……なんだその茶封筒は?」
しかし、陽史の手に大事そうに握りしめられたそれには、訝しげな顔をした。
「まさかこの間のあれを返しにきたのか? それはお前にやったもんだ、今さらいらん」
そう言うと、玄関の引き戸にかけたままだった手を反対方向に動かそうとする。
「まま、待ってください! 聞こえるでしょう、この祭囃子。今日はこれでメシにしませんかって誘いに来たんです。祭りの屋台で食うメシは格別じゃないですか」
陽史はすかさずそこに足と手を滑り込ませ、さらに訝しげな顔を深める芳二にニッと笑う。一週間前、あの汚いプレハブ小屋で陽史の頭に浮かんだのは、これだった。
――自分で稼いだバイト代で芳二を春祭りに誘い、一緒に飲み食いする。
喜多と芳二の関係は《派遣メシ友》という代金が発生する間柄だった。だからこそ、お互いに深い部分には踏み込まず〝ただ気持ちよくメシが食えりゃそれでいい〟と、気楽だがどこか物寂しい関係のままだったのだろうと思う。喜多だって、陽史がしわくしゃの諭吉を持って相談に訪れた際、それを後悔しているような顔をしていた。
だったら、と陽史は思ったのだ。
ただの知り合いとして芳二を春祭りに誘えばいいんじゃないかと。
普段は芳二を敬遠しがちな近所の人たちだって、この陽気と祭囃子だ。見に行く人は少なくないだろうし、気分が盛り上がっている中では、たとえ芳二を目にしてもあからさまな態度にはならないだろうと思った。そこで一気に打ち解ける作戦だ。そうすれば、わざわざ《派遣メシ友》になんて頼らなくても、きっと美味い酒も美味いメシも味わえる。
それこそが芳二が求めているものなんじゃないかと陽史は思う。一宿一般の恩義というわけではないが、やはり陽史は、自分がどんなに情けなく根性なしで他力本願な男だと自覚していようとも、芳二の手厚いもてなしに対して何か返したかったのだ。
一週間の短期バイトは肉体労働が主だった。道路工事の誘導係。ヘルメットを被って赤い棒を振り、ドライバーにぺこりと頭を下げる。春先なのでそんなに日には焼けないだろうと思っていたが、好天に恵まれたおかげで少し黒くなった気がする。
「そんなもんにわしがのこのこ付いていくと思っとるのか? もう飽きとるわ」
けれど当然、芳二はふんと鼻を鳴らして門前払いだ。頑固ジジイである。一週間前と違って活気に溢れ、肌も少しばかり日に焼けて逞しくなった陽史を見ても〝それが?〟と言いたげに目を眇めただけで、態度も口調も偏屈ジジイのそれに変わりはない。
「そう言わずに、ちょっとだけでも行ってみましょうよ。俺、こういう祭りは上京してから初めてなんです。言いましたっけ? 俺の地元は岩手の花巻なんですけど、花巻にも地域に根差した祭りが多いので懐かしいんですよ。一人で行ってもつまんないですし、知り合いもいないんだから、ぼっちですよ、ぼっち。ね? いいじゃないですか」
しかし陽史は諦めるつもりなんて毛頭なかった。
誘導灯を振り、ドライバーにご協力ありがとうございますと頭を下げ続けた一週間、折に触れて考えていたのは芳二のことだ。気持ちを伝えるのが下手なだけで、本当は優しく人情味に溢れた本来の芳二を、どうすれば近所や多くの人に知ってもらえるか。
一度メシ友を請け負っただけの陽史が、そう易々と踏み込んでいくべきことではないことは、もちろん百も承知だ。それでも陽史は、もう知ってしまっているのだ。
家の前で待ちわびるようにしていた芳二の姿も。よく言う「ふん」の口癖にどんな気持ちが隠されてあるかも。――『今の自分に満足してますか?』という失礼な問いに、聞いた陽史もそうだったが、本当は答えようがなかったことも、全部知っている。
不器用で可愛い人なのだ、この桑原芳二という人は。
そんなの、亡くなった妻だけが知っているなんて、もったいないじゃないか。
「……わしゃ行けん」
しかし芳二は、ふいと顔を背けると、そう言う。
「どうしてですか」
「約束しとったんだ。――死んだ女房と、元気になったら一緒に行こうと」
「え……」
聞くと芳二の口から初めて妻の話が出た。それから、固まる陽史を前に話しはじめる。
しばらく幸枝の体調が優れない日が続いた、その年の秋口。「寝ていればじきに治りますよ」とやんわり頑固に拒否していた幸枝をどうにか病院に連れて行った際、付き添いの芳二にだけ告げられたのは、幸枝はすでに末期のガンであるという事実だった。
ずいぶん迷ったが、結局病名は告げずにそのまま入院させた幸枝のことを、芳二は今でも本当にそれでよかったのかと、当時の自分の選択に大きな後悔を抱えているという。
秋が更け、冬の寒さが厳しくなってきた頃には、幸枝の容態は悪化の一途を辿るばかりだったそうだ。二人には離れて暮らす娘がおり、娘は仕事や子供の世話で忙しい中、ない時間をなんとか工面してたびたび病院へ足を運んでくれたという。
会うたびにやせ細っていく母を見て、娘は毎回、「こんなにも早いなんて……」と嗚咽をもらしていたそうだ。毎日病院へ見舞っている芳二でさえ、日に日に枯れ枝のようになっていく幸枝に同じことを思っていたというのに、数ヵ月おきにしか会えない娘にはどんなに酷な母の姿だっただろうかと、芳二はときおり声を詰まらせながら、そう言う。
「その頃には女房は、自分がどんな病気で、もうじきどうなってしまうか、わかりきっていたんだろうよ。だがな、言ったんだ。……『元気になったら、近所の神社の春祭りに行きましょうね』『約束ですよ』と。細っそい小指を震わせながらよ、無理やりわしに指切りげんまんさせおったんだ。喋ることさえ辛かっただろうに、あいつ、痩せ細って骨と皮だけになった手を差し出すんだよ。頬骨が浮き出たしわだらけの顔で笑ったんだよ。蚊の鳴くような声で歌ったんだよ。そんときゃさすがに、もうたまらなくてな。……女房は結局、春を待てずに死んださ。あの約束はそれっきり、守る相手を失くしたままだ」
言い終えると、芳二は親指と人差し指で鼻を摘まんですん、と鳴らした。
「これで満足か? だからわしゃ春祭りには行けんのだ。行く価値がもうねえのさ。というより、なんでお前なんかに話したんだろうな。鼻たれ小僧のお前なんかに」
「……」
それに対して陽史は何も言えなかった。こういうとき、言葉は無力だ。
その代わりではないが、陽史はおっかなびっくり芳二の肩に手を置いた。手のひらから伝わるものなら、もしかしたらあるかもしれない。あってほしいと、そう思いながら。
「……ふん。一人前に慰めてるつもりか?」
振り払われるかとハラハラしたたが、やがていつものように悪態をついた芳二は、何とも言えない顔をしている陽史を見て口の端をわずかに吊り上げただけだった。
「なんて顔してやがる。だから他人とは関わりたくねえんだ」
「――ねえ芳二さん。やっぱり俺、今日は屋台でメシが食いたいです」
しかしそれには応えず、陽史は真っ直ぐに芳二の目を見つめ返す。
やっぱり今日のメシは屋台だ。青空の下で、祭囃子を聞きながら腹いっぱい食いたい。
「はあ? 今の話を聞いてなかったのか? それでなくても、わしゃ昔から近所付き合いが下手で女房に任せっきりだったんだ。死んで七年、今さら顔を見せられるか」
「だからですよ」
「なんだと?」
「一緒に行けなくてもいいじゃないですか。奥さんはきっと、芳二さんのそういう性格を見越して約束したんだと思います。そのとき〝一緒に〟とは言わなかったんですよね? だったら、一人で行こうと俺と行こうと、約束に変わりないと思いませんか?」
「んな見苦しいこじつけ……」
芳二の怒気を孕んだ声と表情から、次第にその二つが抜けていく。芳二が放心したように呟いたそれには、陽史も大いに同感だった。自分で言って、本当に呆れる。けれど、もうこの世にいない大切な人が残した言葉だからこそ、残された芳二や、それを聞いた陽史には、その言葉に込められた思いの解釈を変えることができるのではないだろうか。
本当はあのとき、幸枝は〝一緒に〟と言ったかもしれない。たとえ言わなかったとしても、当たり前に〝芳二と一緒に〟という前提で、そんな約束をしたのかもしれない。
でも、もうすぐ一人になってしまう芳二を案じていたことだけは確かだ。
だって、近所付き合いが下手な芳二のことを誰よりもよく知っていたはずなのだから。
「ここに来る前、ちょっとだけ祭りを覗いてみたんですよ。お好み焼きに、たこ焼き、フランクフルトにかき氷、わたあめも売ってましたし、お面もヨーヨー釣りもありました。あんなのもう豪遊しなくてどうすんですか。資金ならたんまりあるのに」
そう言うと、陽史はニヤリと笑って茶封筒を振った。一週間のバイト代、55,250円。小銭が封筒の中でチャリンと鳴る音が小気味よく二人の耳に響く。
「……ふ」
するとそのとき、芳二が初めて陽史の前で声をもらして笑った。そのまま豪快に「ふは、ふはは!」と大口を開けて笑うと、芳二は目尻に浮かんだ涙を拭う。
「お前まさか、このためだけに金を作ってきたのか? わしを祭りに誘うためだけに?」
「そうですよ。いただいた諭吉じゃ、フェアじゃないじゃないですか」
その言い方に少しだけむっとしてしまいながら答えると、芳二はさらに笑う。
「どうやら少しは根性が出てきたようじゃないか」
「……え?」
「ふん。仕方ねえから付いてってやるって言ってんだ。ぼっちはお互い様だろう?」
ニヤリ。口の端を不敵に引き上げて愉快そうに笑った。
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