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■第二話
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それからほどなくして、喜多を介して彩乃から連絡があった。五月に入った初っ端、ちょうどゴールデンウィークの後半に入ってすぐのときで、そのとき芳二の家にメシを食いに行っていた陽史は、喜多からの連絡を受け胸を撫で下ろし、と同時に頬を緩ませた。
転送される形で送られてきたのは、【五日の昼にまたお話がしたいです】という、シンプルで飾り気のない、たったそれだけのものだった。けれどそのぶん、この一文を送るまでの彩乃の葛藤が透けて見えるようで、陽史のほうも俄然、気が引き締まる思いだ。
結局喜多とは、あれからすぐに番号の交換をした。自分の預かり知らないところでまた勝手をやられたら困るのもあったし、一番は彩乃と連絡を取る手段が喜多を介すこと以外になかったからだ。彼女がどこの店で働いているのかも知らず、連絡先の交換もしていなかったので、どうしても喜多と連絡を取り合える状態が欲しかった。……大いに不本意ではあるけれど。五日に会ったときに直接彩乃に聞こうと思う。こちらは本意だ。
ちなみに和真は実家の横手へ帰った。
『あれ? 陽史は帰らねえの?』
『ああ、うん。新幹線代どころか深夜バスにも乗れそうにないんだ』
『マジで?』
『お土産よろしく』
『……。……まあ頑張れ』
そんな会話をしたその日の夜には、四~五日ぶんの荷物をまとめ、見せつけるように新幹線で秋田へ帰っていった。春休みの二ヵ月がっつり帰っていたくせに一ヵ月で実家が恋しくなったのか、ケッ。と思わないわけでもなかった。嘘である。ただのやっかみだ。
そして、彩乃との二回目のメシ友が終わってから物思いに耽る場面が多くなっていた陽史に気づいていながら何も言わないでいてくれた、いい男である。
「なんでえ、鼻の下なんか伸ばしおって。気持ち悪い男だな、帰れ。実家に」
とか言いつつ美味い手料理を振る舞ってくれる芳二に、陽史の頬はまた緩む。
なんだかんだ文句は多いが、どうやら芳二もやぶさかではないらしい。あれ以来、顔を見せにちょくちょくやってくる陽史に嬉しそうだ。今は昼時なので、酒はないけれど。
「いや、帰りたい気持ちは山々なんですけど、会いたい人がいるんですよ」
「ほお? 女か。しかも年上と見た」
「んげほっ……なんでわかるんですか。あ、いや、その通りですけど、誤解しないでください。《派遣メシ友》のほうですよ。第一俺、普通に同年代の子が好きなんで」
芳二の鋭い読みに、掻き込んでいた炊き立ての白米が粒のまま喉に刺さる。慌てて手近にあった味噌汁で流し込むが、喉の奥がギンギン痛くて陽史の目は涙目だ。
「ふん。休みの日にジジイの家に上がり込むくらいだ、つまらん男だと思っておったが、やっぱりそうだったか。期待通りでちっとも笑えん。帰れ、実家に」
「や、だから、会いたい人がいるって言ってるじゃないですか。ちょうど今、喜多さんを介して次の約束が決まったんで、ほっとしてちょっと変な顔になっただけです」
「変な顔なのはいつものことだろうが」
「そういうところが芳二さんですよねえ……」
ケッケッケと愉快そうに笑う芳二に、陽史も苦笑いするしかない。
ったく、ほんとこのジジイは……。
「だが、ちぃと気にはなるな。お前のことだ、どうせまた自分の許容範囲も知らずに首を突っ込んでいるんだろうが、そもそも向こうは誰かとメシを食う以上のことを望んでおるのか? まあ、あいつはそういう男だが、秋成ともそれ以上のことはなかったんだろう? 向こうのことはよく知らん。だからわしの考えすぎかもしれん。だがな、闇雲に踏み込んでいっても傷が深くなるだけかもしれんぞ? そういう覚悟がお前にあるのか?」
すると芳二は、自身も味噌汁の椀を取りながら言う。
今日の具はシンプルにワカメと豆腐とネギだ。呼び鈴を押したのが陽史だとわかるや否や、急いでもう一切れ塩鮭を焼き、その間に大根おろしを擦ってくれたけれど。卓袱台の上には、お好みでなめ茸の瓶も置かれている。大根おろしに乗せて食べると美味い。
「覚悟って、んな大袈裟な……」
まさにそのなめ茸乗せ大根おろしに箸を伸ばそうとしていた陽史は、その格好のまま顔を引きつらせた。芳二のときも上手くいったんだし、今回も――と軽く考えていたわけではない。が、いきなり覚悟を問われれば、急に不安になってくるというものだ。
いささかオーバーなんじゃないだろうかとさえ思う。
あのとき彩乃は今にも泣き出しそうな顔で笑った。そんな彼女が、また会う約束をしてくれた。それは十中八九、彼女と家族にまつわること――〝ゾッとした〟というあの一言の本当の意味を陽史に話すためだと思う。そんなの、期待したって別に不思議でもなんでもないんじゃないだろうか。むしろ信頼してもらえたようで嬉しい出来事として捉えていた陽史には、覚悟を問う芳二の言葉は、さながら出鼻を挫かれたようなものだった。
けれど芳二は、そんな陽史の内面を見透かすように目を眇める。
「二十歳そこそこの、平々凡々と生きてきたような男に何ができる?」
「え……」
「ふん。まあ、お前にもそれなりの波乱はあったんだろうがな」
そして、固まる陽史をよそに一つ鼻を鳴らすと、美味そうに味噌汁をすすった。
どうやら芳二の「ふん」は、人を試すときにも出るらしい。というか、ほぼ毎回のように言うので、特にこれといった意味もないような、ただの口癖なのだろう。
けれど陽史はどうにも胸騒ぎを覚えてならなかった。金縛りから解けたように箸を伸ばした大根おろしは、口から火が出そうなほどピリピリに辛くて、ツンと鼻に痛かった。
*
――そしてそれは、その通りの結果を生む。
「ま、待ってくださいっ!」
「嫌よ。絶対言われると思った。だから先に話したの。いい子なら、お願いだから察してよ。私はもうあの家とは縁を切りたいし、切ったつもりなの。そんな私にあんな……」
「で、でも」
「もういい加減にして! 二十歳の君に私の何がわかるっていうの? あんなの、どこの誰に言われてもそれだけは絶対に拒否する! 良心で言ってるならなおさらよ!」
五月五日、昼日中のカフェのテラス席の一角。
この前、休みの日に会ったときと同じように落ち着いた格好をした彩乃は、同じテラス席の客や通りを歩く通行人からの奇異の視線も目に入っていない様子で、色白の顔を赤く紅潮させて勢いよく席から立ち上がった。そんな彼女を止めようとする陽史にも同じ視線が注がれているが、こちらもそれを気に留める余裕なんて少しもない。
「っ、それのどこがダメなんですか。俺には、彩乃さんが話してくれたこと全部が逆に聞こえてならないんですよ。……お願いです、本当は彩乃さんはどうしたいんですか? どうなりたいんですか? 少しでいいので教えてもらうことはできませんかっ」
「っ……。君は私じゃないからそんなことが簡単に言えるの。だったら君は、私と同じ生き方をしても帰りたいと思う? 違うでしょう? そういうことよ、ほっといて」
「彩乃さんっ」
陽史の必死の説得も、今の彩乃の耳には入らない。むしろ神経を逆撫でするだけだ。
彩乃からは、会って早々に自身の窮屈だった生い立ちを聞いた。
以前、ちらりと所作に厳しい家だったと聞いた通り、彩乃の実家はそれなりの歴史や品格を持った家柄なんだそうだ。名家や名士というほどではないにしろ、家も大きく庭も立派なその家は、地域の人たちから一目置かれる存在だった。その家に暮らす家族もまた、さまざまな場面で多かれ少なかれ注目を浴びざるを得なかったという。そのため、一人娘の彩乃への躾は、同年代の子供たちと比べて自然と厳しいものだったらしい。
『世間体や体面だけの家なのよ』
疲れたように彩乃は言った。
『高校生にもなって門限が五時って。どんだけよ、って思ったわ』
だから、なんとか家から通える大学へ行かせようとした親を説得し、進学を機に都会へ出た彩乃は、これまでの押さえつけられるようだった生活を一変させることに神経を注いだ。絶対にこの家から出て行ってやる――その一心で説得を続けた結果だそうだ。
抑圧の反動とはよく言ったもので、地元の目や家、親からの解放感に満ち満ちていた彩乃は、大学四年間のうち、実家へ足を向けたのは数える程度だったという。
何度か帰るたびに派手になっていく娘に、親は当然、いい顔はしなかった。でもそれが逆に快感でもあったという。興味本位で水商売系のバイトをしたのは、ちょうどそんなときだ。ある程度バイト代が溜まった時点でやめたが、そのときの経験から、セイヤが勝手に作った借金を返さなければならなくなった際、迷わず昔取った杵柄を選んだ。
『話は前後するけど』
そこまで語って、彩乃は話を戻す。
高校生、大学生問わず全体的に就職難だったこともあったが、派遣社員を選んだのは親への当てつけの部分がまだまだあったからだという。正社員との処遇の違いは、やはりそれなりに身に感じることも多かったが、別に暮らしていけないわけじゃない。
手塩にかけて育てたと思っているだろう親へ不安定な自分を見せることで何かしらの意志が伝われば――と。そういう思いで、あえて就職活動は中途半端なまま終わらせた。
それでも、小さい頃から当然のこととして叩き込まれた気真面目さは、多くの場合、派遣に行く先々で上司の目に留まり、正社員にならないかと誘いを受けることもしばしばだったそうだ。けれど彩乃は、そのたびに申し訳ない思いに駆られつつも丁重に断った。そうして派遣期間を満了すると、次の派遣先へ転々としていったのだという。
その都度、彩乃はこう思ったそうだ。
『ほんと、心底ゾッとしたわ。まだ私はあの家から出て行けてないみたいで』
どうしても必要以上に真面目に、それがさも当たり前だと言わんばかりに真剣に働いてしまう自分がたまらなく可愛そうに思えたと。彩乃はそう、吐き捨てるように言った。
そうして何度目かの派遣先でも、ふと気づくと仕事を任されてやりがいを感じる反面、同じように気真面目に働いてしまう自分にどうしようもない閉塞感を感じていた。そこに現れたのがセイヤだったという。そこから先は、前に聞いた話の通りだ。
だからね、と彩乃は締めくくった。
『これでわかったでしょう? 自分の歳のことはもちろん気にしてる。私は本当にこのままでいいのかなって。けど、それ以上に思うの。本当の意味であの家から出て行けたんだって心から思えるようになるまでは、意地でもこの生活を続けたいって』
そこで陽史は、心に決めていたことを口にした。
『――俺に渡したこれの本当の使い道は、彩乃さんが決めてください』
そう言って、彩乃の前に封筒を差し出す。
その中には前回と前々回の《派遣メシ友》代として渡された三万円が、そっくりそのまま入っていた。到底、手を付ける気になどなれるはずもなく、綺麗なまま取っておいたものだった。喜多なら喜んで使うこともあるかもしれないが、メシをご馳走になるだけでこんなにも胸の奥が痛いというのに、やはり陽史には、どだい無理な話だったのだ。
『……私の話、聞いてなかったの?』
彩乃は、目の前に差し出した封筒を見て察したようだった。封筒から目を上げた彼女は怒りを滲ませた真っ赤な顔で陽史をきつく睨みつけ、そうして勢いよく席を立った。
でも陽史には、彼女の生い立ちも、ここに至るまでの彩乃がどうだったかも、もはや関係なかった。二回目のメシ友が終わって別れたときから……いや、初めて彩乃に会い、所作の美しさに感心した陽史にどこか物悲しげに横顔に陰を落としたあのときから。
これだけは言おうと、そう決めていたことだった。
転送される形で送られてきたのは、【五日の昼にまたお話がしたいです】という、シンプルで飾り気のない、たったそれだけのものだった。けれどそのぶん、この一文を送るまでの彩乃の葛藤が透けて見えるようで、陽史のほうも俄然、気が引き締まる思いだ。
結局喜多とは、あれからすぐに番号の交換をした。自分の預かり知らないところでまた勝手をやられたら困るのもあったし、一番は彩乃と連絡を取る手段が喜多を介すこと以外になかったからだ。彼女がどこの店で働いているのかも知らず、連絡先の交換もしていなかったので、どうしても喜多と連絡を取り合える状態が欲しかった。……大いに不本意ではあるけれど。五日に会ったときに直接彩乃に聞こうと思う。こちらは本意だ。
ちなみに和真は実家の横手へ帰った。
『あれ? 陽史は帰らねえの?』
『ああ、うん。新幹線代どころか深夜バスにも乗れそうにないんだ』
『マジで?』
『お土産よろしく』
『……。……まあ頑張れ』
そんな会話をしたその日の夜には、四~五日ぶんの荷物をまとめ、見せつけるように新幹線で秋田へ帰っていった。春休みの二ヵ月がっつり帰っていたくせに一ヵ月で実家が恋しくなったのか、ケッ。と思わないわけでもなかった。嘘である。ただのやっかみだ。
そして、彩乃との二回目のメシ友が終わってから物思いに耽る場面が多くなっていた陽史に気づいていながら何も言わないでいてくれた、いい男である。
「なんでえ、鼻の下なんか伸ばしおって。気持ち悪い男だな、帰れ。実家に」
とか言いつつ美味い手料理を振る舞ってくれる芳二に、陽史の頬はまた緩む。
なんだかんだ文句は多いが、どうやら芳二もやぶさかではないらしい。あれ以来、顔を見せにちょくちょくやってくる陽史に嬉しそうだ。今は昼時なので、酒はないけれど。
「いや、帰りたい気持ちは山々なんですけど、会いたい人がいるんですよ」
「ほお? 女か。しかも年上と見た」
「んげほっ……なんでわかるんですか。あ、いや、その通りですけど、誤解しないでください。《派遣メシ友》のほうですよ。第一俺、普通に同年代の子が好きなんで」
芳二の鋭い読みに、掻き込んでいた炊き立ての白米が粒のまま喉に刺さる。慌てて手近にあった味噌汁で流し込むが、喉の奥がギンギン痛くて陽史の目は涙目だ。
「ふん。休みの日にジジイの家に上がり込むくらいだ、つまらん男だと思っておったが、やっぱりそうだったか。期待通りでちっとも笑えん。帰れ、実家に」
「や、だから、会いたい人がいるって言ってるじゃないですか。ちょうど今、喜多さんを介して次の約束が決まったんで、ほっとしてちょっと変な顔になっただけです」
「変な顔なのはいつものことだろうが」
「そういうところが芳二さんですよねえ……」
ケッケッケと愉快そうに笑う芳二に、陽史も苦笑いするしかない。
ったく、ほんとこのジジイは……。
「だが、ちぃと気にはなるな。お前のことだ、どうせまた自分の許容範囲も知らずに首を突っ込んでいるんだろうが、そもそも向こうは誰かとメシを食う以上のことを望んでおるのか? まあ、あいつはそういう男だが、秋成ともそれ以上のことはなかったんだろう? 向こうのことはよく知らん。だからわしの考えすぎかもしれん。だがな、闇雲に踏み込んでいっても傷が深くなるだけかもしれんぞ? そういう覚悟がお前にあるのか?」
すると芳二は、自身も味噌汁の椀を取りながら言う。
今日の具はシンプルにワカメと豆腐とネギだ。呼び鈴を押したのが陽史だとわかるや否や、急いでもう一切れ塩鮭を焼き、その間に大根おろしを擦ってくれたけれど。卓袱台の上には、お好みでなめ茸の瓶も置かれている。大根おろしに乗せて食べると美味い。
「覚悟って、んな大袈裟な……」
まさにそのなめ茸乗せ大根おろしに箸を伸ばそうとしていた陽史は、その格好のまま顔を引きつらせた。芳二のときも上手くいったんだし、今回も――と軽く考えていたわけではない。が、いきなり覚悟を問われれば、急に不安になってくるというものだ。
いささかオーバーなんじゃないだろうかとさえ思う。
あのとき彩乃は今にも泣き出しそうな顔で笑った。そんな彼女が、また会う約束をしてくれた。それは十中八九、彼女と家族にまつわること――〝ゾッとした〟というあの一言の本当の意味を陽史に話すためだと思う。そんなの、期待したって別に不思議でもなんでもないんじゃないだろうか。むしろ信頼してもらえたようで嬉しい出来事として捉えていた陽史には、覚悟を問う芳二の言葉は、さながら出鼻を挫かれたようなものだった。
けれど芳二は、そんな陽史の内面を見透かすように目を眇める。
「二十歳そこそこの、平々凡々と生きてきたような男に何ができる?」
「え……」
「ふん。まあ、お前にもそれなりの波乱はあったんだろうがな」
そして、固まる陽史をよそに一つ鼻を鳴らすと、美味そうに味噌汁をすすった。
どうやら芳二の「ふん」は、人を試すときにも出るらしい。というか、ほぼ毎回のように言うので、特にこれといった意味もないような、ただの口癖なのだろう。
けれど陽史はどうにも胸騒ぎを覚えてならなかった。金縛りから解けたように箸を伸ばした大根おろしは、口から火が出そうなほどピリピリに辛くて、ツンと鼻に痛かった。
*
――そしてそれは、その通りの結果を生む。
「ま、待ってくださいっ!」
「嫌よ。絶対言われると思った。だから先に話したの。いい子なら、お願いだから察してよ。私はもうあの家とは縁を切りたいし、切ったつもりなの。そんな私にあんな……」
「で、でも」
「もういい加減にして! 二十歳の君に私の何がわかるっていうの? あんなの、どこの誰に言われてもそれだけは絶対に拒否する! 良心で言ってるならなおさらよ!」
五月五日、昼日中のカフェのテラス席の一角。
この前、休みの日に会ったときと同じように落ち着いた格好をした彩乃は、同じテラス席の客や通りを歩く通行人からの奇異の視線も目に入っていない様子で、色白の顔を赤く紅潮させて勢いよく席から立ち上がった。そんな彼女を止めようとする陽史にも同じ視線が注がれているが、こちらもそれを気に留める余裕なんて少しもない。
「っ、それのどこがダメなんですか。俺には、彩乃さんが話してくれたこと全部が逆に聞こえてならないんですよ。……お願いです、本当は彩乃さんはどうしたいんですか? どうなりたいんですか? 少しでいいので教えてもらうことはできませんかっ」
「っ……。君は私じゃないからそんなことが簡単に言えるの。だったら君は、私と同じ生き方をしても帰りたいと思う? 違うでしょう? そういうことよ、ほっといて」
「彩乃さんっ」
陽史の必死の説得も、今の彩乃の耳には入らない。むしろ神経を逆撫でするだけだ。
彩乃からは、会って早々に自身の窮屈だった生い立ちを聞いた。
以前、ちらりと所作に厳しい家だったと聞いた通り、彩乃の実家はそれなりの歴史や品格を持った家柄なんだそうだ。名家や名士というほどではないにしろ、家も大きく庭も立派なその家は、地域の人たちから一目置かれる存在だった。その家に暮らす家族もまた、さまざまな場面で多かれ少なかれ注目を浴びざるを得なかったという。そのため、一人娘の彩乃への躾は、同年代の子供たちと比べて自然と厳しいものだったらしい。
『世間体や体面だけの家なのよ』
疲れたように彩乃は言った。
『高校生にもなって門限が五時って。どんだけよ、って思ったわ』
だから、なんとか家から通える大学へ行かせようとした親を説得し、進学を機に都会へ出た彩乃は、これまでの押さえつけられるようだった生活を一変させることに神経を注いだ。絶対にこの家から出て行ってやる――その一心で説得を続けた結果だそうだ。
抑圧の反動とはよく言ったもので、地元の目や家、親からの解放感に満ち満ちていた彩乃は、大学四年間のうち、実家へ足を向けたのは数える程度だったという。
何度か帰るたびに派手になっていく娘に、親は当然、いい顔はしなかった。でもそれが逆に快感でもあったという。興味本位で水商売系のバイトをしたのは、ちょうどそんなときだ。ある程度バイト代が溜まった時点でやめたが、そのときの経験から、セイヤが勝手に作った借金を返さなければならなくなった際、迷わず昔取った杵柄を選んだ。
『話は前後するけど』
そこまで語って、彩乃は話を戻す。
高校生、大学生問わず全体的に就職難だったこともあったが、派遣社員を選んだのは親への当てつけの部分がまだまだあったからだという。正社員との処遇の違いは、やはりそれなりに身に感じることも多かったが、別に暮らしていけないわけじゃない。
手塩にかけて育てたと思っているだろう親へ不安定な自分を見せることで何かしらの意志が伝われば――と。そういう思いで、あえて就職活動は中途半端なまま終わらせた。
それでも、小さい頃から当然のこととして叩き込まれた気真面目さは、多くの場合、派遣に行く先々で上司の目に留まり、正社員にならないかと誘いを受けることもしばしばだったそうだ。けれど彩乃は、そのたびに申し訳ない思いに駆られつつも丁重に断った。そうして派遣期間を満了すると、次の派遣先へ転々としていったのだという。
その都度、彩乃はこう思ったそうだ。
『ほんと、心底ゾッとしたわ。まだ私はあの家から出て行けてないみたいで』
どうしても必要以上に真面目に、それがさも当たり前だと言わんばかりに真剣に働いてしまう自分がたまらなく可愛そうに思えたと。彩乃はそう、吐き捨てるように言った。
そうして何度目かの派遣先でも、ふと気づくと仕事を任されてやりがいを感じる反面、同じように気真面目に働いてしまう自分にどうしようもない閉塞感を感じていた。そこに現れたのがセイヤだったという。そこから先は、前に聞いた話の通りだ。
だからね、と彩乃は締めくくった。
『これでわかったでしょう? 自分の歳のことはもちろん気にしてる。私は本当にこのままでいいのかなって。けど、それ以上に思うの。本当の意味であの家から出て行けたんだって心から思えるようになるまでは、意地でもこの生活を続けたいって』
そこで陽史は、心に決めていたことを口にした。
『――俺に渡したこれの本当の使い道は、彩乃さんが決めてください』
そう言って、彩乃の前に封筒を差し出す。
その中には前回と前々回の《派遣メシ友》代として渡された三万円が、そっくりそのまま入っていた。到底、手を付ける気になどなれるはずもなく、綺麗なまま取っておいたものだった。喜多なら喜んで使うこともあるかもしれないが、メシをご馳走になるだけでこんなにも胸の奥が痛いというのに、やはり陽史には、どだい無理な話だったのだ。
『……私の話、聞いてなかったの?』
彩乃は、目の前に差し出した封筒を見て察したようだった。封筒から目を上げた彼女は怒りを滲ませた真っ赤な顔で陽史をきつく睨みつけ、そうして勢いよく席を立った。
でも陽史には、彼女の生い立ちも、ここに至るまでの彩乃がどうだったかも、もはや関係なかった。二回目のメシ友が終わって別れたときから……いや、初めて彩乃に会い、所作の美しさに感心した陽史にどこか物悲しげに横顔に陰を落としたあのときから。
これだけは言おうと、そう決めていたことだった。
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