派遣メシ友

白野よつは

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■第三話

3-2

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 陽史の頬は途端に引きつる。
 何を言い出すかと思えば、まだ家にも帰っていないのに東京に戻れって……。
「他人のあんただから言ってやれることがあるんじゃないの? 誰にだってきっと、そういう危機は数えるほどあるんだ。だたでさえ生まれたばかりの新生児の育児は壮絶だよ。夜泣きだってそのうち始まるかもしれない。三~四時間おきに起きる赤ちゃんや、どうにか泣き止ませようとあやす横でいびきをかいて熟睡されてちゃ、ぶん殴りたくなる。それでも、体調を崩しながら奥さんは一生懸命育てていた。家事もやって、その合間に予防接種や健診や、ほかの赤ちゃんとのふれあい教室なんかにも、きっと一人で予定を組んで連れて行ってたんだと思うんだよ。その人が言うところの〝自分の分身〟をさ」
 しかし万里子は、自分も経験し乗り越えたからこその母親の目線で一息に言う。
「養ってくれるのはありがたいよ。仕事で疲れて帰ってくるのもわかる。でも、子供は夫婦で育てるものだよ。奥さんは仕事も持ってるんだから、産休明けのことを思えば家出したくなって当然だと思う。そこまでわかっててまだ迎えに行く決心がつかないんだから、笑っちゃうわ。だったら最初から結婚も子供も持つべきじゃなかったって思うね」
「……」
「でも、その人は何がなんでも修復したいんでしょ? あんたも、わざわざ母さんに相談するくらい首を突っ込んでるなら、その人のケツでも引っぱたいて連れてったらいいじゃない。というわけで、引き返しますよー。母さんに聞いてきたけど、本当はあんたがそうするしかないって思ってるんでしょ? だったら行くところはここじゃないでしょ」
「え、ちょ、ちょっと――」
 そしてそう言うと、あまりに突然のことで言葉も出ない陽史に満面の笑みを見せ、ちょうどUターンできそうな農道の入り口に頭から車を入れるなり、すぐさま切り返した。
 確かに陽史も、緒川に対してそこまでわかっているならと思う部分は大いにある。なかなか取れない時間の中でおもちゃ屋に足を運び、吟味し、そしてそれを何個も家に置いておくくらいなのだから、彼の愛情の深さは、きっと並大抵のものではないのだろうと。
 けれど、あと一歩が出ない気持ちもわからないでもなかった。
 また同じことの繰り返しになるかもしれない恐怖は、陽史にも身に覚えがある。ただ、緒川はどんな形になったとしても、けして〝父親〟をやめられないのだ。その恐怖は自分の比ではないと思うと、すすり泣く彼に強く言えないところがあったのも否めない。
 ましてこちらは、まだ自分の家族を持ったこともない学生だ。ほとんど親の仕送りを頼りに生きているような、そんな身分である。そんな自分に何が言えるだろうと、陽史はどうしても思ってしまったのだ。だからこそ喜多は陽史にピンチヒッターを頼んだのだろうし、陽史もまた、家族の顔見たさと何かしらのアドバイスを求め、帰省した。
 しかし万里子は、そんな陽史と、今も一人きりで部屋にいるだろう緒川に喝を入れた。
 育児の壮絶さや最初から家庭も子供も持つべきではなかったと言いながらも、陽史が本当はどうしたいと思っているのかを言葉にし、来た道を戻ってくれている。
 そんな肝っ玉の万里子が運転する車は、あんぐりと口を開けたままの陽史を乗せ、十分もしないうちに駅前ロータリーに横付けされる。そこには先ほどと変わらず迎え待ちの車が何台か止まっていて、まだ来ないのだろう、入れ替わった様子は見受けられない。
「なに鳩が豆鉄砲を食らったような顔してんの」
 ギアをパーキングに入れた万里子が、困ったように微笑する。
「あんたは覚えてないかな、小学校の三~四年生の頃、可哀そうだからどうしても飼いたいって子猫を拾ってきたことがあるんだけど。あんたには無理だって母さんたちがいくら言っても、そのときだけは嫌だ嫌だの一点張りで絶対に諦めようとしなかったんだよ。しまいにはポスターを作ったり生徒に呼びかけたりして、とうとう飼い主を見つけた。いつもならすぐに諦めるあんたがって、家族のみんなで驚いたもんだったんだよ」
 そして、そう言うと陽史に意味ありげな視線を向けた。
「――だからね、陽史。あんたには、そういう土壇場に強いところがある。自分のことは後回しにして助けたいと思う相手に手を差し伸べられる行動力もある。その人もきっと、あんたの手を待ってるはずだよ。その人たちがちゃんと向かう先が決まったら、また帰ってきなさい。実家は逃げないけど、その人は奥さんに逃げられそうなんでしょ?」
「それだけは絶対にさせてたまるか!」
 直後、陽史は弾かれるようにしてシートベルトを外し、助手席のドアを開けた。後部座席から帰省の荷物を引っ張り出すと、居ても立ってもいられない思いで駅舎へ駆け出す。
 頑張ることを諦めたら、そこで終わりだ。あとになって、あのときどうしてもっと頑張れなかったんだろうと死ぬほど悔やんだって、もう時間は巻き戻らない。
 緒川が頑張ることを頑張れないなら。ここ最近の陽史のように怖気づいてしまっているなら。俺も一緒に頑張ることを頑張ろう――陽史は強く強く思う。
「昨日から一週間、有休取ってるんだって!」
 自動ドアをくぐりかけて、陽史は万里子を振り返った。運転席から身を乗り出すようにして見送っていた万里子が、その瞬間、ぱっと花が咲いたように破顔する。
「だったらちょうどいいじゃない」
「おう!」
 本当だ。本当に会いに行くにはちょうどいい。陽史の顔にも喜色が浮かぶ。
 そのあとすぐに飛び乗った上りの電車で南下しながら、陽史は思う。
 きっと緒川は、なかなか決心がつかない気持ちとは裏腹に、妻と息子に会いに行くために休みを取ったのだろうと。本当は、部屋のどこかにもう荷物もまとめてあったのかもしれない。でも、頭ではわかっているのに、もう一歩が出なかったのだろうと思う。
 情けないとは思うものの、どうなるかわからないことへの恐怖や不安は、きっと年齢とは関係ない。万里子が言ったように、緒川も陽史の手を待っているんだとしたら。他人の自分だからこそ言えること、行動に移せることを緒川と、その家族にしてやりたい――。

 北上きたかみ駅へ着くと、陽史はそこから東北新幹線へ乗り換えた。各駅電車で東京まで戻れないこともないし、料金も安く抑えられるが、どれだけ時間がかかることだろう。
 それに、緒川の有休も今日で二日目だ。
 だったらと、陽史は芳二や和真、それに喜多へのお土産にと思い多めに持ってきた帰省賃で新幹線に飛び乗ることに決めた。実家に入ることもなく、墓参りも墓掃除もできず、父や祖父母の顔も見ないままとんぼ帰りとなってしまったけれど。でも、万里子が言ったように実家は逃げない。緒川の尻を叩いたそのあとは、今度はゆっくり帰ればいい。
 そのときは、絶対にいい報告を持って。
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