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■1.空き家の幽霊と切り裂かれたお守り

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「これ、親父の時計だ……こんな落書きまで取っておくなんて……」
「このガラス片は?」
「ああ、それは、ダイヤモンドだ。砂場や公園の砂に角が丸くなったガラス片がよくあるだろう? 小さい頃、それをダイヤモンドだって言って、よくあげていたんだ」
「まあ、可愛らしい」
「……恥ずかしいことを言うなよ、もう半世紀も前の話じゃないか」
「ふふ」
 まるで宝箱を開けた子どものように笑顔の花が咲くふたりをにこにこと眺めつつ、
「よかったですね」
 こっそり早坂に耳打ちすると、三佳をわずかに振り仰いだ早坂の口元にも、少しばかりの笑みが広がっているように見えた。本人が言うには、オオカミはそれはそれは孤高の存在で、ひとりを愛する生き物らしい。でも、こうして人と関わる仕事をしているということは、もしかしたら、それほどひとりを愛しているわけでもないのかもしれない。
「あ、じゃあ、私たちはそろそろお暇しようかと思います。依頼料は口座にということでしたので、正式な請求書が届きましたら、すぐにお支払いいたします」
「本当にありがとうございました。義母の御守りと、この形見、大事にします」
 やっぱり、ぼっちなんじゃ……と三佳が再び疑惑を抱いたところで、人前ではしゃぎすぎて恥ずかしくなったのだろう、ふたりで照れ笑いしながら公一氏夫妻がそう言って応接セットから腰を上げた。ふたりのそんな笑顔に、はっと我に返った三佳は、
「こちらこそご依頼いただき、誠にありがとうございました。下までお送りいたします」
 一瞬のうちに眠そうにぼーっとしはじめた早坂に慌ててお盆を押し付けると、彼に代わってテキパキと夫妻をお見送りするため、事務所のドアを開けた。
 本当に申し訳ない限りだが、『早坂ハウスクリーニング』が入っている雑居ビルは、ただ今、唯一のエレベーターが故障中だ。というか、三佳が面接に訪れたときから故障中の貼り紙が貼ってある気がするのだが、修理のほうはどうなっているのだろうか。
「すみません、すみません……」と恐縮しきりで階段を下り、歩道に出ると、何度も頭を下げながら仲睦まじく帰っていく夫妻に三佳も何度となく深々と頭を下げてお送りする。
 ふたりの話では、飛行機の時間にまだ余裕があるので、取り壊し工事がはじまったあの家をしっかり目に焼き付けてから九州へ帰る、ということだった。公一氏が生まれ育った家。でも今は、誰も住むことのなくなった家。いい思い出も、ほろ苦い思い出もすべてが詰まったあの家を、最後にもう一度、どうしても見ておきたいのだそうだ。
 それなら段ボールはこちらで送りましょうかと申し出たのだが、公一氏は丁寧に礼を言ったあと、申し訳なさそうに首を横に振った。三佳もそれ以上は何も言わず、ふたりの姿が雑踏の中に消えると、上り下りに不便な雑居ビルの中の事務所へ戻った。

「所長、なるべく毛は落とさないでくださいね。掃除が大変です」
 事務所のドアを開けると、案の定早坂はソファーにうつ伏せに伸び、すぴーすぴーと気持ちよさそうな音を立てながら軽くうたた寝をはじめているところだった。
 三佳が若干うんざりしながら注意を促すと、美しい銀毛に包まれた三角の耳がぴくんと立つ。けれどすぐに力が抜け、頭のほうにぺたんと垂れてしまう。
 本当に眠いのか、はたまた、聞く耳は持ちません、ということなのか。
 ため息をつくと、仕方なく三佳は、三人は優に座れるソファーを一匹で陣取る銀毛のオオカミにブランケットを掛けてやることにした。こんなにモコモコでぬくぬくなのに寝起きはなぜか薄っすら寒いようで、前に放っておいたら「愛がない」と文句を言われた。無論、ひとりを愛する、という台詞と真逆じゃないかと思ったのは言うまでもない。
 ――それにしても。
「変なところに就職しちゃったなぁ……」
 とうとう本格的に寝はじめたオオカミを見下ろしつつ腰に手を当てると、三佳の口からは、今までに何度出たかわからない独り言が、またぽつりとこぼれていった。
 自分がびっくりするくらい憑かれやすい体質であることも今まで知らなかったし、世の中にはどうにも説明のつかないことが多々あることも、ここで働くまで知らなかった。
 きっと今まで、気のせいとか、無理に何もなかったと思い込もうとしたり、わからないから知らないふりを――目を向けようとしてこなかっただけなのだろう。そんな日常に潜む非日常なことが今は当たり前になりつつあるのだから、人生何が起きるかわからない。
 いい例が、早坂慧という人物だ。
 もう見慣れた姿とはいえ、リアルなオオカミなんて博物館の標本くらいでしか見たことがなかったのに、こんなに間近で見られる日が日常的に訪れるとは夢にも思っていなかった。……とはいえ、正体は人とオオカミを巧みに使い分ける〝もののけ〟なのだけれど。
 それに、公一氏夫妻のような例も何度か経験した。
 といっても、ご家族が〝掃除〟をしてほしいと依頼してくるケースは今回が初めてのことで、今まで行ったところは登記上も誰の持ち物かあやふやな物件ばかりだった。先ほど公一氏もちらりと話題に出したとおり、その不動産屋のことは、三佳はまだ知らない。
 不動産屋のほうから、いろいろな面で〝掃除〟が必要な物件のハウスクリーニングの仕事を回してくるのか、早坂が自らの足で仕事を取ってくるのかはわからない。だが今は、出所が不透明ながら生活のため早坂の指示で動く、というのがもっぱらの三佳の現状だ。
 ――そういうところも含めて〝変〟なのだけれど。
「まあ、怖い思いだけしたわけじゃないし、ね」
 オオカミ姿の早坂が靄たち霊を一瞬で滅してしまったことだけが、心残りと言えばそうだ。けれど、これからあの御守りには何か〝いいもの〟が憑きそうな予感で胸がわくわくするのもまた本当だ。だって、あのふたりならきっといつまでも大事にしてくれる。キヨさんだって、キヨさんの思いから生まれた靄だって、そう思っているに違いない。
「さて。お茶を片づけたらさっそく請求書を作ろうっと」
 ぐーっと伸びをして、三佳は仕事に戻ることにした。ソファーの上の銀毛のモフモフのことは、自分も眠くなるからというのと、見ていると腹立たしくなってくるからという二つの理由で極力視界に入れないようにする。ほぼほぼ後者なのは無論だ。でも、それは口が裂けても言えやしない。悲しいかな、拾ってもらった恩が三佳をそうさせるのだ。

 そのときはまだ三佳はひとつも気づいていなかったのだが、早坂がようやく長い昼寝から目を覚ました定時の午後五時少し前――。
「野々原さん、ひどいじゃないですか!」
「はい?」
「お茶請けに出した、あの塩大福は僕の大好物なんですよ? それなのに全部ひとりで食べちゃうなんて、ちょっとひどすぎやしませんかね? 五個ですよ、五個。ひどい!」
 給湯室に向かった早坂がすごい勢いで出てくるなり請求書が大詰めの三佳に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと待ってください、塩大福なんて食べてないですよ。どうしてもっていうなら、オオカミはイヌ科なんですから匂いで確かめてみてくださいよ」
 事務所にふたりしかいないのだから疑われても仕方がないとは思う。でも、早坂の好物が塩大福であることは前から知っていたので、三佳が手を出すはずもない。
 内心で、なんだこいつ……と憤慨しながら、仕方なく三佳はまだ疑う目をしている早坂にツン、と上げた顎を向けた。口元の匂いを確かめれば一発で濡れ衣も脱げるはずだ。イヌ科なんだからと煽り文句も入れたので、早坂も乗ってくるに違いない。
 すると案の定、スンスンと鼻をヒクつかせながら早坂の顔が近づいてきた。
 ひどく整った顔だが、もはやドキドキなんて一つもしない。だってオオカミのもののけだ、あらぬ疑いをかけてくるような食い意地の張った男だ。人並外れて格好いいだけに、なんて残念な人なんだろう……と同情する気持ちのほうが先に立つに決まっている。
「……ん? んんん?」
「ほら。食べてませんよね? しっかりしてくださいよ、もう」
 おかしいな、という顔で三佳から顔を離す早坂に、やれやれとため息が漏れる。
 本当にこの人はどこまで残念な人なんだろう……。もはや不憫に思えてきた。
「じゃあ、一体誰が……?」
「さあ。少なくとも所長が寝ている間に訪ねてきた人はいませんよ。あ、もしかしたら、あれじゃないですか? 片づけたときには気が付きませんでしたけど、鷹爪夫妻が、塩大福があんまり美味しそうだったから、ついこっそり持って帰っちゃったとか。そうじゃなかったら、塩大福が五個も忽然と消えるなんて説明がつきませんよ」
 お客様は来ていない。ということは、お茶も出していないのだから、当然お茶請けも出していない。考えられることといえば、三佳の頭では鷹爪夫妻説が一番有力だ。
 もとより大福はふたりに出したものでもある。ふたりがこっそり持って帰ったとしても別に構わないし、どうしても食べたいなら、また新しく買い直せば済む話である。
 それより三佳は夫妻に送る請求書に目を通してもらいたかった。もうすぐ定時だ。何もないときくらい、早く帰りたい。そうして、とりあえず画面で見てもらおうと早坂のほうにパソコンを向けようとすると、まだ腑に落ちない様子の残念な人が、
「……そういえば公一さんが、ハウスクリーニングの依頼をしてきたときに、キヨさんは塩大福に目がなかったとぽつりとこぼしていたような気が……」
 藪から棒にそんなことを言い出した。
「え!?」
「もしかしたら、野々原さんから御守りを取り上げようとしたとき、ついうっかり爪で引っかいて傷をつけてしまったことへのプチ復讐でしょうか。いや、一本取られましたね」
「じゃあ、あの話は嘘だったってことですか!?」
「……はい、まあ。ほんと、ついうっかりで……。でも、そのおかげで掃除をしたり家を取り壊したりすること以上にご夫婦の心が晴れたんですから、まあいいじゃないですか。嘘も方便とはよく言ったものです。公一さんからは何かを隠している匂いをずっと感じていたのですが、これで僕のほうでも依頼時から抱いていた謎が解けました」
「……」
 ははは、と笑う早坂に、三佳は開いた口が塞がらなかった。確かに早坂の嘘のおかげで公一氏が清美さんにも隠していた御守りの秘密を打ち明けられたのは事実だろう。
 でも。
「ひどいのはどっちですかぁ!」
 このとおり、三佳の気持ちが再び爆発したのは至極当然のことと言える。
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