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珍味の名は
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「赤シャブ?」
耳慣れない不穏な響きに、私は思わず聞き返した。
「そう。赤シャブ。手に入った」
玄関の扉を開け中に入るなり、ユータはそういう。
「見てみる? この……」
ポケットをまさぐり、その「赤シャブ」とやらを取り出そうとしたので、「ちょ、ちょっと」と慌てて制した。玄関先でするようなことではない。ユータをベッドに座らせ、玄関扉の鍵を閉じ、チェーンをかけ、カーテンを閉めた。カーテンを閉めると部屋は怪しげな程うす暗くなった。ついでに照明もつける。
「もお! いっつも、突然なんだから! 来る前に連絡してっていったでしょ? メールでもラインでも! 電話でも!」
「うん」
うん、は違うと思った。
「でもね、偶然赤シャブが手に入ったんだ。嬉しくてさ、アキにみせたくてさ、そんで来ちゃったって寸法さ」
「『寸法』は別にいいけどさ、今日はたまたま家にいただけだからね? 私だって出掛けてることはあるんだから」
「でもアキ、俺が来る時いつも部屋にいるじゃん」
図星を突かれて、くっ、っと思った。勢いを付けて奴の隣りに座る。私の体重にベッドのスプリングが揺れて転がりそうになるユータが可笑しかった。
「で、その『赤シャブ』っての、普通のやつとなんか違うわけ?」
肩を寄せて、ユータに触れる。奪った体温が心地良い。
「うん。俺も初めてなんだけど、なんか効きが全然違うらしい。アキはあぶり専だからピンと来ないかもしんないけど、俺らポン中の間では赤シャブは半ば都市伝説みたいに言われててさ、なんか、この時期の北朝鮮産に薄ピンクのネタが紛れることがあって、喰ってみるとそれはもう極上なんだって。ガアってきて、ゾワワってなってサワサワって。秋頃にだけ出廻る珍しいネタ。噂話しレベルのレアものをリアルに手に入れたこの興奮、炙り専のアキにはわかんねーだろうな」
「何、その『あぶり専、あぶり専』てあぶりを見下すような態度。むかつく」
ほれ、といってユータは私の目の前に「赤シャブ」の入ったビニールのパケットをぶら下げて見せた。まるで子供が珍しいクワガタを捕まえた事を誇るような無邪気な顔。こいつ、まつ毛が長いな、そう思った。
「喰うなら半分分けてやるけどさ、三万は貰わねーとだな」
「三万? 高すぎじゃね? こんなピンクソルトみたいな奴に」
「嫌なら別にいいんだけどさ、もう二度と手に入んないかもだよ? 喰わねーの?」
「喰う。でも、あんたに貸してるお金から相殺だかんね。今、現金で欲しけりゃイチゴーかな。どうすんの?」
「ちぇ。足元見やがって。じゃあイチゴーでいいや」
そういって立ち上がりキッチンへ向かいごそごそと必要なものを漁っている。勝手は分かっているといわんばかりだ。半同棲、というほどではないけれど、いつも、ひょいっと現れては泊まりに来る。この狭いワンルームに長い時には一週間以上居座ることもあった。知り合って一年ほどになるけれど、何の仕事をしているのか、あるいはしていないのか、どこに住んでいるのか、そもそも住所があるのか、何も知らない。分かっていることは自称27歳で歳上で、性別は男でジャンキーであること。私も此奴に仕込まれた。
「なあ、アキ。そろそろ、炙り止めてポンプにしねーか? 俺、打ってやるぞ?」
ローテーブルの上で私のヘアスプレー缶を麺棒の様に使い、パケットのなかの結晶をゴリゴリと粉に砕きながらながらユータはいう。別にそのスプレー缶に思い入れがあるわけじゃないけど何となく嫌だった。
「なんか嫌。別に同じことをしてるってわかってるけど。ポンプってさ、もう戻る余地がない、っていうか。ユータ見てるとさ、なんとなくそう思うの」
「炙りはよ、脳が早くいかれちまうんだ。そーゆーの結構見てきたし。この間もさ、林さん、知ってんだろ? あの人に急に呼び出されてさ、ちょっと見てて欲しいつって。部屋に行ってみるとびびったね。玄関扉の覗き穴はガムテープで塞いであるわ、ソファやらマットレスやらサッシ窓を塞ぐように立て掛けてあるわ。『何してんすか』って聞いたらよ、誰かがレーザーで攻撃して来るんだって。窓や覗き穴から。やばいよな。で、青いレーザーはいいけど赤いレーザーはヤバいから、赤いレーザーが飛んで来たらどっち方面から飛んできたか確認して欲しい、って。もう、部屋もぐちゃぐちゃよ。あの人もさあ、炙り専なのよ」
ユータは粉になった「赤シャブ」のパケットの中央に割り箸を二本挟み込んだ。その割り箸を左右にずらし中央を鋏で切り、二つのパケットに分ける。器用な奴。
「ん。好きな方選べよ。まあ、きっちり半分に分けた自信はあるけどな。俺、こーゆーの才能あんだよ」
「無駄なところに才能使ってんじゃねーよ。そんならさ……じゃ、こっちのパケにする」
一万五千円を支払いパケットを受け取る。ユータは財布から誰かの名刺のようなものを取り出し二つ折りにする。その二つ折りのVの字の底に「ネタ」をパラパラと乗せる。片手で注射器の「押す」部分を引き抜き、Vの字を注射器の尻に当てがい、トントントンと指で叩いてクスリを中に入れた。押す部分を注射器に戻しコップに用意しておいた水を注射器で吸う。指でパシパシとはたき、水とネタを混ぜたかと思うと、ぐっと右腕に力を入れ、関節に浮き上がった血管にぷすりと針を刺し、覚醒剤を摂取した。躊躇を見せない人間の堕落への所作を、寧ろ美しく思う。ユータは、ふー、と大きなため息を吐いた。
どう? やっぱちが、と問い掛けた私に、話しかけんな、とユータは制した。目をつぶり、眉間に皺寄せる。グルメ番組でコメンテーターが本当に美味いものを食べた時のような、本気のような顔。押し寄せる激しい快感を手なづけているのかも知れない。私も私の堕落の準備をする。お互い覚醒剤を摂取したあとは、おそらくセックスをするのだろう。長い、長いセックス。不安も恐れも憎しみも何もない世界の中、ただ純粋な快感だけを求めて、欺瞞を知らない獣のように、やりまくるのだろう。
*
目が覚めると、ユータの姿は無かった。あいつめ、と思いながら玄関の扉の鍵を閉めに行く。部屋の中には裸の女と覚醒剤。不用心も甚だしい。振り返り部屋を眺めると、カーテンの隙間から朝の力強い光が刺し込んでいて、ローテーブルの上のアルミホイルやらストローやら、パケットやら、堕落の残滓を鮮明に照らしていた。まるで悪意を含んだスポットライトのように。
「あんた、死ぬ気だろ」
初めてユータに出会った時にかけられた言葉を思い出す。正直、その時「死ぬ気」ではなかったけれど、その手があったか、とは思った。
「気配がさ、違うんだよ。まだ生きられるのに死のうとしてる奴。うまく言えないけどそーゆーの沢山見てきたからさ、俺には分かるんだ」
ユータはいう。今にして思えばクスリで頭がおかしくなってる時に言ったか、単純に独りでバーに飲みに来るような淋しい女に奇を衒ってみたか、どちらかであったのかも知れない。でも、あの時の私のこころには妙に引っかかる響きがあった。
不倫して妊娠して堕胎して別れた。ただそれだけの事だった。テンプレートのような凡庸な転落。けれどその凡庸さはこころの痛みまでも凡庸にしてくれる訳では無かった。当事者になると、それは、きつかった。
「不安も恐れも憎しみもない世界があるとしたら、素敵だとおもわないか? あんたをさ、そこに連れてってやるよ。どーせ死ぬ気なんだろ?」
ユータはいった。何かの宗教にでも誘うように。
別に宗教でも良かった。考えることにあまりにも疲れていたから。そんな素敵な世界が本当にあるなら、どんな代償を払ってもいい、いっそ行ってしまいたかった。ただ、ユータが誘ったのは宗教ではなかった。
私たちはバーを後にしホテルに向かった。けれども週末の夜はどこのラブホテルも満室だった。
「ちぇ、セックスなんて自分の家でやりゃいいのにさ。この満室の数はさ、自分の家でセックス出来ない奴らの後ろめたさの数なんだよ。ちぇ」
ユータにそう言われてこころがチクリと痛んだ。
「だったらうちに来ない? その不安や恐れや憎しみの無い世界を見せてくれるんでしょ? 私はもうセックスには後ろめたさを感じないから」
「そりゃ願っても無いけどさ、ただのセックスで不安や恐れや憎しみの無い世界に俺が連れて行くとでも? どんなテクニシャンだよ」
ユータは笑った。私にはなぜ笑われたのか、その理由がさっぱり分からなかった。
ユータがタクシーを拾い、私が自宅の住所を伝えた。私はタクシーの中で自分の転落の話をしていた。上司との不倫、妊娠して堕胎、多めの手切れ金を貰っての退職。テンプレートに若干の物語りを加えた。どうでも良かった。私とセックスがしたいだけのゴミ箱にゴミの様な人生をただ捨てていた。その行為に何の期待もなかった。ユータは黙って聞いていた。ひと通り話し終えると、アンタ名前は? と聞いてきた。
「アキ」
そう答える。
「アキ、アンタ自分の存在をさ、ゴミクズのように思ってるだろ。アキ、ゴミクズにはな、名前なんてないぞ」
あの時ユータはそういって笑った。笑った時に見せる八重歯をチャーミングに思った。
ため息を一つつき、朝の光を疎ましく思った。朝は嫌いだ。いつも健全さを押し付けておいて、その正当性に少しの疑いもみせない。
ローテーブルの上のアルミホイルとパケットを眺め、今から吸おうか、どうしようかと考えた。迷っている時点で「吸わない」という選択肢はないように思えた。アルミホイルの上に「赤シャブ」をのせる。下からライターで炙ると気化したネタが白くゆらゆらと登って行った。私はそれを逃がさないようにストローで吸い込み息を止めた。赤シャブは確かに他のネタとは違う「効き」をみせた。息を止めて一秒で朝の光をを憎まなくなった。次第に不倫相手の顔や産まれてくるはずだった命の存在も溶けて消えた。その存在で得た多額のお金の後ろめたさも。ユータの長いまつ毛の映像だけが残った。何の不安も恐れも憎しみも無い世界がそこにはあった。
*
珍しく、ユータから電話があった。なんか焦っているような、苛ついているような感じがした。
「アキ、お前まだ、ネタ、持ってるか?」
「そりゃ、まあ、この間アンタから買ったばかりだから」
「捨てろ。近くの公園のトイレにでも流しちまえ。そんでな、アキ、シャブを抜け。もう、絶対喰うな。サウナにでも行ってよ、汗と一緒に体のなかのシャブを抜くんだ。いいな?」
「ちょ、ちょっといきなり何? 怖いんだけど」
「林のクソ野郎がな、下手打っちまった」
「え? 林ってあの林さんだよね? ユータの高校の先輩の」
林さんとは三度、この部屋であぶりをやった記憶がある。勿論、ユータも一緒の時だ。ユータはたまにジャンキー仲間を連れてきて私に紹介をした。その行為の意図はよく分からなかったけれど、多分、悪意はない。私を孤独にさせない為だろう。
「あの野郎、警察に捕まった」
「え? 見つかったの? クスリやってること?」
「クスリは見つかってねえ。まだな。あの野郎、強盗してやがった。どおりで最近金廻りがいいと不思議に思ってたんだ」
「強盗!?」
ユータがいうには、お婆さんがやっているようなタバコ屋を調べて、タバコを買うふりをして犯行に及んでいたらしい。数件成功したことに味をしめて、適当な所で止められなかったと。当然、すぐにバレる。地域も警戒するだろう。「私は強盗を生業にして、かれこれ十年になります」なんて人、今まで見たことない。
「あいつ、スケッチブックに『金を出せ。さもないと・・・』って書いたの見せて婆さんたちを脅してたんだって。フリップ芸みたいにしてさ。昨日の新聞にもちっさく載ってらあ。さもないと、点、点、点って何だよ。さもないと『殺す』とか書かなかったら強盗にならないとでも思ったのかね。馬鹿だよな、『金を出せ』の時点で既に強盗なのに」
「でも、捕まったのは強盗容疑だけだよね?」
「まあな。でもおまえ、『隣りの家からネズミの毛が飛んできて迷惑だから今度訴訟を起こす気だ』とか言ってる奴がだよ、留置所にぶち込まれてネタ食えなくなったらさ、何喋るか分かんねえだろ? こいつおかしくね? クスリでもやってんのか? ってのがリアルに起こる可能性があんだよ。当然、何処で誰から買ったって話になるじゃん。携帯の履歴とか調べてさ。そしたら俺の方まで捜査の手が廻るわな。売ってる側として」
そう言われるとそれはそうだと思ったけれど、こいつ売人やってたのか、という方に少し驚いた。
「ちえ、焼きが回ったよ。『レーザ攻撃』の時点でもう少し管理しておくべきだったな。アキ、勿体ないからもうひと吸いしてから、とか考えんじゃないぞ。こーゆーのはな、タイミング一つでアウトってこともあるんだ。芋づるってのはな、どこでどう繋がってるか分かんねーもんなんだよ。リスクは顕在化した時には徹底的につぶすもんだ」
「分かった。言う通りにする」
勿体ないのであとひと吸いしてから捨てようと思った。
「それから、この電話で最後だ。俺は暫く潜る」
「え? 潜る? 何? 最後? ちょ、ユータどういう」
「この携帯が繋がるのはこれで最後だ。俺は暫く行方をくらます。部屋に行くことももうない。アキ、お前が今生活していること、それが正常な状態だからな。シャブを本格的に抜くとさ、幻覚を見たり幻聴を聞いたりする事があるんだ。今のこの正常さをよく覚えとけ。そこから外れるものは全て幻覚だから」
「ちょ、ちょ、ユータ。アンタ何言って」
「あと最後にひとつ。お前がどんなに自分を責めても、どんなに自分を駄目だと思ったとしても、お前とのセックスは良かった、そう思っている。それでいいじゃないか。俺はアキとのセックスをずっと覚えているぞ。じゃあな」
「ちょ、ユータ?! ユータ?!」
通話が切れた。慌てて着信履歴を押してかけ直す。電波のないところに居られるか、電源が入ってないので繋がらない旨をコールされる。ラインもショートメールも繋がらない。人間が関係を解消しようという意思を持てば、こうも簡単に関係を解消することができるものか。しかも余りに突然に、余りに一方的に。
「潜る」と言われて改めて事の深刻さを理解した。そしてあとひと吸い、などと考えた自分を恥じた。
頭が混乱した。情報量が多すぎて。
もう、覚醒剤はやれないこと。
自分が捕まる可能性が高まったこと。
ユータともう会えないこと。
情報を整理してみる。
もう、ユータと会えないこと。
もう、ユータと会えないこと。
繰り返し考える。自分が依存していたものを一度に全て失ったことを理解した。
シャブを吸わなきゃ、そう思った。けれど、それはユータに対する裏切りのようにも思えた。ユータはすぐに辞めろといった。その言葉は善意に満ちていた。私はパケットを持って、言われた通り近くの公園の公衆トイレに入りパケットを和式トイレに捨てた。勇気を出して足で水を流すレバーを踏みつける。小さなパケットを流すには多過ぎる量の水が流れた。その始終をみて私は思わず、あっ、と言った。私は自分の発したその言葉の響きを恥じた。その恥じらいを誤魔化すかのように二度と三度とレバーを踏みつけた。乱暴に、踏みつけた。便器の中を、これで満足ですか? と言わんばかりの大袈裟な水流が続いた。私は満足などできるはずもなかった。反抗的な和式トイレを従わせるかのように再び何度もレバーを踏みつけた。トイレは平然と水を流してみせた。私は疲れてその場にしゃがみ込んでしまった。暫くすると、トイレはそんな私を、ゴボゴボっと咽せるように笑った。
*
「赤シャブ」とユータはいう。私は耳慣れない不穏な響きに思わず聞き返したかもしれない。「赤シャブ?」と。嬉しそうに「赤シャブ」を見せようとする無邪気なユータをベッドに座らせカーテンを閉め、照明をつける。そうだ、鍵を閉めないと。
いつも突然部屋に来るユータに怒ったフリをする。本当は嬉しいのに。ユータは、うん、と返事をしたと思う。「うん」は、違うのに。私は笑った。
ユータと最後に会った日の出来事をおままごとの様になぞる。もう何度目だろう。
シャブを止めて三日目に大量のムカデが脚を這った。ユータの言ってた通り、これは幻覚だと自分に言い聞かせた。ムカデなんて実生活で
実際に見たことなどないではないか。けれど、ムカデの大量の足がモゾモゾチクチクと私を刺す感覚。この痛みさえ幻覚というのか。こんなに微妙に痛くて、こんなに微妙に痒いのに。
こんな幻覚は見たくない、例えばどんな幻覚? そんな自問自答をしてしまった翌日の朝、目が覚めると私の顔の上をゴキブリが這っていた。驚いて口を開けるとササッと口の中に入ってきた。触角が喉に刺さり、腹の柔らかさを舌に感じた。悲鳴をあげトイレに向かい、吐く。これは幻覚だ、と自分に言い聞かせる。幻覚だからなんだ。幻覚という事実はなんでも許せる免罪符にはならなかった。こんなに恐ろしくてこんなに気持ち悪いのに。明日には、隣りの家からネズミの毛が飛んでくるのかも知れない。その次の日には赤いレーザで部屋を攻撃されるのかも知れない。その次の日にはフリップ芸で強盗をしてみせているのかもしれない。もう、手元にネタは無かった。逃げる術を失った私はユータに会いたかった。幻覚でいいから、会いたかった。
自傷行為の様に、カーテンを開けて朝の日の光を部屋に取り込む。バンパイアのみたいに健全な日の光に溶けてしまいたかった。私は一体何をしていればいいのだろう。
ユータの言葉を思い返した。もう決して増える事のない会話の記憶。
——アキ、シャブを抜け。もう、絶対喰うな。サウナにでも行ってよ、汗と一緒に体のなかのシャブを抜くんだ。いいな?——
そうだ、サウナに行かなければ。思い出した。
オッケーグーグル、近くのサウナを探して、私はグーグルに尋ねた。グーグルはすぐに近くのサウナ施設の情報を数軒提示した。凄い。使える奴。
ふと、思い、オッケーグーグル、ユータの居所を探して、と言ってみた。期待はしてないけれど。よく分からないユーチューバーと近くのゆうちょ銀行のATMを紹介された。使えねえ奴。
服を着替えて、サウナに行く為に地下鉄に乗った。朝の十時半過ぎくらいだったので車両は空いていた。降りる駅はあと四つ先だった。私は横並びの座席の一番端に座っていた。新しい駅に止まり降りて行く人、乗って来る人の動きの流れをぼんやりと眺めていた。
次の駅に着くと、サラリーマン風のおじさんが車内を見渡し、そのあとで私の隣りに座った。他に席は空いているのに。そのおじさんは、さもこの世界で最も疲れているかのように振る舞って私の隣りに座ると、同時に目を閉じて腕を組み私に密着してきた。他に席は空いているのに、私の隣りに座り密着をしてきた。触れられる事で私は私の体温を盗まれた。体温の奥に潜む性欲までも。このひとは私とセックスがしたいのだろうか。
「あー、シャブ喰いてえなー」
私はそう口にしたのかも知れない。隣りのおじさんは瞬時に私との距離を開いた。意気地のない奴。世界で一番疲れていて、寝ているはずなのに。
「あー、赤シャブ、喰いてーなー」
今度ははっきりといってやった。おじさんは世界で一番疲れているはずなのに立ち上がり、他の空いているところを見つけて座った。
いつか幻覚を克服しシャブの支配から完全に抜けたら、ユータを探そう、そう思った、サウナで汗をかき、シャブが抜けたら林のくそ野郎にでも面会しに行こう。ユータに辿り着く手掛かりを得る為に。
「赤シャブ喰いてーなー」
もう一度口にした。それはゴミクズなんかではないと信じた私が、ただ、生きる為に発したこころの叫びだった。
耳慣れない不穏な響きに、私は思わず聞き返した。
「そう。赤シャブ。手に入った」
玄関の扉を開け中に入るなり、ユータはそういう。
「見てみる? この……」
ポケットをまさぐり、その「赤シャブ」とやらを取り出そうとしたので、「ちょ、ちょっと」と慌てて制した。玄関先でするようなことではない。ユータをベッドに座らせ、玄関扉の鍵を閉じ、チェーンをかけ、カーテンを閉めた。カーテンを閉めると部屋は怪しげな程うす暗くなった。ついでに照明もつける。
「もお! いっつも、突然なんだから! 来る前に連絡してっていったでしょ? メールでもラインでも! 電話でも!」
「うん」
うん、は違うと思った。
「でもね、偶然赤シャブが手に入ったんだ。嬉しくてさ、アキにみせたくてさ、そんで来ちゃったって寸法さ」
「『寸法』は別にいいけどさ、今日はたまたま家にいただけだからね? 私だって出掛けてることはあるんだから」
「でもアキ、俺が来る時いつも部屋にいるじゃん」
図星を突かれて、くっ、っと思った。勢いを付けて奴の隣りに座る。私の体重にベッドのスプリングが揺れて転がりそうになるユータが可笑しかった。
「で、その『赤シャブ』っての、普通のやつとなんか違うわけ?」
肩を寄せて、ユータに触れる。奪った体温が心地良い。
「うん。俺も初めてなんだけど、なんか効きが全然違うらしい。アキはあぶり専だからピンと来ないかもしんないけど、俺らポン中の間では赤シャブは半ば都市伝説みたいに言われててさ、なんか、この時期の北朝鮮産に薄ピンクのネタが紛れることがあって、喰ってみるとそれはもう極上なんだって。ガアってきて、ゾワワってなってサワサワって。秋頃にだけ出廻る珍しいネタ。噂話しレベルのレアものをリアルに手に入れたこの興奮、炙り専のアキにはわかんねーだろうな」
「何、その『あぶり専、あぶり専』てあぶりを見下すような態度。むかつく」
ほれ、といってユータは私の目の前に「赤シャブ」の入ったビニールのパケットをぶら下げて見せた。まるで子供が珍しいクワガタを捕まえた事を誇るような無邪気な顔。こいつ、まつ毛が長いな、そう思った。
「喰うなら半分分けてやるけどさ、三万は貰わねーとだな」
「三万? 高すぎじゃね? こんなピンクソルトみたいな奴に」
「嫌なら別にいいんだけどさ、もう二度と手に入んないかもだよ? 喰わねーの?」
「喰う。でも、あんたに貸してるお金から相殺だかんね。今、現金で欲しけりゃイチゴーかな。どうすんの?」
「ちぇ。足元見やがって。じゃあイチゴーでいいや」
そういって立ち上がりキッチンへ向かいごそごそと必要なものを漁っている。勝手は分かっているといわんばかりだ。半同棲、というほどではないけれど、いつも、ひょいっと現れては泊まりに来る。この狭いワンルームに長い時には一週間以上居座ることもあった。知り合って一年ほどになるけれど、何の仕事をしているのか、あるいはしていないのか、どこに住んでいるのか、そもそも住所があるのか、何も知らない。分かっていることは自称27歳で歳上で、性別は男でジャンキーであること。私も此奴に仕込まれた。
「なあ、アキ。そろそろ、炙り止めてポンプにしねーか? 俺、打ってやるぞ?」
ローテーブルの上で私のヘアスプレー缶を麺棒の様に使い、パケットのなかの結晶をゴリゴリと粉に砕きながらながらユータはいう。別にそのスプレー缶に思い入れがあるわけじゃないけど何となく嫌だった。
「なんか嫌。別に同じことをしてるってわかってるけど。ポンプってさ、もう戻る余地がない、っていうか。ユータ見てるとさ、なんとなくそう思うの」
「炙りはよ、脳が早くいかれちまうんだ。そーゆーの結構見てきたし。この間もさ、林さん、知ってんだろ? あの人に急に呼び出されてさ、ちょっと見てて欲しいつって。部屋に行ってみるとびびったね。玄関扉の覗き穴はガムテープで塞いであるわ、ソファやらマットレスやらサッシ窓を塞ぐように立て掛けてあるわ。『何してんすか』って聞いたらよ、誰かがレーザーで攻撃して来るんだって。窓や覗き穴から。やばいよな。で、青いレーザーはいいけど赤いレーザーはヤバいから、赤いレーザーが飛んで来たらどっち方面から飛んできたか確認して欲しい、って。もう、部屋もぐちゃぐちゃよ。あの人もさあ、炙り専なのよ」
ユータは粉になった「赤シャブ」のパケットの中央に割り箸を二本挟み込んだ。その割り箸を左右にずらし中央を鋏で切り、二つのパケットに分ける。器用な奴。
「ん。好きな方選べよ。まあ、きっちり半分に分けた自信はあるけどな。俺、こーゆーの才能あんだよ」
「無駄なところに才能使ってんじゃねーよ。そんならさ……じゃ、こっちのパケにする」
一万五千円を支払いパケットを受け取る。ユータは財布から誰かの名刺のようなものを取り出し二つ折りにする。その二つ折りのVの字の底に「ネタ」をパラパラと乗せる。片手で注射器の「押す」部分を引き抜き、Vの字を注射器の尻に当てがい、トントントンと指で叩いてクスリを中に入れた。押す部分を注射器に戻しコップに用意しておいた水を注射器で吸う。指でパシパシとはたき、水とネタを混ぜたかと思うと、ぐっと右腕に力を入れ、関節に浮き上がった血管にぷすりと針を刺し、覚醒剤を摂取した。躊躇を見せない人間の堕落への所作を、寧ろ美しく思う。ユータは、ふー、と大きなため息を吐いた。
どう? やっぱちが、と問い掛けた私に、話しかけんな、とユータは制した。目をつぶり、眉間に皺寄せる。グルメ番組でコメンテーターが本当に美味いものを食べた時のような、本気のような顔。押し寄せる激しい快感を手なづけているのかも知れない。私も私の堕落の準備をする。お互い覚醒剤を摂取したあとは、おそらくセックスをするのだろう。長い、長いセックス。不安も恐れも憎しみも何もない世界の中、ただ純粋な快感だけを求めて、欺瞞を知らない獣のように、やりまくるのだろう。
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目が覚めると、ユータの姿は無かった。あいつめ、と思いながら玄関の扉の鍵を閉めに行く。部屋の中には裸の女と覚醒剤。不用心も甚だしい。振り返り部屋を眺めると、カーテンの隙間から朝の力強い光が刺し込んでいて、ローテーブルの上のアルミホイルやらストローやら、パケットやら、堕落の残滓を鮮明に照らしていた。まるで悪意を含んだスポットライトのように。
「あんた、死ぬ気だろ」
初めてユータに出会った時にかけられた言葉を思い出す。正直、その時「死ぬ気」ではなかったけれど、その手があったか、とは思った。
「気配がさ、違うんだよ。まだ生きられるのに死のうとしてる奴。うまく言えないけどそーゆーの沢山見てきたからさ、俺には分かるんだ」
ユータはいう。今にして思えばクスリで頭がおかしくなってる時に言ったか、単純に独りでバーに飲みに来るような淋しい女に奇を衒ってみたか、どちらかであったのかも知れない。でも、あの時の私のこころには妙に引っかかる響きがあった。
不倫して妊娠して堕胎して別れた。ただそれだけの事だった。テンプレートのような凡庸な転落。けれどその凡庸さはこころの痛みまでも凡庸にしてくれる訳では無かった。当事者になると、それは、きつかった。
「不安も恐れも憎しみもない世界があるとしたら、素敵だとおもわないか? あんたをさ、そこに連れてってやるよ。どーせ死ぬ気なんだろ?」
ユータはいった。何かの宗教にでも誘うように。
別に宗教でも良かった。考えることにあまりにも疲れていたから。そんな素敵な世界が本当にあるなら、どんな代償を払ってもいい、いっそ行ってしまいたかった。ただ、ユータが誘ったのは宗教ではなかった。
私たちはバーを後にしホテルに向かった。けれども週末の夜はどこのラブホテルも満室だった。
「ちぇ、セックスなんて自分の家でやりゃいいのにさ。この満室の数はさ、自分の家でセックス出来ない奴らの後ろめたさの数なんだよ。ちぇ」
ユータにそう言われてこころがチクリと痛んだ。
「だったらうちに来ない? その不安や恐れや憎しみの無い世界を見せてくれるんでしょ? 私はもうセックスには後ろめたさを感じないから」
「そりゃ願っても無いけどさ、ただのセックスで不安や恐れや憎しみの無い世界に俺が連れて行くとでも? どんなテクニシャンだよ」
ユータは笑った。私にはなぜ笑われたのか、その理由がさっぱり分からなかった。
ユータがタクシーを拾い、私が自宅の住所を伝えた。私はタクシーの中で自分の転落の話をしていた。上司との不倫、妊娠して堕胎、多めの手切れ金を貰っての退職。テンプレートに若干の物語りを加えた。どうでも良かった。私とセックスがしたいだけのゴミ箱にゴミの様な人生をただ捨てていた。その行為に何の期待もなかった。ユータは黙って聞いていた。ひと通り話し終えると、アンタ名前は? と聞いてきた。
「アキ」
そう答える。
「アキ、アンタ自分の存在をさ、ゴミクズのように思ってるだろ。アキ、ゴミクズにはな、名前なんてないぞ」
あの時ユータはそういって笑った。笑った時に見せる八重歯をチャーミングに思った。
ため息を一つつき、朝の光を疎ましく思った。朝は嫌いだ。いつも健全さを押し付けておいて、その正当性に少しの疑いもみせない。
ローテーブルの上のアルミホイルとパケットを眺め、今から吸おうか、どうしようかと考えた。迷っている時点で「吸わない」という選択肢はないように思えた。アルミホイルの上に「赤シャブ」をのせる。下からライターで炙ると気化したネタが白くゆらゆらと登って行った。私はそれを逃がさないようにストローで吸い込み息を止めた。赤シャブは確かに他のネタとは違う「効き」をみせた。息を止めて一秒で朝の光をを憎まなくなった。次第に不倫相手の顔や産まれてくるはずだった命の存在も溶けて消えた。その存在で得た多額のお金の後ろめたさも。ユータの長いまつ毛の映像だけが残った。何の不安も恐れも憎しみも無い世界がそこにはあった。
*
珍しく、ユータから電話があった。なんか焦っているような、苛ついているような感じがした。
「アキ、お前まだ、ネタ、持ってるか?」
「そりゃ、まあ、この間アンタから買ったばかりだから」
「捨てろ。近くの公園のトイレにでも流しちまえ。そんでな、アキ、シャブを抜け。もう、絶対喰うな。サウナにでも行ってよ、汗と一緒に体のなかのシャブを抜くんだ。いいな?」
「ちょ、ちょっといきなり何? 怖いんだけど」
「林のクソ野郎がな、下手打っちまった」
「え? 林ってあの林さんだよね? ユータの高校の先輩の」
林さんとは三度、この部屋であぶりをやった記憶がある。勿論、ユータも一緒の時だ。ユータはたまにジャンキー仲間を連れてきて私に紹介をした。その行為の意図はよく分からなかったけれど、多分、悪意はない。私を孤独にさせない為だろう。
「あの野郎、警察に捕まった」
「え? 見つかったの? クスリやってること?」
「クスリは見つかってねえ。まだな。あの野郎、強盗してやがった。どおりで最近金廻りがいいと不思議に思ってたんだ」
「強盗!?」
ユータがいうには、お婆さんがやっているようなタバコ屋を調べて、タバコを買うふりをして犯行に及んでいたらしい。数件成功したことに味をしめて、適当な所で止められなかったと。当然、すぐにバレる。地域も警戒するだろう。「私は強盗を生業にして、かれこれ十年になります」なんて人、今まで見たことない。
「あいつ、スケッチブックに『金を出せ。さもないと・・・』って書いたの見せて婆さんたちを脅してたんだって。フリップ芸みたいにしてさ。昨日の新聞にもちっさく載ってらあ。さもないと、点、点、点って何だよ。さもないと『殺す』とか書かなかったら強盗にならないとでも思ったのかね。馬鹿だよな、『金を出せ』の時点で既に強盗なのに」
「でも、捕まったのは強盗容疑だけだよね?」
「まあな。でもおまえ、『隣りの家からネズミの毛が飛んできて迷惑だから今度訴訟を起こす気だ』とか言ってる奴がだよ、留置所にぶち込まれてネタ食えなくなったらさ、何喋るか分かんねえだろ? こいつおかしくね? クスリでもやってんのか? ってのがリアルに起こる可能性があんだよ。当然、何処で誰から買ったって話になるじゃん。携帯の履歴とか調べてさ。そしたら俺の方まで捜査の手が廻るわな。売ってる側として」
そう言われるとそれはそうだと思ったけれど、こいつ売人やってたのか、という方に少し驚いた。
「ちえ、焼きが回ったよ。『レーザ攻撃』の時点でもう少し管理しておくべきだったな。アキ、勿体ないからもうひと吸いしてから、とか考えんじゃないぞ。こーゆーのはな、タイミング一つでアウトってこともあるんだ。芋づるってのはな、どこでどう繋がってるか分かんねーもんなんだよ。リスクは顕在化した時には徹底的につぶすもんだ」
「分かった。言う通りにする」
勿体ないのであとひと吸いしてから捨てようと思った。
「それから、この電話で最後だ。俺は暫く潜る」
「え? 潜る? 何? 最後? ちょ、ユータどういう」
「この携帯が繋がるのはこれで最後だ。俺は暫く行方をくらます。部屋に行くことももうない。アキ、お前が今生活していること、それが正常な状態だからな。シャブを本格的に抜くとさ、幻覚を見たり幻聴を聞いたりする事があるんだ。今のこの正常さをよく覚えとけ。そこから外れるものは全て幻覚だから」
「ちょ、ちょ、ユータ。アンタ何言って」
「あと最後にひとつ。お前がどんなに自分を責めても、どんなに自分を駄目だと思ったとしても、お前とのセックスは良かった、そう思っている。それでいいじゃないか。俺はアキとのセックスをずっと覚えているぞ。じゃあな」
「ちょ、ユータ?! ユータ?!」
通話が切れた。慌てて着信履歴を押してかけ直す。電波のないところに居られるか、電源が入ってないので繋がらない旨をコールされる。ラインもショートメールも繋がらない。人間が関係を解消しようという意思を持てば、こうも簡単に関係を解消することができるものか。しかも余りに突然に、余りに一方的に。
「潜る」と言われて改めて事の深刻さを理解した。そしてあとひと吸い、などと考えた自分を恥じた。
頭が混乱した。情報量が多すぎて。
もう、覚醒剤はやれないこと。
自分が捕まる可能性が高まったこと。
ユータともう会えないこと。
情報を整理してみる。
もう、ユータと会えないこと。
もう、ユータと会えないこと。
繰り返し考える。自分が依存していたものを一度に全て失ったことを理解した。
シャブを吸わなきゃ、そう思った。けれど、それはユータに対する裏切りのようにも思えた。ユータはすぐに辞めろといった。その言葉は善意に満ちていた。私はパケットを持って、言われた通り近くの公園の公衆トイレに入りパケットを和式トイレに捨てた。勇気を出して足で水を流すレバーを踏みつける。小さなパケットを流すには多過ぎる量の水が流れた。その始終をみて私は思わず、あっ、と言った。私は自分の発したその言葉の響きを恥じた。その恥じらいを誤魔化すかのように二度と三度とレバーを踏みつけた。乱暴に、踏みつけた。便器の中を、これで満足ですか? と言わんばかりの大袈裟な水流が続いた。私は満足などできるはずもなかった。反抗的な和式トイレを従わせるかのように再び何度もレバーを踏みつけた。トイレは平然と水を流してみせた。私は疲れてその場にしゃがみ込んでしまった。暫くすると、トイレはそんな私を、ゴボゴボっと咽せるように笑った。
*
「赤シャブ」とユータはいう。私は耳慣れない不穏な響きに思わず聞き返したかもしれない。「赤シャブ?」と。嬉しそうに「赤シャブ」を見せようとする無邪気なユータをベッドに座らせカーテンを閉め、照明をつける。そうだ、鍵を閉めないと。
いつも突然部屋に来るユータに怒ったフリをする。本当は嬉しいのに。ユータは、うん、と返事をしたと思う。「うん」は、違うのに。私は笑った。
ユータと最後に会った日の出来事をおままごとの様になぞる。もう何度目だろう。
シャブを止めて三日目に大量のムカデが脚を這った。ユータの言ってた通り、これは幻覚だと自分に言い聞かせた。ムカデなんて実生活で
実際に見たことなどないではないか。けれど、ムカデの大量の足がモゾモゾチクチクと私を刺す感覚。この痛みさえ幻覚というのか。こんなに微妙に痛くて、こんなに微妙に痒いのに。
こんな幻覚は見たくない、例えばどんな幻覚? そんな自問自答をしてしまった翌日の朝、目が覚めると私の顔の上をゴキブリが這っていた。驚いて口を開けるとササッと口の中に入ってきた。触角が喉に刺さり、腹の柔らかさを舌に感じた。悲鳴をあげトイレに向かい、吐く。これは幻覚だ、と自分に言い聞かせる。幻覚だからなんだ。幻覚という事実はなんでも許せる免罪符にはならなかった。こんなに恐ろしくてこんなに気持ち悪いのに。明日には、隣りの家からネズミの毛が飛んでくるのかも知れない。その次の日には赤いレーザで部屋を攻撃されるのかも知れない。その次の日にはフリップ芸で強盗をしてみせているのかもしれない。もう、手元にネタは無かった。逃げる術を失った私はユータに会いたかった。幻覚でいいから、会いたかった。
自傷行為の様に、カーテンを開けて朝の日の光を部屋に取り込む。バンパイアのみたいに健全な日の光に溶けてしまいたかった。私は一体何をしていればいいのだろう。
ユータの言葉を思い返した。もう決して増える事のない会話の記憶。
——アキ、シャブを抜け。もう、絶対喰うな。サウナにでも行ってよ、汗と一緒に体のなかのシャブを抜くんだ。いいな?——
そうだ、サウナに行かなければ。思い出した。
オッケーグーグル、近くのサウナを探して、私はグーグルに尋ねた。グーグルはすぐに近くのサウナ施設の情報を数軒提示した。凄い。使える奴。
ふと、思い、オッケーグーグル、ユータの居所を探して、と言ってみた。期待はしてないけれど。よく分からないユーチューバーと近くのゆうちょ銀行のATMを紹介された。使えねえ奴。
服を着替えて、サウナに行く為に地下鉄に乗った。朝の十時半過ぎくらいだったので車両は空いていた。降りる駅はあと四つ先だった。私は横並びの座席の一番端に座っていた。新しい駅に止まり降りて行く人、乗って来る人の動きの流れをぼんやりと眺めていた。
次の駅に着くと、サラリーマン風のおじさんが車内を見渡し、そのあとで私の隣りに座った。他に席は空いているのに。そのおじさんは、さもこの世界で最も疲れているかのように振る舞って私の隣りに座ると、同時に目を閉じて腕を組み私に密着してきた。他に席は空いているのに、私の隣りに座り密着をしてきた。触れられる事で私は私の体温を盗まれた。体温の奥に潜む性欲までも。このひとは私とセックスがしたいのだろうか。
「あー、シャブ喰いてえなー」
私はそう口にしたのかも知れない。隣りのおじさんは瞬時に私との距離を開いた。意気地のない奴。世界で一番疲れていて、寝ているはずなのに。
「あー、赤シャブ、喰いてーなー」
今度ははっきりといってやった。おじさんは世界で一番疲れているはずなのに立ち上がり、他の空いているところを見つけて座った。
いつか幻覚を克服しシャブの支配から完全に抜けたら、ユータを探そう、そう思った、サウナで汗をかき、シャブが抜けたら林のくそ野郎にでも面会しに行こう。ユータに辿り着く手掛かりを得る為に。
「赤シャブ喰いてーなー」
もう一度口にした。それはゴミクズなんかではないと信じた私が、ただ、生きる為に発したこころの叫びだった。
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