ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第二章

第二十四話

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 翌日、雪子は朝の六時に起こされた。昨日の酒で頭が痛く身体も重かった。起こしたのは秋子だった。秋子は無言で、唇に人差し指をあてながら雪子の手を引いた。そのままふたりは部屋を出て、スウェットから着替えさせてもくれなかった。

 ホテルのロビーまでいくと、ようやく秋子は口をひらいた。

「雪ちゃん、楽しみにしててね。良いものみせてあげる」

 雪子の頭はまだ靄がかっている。

「ねえ、これは何なの? わたしとても眠いのよ」

「だから良いもの見せるって」

「昼とかでもいいじゃない」

「だめよ、お昼はドライブで島一周するんでしょう」

「お父さんに頼めばきっと寄ってくれるわ」

「お父さんとお母さんは明日なの。今日は雪ちゃん」

 道は獣道のような荒々しさがあって、雪子はスウェットが汚れないか心配だった。木々の枝葉が道を深くまで浸食し、それを避けるのにかがんだり跨いだりしなければならなかった。雪子の身体には重労働だったが、先をゆく秋子の浮かべた薄い頬のえくぼに導かれながら一歩ずつ進んだ。雪子は、妹の勝手を姉らしい寛容さですっかり許していた。

 海が見えた。これには雪子も心が揺れた。海面も砂浜もテレビやSNSでながれるような情感的なものだった。しかしそれゆえに、雪子にはある種の気恥ずかしさもあった。それは不相応な高級ブランドをレジに持っていくような心地である。

 それに比べ、連れてきた秋子のほうはこの風景に見合っている。世界の中心がいま秋子の姿にエネルギーを注いでいる感じがした。日光も波音も風も、すべて雪子を通り過ぎたようだった。

『あの人が来ていないかしら』

 雪子は結局、妹に青年のことを訊かなかった。試験が終わってからというものの、秋子の気持ちは見るからに浮足立って、青年のことを訊いてしまえば、あらぬ推測が飛んできそうだった。それだから雪子は、青年への想いを抽斗の奥にしまっていたが、しかし抽斗は日頃ますます緩くなり、というよりもう開けっ放しで、風景を見るたび、あるいは匂いを嗅ぐたびに彼女の頭には青年の姿がよぎり、また会いたくなって、そしてなぜだか今にでも会える気がした。何につけても、雪子は偶然の糸を見出そうとするのである。成就の試しがないこの運命論者は、雪子自身からしても滑稽だった。

「ねえ、これならお母さんもお父さんも喜んでくれそうじゃない?」と秋子がいった。

「ええ、きっと喜ぶわ」

「明日も晴れるかどうかが肝心ね。いえ、明日じゃなくてもいいわ。明日と明後日そのどちらかが晴れてくれれば」

「きっと晴れるわ。アキが望めば」

 雪子はそう言いながら木陰に腰を下ろした。そこはひんやりとしすぎて、風もそっけないものに思えた。木陰は凹凸状に岩場までつづいていて、風によって絶えず変形していた。

 しかしその影の輪郭のうちにまっすぐ直線状に動くものがあった。雪子はそれを影法師と認めた。影法師はゆっくりと近寄るが、その本体は暗がりにまぎれてよく見えない。地元の人だろうか、と雪子は思った。いや、そう思いつつ、どこかでその影が、青年の黒影であることを願望していた。

 影は緩慢な、幽霊のような動きである。雪子の鼓動はもう煩くて仕方がない。

「すみません、ここのホテルに泊まっているものだから、もしかして貴女たちもおなじかと思って」

 雪子の座っているところまであと三メートルぐらいのところにまで来ると、男はそういった。声は雪子が想定するよりも明るく、高かった。しかしそれだけでは、青年かどうか判断できない。そういえば雪子は、青年の声をあまり聞いていない。彼女は、自分たちもここに泊まっている、とおどおどして返した。男は速度を変えず近づいて、徐々にはっきりと顔を見れた。

 暗がりにもわかる青白さ、とくに目立った目のくま、張った頬骨、男にしては長い髪、削られたような鼻……あのときの青年だった! 雪子はひどい感激に襲われて、声を失った。
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