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第二章
第二十六話
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三日目は朝からどしゃ降りで、秋子はおとなしく部屋で新調した水着を見つめていた。夏樹と海水浴の予定が、雨でご破算になった。秋子以外の家族は車で民族館に出かけたが、秋子はそれに付き合わなかった。
秋子の気持ちといえば不機嫌といわないまでも、時田のころの不安が核となり、方々に広がって、さながら蜘蛛の巣のようである。これを機に秋子はいったん心のなかで整理をつけたかった。
秋子はベッドで寝たり、夏樹に電話をかけたりした。しかし夏樹は出なかった。秋子は仕方なしにホテルの散策にでた。けれども面白味のあるものはほとんどなかった。強いて言えば別館のシックなロビーはすこしだけ気に入った。ロビーは一部吹き抜けになっていて、そこにガラス窓に囲まれるかたちでガジュマルが生えていた。秋子は長いあいだその樹が雨に打たれるのを眺めた。
激しい雨がかえって静寂を強調していた。暇を持て余したのか、フロントの若い女が秋子に飲み物を勧めてきた。秋子はミルクティーを頼んだ。
「こんな雨だと観光も大変ですね」と若い女が言った。
「ええ、ほんとうは海に行く予定だったんです」
「よかったらかわりの観光地などをリストアップしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。今日はとりあえず考え事でもして過ごそうと思います。旅行でそういう日も悪くないかなって」
若い女は「そうですね」といってお辞儀をし、秋子の飲み切った紙コップを持って去った。その姿に目で追うと、秋子の別に男がひとりいるのに気づいた。男はさっきフロントからもらったであろう紙コップをゆっくり飲みながら本を読んでいた。雪ちゃんが言った男かもしれない、秋子は胸に強張ったものを感じた。
『たしかに、雪ちゃんのいったように幽霊みたいな肌。白いというよりちょっと不気味だわ。……別にそれがどうということはないけど。結局、性格がどういうものか、あの男みたいな、雪ちゃんを蔑むような人間かどうか』
秋子は男に近寄った。ぎこちない、糸で縛られた歩き方をした。秋子の目は男を見据えて、もうすでに怒りをにじませているようだった。
「本が好きなんですね」と秋子がいった。
男は頭をあげて秋子をちらりと見た。革の黒いソファーにかがみながら読んでいた彼は、秋子を見るのでさえ、かたつむりが角をだすような内向的な姿で、つい先ほどまで夢を見ていたような虚像に囚われた目をしていた。
「なんの本を読んでいるんですか」
秋子はもういちど、こんどは微笑みをともなって訊いてみた。そうしてようやく男は答えた。
「ええと、吉本隆明という人の本です」
「難しそうね」
「でもおもしろい本です」
「読書家ね」
「こうすると落ち着くだけです。まともに読んでないときもしょっちゅうあります」
秋子は軽やかに笑ったつもりだったが、その末端には戸惑いの曲折があった。男の声は、洞穴にどこからその音は空っぽでかすれて、不穏だった。これが、雪子の好きになった男だろうか。もし雪子の言っていた男でなかったら、秋子は話しかけたわけを失って、なんだか気恥ずかしい思いになった。
「まだつづきそうですね」
男はガジュマルを見上げながらいった。
「そうですかね」なんて秋子は答えた。
「ええ、きっとこの雨は長くなります。根拠という根拠はないんですが、なんとなくこういう直観はあるほうなんです」
「なら、わたしの直観とは逆のようだわ。わたしはこのあと晴れると思っているんです」
秋子は警戒の妙なはたらきで、思ったことの逆をいった。
「そちらも直観なんですか」
「もちろん直観です。でも、わたしの直観も冴えているほうなんですよ」
「なら賭けでもしますか」
「ここでお金のやりとりなんて」
「別にお金じゃなくてもいいんです。そうだ、貴女が勝ったらこの本をあげましょう。なかなかいい値がしますよ。読んでもおもしろい」
「いいんですか、そんな本、高そうなのに」
「いいんです。実はこれ、古本屋でかなり安いからって買ったんですが、実家にもうあったやつなんです。そして、ほら、安い分もあってページも欠けているんです」
男は破れたページを見せた。たしかに、一○二から一○三までが抜けていた。
「わたしが負けたら?」
「そうだな……、特に欲しいものはないかもしれない」
「それなら賭けは不成立ね」
「ええ、でもきっと雨はつづきますよ」
「じゃあ心のなかで賭けましょう」
秋子はまたもとの席に座ってガジュマルを眺めた。眺めれば眺めるほど樹の捻じれた幹は滴って、秋子は賭けに負けたことを悟った。しかし三十分もするとさっきまでの豪雨は嘘のように姿を消した。雲は神話のように分かれて空から逃げ、かわりに太陽がガジュマルの樹を乾かした。樹の潤った新緑の葉は独特の光沢をもった。光沢は太陽まで吸い寄せられ、その軌跡をなぞる。秋子はこれほど眩しい陽射しをはじめてみた気がした。
「僕の負けみたいですね」男は秋子のもとに寄ってそういった。
「天気予報では雨だったわ」
「なら、より惨敗にちかい。……本はいりますか?」
「いいえ。わたりは本をほとんど読まないし、まともに売る場所も知らないの。だから貴方がもっていたほうがいいわ」
男はしばし黙って、本をめくり、破れたページでとまった。
「そういえば、昨日の朝この近くの海にいませんでしたか」
「えっ、じゃあやっぱり?」
秋子は飯島をおどろきと緊張のまなざしで見た。
「そうなんです。遠目だったからあまり確信はなかったけど、やっぱり貴女方だったんですね。お姉さんのほうとはすこし話させてもらいました」
「らしいですね。わたしもひょっとしたらと思っていたんですが、姉の話だけだったもので。大学もA大ときいて……」
「おなじらしいですね。またむこうでもすれ違うかもしれません」
「……ねえ、姉はどう思いました?」
「どう思うというと?」
「いいえ、嘘。なんでもないです」
秋子の気持ちといえば不機嫌といわないまでも、時田のころの不安が核となり、方々に広がって、さながら蜘蛛の巣のようである。これを機に秋子はいったん心のなかで整理をつけたかった。
秋子はベッドで寝たり、夏樹に電話をかけたりした。しかし夏樹は出なかった。秋子は仕方なしにホテルの散策にでた。けれども面白味のあるものはほとんどなかった。強いて言えば別館のシックなロビーはすこしだけ気に入った。ロビーは一部吹き抜けになっていて、そこにガラス窓に囲まれるかたちでガジュマルが生えていた。秋子は長いあいだその樹が雨に打たれるのを眺めた。
激しい雨がかえって静寂を強調していた。暇を持て余したのか、フロントの若い女が秋子に飲み物を勧めてきた。秋子はミルクティーを頼んだ。
「こんな雨だと観光も大変ですね」と若い女が言った。
「ええ、ほんとうは海に行く予定だったんです」
「よかったらかわりの観光地などをリストアップしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。今日はとりあえず考え事でもして過ごそうと思います。旅行でそういう日も悪くないかなって」
若い女は「そうですね」といってお辞儀をし、秋子の飲み切った紙コップを持って去った。その姿に目で追うと、秋子の別に男がひとりいるのに気づいた。男はさっきフロントからもらったであろう紙コップをゆっくり飲みながら本を読んでいた。雪ちゃんが言った男かもしれない、秋子は胸に強張ったものを感じた。
『たしかに、雪ちゃんのいったように幽霊みたいな肌。白いというよりちょっと不気味だわ。……別にそれがどうということはないけど。結局、性格がどういうものか、あの男みたいな、雪ちゃんを蔑むような人間かどうか』
秋子は男に近寄った。ぎこちない、糸で縛られた歩き方をした。秋子の目は男を見据えて、もうすでに怒りをにじませているようだった。
「本が好きなんですね」と秋子がいった。
男は頭をあげて秋子をちらりと見た。革の黒いソファーにかがみながら読んでいた彼は、秋子を見るのでさえ、かたつむりが角をだすような内向的な姿で、つい先ほどまで夢を見ていたような虚像に囚われた目をしていた。
「なんの本を読んでいるんですか」
秋子はもういちど、こんどは微笑みをともなって訊いてみた。そうしてようやく男は答えた。
「ええと、吉本隆明という人の本です」
「難しそうね」
「でもおもしろい本です」
「読書家ね」
「こうすると落ち着くだけです。まともに読んでないときもしょっちゅうあります」
秋子は軽やかに笑ったつもりだったが、その末端には戸惑いの曲折があった。男の声は、洞穴にどこからその音は空っぽでかすれて、不穏だった。これが、雪子の好きになった男だろうか。もし雪子の言っていた男でなかったら、秋子は話しかけたわけを失って、なんだか気恥ずかしい思いになった。
「まだつづきそうですね」
男はガジュマルを見上げながらいった。
「そうですかね」なんて秋子は答えた。
「ええ、きっとこの雨は長くなります。根拠という根拠はないんですが、なんとなくこういう直観はあるほうなんです」
「なら、わたしの直観とは逆のようだわ。わたしはこのあと晴れると思っているんです」
秋子は警戒の妙なはたらきで、思ったことの逆をいった。
「そちらも直観なんですか」
「もちろん直観です。でも、わたしの直観も冴えているほうなんですよ」
「なら賭けでもしますか」
「ここでお金のやりとりなんて」
「別にお金じゃなくてもいいんです。そうだ、貴女が勝ったらこの本をあげましょう。なかなかいい値がしますよ。読んでもおもしろい」
「いいんですか、そんな本、高そうなのに」
「いいんです。実はこれ、古本屋でかなり安いからって買ったんですが、実家にもうあったやつなんです。そして、ほら、安い分もあってページも欠けているんです」
男は破れたページを見せた。たしかに、一○二から一○三までが抜けていた。
「わたしが負けたら?」
「そうだな……、特に欲しいものはないかもしれない」
「それなら賭けは不成立ね」
「ええ、でもきっと雨はつづきますよ」
「じゃあ心のなかで賭けましょう」
秋子はまたもとの席に座ってガジュマルを眺めた。眺めれば眺めるほど樹の捻じれた幹は滴って、秋子は賭けに負けたことを悟った。しかし三十分もするとさっきまでの豪雨は嘘のように姿を消した。雲は神話のように分かれて空から逃げ、かわりに太陽がガジュマルの樹を乾かした。樹の潤った新緑の葉は独特の光沢をもった。光沢は太陽まで吸い寄せられ、その軌跡をなぞる。秋子はこれほど眩しい陽射しをはじめてみた気がした。
「僕の負けみたいですね」男は秋子のもとに寄ってそういった。
「天気予報では雨だったわ」
「なら、より惨敗にちかい。……本はいりますか?」
「いいえ。わたりは本をほとんど読まないし、まともに売る場所も知らないの。だから貴方がもっていたほうがいいわ」
男はしばし黙って、本をめくり、破れたページでとまった。
「そういえば、昨日の朝この近くの海にいませんでしたか」
「えっ、じゃあやっぱり?」
秋子は飯島をおどろきと緊張のまなざしで見た。
「そうなんです。遠目だったからあまり確信はなかったけど、やっぱり貴女方だったんですね。お姉さんのほうとはすこし話させてもらいました」
「らしいですね。わたしもひょっとしたらと思っていたんですが、姉の話だけだったもので。大学もA大ときいて……」
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