ピアノの家のふたりの姉妹

九重智

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第四章

第五十三話

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 夏樹は二本目の煙草に火を点けた。電話はもうとうに切れていて、その締めの一服だった。夏樹は風になびかれ浮上する紫煙を見ながらわずかな疲労を感じた。いや正確に言えば疲労しか感じなかった。飯島の話を聞いても、夏樹にがまだ中和作用が働いていた。

『僕はなんて薄情な人間だろう』

 夏樹はそう胸中で苦言したが、それでもこの身体の暗鬱からほど遠いものは変わらない。

 実際、夏樹には暗いものを暗いものとして処理できない状態にあった。夏樹は新学期になって念願の黒田ゼミに加入した。しかし夏樹の熱情はそこではたと行き止まり、夏前よりやるせない日々がつづいていた。ただ時間を埋めるだけの研究。習慣と義務だけで進むエスカレーターのような毎日。水曜にゼミがある、ゼミの先輩たちと仲良くなる、サークルの人からはちやほやされる、多忙な人間に対するあの軽薄な羨望で見られる。

 秋子はそんな夏樹に物を言わなかった。ふたりの恋人たちの会話はなんら芳醇なものを生まなかった。話すたび恋人たちは互いの不安や苛立ちを察していたがそれを指摘することもなかった。秋子には雪子が、夏樹には研究が重大なニキビとなって腫れていて、それをどう解消するばかり考えた。もう片方のニキビには自らのを消してそれからだとでも思っていた。

 それだから夏樹の空虚さは日増しにねじ曲がった。自立した人間への憧れのあるこの青年は相談することに不慣れで、一人で悶々とすることがかえって精神衛生を犯すことを信じなかった。

 夏樹はこうして煙草を吞みながらも、一応専門書を持ち歩き、灰を落さないようページをめくった。両手大の印刷には街のように知見が、知識が根城を築いている。夏樹はそこを異邦人のように歩いた。家も建物もよそよそしい。結局夏樹は終いまでその街に馴染めなかった。

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