サトゥルヌスと鳩

金合歓

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サトゥルヌスと鳩

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 その朝は、白かった。


 盲目の埃たちが眩しく部屋の中で舞い踊り、当てもなく四方八方へうごめいていた。東の壁一面に嵌められた曇り硝子の窓からは乳臭い光が、子に覆いかぶさる母親のようにもたれかかってくる。
 
 そして、生ぬるく盛り上がった柔らかな二粒のもの。白濁した、つやのある、二つの丘陵。静かな、無音の呼吸の波に揺られている。その目玉がにわかに破られ、中から夢の景色が粘性の液体となって滲み出たのだ。

 サトゥルヌスは目覚めた。いつもと同じ、何度となく繰り返されてきた白い朝の只中に。

  (かつては)母親が(今となっては昨晩の自分自身が)枕元に準備してくれた牛乳壺。白い化粧土をまとったテラコッタ風の、帆立貝の模様の入ったものだ。
 サトゥルヌスは無垢な心のまま寝台から起き上がり、壺から、これもまた白い、大理石を削った杯に牛乳を注ぐ。

 液体の夢は目ヤニとなってまつ毛に絡みつき、彼の視野をおぼろなものにしていた。杯を手に取ってみても、くうをつかんでいるか、あるいは杯を通り抜けて牛乳をそのままつかんでいるようにしか思えなかった。

 杯に唇を寄せると、未分化の、この白い世界そのものに唇を寄せたようにしか思えなかった。

 牛乳を飲み込むと、未分化の、この白い世界そのものを飲み込んだようにしか思えなかった。

 その時だった。
 胃袋の空気がずれたような、ポウポウという音が聞こえたのは。

 壁一面の曇り硝子の窓の一端に、突如として、淡い緑色の影が染みとなって現出したのだ。それはわずかに身震いし、規則的に、せわしく揺れながら窓の下端を渡り歩いた。

 一羽の緑鳩あおばと
 
 それは純白の胎蔵界に初めてもたらされた不快であり、不和であり、悪でさえあった。子宮の中に満ち満ちていた羊水に、突然とっぷりと避妊具が差し込まれ、緑青を吹いたかのような。

 サトゥルヌスは意味を持たぬ太初の言葉でわめき散らし、杯を乱暴にテーブルに置いて窓辺に駆け寄った。そして、何ら明瞭さを持たぬ、その外界との仕切りを両の拳で打った。だがしかし、緑鳩は素知らぬ顔で(無論、顔は曇り硝子にさえぎられていたので見えなかったのだが)窓の両端を行ったり来たりしている。捨てられるべき胎児を探る医者の手のように、淡々とその動作は繰り返された。

 いくら窓を叩いても一向に鳩を追い払うことがかなわないので、サトゥルヌスは頭を抱え、窓からそっぽを向いて反対側の壁へびっこを引くように退散していった。自らの影が白壁におぼろな黒い染みを作った。―子宮の壁に子供が打ち付けられてできた痣―その上に、銀縁の八角時計が掛けられている。ひどく規則正しく鼓動のような音で秒を刻んでいるが、奇妙なことに時針と分針が欠けており、時刻を知らせる気は全くない。ただ知らせるのは、時が過ぎているということだけ…。

 サトゥルヌスは自らの影をぼんやりと眺めていた。昔は、ほんの少し前までは、影さえも乳色をしていて目に見えなかったのではないだろうか。だがしかし、今や彼の影は輪郭さえ明瞭ではないものの、ファルスとして立ち上がり、生命の入り口と出口の面影である、秒針だけの時計に向かっているのだ。
 その幻想も緑鳩と同じくらい陰険に彼を苦しめた。サトゥルヌスは再び曇り硝子の窓へ向き直り、こちらの壁に背をつけ、影を隠すようにして座り込んだ。

 そっと耳から手を放してみると、やはり窓の向こうでは緑の影がポクポクという妙な音を立てて歩きまわっている。

 いったいいつまでそこに居座る気なのか?入ってきたいのなら嘴で硝子を割ってさっさと入ってくればいい。俺の目をつつきだし、内臓をえぐりだし、この部屋の外に打ちやればいいじゃないか。

 いったい何を求めて、俺の白い朝を踏みにじっているのか?

 鳩がふいに立ち止まった。そして、なんということだろう。赤子が乳房を求める声でアーウォ、アーウォと鳴き始めたではないか。声に合わせて緑の染みは膨らみ、しぼみ、サトゥルヌスを痛めつけた。

 彼はもう我慢ならなかった。牛乳の壺と杯をことごとくひっくり返しながら窓に向かって突進し、さっきの何倍もの強さで窓を両の拳で殴ってやった。

 ただの一発で、境界は粉々に打ち破られた。

 それは、彼が生まれて初めて目にした部屋の外の光景だった。
 地平線まで延々と続く、一面の白い石灰岩の大地。それを背景に、驚いたような丸い目で瞬きもせずこちらを見つめる緑鳩。
 それから、無色の、漆黒でも純白でもない、本当に色のない空。

 サトゥルヌスは硬直した緑鳩の首根っこをつかみ上げ、それをそのまま、見ることが不可能な空へ力いっぱい放り投げた。鳩はぎこちなく旋回しながらものすごい速さで遠ざかっていき、終には、平らに置いた薄い紙を真横から眺めた時のように、存在を秘めたまま、ふっつりと見えなくなってしまった。

 満足げな明るいため息が、彼の胸の底からこぼれ出た。窓は割れ、部屋は開かれてしまったが、外の世界もまた白一面の大地であり、あの気色悪い緑色の染みはどこにも見当たらなかったから。あるいは、部屋の内側にいたときよりも、はるかにせいせいしたのだ。生まれたばかりの子どもが、外の世界のすべてから受け入れられたのを感じて微笑したときのように。
 
 だが、その愉悦も長くは続かなかった。
 窓を打って痛んだ自分の両手をふと見てみると、その指先に緑鳩の羽毛が付いていたのだ。彼がそれを振り落とそうとした矢先、羽毛の緑がするりと爪の中へ入り込んだのである。サトゥルヌスはひどく動揺した。凍傷の色違いのように緑が染みた爪先。あわてて彼は自分で自分の爪を噛み、飲み込んだ。ところが、今度は指先の肉に緑が移動している。そこで、彼は指先を噛んだ。だが、今度は指の付け根に、手のひらに、手首に、腕に・・・



 陽が高く上ったころ(そのころ、空は無色であることをやめ、とっくに体中に青あざをつくった子どものようだった)、石灰岩の大地に一羽の緑鳩が舞い降りた。そして、大地の上にただ一つ転がっている緑色の、膨れあがった胃袋を見つけると、その端をくわえて再び空へ軽々と飛び去って行った。もちろん、胃袋の空気がずれたような、ポウポウという音を立てて。

 鳩と胃袋は、あの地平線のあたりでになるだろう。そして、愛し合い、睦み合い、やがて真っ白な卵を生み落とすことだろう。



                                               おわり



 
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