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第2章 なぜ来た
なぜ来た
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バン、と激しい音がした。それが何の音なのか、微睡みの中にいるノクスにはわからない。
夢を見ていた。冬の林で、誰かと話す夢だ。
灰に曇る夕空から雪がちらほらと舞い降りて、目の前の青年の白金の髪の上で溶ける。青年は枯草の上に座って、空を見上げていた。
『家名は捨ててきた。父には言われたよ。「血の継承の重さを理解できない人間は必要ない。今後グラディウスを名乗るな」って。家は弟が継ぐ』
『馬鹿! なんで俺についてきたんだよ!? 俺はいいんだよ、討伐者になったって! 俺には家族も失うものもねぇ。お前は長子だぞ!? 継ぐ家があるくせに』
『なんでだろうね』
青年は白金の髪を揺らして微笑み、澄んだ青い瞳でノクスを見つめる。
『……忘れないで。俺はお前のたった一人の相棒なんだから』
ああ、これは旅に出る時にアルバスが言った言葉だ。ノクスは思い出す。二人で村を出て冬の林に座り、焚火の前で話した。
――アルバス。お前、よくも俺の夢に出てこれたな。何が相棒だ、この裏切者。寝てる間くらい忘れさせろ。
毒づきながらぼんやりと夢の続きを見ていると、高圧的な男の大声が階下から聴こえてくる。
「ここは国営の防御拠点だ、お前のような部外者の侵入は許されない! こちらにいらっしゃるはずのフェリス子爵はどこだ?」
――知らない人の声だ。ルカのとは違う、重い魔力の気配がある。魔術師だな。
「フェリス……? 人違いだ! ここにいるのは結界守のノヴァだ! 俺は部外者じゃない、ノヴァの弟子だ。……寄るな、近づくな!」
鋭く高いルカの声が響いた。階段の真下にいるらしく、声が近い。
己の名を呼ばれているのはわかったが、内容を理解できないまま、ノクスは寝がえりを打とうとして、動けない事に気づく。
己に魔鎖をかけていたのだった。
「弟子……? お前が?」
恐ろしくひくい声が響く。こちらは聞き覚えのあるすずしい声だが、今はしわがれてひび割れ、聴く誰にもわかるほどの不機嫌を滲ませていた。
――アルバス? ひどい声だな。あの常時爽やかな男が、こんな声を出すとは。
うつらうつらしながらも、ノクスの意識は次第に夢から現実に引き上げられる。
――待て、アルバスがいる? これは現実か? 俺は王宮に勤務地を報告している。捜索は必要ない。なぜアルバスが来る必要が……。
ノクスが混乱している間にも、階下での騒乱は続いている。
「『お前』じゃない、ルカだ! それ以上近づくな!」
ルカの決死の叫びと同時に、知らない男が平然と話す声が聴こえる。
「階段を庇っている。フェリス子爵は2階におられるようです。私が上がって確認しましょう」
「いや、駄目だ。この少年を捕えたら貴殿にも即刻退出していただきたい」
聞き覚えのあるアルバスの声が冷ややかにそう告げた。
「退出、ですか。マクシマム伯爵はいかがなさるおつもりで?」
「ここに残る。貴殿は王都へ戻られよ」
「戻れませんね。私はフェリス子爵のご容態を確認するよう命ぜられています」
「医師でもない貴殿が?」
「ええ、陛下直々の御命令で。フェリス子爵のお顔を見るまで、ここを去るわけには参りません」
長い沈黙の後、アルバスのすずしい声がはっきりと響いた。
「そこまで仰るならお止めしませんが、貴殿のお言葉通り、部外者は立ち入り禁止です。王属魔獣討伐隊の長たる私は許可を得ていますがね。滞在なさるなら外の森へどうぞ。ご退室願います、今すぐ」
うっすら慇懃に、しかし逆らいがたい威圧を籠めて、アルバスは宣告する。
誰かの舌打ちの音と同時に、ぎしっ、と床板を踏む音が聴こえた。切羽詰まったルカの声が叫ぶ。
「ダメだ! 誰も入れるなって言われてるんだ! ノヴァは俺が守る!」
凍てつくような静寂があった。アルバスの氷のような声が響き渡る。
「『守る』……? 彼を守るのはお前ではない。――『俺』だ」
ルカの叫び声やうめき声と共に、床に人が倒れるような重たい音が聴こえてくる。何かとてつもなくまずい事が起きているのに、体が動かない。
――ルカが捕まってしまう! 俺が説明しなければ……でも、動けない。
声だけでも出せないか、とノクスは喉の奥で呻いた。だがうめき声すら出ない。
ややあって、ルカの声も知らない男の声も聞こえなくなった。しんと静まり返る中、階段がぎし、ぎしと軋み、上がってくる誰かの足音が聴こえてくる。
――来るな、来るな! いや、待て。落ち着け。ここには常人は入れない。扉には内鍵がかかっているし、いつも以上に厳重に魔鎖をかけてある……。
ドォン、と地響きがして、ノクスは寝台が揺れるのを感じた。ひんやりとした新鮮な風が頬を撫でる。
――扉が……蹴り開けられた?! 俺の魔鎖を物理的に引き千切るなんて、そんな化け物じみた芸当ができるのは……いない、『白騎士アルバス』しかいない。
ノクスの背に冷や汗がじっとりと滲んだ。
アンバーの甘く柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。聞き慣れた足音が近づいてくる。寝台が軋み、顔の両脇で沈んだ。眩暈がするほど濃く近く、アンバーが甘く香る。
――顔の両脇に手をつかれている。俺を見下ろしている……?
ノクスが結界守として管理施設へ向かう事は王宮に報告済みだった。アルバスもそこから知ったのだろう。放っておいてくれればいいものを、なぜ追ってきたのか。
尋ねたいのに声が出なかった。
――目が開かない。体が鉛のように重い。
「……こんな所にいたんだね。捜したよ、ノクス」
かすれた声が耳もとで囁いた。アルバスの髪がさらさらとノクスの頬に触れる。
――近っ!! アルバスお前、顔が近いぞ!?
もとから距離の近い男ではあったが、これはやりすぎではないだろうか。
アルバスの鼻先がノクスの頬に触れた。
――あ……。
ぞくっと鳥肌が立った。ノクスの首筋に、アルバスの唇がふれたのだった。
アルバスはノクスの首に口づけ、囁く。
「膚が粟立っている。ノクス、君、意識があるね。いつもの薬がないから、魔鎖で補強した? 俺に相談してくれればよかったのに」
――できるか!!
意識があるかどうか確認したいからといって、変なところに口づけないでほしい。
アルバスはノクスの胸の上に手を置き、するりと撫でる。
「俺がいるから、もう危険はないよ。魔鎖は解いておくね」
ぶちっと魔鎖の環が千切れる音がした。
――力任せにちぎるな……! 大型魔獣も拘束できる俺の魔鎖を素手でちぎるな!
ノクスが脳内で屈辱にわなないていると、頭上で紙包みを破るような音がした。
――何してるんだ……?
再びぎしっと寝台が軋み、ノクスは腹の上にアルバスの体の重みを感じた。アルバスの手で顎を持ち上げられる。
――え? 何……!? 何をする気だよ。
戸惑うノクスの唇にアルバスのつめたい唇が合わさり、歯列を割ってアルバスの舌がぬるりと押し入ってくる。苦い丸薬が喉の奥に押し込まれた。ノクスは咳き込みそうになり、パニックに陥る。
「飲んで」
アルバスは囁く。一瞬、唇が離れたかと思えば、またすぐにアルバスの唇が覆いかぶさった。冷たい水が喉に流れ込み、とどまっていた薬を胃へと押し流していく。
ごくりとノクスの喉が動いたのを、アルバスは確認した。
「飲めた? じゃあ、おやすみ。安心して。俺がいるよ。ずっと、隣に」
アルバスの手がノクスの頬をそっと撫でる。
――何も安心じゃねぇ! ……お、俺のファーストキスが……!
横たわったままノクスが衝撃に打ちのめされているうちに、すみやかにやってきた猛烈な眠気がノクスを無意識の闇へ引きずり込む。
ぶつりと意識が途切れた。
※ ※ ※
「……ノクス? 起きた?」
アンバーの甘い香りの中、ノクスはうっすら瞼を開けた。
「……アルバス?」
「そうだよ」
隣に座っていたアルバスに満面の笑顔で見下ろされ、ノクスはぎょっと飛び起きる。半身を起こして、事態を把握できずにきょろきょろとあたりを見回した。
「ルカは!?」
「誰?」
凍りついた笑顔でアルバスは問い返してくる。
「俺の弟子。逮捕したのなら解放してくれ。俺が勝手に連れてきたんだから、罰するなら俺を……」
ノクスは訴えて頭痛に顔をしかめ、頭を押さえる。小屋の外窓に重い魔力の気配が纏わりついている。どす黒いその魔力は部屋の中に入り込もうと手を伸ばしていた。
――鬱陶しい。
ノクスは額にかかる髪を振り払うついでに術を解く。
アルバスは固い笑みを浮かべたまま、鋭い目でノクスの顔を見つめる。
「……ふうん、弟子……。発作前後には俺以外の誰にも会うなって言ったよね?」
「なんでてめぇの言う事聞かなきゃなんねぇんだよ」
ノクスはつんとそっぽを向いた。アルバスは大きく息を吐く。
「わかった、その話はいったん置いておこう。今は先に話し合うべき事がある」
「カッシア嬢の話か? 俺に了承をとる必要はないぞ、さっさと婚姻届を出せ」
ノクスが顔を歪めると、アルバスはかぶりを振る。
「カッシア嬢への恋愛感情は一切ない、婚約披露宴で話した通りだ」
「よく言うぜ」
「結婚による魔術師への悪影響は周知の事実だ。なのに王がなぜ『大賢者』に結婚を勧めたか、不思議に思わなかったか?」
アルバスはじっとノクスを見つめた。ルカも同じような事を言っていた気がする。
――大賢者の血を継承させるためじゃないのか?
ノクスは働かない頭を振って、アルバスを見上げた。
「……何がいいたい」
「カッシア嬢から聞いた。王陛下は彼女に、大賢者フェリス・ノクスを骨抜きにするよう命じていた。新婚1か月目に魔術技大会を開き、大賢者のお披露目をする。その時に大賢者に他を上回る魔力が残っていたら、テンペスト家は取り潰し。ただし大賢者に恥をかかせる事に成功すれば、子爵家に引き上げてやると」
「……陛下はなぜそんな事を?」
凍りついたノクスの手をとり、アルバスは起き上がらせる。
「陛下はノクスに禁欲を破らせ、魔術技大会で恥をかかせて『大賢者』の称号を奪うつもりだったんだ」
「な、何のために……? おかしいだろ、そもそも大賢者の称号は……陛下に賜ったんじゃねぇか……」
ノクスは問うて言葉を失った。
――命を賭して魔獣を討伐してきた。それなのに、王は俺を潰そうと?
アルバスはきつい目でノクスを見据える。
「ノクス。君、謁見の時、馬鹿正直にデドラ変異種の獣毒後遺症について王陛下に話しただろう」
「仕方ないだろう。式典の日が発作とかぶったんだ」
「言ってはいけなかった。デドラ変異種の獣毒後遺症は……」
アルバスは言葉を切って俯いた。
「暴れるんだよな?」
「ちがう。……それも話す。デドラ変異種の獣毒後遺症は、噴出液を浴びた者が強烈な催淫作用を発揮する事にある」
「え……? だって、ずっと『暴れるから鎮静剤を飲め』って」
――今まで言われてきた事と違う。
ノクスは凍りついた。アルバスは髪をかき上げて長い息をつく。
「君には受け止めきれないと思ったんだ。前例は一件だけ。それによれば、デドラ変異種は噴出液で敵の体質を変え、強烈な催淫作用のある性フェロモンを『敵から』分泌させる。そうして敵を仲間同士で発情させる事によって攻撃性を奪うんだ。君はまともに噴出液を浴びたから、発作中に誰かれなく発情させる恐れがあった。鎮静剤でも飲ませて監禁しない限りは」
――そんな馬鹿な。
「……お前今の話、嘘じゃねぇだろうな……」
固まったまま言うノクスの手を、アルバスは掴んだ。
「疑うなら弟のマリウスに問い合わせるといい、獣毒後遺症の資料を送ってくれる。今はまず事情を聞いてほしい。謁見でノクスの姿を見たミラ王妃殿下は、何もかもかなぐり捨てて君に惚れてしまった。妃殿下は陛下のお通りも断り、君の絵姿を眺めて一日を過ごしているそうだ。嫉妬に狂った陛下の耳に、『大賢者はその容姿と催淫術によって有力者の支持を集め、平民による叛逆を狙っている』と囁く者がいたんだ。さしずめ傾国の魔術師だな。『清廉なる護国の大賢者は、王よりも王らしい』と平民出の大賢者を祀り上げる動きが、民の中では根強い。それも災いして疑いは強まった」
何もかも初耳である。
「誰から聞いたんだよ、その話!? 妃殿下には一度しか拝謁してないぞ!?」
「カッシア嬢が陛下から聞いた話だ。一目惚れだそうだ」
――一目惚れ!? 隣にいたアルバスと間違えてねぇか!?
ノクスは絶句する。ミラ妃は18歳で母国ヴァースティタースから輿入れしたものの、未だ子宝に恵まれていない。高齢のオーティア王と亡くなった先妃との間にはすでに王太子と王女がいる。不満があって気紛れに恋でもしたくなったのかもしれないが、王に恨まれるノクスにしてみればとんだ災難である。
「君にはもう大賢者の称号と爵位を与えた後だった。陛下は今になって、君を無能にするか、民草の人気を失墜させるしかないとお考えだ」
アルバスは小声で囁いた。
「……結婚は俺の魔力を奪って失脚させるため?」
「その通り。だから俺はそんな結婚を認めるわけにはいかなかった。監視の目が厳しくて、君に話す事もできず……いっそ公の場で全てを台無しにするしか」
アルバスの決意に満ちた瞳を見て、ノクスはそれが嘘ではないと悟った。わざとカッシア嬢を誑かしたのだ、この男は。
ノクスは目を閉じ、長いため息をつく。
「……そうか。わかったよ、アルバス」
「怒らないのか。君の婚約者に色目を使ったのに」
アルバスはじっとノクスを見つめる。
「怒ってほしいのか?」
「……『どうでもいい』みたいな顔をされるよりは、君に怒られたい」
アルバスの声がぎごちない。アルバスなりに悪い事をしたとは思っているらしい。
――それなりに腹が立ってはいたんだけど、事情を聞くとな……。まあ、俺に怒られて気がすむなら、怒ってやるか。
ノクスはもう一度ため息をついた。
「お前、何人目だよ、俺の好きな人盗るの」
「5人目」
「聞きはしたけど、正確に答えてもらえるとは思わなかったぞ。まさか俺が好きな人の事、全部気づいてたとか言わねぇよな」
「うん。アミカ、クララ、ヘレナ、ユリア、それからカッシア嬢」
アルバスは当然のような顔で頷き、無表情に名前を述べる。
「……ええ!? じゃあ全員!?」
ノクスはかっと熱くなる頬に自分でも動揺して、思わず左腕で顔を隠す。
「君を見ていればわかる」
アルバスは静かに言った。魔術師の職業倫理として恋愛には淡泊なふりをしてきたのに、すべて気づかれていたのかと思うと真面目に恥ずかしい。
赤面したノクスは「んんっ」と喉で咳払いして、目をそらす。気を取り直して怒り直す事にした。
「……まあ、俺もわかってるよ。お前は別に俺から奪ったわけじゃねぇ。皆がお前を選んだだけだって。でもな、カッシア嬢は仮にも俺の婚約者だ。『元』だけど。俺の前で抱きしめなくてもいいだろ」
「ごめんね」
アルバスはノクスの目を見つめて静かに謝った。
アルバスに怒っても意味はない。悪くないアルバスに謝られてもしかたないのだが、少し心が凪いだ。ノクスは苦笑する。
「……あー、馬鹿みてぇ。なんだこの茶番。謝るなよ、お前のせいじゃない。俺に魅力がなかっただけの話だ」
「ノクスには魅力あるよ。……カッシア嬢のこと、好きだった?」
まっすぐに見つめられて、ノクスは目をそらした。怒っておいてなんなのだが、カッシア嬢にそこまで惚れていたわけではない。
「……うん、まあ……二度とこない結婚の機会だから大事にしようとは思っていた。今は好きじゃない。ほんとは元から好きじゃなかったのかも」
アルバスはほっとしたように顔を和めた。良心の呵責が和らいだのだろう。
「それならよかった。だが、王はまた次の手を打ってくるはずだ」
真剣な顔で囁かれ、ノクスは首を傾げた。
「俺の悪評ならすでに広まっている。『横恋慕の老賢者』だからな。しかも華の王都から辺境の結界守に都落ちだ。陛下も目的は達成したんじゃないのか?」
「いいや。君は魔力を保ったままだし、結界守は国の要だ。国の命運を君に半分握られたようなものさ。かといって退職させれば目が届かなくなる――恋愛沙汰で貶めても大賢者の名声はまだ世に轟いているしね」
「また俺の評判を落としにかかってくるかな?」
ノクスは顔をしかめる。アルバスはかぶりを振った。
「たぶん次はもっと悪い。妃殿下の件もあって、陛下は君の催淫作用を危険視している。俺の生家のグラディウス伯爵家は最近、王家に請われて情報を提供したらしい。……デドラの催淫作用を無効化する術が1つあると」
ノクスはきょとんとして目を見開いた。
「そんな方法があるのか? なんで先に俺に教えてくれなかったんだ。さっさと無効化すれば発作に煩わされずに済むのに」
「君に究極の選択を迫る事になるからだよ」
アルバスは片手でノクスの胸にふれた。ひとつ息を呑んで、言う。
「……君を『雌化』する事。女ではなく、男と性交させる事。それが催淫作用を無効化させる方法なんだ」
――はああ!?
ノクスは目を見開き、赤くなってぶんぶんとかぶりを振った。
「せっ……!? 俺は禁欲が身上の魔術師だぞ!?」
「だとしても、自ら雌化しなければだめだ。陛下は君を犯させて催淫作用を取り除き、弱みを握り、脅す気で男を雇っている」
ノクスの胸へ置いたアルバスの手にぐっと力が籠もった。ノクスは叫ぶ。
「俺がそんな奴らにやられるか!」
「昏睡状態でも? 君は1か月に一度、完全に無防備になるんだぞ」
う、とノクスは動きを止める。
「そ、それは……鎮静剤を飲まなきゃいいんだよ! ……そうだよ、なんで鎮静剤なんか飲んでんだ? 襲ってくる奴らを、起きて迎え撃てばいいだけだろ」
「起きていれば君も発情状態になるからだよ」
冷静にアルバスは答えた。
「俺が!?」
「君が。デドラを討伐した日の事、君が覚えてなくとも俺は覚えてる」
アルバスにじっと見つめられ、ノクスはぎごちなく尋ねた。
「もしかして……お、俺、お前に何かした……?」
「何かはしたよ。詳しく聞きたいか?」
ノクスは青ざめ、ふるふると首を振った。アルバスはため息をつく。
「……発情状態では記憶がなくなるのも問題だ。あの場にいたのが俺だったからよかったが、居合わせたのが別の人間だったらどうなってたと思う」
ノクスはぞっと体を震わせる。アルバスは獣毒緩和作用のある香水と持前の腕力で、なんとかノクスを躱したに違いない。
「……すまない……迷惑かけた……」
「ノクスに関する事は迷惑だと思わない。君は俺の相棒なんだから、君の問題は俺の問題だ」
こともなげにアルバスは言った。
――こいつは顔だけじゃなく、心も男前だな。
ノクスはほうと息をついて、天井を見上げる。
「……それで急いで来てくれたんだな? 俺が発作中襲われかねないから」
「ああ。そしたら王派のガルバ男爵に出くわした。暗黒街上がりの魔術師だよ」
――昏睡中に聞こえたあの高圧的な声の男か。重くて薄暗い魔力の持ち主だ。
「さっき盗聴の術をかけてたのはそいつの仕業だな。まさか王が俺の雌化のために雇ったのも……?」
ノクスは眉をひそめた。アルバスは無表情に頷く。
「だろうね。あの男は『容態』と言った。君が発作を起こす時期だと知っている。君の獣毒後遺症はグラディウス家と陛下しか知らないのにもかかわらずだ。陛下は君の発作中を狙って奴を寄越した。あの男を使って君を凌辱するつもりだったんだ」
そう呟くアルバスは身じろぎも瞬きもせず、見ひらいた薄青の瞳を虚空に据えている。ぎりりと噛みしめた歯列の間から、震えるような怒りの息が漏れた。
「だとすれば失敗だな。俺はこうして無事だ」
ノクスは宥めたが、アルバスは落ち着くどころか、眉間に深い皺を刻んだ。
「発作はまた来る。その度に男共が君を狙うんだ。想像するだけで気分が悪い」
アルバスはかすれた声を震わせる。ひどい顔色だ。
――こいつ、本当に優しいな。人事でこんなにも心身をすり減らしていては気が休まらないだろうに。
ノクスは己の身の危険も忘れてアルバスが心配になってきた。
「心配ないぞ。俺、これでも一応大賢者だから。なんとかする」
「どうやって? 結界守は自由時間勤務の代わり、休暇もない。敵に発作周期と所在が筒抜けで、助けも呼べない山中の管理施設にいて、君は昏睡状態だ。どうやって逃げ切るつもりだ。ノクス」
アルバスはぎらと目を光らせてノクスを見据えた。
――こ、怖い。
しかし、アルバスの言う事ももっともである。今回はアルバスが無理やり来てくれたから何とかなったが、次からはそうはいかない。王属魔獣討伐隊の総司令官でもあり、白騎士として社交もこなすアルバスは、ノクスよりよほど忙しい。ノクスの発作の度に3連休して護衛にあたる事を頼める相手ではない。
ノクスは空笑いで答える。
「はは、そうだな! 術で罠でも作っておくか」
「魔術師による人への討伐魔術の使用は法で禁止されている。君が裁かれる。そうなれば王の思うつぼだ。第一、眠った後も維持できる術はそう多くない。君ほどの使い手でも魔鎖が限度だろう?」
アルバスは無表情に一刀両断する。ノクスは目を泳がせる。
「よくご存じで……」
アルバスは吐き出すように大きく息を吐いた。
「君が結界守になりたかったのは知ってる。でも、無理だ。もう無理なんだよ。頼むから、国外に脱出してくれ」
ノクスは息をつめてアルバスの顔を見た。アルバスの瞳にはノクスの望まぬ事を告げなければならない痛みが滲んでいる。
ノクスは目を伏せ、ぽつりと呟く。
「……そうか」
長い沈黙の後、アルバスはぎゅっと目を瞑る。
「――方法が、ないわけじゃない」
「あるなら教えてくれ」
ノクスは即答した。だがアルバスはひどく言いづらそうに目をそらす。
「教える。教えるが……その前に、悪いが頼まれてほしい。グラディウス家が王家に伝えた情報を俺に教える見返りとして、父から要求されているんだ。……君の、身体検査を」
――身体検査ぁ!?
ノクスは目を丸くした。首をかいて思案する。
「ああ……つまり、獣毒による身体変化を調べたいと? 別に女にはなってないぞ」
「胸が出たり男の大事なものが消え失せたりはしないし、完全に雌化したとして、子を産む機能は備わらないよ。デドラにとって敵の繁殖はマイナスでしかないからね。ただ、攻撃性が減じて発作もなくなり、体が……すすんで性交を受け入れるように変化するようなんだ」
――いったい全体どこがどうなるんだ、とは聞きにくい。
ノクスの顔は引き攣った。
「へ……へ~…………」
「催淫作用の伴う発作を何度も経験している君が、まだ雌化していない事が父は信じられないと言うんだ。いくら禁欲的な魔術師でも、発作中は理性を失う。もう誰かとその……行為はしただろうと。きちんと調べてこいと言われた」
アルバスはややこわばった声で言った。
「俺に許可しろと?」
こく、とアルバスは頷いた。アルバスにしては珍しく緊張の見える仕草に、ノクスはため息をつく。
「律儀だな。寝ている間に勝手に調べればいいだろ」
「勝手に触っていい場所じゃない。嫌だと言われたらしない」
「はいはい、好きにしろ。何を調べるんだ? どこでも好きに見ろ」
ノクスは息をついて仰向けに横になり、四肢を投げ出した。アルバスはそっとノクスの下履きに手をかける。
――まあ、そこしか無いだろうな。
予測はしていた。ノクスは目を閉じ、下着を親友の手で脱がされる羞恥に耐える。
「……デドラ変異種の獣毒被害の前例はほとんどない。ノクスは貴重な症例だ。先日発作が来たという事は、雌化は完了していない。獣毒のみでどこまで雌化が進むか調べたいんだ。……君はここに男のものを受け入れた事はあるか?」
アルバスは小さな声で呟きながら、ノクスの尻の間を手でさぐった。
「あるわけないだろ」
ため息をつきながら、ノクスは体を硬くして目をぎゅっと瞑る。アルバスの低い声が囁く。
「本当に誰とも性交していないね?」
「当たり前…………っ」
アルバスはノクスの秘部にぬっと指を挿し入れた。中で蠢くアルバスの指に、ノクスは思わず「ひっ」と声を上げる。
「痛いか?」
「いや……ただ、違和感が……」
「そうか。動かすぞ」
ぬるり、とアルバスの長い指がさらに奥へ入っていく。
「や…………」
奇妙な熱い感覚がノクスの下腹部に走った。痺れるような甘い快感が、アルバスの指から伝わる。
「きついが、濡れている。雌化の準備段階だ。快感はあるか?」
アルバスは囁いた。
「やめろ……! 動かすな」
「動かさなければ調べられない」
アルバスの指が中で停まり、それからぐいと奥へ進む。
「言って。快感はあるか?」
「あ……ある……」
ノクスがあえぐようにして言った途端、ごくっ、とアルバスの喉が大きく鳴った。
アルバスが荒い息をついている。ノクスの奥深くに右の指を挿れたまま、左手で太腿を掴んで彼は言った。
「……ノクス、ひとつ提案がある」
「何だ」
「『雌化が完了している』と俺が報告すれば、きっとその情報はグラディウス家から王家に伝わる。発作も催淫作用もなくなり、君に隙がないとわかれば、少なくとも性的に君が狙われる事はなくなるはずだ」
「虚偽を報告するのか?」
「違う。つまり、俺が君の『雌化』を完了させれば」
「! それって」
さらに奥へアルバスの指が進んで、ノクスは「あっ」と背をのけぞらせる。
「俺に抱かれるのは嫌か? ノクス」
「ちょっと……待て……!!」
アルバスは指をいれたままノクスの上にのしかかり、ノクスの顔を覗き込んだ。
「他に方法がない。……他の男に無理やり犯されるより、俺の方がマシだと思う」
「それも陛下の命令か? それともグラディウス家の?」
そうノクスが訊いた途端、アルバスの美しい顔が歪んだ。
「違う。天に誓って! これは俺の……個人的な!」
「つまり放っておけば犯される相棒を憐れんでの事か?」
「違う……」
アルバスは目を閉じて顔を伏せる。おそらくアルバスの父の差し金だろう。身体検査は口実で、アルバスにノクスと深い接触をさせてノクスを雌化し、『無害』にしたかったのかもしれない。
「……わかった。発情期が来る度に来て守ってもらうわけにもいかないしな。どうせお前は王都に戻るし、気まずくても顔を合わせずに済むよな。『雌化』は一度で終わるのか?」
ノクスはアルバスの髪にそっと触れた。優しい幼馴染が苦渋の決断でこんな事を言い出したのは想像がつく。
「……まだ……はっきりとは。でも発情期は短くなるはずだ」
「そっか。でもお前、俺に勃つのか? 無理なら他を探すけど」
アルバスは青い瞳をぎらと光らせてノクスを見下ろす。冷ややかな声が降る。
「『他を探す』とは? 相手のあてがあるのか?」
「へっ……? あるわけないだろ」
怪訝な顔のノクスの唇に、アルバスは噛みついた。アルバスの熱い舌がねじ込まれ、ノクスの舌に絡みつく。ノクスは驚いてアルバスの胸を押しのけた。
「っ……やめろ! そんな事まで……」
「『いい』と言っただろ」
アルバスはノクスの耳もとで囁き、その首筋に歯を立てる。強く吸い付いた。
「ああっ!」
「痕を残す。誰の目にもわかるように」
声を立てていい、とアルバスは口づけの合間にノクスに囁いた。
「どうせガルバは聞き耳を立てている。大きな声であればあるほどいい。あの男に聞かせろ。王の耳としてそこに居るなら役に立ってもらうさ。『雌化』を証言させる」
「嫌……だっ」
「自分で無理なら、俺が出させる」
アルバスはノクスの太腿の付け根に噛みついた。
「ああっ!!」
噛み痕を舌で舐られ、ノクスはもがく。寝床から逃げようとするノクスの腰を、アルバスの太い腕ががっしりと引き止めてシーツの中に引き戻した。
「逃げちゃ駄目だ。まだ始まってもいないよ」
「この馬鹿……っ!」
――嫌だ。いやだいやだいやだ。嬌声を聞かれるなんて、とんでもない。俺は腐っても魔術師だぞ。
その時だった。必死の声がノクスを呼んだ。
「ノヴァ……! ノヴァ、今の声は!? 無事か!?」
――俺をノヴァと呼ぶのはルカだけだ。でも、この声は上空から……?
ノクスはハッと顔を窓へ振り向けた。窓の外に銀色の光が煌めき、一閃する。
「飛竜に乗ってる!?」
がばっとノクスが体を起こした瞬間、ぱりんと窓が割れ、屋根の丸太がばらばらと吹き飛んだ。丸太の落下と共に上がった叫び声は、ガルバ男爵のものらしい。
ルカはまだ操縦に慣れないらしく、一度小屋を離れた飛竜は青空をぐるりと旋回して戻ってくる。その模様をノクスは屋根のなくなった2階から、茫然と眺めた。
「……やるなあ、ルカ……かなり乗りこなしてるぞ」
「感心してる場合か! ノクス! 服を着ろ」
アルバスは鬼の形相でノクスに下着を履かせ、ノクスを背後から抱きすくめた。
「ちょ、アルバス、離せ……!」
ノクスは焦って振り返ったが、アルバスの青い目は完全に据わっている。
「離さない」
旋回して戻ってきた飛竜の背から、ルカは決死の顔で腕を伸ばした。
「ノヴァ! あの男が弓で狙ってる! 早く乗って!」
ノクスは飛竜の形相が変わっているのを見た。地上を睨みつけて牙を剥き、開いた口腔内に炎の息吹が見える。ノクスは顔色を変えた。
――飛竜が怒っている。弓で狙われたせいか!? まずい、ガルバが殺される! 人を殺した魔獣は殺処分にされてしまう。飛竜をガルバから引き離さなければ。
「飛竜の首を反対に向けろ! 今行く!」
ノクスはアルバスを振りほどこうとした。だがアルバスの腕はびくともしない。アルバスはノクスを片腕に抱えたまま、床を蹴って跳躍した。
「あっ……!?」
ルカは信じられないという顔で振り向き、手綱を引く。飛竜は放ちかけた炎を手綱に遮られて首を振り、ガルバ男爵が放った弓矢を焼いて上空へと舞い上がる。
「アルバス! なんでついてきた!?」
ノクスは風の音に負けないように、大きな声で喚いた。アルバスはノクスを抱えたまま飛竜の背にしっかりと掴まり、返答しない。
「ノヴァ! そいつ、突き落とせよ!! ノヴァに酷い事をしたんだろ!?」
ルカは飛竜の首に齧りついて叫んだ。ノクスはどう説明したものかと口ごもる。
「いや、噛まれただけ! ……こいつ……アルバスは俺の幼馴染だから!」
ルカはぎっと後ろを振り返った。ノクスの首筋にある鬱血した噛み痕に視線を当て、血走った眼で唇を噛みしめる。
「幼馴染……あの!? 怪しいと思ってたんだ。きっと今までだって、ノヴァが寝てる間にいかがわしい事をしてたに決まってる! 俺の師匠を汚しやがって!」
「違うぞ!? それにルカ、今はそれどころじゃない!」
ノクスは声を限りに叫んだ。
「操縦が衝動任せじゃ、飛竜も迷惑だ。どこまで上昇させるつもりだ、手綱で首を締め上げるな!」
はっ、とルカは握りしめた手綱を緩める。ノクスは続けて指示を出す。
「落ち着け。飛竜の首を水平に戻すんだ。東へ向かう」
「ノヴァ……東って、どっちだかわからない」
ルカの手が震えているのを見て、ノクスは後ろから一緒に手綱をとろうとした。
――いくら肝が据わった子でも、飛竜の操縦は初めてだ。それに人から弓で狙われた。動揺の中、この高度で飛ぶのは怖いに決まっている。
だが手を伸ばしたノクスの腰を、アルバスがとらえて引き戻した。張りのある声でルカに命じる。
「右手に見える白杉の山頂に向かって飛べ。――これも経験だ」
最後の台詞だけはノクスの耳もとで囁く。
かっとなったようにルカは叫んだ。
「お前が指図するな! 俺の師匠はノヴァだ、俺はノヴァの命令しか聞かねえ!」
「落ち着け、アルバスの言う方角で合ってる」
ノヴァは頭痛をおぼえながら声を張り上げる。ルカはしぶしぶ、「それなら」と飛竜の首を東に向けた。
――怒りが恐怖をかき消したな。ルカの手の震えが止まっている。
ノクスはほっとして肩の力を抜く。アルバスが指示してくれて、かえってよかったかもしれない。
「……で、アルバス、どういうつもりだ? 白騎士が一緒に逃亡してどうする」
「今日限りで騎士は辞めて討伐者に戻るよ。ノクスを傷つけるような王に仕える気はないから」
「グラディウス家にまで類が及ぶぞ」
ノクスは頭上のアルバスの顔を振り仰いだ。アルバスは眉を寄せ、きっと唇を噛みしめている。わかっているのだ。
『白騎士が大賢者と共に逃げた』『白騎士は大賢者と同じく革命派だったのだ』『白騎士の生家グラディウスも、密かに息子と共謀し謀反の機会を窺っているのではないか』――王家にそう疑われれば、グラディウス家も没落を免れない。
「……グラディウスの家名は捨てた」
「お父上と弟は? 王家に伝えた情報だって、教えてくれたのはお父上なんだろ?」
アルバスは黙ってしまった。ノクスはため息をついて、アルバスの厚い胸板にとんと頭をもたせかける。小さく囁いた。
「途中で降ろす。俺達を引き戻そうと竜に飛び乗ったが、振り落とされたと言え」
「嫌だ」
アルバスは即答する。
「我儘言うな。『白騎士アルバス』はいるだけでもステパノス王国の国威発揚になる存在なんだ。見目も人気も、実力も極上。そんな存在をみすみす失って、王国が黙っているわけがない」
「……君だってそうだろ。一人で逃げ切れると思っているなら、見通しが甘いよ」
「一人じゃない、ルカがいるよ。俺は魔獣さえ討伐できればどこだって暮らせる。魔獣のいない王都では所在がなかった。外国でのんびり弟子を育てるっていうのも楽しそうじゃないか? 討伐魔術の私塾作っちゃったりしてな!」
ノクスはふふふと笑った。アルバスがノクスを掴む手にぐっと力が籠もる。
「……嫌だ。君の相棒は俺だ」
「もちろん、ずっとそうだろ? お前は相棒で、ルカは弟子」
ノクスはこともなげに言った。
「君はわかってない。君の隣は俺の場所だ。他の誰かにいてほしくない」
「仕方ないだろ。俺は追われる身だし。でもずっと相棒はお前だけだよ」
ノクスは穏やかにアルバスの手に己の手を添えた。
「そんな……」
「何?」
アルバスの声が風音に紛れて聴き取りづらい。ノクスは聞き返した。アルバスの怒号があたりに響き渡る。
「そんな綺麗事じゃ、オレは騙されない!」
「頭、かってぇな! 何て言えば納得するんだよ」
ノクスはびりびりと鼓膜に響くアルバスの大声に肩をすくませて耳を庇い、言い返す。
「言葉はいらない。行動で示してくれ」
「行動? って言ったって……」
ノクスは首をひねった。
「君の言う通りにしよう。だけど必ず迎えに来る。だから」
アルバスは突然、ノクスの耳に唇を寄せた。囁く。
「俺以外の誰にも抱かれないで」
――うわあぁあああぁ!
ノクスは耳までかっと赤くなった。口説かれていると勘違いしてしまいそうだ。アルバスは生まれながらに麗しい容姿をもつ上に、普段からこういう言動だから無分別に全方位から惚れられるのだ。これだからモテる男は。
「ば……ばか。耳もとで言うな、気持ち悪ぃ」
「大声で叫ばなきゃだめかな」
「やめろ!? ――俺は待てねぇ。一刻も早く治療したいんだ。相棒だからって何もかも俺の面倒みる必要ないぞ。心配するな、相手さえ選べば問題ない。俺は無害になって外国で平和に暮らすから、お前も下手な事考えずに――」
ぶん、とアルバスが恐ろしい勢いで右腕を振った。ノクスはびくっとしてアルバスの腕を見る。
「――どうした?」
「ごめん。話、聞こえなかった。霧に隠れて魔蜻蛉が近づいてきてたから、剣を投げたんだ。気づかなかったかい?」
アルバスはにっこりと笑ってノクスを見下ろした。目が笑っていない。いつもに増して笑顔が怖い。
「あ……ああ……そう……ありがとう」
巨大な魔蜻蛉がアルバスの剣に串刺しにされ、虹色の羽根を震わせながら森の中へ墜ちていくのが眼下に見えた。飛竜の隙を窺ってノクスたちに襲い掛かろうとしていたのだ。
アルバスは薄青の瞳を細めた。
「ノクス、俺はやっぱり心配だな。君はさっきの魔蜻蛉にも気づかなかったし、人を見る目もないし」
「失礼な。見る目があるからお前といるんだろ。さっきは大事な話の途中だったからだ! 近づかれても魔蜻蛉くらい倒せるぞ」
アルバスはゆっくりかぶりを振った。
「いや、決めた。やっぱり俺はノクスに同行する。離れていたら相棒とは言えないからね」
「え? なんで……いや、お前、国に戻れよ!?」
――グラディウス家を没落させるつもりか、こいつは! グラディウスのお父上は勘当後もアルバスに協力してくれてただろ。アルバスもなんだかんだ言って家族に絆を感じていると思ったのに。
説得しようとノクスが口を開こうとした途端、手綱を握るルカが悲鳴を上げた。
「魔蠅の集団だ! さっきの魔蜻蛉の死骸にたかってる。こっちに来る!」
見れば森から浮き上がって来た魔蠅の一群が、黒い煙のように波立ちながら、わあんと唸りを上げてこちらへ向かってくるのが見えた。アルバスは張りのある声で指示する。
「飛竜を停止させろ! ……ノクス!」
「おう」とノクスは落ち着いて、上着から杖を取り出した。
「羽を焼く。――焼き払え、『業火』!」
焦げ臭い匂いの漂う茜空を、飛竜は羽ばたいてゆっくりと横切った。鈍色の羽を焼かれた魔蠅たちが、ゆっくりと森へと燃え落ちていく。
「……すっ……げえ……ええええ……!」
ルカは手を震わせ、目を潤ませてノクスを振り返った。
「あんなでけぇ魔蠅の群れをっ……!! あんな火力、物語でも見た事ねえ!」
「落ち着け。前を向いて操縦してくれ」
ノクスは慌てて手を挙げてルカを制止する。ルカはおとなしく前を向いたが、興奮冷めやらぬ様子だ。
「俺の師匠はすげぇよ……!」
「ふふん、だろう」
なぜかアルバスまで得意げである。ノクスは大事な話の途中だったのを思い出し、アルバスの脇腹を肘でつついた。
「もうすぐ白杉の山頂に着く。お前は降りたら王都に戻るんだぞ、アルバス」
アルバスは白々とした声で「あーああ」と言い、ふっと不敵に笑った。
「君も一緒ならそうする」
「アルバス!」
強くたしなめたノクスの背をアルバスは後ろから抱きすくめる。ノクスの肩の上に己の顎をのせ、ノクスの髪に半ば顔をうずめた。
「離れない」
今まで聞いた事もないような甘い声で、アルバスは耳もとに囁いた。ノクスは言葉を失う。
「なっ…………」
――なんという色気の無駄遣い。しかもなんだ、この体勢は……!?
「お前! 俺の師匠にさわんな!!」
咄嗟に異変を察してふり向いたルカが目を尖らせて喚いた。アルバスは動じない。
「でも、しっかり掴まえておかないと飛竜から落ちかねないよ、この人は。君は知らないだろうけど、ノクスは案外うっかり者だから」
「ノヴァ! 後ろの奴から離れて、ちゃんと掴まって! 飛竜のほうに!」
――なぜか俺が叱咤されている。
解せぬ、とノクスは想いながらも、飛竜にかけられた革紐を手首に巻き付けた。
「必要ないよ。俺が捕まえているから。それにもう着く」
アルバスはノクスの腰を左手に抱えたまま、下方に見える白杉を右の手で指さす。ルカは後ろの乗客に気を取られて目的地を通り過ぎてしまっていた。
ノクスははっとしてルカに声をかける。
「ルカ、旋回! 着地する。陽が落ちる前に野営しよう」
「は……はいっ」
ルカは手綱を引いた。飛竜は翼を傾けてゆっくりと旋回し、白杉の山頂に舞い降りる。翼を畳んでくつろぐ飛竜に、ルカはすっかり慣れた手つきで干し肉を与えた。
「ノヴァ、飛竜はもう俺の魔力の色を覚えたかな?」
「多分な。もう遠くから呼んでも来てくれるぞ。指の鳴らし方で指示ができる。『近くへ来い』『遠くへ逃げろ』の2種類だ」
「教えて! やってみたい」
無邪気に指鳴らしを練習するルカにノクスが顔をほころばせていると、アルバスがのっそりとやってきて肩に手を置いた。
「――ノクス、子供は飛竜が守ってくれる。俺達は魔獣除けをして、薪を集めよう」
ノクスはアルバスと森の中を歩きながら呪言をつぶやく。呪言はノクスの口をついて出るなり金色の糸のように連なって輝く環を作り、ふるふると震えたかと思うと、夕闇の中を一気に環を広げて駆けていった。
アルバスはノクスを振りかえって微笑む。
「いつ見てもノクスの術はおもしろいね」
「ただの結界だぞ」
「何度見ても飽きないんだ。君の術は、色が温かくて。また2人の旅に戻りたいな。君が大笑いして飛竜から落っこちそうになったり、池で水流を作ってぐるぐる回ったりしてるところ、もう一度見たい」
アルバスは鍛えた体を揺らして歩き出しながら話す。昔は底抜けにくだらない事もたくさんしたものだ。楽しかったけれど、今となってはもう戻れそうもない。
ノクスはどこか緊張してアルバスの後に続いた。
――こいつ、なんでついてきたんだ。まさか俺の事好きなのか? それとも相棒に対する謎の責任感を持っちゃっているのか? ともかく国に戻るよう説得しなきゃ。俺だってできる事なら結界守に戻りたいんだ。でも国境警備施設の破壊は重罪だ。まかり間違って反逆罪と見なされれば、死罪にも……。
「あのルカって子だけど」
アルバスは唐突に背中で言った。はっとしてノクスは居ずまいを正す。
「ん、ルカがどうした?」
「ノクスのことずっとノヴァって呼んでる。なんで?」
振り返ったアルバスの青い瞳が夕闇に光った。ノクスは落ち着かないそぶりで頬をかく。
「ノクス・フェリスは市井では『失恋して逃げた大賢者』って笑い物になってるんだぞ。恥ずかしいから、別人のふりをしてた」
「特別なあだ名じゃないのか」
「違うよ。とっさに考えついた偽名」
ふ、とアルバスは顔を和ませた。
「それなら、よかった」
「何がいいんだ。変な奴……。俺が大賢者だって事は内緒にしてくれよ。ルカは『大賢者様』に憧れてるんだって。憧れの人が俺じゃがっかりだろ」
「ふうん。じゃ、黙っておく。……それにしても、久しぶりだな。こうして2人きりで話すのも」
アルバスは暮れ始めた空を見上げて言う。
「王都ではそれぞれ邸宅を与えられたし、お前はいつも人に囲まれていたからな」
「寂しかった?」
アルバスはにこ、とノクスの顔を覗き込んで笑いかける。
「……!? な、なに言ってんだよ。べっ、べつに! 寂しくなんかはなかったけど!」
ノクスは口ごもり、赤面して目をそらした。口づけされた事を思い出したせいで、どうしてもぎごちない返答になってしまう。
「残念。俺は寂しかった」
アルバスはノクスの不自然な態度も全く気にしていないようで、あっけらかんと返してくる。
――これが人馴れした人間の圧倒的な『余裕』ってやつか……。
ノクスはどっと疲れながら答えた。
「そーかよ……」
「そうだよ。討伐ではいつも2人で野営してたのに、王都では屋敷も別だし、たまに式典で会ってもなかなか話せないし。……っていうか君、俺を避けてたろ」
ぎくり、とノクスは歩を止める。先を歩いていたアルバスは振りかえって、ノクスの進路を防ぐように大きな体で立ちふさがった。
じっと見下ろされて、ノクスは悟る。
――逃げられないな。
ふー、とノクスはため息を吐いた。
「隣に俺がいたらお前と話したい奴の邪魔だろ。おまけで話しかけられるのも辛い」
アルバスが多くの人に話しかけられる隣で、寂しく孤立する己の姿がノクスの心の目には見えていたのである。
アルバスは寂しそうな顔で聴いていた。ぽつりとつぶやく。
「そっか……邪魔者を追い払っておけば一緒にいれたんだ……」
「いやいや、そういう話じゃないから! 耳ついてんのか、お前!?」
ノクスは青ざめ、アルバスの腕を掴んで揺さぶった。アルバスはノクスよりよほど常識人なのにもかかわらず、時々変な話題で過激になる。
アルバスはしかし、揺さぶられながら幸せそうに笑う。
「耳ならついてるよ。ノクスの声を聴いてる」
「声だけじゃなくて内容を聞けよ」
「うん。――あのさ……2人になりたかったのには別の理由もあるんだ。昼間のこと謝りたくて」
――昼間……っていうと、アレか。
ノクスはぎしっと動きを止めた。アルバスの腕から手を離す。
「謝るっていうと……わかった。『あの話』は中止にしたいんだな?」
「いや。でも俺、強引すぎたと思って。君は嫌がってたのに、噛んだりして」
アルバスは目を伏せて押し殺すような息をついた。白金の絹糸のような髪がさらさらと夜風に揺れる。
「うん。噛み痕ついたぞ」
ノクスが真顔で答えると、アルバスはちらとノクスの首に目をやる。その視線がノクスの下肢に降りていくのを感じ、ノクスは体を固くした。
「……ごめん。焦ってた。怒ってもいた。君の発情期に薬もなく一人にしてしまうと思って、強引に休みをもぎ取って、急いで来たんだよ。そうしたらガルバが君の周りをうろついているし、勝手に弟子とか名乗る男が君と同じ屋根の下にいるし……無防備極まりないと思って、君にも腹が立って」
ノクスの眉がみるみる下がって八の字になった。
「俺は暴れる発作だと思ってたんだから仕方ないだろ」
「そんな事は俺が一番わかってるんだ」
アルバスは顔を伏せたまま言った。抑えた声だったが、その中に静かな怒りとわななきがある。ノクスは戸惑ってアルバスの顔を見上げた。
「わかってる。好きでもないカッシア嬢を口説いた俺も悪い。けど、君は俺を軽蔑したような目で見るし、挙句に俺から逃げた……。あれからカッシア嬢にはしつこく結婚を迫られたよ。なんとか振り切って必死で来たら発情期の君は男といる。頭が煮えたよ」
アルバスはかすれた声で呟いた。プラチナブロンドの髪で目が隠れて、表情が見えない。ノクスは親友の心労を理解しようと、アルバスの顔をおろおろと覗き込む。
「ルカは男っていうか、子供だけどな。お前も大変だったんだな。心配かけた。そこまで気にかけてくれてるとは思わなかったんだ」
虚ろな目をしていたアルバスは、温度のない青い眼を動かしてノクスに焦点を合わせた。ひくい声でつぶやく。
「『気にかけてると思わなかった』……?」
「ノヴァー!!! どこ行ったんだよお!」
半泣きで叫ぶルカの声が聞こえた。ノクスはハッとして身じろぎする。木立を駆けてくる足音がしたかと思うと、ルカがべそをかきながら姿を現した。
「ノヴァ~! 置き去りにしないでくれよ!」
ルカは体当たりの勢いでノクスに抱きつく。ノクスはルカを抱きとめて、「悪い悪い」と頭を撫でた。
「こわかったよお! 真っ暗だし、戻ってこないし!」
「ごめん、話し込んでたんだ。でも大丈夫だぞ、飛竜がいるだろう?」
「……」
アルバスはふいと横を向く。「あっ」とノクスはアルバスを見上げた。
「アルバス、ごめん。また話は改めて」
「……うん。薪を集めよう」
アルバスは黙々と枯れ枝を拾い集め、さっさと飛竜のいる山頂へ戻り始める。
――まずいな、まだ話の途中だったのに。
ルカは泣き止んだが、歩きながらもノクスの腕を掴んで離そうとしない。今は話せそうもなかった。
※ ※ ※
アルバスは早起きだ。小鳥が囀りを始める前から鍛錬に出かける。ノクスは白み始めた空を見上げて、目をこすった。アルバスの寝ていた場所はもう空になっていて、触れても冷たい。
まだ寝息を立てているルカを置いて、ノクスはそっと立ち上がった。虫の鳴く小川のほとりで顔を洗い、顔を拭くものがない事に気づく。
「ほら」
後ろから差し出された麻布を、ノクスは驚いて受け取った。振り返ると、革のサンダルを履いて立っているルカがいる。
「あ……ルカ、起きたのか」
「うん。あの男は?」
ルカは尋ねるなり隣にしゃがんでざぶざぶと顔を洗い始めた。
「アルバスなら鍛錬だよ。頂上付近まで走って、剣を振ってると思う」
ノクスは顔を拭いて、冴えわたる空を見上げた。今日はよく晴れるだろう。飛竜で飛ぶにはいい日だ。
「布、貸して」
ノクスが渡した麻布で顔を拭き、立ち上がったルカはノクスを正面からじっと見つめた。ノクスは戸惑う。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「……髪、ほんとは黒いんだね」
――あっ。
ノクスははっとして凍りついた。寝ている間に術が解けて、そのままだったのだ。
「キレイだ。そっちの色も好きだよ、俺」
「お……おう。ありがとう」
ルカは『なぜ髪色を変えていたのか』と尋ねはしなかった。じっとノクスを見上げたまま、ずばりと言う。
「あのいけ好かないガルバって奴、あんたの事を『フェリス子爵』って呼んでた。あんた、ほんとは貴族なんだ。アルバスって男は、あんたの事ノクスって。『ノヴァ』じゃないんだ。何で俺に嘘ついたの? ノクス・フェリス――『大賢者』様」
――バレた。
ノクスはぎくりとしてルカを見つめ返す。どうしてこんなにもすぐバレたのだろう。いや、疑問を抱くまでもない。ルカは大賢者のファンで、大賢者に関する新聞記事は欠かさず読んでいると言っていたではないか。もちろん名だって知っているはずだ。
何か言わなければと震える唇をひらくと、情けないくらいかすれた声が出た。
「は……恥ずかしくて。婚約者にフラれて逃げて……こんなのが大賢者なんて知ったら、ルカだってがっかりする……」
「全然、そう思わないよ」
ルカはノクスの手を掴んだ。
「むしろ、価値の解らない婚約者があんたをフッてくれた事に感謝さえしたよ。おかげで俺はあんたに会えたんだもの。ずっと憧れてた人に」
「いや……あの、大賢者とかいって、こんなので……思ってたのと違っただろ。嘘もついてごめん」
しょぼしょぼと俯いてノクスが謝ると、ルカはふふっと笑った。
「うん。思ったのとは全然違ぇや。コップ割るし、割ったやつ片すのにも手間取るし、宿屋でべそかいてるし」
――泣いてたのにまで気づかれていたのか。
ノクスは気まずい顔で眉を下げる。
「情けないところ見せたな」
「ううん。俺があんたの支えになりたいって思ったよ。これが俺の探してた運命なんだって」
さらりとルカは言って、顔を近づけた。強い語調で囁く。
「――あいつなんだろ。あんたの婚約者を盗ったの。白騎士アルバス・マクシマム。あいつが新聞に載ってない日はなかったよ。なんで追い払わないんだ」
――どこまで話していいか。
ノクスは言い淀んだ。獣毒後遺症についてルカにはすでに話してあるが、それは催淫作用なんてものがあるとは知らなかったからである。オーティス王陛下が直々に『大賢者』を貶めようとしている事を知ってしまえば、ルカはいずれ口封じに命を狙われかねない。
――ルカを巻き込みたくはないな。すでに巻き込んでしまってはいるが……。
「いろいろ事情があるんだ。アルバスは何も悪くない」
「そうは思えない。あんた、あいつのせいで泣いてたんだろ。なのにあいつ、あんたに平気でベタベタ触りやがって。その上、か、噛んだり――きっと婚約者を奪ったのだって、女にあんたをとられたくなかったからに決まってる」
ルカは憎々しげに毒づいた。
「それは違う」
ノクスはため息交じりにぼさぼさの髪をかいた。ルカは不満げな顔でノクスを見上げ、舌打ちして横を向く。ノクスはルカを宥めるように話しかけた。
「アルバスといればルカもあいつが良い奴だってわかる。それと、『あんた』じゃなくて、『師匠』な」
「俺も『ノクス』って呼んじゃ駄目? あいつみたいに」
ルカはそっぽを向いたまま言った。
「いいよ」
「――やった」
ルカはノクスを見上げてニッと笑うと、「朝飯の用意してくる」と一声叫んで駆け出していく。その後ろ姿を見送りながら、ノクスはほっとして微笑む。
――よし、オーティス陛下とのいざこざの事は口を滑らさずに済んだぞ。俺はただでさえアルバスに『馬鹿正直に何でも話す』と怒られているからな。うっかり発言には気をつけなくては。
そう意を決してノクスはふと青草の上に落ちる影に気づき、目を上げた。
――あ、魔鷺。
巨大な魔鷺が羽を広げ、身を低くして狙う先には走って行くルカの姿があった。地上には結界を張っていたが、空までは守れない。考える前にノクスの顎がかすかに上がった。人差し指を唇に当てる。
「風刃」
ノクスがつぶやくなり、幽かな風音が鳴って、飛んでいた魔鷺が一声、ギャアと鋭い叫び声を上げて落下してくる。薪を抱えていたルカが悲鳴を上げて避けた。
「なんだこれ!?」
「朝飯だ! まずいぞ!」
ノクスは小川から手を振ってにこにこ叫ぶ。
「魔鷺だ。子供を攫って食うので悪名高い奴だ。速くて矢も魔術も届かないから、討伐報酬も高額だって……それを杖なしで……? こんな簡単に……!?」
ルカは己の隣で絶命している魔鷺を見やって青ざめる。
アルバスが戻ってくると、ルカ製の魔鷺の串焼きと鷺の骨と野草のスープがふるまわれた。
3人揃うと微妙な空気が流れる。アルバスは昨晩からむっつりと黙り込んだままだし、ルカはアルバスへの態度がとげとげしく、警戒心剥き出しだ。ノクスが黙って味のしないスープを啜っていると、ルカが言い出した。
「あのさあ。……ノクスの獣毒後遺症ってやつの話だと思うんだけど。『催淫作用』って何」
――ぶっ。
ノクスはスープを噴き出しかける寸前で踏みとどまり、だらだらと口の端からこぼれたスープを手の甲で拭った。アルバスは黙って見ひらいた目をノクスへ当てる。
「ど……どこでそれを聞いた!?」
焦ったノクスが皿を置いて尋ねると、ルカは当然のように肩をすくめて言う。
「昨日飛竜の背の上で。ノクスとそっちの誰かさんが話してたのが聞こえたんだ。俺、耳だけはいいんだよね。……で、それ何? ノクスの症状の一つ?」
「お前が知る必要のない事だ」
アルバスは冷え冷えとした声でルカの疑問を断ち切ろうとする。
「へーえ……でも、俺は知っておかなきゃいけない事だと思うんだよね。王都に戻るあんたと違って、俺はずっとノクスの側にいて発作の間も面倒をみるんだから」
ルカは白々と言い返す。アルバスは地を這うような低い声で答えた。
「俺は帰らない」
「王都であんたの恋人が待ってるんじゃないの? ノクスから奪ったご令嬢が」
「何も知らないくせに」
アルバスは射殺しそうな目でルカを睨みつけたが、ルカも負けてはいなかった。
「だったら説明してみせろよ。ノクスの婚約者を盗るにはさぞかし壮大な理由があったんだろうな? あ?」
「ルカ! もうやめろ」
ノクスは見かねて止めた。
「婚約者の件はもう終わった事だ。獣毒後遺症の事なら俺が説明するから」
「ノクス」
アルバスの大きな手がノクスの腕を掴んだ。懇願するような瞳で、アルバスはかぶりを振る。
「……アルバスの心配もわかる。でも、もう隠しきれねぇだろ。ルカも身を護る必要がある」
ノクスが話し始めると、アルバスはきつく目を瞑って、苦痛に耐えるように顔を背けた。
「……まあそういうわけで、次の発作時には前回と同じく、俺から離れておいてほしい。治療がうまくいって発作が起きなければいいが」
ノクスがため息交じりに話し終えると、じっと聞いていたルカは目を丸くする。
「え、治るのか? じゃあ早く治療すればいいじゃないか。そういえば外国で無害になって平和に暮らすとか相手を探すとか言ってたけど、外国にしか治療薬がないのか? 相手って?」
ルカの矢継ぎ早な質問にノクスは答えようとしたが、アルバスが大きな腕でノクスの前を遮る。威圧するようにルカを見下ろして、重々しく告げた。
「……獣毒後遺症の治療法についてはこれ以上話せない」
「そんな事言って、あんたノクスの情報を独占したいだけじゃないのか。ノクスの管理者みたいに振る舞うのはやめろよ」
ルカは毒づいた。白騎士相手に怖いもの知らずもいいところである。ノクスは手を挙げる。
「二人とも落ち着け。――いい機会だから皆で今後の事を話そう。昨日の件については俺から王宮に連絡を入れた。『男爵に弓を向けられた飛竜がガルバ男爵を攻撃しようとし、それを避けた結果、管理施設が破壊された。怒った飛竜をなだめるため、数日間の飛行調整を行う』と」
――こんな報告がどこまで通用するかわからないけどな。国境警護の要である防御拠点を破壊したんだ。自分の家を壊すのとはわけが違う。
アルバスは「待て」と眉をひそめてノクスへ顔を向けた。ノクスの腕を掴む。
「『数日間の飛行調整』? まさか戻る気か? ――言ったはずだ。ステパノスにいては危険だ。このまま国を出ろ」
すかさずルカはアルバスに噛みついた。
「ノクスに命令するな! ノクス、俺はどこにだってついていくぜ」
ノクスはかぶりを振り、愁いに曇る目を伏せた。
「いや、国に戻る気はない。報告は時間稼ぎだ。明日近くの村で物資を調達したら、すぐにでも魔獣の森に潜って国外に出る。……やりきれねぇな。勝手に大賢者だの何だのと持ち上げたかと思えば、勝手に曲解して陥れにかかってさ。俺は討伐がしたいだけなのに」
ルカはじっとノクスを見つめた。
「……ノクスを陥れようとしてるのって誰? 王様? この白騎士サマも言ってたよな。『ノクスを傷つける王に仕える気はない』とかって」
――ああああああ!!
ノクスは瞠目してきつく唇を噛みしめた。失言するまいとさっきまでしっかり気を張っていたのに、案の定口を滑らせた!
「……な、何でもない。誰か個人を指して言ったわけじゃない。例えだよ、例え」
「手が震えてるよ、ノクス」
冷静にルカは言って、じっとノクスを見つめた。かと思えば、アルバスにふいと顔を向ける。
「王様がノクスを誤解して陥れようとしてるのか?」
「ああ。王に謀叛の意ありと見なされている」
黙っていてくれるだろうと思ったアルバスは正直に喋ってしまった。
――馬鹿正直に何でも言うなって俺にはさんざん言ったくせに!?
「アルバス、なんで全部話した!?」
「飛竜の背で聞いていたなら、もう推測はついているだろう。周囲の者が敵の正体をわかっていなければ、ノクスを守れない」
アルバスは目をそらしてそう言った。
「闘病しながら王様を敵に回して逃げるのは分が悪いよ。治療法があるならさっさと治しちまえばいい。発作さえなけりゃ、俺の師匠は最強なんだから」
ルカはきょとんとして手を広げた。ノクスは気まずい表情で口をつぐむ。ノクスの代わりに返答したのはアルバスだった。
「もちろん。ノクスにもその覚悟があるだろう? ね」
アルバスはかすかな微笑を浮かべて首を傾け、ノクスを覗き込む。
ノクスは頬を赤くし、ふいと顔をそらした。
「……ああ」
夢を見ていた。冬の林で、誰かと話す夢だ。
灰に曇る夕空から雪がちらほらと舞い降りて、目の前の青年の白金の髪の上で溶ける。青年は枯草の上に座って、空を見上げていた。
『家名は捨ててきた。父には言われたよ。「血の継承の重さを理解できない人間は必要ない。今後グラディウスを名乗るな」って。家は弟が継ぐ』
『馬鹿! なんで俺についてきたんだよ!? 俺はいいんだよ、討伐者になったって! 俺には家族も失うものもねぇ。お前は長子だぞ!? 継ぐ家があるくせに』
『なんでだろうね』
青年は白金の髪を揺らして微笑み、澄んだ青い瞳でノクスを見つめる。
『……忘れないで。俺はお前のたった一人の相棒なんだから』
ああ、これは旅に出る時にアルバスが言った言葉だ。ノクスは思い出す。二人で村を出て冬の林に座り、焚火の前で話した。
――アルバス。お前、よくも俺の夢に出てこれたな。何が相棒だ、この裏切者。寝てる間くらい忘れさせろ。
毒づきながらぼんやりと夢の続きを見ていると、高圧的な男の大声が階下から聴こえてくる。
「ここは国営の防御拠点だ、お前のような部外者の侵入は許されない! こちらにいらっしゃるはずのフェリス子爵はどこだ?」
――知らない人の声だ。ルカのとは違う、重い魔力の気配がある。魔術師だな。
「フェリス……? 人違いだ! ここにいるのは結界守のノヴァだ! 俺は部外者じゃない、ノヴァの弟子だ。……寄るな、近づくな!」
鋭く高いルカの声が響いた。階段の真下にいるらしく、声が近い。
己の名を呼ばれているのはわかったが、内容を理解できないまま、ノクスは寝がえりを打とうとして、動けない事に気づく。
己に魔鎖をかけていたのだった。
「弟子……? お前が?」
恐ろしくひくい声が響く。こちらは聞き覚えのあるすずしい声だが、今はしわがれてひび割れ、聴く誰にもわかるほどの不機嫌を滲ませていた。
――アルバス? ひどい声だな。あの常時爽やかな男が、こんな声を出すとは。
うつらうつらしながらも、ノクスの意識は次第に夢から現実に引き上げられる。
――待て、アルバスがいる? これは現実か? 俺は王宮に勤務地を報告している。捜索は必要ない。なぜアルバスが来る必要が……。
ノクスが混乱している間にも、階下での騒乱は続いている。
「『お前』じゃない、ルカだ! それ以上近づくな!」
ルカの決死の叫びと同時に、知らない男が平然と話す声が聴こえる。
「階段を庇っている。フェリス子爵は2階におられるようです。私が上がって確認しましょう」
「いや、駄目だ。この少年を捕えたら貴殿にも即刻退出していただきたい」
聞き覚えのあるアルバスの声が冷ややかにそう告げた。
「退出、ですか。マクシマム伯爵はいかがなさるおつもりで?」
「ここに残る。貴殿は王都へ戻られよ」
「戻れませんね。私はフェリス子爵のご容態を確認するよう命ぜられています」
「医師でもない貴殿が?」
「ええ、陛下直々の御命令で。フェリス子爵のお顔を見るまで、ここを去るわけには参りません」
長い沈黙の後、アルバスのすずしい声がはっきりと響いた。
「そこまで仰るならお止めしませんが、貴殿のお言葉通り、部外者は立ち入り禁止です。王属魔獣討伐隊の長たる私は許可を得ていますがね。滞在なさるなら外の森へどうぞ。ご退室願います、今すぐ」
うっすら慇懃に、しかし逆らいがたい威圧を籠めて、アルバスは宣告する。
誰かの舌打ちの音と同時に、ぎしっ、と床板を踏む音が聴こえた。切羽詰まったルカの声が叫ぶ。
「ダメだ! 誰も入れるなって言われてるんだ! ノヴァは俺が守る!」
凍てつくような静寂があった。アルバスの氷のような声が響き渡る。
「『守る』……? 彼を守るのはお前ではない。――『俺』だ」
ルカの叫び声やうめき声と共に、床に人が倒れるような重たい音が聴こえてくる。何かとてつもなくまずい事が起きているのに、体が動かない。
――ルカが捕まってしまう! 俺が説明しなければ……でも、動けない。
声だけでも出せないか、とノクスは喉の奥で呻いた。だがうめき声すら出ない。
ややあって、ルカの声も知らない男の声も聞こえなくなった。しんと静まり返る中、階段がぎし、ぎしと軋み、上がってくる誰かの足音が聴こえてくる。
――来るな、来るな! いや、待て。落ち着け。ここには常人は入れない。扉には内鍵がかかっているし、いつも以上に厳重に魔鎖をかけてある……。
ドォン、と地響きがして、ノクスは寝台が揺れるのを感じた。ひんやりとした新鮮な風が頬を撫でる。
――扉が……蹴り開けられた?! 俺の魔鎖を物理的に引き千切るなんて、そんな化け物じみた芸当ができるのは……いない、『白騎士アルバス』しかいない。
ノクスの背に冷や汗がじっとりと滲んだ。
アンバーの甘く柔らかな香りが鼻腔をくすぐる。聞き慣れた足音が近づいてくる。寝台が軋み、顔の両脇で沈んだ。眩暈がするほど濃く近く、アンバーが甘く香る。
――顔の両脇に手をつかれている。俺を見下ろしている……?
ノクスが結界守として管理施設へ向かう事は王宮に報告済みだった。アルバスもそこから知ったのだろう。放っておいてくれればいいものを、なぜ追ってきたのか。
尋ねたいのに声が出なかった。
――目が開かない。体が鉛のように重い。
「……こんな所にいたんだね。捜したよ、ノクス」
かすれた声が耳もとで囁いた。アルバスの髪がさらさらとノクスの頬に触れる。
――近っ!! アルバスお前、顔が近いぞ!?
もとから距離の近い男ではあったが、これはやりすぎではないだろうか。
アルバスの鼻先がノクスの頬に触れた。
――あ……。
ぞくっと鳥肌が立った。ノクスの首筋に、アルバスの唇がふれたのだった。
アルバスはノクスの首に口づけ、囁く。
「膚が粟立っている。ノクス、君、意識があるね。いつもの薬がないから、魔鎖で補強した? 俺に相談してくれればよかったのに」
――できるか!!
意識があるかどうか確認したいからといって、変なところに口づけないでほしい。
アルバスはノクスの胸の上に手を置き、するりと撫でる。
「俺がいるから、もう危険はないよ。魔鎖は解いておくね」
ぶちっと魔鎖の環が千切れる音がした。
――力任せにちぎるな……! 大型魔獣も拘束できる俺の魔鎖を素手でちぎるな!
ノクスが脳内で屈辱にわなないていると、頭上で紙包みを破るような音がした。
――何してるんだ……?
再びぎしっと寝台が軋み、ノクスは腹の上にアルバスの体の重みを感じた。アルバスの手で顎を持ち上げられる。
――え? 何……!? 何をする気だよ。
戸惑うノクスの唇にアルバスのつめたい唇が合わさり、歯列を割ってアルバスの舌がぬるりと押し入ってくる。苦い丸薬が喉の奥に押し込まれた。ノクスは咳き込みそうになり、パニックに陥る。
「飲んで」
アルバスは囁く。一瞬、唇が離れたかと思えば、またすぐにアルバスの唇が覆いかぶさった。冷たい水が喉に流れ込み、とどまっていた薬を胃へと押し流していく。
ごくりとノクスの喉が動いたのを、アルバスは確認した。
「飲めた? じゃあ、おやすみ。安心して。俺がいるよ。ずっと、隣に」
アルバスの手がノクスの頬をそっと撫でる。
――何も安心じゃねぇ! ……お、俺のファーストキスが……!
横たわったままノクスが衝撃に打ちのめされているうちに、すみやかにやってきた猛烈な眠気がノクスを無意識の闇へ引きずり込む。
ぶつりと意識が途切れた。
※ ※ ※
「……ノクス? 起きた?」
アンバーの甘い香りの中、ノクスはうっすら瞼を開けた。
「……アルバス?」
「そうだよ」
隣に座っていたアルバスに満面の笑顔で見下ろされ、ノクスはぎょっと飛び起きる。半身を起こして、事態を把握できずにきょろきょろとあたりを見回した。
「ルカは!?」
「誰?」
凍りついた笑顔でアルバスは問い返してくる。
「俺の弟子。逮捕したのなら解放してくれ。俺が勝手に連れてきたんだから、罰するなら俺を……」
ノクスは訴えて頭痛に顔をしかめ、頭を押さえる。小屋の外窓に重い魔力の気配が纏わりついている。どす黒いその魔力は部屋の中に入り込もうと手を伸ばしていた。
――鬱陶しい。
ノクスは額にかかる髪を振り払うついでに術を解く。
アルバスは固い笑みを浮かべたまま、鋭い目でノクスの顔を見つめる。
「……ふうん、弟子……。発作前後には俺以外の誰にも会うなって言ったよね?」
「なんでてめぇの言う事聞かなきゃなんねぇんだよ」
ノクスはつんとそっぽを向いた。アルバスは大きく息を吐く。
「わかった、その話はいったん置いておこう。今は先に話し合うべき事がある」
「カッシア嬢の話か? 俺に了承をとる必要はないぞ、さっさと婚姻届を出せ」
ノクスが顔を歪めると、アルバスはかぶりを振る。
「カッシア嬢への恋愛感情は一切ない、婚約披露宴で話した通りだ」
「よく言うぜ」
「結婚による魔術師への悪影響は周知の事実だ。なのに王がなぜ『大賢者』に結婚を勧めたか、不思議に思わなかったか?」
アルバスはじっとノクスを見つめた。ルカも同じような事を言っていた気がする。
――大賢者の血を継承させるためじゃないのか?
ノクスは働かない頭を振って、アルバスを見上げた。
「……何がいいたい」
「カッシア嬢から聞いた。王陛下は彼女に、大賢者フェリス・ノクスを骨抜きにするよう命じていた。新婚1か月目に魔術技大会を開き、大賢者のお披露目をする。その時に大賢者に他を上回る魔力が残っていたら、テンペスト家は取り潰し。ただし大賢者に恥をかかせる事に成功すれば、子爵家に引き上げてやると」
「……陛下はなぜそんな事を?」
凍りついたノクスの手をとり、アルバスは起き上がらせる。
「陛下はノクスに禁欲を破らせ、魔術技大会で恥をかかせて『大賢者』の称号を奪うつもりだったんだ」
「な、何のために……? おかしいだろ、そもそも大賢者の称号は……陛下に賜ったんじゃねぇか……」
ノクスは問うて言葉を失った。
――命を賭して魔獣を討伐してきた。それなのに、王は俺を潰そうと?
アルバスはきつい目でノクスを見据える。
「ノクス。君、謁見の時、馬鹿正直にデドラ変異種の獣毒後遺症について王陛下に話しただろう」
「仕方ないだろう。式典の日が発作とかぶったんだ」
「言ってはいけなかった。デドラ変異種の獣毒後遺症は……」
アルバスは言葉を切って俯いた。
「暴れるんだよな?」
「ちがう。……それも話す。デドラ変異種の獣毒後遺症は、噴出液を浴びた者が強烈な催淫作用を発揮する事にある」
「え……? だって、ずっと『暴れるから鎮静剤を飲め』って」
――今まで言われてきた事と違う。
ノクスは凍りついた。アルバスは髪をかき上げて長い息をつく。
「君には受け止めきれないと思ったんだ。前例は一件だけ。それによれば、デドラ変異種は噴出液で敵の体質を変え、強烈な催淫作用のある性フェロモンを『敵から』分泌させる。そうして敵を仲間同士で発情させる事によって攻撃性を奪うんだ。君はまともに噴出液を浴びたから、発作中に誰かれなく発情させる恐れがあった。鎮静剤でも飲ませて監禁しない限りは」
――そんな馬鹿な。
「……お前今の話、嘘じゃねぇだろうな……」
固まったまま言うノクスの手を、アルバスは掴んだ。
「疑うなら弟のマリウスに問い合わせるといい、獣毒後遺症の資料を送ってくれる。今はまず事情を聞いてほしい。謁見でノクスの姿を見たミラ王妃殿下は、何もかもかなぐり捨てて君に惚れてしまった。妃殿下は陛下のお通りも断り、君の絵姿を眺めて一日を過ごしているそうだ。嫉妬に狂った陛下の耳に、『大賢者はその容姿と催淫術によって有力者の支持を集め、平民による叛逆を狙っている』と囁く者がいたんだ。さしずめ傾国の魔術師だな。『清廉なる護国の大賢者は、王よりも王らしい』と平民出の大賢者を祀り上げる動きが、民の中では根強い。それも災いして疑いは強まった」
何もかも初耳である。
「誰から聞いたんだよ、その話!? 妃殿下には一度しか拝謁してないぞ!?」
「カッシア嬢が陛下から聞いた話だ。一目惚れだそうだ」
――一目惚れ!? 隣にいたアルバスと間違えてねぇか!?
ノクスは絶句する。ミラ妃は18歳で母国ヴァースティタースから輿入れしたものの、未だ子宝に恵まれていない。高齢のオーティア王と亡くなった先妃との間にはすでに王太子と王女がいる。不満があって気紛れに恋でもしたくなったのかもしれないが、王に恨まれるノクスにしてみればとんだ災難である。
「君にはもう大賢者の称号と爵位を与えた後だった。陛下は今になって、君を無能にするか、民草の人気を失墜させるしかないとお考えだ」
アルバスは小声で囁いた。
「……結婚は俺の魔力を奪って失脚させるため?」
「その通り。だから俺はそんな結婚を認めるわけにはいかなかった。監視の目が厳しくて、君に話す事もできず……いっそ公の場で全てを台無しにするしか」
アルバスの決意に満ちた瞳を見て、ノクスはそれが嘘ではないと悟った。わざとカッシア嬢を誑かしたのだ、この男は。
ノクスは目を閉じ、長いため息をつく。
「……そうか。わかったよ、アルバス」
「怒らないのか。君の婚約者に色目を使ったのに」
アルバスはじっとノクスを見つめる。
「怒ってほしいのか?」
「……『どうでもいい』みたいな顔をされるよりは、君に怒られたい」
アルバスの声がぎごちない。アルバスなりに悪い事をしたとは思っているらしい。
――それなりに腹が立ってはいたんだけど、事情を聞くとな……。まあ、俺に怒られて気がすむなら、怒ってやるか。
ノクスはもう一度ため息をついた。
「お前、何人目だよ、俺の好きな人盗るの」
「5人目」
「聞きはしたけど、正確に答えてもらえるとは思わなかったぞ。まさか俺が好きな人の事、全部気づいてたとか言わねぇよな」
「うん。アミカ、クララ、ヘレナ、ユリア、それからカッシア嬢」
アルバスは当然のような顔で頷き、無表情に名前を述べる。
「……ええ!? じゃあ全員!?」
ノクスはかっと熱くなる頬に自分でも動揺して、思わず左腕で顔を隠す。
「君を見ていればわかる」
アルバスは静かに言った。魔術師の職業倫理として恋愛には淡泊なふりをしてきたのに、すべて気づかれていたのかと思うと真面目に恥ずかしい。
赤面したノクスは「んんっ」と喉で咳払いして、目をそらす。気を取り直して怒り直す事にした。
「……まあ、俺もわかってるよ。お前は別に俺から奪ったわけじゃねぇ。皆がお前を選んだだけだって。でもな、カッシア嬢は仮にも俺の婚約者だ。『元』だけど。俺の前で抱きしめなくてもいいだろ」
「ごめんね」
アルバスはノクスの目を見つめて静かに謝った。
アルバスに怒っても意味はない。悪くないアルバスに謝られてもしかたないのだが、少し心が凪いだ。ノクスは苦笑する。
「……あー、馬鹿みてぇ。なんだこの茶番。謝るなよ、お前のせいじゃない。俺に魅力がなかっただけの話だ」
「ノクスには魅力あるよ。……カッシア嬢のこと、好きだった?」
まっすぐに見つめられて、ノクスは目をそらした。怒っておいてなんなのだが、カッシア嬢にそこまで惚れていたわけではない。
「……うん、まあ……二度とこない結婚の機会だから大事にしようとは思っていた。今は好きじゃない。ほんとは元から好きじゃなかったのかも」
アルバスはほっとしたように顔を和めた。良心の呵責が和らいだのだろう。
「それならよかった。だが、王はまた次の手を打ってくるはずだ」
真剣な顔で囁かれ、ノクスは首を傾げた。
「俺の悪評ならすでに広まっている。『横恋慕の老賢者』だからな。しかも華の王都から辺境の結界守に都落ちだ。陛下も目的は達成したんじゃないのか?」
「いいや。君は魔力を保ったままだし、結界守は国の要だ。国の命運を君に半分握られたようなものさ。かといって退職させれば目が届かなくなる――恋愛沙汰で貶めても大賢者の名声はまだ世に轟いているしね」
「また俺の評判を落としにかかってくるかな?」
ノクスは顔をしかめる。アルバスはかぶりを振った。
「たぶん次はもっと悪い。妃殿下の件もあって、陛下は君の催淫作用を危険視している。俺の生家のグラディウス伯爵家は最近、王家に請われて情報を提供したらしい。……デドラの催淫作用を無効化する術が1つあると」
ノクスはきょとんとして目を見開いた。
「そんな方法があるのか? なんで先に俺に教えてくれなかったんだ。さっさと無効化すれば発作に煩わされずに済むのに」
「君に究極の選択を迫る事になるからだよ」
アルバスは片手でノクスの胸にふれた。ひとつ息を呑んで、言う。
「……君を『雌化』する事。女ではなく、男と性交させる事。それが催淫作用を無効化させる方法なんだ」
――はああ!?
ノクスは目を見開き、赤くなってぶんぶんとかぶりを振った。
「せっ……!? 俺は禁欲が身上の魔術師だぞ!?」
「だとしても、自ら雌化しなければだめだ。陛下は君を犯させて催淫作用を取り除き、弱みを握り、脅す気で男を雇っている」
ノクスの胸へ置いたアルバスの手にぐっと力が籠もった。ノクスは叫ぶ。
「俺がそんな奴らにやられるか!」
「昏睡状態でも? 君は1か月に一度、完全に無防備になるんだぞ」
う、とノクスは動きを止める。
「そ、それは……鎮静剤を飲まなきゃいいんだよ! ……そうだよ、なんで鎮静剤なんか飲んでんだ? 襲ってくる奴らを、起きて迎え撃てばいいだけだろ」
「起きていれば君も発情状態になるからだよ」
冷静にアルバスは答えた。
「俺が!?」
「君が。デドラを討伐した日の事、君が覚えてなくとも俺は覚えてる」
アルバスにじっと見つめられ、ノクスはぎごちなく尋ねた。
「もしかして……お、俺、お前に何かした……?」
「何かはしたよ。詳しく聞きたいか?」
ノクスは青ざめ、ふるふると首を振った。アルバスはため息をつく。
「……発情状態では記憶がなくなるのも問題だ。あの場にいたのが俺だったからよかったが、居合わせたのが別の人間だったらどうなってたと思う」
ノクスはぞっと体を震わせる。アルバスは獣毒緩和作用のある香水と持前の腕力で、なんとかノクスを躱したに違いない。
「……すまない……迷惑かけた……」
「ノクスに関する事は迷惑だと思わない。君は俺の相棒なんだから、君の問題は俺の問題だ」
こともなげにアルバスは言った。
――こいつは顔だけじゃなく、心も男前だな。
ノクスはほうと息をついて、天井を見上げる。
「……それで急いで来てくれたんだな? 俺が発作中襲われかねないから」
「ああ。そしたら王派のガルバ男爵に出くわした。暗黒街上がりの魔術師だよ」
――昏睡中に聞こえたあの高圧的な声の男か。重くて薄暗い魔力の持ち主だ。
「さっき盗聴の術をかけてたのはそいつの仕業だな。まさか王が俺の雌化のために雇ったのも……?」
ノクスは眉をひそめた。アルバスは無表情に頷く。
「だろうね。あの男は『容態』と言った。君が発作を起こす時期だと知っている。君の獣毒後遺症はグラディウス家と陛下しか知らないのにもかかわらずだ。陛下は君の発作中を狙って奴を寄越した。あの男を使って君を凌辱するつもりだったんだ」
そう呟くアルバスは身じろぎも瞬きもせず、見ひらいた薄青の瞳を虚空に据えている。ぎりりと噛みしめた歯列の間から、震えるような怒りの息が漏れた。
「だとすれば失敗だな。俺はこうして無事だ」
ノクスは宥めたが、アルバスは落ち着くどころか、眉間に深い皺を刻んだ。
「発作はまた来る。その度に男共が君を狙うんだ。想像するだけで気分が悪い」
アルバスはかすれた声を震わせる。ひどい顔色だ。
――こいつ、本当に優しいな。人事でこんなにも心身をすり減らしていては気が休まらないだろうに。
ノクスは己の身の危険も忘れてアルバスが心配になってきた。
「心配ないぞ。俺、これでも一応大賢者だから。なんとかする」
「どうやって? 結界守は自由時間勤務の代わり、休暇もない。敵に発作周期と所在が筒抜けで、助けも呼べない山中の管理施設にいて、君は昏睡状態だ。どうやって逃げ切るつもりだ。ノクス」
アルバスはぎらと目を光らせてノクスを見据えた。
――こ、怖い。
しかし、アルバスの言う事ももっともである。今回はアルバスが無理やり来てくれたから何とかなったが、次からはそうはいかない。王属魔獣討伐隊の総司令官でもあり、白騎士として社交もこなすアルバスは、ノクスよりよほど忙しい。ノクスの発作の度に3連休して護衛にあたる事を頼める相手ではない。
ノクスは空笑いで答える。
「はは、そうだな! 術で罠でも作っておくか」
「魔術師による人への討伐魔術の使用は法で禁止されている。君が裁かれる。そうなれば王の思うつぼだ。第一、眠った後も維持できる術はそう多くない。君ほどの使い手でも魔鎖が限度だろう?」
アルバスは無表情に一刀両断する。ノクスは目を泳がせる。
「よくご存じで……」
アルバスは吐き出すように大きく息を吐いた。
「君が結界守になりたかったのは知ってる。でも、無理だ。もう無理なんだよ。頼むから、国外に脱出してくれ」
ノクスは息をつめてアルバスの顔を見た。アルバスの瞳にはノクスの望まぬ事を告げなければならない痛みが滲んでいる。
ノクスは目を伏せ、ぽつりと呟く。
「……そうか」
長い沈黙の後、アルバスはぎゅっと目を瞑る。
「――方法が、ないわけじゃない」
「あるなら教えてくれ」
ノクスは即答した。だがアルバスはひどく言いづらそうに目をそらす。
「教える。教えるが……その前に、悪いが頼まれてほしい。グラディウス家が王家に伝えた情報を俺に教える見返りとして、父から要求されているんだ。……君の、身体検査を」
――身体検査ぁ!?
ノクスは目を丸くした。首をかいて思案する。
「ああ……つまり、獣毒による身体変化を調べたいと? 別に女にはなってないぞ」
「胸が出たり男の大事なものが消え失せたりはしないし、完全に雌化したとして、子を産む機能は備わらないよ。デドラにとって敵の繁殖はマイナスでしかないからね。ただ、攻撃性が減じて発作もなくなり、体が……すすんで性交を受け入れるように変化するようなんだ」
――いったい全体どこがどうなるんだ、とは聞きにくい。
ノクスの顔は引き攣った。
「へ……へ~…………」
「催淫作用の伴う発作を何度も経験している君が、まだ雌化していない事が父は信じられないと言うんだ。いくら禁欲的な魔術師でも、発作中は理性を失う。もう誰かとその……行為はしただろうと。きちんと調べてこいと言われた」
アルバスはややこわばった声で言った。
「俺に許可しろと?」
こく、とアルバスは頷いた。アルバスにしては珍しく緊張の見える仕草に、ノクスはため息をつく。
「律儀だな。寝ている間に勝手に調べればいいだろ」
「勝手に触っていい場所じゃない。嫌だと言われたらしない」
「はいはい、好きにしろ。何を調べるんだ? どこでも好きに見ろ」
ノクスは息をついて仰向けに横になり、四肢を投げ出した。アルバスはそっとノクスの下履きに手をかける。
――まあ、そこしか無いだろうな。
予測はしていた。ノクスは目を閉じ、下着を親友の手で脱がされる羞恥に耐える。
「……デドラ変異種の獣毒被害の前例はほとんどない。ノクスは貴重な症例だ。先日発作が来たという事は、雌化は完了していない。獣毒のみでどこまで雌化が進むか調べたいんだ。……君はここに男のものを受け入れた事はあるか?」
アルバスは小さな声で呟きながら、ノクスの尻の間を手でさぐった。
「あるわけないだろ」
ため息をつきながら、ノクスは体を硬くして目をぎゅっと瞑る。アルバスの低い声が囁く。
「本当に誰とも性交していないね?」
「当たり前…………っ」
アルバスはノクスの秘部にぬっと指を挿し入れた。中で蠢くアルバスの指に、ノクスは思わず「ひっ」と声を上げる。
「痛いか?」
「いや……ただ、違和感が……」
「そうか。動かすぞ」
ぬるり、とアルバスの長い指がさらに奥へ入っていく。
「や…………」
奇妙な熱い感覚がノクスの下腹部に走った。痺れるような甘い快感が、アルバスの指から伝わる。
「きついが、濡れている。雌化の準備段階だ。快感はあるか?」
アルバスは囁いた。
「やめろ……! 動かすな」
「動かさなければ調べられない」
アルバスの指が中で停まり、それからぐいと奥へ進む。
「言って。快感はあるか?」
「あ……ある……」
ノクスがあえぐようにして言った途端、ごくっ、とアルバスの喉が大きく鳴った。
アルバスが荒い息をついている。ノクスの奥深くに右の指を挿れたまま、左手で太腿を掴んで彼は言った。
「……ノクス、ひとつ提案がある」
「何だ」
「『雌化が完了している』と俺が報告すれば、きっとその情報はグラディウス家から王家に伝わる。発作も催淫作用もなくなり、君に隙がないとわかれば、少なくとも性的に君が狙われる事はなくなるはずだ」
「虚偽を報告するのか?」
「違う。つまり、俺が君の『雌化』を完了させれば」
「! それって」
さらに奥へアルバスの指が進んで、ノクスは「あっ」と背をのけぞらせる。
「俺に抱かれるのは嫌か? ノクス」
「ちょっと……待て……!!」
アルバスは指をいれたままノクスの上にのしかかり、ノクスの顔を覗き込んだ。
「他に方法がない。……他の男に無理やり犯されるより、俺の方がマシだと思う」
「それも陛下の命令か? それともグラディウス家の?」
そうノクスが訊いた途端、アルバスの美しい顔が歪んだ。
「違う。天に誓って! これは俺の……個人的な!」
「つまり放っておけば犯される相棒を憐れんでの事か?」
「違う……」
アルバスは目を閉じて顔を伏せる。おそらくアルバスの父の差し金だろう。身体検査は口実で、アルバスにノクスと深い接触をさせてノクスを雌化し、『無害』にしたかったのかもしれない。
「……わかった。発情期が来る度に来て守ってもらうわけにもいかないしな。どうせお前は王都に戻るし、気まずくても顔を合わせずに済むよな。『雌化』は一度で終わるのか?」
ノクスはアルバスの髪にそっと触れた。優しい幼馴染が苦渋の決断でこんな事を言い出したのは想像がつく。
「……まだ……はっきりとは。でも発情期は短くなるはずだ」
「そっか。でもお前、俺に勃つのか? 無理なら他を探すけど」
アルバスは青い瞳をぎらと光らせてノクスを見下ろす。冷ややかな声が降る。
「『他を探す』とは? 相手のあてがあるのか?」
「へっ……? あるわけないだろ」
怪訝な顔のノクスの唇に、アルバスは噛みついた。アルバスの熱い舌がねじ込まれ、ノクスの舌に絡みつく。ノクスは驚いてアルバスの胸を押しのけた。
「っ……やめろ! そんな事まで……」
「『いい』と言っただろ」
アルバスはノクスの耳もとで囁き、その首筋に歯を立てる。強く吸い付いた。
「ああっ!」
「痕を残す。誰の目にもわかるように」
声を立てていい、とアルバスは口づけの合間にノクスに囁いた。
「どうせガルバは聞き耳を立てている。大きな声であればあるほどいい。あの男に聞かせろ。王の耳としてそこに居るなら役に立ってもらうさ。『雌化』を証言させる」
「嫌……だっ」
「自分で無理なら、俺が出させる」
アルバスはノクスの太腿の付け根に噛みついた。
「ああっ!!」
噛み痕を舌で舐られ、ノクスはもがく。寝床から逃げようとするノクスの腰を、アルバスの太い腕ががっしりと引き止めてシーツの中に引き戻した。
「逃げちゃ駄目だ。まだ始まってもいないよ」
「この馬鹿……っ!」
――嫌だ。いやだいやだいやだ。嬌声を聞かれるなんて、とんでもない。俺は腐っても魔術師だぞ。
その時だった。必死の声がノクスを呼んだ。
「ノヴァ……! ノヴァ、今の声は!? 無事か!?」
――俺をノヴァと呼ぶのはルカだけだ。でも、この声は上空から……?
ノクスはハッと顔を窓へ振り向けた。窓の外に銀色の光が煌めき、一閃する。
「飛竜に乗ってる!?」
がばっとノクスが体を起こした瞬間、ぱりんと窓が割れ、屋根の丸太がばらばらと吹き飛んだ。丸太の落下と共に上がった叫び声は、ガルバ男爵のものらしい。
ルカはまだ操縦に慣れないらしく、一度小屋を離れた飛竜は青空をぐるりと旋回して戻ってくる。その模様をノクスは屋根のなくなった2階から、茫然と眺めた。
「……やるなあ、ルカ……かなり乗りこなしてるぞ」
「感心してる場合か! ノクス! 服を着ろ」
アルバスは鬼の形相でノクスに下着を履かせ、ノクスを背後から抱きすくめた。
「ちょ、アルバス、離せ……!」
ノクスは焦って振り返ったが、アルバスの青い目は完全に据わっている。
「離さない」
旋回して戻ってきた飛竜の背から、ルカは決死の顔で腕を伸ばした。
「ノヴァ! あの男が弓で狙ってる! 早く乗って!」
ノクスは飛竜の形相が変わっているのを見た。地上を睨みつけて牙を剥き、開いた口腔内に炎の息吹が見える。ノクスは顔色を変えた。
――飛竜が怒っている。弓で狙われたせいか!? まずい、ガルバが殺される! 人を殺した魔獣は殺処分にされてしまう。飛竜をガルバから引き離さなければ。
「飛竜の首を反対に向けろ! 今行く!」
ノクスはアルバスを振りほどこうとした。だがアルバスの腕はびくともしない。アルバスはノクスを片腕に抱えたまま、床を蹴って跳躍した。
「あっ……!?」
ルカは信じられないという顔で振り向き、手綱を引く。飛竜は放ちかけた炎を手綱に遮られて首を振り、ガルバ男爵が放った弓矢を焼いて上空へと舞い上がる。
「アルバス! なんでついてきた!?」
ノクスは風の音に負けないように、大きな声で喚いた。アルバスはノクスを抱えたまま飛竜の背にしっかりと掴まり、返答しない。
「ノヴァ! そいつ、突き落とせよ!! ノヴァに酷い事をしたんだろ!?」
ルカは飛竜の首に齧りついて叫んだ。ノクスはどう説明したものかと口ごもる。
「いや、噛まれただけ! ……こいつ……アルバスは俺の幼馴染だから!」
ルカはぎっと後ろを振り返った。ノクスの首筋にある鬱血した噛み痕に視線を当て、血走った眼で唇を噛みしめる。
「幼馴染……あの!? 怪しいと思ってたんだ。きっと今までだって、ノヴァが寝てる間にいかがわしい事をしてたに決まってる! 俺の師匠を汚しやがって!」
「違うぞ!? それにルカ、今はそれどころじゃない!」
ノクスは声を限りに叫んだ。
「操縦が衝動任せじゃ、飛竜も迷惑だ。どこまで上昇させるつもりだ、手綱で首を締め上げるな!」
はっ、とルカは握りしめた手綱を緩める。ノクスは続けて指示を出す。
「落ち着け。飛竜の首を水平に戻すんだ。東へ向かう」
「ノヴァ……東って、どっちだかわからない」
ルカの手が震えているのを見て、ノクスは後ろから一緒に手綱をとろうとした。
――いくら肝が据わった子でも、飛竜の操縦は初めてだ。それに人から弓で狙われた。動揺の中、この高度で飛ぶのは怖いに決まっている。
だが手を伸ばしたノクスの腰を、アルバスがとらえて引き戻した。張りのある声でルカに命じる。
「右手に見える白杉の山頂に向かって飛べ。――これも経験だ」
最後の台詞だけはノクスの耳もとで囁く。
かっとなったようにルカは叫んだ。
「お前が指図するな! 俺の師匠はノヴァだ、俺はノヴァの命令しか聞かねえ!」
「落ち着け、アルバスの言う方角で合ってる」
ノヴァは頭痛をおぼえながら声を張り上げる。ルカはしぶしぶ、「それなら」と飛竜の首を東に向けた。
――怒りが恐怖をかき消したな。ルカの手の震えが止まっている。
ノクスはほっとして肩の力を抜く。アルバスが指示してくれて、かえってよかったかもしれない。
「……で、アルバス、どういうつもりだ? 白騎士が一緒に逃亡してどうする」
「今日限りで騎士は辞めて討伐者に戻るよ。ノクスを傷つけるような王に仕える気はないから」
「グラディウス家にまで類が及ぶぞ」
ノクスは頭上のアルバスの顔を振り仰いだ。アルバスは眉を寄せ、きっと唇を噛みしめている。わかっているのだ。
『白騎士が大賢者と共に逃げた』『白騎士は大賢者と同じく革命派だったのだ』『白騎士の生家グラディウスも、密かに息子と共謀し謀反の機会を窺っているのではないか』――王家にそう疑われれば、グラディウス家も没落を免れない。
「……グラディウスの家名は捨てた」
「お父上と弟は? 王家に伝えた情報だって、教えてくれたのはお父上なんだろ?」
アルバスは黙ってしまった。ノクスはため息をついて、アルバスの厚い胸板にとんと頭をもたせかける。小さく囁いた。
「途中で降ろす。俺達を引き戻そうと竜に飛び乗ったが、振り落とされたと言え」
「嫌だ」
アルバスは即答する。
「我儘言うな。『白騎士アルバス』はいるだけでもステパノス王国の国威発揚になる存在なんだ。見目も人気も、実力も極上。そんな存在をみすみす失って、王国が黙っているわけがない」
「……君だってそうだろ。一人で逃げ切れると思っているなら、見通しが甘いよ」
「一人じゃない、ルカがいるよ。俺は魔獣さえ討伐できればどこだって暮らせる。魔獣のいない王都では所在がなかった。外国でのんびり弟子を育てるっていうのも楽しそうじゃないか? 討伐魔術の私塾作っちゃったりしてな!」
ノクスはふふふと笑った。アルバスがノクスを掴む手にぐっと力が籠もる。
「……嫌だ。君の相棒は俺だ」
「もちろん、ずっとそうだろ? お前は相棒で、ルカは弟子」
ノクスはこともなげに言った。
「君はわかってない。君の隣は俺の場所だ。他の誰かにいてほしくない」
「仕方ないだろ。俺は追われる身だし。でもずっと相棒はお前だけだよ」
ノクスは穏やかにアルバスの手に己の手を添えた。
「そんな……」
「何?」
アルバスの声が風音に紛れて聴き取りづらい。ノクスは聞き返した。アルバスの怒号があたりに響き渡る。
「そんな綺麗事じゃ、オレは騙されない!」
「頭、かってぇな! 何て言えば納得するんだよ」
ノクスはびりびりと鼓膜に響くアルバスの大声に肩をすくませて耳を庇い、言い返す。
「言葉はいらない。行動で示してくれ」
「行動? って言ったって……」
ノクスは首をひねった。
「君の言う通りにしよう。だけど必ず迎えに来る。だから」
アルバスは突然、ノクスの耳に唇を寄せた。囁く。
「俺以外の誰にも抱かれないで」
――うわあぁあああぁ!
ノクスは耳までかっと赤くなった。口説かれていると勘違いしてしまいそうだ。アルバスは生まれながらに麗しい容姿をもつ上に、普段からこういう言動だから無分別に全方位から惚れられるのだ。これだからモテる男は。
「ば……ばか。耳もとで言うな、気持ち悪ぃ」
「大声で叫ばなきゃだめかな」
「やめろ!? ――俺は待てねぇ。一刻も早く治療したいんだ。相棒だからって何もかも俺の面倒みる必要ないぞ。心配するな、相手さえ選べば問題ない。俺は無害になって外国で平和に暮らすから、お前も下手な事考えずに――」
ぶん、とアルバスが恐ろしい勢いで右腕を振った。ノクスはびくっとしてアルバスの腕を見る。
「――どうした?」
「ごめん。話、聞こえなかった。霧に隠れて魔蜻蛉が近づいてきてたから、剣を投げたんだ。気づかなかったかい?」
アルバスはにっこりと笑ってノクスを見下ろした。目が笑っていない。いつもに増して笑顔が怖い。
「あ……ああ……そう……ありがとう」
巨大な魔蜻蛉がアルバスの剣に串刺しにされ、虹色の羽根を震わせながら森の中へ墜ちていくのが眼下に見えた。飛竜の隙を窺ってノクスたちに襲い掛かろうとしていたのだ。
アルバスは薄青の瞳を細めた。
「ノクス、俺はやっぱり心配だな。君はさっきの魔蜻蛉にも気づかなかったし、人を見る目もないし」
「失礼な。見る目があるからお前といるんだろ。さっきは大事な話の途中だったからだ! 近づかれても魔蜻蛉くらい倒せるぞ」
アルバスはゆっくりかぶりを振った。
「いや、決めた。やっぱり俺はノクスに同行する。離れていたら相棒とは言えないからね」
「え? なんで……いや、お前、国に戻れよ!?」
――グラディウス家を没落させるつもりか、こいつは! グラディウスのお父上は勘当後もアルバスに協力してくれてただろ。アルバスもなんだかんだ言って家族に絆を感じていると思ったのに。
説得しようとノクスが口を開こうとした途端、手綱を握るルカが悲鳴を上げた。
「魔蠅の集団だ! さっきの魔蜻蛉の死骸にたかってる。こっちに来る!」
見れば森から浮き上がって来た魔蠅の一群が、黒い煙のように波立ちながら、わあんと唸りを上げてこちらへ向かってくるのが見えた。アルバスは張りのある声で指示する。
「飛竜を停止させろ! ……ノクス!」
「おう」とノクスは落ち着いて、上着から杖を取り出した。
「羽を焼く。――焼き払え、『業火』!」
焦げ臭い匂いの漂う茜空を、飛竜は羽ばたいてゆっくりと横切った。鈍色の羽を焼かれた魔蠅たちが、ゆっくりと森へと燃え落ちていく。
「……すっ……げえ……ええええ……!」
ルカは手を震わせ、目を潤ませてノクスを振り返った。
「あんなでけぇ魔蠅の群れをっ……!! あんな火力、物語でも見た事ねえ!」
「落ち着け。前を向いて操縦してくれ」
ノクスは慌てて手を挙げてルカを制止する。ルカはおとなしく前を向いたが、興奮冷めやらぬ様子だ。
「俺の師匠はすげぇよ……!」
「ふふん、だろう」
なぜかアルバスまで得意げである。ノクスは大事な話の途中だったのを思い出し、アルバスの脇腹を肘でつついた。
「もうすぐ白杉の山頂に着く。お前は降りたら王都に戻るんだぞ、アルバス」
アルバスは白々とした声で「あーああ」と言い、ふっと不敵に笑った。
「君も一緒ならそうする」
「アルバス!」
強くたしなめたノクスの背をアルバスは後ろから抱きすくめる。ノクスの肩の上に己の顎をのせ、ノクスの髪に半ば顔をうずめた。
「離れない」
今まで聞いた事もないような甘い声で、アルバスは耳もとに囁いた。ノクスは言葉を失う。
「なっ…………」
――なんという色気の無駄遣い。しかもなんだ、この体勢は……!?
「お前! 俺の師匠にさわんな!!」
咄嗟に異変を察してふり向いたルカが目を尖らせて喚いた。アルバスは動じない。
「でも、しっかり掴まえておかないと飛竜から落ちかねないよ、この人は。君は知らないだろうけど、ノクスは案外うっかり者だから」
「ノヴァ! 後ろの奴から離れて、ちゃんと掴まって! 飛竜のほうに!」
――なぜか俺が叱咤されている。
解せぬ、とノクスは想いながらも、飛竜にかけられた革紐を手首に巻き付けた。
「必要ないよ。俺が捕まえているから。それにもう着く」
アルバスはノクスの腰を左手に抱えたまま、下方に見える白杉を右の手で指さす。ルカは後ろの乗客に気を取られて目的地を通り過ぎてしまっていた。
ノクスははっとしてルカに声をかける。
「ルカ、旋回! 着地する。陽が落ちる前に野営しよう」
「は……はいっ」
ルカは手綱を引いた。飛竜は翼を傾けてゆっくりと旋回し、白杉の山頂に舞い降りる。翼を畳んでくつろぐ飛竜に、ルカはすっかり慣れた手つきで干し肉を与えた。
「ノヴァ、飛竜はもう俺の魔力の色を覚えたかな?」
「多分な。もう遠くから呼んでも来てくれるぞ。指の鳴らし方で指示ができる。『近くへ来い』『遠くへ逃げろ』の2種類だ」
「教えて! やってみたい」
無邪気に指鳴らしを練習するルカにノクスが顔をほころばせていると、アルバスがのっそりとやってきて肩に手を置いた。
「――ノクス、子供は飛竜が守ってくれる。俺達は魔獣除けをして、薪を集めよう」
ノクスはアルバスと森の中を歩きながら呪言をつぶやく。呪言はノクスの口をついて出るなり金色の糸のように連なって輝く環を作り、ふるふると震えたかと思うと、夕闇の中を一気に環を広げて駆けていった。
アルバスはノクスを振りかえって微笑む。
「いつ見てもノクスの術はおもしろいね」
「ただの結界だぞ」
「何度見ても飽きないんだ。君の術は、色が温かくて。また2人の旅に戻りたいな。君が大笑いして飛竜から落っこちそうになったり、池で水流を作ってぐるぐる回ったりしてるところ、もう一度見たい」
アルバスは鍛えた体を揺らして歩き出しながら話す。昔は底抜けにくだらない事もたくさんしたものだ。楽しかったけれど、今となってはもう戻れそうもない。
ノクスはどこか緊張してアルバスの後に続いた。
――こいつ、なんでついてきたんだ。まさか俺の事好きなのか? それとも相棒に対する謎の責任感を持っちゃっているのか? ともかく国に戻るよう説得しなきゃ。俺だってできる事なら結界守に戻りたいんだ。でも国境警備施設の破壊は重罪だ。まかり間違って反逆罪と見なされれば、死罪にも……。
「あのルカって子だけど」
アルバスは唐突に背中で言った。はっとしてノクスは居ずまいを正す。
「ん、ルカがどうした?」
「ノクスのことずっとノヴァって呼んでる。なんで?」
振り返ったアルバスの青い瞳が夕闇に光った。ノクスは落ち着かないそぶりで頬をかく。
「ノクス・フェリスは市井では『失恋して逃げた大賢者』って笑い物になってるんだぞ。恥ずかしいから、別人のふりをしてた」
「特別なあだ名じゃないのか」
「違うよ。とっさに考えついた偽名」
ふ、とアルバスは顔を和ませた。
「それなら、よかった」
「何がいいんだ。変な奴……。俺が大賢者だって事は内緒にしてくれよ。ルカは『大賢者様』に憧れてるんだって。憧れの人が俺じゃがっかりだろ」
「ふうん。じゃ、黙っておく。……それにしても、久しぶりだな。こうして2人きりで話すのも」
アルバスは暮れ始めた空を見上げて言う。
「王都ではそれぞれ邸宅を与えられたし、お前はいつも人に囲まれていたからな」
「寂しかった?」
アルバスはにこ、とノクスの顔を覗き込んで笑いかける。
「……!? な、なに言ってんだよ。べっ、べつに! 寂しくなんかはなかったけど!」
ノクスは口ごもり、赤面して目をそらした。口づけされた事を思い出したせいで、どうしてもぎごちない返答になってしまう。
「残念。俺は寂しかった」
アルバスはノクスの不自然な態度も全く気にしていないようで、あっけらかんと返してくる。
――これが人馴れした人間の圧倒的な『余裕』ってやつか……。
ノクスはどっと疲れながら答えた。
「そーかよ……」
「そうだよ。討伐ではいつも2人で野営してたのに、王都では屋敷も別だし、たまに式典で会ってもなかなか話せないし。……っていうか君、俺を避けてたろ」
ぎくり、とノクスは歩を止める。先を歩いていたアルバスは振りかえって、ノクスの進路を防ぐように大きな体で立ちふさがった。
じっと見下ろされて、ノクスは悟る。
――逃げられないな。
ふー、とノクスはため息を吐いた。
「隣に俺がいたらお前と話したい奴の邪魔だろ。おまけで話しかけられるのも辛い」
アルバスが多くの人に話しかけられる隣で、寂しく孤立する己の姿がノクスの心の目には見えていたのである。
アルバスは寂しそうな顔で聴いていた。ぽつりとつぶやく。
「そっか……邪魔者を追い払っておけば一緒にいれたんだ……」
「いやいや、そういう話じゃないから! 耳ついてんのか、お前!?」
ノクスは青ざめ、アルバスの腕を掴んで揺さぶった。アルバスはノクスよりよほど常識人なのにもかかわらず、時々変な話題で過激になる。
アルバスはしかし、揺さぶられながら幸せそうに笑う。
「耳ならついてるよ。ノクスの声を聴いてる」
「声だけじゃなくて内容を聞けよ」
「うん。――あのさ……2人になりたかったのには別の理由もあるんだ。昼間のこと謝りたくて」
――昼間……っていうと、アレか。
ノクスはぎしっと動きを止めた。アルバスの腕から手を離す。
「謝るっていうと……わかった。『あの話』は中止にしたいんだな?」
「いや。でも俺、強引すぎたと思って。君は嫌がってたのに、噛んだりして」
アルバスは目を伏せて押し殺すような息をついた。白金の絹糸のような髪がさらさらと夜風に揺れる。
「うん。噛み痕ついたぞ」
ノクスが真顔で答えると、アルバスはちらとノクスの首に目をやる。その視線がノクスの下肢に降りていくのを感じ、ノクスは体を固くした。
「……ごめん。焦ってた。怒ってもいた。君の発情期に薬もなく一人にしてしまうと思って、強引に休みをもぎ取って、急いで来たんだよ。そうしたらガルバが君の周りをうろついているし、勝手に弟子とか名乗る男が君と同じ屋根の下にいるし……無防備極まりないと思って、君にも腹が立って」
ノクスの眉がみるみる下がって八の字になった。
「俺は暴れる発作だと思ってたんだから仕方ないだろ」
「そんな事は俺が一番わかってるんだ」
アルバスは顔を伏せたまま言った。抑えた声だったが、その中に静かな怒りとわななきがある。ノクスは戸惑ってアルバスの顔を見上げた。
「わかってる。好きでもないカッシア嬢を口説いた俺も悪い。けど、君は俺を軽蔑したような目で見るし、挙句に俺から逃げた……。あれからカッシア嬢にはしつこく結婚を迫られたよ。なんとか振り切って必死で来たら発情期の君は男といる。頭が煮えたよ」
アルバスはかすれた声で呟いた。プラチナブロンドの髪で目が隠れて、表情が見えない。ノクスは親友の心労を理解しようと、アルバスの顔をおろおろと覗き込む。
「ルカは男っていうか、子供だけどな。お前も大変だったんだな。心配かけた。そこまで気にかけてくれてるとは思わなかったんだ」
虚ろな目をしていたアルバスは、温度のない青い眼を動かしてノクスに焦点を合わせた。ひくい声でつぶやく。
「『気にかけてると思わなかった』……?」
「ノヴァー!!! どこ行ったんだよお!」
半泣きで叫ぶルカの声が聞こえた。ノクスはハッとして身じろぎする。木立を駆けてくる足音がしたかと思うと、ルカがべそをかきながら姿を現した。
「ノヴァ~! 置き去りにしないでくれよ!」
ルカは体当たりの勢いでノクスに抱きつく。ノクスはルカを抱きとめて、「悪い悪い」と頭を撫でた。
「こわかったよお! 真っ暗だし、戻ってこないし!」
「ごめん、話し込んでたんだ。でも大丈夫だぞ、飛竜がいるだろう?」
「……」
アルバスはふいと横を向く。「あっ」とノクスはアルバスを見上げた。
「アルバス、ごめん。また話は改めて」
「……うん。薪を集めよう」
アルバスは黙々と枯れ枝を拾い集め、さっさと飛竜のいる山頂へ戻り始める。
――まずいな、まだ話の途中だったのに。
ルカは泣き止んだが、歩きながらもノクスの腕を掴んで離そうとしない。今は話せそうもなかった。
※ ※ ※
アルバスは早起きだ。小鳥が囀りを始める前から鍛錬に出かける。ノクスは白み始めた空を見上げて、目をこすった。アルバスの寝ていた場所はもう空になっていて、触れても冷たい。
まだ寝息を立てているルカを置いて、ノクスはそっと立ち上がった。虫の鳴く小川のほとりで顔を洗い、顔を拭くものがない事に気づく。
「ほら」
後ろから差し出された麻布を、ノクスは驚いて受け取った。振り返ると、革のサンダルを履いて立っているルカがいる。
「あ……ルカ、起きたのか」
「うん。あの男は?」
ルカは尋ねるなり隣にしゃがんでざぶざぶと顔を洗い始めた。
「アルバスなら鍛錬だよ。頂上付近まで走って、剣を振ってると思う」
ノクスは顔を拭いて、冴えわたる空を見上げた。今日はよく晴れるだろう。飛竜で飛ぶにはいい日だ。
「布、貸して」
ノクスが渡した麻布で顔を拭き、立ち上がったルカはノクスを正面からじっと見つめた。ノクスは戸惑う。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「……髪、ほんとは黒いんだね」
――あっ。
ノクスははっとして凍りついた。寝ている間に術が解けて、そのままだったのだ。
「キレイだ。そっちの色も好きだよ、俺」
「お……おう。ありがとう」
ルカは『なぜ髪色を変えていたのか』と尋ねはしなかった。じっとノクスを見上げたまま、ずばりと言う。
「あのいけ好かないガルバって奴、あんたの事を『フェリス子爵』って呼んでた。あんた、ほんとは貴族なんだ。アルバスって男は、あんたの事ノクスって。『ノヴァ』じゃないんだ。何で俺に嘘ついたの? ノクス・フェリス――『大賢者』様」
――バレた。
ノクスはぎくりとしてルカを見つめ返す。どうしてこんなにもすぐバレたのだろう。いや、疑問を抱くまでもない。ルカは大賢者のファンで、大賢者に関する新聞記事は欠かさず読んでいると言っていたではないか。もちろん名だって知っているはずだ。
何か言わなければと震える唇をひらくと、情けないくらいかすれた声が出た。
「は……恥ずかしくて。婚約者にフラれて逃げて……こんなのが大賢者なんて知ったら、ルカだってがっかりする……」
「全然、そう思わないよ」
ルカはノクスの手を掴んだ。
「むしろ、価値の解らない婚約者があんたをフッてくれた事に感謝さえしたよ。おかげで俺はあんたに会えたんだもの。ずっと憧れてた人に」
「いや……あの、大賢者とかいって、こんなので……思ってたのと違っただろ。嘘もついてごめん」
しょぼしょぼと俯いてノクスが謝ると、ルカはふふっと笑った。
「うん。思ったのとは全然違ぇや。コップ割るし、割ったやつ片すのにも手間取るし、宿屋でべそかいてるし」
――泣いてたのにまで気づかれていたのか。
ノクスは気まずい顔で眉を下げる。
「情けないところ見せたな」
「ううん。俺があんたの支えになりたいって思ったよ。これが俺の探してた運命なんだって」
さらりとルカは言って、顔を近づけた。強い語調で囁く。
「――あいつなんだろ。あんたの婚約者を盗ったの。白騎士アルバス・マクシマム。あいつが新聞に載ってない日はなかったよ。なんで追い払わないんだ」
――どこまで話していいか。
ノクスは言い淀んだ。獣毒後遺症についてルカにはすでに話してあるが、それは催淫作用なんてものがあるとは知らなかったからである。オーティス王陛下が直々に『大賢者』を貶めようとしている事を知ってしまえば、ルカはいずれ口封じに命を狙われかねない。
――ルカを巻き込みたくはないな。すでに巻き込んでしまってはいるが……。
「いろいろ事情があるんだ。アルバスは何も悪くない」
「そうは思えない。あんた、あいつのせいで泣いてたんだろ。なのにあいつ、あんたに平気でベタベタ触りやがって。その上、か、噛んだり――きっと婚約者を奪ったのだって、女にあんたをとられたくなかったからに決まってる」
ルカは憎々しげに毒づいた。
「それは違う」
ノクスはため息交じりにぼさぼさの髪をかいた。ルカは不満げな顔でノクスを見上げ、舌打ちして横を向く。ノクスはルカを宥めるように話しかけた。
「アルバスといればルカもあいつが良い奴だってわかる。それと、『あんた』じゃなくて、『師匠』な」
「俺も『ノクス』って呼んじゃ駄目? あいつみたいに」
ルカはそっぽを向いたまま言った。
「いいよ」
「――やった」
ルカはノクスを見上げてニッと笑うと、「朝飯の用意してくる」と一声叫んで駆け出していく。その後ろ姿を見送りながら、ノクスはほっとして微笑む。
――よし、オーティス陛下とのいざこざの事は口を滑らさずに済んだぞ。俺はただでさえアルバスに『馬鹿正直に何でも話す』と怒られているからな。うっかり発言には気をつけなくては。
そう意を決してノクスはふと青草の上に落ちる影に気づき、目を上げた。
――あ、魔鷺。
巨大な魔鷺が羽を広げ、身を低くして狙う先には走って行くルカの姿があった。地上には結界を張っていたが、空までは守れない。考える前にノクスの顎がかすかに上がった。人差し指を唇に当てる。
「風刃」
ノクスがつぶやくなり、幽かな風音が鳴って、飛んでいた魔鷺が一声、ギャアと鋭い叫び声を上げて落下してくる。薪を抱えていたルカが悲鳴を上げて避けた。
「なんだこれ!?」
「朝飯だ! まずいぞ!」
ノクスは小川から手を振ってにこにこ叫ぶ。
「魔鷺だ。子供を攫って食うので悪名高い奴だ。速くて矢も魔術も届かないから、討伐報酬も高額だって……それを杖なしで……? こんな簡単に……!?」
ルカは己の隣で絶命している魔鷺を見やって青ざめる。
アルバスが戻ってくると、ルカ製の魔鷺の串焼きと鷺の骨と野草のスープがふるまわれた。
3人揃うと微妙な空気が流れる。アルバスは昨晩からむっつりと黙り込んだままだし、ルカはアルバスへの態度がとげとげしく、警戒心剥き出しだ。ノクスが黙って味のしないスープを啜っていると、ルカが言い出した。
「あのさあ。……ノクスの獣毒後遺症ってやつの話だと思うんだけど。『催淫作用』って何」
――ぶっ。
ノクスはスープを噴き出しかける寸前で踏みとどまり、だらだらと口の端からこぼれたスープを手の甲で拭った。アルバスは黙って見ひらいた目をノクスへ当てる。
「ど……どこでそれを聞いた!?」
焦ったノクスが皿を置いて尋ねると、ルカは当然のように肩をすくめて言う。
「昨日飛竜の背の上で。ノクスとそっちの誰かさんが話してたのが聞こえたんだ。俺、耳だけはいいんだよね。……で、それ何? ノクスの症状の一つ?」
「お前が知る必要のない事だ」
アルバスは冷え冷えとした声でルカの疑問を断ち切ろうとする。
「へーえ……でも、俺は知っておかなきゃいけない事だと思うんだよね。王都に戻るあんたと違って、俺はずっとノクスの側にいて発作の間も面倒をみるんだから」
ルカは白々と言い返す。アルバスは地を這うような低い声で答えた。
「俺は帰らない」
「王都であんたの恋人が待ってるんじゃないの? ノクスから奪ったご令嬢が」
「何も知らないくせに」
アルバスは射殺しそうな目でルカを睨みつけたが、ルカも負けてはいなかった。
「だったら説明してみせろよ。ノクスの婚約者を盗るにはさぞかし壮大な理由があったんだろうな? あ?」
「ルカ! もうやめろ」
ノクスは見かねて止めた。
「婚約者の件はもう終わった事だ。獣毒後遺症の事なら俺が説明するから」
「ノクス」
アルバスの大きな手がノクスの腕を掴んだ。懇願するような瞳で、アルバスはかぶりを振る。
「……アルバスの心配もわかる。でも、もう隠しきれねぇだろ。ルカも身を護る必要がある」
ノクスが話し始めると、アルバスはきつく目を瞑って、苦痛に耐えるように顔を背けた。
「……まあそういうわけで、次の発作時には前回と同じく、俺から離れておいてほしい。治療がうまくいって発作が起きなければいいが」
ノクスがため息交じりに話し終えると、じっと聞いていたルカは目を丸くする。
「え、治るのか? じゃあ早く治療すればいいじゃないか。そういえば外国で無害になって平和に暮らすとか相手を探すとか言ってたけど、外国にしか治療薬がないのか? 相手って?」
ルカの矢継ぎ早な質問にノクスは答えようとしたが、アルバスが大きな腕でノクスの前を遮る。威圧するようにルカを見下ろして、重々しく告げた。
「……獣毒後遺症の治療法についてはこれ以上話せない」
「そんな事言って、あんたノクスの情報を独占したいだけじゃないのか。ノクスの管理者みたいに振る舞うのはやめろよ」
ルカは毒づいた。白騎士相手に怖いもの知らずもいいところである。ノクスは手を挙げる。
「二人とも落ち着け。――いい機会だから皆で今後の事を話そう。昨日の件については俺から王宮に連絡を入れた。『男爵に弓を向けられた飛竜がガルバ男爵を攻撃しようとし、それを避けた結果、管理施設が破壊された。怒った飛竜をなだめるため、数日間の飛行調整を行う』と」
――こんな報告がどこまで通用するかわからないけどな。国境警護の要である防御拠点を破壊したんだ。自分の家を壊すのとはわけが違う。
アルバスは「待て」と眉をひそめてノクスへ顔を向けた。ノクスの腕を掴む。
「『数日間の飛行調整』? まさか戻る気か? ――言ったはずだ。ステパノスにいては危険だ。このまま国を出ろ」
すかさずルカはアルバスに噛みついた。
「ノクスに命令するな! ノクス、俺はどこにだってついていくぜ」
ノクスはかぶりを振り、愁いに曇る目を伏せた。
「いや、国に戻る気はない。報告は時間稼ぎだ。明日近くの村で物資を調達したら、すぐにでも魔獣の森に潜って国外に出る。……やりきれねぇな。勝手に大賢者だの何だのと持ち上げたかと思えば、勝手に曲解して陥れにかかってさ。俺は討伐がしたいだけなのに」
ルカはじっとノクスを見つめた。
「……ノクスを陥れようとしてるのって誰? 王様? この白騎士サマも言ってたよな。『ノクスを傷つける王に仕える気はない』とかって」
――ああああああ!!
ノクスは瞠目してきつく唇を噛みしめた。失言するまいとさっきまでしっかり気を張っていたのに、案の定口を滑らせた!
「……な、何でもない。誰か個人を指して言ったわけじゃない。例えだよ、例え」
「手が震えてるよ、ノクス」
冷静にルカは言って、じっとノクスを見つめた。かと思えば、アルバスにふいと顔を向ける。
「王様がノクスを誤解して陥れようとしてるのか?」
「ああ。王に謀叛の意ありと見なされている」
黙っていてくれるだろうと思ったアルバスは正直に喋ってしまった。
――馬鹿正直に何でも言うなって俺にはさんざん言ったくせに!?
「アルバス、なんで全部話した!?」
「飛竜の背で聞いていたなら、もう推測はついているだろう。周囲の者が敵の正体をわかっていなければ、ノクスを守れない」
アルバスは目をそらしてそう言った。
「闘病しながら王様を敵に回して逃げるのは分が悪いよ。治療法があるならさっさと治しちまえばいい。発作さえなけりゃ、俺の師匠は最強なんだから」
ルカはきょとんとして手を広げた。ノクスは気まずい表情で口をつぐむ。ノクスの代わりに返答したのはアルバスだった。
「もちろん。ノクスにもその覚悟があるだろう? ね」
アルバスはかすかな微笑を浮かべて首を傾け、ノクスを覗き込む。
ノクスは頬を赤くし、ふいと顔をそらした。
「……ああ」
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