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プロローグ

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カガニアの王子が男の婚約相手として送り込まれたとして、果たしてどういう扱いを受けるのだろうか。歓迎されるなどと浮かれていたら痛い目を見るかもしれない。アレムはできるだけ心を波立たせないよう、期待も不安も押し込めていた。騒がず、目立たず、逆らわない。母が死んでからアレムはそうやって空気のように生きてきた。向こうに着いたら婚約者候補を集めたパーティーに参加することになっている。お供はジャドただ一人である。長い船旅は退屈だった。アレムは本を読みたかったが、読んでいるとどうしても酔ってしまう。少し本を読むと気分が悪くなり甲板へ出る、というのを毎日繰り返していた。ジャドとは必要最低限しか接触しないよう気をつけている。十数名いる船員達はジャドとはよく会話しているが、アレムには話しかけてこない。ジャドがある事ない事吹き込んでいるのかもしれなき。どうせ言葉が分からないし、何を話せばいいかも分からないのでその点アレムは気が楽だった。
 数日後、甲板で風に当たっているとまた運悪くジャドに出くわしてしまった。
「これから国家をかけた会合だというのに毎日ぼーっとして呑気なもんだ。そうそう、お前が嫁ぐ予定のネイバリーのウィルエル王子についていろいろ聞いておいてやったぞ」
 アレムは別に何も頼んでいないがジャドは得意気に言ってきた。ウィルエル王子のことは大臣から聞いた遊び人らしいということと、四つ歳上という情報しか知らない。あれこれ勝手に期待しないよう、アレムはウィルエル王子がどんな人物かは考えないことにしていた。
「ウィルエル王子はとてつもない美丈夫で、美しいものが大層好きなんだと。男女問わず美しければ誰でも相手にするらしい。更に顔だけじゃなく何でも器用にこなすって話だ。男も女も社交界ではウィルエル王子に取り入ろうと毎日大騒ぎだってよ」
 噂なので誇張されているのだろうとアレムは適当に聞き流した。 
「カガニア人をお気に召すかは分からんが、ネイバリー国としてはこの縁談にかなり前向きらしい。やはり海底資源が欲しいんだろう。アイワンに出し抜かれる訳にいかんしな。お前がよっぽどヘマをしない限りこの話は上手く行くはずだ。ウィルエル王子がどう思うかはさて置いて、向こうもこっちも国同士の利害が一致している。まぁ王族の結婚だから、気持ちがどうとかそんなことはどうでもいいしなあ」
 カガニア王宮の人達のために何かするなどまっぴらごめんだが、アレムがうまくネイバリーに取り入らなければアイワンなどの強国がカガニアに攻めてくる可能性がある。生まれ育った故郷が戦火にまみえるのは避けたかった。そうならないためにも、自分が出来ることならばやり遂げるしかない――。アレムは婚約というより仕事として契約を取ってくるような心積りだった。アレム自身、この結婚に気持ちなど関係ないことは分かっている。ひとしきり話を聞いても何の反応も見せないアレムにジャドは舌打ちした。
「しかしお前は無口だしそんな顔をしている癖に愛想はない。何か取り柄がある訳でも、実績も人気も無い。つまらん奴だ。どうせ付き人をやるんならミシュアル様が良かったよ」
 ミシュアル――――。
 その名を聞いてアレムはビクッと震えた。ミシュアルは第二王妃の息子でアレムの異母兄弟にあたる。態度は悪いが格闘技の実力と恵まれた容姿を持つ自信家で、若手の王族の中で最も人気がある。王宮の内外を問わず国内で彼に取り入ろうとする者は多い。
『お前なんか相手にされると思うなよ』
 アレムの脳裏にミシュアルの顔が浮かぶ。
 押し倒され、飛んでくる拳。冷酷な瞳。繰り返される痛み――。
『ネイバリーが求めているのはお前じゃ無い。カガニアの資源だ。くれぐれも勘違いしないことだな。お前はただのオマケだ。お前が必要とされることなんて無い。絶対に』
 分かっている。
『この淫売が。母親と同じように誑かせると思うなよ』
 髪を掴まれ、服を裂かれ、早く終われと願うあの時間。ミシュアルの顔、体、匂い、全てがアレムの脳裏にこびりついており、名前を聞くだけで容易く記憶が呼び起こされる。息が苦しくなり鼓動が体内を打つ。
「ミシュアル様は女に媚びないし、ウィルエル王子と正反対だな! 他人にも厳しいが自分にはその何倍も厳しいストイックなお方だ。お前も少しは見習え!」
 ジャドの声を追い出そうとしても、ミシュアルという単語が響いてくる。
 胃からせりあがってくるものを感じ、アレムはよろよろとその場を離れた。ジャドはまだ何やら叫んでいるが気にしていられない。ジャドが見えなくなる所まで移動すると、船の手すりにもたれかかった。
「分かってる……」
 自分自身を必要とされる場所が無いことなど。例え婚約出来ても、この穢れた自分を愛してくれる筈がないことも。
 目線の先には深い深い濃紺の海が広がっている。波は船に切り裂かれて、白く泡立っては消えていく。
 このまま、落ちてしまおうか――。カガニア国は困るかもしれない。けれど悲しむ者はいないだろう。ネイバリー国はどうだろうか。違う人を寄越せと言うかもしれない。
 海に吸い寄せられるように、手すりに体重をかけたそのときだった。
 ピィーーーーッ
 という鳴き声と共に、アレムの目の前を白い大きなものが横切った。アレムは仰天して後ろに尻餅をついてしまった。通り過ぎた方に目をやると、それは巨大な鳥だった。遠くに行ってしまったのではっきり分からないが、幼児くらいの大きさはあるのではないか。鳥は天高く頭上へ舞い上がった。太陽光を反射して、白い羽は七色に輝いて見えた。このように美しく煌めく鳥を見たのは初めてだ。鳥が飛んでいった方向を目で追うと、彼方に陸地があるのが見えた。
「ネイバリー!」
 向こうにいた船員達が陸地を指差し叫んでいる。口笛を吹き、手と手を叩き合い喜んでいる。そうか、あれがネイバリーか。まだうっすらとしか見えないが、カガニアの比ではない大きさなのが分かる。
 もうここまで来てしまったのだ。やるだけやってみよう。自分の居場所があるかは分からない。けれどこんな自分でも国民の役に立てるなら、生まれてきた意味があったと思えるかもしれない。もし無理だったらそのとき消えよう。
 それから三日航海を続け、アレムは決意を胸にネイバリーに上陸したのだった。
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