上 下
18 / 20
第三章

5

しおりを挟む
 アレムはネイバリー語のレッスン以外は、時々ロイやウィルエルが城内を散歩に連れて行ってくれるくらいしか用事が無かった。ネイバリー語は読むのと聞くのは少しずつ身についていたが、書く、話すというアウトプットは極端に苦手だった。講師にはいつも積極的に周りと話しなさいと言われていたが、アレムにはなかなか出来なかった。周囲の人が自分をどう思っているか、知るのが怖かった。
 アレムは特に用がない時はカガニアから持ち込んだ本を部屋で読んでいた。アレムが持っている本は、幼い頃買ってもらった絵本と、カガニアの書庫から廃棄されようとしていた本だ。廃棄予定の本が積まれている倉庫からいつもこっそり数冊もらっていた。元々古い上にアレムが読み込んでいるので、ほとんどの本は黄ばんで破れかけていた。書かれていることが読めれば充分なので、アレムは何度も繰り返し大切に本達を読んでいた。中でも一番のお気に入りは「サービトと竜」という児童書だ。十歳くらいの子ども向けの分厚い本だが、アレムは七歳のとき母に買ってもらって夢中で読んだ。母に買ってもらった最後の品がこの本だ。表紙は海のような青で、緑の題字に白銀の竜と少年が額を寄せ合うイラストが描かれている。この本をアレムは全文暗記するほど読み込んでいる。カガニアでは有名な古い物語で、紙芝居や劇にもなっている。物語はこうだ。
 
 昔々ある村にサービトとラジーという二人の少年がいた。祭りの日にラジーは村の生贄に選ばれ、どこかに連れて行かれてしまう。ラジーを探すためサービトは旅に出た。途中美しい竜と出会い、竜を引き連れサービトは旅を続ける。旅の途中竜の身に危険が迫り、サービトが身を挺して救おうとする。そのときサービトは竜の正体がラジーであることに気が付き、ラジーは人間の姿に戻ることが出来た。二人はそのまま世界中を巡る旅を続けるのだった。
 
 アレムはネイバリーに来てからもこの本を何度も読んでいた。何回読んでも、言葉を話せない竜にサービトが心を寄せて接する様子や、ラジーとの友情に心動かされる。ページを捲ってまた感動に浸っていると、部屋の戸がノックされた。
「はい」
 ネイバリー語で返事をすると、現れたのはウィルエルだった。時刻はまだ昼過ぎで、この時間にいるのは珍しい。アレムは今日のレッスンはお休みだった。何かあったのかと思ったが、ウィルエルはにこにこ笑っている。
「出かけよう」
 ゆっくりとそう言ってくれた。ロイとオドリックを引き連れて、ウィルエルはアレムを連れ出した。城内の散歩と思っていたアレムは、馬車に乗せられて驚いた。アレム達が住んでいる建物から少し離れた所にある立派な石造りの建物へと連れて行かれた。壁から出ていないので城の敷地内のようだが、その建物は多くの人が出入りしていた。ウィルエルに続き、巨大な赤い扉をくぐり建物に入る。そこではカウンターの中に座る職員のような人と、カウンターに並ぶ数名の人がいた。何かのお店だろうか? と思いつつ更に中にある扉にアレムは誘われた。アレムは室内を見渡して驚いた。
 そこは巨大な図書館だった。
 カガニアの書庫の三十倍くらいは本がありそうだ。本棚が整然と並んでいる。棚の間には大きな机がいくつもあり、人々が本を読んだり何かをノートに書いたり自由に過ごしていた。
「と……、としょかん……?」
 ネイバリー語でアレムが呟くと、ウィルエルがにこりと笑って頷いた。
「本を借りていいよ。ネイバリー語だけど……」
 ウィルエルは苦笑しながら言ったが、アレムは少しは読めるようになってきている。それに本なら何でも読んでみたい。これだけの本を前にしてアレムはとても興奮していた。
「ありがとうございます……」
 お礼を言いつつアレムの視線は本棚に目移りしていた。近くにある本を手に取って捲ってみたが、かなり難しそうだ。
「えっと……、ほん、こども、ある……ますか?」
 キョロキョロと辺りを見渡した。絵本ならまだ理解できるかもしれないと思ったのだ。オドリックが率先して案内してくれた。連れて行かれた棚にはびっしりと絵本が並んでいた。アレムは手に取っては戻し、端から端まで絵本を見て行った。絵本の棚の後ろは児童書で、アレムは児童書の棚を見て動きを止めた。見覚えのある青地に緑の文字の背表紙が見えたのだ。高鳴る胸を抑え、その本を引っ張り出す。
 それはネイバリー語版のサービトと竜だった。
「これ……!」
 アレムはその本を大切に抱えた。
「これです」
 これにします。とかこれがいいです。と言いたかったが言葉が分からず、「これです」と言ってしまった。三人は口々に「他は?」とか「もっとたくさん」とか言っているようだったが、まずはこの本をじっくり読みたかった。それにたくさん借りても読み切れる自信が無かった。
「これです」
 もう一度アレムが言うと、三人とも納得してくれた。ロイがカウンターで借りる手続きをしてくれた。ウィルエルは画集を一冊、オドリックは難しそうな本を大量に借りていた。ロイは本には興味が無さそうだったが、オドリックは借りた本を一冊ロイに「読め」と押し付けていた。
 アレムは両腕で借りた本を抱きしめていた。早く帰って読みたい。
「嬉しそう」
 馬車で隣に座ったウィルエルがアレムの頬を撫でた。
「はい、うれしいです。ありがとうございます」
 アレムが微笑んで答えるとウィルエルはとても満足そうだった。
 ウィルエルは仕事に戻るらしく部屋には帰らなかったので、アレムはすぐに部屋へ閉じこもって本を開いた。
「同じだ!」
 アレムはカガニア語版を取り出して机に並べて見比べた。挿絵も同じなのでネイバリー語版を見ても大体どの部分か理解できた。冒頭から読み進めてみると、全文覚えているためネイバリー語でもスラスラと読めた。発音が分からない部分も多くあったが、原文と照らし合わせて意味は理解できた。ロイが夕食に呼びに来るまで、アレムは読書に没頭していた。

 その日の夜、寝室でいつものようにウィルエルは薬を塗ってくれた。アレムが少し火照る体を落ち着かせていると、ウィルエルが「今日借りた本を持っておいで」とゆったりとした口調で言った。
 アレムは早く明日もあの本を読みたいと思っていたが、持って来てどうするのだろう? と思いつつ言われた通りに本を寝室へ持ってきた。ウィルエルはベッドの上に座っていて、ポンポンと自分の太腿を叩いてアレムを手招きした。来いという意味だろうか。アレムは戸惑いつつ本を抱えてウィルエルの膝の間に収まった。ウィルエルは腕を伸ばすと、アレムを後ろから抱きしめるような体勢で本を広げた。そしてそのまま冒頭から声に出して本を読み始めた。
 アレムは驚いてウィルエルを振り返った。ウィルエルは「読んであげる」と言ってアレムのこめかみに軽いキスをした。ウィルエルはアレムと密着したまま、耳元で『サービトと竜』を読み始めた。子どもの読み聞かせのようで気恥ずかしい。更に背中から伝わるウィルエルの体温、耳元の低く落ち着いた声にアレムはどきどきした。
 ウィルエルが読み進めるうち、アレムはその声に熱心に耳を傾けていた。サービトが竜の白銀の鱗を撫でるシーンに差し掛かったとき、アレムはウィルエルが読み上げた言葉を聞いて驚いた。それはウィルエルがアレムに薬を塗る時によく口にしている言葉だった。
「美しい」
 アレムはそれに気がついた瞬間、勢いよくウィルエルを振り返ってしまった。
「どうしたの?」
 ウィルエルは微笑んだ。アレムは「いつも私に美しいと言ってますか?」などとは聞けず口をパクパクさせた。ウィルエルはアレムの目を見てまた同じ言葉を繰り返した。
「美しい」
 アレムの顔が熱くなる。慌てて前に向き直ると気のせいかもしれない、と思い直した。しかしウィルエルは耳元でもう一度「美しい」と呟き、何事も無かったかのようにま 続きを読み始めた。アレムは顔だけでなく体も熱くなった。
 それから次の章に差し掛かったとき、再び身に覚えのあるある言葉が登場した。それはサービトが旅の途中、村人に親友ラジーのことを話すシーンだった。
「僕はラジーのことが大好きなんだ」
 この“大好き”という言葉を聞いてアレムはある日のネイバリー語レッスンのことを思い出した。ウィルエルが初めてレッスンに顔を出した日のことである。
「だ、い、す、き」
 ウィルエルがまだ意味を分かっていないアレムに言わせた言葉が正にこれだったのだ――。アレムは今度は振り返らなかった。ウィルエルに揶揄われていたのだと分かって、羞恥で顔を真っ赤に染めていた。
 この人は、きっと誰にでもこうなんだろう。言葉に深い意味はない。
 そう思わなければウィルエルにのめり込みそうで怖かった。自分は沢山いるうちの一人で、国の事情で婚約者という立場にいるだけなのだ。ウィルエルに特別な好意を寄せられているなどと自惚れてはいけない。アレムは自分にそう言い聞かせた。
 ウィルエルはキリのいい所まで読み終えると、いつも通り部屋を出ていった。
 ほら、やっぱり。
 自分は特別ではない。その方がいいはずなのに、さっきまで感じていた温もりが無いことが寂しい。こういうことに慣れていないからそう思ってしまうだけだと、アレムは自分に言い聞かせた。
 残された部屋で一人、アレムは本を眺めていた。
しおりを挟む

処理中です...