雪原のワルキューレ

ヒルナギ

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第三十四話

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 音も無く、空気の動きも無かったが、ブラックソウルはクラウスを中心に風が動いたのを、感じた。災いと死を乗せた、凶々しい黒い風である。

 世界は色を失い、地上の死を宣告するように、景色が醜く歪む。クラウスは真の魔導の力を解放しつつあった。

「私は、目覚めてしまった」

 その、地上のものに属しているとは思えない、人間には到底及ぶこともできない、完璧な美貌を微かに曇らせ、憂鬱げにクラウスは言った。

「目覚めてしまった以上は、地上に幾万もの人間の死体の山を築いた後でなければ、眠るつもりは無い」

 あたかも呪われた死霊達が、目覚めの喇叭を吹き鳴らし、天空を飛び回っているようであった。邪悪な気配が辺りを支配し、瘴気は暴風と化し、礼拝堂を満たす。

 ブラックソウルは、夏の嵐を楽しむ子供のように、大きく笑った。

「地獄の封印を開くか、魔族の支配者。それも重畳、やってみるがいい」

 すべてが死滅し、静寂の世界となった地上に、最初に昇る太陽のような金色の瞳で、クラウスはブラックソウルを見る。

「さらばだ、奇妙な人間よ。次に眠りに就く前に、お前のことは思いだそう」

 ごっ、と黒い球体がブラックソウルを包む。ブラックソウルの言葉どうり、それは地底の果ての、暗黒界への入り口であった。ブラックソウルの精神波動は、黄泉の闇と同調し、肉体ごと地獄へ飛ばされつつある。

「クリスが死ねば、彼女の中に仕込まれた魔法回路が自動的に作動するようにしてある」

 ブラックソウルが、呟くように語る。

「見るがいい、彼女の身体を贄として召喚されるものを!」

 すでに影だけの存在となったブラックソウルは、狂おしげに叫ぶ。

「恐れおののくがいいぞ、魔族の真の支配者がここにやってくる」

 クリスの死体が、幾度か痙攣する。死体の上に幾重もの魔法陣が浮かび上がり、それらが何重にも回転しながら異空間へと接続を行っていた。

 かつてブラックソウルであった黒い影は、絶叫した。

「召喚に応じ我が前に姿を顕せ、魔族の正当なる支配者である女王、ヴェリンダ・ヴェック!」

 叫び終わると共に、クリスの死体は、黄金色の炎に包まれた。邪悪なものを死滅させるかのような、神聖な金色の炎が燃え盛る。そして魔法陣が作り上げた漆黒の球体から、黒い人影が歩でた。

 その人は、漆黒の女神の像を思わす、魔族の女である。大地の豊饒を暗示するような豊かな乳房、波を分け海原を走る黒い船のような肢体、漆黒の闇夜を駆逐する真夏の太陽のように金色に輝く髪、そして古よりあらゆる邪悪、あらゆる残忍な戦いを見つめてきた金色の瞳。

 そのすべてが、廃虚に昇る満月のように、クラウスの前へ姿を現した。

「時空魔法で別位相から召喚を行ったというのか、それにしても、そなたは?」

 その魔族の女の、漆黒の美貌を見つめたクラウスの顔が、驚愕に歪んだ。

「いや、あなたは我が王セルジュ・ヴェックの後継たる王女、ヴェリンダ様、なぜ家畜と共に我が宮殿へ? いやそれよりも……」

 ヴェリンダは、人間の王族すら家畜と呼ぶものにふさわしい気高い笑みを見せ、影として消え去ろうとしているブラックソウルに触れた。闇が野獣に怯る小動物のように遁走し、不遜な笑みを浮かべるブラックソウルが姿を現す。

 ヴェリンダは官能的といってもいいような、艶かしい笑みを見せ、ブラックソウルの肩に手を乗せたまま、言った。

「紹介しよう、クラウス。我が夫、ブラックソウルだ」

 クラウスは、一瞬、狂死してもおかしくないような表情になる。しかし、すぐ平静を取り戻し、静かに言った。

「お戯れを」

「事実だよ、クラウス」

 ブラックソウルは、嘲るように言った。

「あんたはもう少しで、あんたの真の主を冥界へ送るところだったんだぜ」

「おまえは黙れ!汚らわしい家畜」

「我が夫に対し、無礼であろう、クラウス」

 ヴェリンダが泰然と、たしなめる。

 クラウスは傷ついた獣のように、憎しみで輝く瞳を、ヴェリンダに向ける。ヴェリンダは、宮廷で謁見する王妃のように微笑んだ。

「ヴェリンダ様、あなたはガルンの手により、異界へ飛ばされ、幽閉されていたと聞きます。いつ戻られたのですか」

「確かに私は魔導の力も届かぬ、異界の地に閉じこめられていた。ガルンがエリウスに殺されたのちも、私はこの世界へ戻ってはこられなかった」

 ヴェリンダは、楽しげに微笑む。

「我が父、セルジュはガルンに密殺された為、王位は我が弟、ヴァルラが継いだ。弟は、私を救った者には私を妻にする権利を与えると、ふれを出した」

「まさか」

「私を異界の地より、連れ戻したのがブラックソウルなのだ、クラウス」

 クラウスは無表情となった。

「おれの言った通りだろ、クラウス」

 ブラックソウルは、勝ち誇ったように言った。

「おれの名は、忘れられぬ名となっただろう」

「確かにな」

 クラウスは、自分に言い聞かせるように、繰り返した。

「確かにそうだ」
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