一の恋

紺色橙

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6 不快感

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 夏休みの課題をちまちまと進める。早々に終わらせるタイプでもなければ、31日に慌てるタイプでもない。仕方ないからやるかと手を付け、やる気が無いから放り出す。それを繰り返し少しずつ消化していく。
 日の出ている時間は大体やる気がない。家の中で冷房を付けていても、窓を突き破りそうな暑さに負ける。だから夜中にコアタイムの過ぎたテレビの音量を下げ垂れ流しつつノートに向かう。そうして日々を過ごしていれば自然と昼夜逆転していった。

 Aさんからの新着メッセージは無かった。通知が来るように設定しているのだから、無い時は無いのだ。でもつい見てしまう。暗い画面を明るくして、自分の目で着信が無いことを確かめてしまう。ポケットに収まってしまう小さな端末に依存する。
 メッセージが来ると嬉しい。些細な日々の雑談だって、すぐに返信したくなってしまう。毎日してくれるおやすみの一言を見るまでずっとスマホを気にして、それが見られればつい口元が緩んだ。

 シャーペンが止まり、トントンとその背で自分の手を叩く。
 Aさんと別れた翌朝、眠りから覚めすっかり緊張のかけらも無くなった自分に気付いたことがある。

 Aさんはあの時、俺にキスをしなかった。

 未だに彼の声を思い出すと顔が赤くなってしまうのに、あの時唇に何かが触れた記憶が無い。あの時は緊張しすぎていて何が何だか分からなかったけれど、今思い返すと確かに何もなかった。



***



『着いたよ』のメッセージを見て急いで家を出た。上がってくるエレベーターを待ちきれず、下を覗きこんで銀色の車を確認する。テンションの上がる心臓を落ち着けるように呼吸をして、エレベーターに乗り込みすぐに1階と閉じるボタンを強く押した。
 マンションの入り口には運転席側が向いていて、中にいるだろうAさんに対しにやけてしまう唇を食む。ぐるりと助手席側に回ってドアを開けた。

 助手席にはタオルが畳まれて置かれていた。それを持ち上げ座る。
「それ、使ってね」
 事前に言われていたブランケット。柔らかいそれは厚みが無い。タオルというよりも布が何枚も重ねられているような肌触り。
「これタオル?」
「ガーゼかな?」
 なるほど、とその表面を撫でる。運転席の邪魔にならないよう広げると、大きなバスタオルくらいのサイズだった。顔の近くにある布からはふんわりと優しい匂いがする。柔軟剤だろうか。石鹸の匂いでもなく花の匂いでもないそれは、優しい匂いとしか表せない。つい抱えてその匂いを嗅いだ。この前キスされそうになったときもこの匂いがした気がする。
 眠くはないけれど、シートベルトの上からそれをかけた。
「寒い?」
「ううん。Aさんの匂いがする」
 答えに彼が笑った。

 走り出した車の中、落ちないようにシートベルトに挟んだりして、Aさんの匂いがするそれに包まれる。布から手の先だけを出して、運転席の方に伸ばす。信号待ちになれば、柔らかな温かさからはみ出した手に、違う熱がかぶさる。それが嬉しくて、左手でちょんちょんと布を直すふりをして顔を埋めた。運転するその横顔を盗み見て緩む口元。奥歯を噛む。

 向かう全部の信号が赤になって、全部の信号に引っかかればいいのに。

 Aさんは手を繋ぐとき、人恋しいのかもしれないと言った。俺もきっとそうなんだと思う。この車内では、いつも心の底にある薄暗い気持ちが顔を出さない。なんでもない顔をして前を向いているけれど、外の風景も今どのくらい走ってきたのかも入ってこない。ただ熱を与えられたり失ったりする右手だけが、次を求めてそわそわとしている。

 見慣れた道を見て、高速道路に乗ることに気が付いた。俺が前回言ったのを覚えてくれているのが嬉しい。でも同時に、信号が無くなってしまうことに残念な気持ちが出てくる。明らかな好意でオレンジライトの下に行くことがわかっているから文句は言えない。空の紺色とオレンジライトのコントラストは相変わらず俺の好きな物なのに、もう与えられない手のひらの重なりが本当に、寂しかった。

 なんだか熱くなってしまった目を隠すように、ガーゼケットを持ち上げる。ぎゅっと掴んで、少しだけ余った部分を緩衝材のように頭の横まで引っ張って窓にもたれた。オレンジライトを数えるように通り越す。

 無言でいても気まずさはなかった。ただもやもやと胸の中に何か、言葉にならないものがある。死にたくなる重い泥のようなものではない、だけども靄のように曖昧な何か。煙草を吸ったこともないが、もしあの煙の塊が肺を満たしていたら同じように感じるかもしれない。苦しいような、うーっと唸り叫びたくなるような得体のしれないものが不快だった。

 等間隔のライトと振動に意識を向ける。追い越し車線を駆け抜けていく車の音を聞いた。車通りは少ないが、Aさんは極端な速さにはしなかった。それでも時速80km程も出ているスピードは十分に速い。時計の近くにある速度表示の数字はほぼ変わらず、安定している。

 足元にゆとりを持たせるため、後ろに下げられた助手席。運転席と並ばない少しのずれが気になった。ガーゼケットを掴んでいた手を緩め、布の囲いの中で放り出す。

「もう帰りたい?」
 ぼんやりしていた頭に声がぶつかる。Aさんが突然どうしてそんなことを言うのか分からず首をかしげた。
「別に」
「そうじゃないならいいんだけど、つまらなそうだから」
 つまらない。その言葉に胸のもやもやの質量が増した。俺はそう思っているんだろうか。いつもみたいにライトにも音にも振動にも心地良く包まれていないのは確かだった。
「今日は、なんか……」
「高速降りるね」
 乗り気ではないと取られたんだろう。実際に自分でも判断がつかず否定もできない。大した距離も走っていないのに次の降り口を目指した。
 出口へとぐるり、道路が回る。丸い看板は40km制限を示し、スピードが落ちる。ほどなくして一般道に繋がった。降りてすぐの信号で止まり、静寂に気まずさが漂う。

 胸のもやもやはそのままに、更にAさんを怒らせてしまったかと不安が募る。ぐるぐるとすっきりしない気分が加算されるばかりで気持ちが悪い。自分に対し怒りすら覚えた。
「あの……ごめんなさい」
「謝ることはないよ」
 自分が何に謝っているのかもはっきりしない。きっとそんなの、自分より年上のAさんにはばれている。口先だけのごめんなさい。俺はただAさんを怒らせただろう、というのが申し訳なくて謝っただけ。

 一般道をゆるりと走る。大きな公園でもあるのか、歩道の向こうには深い木々が立ち並ぶ。反対側は窓もないような大きな建物。飲食店もなく、静かで色の少ない道だった。点々と立つ白い街灯は誰も照らさない。

「私が、話を聞けることはある?」
 すごく気を使われているのがわかる、優しい声だった。こちらを見ていないAさんを窺う。何だか泣いてしまいたい。申し訳なさと情けなさと、それでも晴れないもやもやが体の中でぐちゃぐちゃになっていた。
 うぐ、と喉が詰まり声にならない音が出た。涙が零れてはいないけれど、不快感に支配されてどうにもならない。もしこれで嗚咽でも漏らそうものなら心配させてしまう。
「少し休憩させてね」
 窓に額をつけたまま、返事はしなかった。



 溜まる涙を無くそうと瞬きを繰り返す。睫が濡れて痒くて目をこすった。
 住宅街とは思えないが工場地帯だとも感じない。それでも立ち並ぶ大きな建物は倉庫か何かだろうか。いくら窓の外を眺めても歩いている人は一人もいない。

 いくつかの道を曲がった頃、速度が落ちた。止まるほどにゆっくりで、視線を前にやる。カチカチとウィンカーが点滅し、見れば大きくPの文字。少しの段差を乗り越え、コインパーキングに車が入った。小さな駐車場は空いていて停めるところは選び放題だったが、Aさんは一番奥に車を停めた。すぐ隣はブロック塀と建物で行き止まりになっている。

 Aさんがシートベルトを外したから、俺もそうする。エンジンが止まり車内の電気がついた。突然の明るさに目が眩む。よほど嫌そうな顔でもしていたのか、Aさんが電気を消してくれた。瞼の裏に明かりが残る。駐車場の電灯は入り口と看板を強く照らしていて、その光と影がこちらまで伸びていた。
 静寂の中、Aさんは座席を少し倒し横たわる。疲れてしまったのかもしれない。包まっていたガーゼケットを引っ張り外した。俺の熱が移ってしまったそれを、躊躇いつつ差し出す。人が使っていたものなんか嫌じゃないかって、使用感の出てしまったそれに今更思う。
「大丈夫。ありがとう」
 やんわり拒否され、やっぱり、と遅すぎる後悔にまた気が沈む。ぐっと奥歯を噛みしめた。

「イチくん、何か私に……ああ、なんて言ったらいいのかな」
「ごめんなさい」
「イチくん最初は楽しそうだったから……私がなんかしちゃったのかなと思って」
「違う」
 そう、Aさんが何かしたわけじゃない。ただ俺が――。
「なんか、体の中がモヤモヤするっていうか……。それが何でかわからなくて」
 静寂の中、自分の声がやたらとはっきり聞こえてしまう。だけど響かず閉塞感に飲み込まれる。車内は安全地帯だと何度も思っていたのに、今はなんだか重苦しい。酸素が少ないみたい。
「そっか。何か不安でもあるのかな」
 狭い空間で体ごとこちらを向けるようにAさんは俺を見てくれる。膝の上でぐしゃぐしゃになっているガーゼケットを握りしめた。
 不安なんてわからない。夏休みはまだ続いていて、朝を恐れなくてもいい。毎日が可もなく不可もなくただ消化されている。

 しばらくただ俯いていた。たまに向こうの道路に光が走るだけで、ずっとエアコンの風音しか存在していなかった。
 何分経ったのか、もやもやが頭のてっぺんから足の先まで全てに渡り薄まったころ顔を上げた。Aさんと目が合う。ふっと体の力が抜けた。強く握りしめていた指先に血が巡る。
「手繋ぎたい」
 思うより前に言葉が出た。ガーゼケットを握りしめていた手が、すぐに違う熱に包まれる。4本の指先が温められ安心した。
「Aさん」
 体を起こし俺を見てくれるその人の名前を、ただ呼ぶ。「はい」と返事がされた。また「Aさん」と呼べば、また返事がされた。視界がぼやけ眉をしかめる。唇に力を入れた。あやすように頭を撫でられ、堪えようと目を閉じれば涙が零れた。
「――イチくんっ」
 慌てたAさんの声に我慢がならず、ついに情けない声が出た。そうなってしまえばもうどうにもならないもので、瞬きをせずとも済むくらいに目が潤う。Tシャツの袖で涙を拭きたいと顔を隠すけれど涙は拭けず、腕で何度も目をこする。慌てた声が手を離そうとするのを、ぎゅっと握り返して留めた。

 頭を撫でてくれた手が背中に回る。引き寄せられればガーゼケットと同じ匂いがして、「大丈夫だよ」と近くから聞こえる声にまた泣いた。運転席から助手席まで伸ばされた腕と上半身に俺の感情は決壊してしまったようだった。うえーんと子供のような泣き声を出し、ぼろぼろと止めどない涙をAさんの肩に擦りつけた。
 自分でもどうして泣いているのかわからない。ただただ泣ける。抑えようとしても抑えきれずいくらでも涙が零れた。
「ちょっと待ってね」
 Aさんの肩が離れ、触れる指先だけに縋る。ゴトッと音がして、頭を抱えるように抱きしめられた。鼻をすすり、増えた体温に目を閉じた。

 落ち着いたころ身じろぐと、隙間ができた。Aさんは運転席と助手席の間にある小物入れの蓋に上って俺を慰めてくれていたようだった。離れていくシャツの胸元を掴む。「困ったな」と漏れ聞こえたそれにまた目が潤んだ。迷惑はかけられない。掴んでいた手が力なく落ちる。俺の頭を撫でたAさんはまた運転席に戻ってしまった。

 Aさんの体温が無くなったように、胸の中の靄もどこかに消えていた。泣くことはストレス解消に良いというから、散々泣いたせいかもしれない。

 手だけはしつこく繋ぎ続けた。離されなかったし、指を絡めるように繋ぎ直しても受け入れて貰えた。未だぐすぐすとしている俺をAさんはひたすら待っていた。鼻をかんだゴミをお茶を買ってきたコンビニ袋に入れてもらい、離れた手を差し出せばまた繋いでもらえた。

 さっきのように抱きしめて欲しいと思うけれど、狭い車内ではどうにもならない。でも口からは「さっきみたいにしてほしい」と遠慮のない言葉が漏れる。困った顔をして笑うAさんに不貞腐れた。
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