ファーストフラッシュ

紺色橙

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第一章 3か月

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 いらっしゃいませが木霊するざわついた店内で、「ちょっと」と声をかけられた。
 名は知らないがたまに見かけるその客は、分厚い封筒をわざとらしく机に置いて「家で出来るバイトをしないか」と言った。
 雑然とした安い居酒屋には似合わない、真っ白で歪みの無い綺麗な封筒だった。
 他の客対応と同じように「いいっすよ」と俺は適当に返事をした。
 上がりの時間にまた来るという客に、せめてバイトの内容くらいは聞くべきだったかと思いつつ他の客に呼ばれた。


 3月頭の夜空の下、タクシーを降りそのまま待機させた客の後ろには坊主頭がいた。
 早い桜が咲いてはいるがまだまだ冷える夜に上着も着ず、襟元の緩んだ長袖のシャツに黒いズボン、擦り切れそうな靴。
 きちんとした格好の客の相方には合わない奴だった。
「この子の様子を見てて欲しいんだ。私が海外に行ってる3か月の間」
 俺の背はそう高くはない。最後の記録で170cmちょうどくらいだった気がする。その俺から見て低い背は、160cmくらいだろうか。
 俯きがちな顔ははっきりとはわからないが、体の薄さから男だろうと思った。
 ちらと坊主頭を窺えば、一瞬目が合い頭を下げられた。
「歳は?」
「18歳です」
 さらに深くお辞儀をされ、「よろしくお願いします」と思ったよりもはっきりと声がした。
 男で18。身長にはあまり触れないほうが良いだろう。
 
 押し付けるように渡された封筒の中には100万円が入っているという。
 突然人を預かってほしいだなんて怪しい話だ。
 こいつはよほどの問題児なのか。
 でも俺はこの話を受けた。
 不用心かもしれない。
 興味本位だった。
 それにこいつがキチガイで俺を殺すのならば、それはそれで"そういうタイミング"なのだろうと思った。



 俺は今年で25歳。フリーター。
 居酒屋で長いことバイトをしている。あの店でもう何年になるだろうか。
 大学はいかなかった。そんな頭も金もなかった。
 正直な話、楽に死ねたらいいなと日々思っている。
 でも自殺するほどの気力も勇気もない。
 ただ、本当にどうしようもなくなったときに死ぬ場所にたどり着けるように、と必要資金分のバイトをしている。
 趣味もなく、彼女もおらず、将来したいこともない。
 おっさんにはなれるだろう。
 しかしジジイになって生きてはいけないだろう。
 だからそのくらいまでに俺は自死を選ばざるを得ないだろうと思っている。
 飛び降りるのか首を括るのかも決めていないが、あまり人に迷惑はかけたくない。
 でも死ぬとなったら確実に迷惑をかけてしまうだろう。
 ごめんなさいと死んだ脳みそで謝るしかない。

 だから、坊主頭が問題を抱えているキチガイだったとしても、自死が他殺に変わるだけの話だ。
 名も知らぬ客のおっさんがどうして俺を選んだのかはわからないが、適役だろう。


 タクシーに乗り込んだ客を見送ってから気が付いた。
 3か月というそれなりに長い期間を頼まれたのに、男は殆ど荷物を持っていなかった。
 小さなエコバッグのように薄い袋におそらく数枚の服があるだけ。
 まるで家出少年のようだった。
『任せられた』感はない。まさに押し付けられただろう。



 築40年は経っている古い団地に連れて帰った。
 取り壊しが決定されている建物群は閑散としている。
 建物にはひびが入り薄汚れ、5階建てだというのにエレベーターもない。
 電気はぼんやりと暗く点滅し、人のいない部屋はカーテンもなく暗闇を映す。
 乗り捨てられた自転車、1階の窓まで覆いそうな昔は手を入れられていた花、ずいぶんと古い色褪せた政治家のポスター。
 大きな団地は同じ建物が同じように並ぶ。
 ここに引っ越してきた当初は迷子になりそうだった。
 うっかりしたら自分の棟がわからなくなりそうだと慎重にもなった。

 男はいないかのように俺の後についてきた。
 一切の雑談はせず、ただ聞かれたことだけに答えた。
 
 狭い2DKで風呂もトイレも案内するようなものではない。
 寝るまで特に問題は見当たらなかった。
 服はずいぶんと着古され汚らしく見えたが酷い臭いがするわけでもなく、言葉も通じたし受け答えもした。
 客用の布団なんかあるわけがなく、深夜2時をまわる頃セミダブルのベッドの隅に寝かせて毛布をかけさせた。

 俺は毎日のようにバイトに入っている。
 問題が起こるとしたら少し慣れてきたころにだろうか。
 それとも、翌日すぐにでも家の貴重品を持って行かれるか。
 客は俺に100万渡した。
 その封筒をテーブルの上に置いておく。
 もしこいつがいなくなるのなら、それは持って行くだろう。
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