紫雨の話

ヰ野瀬

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先生

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 また来た。山の上から見下ろすと小さい人影が車からでてくるところだった。毎日毎日、わざわざ来て誰もいない家にチャイムを鳴らしに来るだけだなんて意味はあるのだろうか。
 よくもまあ、飽きもせずにやって来る。どうして諦めないんだろう。戻ってくるとは限らないのに。
「まあた、来たのか……全くお前は困ったやつだ」
 いつの間にか横に並ぶ紫雨。背筋がゾッとした。鳥肌も立った。
「いきなり現れるのやめてよ……うう……鳥肌立った」
 鳥肌で酷くなって腕をさする。
「は? 別にどう出ようと僕の好きなんだからいいだろうが。お前に従う義理などないわ」
 いきなり白い顔が隣に現れると幽霊が隣に来たみたいでゾッとする。本当にやめて欲しいけれど、そんなことを言ったら紫雨はどう思うのか。考えてやめた。
「分かってるけど、やめてよ。熊だったら即死じゃん」
「この山に熊なんかいないぞ」
「そういうことじゃなくて驚かせないでって言ってるんだけど……あ」
 出ていく先生の後ろ姿を見送る。最初のころは話を聞いてこようとしたり、学校にむりやり連れていかれたこともあったけど、今はもういつ来るのかがわかっている。だから逃げることが得意になった。
「もう帰るん? 遊んでかないの」
「もう子供じゃない」
「……お前、ほんとつまんない人間になったな」
 澄んだ冷たい瞳で見つめてくる彼に、胸の内がモヤモヤとしたものが広がるような感覚になった。
 返す言葉なんかない。もともと自分はつまんない人間だ。だからなんだ。
「拗ねてんの?」
「うるさい。話しかけないで」
「はぁあ。ほんと人間って面倒だな」
「だったら、なんでついてくるの」
 帰ってから落ち着こうと足早になる。
「やめとけよ、そんなこと」
 声色の変わった紫雨にさらに背筋が凍るような低音。一瞬、心臓が止まるかと思った。
 それに、なにか察しているのか。見透かされている気がしてならない。
「……紫雨は心の中まで見えてるわけ?」
「この山からは出られないんだ。幸が家に帰れば、何もできない」
 否定をされなかった。何者なのだろう。でも今はそんなことはどうでもいい。
 先ほどよりも余裕がなくなった脳が思ってもいないことを口にしてしまう。
「……だからなに。私の勝手でしょ。もう呼ばないで、私の前から消えてよ。あ」
 そこまで言うつもりなんてなかったのに。この口はいつもいらない言葉ばかり。動揺して立ち止まると、どうしてこんなに自分が怒っているのかわからなくなった。震える声で逃げようと走り出した。だけど、走り出したとき右手首を思いっきり後ろに引っ張られた。驚いて動けず、片脚は宙に浮いたまま後ろに体重がかかった。尻もちをついた本人は「いってー」と嘆いている。
「な、なに。なんで」
 起き上がれず、振り返って紫雨の顔を見る。すると、幸を抱き上げて紫雨の上から下ろし、真剣な顔つきで両肩を掴んできた。
「行ってどうするん。それでお前は晴れるかもしれないけど、その後どうなるか知ってるのか。みんながどうなっていくのか、お前にわかるか」
 説教をする親みたいで嫌いになりそうだ。こんなことならあのとき山になんか行かなければよかった。そうすれば、紫雨と出会わずに済んだのに。どうしようかなんて、紫雨には関係のないことなのに。
「……紫雨にはわかるの」
「わかる」
 人間じゃない。人間じゃないはずの紫雨の言葉は、なぜかとても重く感じた。言葉はまるで軽いが、発したあとの彼の表情は泣きだしてしまいそうだった。
「なんで、紫雨が泣きそうな顔をするの」
 白く、ひんやりとした頬に手を添えるとスリスリと擦りつけてきて不思議な光景だった。なにも答えてくれない紫雨に不満よりも不安の方が大きくなっていく。

 その日、紫雨はもう怒らなかった。ただ隣で一人、線香花火をしていた。自分はそういうのに興味がなかったから、火をつけたあとに丸まる線香花火の先を見て、生き物みたいで気持ち悪いなと思っていた。紫雨が持っていても落ちる火玉。そんなに楽しいことなのだろうか。まだ田んぼの反射した風景を見ている方が好きかもしれない。花火はそこにしか光がなくて寂しい、そして儚い。火玉が落ちる瞬間まで気を張るだけなんて想像しただけで疲れる。
 隣で何を考えているのやら、彼は線香花火を掴んでは火玉が落ちるを繰り返していた。落ちないように何度も繰り返し、根気強く試している。

 ……変なの。

 今日は親が帰ってこない。だから朝まで紫雨と共にいた。人と抱き合って眠るのはいつぶりか、背中を向けて寝ている紫雨を後ろから抱きしめるようにして眠った。温かい体温が心地よくて幸せな気持ちになる。まるで、むかし親と一緒に寝ていたときのようだった。
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