あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫

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第二部

誰か止めて下さい

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 私室の窓から心地よい風が通り抜けていく。日差しは段々と夏のそれへと移ろい、少し動けば汗ばむ季節がやってきたけれど、私の心は色んな意味で穏やかではなかった。

「ヴォルフ様、もう十分です!」
「だが妻の望みを叶えるのは夫の務めだろう?」

 私の制止は正論で否定されてしまった。私の前には私が好きなレグレの実が皿の上に鎮座していた。今の私にとっては数少ない栄養源だけど……

「どうやって手に入れたのです? 今は手に入りませんよね?」
「他国から取り寄せた」
「た、他国から取り寄せたって……」

 そりゃあゾルガー家は領地が海に面していて大きな港を要する街があって、そこでは色んな国から色んな品が入って来るわ。だから季節外れの果物も手に入るかもしれないけれど、それにしたってお金をかけ過ぎだわ。

「そんな……この程度のことで取り寄せていては我が家が破産してしまいます!」
「この程度のことで揺らぐことはない」
「ですが……!」
「仕方がないだろう。何も食べられないんだ。それではお腹の子にもよくない」

 それはそうだけど……その通りなのだけど、だからと言って散財し過ぎだわ。それに食べられないって、食べれるわよ、少しなら……って、ダメ……食べ物のことを考えたら、また吐き気が……

 事の発端は先日の夜会で判明した私の妊娠。最初に医師に診察してもらった時はお腹の風邪か軽い食当たりではないかと言われて、それ用の薬湯を飲んでも改善するどころか酷くなる一方だった。五日ほど様子を見た後で再度診ていただいたら子が出来ているのかも知れないと言われたのだ。それからしばらく様子を見ていたけれど、月の物の遅れが半月になってほぼ間違いないと言われて今に至る。

 それはそれで非常に嬉しかったのだけど……私のつわりはかなり酷い方だった。夜会のあの日から食事があまり出来ず、今日で一月になる。驚くほど匂いに敏感になってしまって、しかもその許容範囲が極端に狭くなってしまった。そのせいで大好きだったヴォルフ様の匂いを筆頭に、今までは好ましく思っていた匂いは全滅、食べ物もほんの数種類を除いて匂いでまず拒否反応が出てしまった。今口に出来るのはマルガが作ってくれた独特の匂いと味がする薬湯と薬草茶、レグレなどの一部の木の実などで、レグレの実を薄く切って乾燥させた物を美味しいと言ったら、ヴォルフ様の取り寄せが始まったのだ。

「奥様、旦那様は奥様が心配なのですよ」
「……ティオまでそんなことを……」

 ティオまで……お願いだから、誰かヴォルフ様を止めて……

「まぁまぁ奥様、旦那様は奥様もお子も心配なのですよ。この先何年も続くわけではないのですから」

 ティオもスージーもヴォルフ様の肩を持つけれど、今だけの話だからここまでしなくてもいいと思うのよ。つわりなんて長くても三月ほどで終わるというし。

「嫌だったか?」
「……え?」
「そこまで嫌がるなら無理強いはしないが……」
「い、いえっ! 嬉しいですわ。お気持ちはとっても! でも、私一人のために取り寄せるなんてさすがに……」
「心配無用だ。他の品も一緒に取り寄せている。レグレの実はついでだ。気にするな」

 そ、そうなの? だったらいいのかしら? 何だか上手く丸め込まれた気もするのだけど……

「お前はドレスも宝石も欲しがらない。それらに比べたら微々たるものだ。それにそこまで甲斐性なしではない」

 それは欲しいという前に最上の品が用意されているからよ。それ以上を求めるなんて身に余るわ。それにヴォルフ様に甲斐性がないなんて思わないわよ。むしろその逆だもの……

「さぁさぁ奥様。色が変わってしまう前にお召し上がりください」
「え、ええ……」
「ほら」
「え?」

 ヴォルフ様がレグレの実を一切れ、フォークに刺して差し出してきた。えっと……ティオたちのいる前で? これを口にしろと? 自分で食べられるし、さすがに恥ずかしいのだけど……

「食べないのか?」
「い、いえ……そういう訳では……」
「せっかく手に入れたんだ。傷む前に食え」

 圧が凄い……吐き気も凄いのだけど……ヴォルフ様だけでなくティオたちの視線に負けて思い切ってレグレの実を口にした。その瞬間控えめな甘さと酸っぱさがたっぷりの果汁と供に口に広がった。美味しい……でも恥ずかしい……そしてやっぱり気持ち悪い……こんな時でなかったらと思わずにはいられないわ。

 半分ほどを食べたら限界が来てしまって、後はジュースにして貰った。美味しくても吐き気には敵わないわ。それでも少しは食べられたから良しとすべきね。そう言えば肉など久しく食べていないわ。想像するだけで吐きそうになるから。先日は夕食の匂いを服に付けたヴォルフ様が部屋に入っただけでダメだった。こんなに大変だとは思わなかったわ……リーゼ様もかなり酷かったそうだけど、これじゃ何もする気が起きないわよね。

「イルーゼ様、少し休んで下さい」
「ええ、そうさせてもらうわ」

 ヴォルフ様が執務に戻られるとロッテが直ぐに皿を下げてひざ掛けを持って来てくれた。ヴォルフ様の前では吐きたくなくて我慢していたら凄く疲れてしまったわ。体力の劣化も凄まじいし、これでちゃんと出産できるのかしら……もう不安しかない。

 クッションを抱きしめながら楽な姿勢を求める。少し体を起こしていた方が楽なのよね。部屋の匂いも実はダメなのだけど、これでも随分マシになったわ。ヴォルフ様だけでなく使用人たちの香油などの匂いも全てダメだったから。お陰で今はこの東棟に出入りする者は香油の使用を禁じられている。

 それだけじゃないわ。屋敷の警備は一層厳しくなったらしい。この東棟に出入りする者は限定されてしまって、今は部屋の掃除などもロッテやザーラがやってくれている。私の部屋のバルコニーの側にある木は暗殺者に利用されるかもしれないと切られてしまったし、そのバルコニーやその下にも騎士が常に立つようになった。お陰で夜会の後はこの東棟から一歩も外に出ていない。気持ち悪くて動く気力もないのだけど……

 それにしてもヴォルフ様は意外と心配性だわ。あの夜会の時だって、陛下に呼ばれて行ったのに直ぐに戻ってきてしまわれたもの。陛下のご用はもういいのですかと尋ねたら、どうでもいいと仰るし。何の問題もないと仰っていたけれど、きっと陛下に後にしろとか言って戻ってこられたのだと思う。ヴォルフ様ならやりかねないわ。実子だから不敬罪に問われることはないのが幸いよね。

 その後、そんな顔色で夜会に出ると余計な憶測を呼ぶと止められて、そのまま控室で休むことになってしまった。しかも夜会の途中で用は済んだから帰ると言い出して驚いたわ……陛下のお祝いなのによかったのかしら? いえ、あの後陛下から内々にお祝いの品が届いたから気を悪くされてはいないと思うのだけど……

 そう、ヴォルフ様ったら子が出来たって言ってしまわれたのよね。安定期に入るまでは公にしないのが一般的なのに。お陰であちこちから大量にお祝いの品が届いてしまって、今はそれを無下にしないよう気を使う毎日。もっともつわりのせいで何かをしようという気にもなれず寝てばかりなのだけど……

「イルーゼ様、薬草茶をお淹れしましたわ」
「ありがとう。ちょっと酷くなって来たから助かるわ」

 レグレの実は好きだけど、つわりが始まってからは前ほど美味しいと思えない。それでも他の物よりはずっと食べやすいのだけど。今はマルガが作ってくれる薬草茶に助けられているわ。独特の味と香りだけど、すっとするから吐き気が軽くなる気がするのよね。

 お茶を飲んだら少し楽になったわ。一体いつまで続くのかしら……ヴォルフ様だけでなく屋敷のみんなが私を甘やかすわ。このままじゃダメ人間になってしまいそう。だから早く終わってほしい。今は匂いが辛くてヴォルフ様との時間もあまりとれないもの。早くヴォルフ様の寝室で一緒に眠りたいわ。気持ち悪さで眠れない夜は長くて寂しいのよ……



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