【完結】望んだのは、私ではなくあなたです

灰銀猫

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裏切られた期待

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 腫れぼったい目のまま、翌日出勤した。タオルで冷やしたから大分マシにはなっただろうか。こんな顔で室長の前に出たくないけれど、だからと言って急に休んでご迷惑をかけたくはなかった。

「おはようございます」
「おはよう、シャリエ嬢。いい朝だね」
「おはよう、シャリエ嬢」

 執務室に入ると、今日はムーシェ様以外の姿があった。室長の姿に沈んでいた心が浮上する。

「おはよう、シャリエ嬢。ああ、この書類を頼んでもいいかな?」

 自分の机に腰を下ろそうとする直前、声をかけられたので室長の前に向かった。この部屋で一番大きな机の上には今日もたくさんの書類が並んでいる。既に決済済みの箱にはいくつもの書類があった。朝早くから仕事をなさっていたのだろう。

「出来れば明日のお昼までに頼めるかな。前にもやったことがあるから君なら問題ないだろう。それが終わったらこちらを。これは急ぎじゃないし計算が複雑だから、慌てずじっくりやって欲しい。わからないことがあったら遠慮なく聞いてほしい」

 室長は仕事を振る時、必ず納期や注意点を添えてくれる。ブルレック様のようにただやっておけと言って終わりではない。その心遣いが嬉しくも有り難い。それだけでも仕事がやり易くなるから。一方でこんなに膨大な書類の一つ一つを把握していることにも感心してしまう。他の部署では中身まで細かく把握している人はいないらしいから。

「かしこまりました」
「うん、よろしく頼むよ」

 優しい笑顔に私がやる気で満たされた。それだけのことなのに、また目の奥に小さな痛みを感じて奥歯を噛んだ。戻ってきた現実が胸を抉る。まだ結婚すると決まったわけではないと心を落ち着かせる向こうから断って来る可能性もあるのだから。

 何時も不在が多い室長が、今日は珍しく執務室にいた。たったそれだけのことで心が浮足立ち、全身が室長の一挙手一投足を意識してしまう。誰かに知られたら変に思われるだろう。それは避けたい。自分を戒めながらも心は嬉しさに満ちていた。

 夕方になると室長がルイーズ様に呼ばれて行ってしまった。満たされた思いが寂しさに入れ替わっていく。それでも長い時間を同じ空間にいられた事が嬉しい。この時間が有限だとわかった今は一層愛おしく思えた。このまま時が止まってしまえばいいのにとすら思う。

(馬鹿ね……吹っ切らなきゃいけないのに……)

 室長は今でも奥様を愛しているという。私などただの部下で小娘でしかない。美人でも男性が好むような身体付きでもなく、家格だって釣り合わない。希望を持ちたくても現実は優しくなかった。
 亡き奥様は侯爵家のご令嬢で、初雪のように儚げで美しかったという。先が短いとわかっていたからこそ、きっと想いは強く深くなり、それは今も色褪せないだろう。未だに母を想い、ミレーヌを溺愛している父がいい例だ。死んだ人への想いはその時のまま色褪せず残るものなのだろう。そう思うのに、心は意に反して勝手に思いを募らせていく……

(……フィルマン様も、そうだったのかしら……)

 婚約者がいたのにフルール様に焦がれていたフィルマン様。その行為を浅はかだと思っていたけれど、こんな想いなら止められなかったのも仕方がないと思えた。厄介だと思うのに、手放すことが出来ないし手放したくないと思う。こんな思いがあるなんて知らなかった。

 室長は夕方になるとルイーズ様に呼ばれて行ってしまった。それを残念に思いながらも、少しほっとする自分がいた。意識し過ぎたのだろう、凄く疲れたように感じる。終業の鐘が遠くで鳴っている。仕事は思ったよりも進んでいるし、明日のお昼までにと頼まれた書類も、朝一番には提出出来る。室長のいない部屋が虚しく感じられて、その日は早々に帰ることにした。



「へぇ、じゃぁ、ジョゼフは結婚しちゃうの? あんなに拒んでいたのに?」
(……え?)

 王宮の回廊を進んでいくうちに、呼ばれた名に足が止まった。声のする方を見ると、庭の木々の向こうに男性三人の姿が見えた。砕けた物言いから仲がいいのが察せられた。年も近く見えるから同級か同僚だろうか。あの金髪は……

「父がうるさいんだよ、早く結婚しろ、でなければ家督は弟に継がせるって」

 その言葉に身体が強張った。何を言おうとしているか……

「まぁ、結婚していないのはジョゼフだけだもんなぁ」
「本当に婚約する気か? あの才女様だろう?」
「どうせなら妖精姫の妹がいいんじゃないか? 頭緩そうだから扱いやすそうだし」
「そうそう、頭の中お花畑だもんなぁ。股も緩そうだけど」

二人が好き勝手なことを言っているけれど、世間で私たちがそう呼ばれていたのは知っていた。ミレーヌは人気があると思っていたけれど、彼らの口調は思っていた以上に辛辣だった。これではミレーヌに縁談が来ないのも仕方がないだろう。

「家の中で可愛いだけの子猫ちゃんを飼う気はないよ。仕事が増えるだけだからね」
「まぁ、確かにな」
「おいおい、それじゃ姉かよ」
「当り前だろう。妹じゃ家政を任せられないよ」
「ええ? でも、あの姉とやるのか?」
「当り前だろう。それも役目だからね」

 どっと笑いが湧くのを聞いて目の前が暗くなった。気付かれないよう足早にその場を離れたけれど、心臓がけたたましく鳴り続けた。

(まさか、結婚に前向きだったなんて……)

 地味で面白みのない自分などきっと断って来ると、ミレーヌがいいと言い出すと期待していたのに、一縷の望みは呆気なく消えてしまった。せっかく乾いた枕がまた涙に濡れた。



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