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鬼(一)
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十八になった広之助は、大坂船場の支店で手代として二年を過ごした。支店は本店よりも規模が大きく、五十名の奉公人を抱えている。江戸とは言葉も違えば商売の仕方も異なる。そこで二年必死に働いた広之助は、二十の初夏に江戸へ呼び戻された。そうして、晴れて大鳥屋の後継者となることが許されたのだった。
「若旦那、若旦那がお戻りだ!」
「若旦那、お帰りなさいまし!」
久しぶりに本店に足を踏み入れた広之助を、奉公人たちがわっとばかりに取り囲む。
「なんとまぁ、ご立派になられて。ぐんと背が伸びましたねぇ。大坂へまでやられて、さぞご苦労なすったでしょう」
旅装姿の若旦那を上から下まで見回しながら、手代の信介が鼻をすする。
「まったくです。大坂店からも、ほんとうによくお勤めでおられたと聞いておりますよ。どうですか、この凛々しいお姿。こりゃあ日本橋で知らぬ人のない若旦那になられること間違いなし。大鳥屋は安泰です」
大番頭の平五郎までもが涙ぐみながら言うので、広之助は何やらこそばゆい心地になった。
少年の頃にはさんざん雷を落としてくれた重役たちが、嬉し涙を浮かべているのを見ると、無性に胸が切なく締め付けられる。
「おめでとうございます、若旦那」
「おめでとうございます」
小僧たちまではしゃいで声を張り上げる。
「ありがとう。私も戻ってこられて嬉しいよ。まだまだ未熟だが、皆、向後もよろしく頼む」
皆の顔を見回してそう言うと、
「へぇ、若旦那!」
と一同が頭を下げて威勢よく声を張った。
はにかみながら目を上げれば、帳場の奥に佇んでいる義父の姿がある。
藤五郎を従えてこちらを見守っている四代目は、広之助と視線が合うと、
「──よく帰ったな、広之助」
と朗らかに言った。
思わず声を詰まらせる広之助に、義父はゆっくりと頷いて破顔する。
番頭筆頭の藤五郎はといえば、跡継ぎなんですからこのくらい当然です、という顔でいつも通りの沈着ぶりだ。
皆に、育ててもらった。
本店の見慣れた店内に視線を巡らせ、思った。
夢中で歳月を過ごすうちに、十四の頃から六年の月日が流れていた。少しは、若旦那らしくなれただろうか。勤勉で、お客と奉公人を大切にする、誠実な店主に近づいたであろうか。
自分は、変わった。鎌倉にいた頃の自分とは、似ても似つかぬほどに。
武家でなくなることが、悲しくてならなかった。自分自身を失うようで、怖かった。
だが、失ったものなどない。
多くのものを、得た。たくさんのものを、与えられて生きてきた。
……千川の父は、この姿を見て喜んでくださるだろうか。
歯を零して四代目紀堂に笑みを返しながら、誇らしい気持ちでそう考えていた。
──厳しい藤五郎の声が訴えている。
「今この時だからこそ、そうなさらねばならないのです。広彬様」
障子の外の悶えるような蝉の声が、近づいては遠ざかる。大鳥屋五代目紀堂は、馴染み深い冬の嵐を耳の奥に聞きながら、立ち上がろうと足掻いていた。藤五郎が立てという。立たなくては。わかっている。早く、立ち上がらなくては。
立ち上がろうと、しているんだ。
けれども立ち上がろうとする度に、泥のような絶望に足を取られ、頭の先まで沈んでいく。
底なしの悲しみから、這い上がることができない。
父上。広衛。
寒くて寒くて、息もできない。父と弟の名を呼びながら、紀堂は暗く冷たい泥濘の中で、慟哭していた。
***
大番頭の工作が功を奏し、お見舞いと称して堀家預となっている千川家家臣への援助が許されたのは、襲撃の夜から十日ほどが過ぎた頃のことだった。
紀堂は即座に数百両を融通すると、堀家重役への目通りを願った。
大鳥屋の千川家への忠義に感銘を受けたらしい堀家側は、これを許すと四日ほどして伝えてきたのだった。
「千川家御用達であったご恩からの衷心、まことに大義である。此度の千川家の罪は許し難きものなれども、ご高家筆頭のお血筋なれば、ご家臣をあたら粗略に遇してはならぬとの我が殿の思し召しである。その方らも安堵致すがよい」
堀家用人の杉本庫八が、上屋敷を訪れた紀堂と藤五郎の前に現れ直々にそう述べた。
「もったいなきお言葉でございます。大和守様の思し召し、まことに、感謝の念に堪えませぬ」
痩せた体を羽織袴に包み、紀堂は深々と平伏する。杉本がゆっくりと頷く気配を感じながら、紀堂はしばし躊躇った末口を開いた。
「──恐れながら、ご用人様。お訊ね申し上げたき儀がございますが、お許しを賜れましょうか」
「許す。申すがいい」
は、と紀堂は恐縮しながら半ば顔を上げる。
「ご家臣の皆様へのご処罰は、解かれましょうか」
「……委細を申すことは出来かねる。しかし、これ以上の刑は無用であろうとお考えのお方も、おられるようではある」
幕閣の間でも意見は分かれているのだろう。千川家が謀反を企むなぞ到底あり得ぬことだから当然だ。ならば、なぜこんな暴虐がまかり通ったのか。紀堂は畳についた両手に力を込めた。
「……ご無礼を重々承知の上申し上げます。当店は長年千川様に出入りを許され、ご親愛を賜って参りました。店主の私のみならず、奉公人一同は今般の出来事に悲嘆に暮れてございます。恐れながら、お殿様も若殿様も謹厳実直であられますれば、お家の名に瑕瑾があった例はございません。かような罪を犯す方々とは、到底思えませぬのです。手前は皐月の御嘉祥祝いの際お二方に拝謁致しましたが、かほどの大事を企むご様子など、何一つございませんでした。一体……いかなる証拠があってお二方に謀反の罪が問われたのでございましょうか」
「大鳥屋、控えよ。口が過ぎるぞ。公儀の裁きに誤りがあったとでも申す気か」
杉本が低く窘めた。
「ご公儀のお裁きとあらば、これも千川様のご命運であったかと愚慮する他にはございませぬ。しかしながら……」
藤五郎が何か言いたそうに背後で身じろぎするのを察しながら、紀堂は顔を上げる。
咎めるように顔をしかめた杉本が、はっと息を飲んだ。
厳格さと自制心を備えた老練な用人が、紀堂の顔を見詰めたまましばし瞬きを忘れている。
目を疑うような秀麗さなのだ。富商大鳥屋の若き店主であるから、りゅうとして垢抜けた風采は当然にしても、白く端正な面立ちとすらりとした姿形は、人の目を奪わずにはいられなかった。今は苦痛を表して憔悴したその姿は、いっそ鬼気迫るほど美しい。
紀堂は唖然として固まっている杉本に、切々と訴える。
「しかしながら、ご当主様とご嫡子様が磔刑に処されるとの噂を聞き及んだ私どもの痛哭を、言い表す言葉はございませぬ。お殿様はもちろんのことにございますが、若殿様はわずかに十六にあらせられました。それがご供養も許されず、あまつさえ衆目の目に晒されようとは、あまりのご処罰ではございませんか。奥様やご家臣団の方々のお嘆きをお察しするだに胸ひしぐ思いでございます。……どうか、どうか大和守様のお慈悲を賜りたく存じます。磔刑だけはご寛恕くだされますように、お力添えを賜りとうございます」
「──くどいぞ。口を慎め」
我に返ったように杉本が顔色を変え、叱咤する。
「商人が口を出すべきことではない。弁えよ」
本来であれば激怒されてもおかしくない傲慢な発言だが、壮年の杉本の口調は倅を嗜めるような響きがあった。紀堂の美貌のせいか、それとも千川家への同情によるものか。あるいは、その両方か。
杉本庫八は堀家用人と同時に、大和守の公用人も兼務している人物だ。公用人とは、老中や若年寄を務める主の側近として働く者をいう。幕閣との面識を得ることを望む場合、窓口となるのと同時に、主のもっとも身近な相談相手となるのがこの公用人なのだ。紀堂はこの男を通じ、どうしても磔刑の撤回を大和守に訴えたかった。町人の分を越えていることは承知の上で、訴えずにはおられなかった。
「……ご家中の皆様が」
声を詰まらせ、紀堂はなおも続ける。
「食をお絶ちになられ、お許しを願っておられるとお聞き致しました。一介の商人にできることなど、たかがしれてございます。しかし、商人にも報徳と至誠の念はございます。ご家臣方のお苦しみを知りながら我が身可愛さに口を噤んでは、己の矜持を裏切ることになりまする。そのためであれば、処罰を受けることも厭いませぬ。何卒……何卒お願い申し上げます」
座敷がしんと静まり返る。
畳に額を押し付け、肩をふるわせる若い店主に目を据えていた公用人は、やがて低く声を発した。
「……その方の誠心のほどはわかった。我が殿は……大沢右京太夫様らのご哀訴を受け、磔刑を撤回していただこうとお働きでおられる」
思わず顔を上げて杉本を凝視すると、男は目で頷いた。
「ご宿老方におかれても、思し召しを同じくなさる方々は少なくない。……今少し、耐えて待て」
杉本の言葉の意味が頭に浸みていく。冷たく強張っていた頬にさっと血が昇り、みるみる胸が詰まった。
すぐに、激しい感情が吹き荒れる。
力の抜けそうな体をどうにか支えて喘ぐ紀堂を、公用人が驚きを隠さず見下ろしていた。
「……有難き幸せにございます。まことに……何と……お礼を申し上げれば……」
崩れるように平伏し、かすれた声を絞り出す。
「僭越ではございますが……どれほど、ご正室様やご家中の方々が……ご安堵なされますことか……」
磔刑を免れるかもしれぬ、と言っているのだ。
無残に命を奪われ、埋葬も許されずに塩漬けとされた父と弟を、せめて衆目に晒して辱めることだけは避けることができる。
それだけでも、この地獄にあってはわずかな救いだった。
歯を食い縛って嗚咽をこらえている青年の姿に、感じるところがあったのだろう。杉本の声が湿った。
「──今般の処罰はまことに悲痛極まるものであった。罪を犯したとはいえ、ご家臣やそなたら下々に至るまでの衷心には心打たれるものがある。……心安んじて、懇ろにお二人の霊を弔うがいい」
紀堂は無言で唇を引き結んだ。安らぎなぞ、あるはずもない。大罪人の汚名を被せられ、家門を滅ぼされて、生きている者にも死んだ者にもいかなる平安が訪れるというのだろうか。
「……ご芳志に、心より感謝申し上げます」
紀堂は今一度深く拝跪すると、しばらくそのまま動かなかった。
西丸下の屋敷を辞し、神田の駕篭屋で二挺仕立てて藤五郎と乗り込むと、目を開けているのも耐えられぬほどの疲労感がのしかかってきた。磔刑を免れるかもしれないと知った途端、放心したように心が鈍っていた。喜びなどない。救われるものなど何ひとつない。もう、何も考えたくなかった。
瞼を閉じると、急に想い人の顔が浮かんだ。
──有里さん。
会いたい。
料理を持って訪ねてきたところを追い返して以来、半月あまりの間やりとりは途絶えている。一度紀堂を案ずる文が届いたが、忙しくて暇が作れないことを詫びる短い返事を返した他に、有里のことを考える余裕がなかった。
有里の兄の友一郎が訪ねてきて、飯でも食いに行かないかと誘われたこともあったが、忙しいと断った。紀堂の様子がおかしいと妹から聞き及んだのだろうが、とても話なぞできる心持ちではなかった。
一体、何を話せというのか。自分は大罪の汚名を着せられた千川家の庶子で、父と弟がいたのだが火盗改に殺され、あまつさえ磔刑に処されるかもしれぬ。だから今は祝言など考えられないと告げるのか。……そんなことが、できるものか。
有里が恋しい。
笑顔が見たい。声を、聞きたい。頬に触れて、何ごともなかったかのように抱き締めたい。
込み上げるように思った時、鳩尾に冷たいものが触れた気がした。
何もなかったことになど、できはしないのだ。わずかの間に、有里との間に奈落のような隔たりが生まれていた。いったい、どうしたらそれを越えられるのかわからない。もう、どうやって笑えばいいのかすら思い出せない。有里に笑いかけることが、金輪際できそうにない。
有里と夫婦になるのだと、あれほど確信を抱いていたというのに。それなのに、もう、有里と生きていく己の姿を思い描くことさえできなかった。
幸福も、充足も、希望も、どんな手触りであったのか覚えていない。
目の前にはただ、凍えるように冷たい暗闇が果てしなく広がるばかりだ。
埃っぽい往来の喧騒に包まれながら、紀堂は凍りついたように虚空を見詰め、凝然として駕篭に揺られていた。
「若旦那、若旦那がお戻りだ!」
「若旦那、お帰りなさいまし!」
久しぶりに本店に足を踏み入れた広之助を、奉公人たちがわっとばかりに取り囲む。
「なんとまぁ、ご立派になられて。ぐんと背が伸びましたねぇ。大坂へまでやられて、さぞご苦労なすったでしょう」
旅装姿の若旦那を上から下まで見回しながら、手代の信介が鼻をすする。
「まったくです。大坂店からも、ほんとうによくお勤めでおられたと聞いておりますよ。どうですか、この凛々しいお姿。こりゃあ日本橋で知らぬ人のない若旦那になられること間違いなし。大鳥屋は安泰です」
大番頭の平五郎までもが涙ぐみながら言うので、広之助は何やらこそばゆい心地になった。
少年の頃にはさんざん雷を落としてくれた重役たちが、嬉し涙を浮かべているのを見ると、無性に胸が切なく締め付けられる。
「おめでとうございます、若旦那」
「おめでとうございます」
小僧たちまではしゃいで声を張り上げる。
「ありがとう。私も戻ってこられて嬉しいよ。まだまだ未熟だが、皆、向後もよろしく頼む」
皆の顔を見回してそう言うと、
「へぇ、若旦那!」
と一同が頭を下げて威勢よく声を張った。
はにかみながら目を上げれば、帳場の奥に佇んでいる義父の姿がある。
藤五郎を従えてこちらを見守っている四代目は、広之助と視線が合うと、
「──よく帰ったな、広之助」
と朗らかに言った。
思わず声を詰まらせる広之助に、義父はゆっくりと頷いて破顔する。
番頭筆頭の藤五郎はといえば、跡継ぎなんですからこのくらい当然です、という顔でいつも通りの沈着ぶりだ。
皆に、育ててもらった。
本店の見慣れた店内に視線を巡らせ、思った。
夢中で歳月を過ごすうちに、十四の頃から六年の月日が流れていた。少しは、若旦那らしくなれただろうか。勤勉で、お客と奉公人を大切にする、誠実な店主に近づいたであろうか。
自分は、変わった。鎌倉にいた頃の自分とは、似ても似つかぬほどに。
武家でなくなることが、悲しくてならなかった。自分自身を失うようで、怖かった。
だが、失ったものなどない。
多くのものを、得た。たくさんのものを、与えられて生きてきた。
……千川の父は、この姿を見て喜んでくださるだろうか。
歯を零して四代目紀堂に笑みを返しながら、誇らしい気持ちでそう考えていた。
──厳しい藤五郎の声が訴えている。
「今この時だからこそ、そうなさらねばならないのです。広彬様」
障子の外の悶えるような蝉の声が、近づいては遠ざかる。大鳥屋五代目紀堂は、馴染み深い冬の嵐を耳の奥に聞きながら、立ち上がろうと足掻いていた。藤五郎が立てという。立たなくては。わかっている。早く、立ち上がらなくては。
立ち上がろうと、しているんだ。
けれども立ち上がろうとする度に、泥のような絶望に足を取られ、頭の先まで沈んでいく。
底なしの悲しみから、這い上がることができない。
父上。広衛。
寒くて寒くて、息もできない。父と弟の名を呼びながら、紀堂は暗く冷たい泥濘の中で、慟哭していた。
***
大番頭の工作が功を奏し、お見舞いと称して堀家預となっている千川家家臣への援助が許されたのは、襲撃の夜から十日ほどが過ぎた頃のことだった。
紀堂は即座に数百両を融通すると、堀家重役への目通りを願った。
大鳥屋の千川家への忠義に感銘を受けたらしい堀家側は、これを許すと四日ほどして伝えてきたのだった。
「千川家御用達であったご恩からの衷心、まことに大義である。此度の千川家の罪は許し難きものなれども、ご高家筆頭のお血筋なれば、ご家臣をあたら粗略に遇してはならぬとの我が殿の思し召しである。その方らも安堵致すがよい」
堀家用人の杉本庫八が、上屋敷を訪れた紀堂と藤五郎の前に現れ直々にそう述べた。
「もったいなきお言葉でございます。大和守様の思し召し、まことに、感謝の念に堪えませぬ」
痩せた体を羽織袴に包み、紀堂は深々と平伏する。杉本がゆっくりと頷く気配を感じながら、紀堂はしばし躊躇った末口を開いた。
「──恐れながら、ご用人様。お訊ね申し上げたき儀がございますが、お許しを賜れましょうか」
「許す。申すがいい」
は、と紀堂は恐縮しながら半ば顔を上げる。
「ご家臣の皆様へのご処罰は、解かれましょうか」
「……委細を申すことは出来かねる。しかし、これ以上の刑は無用であろうとお考えのお方も、おられるようではある」
幕閣の間でも意見は分かれているのだろう。千川家が謀反を企むなぞ到底あり得ぬことだから当然だ。ならば、なぜこんな暴虐がまかり通ったのか。紀堂は畳についた両手に力を込めた。
「……ご無礼を重々承知の上申し上げます。当店は長年千川様に出入りを許され、ご親愛を賜って参りました。店主の私のみならず、奉公人一同は今般の出来事に悲嘆に暮れてございます。恐れながら、お殿様も若殿様も謹厳実直であられますれば、お家の名に瑕瑾があった例はございません。かような罪を犯す方々とは、到底思えませぬのです。手前は皐月の御嘉祥祝いの際お二方に拝謁致しましたが、かほどの大事を企むご様子など、何一つございませんでした。一体……いかなる証拠があってお二方に謀反の罪が問われたのでございましょうか」
「大鳥屋、控えよ。口が過ぎるぞ。公儀の裁きに誤りがあったとでも申す気か」
杉本が低く窘めた。
「ご公儀のお裁きとあらば、これも千川様のご命運であったかと愚慮する他にはございませぬ。しかしながら……」
藤五郎が何か言いたそうに背後で身じろぎするのを察しながら、紀堂は顔を上げる。
咎めるように顔をしかめた杉本が、はっと息を飲んだ。
厳格さと自制心を備えた老練な用人が、紀堂の顔を見詰めたまましばし瞬きを忘れている。
目を疑うような秀麗さなのだ。富商大鳥屋の若き店主であるから、りゅうとして垢抜けた風采は当然にしても、白く端正な面立ちとすらりとした姿形は、人の目を奪わずにはいられなかった。今は苦痛を表して憔悴したその姿は、いっそ鬼気迫るほど美しい。
紀堂は唖然として固まっている杉本に、切々と訴える。
「しかしながら、ご当主様とご嫡子様が磔刑に処されるとの噂を聞き及んだ私どもの痛哭を、言い表す言葉はございませぬ。お殿様はもちろんのことにございますが、若殿様はわずかに十六にあらせられました。それがご供養も許されず、あまつさえ衆目の目に晒されようとは、あまりのご処罰ではございませんか。奥様やご家臣団の方々のお嘆きをお察しするだに胸ひしぐ思いでございます。……どうか、どうか大和守様のお慈悲を賜りたく存じます。磔刑だけはご寛恕くだされますように、お力添えを賜りとうございます」
「──くどいぞ。口を慎め」
我に返ったように杉本が顔色を変え、叱咤する。
「商人が口を出すべきことではない。弁えよ」
本来であれば激怒されてもおかしくない傲慢な発言だが、壮年の杉本の口調は倅を嗜めるような響きがあった。紀堂の美貌のせいか、それとも千川家への同情によるものか。あるいは、その両方か。
杉本庫八は堀家用人と同時に、大和守の公用人も兼務している人物だ。公用人とは、老中や若年寄を務める主の側近として働く者をいう。幕閣との面識を得ることを望む場合、窓口となるのと同時に、主のもっとも身近な相談相手となるのがこの公用人なのだ。紀堂はこの男を通じ、どうしても磔刑の撤回を大和守に訴えたかった。町人の分を越えていることは承知の上で、訴えずにはおられなかった。
「……ご家中の皆様が」
声を詰まらせ、紀堂はなおも続ける。
「食をお絶ちになられ、お許しを願っておられるとお聞き致しました。一介の商人にできることなど、たかがしれてございます。しかし、商人にも報徳と至誠の念はございます。ご家臣方のお苦しみを知りながら我が身可愛さに口を噤んでは、己の矜持を裏切ることになりまする。そのためであれば、処罰を受けることも厭いませぬ。何卒……何卒お願い申し上げます」
座敷がしんと静まり返る。
畳に額を押し付け、肩をふるわせる若い店主に目を据えていた公用人は、やがて低く声を発した。
「……その方の誠心のほどはわかった。我が殿は……大沢右京太夫様らのご哀訴を受け、磔刑を撤回していただこうとお働きでおられる」
思わず顔を上げて杉本を凝視すると、男は目で頷いた。
「ご宿老方におかれても、思し召しを同じくなさる方々は少なくない。……今少し、耐えて待て」
杉本の言葉の意味が頭に浸みていく。冷たく強張っていた頬にさっと血が昇り、みるみる胸が詰まった。
すぐに、激しい感情が吹き荒れる。
力の抜けそうな体をどうにか支えて喘ぐ紀堂を、公用人が驚きを隠さず見下ろしていた。
「……有難き幸せにございます。まことに……何と……お礼を申し上げれば……」
崩れるように平伏し、かすれた声を絞り出す。
「僭越ではございますが……どれほど、ご正室様やご家中の方々が……ご安堵なされますことか……」
磔刑を免れるかもしれぬ、と言っているのだ。
無残に命を奪われ、埋葬も許されずに塩漬けとされた父と弟を、せめて衆目に晒して辱めることだけは避けることができる。
それだけでも、この地獄にあってはわずかな救いだった。
歯を食い縛って嗚咽をこらえている青年の姿に、感じるところがあったのだろう。杉本の声が湿った。
「──今般の処罰はまことに悲痛極まるものであった。罪を犯したとはいえ、ご家臣やそなたら下々に至るまでの衷心には心打たれるものがある。……心安んじて、懇ろにお二人の霊を弔うがいい」
紀堂は無言で唇を引き結んだ。安らぎなぞ、あるはずもない。大罪人の汚名を被せられ、家門を滅ぼされて、生きている者にも死んだ者にもいかなる平安が訪れるというのだろうか。
「……ご芳志に、心より感謝申し上げます」
紀堂は今一度深く拝跪すると、しばらくそのまま動かなかった。
西丸下の屋敷を辞し、神田の駕篭屋で二挺仕立てて藤五郎と乗り込むと、目を開けているのも耐えられぬほどの疲労感がのしかかってきた。磔刑を免れるかもしれないと知った途端、放心したように心が鈍っていた。喜びなどない。救われるものなど何ひとつない。もう、何も考えたくなかった。
瞼を閉じると、急に想い人の顔が浮かんだ。
──有里さん。
会いたい。
料理を持って訪ねてきたところを追い返して以来、半月あまりの間やりとりは途絶えている。一度紀堂を案ずる文が届いたが、忙しくて暇が作れないことを詫びる短い返事を返した他に、有里のことを考える余裕がなかった。
有里の兄の友一郎が訪ねてきて、飯でも食いに行かないかと誘われたこともあったが、忙しいと断った。紀堂の様子がおかしいと妹から聞き及んだのだろうが、とても話なぞできる心持ちではなかった。
一体、何を話せというのか。自分は大罪の汚名を着せられた千川家の庶子で、父と弟がいたのだが火盗改に殺され、あまつさえ磔刑に処されるかもしれぬ。だから今は祝言など考えられないと告げるのか。……そんなことが、できるものか。
有里が恋しい。
笑顔が見たい。声を、聞きたい。頬に触れて、何ごともなかったかのように抱き締めたい。
込み上げるように思った時、鳩尾に冷たいものが触れた気がした。
何もなかったことになど、できはしないのだ。わずかの間に、有里との間に奈落のような隔たりが生まれていた。いったい、どうしたらそれを越えられるのかわからない。もう、どうやって笑えばいいのかすら思い出せない。有里に笑いかけることが、金輪際できそうにない。
有里と夫婦になるのだと、あれほど確信を抱いていたというのに。それなのに、もう、有里と生きていく己の姿を思い描くことさえできなかった。
幸福も、充足も、希望も、どんな手触りであったのか覚えていない。
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