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怨念
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正馬が大鳥屋に紀堂を訪ねて現れた時、大番頭の藤五郎は見聞方を使って紀堂を追跡しているところであったそうだ。
「あれは恐ろしい番頭だな。予め堀家の上屋敷に出入りの植木屋を買収し、見聞方の者や香具師元締めの乾分を紛れ込ませていたというではないか。それでそなたたちの後をつけさせたのだとな」
再び襲撃や拐かしに遭わぬとも限らない、と藤五郎は警戒し、市ヶ谷の香具師元締めの文吾から足の速い乾分も借りてあったのだという。紀堂が侍たちと出発した後、彼らは背後をつけて歩きつつ、連絡役を逐一大鳥屋へ走らせていたのだった。
「それで、そなたの身が案じられるから、出向いてくれないかと頼まれた」
「あっしが道案内してきたんですがね。俺も足にゃ自信があるんだが、いやもう、韋駄天みてぇに速ぇんだから。どっちが案内されてんだか」
手近な石の上に座り込み、ひっきりなしに顔に吹き出す汗を拭いながら弥之吉が呻く。
「そうでしたか……」
まったく勘のいい大番頭だ、と紀堂は頬を緩め、後ろで堀家家臣を介抱している隠密たちを振り返った。
玄蕃に当て身を食らわされた堀家家臣は、未だ人事不省に陥っているが、傷は負っていないようだ。
紀堂は道に散らばる死体を見回すと、苦い顔で黙り込んでいる玄蕃に向かって静かに言った。
「屋敷へ戻れ、玄蕃。杉本様には、ご家臣を襲ったのは薩摩の隠密どもだと申し開きをするのだな。俺は迎えの者に預けたとでも言うがいい」
「我らのこと、堀家にはご報告をなさらないので?」
玄蕃が怪訝そうに目を上げた。
「お前たちにいてもらわねば、隠密から広衛を守れぬだろう。見逃すから俺のことは諦めろ。……それとも、まだ続きをやるか」
紀堂の隣に影のようにひっそりと佇む正馬を、三人が剣呑な目で睨んだ。不穏な空気に、弥之吉がぎくりとして肩を竦める。
滝村と磐井が正馬に向かって構えようとするのを、
「やめろ」
と玄蕃が小声で制止した。
「歯が立たぬ。……行くぞ」
怒気を滲ませた声音で唸る玄蕃を見て、二人が顔を強張らせた。隠密が落とした弓を拾って即座に射た上、三人を瞬きの間に斬り捨てた腕は尋常ではない。傷を負った玄蕃ら三人では、束になっても叶わぬと覚ったのだろう。
刀を納め、玄蕃がこちらをじっと見た。
「……今日は、諦めましょう。また、後日に」
そう言って一礼し、玄蕃はだらりと四肢を投げ出している堀家の侍を肩に担いだ。磐井ももう一人を担ぎ上げる。傷を負った滝村が歯を食い縛りながら背後に続こうとして、紀堂をふり返った。よく見れば、紀堂とそう年の変わらぬような若い男だった。滝村は複雑そうな表情を浮かべた目を伏せ、礼をするように小さく会釈した。
鈴虫の物寂しげな声が響く、ますます陰影が濃くなってきた小道を、三人は黙々と去っていった。
***
日本橋に帰り着く頃には、西日が薄れてあたりは青い闇に包まれていた。
揚戸を下ろした店の潜戸に正馬と入ると、
「……旦那様」
と手燭を掲げた藤五郎が土間の奥から現れた。
「お帰りなさいまし。ご無事でいらっしゃいましたか」
奉公人を先に休ませて、二人の帰りを待っていたらしい。足早に歩み寄る藤五郎の顔が、安堵に緩んでいた。
「先生を差し向けてくれて助かったよ。お陰で命拾いした」
「さようでしたか。……野月様、ありがとう存じます」
大番頭は顔を強張らせたが、動揺を飲み込んで正馬に向かって頭を下げた。
「それで……若殿様は」
顔を上げるなりうわずった声で訊ねる男を、紀堂は暫時じっと見返した。胸にあたたかなものがさざ波のように広がる。めまぐるしく変転した長い一日が、夢でも幻でもなかったのだと、ようやく心底実感していた。
「──会って、話をしてきた。息災だった……」
藤五郎の両目がぎゅっと閉じられ、息を詰めるのが感じられた。次いで、大きな嘆息が口から漏れ、羽織の肩がふうっと下がった。
「……ようございました。本当に、ようございました」
嘆息と共に繰り返し、やがて大番頭は気を取り直したように背筋を伸ばした。
「お二人とも、お食事はお済みでございますか。母屋に用意してございますので、どうぞゆっくり召し上がって下さいまし」
きびきびとした口調で言う藤五郎の鋭い目が、白く光るものを浮かべているように見えた。
***
千川家の取り潰しと、広忠と広衛の死去を正馬が知ったのは、文月の終わり、兄・正徳が越後長岡藩に滞在中の正馬へ宛てた文を読んだ時のことだった。
そして長岡で任されていた剣術指南役の仕事を急ぎ切り上げ、江戸に向かう途中に立ち寄った鎌倉で、紀堂から届いていた文を受け取ったのだという。
ことが大塩後素建議書にかかわっていると知った正馬は、韮山代官の江川へ、何者かが建議書を奪おうと企んでいるとの警告を発した。
「すると、江川様より薩摩が背後におることと、隠密が韮山代官所へ向かっているという急報が届いた。そのため韮山へとんぼ返りして、江川様がご秘匿なさっている書簡を守らねばならなくなった」
母屋の居間で紀堂と遅い夕餉をとった正馬は、茶を喫しながら低く言った。
韮山代官の江川太郎左衛門と手代の斎藤弥九郎は神道無念流の使い手で、正馬の同門である。江川から助太刀を頼まれた正馬は韮山へ向かわざるを得ず、今まで足止めを食っていたそうだった。
「隠密は二度ほど江川様のお屋敷を狙ってきた。その間に、大和守様が広衛様をお匿いであることが薩摩へ漏れたと、江戸から知らせがあってな。急ぎ江戸へ戻ったのだ」
それが今日のことだ、と付け加えた。
行灯のやわらかな明かりが、穏やかな瞳に映っている。
総髪に洗い晒した小袖袴の風体で、手練の剣客らしい剣呑さや、血生臭さを感じさせない男だった。
障子を開け放った縁側から、うっすらと蚊遣りの匂いが漂ってくる。藤五郎が淹れた茶を受け取った紀堂は、口もつけぬまま正馬の顔に見入っていた。
「三年前……」
正馬がふたたび口を開いた。
「私は伊予守様に同行して警護役に加わっていたが、途中で大久保家からの急使が訪れ、薩摩の隠密衆が飛脚を追っていると知らされた。伊予守様は飛脚を探して守るようご下命になり、私は箱根山中を探索した。そして、飛脚が隠密に襲われているところを助けたのだが」
回収した書簡を検めた正馬は、戦慄した。
荷の中には、老中衆へ宛てた建議書および帳簿類などの添付史料、林大学頭や水戸家への書状が収められていた。これが公になれば、大変な事態になる。千川広忠に一部を持ち帰って報告すると、広忠は驚愕すると共に逡巡した。
「不正を明らかにしようとすれば、加賀守様も無傷ではおられぬ。しかし、伊予守様はこれを公にすべきだとお考えになった。握り潰すことは許されぬと」
だが、事態を覚った韮山代官の江川が配下と共に現れた。書簡の引き渡しを願った江川は、これを公にするという広忠の決意を知って驚倒した。そして、知らせを受けた水野老中は、広忠の決心が固いと見ると、将軍宣下の撤回を持ち出し圧力をかけたのだった。
「水野派とことを構えれば、将軍宣下は立ち消えとなるやもしれぬ。幕政を立て直すには、大御所様のご退位をどうしても実現せねばならなかった」
広忠は、書簡の多くを江川に預け、残りは自らが厳重に秘匿すると言った。
「伊予守様は、水野派が加賀守様にお力添えをする限り、これを公にすることはないとお約束なされた。もし約定を違えれば、加賀守様の失脚を招こうともこれを世に出すと。……水野老中は、伊予守様のご提案を受け入れた。もっとも、ご老中は他の宿老の手前書簡そのものは破棄なさり、江川様のお手元に写しを置かれた。あれは書かれた内容にこそ意味があるものだから、本物であろうと写しであろうと、影響にさしたる違いはなかった」
そこまで言って、正馬は静かに嘆息した。
「先生は……」
紀堂はぽつりと呟いた。
「大久保家のご家臣なのですか」
「いや、そうではない。指南役として仕官したこともあるが、他のお家も転々としておった。だが……加賀守様は、今世稀なるお慈悲と才覚をお持ちだった。だから野月家は、加賀守様に求められれば喜んでお助けして参った」
「では、なぜ書簡を父ではなく加賀守様へお持ちしなかったのですか。父に打ち明ける必要はなかったのでは」
「そなたのお父上を、謀ることはしない」
正馬は躊躇いなく言った。
「伊予守様ならば、決してご判断を誤ることはないとわかっていた。伊予守様のご人徳を信じていたから、二十六年前に野月は紫野様とそなたを預かったのだ。あの箱根で、私の主君は加賀守様ではなく伊予守様だった。それがどのようなご決断であろうとも、私は従っただろう」
気負いも衒いもなく言うと、おもむろに懐から何かを取り出した。
「これは、一部の写しだがな。見てみたいだろう」
綴じていない美濃紙の束が膝の前に差し出された。一瞬の空白の後、心ノ臓が縮み上がるような寒気に襲われた。紀堂は顔をはね上げるなり、師匠を食い入るような目で見た。
「箱根で発見した書簡を、一度鎌倉で預かっていた。その後江戸の千川家へ移したのだがな。万が一を考えて、兄上が密かに写しを作っていた」
耳の中で鼓動が鳴り響いている。握り締めた両手が汗ばんでいた。やがて紀堂は唇を引き結ぶと、ふるえる指先をそれに伸ばした。
一筆啓上仕候、然者松平越中守殿より田沼主殿頭江被申渡書之通、水野出羽守見習、邪心を以上様を惑し、賄賂公行、賢人被退候義ハ、世間皆々一同承知之処、各様御同職ニ乍御在、一応之御異見も無之、終ニ天下之害引出候も、加賀守様所司代之節、御法度之無尽を御催、去ル町人江金作之大小迄御遣、和泉守様・伯耆守様ニも於大阪表獄門ニ相成候八百屋新蔵、致自殺候弓削新右衛門等ニ御頼、無縁之町人江被右無尽御企、扶持方并紋付羽織等迄新蔵江被遣、……
かさ、かさ、と自分の指が紙を繰る乾いた音を、浅い息の音と共に遠くに聞いた。
越前守様ニも去年中、一心寺宰領ニ参候牧野権次郎兄八田衛門太郎等立入被御申付、無尽御企も有之候処、右新蔵一件ニ而夫々御止りニ相成候得共、右因縁を以権次郎不埒ものゝ風聞有之もの江吟味中羽織又ハ品物等被差遣候程之御身脩方に付、出羽守殿生前何様異見等難被加ハ道理ニ候得共、破損奉行一場藤兵衛外両人無尽吟味之上、夫々御仕置被仰渡候者誰も屈服不致候、依之先頃調候無尽取調帳・名前書共弐册其外証文写類并書付共致返却候、右ニ而御承知可被成候……
加賀守の名がある。水野越前守の名も同じく。心ノ臓が胸の内で暴れ、冷や汗が全身に流れた。これを目にした父の衝撃と動揺がどれほどのものであったか、想像するだにはげしく胸が痛んだ。
長い沈黙を、不意の時鐘の音がかき乱していった。
「薩摩の老公は、なぜこれを欲していたのでしょうか? いったい、何が目的でこのようなことをしているのでしょう」
かすれた声で問うと、正馬が喉で唸った。
「私にもそれが疑問だった。あの老公は父である重豪に劣らぬ俊才と呼ばれ、藩政の改革を推し進めていた賢君だ。父君との確執で藩主の座を追われた後も、島津家を支えて陰に陽に働いていたはずだ。それが何故、かような陰謀に手を染めるのかがわからなかった。これを手に入れたところで、薩摩に何の益があるのかとな。だが……老公の考えておることは、逆なのではないかと、近頃思うようになった」
「逆……とおっしゃいますと」
意味が掴めずに困惑する紀堂を、正馬はかすかに額を強張らせて凝視した。
「老公はな、薩摩に仇を成したいのではないかと思うのだ」
「──仇……」
「近思録崩れ、と呼ばれる一件は知っておるか」
紀堂は眉をひそめてかぶりをふった。
「文化五年に薩摩で起きた、改革派への大粛正だ」
正馬の表情が暗く翳った。
「あれは恐ろしい番頭だな。予め堀家の上屋敷に出入りの植木屋を買収し、見聞方の者や香具師元締めの乾分を紛れ込ませていたというではないか。それでそなたたちの後をつけさせたのだとな」
再び襲撃や拐かしに遭わぬとも限らない、と藤五郎は警戒し、市ヶ谷の香具師元締めの文吾から足の速い乾分も借りてあったのだという。紀堂が侍たちと出発した後、彼らは背後をつけて歩きつつ、連絡役を逐一大鳥屋へ走らせていたのだった。
「それで、そなたの身が案じられるから、出向いてくれないかと頼まれた」
「あっしが道案内してきたんですがね。俺も足にゃ自信があるんだが、いやもう、韋駄天みてぇに速ぇんだから。どっちが案内されてんだか」
手近な石の上に座り込み、ひっきりなしに顔に吹き出す汗を拭いながら弥之吉が呻く。
「そうでしたか……」
まったく勘のいい大番頭だ、と紀堂は頬を緩め、後ろで堀家家臣を介抱している隠密たちを振り返った。
玄蕃に当て身を食らわされた堀家家臣は、未だ人事不省に陥っているが、傷は負っていないようだ。
紀堂は道に散らばる死体を見回すと、苦い顔で黙り込んでいる玄蕃に向かって静かに言った。
「屋敷へ戻れ、玄蕃。杉本様には、ご家臣を襲ったのは薩摩の隠密どもだと申し開きをするのだな。俺は迎えの者に預けたとでも言うがいい」
「我らのこと、堀家にはご報告をなさらないので?」
玄蕃が怪訝そうに目を上げた。
「お前たちにいてもらわねば、隠密から広衛を守れぬだろう。見逃すから俺のことは諦めろ。……それとも、まだ続きをやるか」
紀堂の隣に影のようにひっそりと佇む正馬を、三人が剣呑な目で睨んだ。不穏な空気に、弥之吉がぎくりとして肩を竦める。
滝村と磐井が正馬に向かって構えようとするのを、
「やめろ」
と玄蕃が小声で制止した。
「歯が立たぬ。……行くぞ」
怒気を滲ませた声音で唸る玄蕃を見て、二人が顔を強張らせた。隠密が落とした弓を拾って即座に射た上、三人を瞬きの間に斬り捨てた腕は尋常ではない。傷を負った玄蕃ら三人では、束になっても叶わぬと覚ったのだろう。
刀を納め、玄蕃がこちらをじっと見た。
「……今日は、諦めましょう。また、後日に」
そう言って一礼し、玄蕃はだらりと四肢を投げ出している堀家の侍を肩に担いだ。磐井ももう一人を担ぎ上げる。傷を負った滝村が歯を食い縛りながら背後に続こうとして、紀堂をふり返った。よく見れば、紀堂とそう年の変わらぬような若い男だった。滝村は複雑そうな表情を浮かべた目を伏せ、礼をするように小さく会釈した。
鈴虫の物寂しげな声が響く、ますます陰影が濃くなってきた小道を、三人は黙々と去っていった。
***
日本橋に帰り着く頃には、西日が薄れてあたりは青い闇に包まれていた。
揚戸を下ろした店の潜戸に正馬と入ると、
「……旦那様」
と手燭を掲げた藤五郎が土間の奥から現れた。
「お帰りなさいまし。ご無事でいらっしゃいましたか」
奉公人を先に休ませて、二人の帰りを待っていたらしい。足早に歩み寄る藤五郎の顔が、安堵に緩んでいた。
「先生を差し向けてくれて助かったよ。お陰で命拾いした」
「さようでしたか。……野月様、ありがとう存じます」
大番頭は顔を強張らせたが、動揺を飲み込んで正馬に向かって頭を下げた。
「それで……若殿様は」
顔を上げるなりうわずった声で訊ねる男を、紀堂は暫時じっと見返した。胸にあたたかなものがさざ波のように広がる。めまぐるしく変転した長い一日が、夢でも幻でもなかったのだと、ようやく心底実感していた。
「──会って、話をしてきた。息災だった……」
藤五郎の両目がぎゅっと閉じられ、息を詰めるのが感じられた。次いで、大きな嘆息が口から漏れ、羽織の肩がふうっと下がった。
「……ようございました。本当に、ようございました」
嘆息と共に繰り返し、やがて大番頭は気を取り直したように背筋を伸ばした。
「お二人とも、お食事はお済みでございますか。母屋に用意してございますので、どうぞゆっくり召し上がって下さいまし」
きびきびとした口調で言う藤五郎の鋭い目が、白く光るものを浮かべているように見えた。
***
千川家の取り潰しと、広忠と広衛の死去を正馬が知ったのは、文月の終わり、兄・正徳が越後長岡藩に滞在中の正馬へ宛てた文を読んだ時のことだった。
そして長岡で任されていた剣術指南役の仕事を急ぎ切り上げ、江戸に向かう途中に立ち寄った鎌倉で、紀堂から届いていた文を受け取ったのだという。
ことが大塩後素建議書にかかわっていると知った正馬は、韮山代官の江川へ、何者かが建議書を奪おうと企んでいるとの警告を発した。
「すると、江川様より薩摩が背後におることと、隠密が韮山代官所へ向かっているという急報が届いた。そのため韮山へとんぼ返りして、江川様がご秘匿なさっている書簡を守らねばならなくなった」
母屋の居間で紀堂と遅い夕餉をとった正馬は、茶を喫しながら低く言った。
韮山代官の江川太郎左衛門と手代の斎藤弥九郎は神道無念流の使い手で、正馬の同門である。江川から助太刀を頼まれた正馬は韮山へ向かわざるを得ず、今まで足止めを食っていたそうだった。
「隠密は二度ほど江川様のお屋敷を狙ってきた。その間に、大和守様が広衛様をお匿いであることが薩摩へ漏れたと、江戸から知らせがあってな。急ぎ江戸へ戻ったのだ」
それが今日のことだ、と付け加えた。
行灯のやわらかな明かりが、穏やかな瞳に映っている。
総髪に洗い晒した小袖袴の風体で、手練の剣客らしい剣呑さや、血生臭さを感じさせない男だった。
障子を開け放った縁側から、うっすらと蚊遣りの匂いが漂ってくる。藤五郎が淹れた茶を受け取った紀堂は、口もつけぬまま正馬の顔に見入っていた。
「三年前……」
正馬がふたたび口を開いた。
「私は伊予守様に同行して警護役に加わっていたが、途中で大久保家からの急使が訪れ、薩摩の隠密衆が飛脚を追っていると知らされた。伊予守様は飛脚を探して守るようご下命になり、私は箱根山中を探索した。そして、飛脚が隠密に襲われているところを助けたのだが」
回収した書簡を検めた正馬は、戦慄した。
荷の中には、老中衆へ宛てた建議書および帳簿類などの添付史料、林大学頭や水戸家への書状が収められていた。これが公になれば、大変な事態になる。千川広忠に一部を持ち帰って報告すると、広忠は驚愕すると共に逡巡した。
「不正を明らかにしようとすれば、加賀守様も無傷ではおられぬ。しかし、伊予守様はこれを公にすべきだとお考えになった。握り潰すことは許されぬと」
だが、事態を覚った韮山代官の江川が配下と共に現れた。書簡の引き渡しを願った江川は、これを公にするという広忠の決意を知って驚倒した。そして、知らせを受けた水野老中は、広忠の決心が固いと見ると、将軍宣下の撤回を持ち出し圧力をかけたのだった。
「水野派とことを構えれば、将軍宣下は立ち消えとなるやもしれぬ。幕政を立て直すには、大御所様のご退位をどうしても実現せねばならなかった」
広忠は、書簡の多くを江川に預け、残りは自らが厳重に秘匿すると言った。
「伊予守様は、水野派が加賀守様にお力添えをする限り、これを公にすることはないとお約束なされた。もし約定を違えれば、加賀守様の失脚を招こうともこれを世に出すと。……水野老中は、伊予守様のご提案を受け入れた。もっとも、ご老中は他の宿老の手前書簡そのものは破棄なさり、江川様のお手元に写しを置かれた。あれは書かれた内容にこそ意味があるものだから、本物であろうと写しであろうと、影響にさしたる違いはなかった」
そこまで言って、正馬は静かに嘆息した。
「先生は……」
紀堂はぽつりと呟いた。
「大久保家のご家臣なのですか」
「いや、そうではない。指南役として仕官したこともあるが、他のお家も転々としておった。だが……加賀守様は、今世稀なるお慈悲と才覚をお持ちだった。だから野月家は、加賀守様に求められれば喜んでお助けして参った」
「では、なぜ書簡を父ではなく加賀守様へお持ちしなかったのですか。父に打ち明ける必要はなかったのでは」
「そなたのお父上を、謀ることはしない」
正馬は躊躇いなく言った。
「伊予守様ならば、決してご判断を誤ることはないとわかっていた。伊予守様のご人徳を信じていたから、二十六年前に野月は紫野様とそなたを預かったのだ。あの箱根で、私の主君は加賀守様ではなく伊予守様だった。それがどのようなご決断であろうとも、私は従っただろう」
気負いも衒いもなく言うと、おもむろに懐から何かを取り出した。
「これは、一部の写しだがな。見てみたいだろう」
綴じていない美濃紙の束が膝の前に差し出された。一瞬の空白の後、心ノ臓が縮み上がるような寒気に襲われた。紀堂は顔をはね上げるなり、師匠を食い入るような目で見た。
「箱根で発見した書簡を、一度鎌倉で預かっていた。その後江戸の千川家へ移したのだがな。万が一を考えて、兄上が密かに写しを作っていた」
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かさ、かさ、と自分の指が紙を繰る乾いた音を、浅い息の音と共に遠くに聞いた。
越前守様ニも去年中、一心寺宰領ニ参候牧野権次郎兄八田衛門太郎等立入被御申付、無尽御企も有之候処、右新蔵一件ニ而夫々御止りニ相成候得共、右因縁を以権次郎不埒ものゝ風聞有之もの江吟味中羽織又ハ品物等被差遣候程之御身脩方に付、出羽守殿生前何様異見等難被加ハ道理ニ候得共、破損奉行一場藤兵衛外両人無尽吟味之上、夫々御仕置被仰渡候者誰も屈服不致候、依之先頃調候無尽取調帳・名前書共弐册其外証文写類并書付共致返却候、右ニ而御承知可被成候……
加賀守の名がある。水野越前守の名も同じく。心ノ臓が胸の内で暴れ、冷や汗が全身に流れた。これを目にした父の衝撃と動揺がどれほどのものであったか、想像するだにはげしく胸が痛んだ。
長い沈黙を、不意の時鐘の音がかき乱していった。
「薩摩の老公は、なぜこれを欲していたのでしょうか? いったい、何が目的でこのようなことをしているのでしょう」
かすれた声で問うと、正馬が喉で唸った。
「私にもそれが疑問だった。あの老公は父である重豪に劣らぬ俊才と呼ばれ、藩政の改革を推し進めていた賢君だ。父君との確執で藩主の座を追われた後も、島津家を支えて陰に陽に働いていたはずだ。それが何故、かような陰謀に手を染めるのかがわからなかった。これを手に入れたところで、薩摩に何の益があるのかとな。だが……老公の考えておることは、逆なのではないかと、近頃思うようになった」
「逆……とおっしゃいますと」
意味が掴めずに困惑する紀堂を、正馬はかすかに額を強張らせて凝視した。
「老公はな、薩摩に仇を成したいのではないかと思うのだ」
「──仇……」
「近思録崩れ、と呼ばれる一件は知っておるか」
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