証なるもの

笹目いく子

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密談(三)

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「……境様は、未だお預が解けぬようでございますね」

 気を取り直して問うと、小島が厚めの唇をぐっと引き結んだ。

「うむ。ご家老様が深い事情をご存知ではないかと思うのだが、お目にかかれぬとあってはどうにもならぬ」

 千川家旧家臣でただ一人、筆頭家老の境だけは飯田堀家に未だ監禁されていた。
 文月の襲撃の折、主だった家臣では家老三名の内二名、用人五名の内二名、給人五名の内三名が命を落としている。
 生き残った用人の一人は、お預が解けた直後に腹を切って主と若殿の後を追い、瀕死の傷を負った尾形は、やはり死に支度をしていたところを紀堂や藤五郎が思い止まらせた。小島は耳を殴打された上、背中をばっさり斬りつけられる重傷を負い、激しい目眩と耳鳴りで地獄の苦しみを味わった。おかげで幸か不幸か腹を切るどころではなく、どうにか今まで生き延びたのだった。
 それ以外にも、広忠の身近に仕えていた近習小姓六名の内五名、広衛付きの近習小姓五名全員が死亡した。門番や中間、若党ら足軽たちも傷を負った者が少なくない。近習以下士分にない家臣は一代限りの渡り奉公人が多かったため、次の奉公先や、帰るあてのある者は既に去っていた。
 千川家家臣として残ったのは、用人二名、給人二名、近習一名、それに境を加えた計六名である。

「左様でございますか……」

 広忠に仕えていた筆頭家老であれば、何か思い当たる手がかりがあるのではと、紀堂も家臣たちも期待を抱いていた。かといって境への刑が解けるのを、手をこまねいてただ待つわけにはいかない。

「奥様のご様子は、いかがか」

 反対に尾形が尋ねる。広忠の正室お永は、旗本寄合である実家松平家に押し込めが命じられていた。千川家の旧家臣が屋敷を訪ねれば松平家に迷惑が及びかねない。そのため紀堂がそれとなく様子を伺いに足を運んでいた。

「はい。十日ほど前にお屋敷に伺いました。ご当主様にお目通りが許され、ご様子をお聞かせ下さいました」

 そこまで言って、紀堂は暫時躊躇った。

「……奥様は衰弱なさっておられます上に、お心がひどく弱っておられると」

 侍たちの顔が引きつった。
 お永はあの夜以来、精神の均衡を失っているそうだった。家臣のみならず、夫と息子を無残に討ち取られた上に、家門を取り潰された衝撃は、繊細な正室の心を粉々に打ち砕いてしまった。押し込めが解けたところで、自室を一歩も離れられる状態ではない、と松平家の実父は憔悴した様子で紀堂に告げた。
 言葉を飲んだ侍たちの体から、抑えがたい怒気と悲嘆が滲み出る。

「お労しい……お労しいことよ」

 尾形が絞るようにして呻く。広忠と広衛を守り切れなかった無念と悔恨が、彼らを骨の髄まで苛んでいるのが見て取れる。
 紀堂は二人を見詰めて膝の上で拳を握ると、腹を括って口を開いた。

「──尾形様、小島様。手前は近く、向島の石翁様をお訪ねしようと思料しております」

 紀堂が言った途端、二人は頬を引き締めた。

「石翁か……確かに、火盗改を内密に動かすことができるとすれば、西丸の勢力くらいのものであろう。肥後守は石翁とお美代の方様の腰巾着だ。若年寄として先手組を支配する立場にあれば、柳井に密かに命を下すこともできるはずだ」

 若年寄の林肥後守忠英はやしひごのかみただふさ・御側御用取次の水野美濃守忠篤ただあつ・小納戸頭取の美濃部筑前守茂育みのべちくぜんのかみもちなるは、大御所と大奥に取り入って権威をほしいままにし、俗に西丸派の「三侫人」などと称されている。林肥後守自身に千川家への遺恨を抱いている節はないが、石翁に言い含められれば諾として襲撃を柳井に命じるかも知れなかった。

「まさか、高田どのの娘御の件で、お家に恨みを抱いておったのであろうか」

 小島が声を低めて言った。
 中野石翁、当時の清茂が、千川広忠と紫野の縁組に横槍を入れ、将軍家斉の側室に上げようと企んだことは彼ら若い家臣にも聞こえている。ただし紫野はごろつきの集団に攫われた上、横死したと伝えられていた。尾形たちは当時まだ若かった上、奥向き女中と御殿表で家政運営に務める家士らとは生活空間が異なるため、紫野を目にしたことのない者は多かった。したがって母に瓜二つの紀堂の顔を見ていても、亡き紫野の子であるとは思いも寄らぬだろう。紫野が攫われて横死したと伝えられていれば尚更だ。

「紫野どのの意趣返しであれば、とうに仕掛けてきておっただろうよ。第一、今更蒸し返したとて何になる。石翁にはお美代の方様がすでにおるのだ」
「だが、このような無道を行える者は限られておる」

 尾形が考え込みながら紀堂に目を向ける。

「……どちらにせよ、石翁は簡単に目通りが叶う相手ではなかろう」
「それはお任せ下さいませ。何とか潜り込んで参りましょう」 
「だが……」 

 小島が目に懸念を浮かべて言う。

「そなた、そのように探索をつづけて平気なのか。我らに比べたら目立たぬとはいえ、大鳥屋ほどの富商が権門に頻繁に立ち入れば人目を引く。我らとのかかわりが知れればそなたも危ういぞ。大鳥屋には既に充分過ぎるほどに世話になっておる。くれぐれも自重せよ」

 うむ、と尾形も同意する。

「町人の身でありながら、ご恩に報いようとこれほどまでに奔走してくれようとは。志だけでもまことに有難い。殿は先代店主とも親しく交わっておられたが、そこもとらに信を置かれていたわけがようわかる。……しかし、我らはもはや失うもののない身だが、そなたは違う。我らと心中しようなどとは、くれぐれも考えるな」
「そのようなこと……」

 言いかけた紀堂を遮って、小島がにこりと笑みを浮かべて見せる。

「左様。私は妻一筋なのだ。いくらそなたが美しくとも、心中は困る」
「離縁したではないか。未練がましい」

 ぼそりと言う尾形を小島が軽く睨む。

「形の問題ではない。お前こそ、妻子に未練がましく文を送っておるではないか。世津せつどのと吉之進は息災か?」
「うるさいわ。父は死んだと思えと書いただけだ」

 二人とも妻子を離縁して仇討ちに身を投じていた。身を削るようにして苦境に耐えながらも、若い上に町人の紀堂を案じる彼らのやさしさに胸が詰まる。
 しかし、と嘆息する尾形の目が、苦渋を滲ませ赤く潤んでいた。

「身動き取れぬこの身が、口惜しゅうてならぬ。殿と若殿を失い、この右手も失い……何と役立たずな用人であることよ」

 一時は主君の後を追おうと、残った左手で喉を突こうとした男だった。げっそりと痩せた幽鬼のような姿に、怨念だけが命の証のごとく宿っている。慙愧と憎悪だけを朽ちかけた身のうろに詰め込んで、ようやく生きながらえているかのようだ。

「……やはり……やはり柳井めの口を割らせるべきなのではないか。このようにして真実を暴こうとするのは、あまりにも迂遠うえん

 こらえきれぬように吐き出す声が乱れる。血が欲しい、仇の血が欲しい、と尾形の目が激しいかつえを浮かべている。

「尾形様」

 餓狼のような形相に紀堂がぎくりとして宥めようとすると、小島もさっと表情を険しくした。

「尾形、こらえろ。私とて同じ気持ちだが、それはならんと承知しておるだろう」
「わかっている。わかっているが……」

 紀堂は思わず小島と目を合わせた。俯き、膝をつかんで身をふるわせる尾形をちらと見やり、小島は紀堂に向かってかすかに首をふって見せる。
 膳の上の華やかな酒肴の上に黒々と影を落としながら、尾形は憤怒と格闘するかのように、呻いていた。
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