証なるもの

笹目いく子

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帰還(二)

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 水野越前守ら幕閣と石翁、またお美代の方からの口添えを得て千川家を再び興すことが許されたのは、神無月の終わりのことだった。
 千川家への襲撃は柳井対馬守が独断にて企んだ所業であり、千川家当主と嫡子の罪状は事実無根である、と世間には公表された。そして、嫡子広衛は近習と取り違えられて無事であり、大御所の格別の思し召しを受けた公方様より、千川家家督を相続すべきことが指示されたと伝えられた。
 千川家当主として三番町に新たな上屋敷を拝領した広衛の元には、散り散りになっていた旧臣が次々戻ってきた。
 境家老のお預も、広衛の母・お永への押し込めも即座に解かれた。お永は自由の身となった息子に見えると、長いこと塑像のように凍りついていたという。

「母上、ご心配をおかけ申し上げました……ただ今、戻りましてございます」

 と広衛が母の手を取ると、みるみる目に正気を取り戻し、息子を掻き抱いて声が枯れるまでむせび泣いたそうだった。
 
 大鳥屋の前に一台のお忍び駕篭が着けられたのは、師走も暮れの、凍えるように寒い雪の夜のことだった。
 藤五郎の知らせを聞いて迎えに出た紀堂は、駕篭から現れた男の姿に静かに両目を瞠った。

「──大和守様……」

 しんしんと降りしきる雪の中、堂々とした体躯をした壮年の男は恭しく腰を屈めると、

「突然の訪問、どうぞお許し下されませ」

 と控えめに言った。
 奥座敷に案内された大和守は、上座を固辞してあくまでも臣下の態度を崩さなかった。
 紀堂が何者であるのか、この男も承知している。根負けした紀堂が向き合って坐ると、大和守は張り出した眉骨の奥の目を上げた。
 金壷眼などと揶揄される目は、くっきりとした二重で瞳が大きく、ひたと見据えられると圧迫されるような力強さがある。大きめの鼻と唇といい、強烈な存在感を人に与える顔だった。それにもかかわらず、ひとつひとつの動作が生真面目さを表すように控えめで、物静かだった。

「広彬様……」

 大和守が声を低くして言った。

「今夜御前に参上いたしましたのは、ぜひともご奏上せねばならぬ事態が出来いたしましたからなのです」
「……と、申されますと……」

 紀堂も小声で問い返した。
 若年寄が自ら足を運ぶ理由を、心のどこかで覚っていた。
 男の瞳に浮かぶ、労りとも親しみとも取れる不思議な表情が、それを紀堂に教えている気がする。
 水野越前守の懐刀と呼ばれる男は、わずかな間を置いてから微動もせずに言った。

「大御所様のご容態が、優れぬご様子にございます。年の瀬よりご病床にお就きでおられましたが、畏れながら、ご本復はもはや困難との、ご医師のお見立てでございまする」

 行灯が仄明るい光を投げかける座敷に、しんと静寂が広がっていく。
 さらさらと囁く吹雪の音が、障子の向こうの、雨戸の外にかすかに聞こえる。
 雪に音が吸い取られたかのような静けさの中にいると、この男と己以外、世界が消え失せたかのように錯覚する。

「──お名乗り上げを、お望みになられますか」

 紀堂は瞬きもせず大和守を見詰めた。

「これが、最後の機会となるやもしれませぬ。お望みとあらば、越前守様とそれがしが西丸へお供申し上げまする。お父上様と……ご対面をお望みでございましょうか」
「──いいえ」

 紀堂が静かに応じると、大和守は問い返すように見返してきた。

「いいえ、望みませぬ。越前守様と大和守様のお心遣いには、まことに感謝の念に耐えませぬ。が……私の父は、今も昔も千川広忠様より他にはおられませぬのです。母がそう望み、父もそう望んでくださいました」

 大御所へどのような気持ちを抱いているのか、自分でも判然とはしない。対面し、どんな感情が湧くのかも想像がつかない。だが、それでもやはり、千川広忠を父と慕う気持ちは止まないだろう。
 広忠が我が子ではないと知りながら紀堂を慈しんでくれたように、紀堂もまた、広忠を父として慕うことを止めないだろう。それでいい。それが、いい。
 己は大鳥屋店主として、広衛の兄として生きたいのだ。
 他の何者にも、なりたいとは思わない。
 
「……左様にございますか」

 ゆっくりと頷きながら、大和守はため息のように言った。

「よく……わかりましてございます」

 さらさらと、雨のように絶え間のない音がやわらかく聞こえている。
 それに耳を傾けてから、紀堂は口を開いた。

「……公方様が、大御所様に代わりご政道を正されることとなれば、千川が脅かされることはもはやございませぬでしょうか」
「二度とは」

 大和守が低く応じた。

「西丸勢力が一掃されれば、大奥の専横ももはやこれまで通りとは参りませぬ。大御台様は、公方様と越前守様のご意向を無視することができぬお立場となられましょう」

 それに、と続ける。

「高輪の老公は、近頃正気を失い、妄念の中に籠もっているらしいと聞き及んでおりまする。島津家ご当主は大御台様に諾として従わざるを得ないお立場であられたが、元より千川様を脅かすことなど望んではおられませぬ。何卒穏便に願いたいと再三お申し出になられてございます」

 紀堂はゆっくりと頷いた。  
 島津家はすでに山潜りを多く失い、しばらくの間身動きが取れぬだろう。老公が正気を失い、大御台も保身に忙しいとなれば、千川家に危険が及ぶことはないはずだ。
 薩摩が越前守に借りを作ったことは、大御所薨去後に越前守が権力を掌握することを容易にするだろう。これも越前守の深謀であったかと、空恐ろしい心地もする。
 だが、家臣を失い、あるいは傷を負わせられた大和守は、それで収まるものであろうか。

「伊予守様は、まことに清廉な、お心の深きお方でおられました」
 
 ぽつりと男が口を開いた。

「建議書を伊予守様よりお預かり致しました時、それがしは伊予守様をお助け申し上げたつもりでおりました。しかしながら、それが老公を激怒させ、襲撃を引き起こしたと知りました時の痛苦は......言葉には言い表わせませぬ」

 鋭く胸を衝かれ、紀堂は男を凝視した。
 だから、ここまで犠牲を払ったというのか。取り返しのつかぬ悔恨のために、ここまでしたと。

「広衛様だけは何としてもお守りしたいと、越前守様に無理を申し上げ、楽其楽園にお匿い致しましたのです。ご家門の再興は、それがしにとっても幸甚極まりないことに存じます」

 控えめにそう語る若年寄をしばし見詰めると、紀堂は両手を握り締めながらゆっくりと囁いた。

「かたじけのうございます……」

 男は長身を屈めて恐懼すると、雪の音を聞いているかのように、目を伏せたままじっと俯いていた。


***


 翌年の睦月の七日、大御所は薨去した。
 大鳥屋で静かな松の内を過ごしながら、紀堂はその知らせを越前守から遣わされた公用人の牧田から受け取った。
 大御所や将軍の葬儀は大掛かりなものとなるため、葬儀の準備が整うまで、逝去の報は一般には伏せておかれることが多い。

「大御所様がご薨去が世間に公表されるのは、睦月の晦日となりましょう」

 牧田が丁寧な口調で言った。

「左様にございますか。……わざわざのお運び、かたじけのうございます」

 紀堂が懇篤に礼を述べると、男はきつく切れ上がった両目に湖面のような静けさを浮かべ、しばしこちらを見詰めていた。

「……石翁どのとお美代の方様は、もはや権勢を失いましょう。西丸の佞人どもも一掃される。林肥後守も、むろんのこと。……そうそう、高輪の老公は、近頃ますます譫妄はげしく夢と現の区別も怪しいそうにございます」

 独り言のような呟きを、身動ぎもせずに聞いた。

「……御身は将軍家の御世に仇なす希代の大罪人であると妄言を繰り返しては、なぜ御目付を呼んで裁かぬのだと騒ぎ立てておられるとか。公方様やご閣老方の御前にて弁明させよと、床で懇願しておられますそうな。……かと思うと、側近を大御所様のご落胤様であると言い張って、共に天下を手中にせんと、奇怪なお考えを延々語っておられるそうにございます。かつては薩摩の名君と聞こえたお方が、なんとも……嘆かわしいことにございますな」

 冷やかな笑みが、薄い唇にうっすらと滲む。

「──死を与えるよりも恐ろしき、すさまじい復讐を成し遂げられたものだと、我が主も口を極めて嘆美してございます」

 そう囁いて、男は恭しく叩頭したのだった。
 公用人を見送った紀堂は、人気のない庭に出た。
 数日前にまた雪が降り積もり、純白の雪が屋根も庭木も厚く覆っていた。
 雪化粧を施された老松や柳が映り込む、鏡のような池の面を見下ろした。
 新年を寿ぐ日本橋の賑わいが、淡く耳をくすぐっている。
 顔を上げれば、鳥追の三味が曇り空にからりと明るく響き渡り、遠くに目を転じれば、色とりどりの凧が競うように空を登っていくのが見える。
 低く空を覆う雲の間から、薄い光が差した。透明な、熱のない光の筋は、雪の積もった店と母屋の屋根を白く輝かせる。
 終わったのだと思った。
 己を縛っていた目に見えぬ重いものが、解けて、消え去った。
 背筋が伸びるように凛と冷たい、真冬の空気を深く吸い込み、紀堂はそっと瞼を閉じた。

 大御所のためではない気がする。そうではなく、もっとささやかで儚い何かを思って、祈った。
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