証なるもの

笹目いく子

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証なるもの

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「美しい、まことお美しいのう。そして、お労しい」

 虚ろな表情で小刻みにふるえる紀堂を見詰め、斉宣が感に耐えぬように囁いた。

「私はあなた様が不憫でならぬ。そう、不憫でならぬのですよ。何の罪もないあなた様が、心ない者たちにたばかられたまま、父も母も、家もなく、武家であることすら許されず、無為に老いていく。このような非情と理不尽をどうして甘受できましょうや。
あなた様は、与えられるはずであったものを取り戻すべきなのです。あなた様の手から奪った者から、今度はあなた様が奪い返すのだ」
「謀られた……?」

 ぼんやりと繰り返すと、老公は義憤に駆られた顔で唸った。

「そうでありましょう。あなた様は将軍家の若君となられたはずであった。それを、伊予守は嘘に嘘を重ね、鎌倉なぞにあなた様を隠し、その後はあろうことか商人に与えた。……これを不憫と申さずして何と申しましょうか。伊予守は、あなた様を復讐の道具に使ったのです、広彬様。おわかりになりませぬか……。
愛しい女を己から奪った大御所様に、女とあなた様を奪うことで復讐を果たそうとしおったのですよ。父は己であるとあなた様に刷り込み、慕わせ、その実あなた様には何一つ、与えなかった」

 全身のふるえが止まらなかった。
 耳を塞ぎたくなるような怖気に襲われながら、指先すら動かすことが叶わなかった。頭の中で風が叫んでいる。波が轟いている。
 身を苛む不安と孤独と戦って、戦って、戦ってきた。
 それがすべて、無駄だったと。意味の無い苦悩だったと。
 一心に信じたものは、千川広忠の怨念でしかないのだと、そう言うのか。
 巨大な力が体をがんじがらめにして、腐臭を放つ物を口に詰め込まれているかのようだ。
 吐き気が込み上げる。食いたくなどない。けれども、拒むことはできないと覚っていた。
 なぜならば、これはでっち上げでも茶番でも悪夢でもなく、真実だからだ。
 腐っていようが毒であろうが、己の真実なのだ。

「得も言われぬお美しさだ。まったく、ご母堂様の美貌がうかがわれようというものだ」

 美しい花でも愛でるように、老公が目を細くする。

「大御所様があなた様のお顔をご覧になれば、ご母堂様を思い出されますでしょうな。あなた様のそのお美しさは、大御所様の御心すら狂わせるに違いない。薄幸のご母堂様の忘れ形見を、あたら粗略には扱われますまい。たちまちご寵愛を得て、石翁とお美代の方様はおろか、越前守や姉上さえも退けるようなお力を付けられるかも知れませぬ」
「……くだらん」

 それがために、紀堂を手に入れようとしたのか。大御所の庶子を、傀儡に仕立てるために。
 思わず呻いた紀堂に、斉宣は場違いなほど朗らかに声を立てて笑った。

「いかにも、その通り。権勢を巡る争いなどというものは、かようにくだらぬ、醜悪なものなのでございます。その上、それに負けたとなれば……屈辱と怨念は言葉に言い表せませぬ」

 空虚な笑いとは裏腹の、どす黒い憎悪が双眸を染め上げるのを見た。餓狼のようにぎらつく、妄執に満ちた両眼が、獲物を狙うようにこちらを見据えている。

「あなたは……私を駒になさりたいだけであろう」

 心が麻痺したように鈍っている。ひたひたと、波のように打ち寄せる哀しみに洗われながら、紀堂は呟くように言った。身を包んでいたはずのあたたかなものが剥ぎ取られ、手にしていた物が波にさらわれていったかのような虚無が、全身を支配していた。

「大御台様への意趣返しに、私を使おうと思っておられる。それだけだ。あなたに惻隠そくいんの情なぞございますまい」
「否定はいたしませぬ」

 老公が喉をふるわせ、邪気のない声で笑った。

「だが、私はあなた様に真実のみ申し上げた。あなた様の周りの者たちはどうでございましたか? 嘘で固めた世界に、あなた様を押し込めてきたではありませぬか。どちらが信に値するとお思いになられるのです? あなた様はもはや自由だ。越前守も大和守も、島津には手が出せぬ。あなた様は、誰憚ることなくあるべきお姿に戻るべきだ。そうではございませぬか」

 沈黙する紀堂に、男は不意に肩を下げて嘆息した。
  
「仰せの通り、私は姉上に意趣返しをしてやりたい。姉は私を疎んじ、国元へ戻ることも許さなかった。私がどれほど島津家のために尽くしても、決して私をお許しにはならなかった。この屋敷に私を押し込め、朽ちていくのを待っておられる。あの姉は……父よりもよほど冷酷で、残忍で、貪欲なのでございますよ」

 軋むような声は、深い無念と痛みとに満ちている。

「広彬様、私にお力をお貸し下さいませ。私も、私の力をお貸し致しましょう。私は偽りは申しませぬ。信じて下さいませぬか。あなた様の苦しみと悲しみが、私にはようわかる。あなた様に必要なのは偽善に満ちた嘘ではなく、怒りだ。伊予守だけではない、正しき者、弱き者から奪おうとする、すべての者への怒りだ」

 両眼に白い焔のような冷たい激情を湛えた男を、じっと見詰めた。

「そうして……将軍家の御世を揺るがそうというのですか」

 老公が、弾かれたように背筋を伸ばした。

「……私はもう老い先短い」

 ぬるりとした笑みを唇に浮かべ、老人が低く笑った。

「姉上の吠え面が、見てみたい。私からすべてを奪った女だ。奪い返して何が悪い。いや……取り返すことにももはや興味なぞない。ただ、すべてを覆し、引き裂いてやりたい。それだけだ。……あなた様は、違いますかな?」

 紀堂は思わず瞼を閉じた。
 千川家を滅ぼした者たちを、血祭りにあげると誓った。この苦しみごと、何もかもが壊れてしまえばいいと願ったのだ。
 この男は、なんと己と似ていることか。
 重い悔恨が、この男の胸に巣食っている。取り返しのつかぬ過去を悔いて、自分自身を呪っている。
 大勢の家臣を死なせ、むざむざと藩主の座を明け渡し、姉に膝を屈している己を、斉宣は誰よりも憎悪しているのだ。
 哀れだ、と不意に思った。哀れで、痛ましく、孤独だ。
 冬の嵐が聞こえる。夜空に咲いては散る、大輪の花が目に浮かぶ。
 藤五郎の、友一郎の、そして有里の、悲しげな顔が過った。紀堂をなじる、悲しげな顔だ。
 嘘に嘘を重ね、裏切ってきた。彼らの苦しみを、見て見ぬふりをした。だが、それは憎んでいたからではなかった。悲しませたいからではなかった。胸が痛まぬからではなかった。
 紀堂は憎悪と憤怒の権化となった目の前の男に、ぽつりと囁いた。
  
「伊予守様や大鳥屋の義父のお気持ちが、私にはよくわかる」

 心が静まり返っていた。

「愛する者に嘘を重ねることがどれほどの苦しみであるか、私はよく心得ている。私も嘘を重ねて生きてきた。もっとも愛する者にさえ、偽って生きてきた。可能であったならば、生涯偽りつづけたかもしれない。けれども、それは騙して踏みにじろうと企んだからではない。奪っておとしめようとしたからではない。この上なく、大切であったからだ」

 白く冷たい、かつえた双眸に、自分のもののように見入った。

「私の母も、千川家の父も、町人の父も、鎌倉の師も、与うる限りのものを私に与えてくださった。血もつながらぬ私を、力の限り、命の限りに守ってくださった。奪われたものなど、ひとつもない」
 
 ぴくりと頬を引きつらせる老公を見詰めていると、義父の声が耳の奥に鮮やかに響いた。

「お殿様はお前さんを心から愛おしんでおられる。ひとつも偽りはない。それは決して疑っちゃならねぇよ。離れていちゃ難しいかもしれないが、私が言うんだから真実さ」

 義父は、知っていたのだ。紀堂が本当は何者であるのかを。
 いつか紀堂が対峙するであろう真実を知っていて、あの言葉を残してくれたのだ。

「あなた様は、お殿様とお母上様の宝物なんでございますよ」

 憤慨する義父の懸命な顔が、懐かしく紀堂を叱りつける。
 名が何であろうと、生きる場所が変わろうと、そんなことは己の価値を何一つ損ねることはない。
 そうありたいと願う己の姿を、何者も変えることはできない。何者も奪い取れはしないのだ。それを、生涯をかけて教えつづけてくれた人だった。
 怯えるな、求めつづけろと、叱咤する声が聞こえる。
 義父の、乾いたあたたかい手の感触を思い出す。
 願っていいのだ、愛していいのだと、常に強く肯定していた手を。
 広彬、と呼びかける、父の笛の音が耳に響いている。
 千川の子として立派に育てと、祈るように母が言う声が聞こえる。
 父は、紀堂を憎んだであろうか。紫野を奪った、殺したいほどに憎い男の子である自分を、憎悪しただろうか。
 だが、初めてまみえた日の父の目を覚えている。瞬きも惜しむようにして、痛みと喜びを湛えて少年だった紀堂を見詰めた眼差しを、覚えている。
 深い苦悩と、悲嘆があった。同時に、迸るような喜びと、愛があった。
 ただ、宝なのだと、この生は宝なのだと、全霊で伝えようとする眼差しを、あの日祥雲と共に確かに受け取った。
 紀堂が何より欲していた真実は、それだけだ。 
「何も、変わったりしません」と訴える有里の声が囁いている。血に汚れようが、憎悪にまみれようが、紀堂は紀堂のままなのだと、手を差し伸べる娘の、ひたむきな瞳が訴えている。
 己が己であるという証は、紀堂自身の内にある。他の誰にも、それを証してもらう必要などない。

「……私はあなたの駒にはならぬ」

 静かな声で、紀堂は言った。

「ご老公、千川からは手を引いていただきましょう。できぬとおっしゃるならば、越前守様に頼んで西丸へ赴き、大御所様にことの次第を訴えねばなりませぬ。私は越前守様の駒となって自由を失うだろうが、あなたのお立場はどうなりますかな」

 老公の目が鋼のように強張り、張り裂けんばかりに見開かれる。
 がっしりとした顎が細かくふるえだし、みるみる顔から血の気が失せていく。 

「馬鹿な」

 老公がぐにゃりと顔を歪めた。

「本来であれば、将軍家の若君とおなりであったものを……」
「母もろとも力ずくで奪われてか。石翁やご老公のような輩の駒となってか」

 紀堂は端麗な双眸を細くした。

「生憎、私は大鳥屋店主として店を守らねばなりませぬ。やんごとなき方々の争いごとになぞ関心はありません。話は、これまでと致しましょう」
 
 紀堂は目礼を老公に送り、膝を立てかけた。
 斉宣の目が切れるように吊り上がる。顔色を失っていた顔が、憤怒に赤黒く染め変えられた。 

「誰も彼も、愚か者ばかりよ」

 叫びながら腰の脇差を抜き放ち、紀堂に向かって殺到してくる。
 老人とは思われぬ脚力であっという間に間を詰めてくる斉宣に、弱った体では咄嗟に反撃もできなかった。辛うじて躱した刃が、紀堂の羽織の袂を畳に深々と縫い付けた。

「……あなた様は私のものだ」

 すさまじい執着が、見開いた双眸から吹き出すようだった。
 袂を渾身の力で引っ張りながら、紀堂は目の前の男を爛々と光る目で睨み返した。

「私は、あなたの駒にはならぬ」

 袂を引き裂いて身を翻すと、反転するなり男の左手を捉え、顎を掌底で打とうとする。途端、老公がさっと飛び下がった。

「逃さぬぞ」

 上段に構えて膝を撓めた男目がけ、礫のようなものが鋭く飛んだ。
 あっ、と叫んだ老公の右手から脇差が飛び、くるくると回転しながら広間の暗がりへと吸い込まれていった。
 次の瞬間には、玄蕃と滝村、磐井が音もなく現れて、紀堂を背に守って身構えている。 

「お怪我は」

 玄蕃が肩越しに問う。
 途端、広間の四方の襖を開け放ち、抜き身を提げた家士がどっと走り込んできた。
 玄蕃が白刃を躱し様、相手の襟元を掴んで宙に放った。男が畳に墜落する前には、次の敵の左腕を掴みながら背中合わせに反転し、一気に身を屈めて投げを打っている。投げた先にはもう一人が呆気に取られて立ち竦み、「ひっ」と一声叫んで、投げつけられた男ごと後ろへ吹っ飛んだ。
 隠密でもないただの侍など、玄蕃たちの相手ではなかった。隣に目を転じると、滝本と磐井が侍を投げ、あるいは急所を打ち、ことごとく畳に沈めているのが目に入る。
 部屋のあちらこちらで、耳を聾する悲鳴と怒声がひとしきり上がった。程なくしてそれが止むと、静まり返った一之間には、人事不省に陥った侍たちが折り重なって倒れているばかりだった。
 呆然と喘いでいた老公が、畳に爪を立て、身を揉むようにして叫んだ。

「愚か者めが、なぜわからぬ。そなたの父は伊予守などではない!」

 こめかみに癇の筋を浮かべて吼える。

「そなたの父君は、大御所……」
「いいや」

 紀堂はまっすぐに男を見据えると、確信に満ちた声で答えた。

「私は千川広彬である。我が父は千川広忠、この世にただお一人しかおらぬ」

 老公がぎりぎりと歯を軋ませる。

「……殺しますか」

 玄蕃が低く訊ねた。無表情な声に、凍えるような殺気が滲み出るのが見えるようだ。

「ご命令であれば、殺します」
「玄蕃、島津の面汚しめ! 足軽から取り立ててやった余への恩を忘れ、水野どもに尾を振るとは、その薄汚い性根は犬畜生にも劣るわ!」

 かっと目を剥いた老公が、唇をめくって罵った。
 老人を見詰める玄蕃の背中に、深い悲しみが過った気がした。

「……いや、いい。殺し合いのために来たのではない」

 紀堂が端然としたまま言うと、玄蕃がすっと息を飲み、それから顎をふるわせ、ゆっくりと頷いた。 
 こぼれんばかりに両目を見開いたまま凍りつく男を、紀堂はじっと見下ろした。

「長居を致しました。これにてお暇申し上げます。……もう、お目にかかることはございますまい」

 座り込んでいる男にそれだけ告げると、踵を返した。
 
「なぜ、殺さんのだ。殺せ!」

 腹の底から発した声が、部屋の空気をはげしく打った。

「余のものにならぬのなら、殺していけ! このまま去るだと、ふざけるな……」

 がちがちと歯を鳴らしながら、老公が泳ぐように近づいてくる。
 紀堂は玄蕃を目で制し、黙って男を見下ろした。
 紀堂の羽織の袂をおそるべき力で握り締め、斉宣は絶叫した。

「殺せ、殺していけ! 余は仇であろう。殺せ!」

 何かを覚ったように目を細め、紀堂は男に向かってすうっと身を屈めた。

「……あなたは、忘れ去られたまま死ぬのだ」

 耳元で囁くと、老公がびくりとふるえた。

「誰かの敵となることもできず、さりとて愛されることもなく。死ぬ意味も見出せず、誰からも顧みられることなく、忘れられてひとり死ぬのだ」

 俺を見ろ、と男の孤独な目が餓えている。
 藩主の座を追われ、近臣たちを根こそぎ殺され、引き離され、父と姉に服従しながらも報われることはなく、仇討ちの若者の手にかかって華々しく討ち取られることもない。
 死のうが生きようが、どうでもいい存在。生きながらにして過去にされた存在。それがこの男の絶望だ。
 賢君と讃えられることもなく、暗君と憎まれることもない。豪華な檻を与えられ、ただ飼われている。
 そうして、懊悩と渇望の中で老いさらばえながら、光の当たらぬ空虚な御殿で、死ぬのだ。
 紀堂は美しい形の唇をゆっくりと引いた。魂を溶かすような微笑が黒々と澄んだ双眸に浮かび、斉宣が忘我の表情で見上げる。触れれば死ぬ毒だと知りながら、恍惚としながら手を伸ばそうとする。

「あなたの望むような死はやらぬ」

 凄絶なる美しい笑みと共に、ゆっくりと囁いた。

「あなたは、取るに足らぬのだ」

 男の顔が、急に十も老いたように干からびた。瞳に燃えていた意志の光が、蝋燭が吹き消されたかのようにかき消える。
 あとは、がらんどうの黒い洞が残った。
 紀堂は体を起こし、その姿に一瞥をくれると、羽織の袂をすっと引いた。
 袂を握り締めていた斉宣の手が、苦もなく落ちた。
 踵を返して歩き出した紀堂の背後で、枯れ枝が折れるような音を立てて男がくずおれるのを聞いた。
 しかし、振り返ることもなく紀堂は襖に手をかけた。
 数拍遅れて、玄蕃たちがついてくる気配を聞く。
 暗く長い廊下は静まり返り、老公を慰めようと駆けつける者の姿はない。玄蕃らや正馬が多くを討ち取ったとはいえ、まだ隠密衆はいるはずだが、出てくる様子もなかった。杉本が言った通り、斉宣は切り捨てられたのだろう。
 ぬるく淀んだ空気が、未練のように足に絡みついてくるのを感じる。
 墓穴から這い出すような心地に襲われる。ここは生きながらに埋葬された男のための、巨大な墓なのだ。
 外の世界が恋しくてならなかった。
 有里と広衛の顔が思い浮かぶ。藤五郎や友一郎たちの顔が浮かぶ。
 皆の声が聞きたい。ここはあまりにも静か過ぎる。

「──帰ろう」

 背後の三人に向かって呟いた。
 今を生きている人たちの元へ、帰ろう。
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