証なるもの

笹目いく子

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有里(二)

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 手紙が江戸へと届けられる日をじりじりしながら待った。間に合うだろうか。もう遅きに失しただろうか。炙られるような焦燥ともどかしさとで、今すぐ東海道を走り出したい衝動に駆られた。
 しかし日が経つにつれて、思い出すだに顔から火が出そうな文を送ってしまった、と頭を抱えたい気分になっていた。有里がなんと思うだろうか。あの堅物そうな紀堂が、と仰天して笑うだろうか。いや、有里は笑ったりしない。……しないだろうが、戸惑うかもしれない。そんなつもりじゃなかったのに、と思うだろうか。あの視線や、仕草や、あたたかな微笑みは、勘違いだと言うだろうか。
 けれど、今告げなかったらいつ告げるのだ。有里を失うなど耐えられない。
 俺は、有里と共に生きていきたいのだ。

 返事が欲しい。いや、欲しくない。……返事が欲しい。返事をくれ、有里。

 町で似ている娘を見かける度、締め付けられるように胸が痛んだ。夜もおちおち眠れなかった。希望と絶望とが代わる代わる現れては、振り子のように心を揺らす。お客や奉公人の前では平静を装いながら、ふとした拍子にぼんやりと物思いに沈みそうになる。考える暇があるからいけないのだと、紀堂は自分に鞭打つようにして、ひたすら仕事に没頭した。考えるな。考えたって仕方がないのだから、考えるな。
 けれど、夜、くたくたになって床に就く度に、押さえつけていた焦燥が込み上げて、頭の中は有里のことでいっぱいになった。そうしてまた、眠れぬ夜を悶々と過ごすのだった。
 どうにか二十日ほどをやり過ごし、じめじめとした梅雨がはじまった頃、江戸から返事が届いた。
 文を手にして、破裂しそうな心ノ臓の鼓動を頭の中に聞いていた。手足から血の気が引く。ねばった汗がどっと全身に吹き出した。有里が、返事をくれた。あれを、読んだのだ。
 口の中が干上がっている。読まなくては。何が書いてあるとしても、受け止めなくては。
……駄目だ。有里に拒絶されたら生きてなどいかれない。江戸へは戻れない。ああ、だけど千川の父と弟に会えなくなるのは嫌だ。店を出て、江戸で渡世人にでもなって暮らそうか……などと、一日中悲痛な思いで考えつづけた挙句、己を叱咤して封を切ることを決心した。
 店の者が寝静まった深夜、文を懐に入れて庭へ忍びでた。久しぶりに雨が上がった皐月の終わりで、夜気は湿気を含んで重たいが、満月に程近い月が煌々と明るかった。紀堂は文を手に取ると、深呼吸をして青白く輝く文を開いた。

「比べ来し 振分髪ふりわけがみも肩すぎぬ 君ならずして誰か上ぐべき」

 というやわらかな字が目に飛び込んできた。
 息が止まった。……これは、たぶん、そういうことなのか。けれど自分の解釈で正しいのか確信がない。……だけど。
 翌朝、忙しく働く傍らでやきもきしつつ考え続け、ようやく暇を見つけて外出した時、紀堂は貸本屋へ一目散に向かっていた。
 『伊勢物語』を貸してもらって、確かめた。
 「筒井筒」で、幼なじみの男女が恋歌を交わしあう場面だ。

筒井筒つついづつ 井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに」

 と男が詠む。あなたに会わない間に、私の背丈もずいぶんと伸びたのですよ、という男の歌は、遠回しに女への求婚を表しているのだという。

「比べ来し 振分髪も肩過ぬ 君ならずして誰か上ぐべき」と返した女は、あなたと長さを比べ合ってきた髪も肩を過ぎました。この髪を結い上げる相手はあなたしかいない、と男の求婚に応じるのだった。

──あなたしか、いない。

 貸本屋を出て、雲を踏むような気持ちで店へ戻ったのを思い出す。
 有里からの恋文を仕舞った懐が、溶けそうに熱かった。
 有里が、応えてくれた。どくんどくんと、体全部が心ノ臓になってしまったかのように轟いている。つい昨日までは、この世のすべてが灰色で惨めに感じられたというのに、今は目に入るものすべてが輝かしく、耳にする音のすべてが美しい。行き交う人のまだ耳慣れぬ船場言葉すらも心地いい。
 恋とはなんと荒々しいのか。なんと、痛くて甘いのか。
 有里と夫婦になる。有里を江戸一、いや日の本一幸せにするのだ。
 抜けるような青さの五月晴れの空を見上げ、はるか東の江戸へと心を走らせながら、幾度も誓った。

 それから二年の間、大坂で一心不乱に働いて、晴れて若旦那として江戸へ戻った紀堂は、義父にいずれ娶りたい娘がいると、いの一番に打ち明けた。
 それが花筏の有里であると告げても、義父はまるで驚かず、「じゃあ、そうしな」とおっとりしたものだった。てっきり大騒ぎするものだとばかり思っていた紀堂が拍子抜けしていると、

「昔っから見ていりゃあ、嫌でもわかるさ」

 と義父は吹き出した。
 年頃になってからは有里をぽーっと目で追っては顔を赤らめ、かといって面と向かえば顔もまともに見られずにいる。おまけに手代として大坂へ送られてからは、忙しい合間を縫って十日と空けずに有里へ手紙が届くのだ。それをまた有里がこそこそと読んでは、幸福そうに誰彼構わず笑顔をふりまき、花が咲くように日々美しくなっていく。
 それが二年あまりも続けば、両方の店で覚らぬ者はいない。まして、周囲の大人は百戦錬磨の商人だ。二人の拙い恋心など、とうの昔にお見通しであった。

「有里さんをもらうなんてのは、天下の果報者だよ。あの人なら立派なお内儀になるだろう。よかったな」

 四代目が楽しげに言うのを、顔が燃えるのではないかと思いつつ聞きながら、二十の紀堂は羽化登仙の心地で深く頭を下げたのだった。
 その後、有里の縁談などというのはでっち上げで、そんな話はあるにはあったのだが、有里はきっぱり断ったのだと友一郎から明かされた。
 だが、紀堂が何も言わずに大坂へ発ったことに、有里は見ている方が切なくなるほど深く落胆していたという。妹の気持ちなど先刻承知していた友一郎は、紀堂へ猛然と腹を立てた。そして、ひとつあの煮え切らぬ友の背中を蹴りつけてやろうと決心して、ある日筆を取ったのだった。

「三両もはたいたのか。その後も手紙を送りつづけてすっからかんだったんだって? 着物を質に入れちまって、着たきり雀だったって本当か? お前は意外と馬鹿をやるよな。褒めてるんだぜ」

 唖然とする紀堂を前に心やさしい友は大笑いして、それから何年経っても度々そのことを蒸し返しては、痛快そうに笑ったものだった。
 有里は花筏の若女将として修行をしてはいるものの、店は若旦那の友一郎が継ぐのだし、大鳥屋と花筏とは昵懇の間柄で何の障りもありはしない。二年前に結納を交わした後、義父が病に倒れなければ、とうに祝言を挙げていたところだったのだ。
 愛しく思う人の側で暮らすことなど、望めないと思っていた人生だった。だが、望んでもいいのだ。それどころか、相手もそれを望んでくれるのだ。驚異としか思われない幸福だった。大鳥屋店主の力をもってすれば、与えられぬものはない。有里は放蕩などに関心を持たぬ娘だが、欲することは何だって叶えてやれる……。
 それが、千川家の改易によって激変してしまった。

……少なくとも、紀堂の側だけが。

 踵を返して有里の元へ飛んでいき、すべてを吐き出し、娘を抱き締めて大声で泣きたいという、発作じみた衝動に襲われた。己には有里がいるのだと、何もかもを失ったのではないのだと、狂気のように確かめたくてたまらなくなった。
 けれども、紀堂の嘆きのその理由を、どうしても打ち明けるわけにはいかなかった。草の根を分けてでも父と弟の仇を見つけ出し、引き裂いてやりたいと日々渇望しているのだと、告白するわけにはいかなかった。
 言えない。言えるはずがない。
 誰よりも心のうちを分かち合いたいはずの人に、何も、語ることが出来ない。
 千川家を悲劇が見舞うまでは、そのままでも生きていけると思っていた。紀堂が本当は何者であるのか明かさなくとも、すべてを語らずとも、有里と共に生きていけるはずだと信じていた。
 だが、今はもう、わからなかった。

 筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに
 
 恋の歌が頭を過る。 
 あなたに会わぬ間に、私は変わった。変わってしまった。
 紀堂は知らずに足を止め、じっと瞼を閉じた。

──こんなはずではなかった。

 心ノ臓の辺りが、斬りつけられているように痛かった。
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