そのメイドは振り向かない

藤原アオイ

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もう、帰れないんだ(sideあずさ)

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 夢を見ている。

 この国の人々が、エステルさんが、そしてエルヴィン様が死んでいく夢。玉座には闇を纏った銀色の男が座っていて、不気味に笑っているのだ。

 それがあまりにも怖すぎて、最近眠れていない。

 突然召喚されて、いつも怖い夢を見せられて。あぁ、全部夢ならよかったのに。幻想ならよかったのに。でも、私はずっとこのまま。

 知ってるよ。エステルも、エルヴィンも、他のみんなも生きた人間だってこと。私はこの人達のいる場所を救わなきゃいけないってこと。……私はもう、地球に帰れないってこと。

 今日も、枕が濡れていた。

 サイドデスクに置かれた小さなベルを鳴らして、エステルさんを呼ぶ。

 まだ日が昇ってすぐの時間なのに、彼女は駆けつけてくれる。そんな日を、何度も繰り返して。

 夢に出てくる不気味な銀色の闇。血塗れた王冠を奪う誰か。あれは多分エルヴィン様の義理の兄上であるルーカス様を指しているんだと思う。でも、確信が持てない。

 あんなに優しそうな王子が、そっち側のはずがない。ないのに、どうして。どうしてそんな夢ばかり見てしまうのだろう。

「あずさ様、朝食をお持ち致しました」

「朝早くからありがとうございます」

 彼女はこの部屋に身体を滑り込ませる。ちょっと待っててくれれば、扉くらい開けたのに。

「いえ、お届けが遅れてしまい申し訳ございません。それでは準備しますので、少々お待ちください」

 エステルさんがてきぱきと皿を並べていく。私は座ってそれが終わるのを待つ。

 肩にかからないくらいの銀髪、昼の空みたいな瞳。すごくよくできたお人形みたい。でも、彼女の手はすごく温かい。

 そこでようやく気付く。

 真っ白な彼女の腕に、黒い何かが纏わりついていることに。

「エステルさん、腕どうしたんですか?」

「これですか? ちょっと面倒な方に絡まれてしまって……。あっ、結構赤くなっちゃってますね。放っておけばそのうち治りますからご心配なく」

 もしかして、見えていないのだろうか。それとも、ここではこれが当たり前なのだろうか。でも彼女は確かに赤と言った。

「その……日本にはこういう時にするおまじないみたいなのがあって、えっと……」

 立ち上がって、エステルさんの真横まで移動する。彼女は持っていたお盆をテーブルに置き、ちょっとだけ身構えている。

「ちょっと腕触ります。えっと、腕触るのってマナー違反とかじゃないですよね?」

「はい、構いませんが……?」

 絹のようにきめ細かい白。そこに纏わりつく黒。私は黒が一番濃い所に触れ、ゆっくりと撫でていく。私の指にもねっとりと絡み付く闇。なんかコールタールみたいだなって思った。現物は見たことないけど。

「痛いの痛いの、飛んでけー」

 私がこう言った瞬間に、よくわからないどろどろした黒は霧のように消えていく。後に残っているのは、誰かに握られた痕跡だけ。彼女がさっき言ったように、まだほんのりと赤い。

「ありがとうございます、あずさ様。少し元気が出た気がします」

「それはよかった、です」

 思わず、口もとが緩む。

「それでは、冷めちゃう前に朝食をいただいちゃいましょうか」

「はいっ!」

 外はカリッとしているが、内側はふわふわのパン。手でちぎってからバターをしっかりと付けて、口へと運ぶ。舌の温度で溶けたバターが口の中で上品なハーモニーを作り出す。

 ベーコンエッグの方も、ベーコンの油の香りと塩コショウが絶妙なバランスでとても美味しい。結局、美味しいものは塩と油で出来てるらしい。

 お米と味噌汁の朝ごはんも良いけれど、こういう洋風のやつも捨てがたいと思う。というかここのご飯美味しすぎるから、食べすぎてめちゃくちゃ太りそうな予感がする。

「今日は完全にオフですが、何かやりたいことなどありますでしょうか?」

「えっと……折角の機会ですし、エステルさんのおすすめの食べ物とか食べてみたいです」

 あっ。ご飯のこと考えてたら、ご飯のことを口走ってしまった。

「構いませんよ。なんなら今すぐ買ってきましょうか?」

「たっ、食べ終わってからで良いですからっ」
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