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第118話 舞踏会の輪の外で
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祝賀舞踏会の喧騒の中、煌びやかな装飾が施された広間には音楽と談笑が溢れていた。
エリナは、手元のワイングラスを軽く揺らしながら、意を決したように迅を見つめる。
彼女の脳裏には、遺跡での出来事が鮮明に焼き付いていた。
“聖煌遺跡”——
あの"黒の賢者"と呼ばれる男が口にした、世界の理を揺るがす秘密。
本当に存在するのか?
それとも、あの男の罠なのか?
しかし、あの時の迅の反応を見る限り、彼は何かを思い当たっている。
いや、思い当たっているどころか、すでに何かを考えているはずだ——
(聞かなくては……!)
エリナは静かに口を開く。
「迅様……“聖煌遺跡《ゾディアック・ルインズ》”について——」
だが、その言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
ふわり、と。
目の前の迅が、すっと人差し指を伸ばし、エリナの唇の前に近づけたのだ。
「っ……!」
突然の仕草に、エリナの心臓が一瞬跳ね上がる。
(な、何……!?)
すぐそばにある迅の指先。
思わず、彼の表情を窺う。
迅は、笑っていなかった。
けれど、どこか柔らかく、しかし真剣な視線を向けていた。
「……ここでその話は、まずいかもしれねぇ」
低く、しかし確かに響く声。
それは、耳元で囁くような距離で発せられた。
エリナは、一瞬で理解した。
アークが言っていた言葉——
“聖煌遺跡を知る者は、ごく一部の王族や特定の学者のみ”
ここは、ノーザリア王国の王宮。
貴族や高官、果ては王族までもが集う場所。
もし、ここで下手に口にすれば、思わぬ波紋を呼ぶ可能性がある。
エリナは僅かに頷き、そっと口を閉ざした。
迅は、その反応を確認すると、ふっと口角を上げ、指を引っ込める。
「そういうことだ、エリナさん」
「……なるほど、失礼しました」
エリナは、どこか誤魔化すようにワイングラスを持ち上げた。
けれど、先ほどまで平静を装っていた胸の奥は、妙な高鳴りを見せていた。
(な、なんなの……今の……)
さっきまで、ただ質問しようとしただけなのに。
ほんの少し距離を詰められただけで、こんなに意識してしまうなんて——
(だ、駄目ね。落ち着かなくては……!)
エリナは小さく深呼吸する。
だが、彼女が感じた 妙な鼓動の正体 に気づくことは、まだ少し先の話だった。
◇◆◇
リディアは、ワイングラスの中で揺れる赤い液体をぼんやりと見つめながら、時折、ちらりと視線を上げていた。
目の前の祝宴の光景は華やかそのものだった。
貴族たちが微笑みながら談笑し、音楽に合わせて舞を踊り、豪奢な料理が振る舞われている。
でも——
リディアの意識は、そのどこにもなかった。
(……やっと、落ち着いて話せると思ったのにな。)
彼女は、ずっと待っていたのだ。
迅とゆっくり話せる、この機会を。
アル=ゼオス魔導遺跡の事件が解決してから、慌ただしい日々が続いた。
報告、事後処理、王宮での聴取——
その間、迅とまともに言葉を交わす暇すらなかった。
けれど、今日はようやく時間がある。
この祝賀舞踏会で、ようやく——
そう思っていた。
——が。
リディアの目に飛び込んできたのは、迅とエリナが 親しげに 話している姿だった。
(……え?)
最初は、ただの会話だと思った。
でも——
迅がエリナの唇の前に、そっと人差し指を伸ばした瞬間。
リディアの時間は止まった。
(……何、してるの……?)
驚きとともに、心臓がぎゅっと締め付けられる。
エリナは、僅かに目を見開き、戸惑った表情を見せた。
そして、迅が彼女の耳元に何かを囁くと——
エリナは、すぐに表情を緩め、静かに頷いた。
リディアの中で、言葉にならない感情が渦を巻いた。
(……どうして、そんなに親しそうなの……?)
まるで 二人だけの世界 みたいで、入り込む隙がない。
エリナの柔らかな微笑み。
迅の真剣な眼差し。
(——なんか、すごく……雰囲気、ある。)
リディアは、自分でも気づかないまま、ワイングラスを強く握りしめていた。
——ずっと、迅と話したかったのに。
——久しぶりに、二人でゆっくりできると思ったのに。
(……邪魔しちゃ、ダメだよね。)
リディアは、そっと視線を落とした。
祝宴の音楽が、遠くに聞こえる。
胸の奥が、少しだけ、痛い。
(……そっか。)
何か、分かってしまった気がした。
でも、それが何なのかは、まだ言葉にできない。
静かに息を吐くと、リディアはそっと身を翻した。
(……少し、外の空気を吸おう。)
そう呟いて、彼女は祝宴の広間を抜け出していった。
その背中は、どこか寂しげで。
まるで、そっと距離を置こうとしているかのように。
——しかし、それを目にしたエリナは、すぐに リディアの誤解 に気づく。
(───リディアさん……!!)
エリナは、リディアの小さな背中が静かに広間を抜けていくのを見つめていた。
その歩調は決して速くはなかった。
けれど—— まるで何かから距離を取ろうとするように、少しずつ、静かに遠ざかっていく。
(……リディアさん、それは、違う……!)
エリナは瞬時に理解した。
彼女は、誤解している——そう、確信した。
(さっきの迅様とのやり取りを見て、私と迅様の関係を誤解したのね……!)
エリナは自分の胸に手を当てた。
確かに、迅は彼女の口を指で制し、その後、耳元で囁いた。
あの状況だけを見れば、誤解されてもおかしくない。
エリナは歯を食いしばった。
リディアが、どんな気持ちであの場を離れたのか。
その表情が、彼女の胸に焼き付いていた。
どこか、寂しそうで。
どこか、迷いを含んだようで。
(……待って、リディアさん。)
エリナは躊躇わなかった。
即座にドレスの裾をつまみ、素早く歩き出す。
「……エリナさん?」
「……すみません、迅様!私《わたくし》、行かなくては!」
静かに、リディアの後を追った。
彼女が向かった先は—— 王宮の中庭。
広間の喧騒から離れた静寂の空間。
エリナは、息を整えながら考えた。
リディアは、おそらく迅に対して “特別な感情”を抱いている。
そして—— 彼女自身はまだそれに気づいていない。
(……なんだか、分かるわ。)
エリナは、自分の胸にも微かに芽生えつつある “気持ち” に気づいていた。
しかし、今はそれを考える時ではない。
今は—— 誤解を解かなくてはならない。
エリナは、まっすぐ中庭へと駆けていった。
◇◆◇
祝賀舞踏会の喧騒の中で、迅は静かに考え込んでいた。
“聖煌遺跡”
——アークが語ったこの未知の遺跡について、情報を整理しようとしていたのだ。
(……本当に、その遺跡の封印と俺の召喚は繋がっているのか?)
アークの言葉を全て鵜呑みにするつもりはない。
だが、少なくとも魔王軍は本気で “聖煌遺跡” の封印を解こうとしている。それは間違いない事実だ。
(とすると、こっちも何かしら動かねぇと……)
そう考えた矢先——。
「九条迅。」
低く、冷静な声が、思考を遮った。
その声の主——ライネル・フロストは、すでに迅の目の前に立っていた。
さっきまで見当たらなかったのに、いつの間に近づいてきたのか。
その佇まいは、まるで氷のように静かで、だが内側に熱を秘めていた。
迅は軽く片眉を上げた。
「……なんだよ、急に。」
ライネルはその言葉に応えず、ただ静かに迅を見つめる。
その青い瞳には、確固たる意思が宿っていた。
そして——
「リディアた……さんを、悲しませるとはな。」
ライネルは、メガネの位置を直しつつ淡々と告げた。
迅の眉が、ピクリと動く。
「は?」
「……先ほど、彼女はこの会場を出て行った。明らかに落ち込んだ様子でな。」
「……」
「原因は、お前にあるのだろう?」
ライネルは、まるで事実を確認するかのように言った。
迅は息を吐いた。
「……いや、俺は何もしてねえぞ。」
「……そうか。」
ライネルは目を細めた。
「君は彼女の “仲間” ではないのか?」
「そりゃ、まあな。」
「ならば、彼女がどれほど優れた魔法士であるか、当然知っているはずだな。」
「……は?」
迅は思わず聞き返した。
ライネルはゆっくりと腕を組むと、淡々と語り始めた。
「彼女が、先の戦いで披露された“妖精蝶《スプリガン・フライ》” 。あのように美しく、そして強力な魔法を使う人を、僕は他に知らない。」
碧い瞳が鋭く迅を射抜く。
「……君は、彼女の様な素晴らしい人が仲間であるその奇跡に、もっと感謝すべきではないのか?」
「……"妖精蝶《スプリガン・フライ》?」
迅の反応に、ライネルの目が細まる。
「……まさか、君は、知らないのか?」
「……」
その沈黙が、ライネルにとっては何よりの答えだった。
ライネルは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが——すぐに、口元に小さな笑みを浮かべた。
「……なるほどな。」
ライネルはゆっくりと肩をすくめ、そして——
「それは実に……“残念” だな。」
「見せてもらったのは、僕の方が"先"だったようだな。」
彼は静かに、しかし確実に “煽った”。
その瞬間——
場の空気が、凍りついた。
迅の表情が、変わったわけではない。
だが——
「…………」
彼が何も言わず、ただ黙った瞬間。
その “沈黙” が、異様に重く感じられた。
ライネルの背筋に、冷たいものが走る。
(……空気変わった?)
ライネルは思わず、迅の顔をもう一度見た。
——普段の飄々とした態度は、そこにはない。
——かといって、怒りを露わにしているわけでもない。
ただ、“無言” である。
(……な、なんだ、勇者の雰囲気が…!?)
ライネルの脳裏に、警鐘が鳴り響く。
(ま、まさか……勇者を怒らせた!?)
(……これはまずいかもしれない…!)
だが、ここで謝るのもおかしい。
何せ、迅は一言も怒りを表明していないのだから。
ライネルは静かに、慎重に、一歩だけ後ずさった。
「……き、君も、早く見る機会があるといいな。“勇者殿”。」
そう言いながら、ライネルは密かに退路を探る。
迅は相変わらず無言だが、その視線には圧がある。
(こ……これは、ちょっとマズいな……)
——と、その時。
「……ライネル。」
横から低い声がかかった。
ライネルが視線を向けると、そこにはミィシャがいた。
「……料理、取りに行こうぜ。」
「……え?」
ミィシャは小声でライネルに耳打ちする。
「……お前、今すぐ逃げた方がいいと思うにゃ。」
「………。そ、そうだな。僕も、料理取ってくるとしよう。」
2人は、できるだけ迅の視線から遠ざかるように、そそくさと静かに歩を進めた。
——こうして、ライネルは迅の “無言の圧” からの緊急撤退に成功した。
が。
「…………」
迅は、ただじっと、ライネルが去っていく背中を見つめていた。
自分でも、なぜライネルの言葉に “無性にイラついた” のか、まだ分かっていない。
ただ——
(……俺は、何であんなにムカついたんだ?)
自問自答するように、そっと胸元に手を当てた。
◇◆◇
ライネルとミィシャが料理を取りに行くために去った後、迅はその場に残されたまま、腕を組んで考え込んでいた。
(……なんで俺、あんなにイラついたんだ?)
ライネルの煽りがムカついたのは確かだが、それだけではない気がする。
妙に胸の奥がざわつくような、不快な感覚が残っていた。
「……蝶を使った戦術、ね。」
思わず口に出してみる。
リディアが新しい魔法を作っていたことは知っていた。
馬車の中で、彼女の背中に美しい蝶の形をした羽飾りが付いているのを見て、「それ、何?」と聞いたことがある。
だが、その時のリディアの答えは——
『……まだ内緒。』
少しだけ照れたような、でもどこか誇らしげな顔でそう言っていた。
(……あれが “妖精蝶” ってやつだったのか。)
それに、遺跡で別行動を取る直前にも、リディアはこう言っていた。
『貴方に、私の新戦術を直接見せられなくて残念だわ。』
あの時は、さらっと聞き流していたが——。
(……ってことは、アイツ、俺に直接見せるつもりだったんじゃねぇか。)
だが、結果として、ライネルが先に見てしまった。
と言うより、ライネルを助ける為に彼女はそれを使う事になったのだろう。
しかし、よりにもよって当のアイツが、得意げに「僕は見たけどな。」とか煽ってくるものだから、ついカッとなってしまった。
(……俺、嫉妬してたのか?)
そんなはずはない、と即座に否定しかける。
そんな非合理的な事を考えるのは、自分の性分ではないはず。
しかし、自分の胸の奥に生まれた妙な感情を無視することもできなかった。
今まで、リディアの魔法は、迅と共に試行錯誤しながら作り上げることが多かった。
彼女が魔法陣の改良を考え、迅が科学的な視点で助言をする。
そうして、二人で練り上げていくのが当たり前だった。
(“妖精蝶” ってやつは……アイツが、一人で完成させた戦術なんだな。)
だからといって、それが不満なわけではない。
むしろ、リディアが独自の戦術を生み出したことは誇らしい。
だが、それを自分よりも先にライネルが見て、しかも得意げに語るのが——
(……なんか、無性にムカつく。)
迅は、そんな自分自身の感情に困惑した。
(俺……リディアのこと、どう思ってるんだ?)
考えれば考えるほど、答えは霧のように曖昧だった。
◇◆◇
祝賀舞踏会は華やかな熱気に包まれ、まさに最高潮の時を迎えていた。
煌めくシャンデリアの光が床に映り、貴族たちの衣装に美しい陰影を落とす。
そんな中、九条迅はその場に1人ポツンと取り残されていた。
ロドリゲスはノーザリアの高官達との交流に励み、リディアとエリナは中庭の方へ。
ライネルとミィシャは何やら怯えた様子で迅から距離を取り、静かに料理を口に運んでいる。
不意に、優雅な調べが響き渡ると、ざわめきが静まり、広間には甘美な旋律が満ちていく。
招かれた紳士淑女たちは微笑みを交わしながら、自然と手を取り合い、流れるような動きで舞踏の輪へと加わる。
(……ダンスタイムってやつか。)
迅はワイングラスを傾けながら、その様子を何となしに眺める。
不意に、隣に微かな気配を感じた。
迅が振り返ると、そこにはカリム・ヴェルトールの姿があった。
彼は無言のまま、迅の側にニュッと立っている。
いつの間にか、周囲の喧騒は遠のき、気づけば男二人きりになっていた。
「………。」
「………。」
「………勇者殿、お相手がいないのであれば、私と一曲……」
「いや、躍らねえよ!!?」
カリムの(彼なりの)気遣いは、迅の全力拒否によって舞踏会の喧騒に消えていくのだった。
エリナは、手元のワイングラスを軽く揺らしながら、意を決したように迅を見つめる。
彼女の脳裏には、遺跡での出来事が鮮明に焼き付いていた。
“聖煌遺跡”——
あの"黒の賢者"と呼ばれる男が口にした、世界の理を揺るがす秘密。
本当に存在するのか?
それとも、あの男の罠なのか?
しかし、あの時の迅の反応を見る限り、彼は何かを思い当たっている。
いや、思い当たっているどころか、すでに何かを考えているはずだ——
(聞かなくては……!)
エリナは静かに口を開く。
「迅様……“聖煌遺跡《ゾディアック・ルインズ》”について——」
だが、その言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
ふわり、と。
目の前の迅が、すっと人差し指を伸ばし、エリナの唇の前に近づけたのだ。
「っ……!」
突然の仕草に、エリナの心臓が一瞬跳ね上がる。
(な、何……!?)
すぐそばにある迅の指先。
思わず、彼の表情を窺う。
迅は、笑っていなかった。
けれど、どこか柔らかく、しかし真剣な視線を向けていた。
「……ここでその話は、まずいかもしれねぇ」
低く、しかし確かに響く声。
それは、耳元で囁くような距離で発せられた。
エリナは、一瞬で理解した。
アークが言っていた言葉——
“聖煌遺跡を知る者は、ごく一部の王族や特定の学者のみ”
ここは、ノーザリア王国の王宮。
貴族や高官、果ては王族までもが集う場所。
もし、ここで下手に口にすれば、思わぬ波紋を呼ぶ可能性がある。
エリナは僅かに頷き、そっと口を閉ざした。
迅は、その反応を確認すると、ふっと口角を上げ、指を引っ込める。
「そういうことだ、エリナさん」
「……なるほど、失礼しました」
エリナは、どこか誤魔化すようにワイングラスを持ち上げた。
けれど、先ほどまで平静を装っていた胸の奥は、妙な高鳴りを見せていた。
(な、なんなの……今の……)
さっきまで、ただ質問しようとしただけなのに。
ほんの少し距離を詰められただけで、こんなに意識してしまうなんて——
(だ、駄目ね。落ち着かなくては……!)
エリナは小さく深呼吸する。
だが、彼女が感じた 妙な鼓動の正体 に気づくことは、まだ少し先の話だった。
◇◆◇
リディアは、ワイングラスの中で揺れる赤い液体をぼんやりと見つめながら、時折、ちらりと視線を上げていた。
目の前の祝宴の光景は華やかそのものだった。
貴族たちが微笑みながら談笑し、音楽に合わせて舞を踊り、豪奢な料理が振る舞われている。
でも——
リディアの意識は、そのどこにもなかった。
(……やっと、落ち着いて話せると思ったのにな。)
彼女は、ずっと待っていたのだ。
迅とゆっくり話せる、この機会を。
アル=ゼオス魔導遺跡の事件が解決してから、慌ただしい日々が続いた。
報告、事後処理、王宮での聴取——
その間、迅とまともに言葉を交わす暇すらなかった。
けれど、今日はようやく時間がある。
この祝賀舞踏会で、ようやく——
そう思っていた。
——が。
リディアの目に飛び込んできたのは、迅とエリナが 親しげに 話している姿だった。
(……え?)
最初は、ただの会話だと思った。
でも——
迅がエリナの唇の前に、そっと人差し指を伸ばした瞬間。
リディアの時間は止まった。
(……何、してるの……?)
驚きとともに、心臓がぎゅっと締め付けられる。
エリナは、僅かに目を見開き、戸惑った表情を見せた。
そして、迅が彼女の耳元に何かを囁くと——
エリナは、すぐに表情を緩め、静かに頷いた。
リディアの中で、言葉にならない感情が渦を巻いた。
(……どうして、そんなに親しそうなの……?)
まるで 二人だけの世界 みたいで、入り込む隙がない。
エリナの柔らかな微笑み。
迅の真剣な眼差し。
(——なんか、すごく……雰囲気、ある。)
リディアは、自分でも気づかないまま、ワイングラスを強く握りしめていた。
——ずっと、迅と話したかったのに。
——久しぶりに、二人でゆっくりできると思ったのに。
(……邪魔しちゃ、ダメだよね。)
リディアは、そっと視線を落とした。
祝宴の音楽が、遠くに聞こえる。
胸の奥が、少しだけ、痛い。
(……そっか。)
何か、分かってしまった気がした。
でも、それが何なのかは、まだ言葉にできない。
静かに息を吐くと、リディアはそっと身を翻した。
(……少し、外の空気を吸おう。)
そう呟いて、彼女は祝宴の広間を抜け出していった。
その背中は、どこか寂しげで。
まるで、そっと距離を置こうとしているかのように。
——しかし、それを目にしたエリナは、すぐに リディアの誤解 に気づく。
(───リディアさん……!!)
エリナは、リディアの小さな背中が静かに広間を抜けていくのを見つめていた。
その歩調は決して速くはなかった。
けれど—— まるで何かから距離を取ろうとするように、少しずつ、静かに遠ざかっていく。
(……リディアさん、それは、違う……!)
エリナは瞬時に理解した。
彼女は、誤解している——そう、確信した。
(さっきの迅様とのやり取りを見て、私と迅様の関係を誤解したのね……!)
エリナは自分の胸に手を当てた。
確かに、迅は彼女の口を指で制し、その後、耳元で囁いた。
あの状況だけを見れば、誤解されてもおかしくない。
エリナは歯を食いしばった。
リディアが、どんな気持ちであの場を離れたのか。
その表情が、彼女の胸に焼き付いていた。
どこか、寂しそうで。
どこか、迷いを含んだようで。
(……待って、リディアさん。)
エリナは躊躇わなかった。
即座にドレスの裾をつまみ、素早く歩き出す。
「……エリナさん?」
「……すみません、迅様!私《わたくし》、行かなくては!」
静かに、リディアの後を追った。
彼女が向かった先は—— 王宮の中庭。
広間の喧騒から離れた静寂の空間。
エリナは、息を整えながら考えた。
リディアは、おそらく迅に対して “特別な感情”を抱いている。
そして—— 彼女自身はまだそれに気づいていない。
(……なんだか、分かるわ。)
エリナは、自分の胸にも微かに芽生えつつある “気持ち” に気づいていた。
しかし、今はそれを考える時ではない。
今は—— 誤解を解かなくてはならない。
エリナは、まっすぐ中庭へと駆けていった。
◇◆◇
祝賀舞踏会の喧騒の中で、迅は静かに考え込んでいた。
“聖煌遺跡”
——アークが語ったこの未知の遺跡について、情報を整理しようとしていたのだ。
(……本当に、その遺跡の封印と俺の召喚は繋がっているのか?)
アークの言葉を全て鵜呑みにするつもりはない。
だが、少なくとも魔王軍は本気で “聖煌遺跡” の封印を解こうとしている。それは間違いない事実だ。
(とすると、こっちも何かしら動かねぇと……)
そう考えた矢先——。
「九条迅。」
低く、冷静な声が、思考を遮った。
その声の主——ライネル・フロストは、すでに迅の目の前に立っていた。
さっきまで見当たらなかったのに、いつの間に近づいてきたのか。
その佇まいは、まるで氷のように静かで、だが内側に熱を秘めていた。
迅は軽く片眉を上げた。
「……なんだよ、急に。」
ライネルはその言葉に応えず、ただ静かに迅を見つめる。
その青い瞳には、確固たる意思が宿っていた。
そして——
「リディアた……さんを、悲しませるとはな。」
ライネルは、メガネの位置を直しつつ淡々と告げた。
迅の眉が、ピクリと動く。
「は?」
「……先ほど、彼女はこの会場を出て行った。明らかに落ち込んだ様子でな。」
「……」
「原因は、お前にあるのだろう?」
ライネルは、まるで事実を確認するかのように言った。
迅は息を吐いた。
「……いや、俺は何もしてねえぞ。」
「……そうか。」
ライネルは目を細めた。
「君は彼女の “仲間” ではないのか?」
「そりゃ、まあな。」
「ならば、彼女がどれほど優れた魔法士であるか、当然知っているはずだな。」
「……は?」
迅は思わず聞き返した。
ライネルはゆっくりと腕を組むと、淡々と語り始めた。
「彼女が、先の戦いで披露された“妖精蝶《スプリガン・フライ》” 。あのように美しく、そして強力な魔法を使う人を、僕は他に知らない。」
碧い瞳が鋭く迅を射抜く。
「……君は、彼女の様な素晴らしい人が仲間であるその奇跡に、もっと感謝すべきではないのか?」
「……"妖精蝶《スプリガン・フライ》?」
迅の反応に、ライネルの目が細まる。
「……まさか、君は、知らないのか?」
「……」
その沈黙が、ライネルにとっては何よりの答えだった。
ライネルは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが——すぐに、口元に小さな笑みを浮かべた。
「……なるほどな。」
ライネルはゆっくりと肩をすくめ、そして——
「それは実に……“残念” だな。」
「見せてもらったのは、僕の方が"先"だったようだな。」
彼は静かに、しかし確実に “煽った”。
その瞬間——
場の空気が、凍りついた。
迅の表情が、変わったわけではない。
だが——
「…………」
彼が何も言わず、ただ黙った瞬間。
その “沈黙” が、異様に重く感じられた。
ライネルの背筋に、冷たいものが走る。
(……空気変わった?)
ライネルは思わず、迅の顔をもう一度見た。
——普段の飄々とした態度は、そこにはない。
——かといって、怒りを露わにしているわけでもない。
ただ、“無言” である。
(……な、なんだ、勇者の雰囲気が…!?)
ライネルの脳裏に、警鐘が鳴り響く。
(ま、まさか……勇者を怒らせた!?)
(……これはまずいかもしれない…!)
だが、ここで謝るのもおかしい。
何せ、迅は一言も怒りを表明していないのだから。
ライネルは静かに、慎重に、一歩だけ後ずさった。
「……き、君も、早く見る機会があるといいな。“勇者殿”。」
そう言いながら、ライネルは密かに退路を探る。
迅は相変わらず無言だが、その視線には圧がある。
(こ……これは、ちょっとマズいな……)
——と、その時。
「……ライネル。」
横から低い声がかかった。
ライネルが視線を向けると、そこにはミィシャがいた。
「……料理、取りに行こうぜ。」
「……え?」
ミィシャは小声でライネルに耳打ちする。
「……お前、今すぐ逃げた方がいいと思うにゃ。」
「………。そ、そうだな。僕も、料理取ってくるとしよう。」
2人は、できるだけ迅の視線から遠ざかるように、そそくさと静かに歩を進めた。
——こうして、ライネルは迅の “無言の圧” からの緊急撤退に成功した。
が。
「…………」
迅は、ただじっと、ライネルが去っていく背中を見つめていた。
自分でも、なぜライネルの言葉に “無性にイラついた” のか、まだ分かっていない。
ただ——
(……俺は、何であんなにムカついたんだ?)
自問自答するように、そっと胸元に手を当てた。
◇◆◇
ライネルとミィシャが料理を取りに行くために去った後、迅はその場に残されたまま、腕を組んで考え込んでいた。
(……なんで俺、あんなにイラついたんだ?)
ライネルの煽りがムカついたのは確かだが、それだけではない気がする。
妙に胸の奥がざわつくような、不快な感覚が残っていた。
「……蝶を使った戦術、ね。」
思わず口に出してみる。
リディアが新しい魔法を作っていたことは知っていた。
馬車の中で、彼女の背中に美しい蝶の形をした羽飾りが付いているのを見て、「それ、何?」と聞いたことがある。
だが、その時のリディアの答えは——
『……まだ内緒。』
少しだけ照れたような、でもどこか誇らしげな顔でそう言っていた。
(……あれが “妖精蝶” ってやつだったのか。)
それに、遺跡で別行動を取る直前にも、リディアはこう言っていた。
『貴方に、私の新戦術を直接見せられなくて残念だわ。』
あの時は、さらっと聞き流していたが——。
(……ってことは、アイツ、俺に直接見せるつもりだったんじゃねぇか。)
だが、結果として、ライネルが先に見てしまった。
と言うより、ライネルを助ける為に彼女はそれを使う事になったのだろう。
しかし、よりにもよって当のアイツが、得意げに「僕は見たけどな。」とか煽ってくるものだから、ついカッとなってしまった。
(……俺、嫉妬してたのか?)
そんなはずはない、と即座に否定しかける。
そんな非合理的な事を考えるのは、自分の性分ではないはず。
しかし、自分の胸の奥に生まれた妙な感情を無視することもできなかった。
今まで、リディアの魔法は、迅と共に試行錯誤しながら作り上げることが多かった。
彼女が魔法陣の改良を考え、迅が科学的な視点で助言をする。
そうして、二人で練り上げていくのが当たり前だった。
(“妖精蝶” ってやつは……アイツが、一人で完成させた戦術なんだな。)
だからといって、それが不満なわけではない。
むしろ、リディアが独自の戦術を生み出したことは誇らしい。
だが、それを自分よりも先にライネルが見て、しかも得意げに語るのが——
(……なんか、無性にムカつく。)
迅は、そんな自分自身の感情に困惑した。
(俺……リディアのこと、どう思ってるんだ?)
考えれば考えるほど、答えは霧のように曖昧だった。
◇◆◇
祝賀舞踏会は華やかな熱気に包まれ、まさに最高潮の時を迎えていた。
煌めくシャンデリアの光が床に映り、貴族たちの衣装に美しい陰影を落とす。
そんな中、九条迅はその場に1人ポツンと取り残されていた。
ロドリゲスはノーザリアの高官達との交流に励み、リディアとエリナは中庭の方へ。
ライネルとミィシャは何やら怯えた様子で迅から距離を取り、静かに料理を口に運んでいる。
不意に、優雅な調べが響き渡ると、ざわめきが静まり、広間には甘美な旋律が満ちていく。
招かれた紳士淑女たちは微笑みを交わしながら、自然と手を取り合い、流れるような動きで舞踏の輪へと加わる。
(……ダンスタイムってやつか。)
迅はワイングラスを傾けながら、その様子を何となしに眺める。
不意に、隣に微かな気配を感じた。
迅が振り返ると、そこにはカリム・ヴェルトールの姿があった。
彼は無言のまま、迅の側にニュッと立っている。
いつの間にか、周囲の喧騒は遠のき、気づけば男二人きりになっていた。
「………。」
「………。」
「………勇者殿、お相手がいないのであれば、私と一曲……」
「いや、躍らねえよ!!?」
カリムの(彼なりの)気遣いは、迅の全力拒否によって舞踏会の喧騒に消えていくのだった。
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その世界は、彼が元いた世界とのゲート開通から100周年を迎え、彼は通算一万人目の冒険者だった。
科学ではなく魔法が発達した、もうひとつの地球を舞台に、秋月レンジとふたりの巫女ステラ・リヴァイアサンとピノア・カーバンクルの冒険が今始まる。
40歳のおじさん 旅行に行ったら異世界でした どうやら私はスキル習得が早いようです
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部長に傷つけられ続けた私
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【収納∞】スキルがゴミだと追放された俺、実は次元収納に加えて“経験値貯蓄”も可能でした~追放先で出会ったもふもふスライムと伝説の竜を育成〜
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「役立たずの荷物持ちはもういらない」
貢献してきた勇者パーティーから、スキル【収納∞】を「大した量も入らないゴミスキル」だと誤解されたまま追放されたレント。
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失意の中、追放先の森で出会ったのは、もふもふで可愛いスライムの「プル」と、古代の祭壇で孵化した伝説の竜の幼体「リンド」。レントは隠していたスキルを解放し、唯一無二の仲間たちを最強へと育成することを決意する!
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これは、ゴミスキルだと蔑まれた少年が、最強の仲間たちと共にどん底から成り上がり、やがて自分を捨てたパーティーや国に「もう遅い」と告げることになる、追放から始まる育成&ざまぁファンタジー!
間違い召喚! 追い出されたけど上位互換スキルでらくらく生活
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僕は20歳独身、名は小日向 連(こひなた れん)うだつの上がらないダメ男だ
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召喚した女と王様っぽいのは何も持っていないと言って僕をポイ捨て、なんて世界だ。それも元の世界には戻せないらしい、というか戻さないみたいだ。
そんな僕はこの世界で苦労すると思ったら大間違い、王シリーズのスキルでウハウハ、製作で人助け生活していきます
◇
四巻が販売されました!
今日から四巻の範囲がレンタルとなります
書籍化に伴い一部ウェブ版と違う箇所がございます
追加場面もあります
よろしくお願いします!
一応191話で終わりとなります
最後まで見ていただきありがとうございました
コミカライズもスタートしています
毎月最初の金曜日に更新です
お楽しみください!
スキル『レベル1固定』は最強チートだけど、俺はステータスウィンドウで無双する
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アーサーはハズレスキル『レベル1固定』を授かったため、家を追放されてしまう。
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突如、異世界へと召喚された来栖海翔。自分以外にも転移してきた者たちが数百人おり、神父と召喚士から並ぶように指示されてスキルを付与されるが、それはいずれもパッとしなさそうな【互換】と【HP100】という二つのスキルだった。召喚士から外れ認定され、当たりスキル持ちの右列ではなく、外れスキル持ちの左列のほうに並ばされる来栖。だが、それらは組み合わせることによって最強のスキルとなるものであり、来栖は何もない状態から見る見る成り上がっていくことになる。
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