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第五章 魔導帝国ベルゼリア編
第136話 鬼塚、決断の刻
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アグリッパ・スパイラル17階、メディカル・フロア。
白く磨かれた床と、無機質な照明が病室のような静けさを作り出している。
機械の低い駆動音だけが響き、人々の呼吸音すら呑み込むように重苦しい。
ベッドの上には佐川颯太が横たわっていた。
顔色は良いが、まだ呼吸は浅い。
胸が上下するたび、かすかに布団が揺れる。
その傍らで天野唯が椅子に腰を下ろしていた。
彼女は両手をきつく組み合わせ、膝の上に置いたままじっと彼を見守っている。
眉間には深い皺が寄り、細い唇は必死に祈るように結ばれていた。
──声をかけたら泣き出してしまいそうなほど、その姿は張り詰めていた。
その一方で、同じ部屋にいる榊タケル、五十嵐マサキ、与田メグミの三人は、まるで別世界の住人のようだった。
「いや~、今回は失敗だったな!」
「もっとコンビネーションを練習すれば、次はいけるって!」
「……まあ、私は前線に出ないんで、次も頑張ってくださいね」
妙に明るく、肩を叩き合い、軽口を飛ばす三人。
そこには失敗の悔恨も、仲間の負傷を心配する色も一切ない。
その不自然なほどの前向きさが、かえって空気を冷たくしていた。
乾流星は、その会話を聞きながら小刻みに肩を震わせていた。
(……何言ってんだ……? 俺達……ほんとに……思考を……操られてたのか……?)
彼の唇は蒼ざめ、血の気が引いている。
握りしめた手は汗でじっとり濡れ、爪が手のひらに食い込むほど力が入っていた。
恐怖に膝が震え、彼は椅子の背に体を預けることでようやく姿勢を保っていた。
鬼塚はその様子を斜めから眺め、目を細める。
(乾の野郎……洗脳が解けてやがるな)
その気配を鋭く嗅ぎ取りながらも、表には出さない。
ただ、彼の内心は冷え冷えとした嫌悪と警戒で満たされていた。
──この空間にいるのは「正気」と「狂気」の二種類の人間。
境界線はあまりに薄く、誰が味方で誰が敵か、一瞬で逆転する危うさを孕んでいた。
鬼塚は深く息を吸い、メディカル・フロアに漂う薬品の匂いを肺に満たす。
(……クソッたれな状況だ……)
鬼塚の脳裏に、フォルティア荒野での戦いがよみがえる。
大地そのものを操るようなリュナの咆哮、圧倒的な魔力を振るうヴァレン。
その二人を前にした時の自分の無力感が、まざまざと蘇る。
(……アイツらに……勝てるわけがねぇ……)
歯噛みするほどの現実。
どれほど鍛えても、到達できる領域じゃない。
あの時はただ、運良く生き残ったに過ぎない──。
そして、思い出す。銀色の髪の少年。
アルドと呼ばれていた、銀色の少年。
──他の誰よりも次元が違っていた。
鬼塚はあの時、戦場に立ちながら直感した。
(俺達が駒なら、アイツは駒を動かすプレイヤー……そのくらいの隔たりがあった)
息を吐く。胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に渦巻く。
恐怖。嫉妬。羨望。
だが、その全てを凌駕するのは──あの少年が最後に自分へかけてくれた、優しい言葉の記憶だった。
「ご、ごめんね!? 大丈夫だった!?」
「ほら、立てる? 手、貸すよ」
ただそれだけの言葉。
それなのに、敵対していた自分にすら気遣いを向けるその姿勢は、鬼塚の心を不意打ちのように打った。
(……あんな次元の違う奴が……俺が牙を剥いちまった存在が……)
(俺に手を差し伸べてきやがった……)
鬼塚は手を見下ろした。
握った拳は、今にも震え出しそうなくらいに力がこもっている。
(俺は……どうすりゃいいんだ……?)
どうすれば、仲間を救えるのか。
敵に縋るのか。
この世界で、自分はどう動けばいいのか。
メディカル・フロアの静寂の中で、鬼塚の心だけが烈しく揺れていた。
◇◆◇
その瞬間、メディカル・フロアの静寂が破られた。
──ゴウン、と遠雷のような響き。続いて、天井の照明が「チカッ」と明滅する。
「うおっ!?」「なんだ!?停電か?」
榊タケルが大げさに立ち上がり、五十嵐マサキも顔をしかめる。
与田メグミは肩をすくめ、
「こんな時に電気トラブル? いやですね。」
と軽い調子でつぶやいた。
だが、明滅は一度では終わらなかった。
チカッ、チカチカッ……チカチカチカッ
一定のリズムを刻むように、光が点滅を繰り返す。
唯はベッドのそばで顔をこわばらせ、佐川の手をぎゅっと握りしめた。
「地震……?それとも、外で戦いが……?」
声は震えていたが、その視線は眠る佐川から一瞬も離れない。
乾流星は両腕を抱きしめるようにして椅子に身を沈め、唇を噛んでいた。
(な、なんだよこれ……! ただの停電じゃねぇ……!)
そして鬼塚。
彼だけは、明滅の“リズム”に気付いていた。
(……待てよ。この光……妙に規則的だ)
目を細め、天井の光を凝視する。
心臓がどくどくと早鐘を打ち、全身の毛穴が総立ちになる。
次第に、幼い頃の記憶がよみがえる。
──夜明け前の空。郊外の小さな高台。
幼馴染の佐川や天野と、星を見ながら交わした秘密の合図。
遠く離れていても伝えられるようにと、互いに覚えた古い符号。
「……モールス……」
鬼塚は低くつぶやいた。
点滅の間隔を数える。
短い、短い、短い──長い、長い、長い──短い、短い、短い。
(……SOS……!)
背筋が冷たく痺れる。息を呑み、さらに続くリズムを読み取った。
「オニ」 「ニゲ」 「キュウエン」。
(ッ……!! 俺に……逃げて、救援を呼べって……!?)
思考が一気に加速する。
(このやり口……間違いねぇ。一条の野郎だ……!)
拳を震わせる。
(だが……あの一条がこんな細ぇ糸に縋るなんざ……よっぽど追い詰められてるってことか……!)
鬼塚の胸に焦燥がこみ上げる。
「おい、どうしたんだ?」「なぁ、これヤベェんじゃねぇのか?」
榊たちの軽口が遠く霞んで聞こえる。
鬼塚の視界には、点滅する光だけが刻み込まれていた。
その明滅は──仲間の断末魔の叫びのように、彼の心を揺さぶり続けた。
やがて、点滅が唐突に止まった。
「……あれ?」
マサキが天井を見上げる。
与田も首を傾げ、「直ったんですかね?」と言う。
だが鬼塚の胸には、氷塊を押し込まれたような冷気が走っていた。
(……止まった……!?)
ただの停電なら、もっとランダムに途切れるはず。
だが、あれは明らかに“誰かが意図して”送っていた信号だった。
それが、不意に、途絶えた。
──背筋に冷たい汗が一気に噴き出す。
(まさか……一条……!?)
誰にも見られぬよう、膝の上で握り拳を作る。
爪が掌に食い込み、血が滲むほどだった。
と、その時。
ジジジッ……と、最後に短く、掠れるような明滅が走った。
鬼塚の目がかっと見開かれる。
(……まだだ! 最後に……最後にもう一度……!)
彼は必死にリズムを追った。
短い、短い──長い、短い──短い。
息を止め、脳裏で符号を組み立てる。
(……ギン……!?)
声にならない叫びが喉に詰まった。
「ギン」。
その二文字が意味するものを理解した瞬間、全身に電流が走るような衝撃を覚える。
(……あの、銀髪のガキ……!)
かつて地下遺構で見た、銀色の髪の少年。
圧倒的な力を前にして、ただただ別格だと悟った存在。
──最後の最後に、一条が託した名。
鬼塚の胸に、寒気と熱が同時に渦巻いた。
(……クソッ……! 一条の野郎……! 俺に、あいつの所へ行けってのか……!?)
彼は顔を伏せ、震える息を吐いた。
背筋を這い上がる恐怖と、心臓を鷲掴みにする焦燥。
それでも、胸の奥底で──熱い何かが点り始めていた。
◇◆◇
鬼塚の頭の中で、最後の明滅のリズムが何度も何度も反響していた。
「ギン」。
短い符号が示した二文字は、無機質な光の明滅とは裏腹に、あまりにも鮮烈な意味を帯びて胸に突き刺さっていた。
(ギン……銀……)
脳裏に浮かんだのは、あの地下で見た光景だった。
地面を突き破って現れた、銀色の髪をした少年。
対峙した刹那、全身が総毛立ち、「次元が違う」と直感した存在。
(……まさか……一条の野郎……!)
思考が火花を散らすように繋がっていく。
──一条たちが請け負った任務は、地下遺構の転移門を確保することだった。
──報告では「正体不明の強敵に遭遇して撤退した」とされていた。
──にも関わらず、隊はほとんど無傷で戻ってきた。
鬼塚は奥歯を強く噛みしめた。
(……藤野が少し怪我しただけ……そんなバカな話があるか……! 本当に“敵”だったなら、全滅しててもおかしくねぇ!)
そして気付く。
(……つまり……アイツらは“見逃してもらった”んだ……! あの銀色のガキに……!)
背筋を冷たいものが走る。だが同時に、胸の奥底に熱が灯るのを感じた。
一条が命懸けで伝えた最後の言葉。その意味はひとつしかない。
(──“あの銀髪の少年を頼れ”。そう言いてぇんだな、一条……!)
恐怖と衝撃と、それ以上の確信が、鬼塚の中で渦を巻いた。
思わず震える拳を膝に叩きつけ、唇をかみしめる。
「……クソッ……!!」
その吐き捨てるような声には、怒りも焦りも、そして悔しさも入り混じっていた。
鬼塚は大きく息を吸い込み、視線を床へと落とした。
その胸中には、ひとつの決断が形を取り始めていた。
(……俺が行くしかねぇ……!)
◇◆◇
騒ぎは一旦収まったものの、メディカル・フロアの空気はどこか不穏に揺れていた。
榊や五十嵐、与田が停電の動揺を語り合う一方、乾流星はひとり硬直したように椅子に腰を下ろし、小さく肩を震わせていた。
鬼塚はその様子を鋭い眼差しで捉える。
(……やっぱりな。乾のヤロウ、洗脳が解けてやがる……!)
だが、下手に声をかければ周囲に気取られる。
榊たちの目は曇っているが、感覚が完全に鈍っているわけではない。
下手を打てば、鬼塚ごと監視下に置かれるだろう。
鬼塚は立ち上がり、何気ない風を装って乾の近くへ歩み寄る。
背後に立ち、わざと床を一度踏み鳴らしてから、低い声を落とした。
「……乾。お前、正気に戻ってるだろ」
乾の肩が小さく揺れる。
鬼塚は続けざまに囁いた。
「“はい”なら一回、“いいえ”なら二回……靴、鳴らせ。監視がある」
乾は一瞬、目を見開き、鬼塚を振り返りかける。
だがすぐに視線を逸らし、足を一度だけコツンと鳴らした。
鬼塚はその小さな音に確信を得て、唇をわずかに吊り上げた。
(……よし。やっぱりだ)
今度はさらに声を落とす。
「これから俺は助けを呼びにいく。佐川も……多分洗脳が解けてる。あいつが目を覚ましたら一緒に、天野達を守ってやれ」
乾は僅かに顔を動かし、横目で鬼塚を見た。
その視線には、問いかけと不安、そしてわずかな決意が混じっていた。
鬼塚は短く頷き、続けた。
「……焦って無茶すんな。お前の役目は、待つことだ。俺が戻るまで……な」
沈黙。
だが次の瞬間、乾の足が小さく一度だけ床を叩いた。
その音は確かに「はい」と応えていた。
鬼塚はその肩をポンと軽く叩き、何事もなかったように窓際へと歩き去った。
残された乾は唇を噛みしめながら、必死に震えを抑え込んでいた。
◇◆◇
窓の外、漆黒の夜に浮かぶ道路網が目に入る。
アグリッパ・スパイラルの外壁から伸びる空中道路──それはフォルティア荒野の地下遺構へと続く、かつて一条たちが通った道だ。
(あれを辿れば……辿れば、銀髪のガキの元に行ける……!)
拳を固く握りしめる。
だが、すぐに胸に重くのしかかるものがあった。
──仲間を置いていく葛藤。
ベッドで眠る佐川。心配そうに寄り添う唯。
そしてまだ洗脳から解けない榊たち。
彼らを見やり、鬼塚は眉間に皺を寄せた。
(……俺だけ逃げるなんて、許されんのか……? 仲間を置いて、俺だけ……)
その迷いが喉を締め付ける。
だが、次の瞬間、脳裏に一条の顔が浮かんだ。
最後まで諦めず、命を賭けて「託した」男の姿が。
──“オニ、ニゲ、キュウエン”。
──“ギン”。
(……一条が……俺を選んだんだ……!)
心の中で小さく呟き、目を閉じる。
そして瞼を開いた時、その瞳には恐怖を超えた決意の光が宿っていた。
鬼塚は小さく笑った。
「……チクショウが……無茶言ってくれるじゃねぇかよ、一条……」
立ち上がり、窓際へと歩み寄る。
冷たいガラスの向こうには、夜の街と、深淵に続く道。
(……いいぜ、一条。お前の願い、背負ってやる……!)
鬼塚は拳を握り、胸の奥で誓った。
──必ずあの銀髪の少年に辿り着き、救援を呼ぶ。
──そして、仲間を、必ず救ってみせる。
それは恐怖を押し殺した末に生まれた、荒々しくも確かな覚悟だった。
白く磨かれた床と、無機質な照明が病室のような静けさを作り出している。
機械の低い駆動音だけが響き、人々の呼吸音すら呑み込むように重苦しい。
ベッドの上には佐川颯太が横たわっていた。
顔色は良いが、まだ呼吸は浅い。
胸が上下するたび、かすかに布団が揺れる。
その傍らで天野唯が椅子に腰を下ろしていた。
彼女は両手をきつく組み合わせ、膝の上に置いたままじっと彼を見守っている。
眉間には深い皺が寄り、細い唇は必死に祈るように結ばれていた。
──声をかけたら泣き出してしまいそうなほど、その姿は張り詰めていた。
その一方で、同じ部屋にいる榊タケル、五十嵐マサキ、与田メグミの三人は、まるで別世界の住人のようだった。
「いや~、今回は失敗だったな!」
「もっとコンビネーションを練習すれば、次はいけるって!」
「……まあ、私は前線に出ないんで、次も頑張ってくださいね」
妙に明るく、肩を叩き合い、軽口を飛ばす三人。
そこには失敗の悔恨も、仲間の負傷を心配する色も一切ない。
その不自然なほどの前向きさが、かえって空気を冷たくしていた。
乾流星は、その会話を聞きながら小刻みに肩を震わせていた。
(……何言ってんだ……? 俺達……ほんとに……思考を……操られてたのか……?)
彼の唇は蒼ざめ、血の気が引いている。
握りしめた手は汗でじっとり濡れ、爪が手のひらに食い込むほど力が入っていた。
恐怖に膝が震え、彼は椅子の背に体を預けることでようやく姿勢を保っていた。
鬼塚はその様子を斜めから眺め、目を細める。
(乾の野郎……洗脳が解けてやがるな)
その気配を鋭く嗅ぎ取りながらも、表には出さない。
ただ、彼の内心は冷え冷えとした嫌悪と警戒で満たされていた。
──この空間にいるのは「正気」と「狂気」の二種類の人間。
境界線はあまりに薄く、誰が味方で誰が敵か、一瞬で逆転する危うさを孕んでいた。
鬼塚は深く息を吸い、メディカル・フロアに漂う薬品の匂いを肺に満たす。
(……クソッたれな状況だ……)
鬼塚の脳裏に、フォルティア荒野での戦いがよみがえる。
大地そのものを操るようなリュナの咆哮、圧倒的な魔力を振るうヴァレン。
その二人を前にした時の自分の無力感が、まざまざと蘇る。
(……アイツらに……勝てるわけがねぇ……)
歯噛みするほどの現実。
どれほど鍛えても、到達できる領域じゃない。
あの時はただ、運良く生き残ったに過ぎない──。
そして、思い出す。銀色の髪の少年。
アルドと呼ばれていた、銀色の少年。
──他の誰よりも次元が違っていた。
鬼塚はあの時、戦場に立ちながら直感した。
(俺達が駒なら、アイツは駒を動かすプレイヤー……そのくらいの隔たりがあった)
息を吐く。胸の奥に、冷たいものと熱いものが同時に渦巻く。
恐怖。嫉妬。羨望。
だが、その全てを凌駕するのは──あの少年が最後に自分へかけてくれた、優しい言葉の記憶だった。
「ご、ごめんね!? 大丈夫だった!?」
「ほら、立てる? 手、貸すよ」
ただそれだけの言葉。
それなのに、敵対していた自分にすら気遣いを向けるその姿勢は、鬼塚の心を不意打ちのように打った。
(……あんな次元の違う奴が……俺が牙を剥いちまった存在が……)
(俺に手を差し伸べてきやがった……)
鬼塚は手を見下ろした。
握った拳は、今にも震え出しそうなくらいに力がこもっている。
(俺は……どうすりゃいいんだ……?)
どうすれば、仲間を救えるのか。
敵に縋るのか。
この世界で、自分はどう動けばいいのか。
メディカル・フロアの静寂の中で、鬼塚の心だけが烈しく揺れていた。
◇◆◇
その瞬間、メディカル・フロアの静寂が破られた。
──ゴウン、と遠雷のような響き。続いて、天井の照明が「チカッ」と明滅する。
「うおっ!?」「なんだ!?停電か?」
榊タケルが大げさに立ち上がり、五十嵐マサキも顔をしかめる。
与田メグミは肩をすくめ、
「こんな時に電気トラブル? いやですね。」
と軽い調子でつぶやいた。
だが、明滅は一度では終わらなかった。
チカッ、チカチカッ……チカチカチカッ
一定のリズムを刻むように、光が点滅を繰り返す。
唯はベッドのそばで顔をこわばらせ、佐川の手をぎゅっと握りしめた。
「地震……?それとも、外で戦いが……?」
声は震えていたが、その視線は眠る佐川から一瞬も離れない。
乾流星は両腕を抱きしめるようにして椅子に身を沈め、唇を噛んでいた。
(な、なんだよこれ……! ただの停電じゃねぇ……!)
そして鬼塚。
彼だけは、明滅の“リズム”に気付いていた。
(……待てよ。この光……妙に規則的だ)
目を細め、天井の光を凝視する。
心臓がどくどくと早鐘を打ち、全身の毛穴が総立ちになる。
次第に、幼い頃の記憶がよみがえる。
──夜明け前の空。郊外の小さな高台。
幼馴染の佐川や天野と、星を見ながら交わした秘密の合図。
遠く離れていても伝えられるようにと、互いに覚えた古い符号。
「……モールス……」
鬼塚は低くつぶやいた。
点滅の間隔を数える。
短い、短い、短い──長い、長い、長い──短い、短い、短い。
(……SOS……!)
背筋が冷たく痺れる。息を呑み、さらに続くリズムを読み取った。
「オニ」 「ニゲ」 「キュウエン」。
(ッ……!! 俺に……逃げて、救援を呼べって……!?)
思考が一気に加速する。
(このやり口……間違いねぇ。一条の野郎だ……!)
拳を震わせる。
(だが……あの一条がこんな細ぇ糸に縋るなんざ……よっぽど追い詰められてるってことか……!)
鬼塚の胸に焦燥がこみ上げる。
「おい、どうしたんだ?」「なぁ、これヤベェんじゃねぇのか?」
榊たちの軽口が遠く霞んで聞こえる。
鬼塚の視界には、点滅する光だけが刻み込まれていた。
その明滅は──仲間の断末魔の叫びのように、彼の心を揺さぶり続けた。
やがて、点滅が唐突に止まった。
「……あれ?」
マサキが天井を見上げる。
与田も首を傾げ、「直ったんですかね?」と言う。
だが鬼塚の胸には、氷塊を押し込まれたような冷気が走っていた。
(……止まった……!?)
ただの停電なら、もっとランダムに途切れるはず。
だが、あれは明らかに“誰かが意図して”送っていた信号だった。
それが、不意に、途絶えた。
──背筋に冷たい汗が一気に噴き出す。
(まさか……一条……!?)
誰にも見られぬよう、膝の上で握り拳を作る。
爪が掌に食い込み、血が滲むほどだった。
と、その時。
ジジジッ……と、最後に短く、掠れるような明滅が走った。
鬼塚の目がかっと見開かれる。
(……まだだ! 最後に……最後にもう一度……!)
彼は必死にリズムを追った。
短い、短い──長い、短い──短い。
息を止め、脳裏で符号を組み立てる。
(……ギン……!?)
声にならない叫びが喉に詰まった。
「ギン」。
その二文字が意味するものを理解した瞬間、全身に電流が走るような衝撃を覚える。
(……あの、銀髪のガキ……!)
かつて地下遺構で見た、銀色の髪の少年。
圧倒的な力を前にして、ただただ別格だと悟った存在。
──最後の最後に、一条が託した名。
鬼塚の胸に、寒気と熱が同時に渦巻いた。
(……クソッ……! 一条の野郎……! 俺に、あいつの所へ行けってのか……!?)
彼は顔を伏せ、震える息を吐いた。
背筋を這い上がる恐怖と、心臓を鷲掴みにする焦燥。
それでも、胸の奥底で──熱い何かが点り始めていた。
◇◆◇
鬼塚の頭の中で、最後の明滅のリズムが何度も何度も反響していた。
「ギン」。
短い符号が示した二文字は、無機質な光の明滅とは裏腹に、あまりにも鮮烈な意味を帯びて胸に突き刺さっていた。
(ギン……銀……)
脳裏に浮かんだのは、あの地下で見た光景だった。
地面を突き破って現れた、銀色の髪をした少年。
対峙した刹那、全身が総毛立ち、「次元が違う」と直感した存在。
(……まさか……一条の野郎……!)
思考が火花を散らすように繋がっていく。
──一条たちが請け負った任務は、地下遺構の転移門を確保することだった。
──報告では「正体不明の強敵に遭遇して撤退した」とされていた。
──にも関わらず、隊はほとんど無傷で戻ってきた。
鬼塚は奥歯を強く噛みしめた。
(……藤野が少し怪我しただけ……そんなバカな話があるか……! 本当に“敵”だったなら、全滅しててもおかしくねぇ!)
そして気付く。
(……つまり……アイツらは“見逃してもらった”んだ……! あの銀色のガキに……!)
背筋を冷たいものが走る。だが同時に、胸の奥底に熱が灯るのを感じた。
一条が命懸けで伝えた最後の言葉。その意味はひとつしかない。
(──“あの銀髪の少年を頼れ”。そう言いてぇんだな、一条……!)
恐怖と衝撃と、それ以上の確信が、鬼塚の中で渦を巻いた。
思わず震える拳を膝に叩きつけ、唇をかみしめる。
「……クソッ……!!」
その吐き捨てるような声には、怒りも焦りも、そして悔しさも入り混じっていた。
鬼塚は大きく息を吸い込み、視線を床へと落とした。
その胸中には、ひとつの決断が形を取り始めていた。
(……俺が行くしかねぇ……!)
◇◆◇
騒ぎは一旦収まったものの、メディカル・フロアの空気はどこか不穏に揺れていた。
榊や五十嵐、与田が停電の動揺を語り合う一方、乾流星はひとり硬直したように椅子に腰を下ろし、小さく肩を震わせていた。
鬼塚はその様子を鋭い眼差しで捉える。
(……やっぱりな。乾のヤロウ、洗脳が解けてやがる……!)
だが、下手に声をかければ周囲に気取られる。
榊たちの目は曇っているが、感覚が完全に鈍っているわけではない。
下手を打てば、鬼塚ごと監視下に置かれるだろう。
鬼塚は立ち上がり、何気ない風を装って乾の近くへ歩み寄る。
背後に立ち、わざと床を一度踏み鳴らしてから、低い声を落とした。
「……乾。お前、正気に戻ってるだろ」
乾の肩が小さく揺れる。
鬼塚は続けざまに囁いた。
「“はい”なら一回、“いいえ”なら二回……靴、鳴らせ。監視がある」
乾は一瞬、目を見開き、鬼塚を振り返りかける。
だがすぐに視線を逸らし、足を一度だけコツンと鳴らした。
鬼塚はその小さな音に確信を得て、唇をわずかに吊り上げた。
(……よし。やっぱりだ)
今度はさらに声を落とす。
「これから俺は助けを呼びにいく。佐川も……多分洗脳が解けてる。あいつが目を覚ましたら一緒に、天野達を守ってやれ」
乾は僅かに顔を動かし、横目で鬼塚を見た。
その視線には、問いかけと不安、そしてわずかな決意が混じっていた。
鬼塚は短く頷き、続けた。
「……焦って無茶すんな。お前の役目は、待つことだ。俺が戻るまで……な」
沈黙。
だが次の瞬間、乾の足が小さく一度だけ床を叩いた。
その音は確かに「はい」と応えていた。
鬼塚はその肩をポンと軽く叩き、何事もなかったように窓際へと歩き去った。
残された乾は唇を噛みしめながら、必死に震えを抑え込んでいた。
◇◆◇
窓の外、漆黒の夜に浮かぶ道路網が目に入る。
アグリッパ・スパイラルの外壁から伸びる空中道路──それはフォルティア荒野の地下遺構へと続く、かつて一条たちが通った道だ。
(あれを辿れば……辿れば、銀髪のガキの元に行ける……!)
拳を固く握りしめる。
だが、すぐに胸に重くのしかかるものがあった。
──仲間を置いていく葛藤。
ベッドで眠る佐川。心配そうに寄り添う唯。
そしてまだ洗脳から解けない榊たち。
彼らを見やり、鬼塚は眉間に皺を寄せた。
(……俺だけ逃げるなんて、許されんのか……? 仲間を置いて、俺だけ……)
その迷いが喉を締め付ける。
だが、次の瞬間、脳裏に一条の顔が浮かんだ。
最後まで諦めず、命を賭けて「託した」男の姿が。
──“オニ、ニゲ、キュウエン”。
──“ギン”。
(……一条が……俺を選んだんだ……!)
心の中で小さく呟き、目を閉じる。
そして瞼を開いた時、その瞳には恐怖を超えた決意の光が宿っていた。
鬼塚は小さく笑った。
「……チクショウが……無茶言ってくれるじゃねぇかよ、一条……」
立ち上がり、窓際へと歩み寄る。
冷たいガラスの向こうには、夜の街と、深淵に続く道。
(……いいぜ、一条。お前の願い、背負ってやる……!)
鬼塚は拳を握り、胸の奥で誓った。
──必ずあの銀髪の少年に辿り着き、救援を呼ぶ。
──そして、仲間を、必ず救ってみせる。
それは恐怖を押し殺した末に生まれた、荒々しくも確かな覚悟だった。
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「世界の管理者」すら手が出せない最強の農場主、カイト。
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パワハラで会社を辞めた俺、スキル【万能造船】で自由な船旅に出る~現代知識とチート船で水上交易してたら、いつの間にか国家予算レベルの大金を稼い
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スキルで船をどんどん豪華客船並みに拡張し、快適な船上生活を送りながら、行く先々の港町で特産品を仕入れては別の町で売る。そんな気ままな水上交易を続けているうちに、俺の資産はいつの間にか小国の国家予算を軽く超えていた。
これは、社畜だった俺が、チートな船でのんびりスローライフを送りながら、世界一の商人になるまでの物語。
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