143 / 249
第五章 魔導帝国ベルゼリア編
第141話 "凶竜"のジュラシエル
しおりを挟む
息を潜めながら、俺は瓦礫の影から顔を出した。
そこに鎮座していたのは──ビルの壁に背を預け、巨大な身体を折り畳むように眠るティラノサウルス。
図鑑や映画で見たのより俄然デカい。二倍はある。
そいつは口を半開きにして「シュ~ル……ピピピピピ……」と間の抜けた寝息を立てていた。
そして──その歯の隙間に。
「……か、影山くん……!?」
半透明の影山が、片脚を奥歯に引っかけるように挟まれ、ぐったりと舌の上に横たわっている。
(やっべえ……! なんであんな位置に!? もしこのティラノが寝返り打ったり、唾を飲み込みでもしたら──そのままごっくんじゃない!?)
冷や汗が背筋を伝う。
下手に刺激すれば、飲み込まれるのは一瞬だ。
俺は歯を食いしばり、そろそろと歩を進める。
夜気に混じって、ふわりと漂ってきたのは――
(……え? なんか……めっちゃいい匂いするんだけど……?)
花束を鼻先に押し付けられたみたいな、フローラルな香り。
巨大な恐竜から出ている匂いじゃない。
泥臭さとか、爬虫類の匂いとか、そういうのを想像していたのに。
(……いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない! 影山くんを助けるのが先だ!)
俺は腹を括り、ついにティラノの顔の真正面に立った。
暗い口腔の手前、口先に赤黒い何かがへばりついているのが見える。
(……血……? うわ……マジでグロいやつ……)
だが怯んでいられない。
俺はゆっくりと、伸ばした指先をその巨大な口へ──
──パチリ。
「……っ!」
瞼が開いた。
黄金色の瞳がギラリと光り、真正面から俺を捉える。
(やっば……! 吠える!? 噛みついてくる!? どっちにしろまずいだろコレ……!)
背筋に氷柱を突き立てられたみたいに固まった瞬間。
「キャーーーーー!! 痴漢よーーーーーッ!!」
……え?
野太いオッサン声と、乙女じみた悲鳴が合体したような声が、夜の広場に響き渡った。
鼓膜を突き破るような声量。俺の銀髪は一瞬でオールバックになり、コートの裾までひるがえった。
(えええええええええええええええええ!? 思ってた反応と違う!?)
内心で絶叫しながら、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇◆◇
耳を劈くような悲鳴が、夜の街に轟いた。
反射的に肩を竦めた俺は、そのまま呆然と立ち尽くしてしまう。
「信じられない!!」
──ズシン。
地鳴りのような音とともに、ティラノサウルスが立ち上がった。
ビルの谷間がミシミシと悲鳴を上げ、ガラス窓に蜘蛛の巣状のひびが走る。
黄金の瞳が爛々と燃え、巨大な顎が開かれる。
そして、吐き出されたのは、野太いオッサン声──けれど口調は乙女そのもの。
「レディが寝てる間に……勝手にキスしようとするなんてっ!」
「えっ!? ご、ご誤解です!!」
なぜか敬語で謝ってしまう。
だがその度に、ティラノの奥歯に挟まった影山くんがグラグラと揺れる。
(ああああああ!? か、影山くんがギリギリだ……!?)
胃の底まで冷えるような冷や汗が背中を流れ落ちる。
この状況、ビジュアル的には笑えるはずなのに、笑えない。影山くんがシャレにならん。
ところが次の瞬間、ティラノは俺をまじまじと凝視し……ハッ、と息を呑んだ。
「あらっ……!! よく見たら……可愛らしい、シルバーブロンド男子じゃないっ!!」
──は?
まさかの反応に、思わず一歩下がる俺。
ティラノは頬をポッと赤らめた……いや、鱗のどこがどうなって赤くなってんの!?
さらに、どこからともなくコンパクトを取り出し、器用に前足で構える。
「やだ~! ギャタシったら、昨日お化粧落とさないで寝ちゃってる~! 超おブス~!」
野太い声で嘆きながら、小さな前足で器用に口紅をススッと塗り直していく。
その動作の妙な細かさに、俺は思わず目を細めた。
つーか、口の周りの赤いのって血じゃなくて、口紅だったの!?
さっきまでの緊迫感が、一瞬で崩壊した。
化粧直しを終えたティラノは、再び俺に顔を近づけてきた。
鼻先から吹き出す息は熱風そのもの。髪が乱れて、額に張り付く。
「どこから来たの~? ギャタシ好みの可愛い僕ちゃん~!」
「ヤダもぅ~! ホント可愛すぎ~! 食べちゃいたくなるわ~!」
ど……どっちの意味だとしても怖ぇー!!
でっかい顎が「パカッ」と開くたびに、影山くんの体がゆらゆら揺れる。
俺は直立不動、ただ祈るように見守るしかない。
喉は乾いてカラカラ。心臓はドラムみたいにバクバク。
額の汗が、夜風に冷やされて妙にひんやりとした。
お姉ティラノはウィンクをひとつ寄越し、さらに言葉を畳み掛けてくる。
「ギャタシって、こう見えても……タイプの男子の前だと、結構“肉食系”なとこあるのよね~♡」
でしょうね!!どう見ても!!
心の中で全力のツッコミを入れる。
笑うべきか、怖がるべきか、判断に困る。
──ただひとつだけ確かなのは。
この状況、影山くんの命がかかったコントだってことだ。
◇◆◇
ティラノサウルスは、奥歯に影山をひっかけたまま、ふと我に返ったように声を張った。
「あらヤダ、自己紹介がまだだったわね~! キュート男子!」
ズズンと地響きみたいに胸を張り、巨大な尾をバサッと振る。夜の広場に風が巻き起こる。
「ギャタシは、“強欲四天王”の『可愛い』担当。
──“凶竜”のジュラシエルよ~!」
黄金の瞳をきらきら輝かせながら、ティラノはバチーン!とド派手にウィンクした。
野太い声で、しかしやたら可愛く締めくくる。
「愛を込めて“ジュラ姉”って呼んでね♡」
……。
「えっ!? “強欲四天王”!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
内心ではさらに大騒ぎだ。
いや、これもベルザリオンくんの同僚なの!?
え、マジで!? ハトとティラノサウルスと一緒の職場って、どういう環境!?
未来型動物園かな?
マイネさん、どういう基準で採用してんの?
ぐるぐると思考が渦巻くが、とりあえず自己紹介されたら、こちらも最低限の礼儀は尽くすしかない。
「は、初めまして。アルド・ラクシズと申します。……はい」
深く頭を下げる俺。
ティラノ──いや、ジュラ姉は満足そうに頷くと、器用に前足をひょいと持ち上げ、爪を見せた。
「それで、アルドきゅんは何の用事でこんな所にいるのかしら~?」
前足の爪に、赤く光る液体が塗られていた。
それを器用にちょんちょん塗り直すジュラ姉。
爪に付いてた赤いのも、マニキュアだったの!?
さっきまでの不気味さが、謎の女子力で一気に崩壊する。
俺は喉を鳴らしつつ、正直に切り出すことにした。
「いや、実はですね……今、貴女の……」
「“貴女”なんて他人行儀な呼び方はよしてぇ!」
ビシッと前足で俺を指さすジュラ姉。
黄金の瞳が爛々と光り、声がひときわ高くなる。
「ジュラ姉って呼んでっ!」
「ひ、ひえっ!? じゅ……ジュラ姉の奥歯にですね……そのー……」
冷や汗が首筋を伝う。俺は引きつった笑みを浮かべ、勇気を振り絞る。
「……僕の仲間っていうか……友達? が、挟まってるんじゃないかなー……って思ってまして……」
おそるおそる言葉をつむぐと、ジュラ姉は「あらぁ!?」と目を丸くした。
「えっ……!? どこ? 寝惚けてあくびした時に、何か落ちてきたものでも挟まっちゃったのかしら? ギャタシったら、おっちょこちょい!」
またもやどこから取り出したのか、コンパクトの鏡を器用に前足で掲げる。
大きな口をガバァと開け、角度を変えながら口内を覗き込むジュラ姉。
だが──。
「……あら!? おかしいわね~……?」
眉をひそめるジュラ姉。
鏡の中には、影山の姿は映っていない。
「アルドきゅんの言うように、歯に何か挟まってる感覚はあるんだけど……何も見えないわぁ?」
そう言いながら、長い舌をぬるりと伸ばす。
「んん~~……ここかしらぁ~?」
ぬちょり。
「ひぃ……!!」
影山くんの顔面を舌先がコロコロと転がす。
半透明な彼の頭が、ベットベトの唾液でテカテカに濡れていくのが見えて……。
(うわぁ……!)
いや、きっつ。
思わず内心で声を漏らしてしまった。
影山くんの姿が見えるのは、俺だけ。
その影山くんはと言えば、あらゆる意味でとんでもない事になっている。
彼の顔が唾液でぐっしょり光っているのを見て、俺の背筋に寒気が走った。
◇◆◇
「……あ、あの! よかったら、俺取りますよ!」
思わず手を挙げてしまった俺に、ティラノ──いや、ジュラ姉の黄金の瞳がカッと見開かれ、ぎらりと光を帯びる。
巨大な顔面が近づくたびに、風圧で前髪が揺れる。心臓が耳の奥でドクドク鳴った。
「ええっ!? アルドきゅんがぁ!? でもぉ~……口の中じっくり見られるのって、恥ずかしいっていうか~……♡」
クネクネと身体を揺らすジュラ姉。
可愛い仕草のつもりなんだろうけど、その度に地面がミシミシと軋み、ビルの窓ガラスがカタカタと震えてる。
照れの仕草一つが地震規模だ。
俺の足元までガクガクしてるんだけど。
「じゃ、じゃあ! 目ぇつぶって取りますから! ね? それなら恥ずかしくなーい! でしょ!?」
冷や汗を垂らしながら必死でフォロー。自分でも何言ってるか分からない。
ジュラ姉は一瞬ぽかんとした後、口角をぐにゃりと緩め、鱗の頬をポッと赤く染めた(どうやって赤面してんのか、謎すぎる)。
「それじゃあ~……お願いしちゃおっかな♡」
ガパァァァァッ!!
いや、怖っわ。
夜空を切り裂くように巨大な顎が開かれる。
闇の奥、奥歯の間に──ぐったりとした影山くんが引っ掛かっているのが見えた。
半透明の身体が口内の唾液で煌めいている。
(……うわっ……近くで見ると、ティラノの口腔内、迫力ハンパないな……)
俺は思わず喉を鳴らす。
覚悟していた血や肉の臭いはなく、代わりにふわりと甘いフローラルなシトラスの香りが鼻をくすぐった。
(……なんかいい匂いする……? ジュラ姉、ブレスケアまでしっかりしてる!? 何なの、その謎の女子力……)
頭の中で必死にツッコミを入れながらも、足は止まらない。
俺は一歩、また一歩とジュラ姉の口の中へと足を踏み入れる。
舌が床のように広がり、べっとりと濡れていて、足音が「ぺちゃ、ぺちゃ」といやに生々しく響いた。
吐息が熱風のように頬を撫で、鼓動が加速する。
「……よしっ」
奥歯まで辿り着き、両腕で影山くんを抱え上げる。
ぬるりとした唾液が肌を伝ったが、背中に背負った瞬間、胸の奥から安堵の息が漏れた。
「はぁぁぁ……助かった……」
張り詰めていた息をようやく解放した、その時──。
──バフンッ!
「わっ!?!?」
世界が真っ暗になった。
ジュラ姉の巨大な顎が音を立てて閉じ、俺は影山を背負ったまま完全に暗闇へ閉じ込められる。
湿った熱気が肌を包み、口腔の中の空気が一気に重くなる。
「ちょ、ちょっと!? ジュラ姉!?」
慌てて声を上げる俺。
しかし返ってきたのは耳からではなく──頭の中へ直接響く声だった。
《……ごめんなさい、アルドきゅん。 ギャタシ、分かってたの。アルドきゅんが、紅龍サマ達の……敵だって》
ぞわりと背筋を這い上がる感覚。
脳髄を掴まれるような圧迫感を伴った念話が、容赦なく押し込まれてくる。
《今のギャタシは“強欲四天王”じゃなくて、紅龍サマ達の僕……つまり、アルドきゅんの敵なの……!》
舌がぬるりと蠢き、俺と影山くんをゆっくりと喉奥へ押しやろうとする。
唾液が服にまとわりつき、ぞっとするほど生々しい感触が背筋を伝った。
《貴方の事、忘れない……! アルドきゅんは、ギャタシの血肉となり、共に生きていくのよ……!》
「うわっ!? いやいや、それはちょっと困るんだよねぇ」
俺は冷静を装い、わざと軽口を返した。
舌が迫る直前に、足元を蹴ってふわりと跳び上がる。
──ヒュッ。
滑らかな舌の動きをヒラリとかわし、一瞬で前歯の方へ移動。
右手を上顎に添えた。
「……ほいっ」
グイッ、と押し上げる。
バギギギギィ!!
ティラノサウルスの咬合力が、あっさりと俺の片手でこじ開けられていく。
目の前にオレンジの光が差し込み、街灯の輝きが闇を裂いた。
俺は影山くんを背負ったまま、身軽に口の中から飛び出す。
──ドンッ。
地面に着地。足に伝わる衝撃と共に、張り詰めていた呼吸を吐き出した。
「よっと……っと」
背中の影山くんを支え直す俺の耳に、背後から震え上がるような悲鳴が響いた。
「えっ!? ……鋼鉄の戦闘艇すら一噛みで食い千切る、ギャタシの咬合力を、片手で軽々と……!?」
ジュラ姉の目が、驚愕で見開かれる。
「アルドきゅん……貴方……ギャタシが思うより、遥かにパワフル系男子だったのね……!」
黄金の瞳が見開かれ、巨体がガクガクと震える。
その姿は畏怖と興奮が混ざり合った奇妙な熱に包まれていた。
俺は振り返り、敢えて口元に薄い笑みを浮かべる。
「そうだね。 まあ、見た目よりは……二億倍くらいはパワフルだと思うよ」
シルバーブロンドの髪を揺らし、冗談めかして言う。
だが、その一言が──ジュラ姉の内奥を直撃したようだった。
「……男子相手に、こんなに本気になるなんて、生まれて初めてよ……アルドきゅん!!」
ドォンッ!
大地を抉る一歩。
ジュラ姉は前傾姿勢で踏み込み、肉食獣そのものの構えを取った。
爪先がコンクリートを削り、地面が砕ける音が耳をつんざく。
黄金の瞳が俺を射抜き、獲物を逃さぬ捕食者の気配を放つ。
俺は影山くんを背負ったまま、ゆっくりと瞳を細めた。
(……やっぱりかぁ。マイネさんの部下達は、高校生の子達とはまた別のスキルで操られてるんだよな)
(時間もそうかけられないし……さて、どうするかね)
ジュラ姉を正面から見据えながら、心の中だけは妙に呑気に考えていた。
そこに鎮座していたのは──ビルの壁に背を預け、巨大な身体を折り畳むように眠るティラノサウルス。
図鑑や映画で見たのより俄然デカい。二倍はある。
そいつは口を半開きにして「シュ~ル……ピピピピピ……」と間の抜けた寝息を立てていた。
そして──その歯の隙間に。
「……か、影山くん……!?」
半透明の影山が、片脚を奥歯に引っかけるように挟まれ、ぐったりと舌の上に横たわっている。
(やっべえ……! なんであんな位置に!? もしこのティラノが寝返り打ったり、唾を飲み込みでもしたら──そのままごっくんじゃない!?)
冷や汗が背筋を伝う。
下手に刺激すれば、飲み込まれるのは一瞬だ。
俺は歯を食いしばり、そろそろと歩を進める。
夜気に混じって、ふわりと漂ってきたのは――
(……え? なんか……めっちゃいい匂いするんだけど……?)
花束を鼻先に押し付けられたみたいな、フローラルな香り。
巨大な恐竜から出ている匂いじゃない。
泥臭さとか、爬虫類の匂いとか、そういうのを想像していたのに。
(……いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない! 影山くんを助けるのが先だ!)
俺は腹を括り、ついにティラノの顔の真正面に立った。
暗い口腔の手前、口先に赤黒い何かがへばりついているのが見える。
(……血……? うわ……マジでグロいやつ……)
だが怯んでいられない。
俺はゆっくりと、伸ばした指先をその巨大な口へ──
──パチリ。
「……っ!」
瞼が開いた。
黄金色の瞳がギラリと光り、真正面から俺を捉える。
(やっば……! 吠える!? 噛みついてくる!? どっちにしろまずいだろコレ……!)
背筋に氷柱を突き立てられたみたいに固まった瞬間。
「キャーーーーー!! 痴漢よーーーーーッ!!」
……え?
野太いオッサン声と、乙女じみた悲鳴が合体したような声が、夜の広場に響き渡った。
鼓膜を突き破るような声量。俺の銀髪は一瞬でオールバックになり、コートの裾までひるがえった。
(えええええええええええええええええ!? 思ってた反応と違う!?)
内心で絶叫しながら、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇◆◇
耳を劈くような悲鳴が、夜の街に轟いた。
反射的に肩を竦めた俺は、そのまま呆然と立ち尽くしてしまう。
「信じられない!!」
──ズシン。
地鳴りのような音とともに、ティラノサウルスが立ち上がった。
ビルの谷間がミシミシと悲鳴を上げ、ガラス窓に蜘蛛の巣状のひびが走る。
黄金の瞳が爛々と燃え、巨大な顎が開かれる。
そして、吐き出されたのは、野太いオッサン声──けれど口調は乙女そのもの。
「レディが寝てる間に……勝手にキスしようとするなんてっ!」
「えっ!? ご、ご誤解です!!」
なぜか敬語で謝ってしまう。
だがその度に、ティラノの奥歯に挟まった影山くんがグラグラと揺れる。
(ああああああ!? か、影山くんがギリギリだ……!?)
胃の底まで冷えるような冷や汗が背中を流れ落ちる。
この状況、ビジュアル的には笑えるはずなのに、笑えない。影山くんがシャレにならん。
ところが次の瞬間、ティラノは俺をまじまじと凝視し……ハッ、と息を呑んだ。
「あらっ……!! よく見たら……可愛らしい、シルバーブロンド男子じゃないっ!!」
──は?
まさかの反応に、思わず一歩下がる俺。
ティラノは頬をポッと赤らめた……いや、鱗のどこがどうなって赤くなってんの!?
さらに、どこからともなくコンパクトを取り出し、器用に前足で構える。
「やだ~! ギャタシったら、昨日お化粧落とさないで寝ちゃってる~! 超おブス~!」
野太い声で嘆きながら、小さな前足で器用に口紅をススッと塗り直していく。
その動作の妙な細かさに、俺は思わず目を細めた。
つーか、口の周りの赤いのって血じゃなくて、口紅だったの!?
さっきまでの緊迫感が、一瞬で崩壊した。
化粧直しを終えたティラノは、再び俺に顔を近づけてきた。
鼻先から吹き出す息は熱風そのもの。髪が乱れて、額に張り付く。
「どこから来たの~? ギャタシ好みの可愛い僕ちゃん~!」
「ヤダもぅ~! ホント可愛すぎ~! 食べちゃいたくなるわ~!」
ど……どっちの意味だとしても怖ぇー!!
でっかい顎が「パカッ」と開くたびに、影山くんの体がゆらゆら揺れる。
俺は直立不動、ただ祈るように見守るしかない。
喉は乾いてカラカラ。心臓はドラムみたいにバクバク。
額の汗が、夜風に冷やされて妙にひんやりとした。
お姉ティラノはウィンクをひとつ寄越し、さらに言葉を畳み掛けてくる。
「ギャタシって、こう見えても……タイプの男子の前だと、結構“肉食系”なとこあるのよね~♡」
でしょうね!!どう見ても!!
心の中で全力のツッコミを入れる。
笑うべきか、怖がるべきか、判断に困る。
──ただひとつだけ確かなのは。
この状況、影山くんの命がかかったコントだってことだ。
◇◆◇
ティラノサウルスは、奥歯に影山をひっかけたまま、ふと我に返ったように声を張った。
「あらヤダ、自己紹介がまだだったわね~! キュート男子!」
ズズンと地響きみたいに胸を張り、巨大な尾をバサッと振る。夜の広場に風が巻き起こる。
「ギャタシは、“強欲四天王”の『可愛い』担当。
──“凶竜”のジュラシエルよ~!」
黄金の瞳をきらきら輝かせながら、ティラノはバチーン!とド派手にウィンクした。
野太い声で、しかしやたら可愛く締めくくる。
「愛を込めて“ジュラ姉”って呼んでね♡」
……。
「えっ!? “強欲四天王”!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
内心ではさらに大騒ぎだ。
いや、これもベルザリオンくんの同僚なの!?
え、マジで!? ハトとティラノサウルスと一緒の職場って、どういう環境!?
未来型動物園かな?
マイネさん、どういう基準で採用してんの?
ぐるぐると思考が渦巻くが、とりあえず自己紹介されたら、こちらも最低限の礼儀は尽くすしかない。
「は、初めまして。アルド・ラクシズと申します。……はい」
深く頭を下げる俺。
ティラノ──いや、ジュラ姉は満足そうに頷くと、器用に前足をひょいと持ち上げ、爪を見せた。
「それで、アルドきゅんは何の用事でこんな所にいるのかしら~?」
前足の爪に、赤く光る液体が塗られていた。
それを器用にちょんちょん塗り直すジュラ姉。
爪に付いてた赤いのも、マニキュアだったの!?
さっきまでの不気味さが、謎の女子力で一気に崩壊する。
俺は喉を鳴らしつつ、正直に切り出すことにした。
「いや、実はですね……今、貴女の……」
「“貴女”なんて他人行儀な呼び方はよしてぇ!」
ビシッと前足で俺を指さすジュラ姉。
黄金の瞳が爛々と光り、声がひときわ高くなる。
「ジュラ姉って呼んでっ!」
「ひ、ひえっ!? じゅ……ジュラ姉の奥歯にですね……そのー……」
冷や汗が首筋を伝う。俺は引きつった笑みを浮かべ、勇気を振り絞る。
「……僕の仲間っていうか……友達? が、挟まってるんじゃないかなー……って思ってまして……」
おそるおそる言葉をつむぐと、ジュラ姉は「あらぁ!?」と目を丸くした。
「えっ……!? どこ? 寝惚けてあくびした時に、何か落ちてきたものでも挟まっちゃったのかしら? ギャタシったら、おっちょこちょい!」
またもやどこから取り出したのか、コンパクトの鏡を器用に前足で掲げる。
大きな口をガバァと開け、角度を変えながら口内を覗き込むジュラ姉。
だが──。
「……あら!? おかしいわね~……?」
眉をひそめるジュラ姉。
鏡の中には、影山の姿は映っていない。
「アルドきゅんの言うように、歯に何か挟まってる感覚はあるんだけど……何も見えないわぁ?」
そう言いながら、長い舌をぬるりと伸ばす。
「んん~~……ここかしらぁ~?」
ぬちょり。
「ひぃ……!!」
影山くんの顔面を舌先がコロコロと転がす。
半透明な彼の頭が、ベットベトの唾液でテカテカに濡れていくのが見えて……。
(うわぁ……!)
いや、きっつ。
思わず内心で声を漏らしてしまった。
影山くんの姿が見えるのは、俺だけ。
その影山くんはと言えば、あらゆる意味でとんでもない事になっている。
彼の顔が唾液でぐっしょり光っているのを見て、俺の背筋に寒気が走った。
◇◆◇
「……あ、あの! よかったら、俺取りますよ!」
思わず手を挙げてしまった俺に、ティラノ──いや、ジュラ姉の黄金の瞳がカッと見開かれ、ぎらりと光を帯びる。
巨大な顔面が近づくたびに、風圧で前髪が揺れる。心臓が耳の奥でドクドク鳴った。
「ええっ!? アルドきゅんがぁ!? でもぉ~……口の中じっくり見られるのって、恥ずかしいっていうか~……♡」
クネクネと身体を揺らすジュラ姉。
可愛い仕草のつもりなんだろうけど、その度に地面がミシミシと軋み、ビルの窓ガラスがカタカタと震えてる。
照れの仕草一つが地震規模だ。
俺の足元までガクガクしてるんだけど。
「じゃ、じゃあ! 目ぇつぶって取りますから! ね? それなら恥ずかしくなーい! でしょ!?」
冷や汗を垂らしながら必死でフォロー。自分でも何言ってるか分からない。
ジュラ姉は一瞬ぽかんとした後、口角をぐにゃりと緩め、鱗の頬をポッと赤く染めた(どうやって赤面してんのか、謎すぎる)。
「それじゃあ~……お願いしちゃおっかな♡」
ガパァァァァッ!!
いや、怖っわ。
夜空を切り裂くように巨大な顎が開かれる。
闇の奥、奥歯の間に──ぐったりとした影山くんが引っ掛かっているのが見えた。
半透明の身体が口内の唾液で煌めいている。
(……うわっ……近くで見ると、ティラノの口腔内、迫力ハンパないな……)
俺は思わず喉を鳴らす。
覚悟していた血や肉の臭いはなく、代わりにふわりと甘いフローラルなシトラスの香りが鼻をくすぐった。
(……なんかいい匂いする……? ジュラ姉、ブレスケアまでしっかりしてる!? 何なの、その謎の女子力……)
頭の中で必死にツッコミを入れながらも、足は止まらない。
俺は一歩、また一歩とジュラ姉の口の中へと足を踏み入れる。
舌が床のように広がり、べっとりと濡れていて、足音が「ぺちゃ、ぺちゃ」といやに生々しく響いた。
吐息が熱風のように頬を撫で、鼓動が加速する。
「……よしっ」
奥歯まで辿り着き、両腕で影山くんを抱え上げる。
ぬるりとした唾液が肌を伝ったが、背中に背負った瞬間、胸の奥から安堵の息が漏れた。
「はぁぁぁ……助かった……」
張り詰めていた息をようやく解放した、その時──。
──バフンッ!
「わっ!?!?」
世界が真っ暗になった。
ジュラ姉の巨大な顎が音を立てて閉じ、俺は影山を背負ったまま完全に暗闇へ閉じ込められる。
湿った熱気が肌を包み、口腔の中の空気が一気に重くなる。
「ちょ、ちょっと!? ジュラ姉!?」
慌てて声を上げる俺。
しかし返ってきたのは耳からではなく──頭の中へ直接響く声だった。
《……ごめんなさい、アルドきゅん。 ギャタシ、分かってたの。アルドきゅんが、紅龍サマ達の……敵だって》
ぞわりと背筋を這い上がる感覚。
脳髄を掴まれるような圧迫感を伴った念話が、容赦なく押し込まれてくる。
《今のギャタシは“強欲四天王”じゃなくて、紅龍サマ達の僕……つまり、アルドきゅんの敵なの……!》
舌がぬるりと蠢き、俺と影山くんをゆっくりと喉奥へ押しやろうとする。
唾液が服にまとわりつき、ぞっとするほど生々しい感触が背筋を伝った。
《貴方の事、忘れない……! アルドきゅんは、ギャタシの血肉となり、共に生きていくのよ……!》
「うわっ!? いやいや、それはちょっと困るんだよねぇ」
俺は冷静を装い、わざと軽口を返した。
舌が迫る直前に、足元を蹴ってふわりと跳び上がる。
──ヒュッ。
滑らかな舌の動きをヒラリとかわし、一瞬で前歯の方へ移動。
右手を上顎に添えた。
「……ほいっ」
グイッ、と押し上げる。
バギギギギィ!!
ティラノサウルスの咬合力が、あっさりと俺の片手でこじ開けられていく。
目の前にオレンジの光が差し込み、街灯の輝きが闇を裂いた。
俺は影山くんを背負ったまま、身軽に口の中から飛び出す。
──ドンッ。
地面に着地。足に伝わる衝撃と共に、張り詰めていた呼吸を吐き出した。
「よっと……っと」
背中の影山くんを支え直す俺の耳に、背後から震え上がるような悲鳴が響いた。
「えっ!? ……鋼鉄の戦闘艇すら一噛みで食い千切る、ギャタシの咬合力を、片手で軽々と……!?」
ジュラ姉の目が、驚愕で見開かれる。
「アルドきゅん……貴方……ギャタシが思うより、遥かにパワフル系男子だったのね……!」
黄金の瞳が見開かれ、巨体がガクガクと震える。
その姿は畏怖と興奮が混ざり合った奇妙な熱に包まれていた。
俺は振り返り、敢えて口元に薄い笑みを浮かべる。
「そうだね。 まあ、見た目よりは……二億倍くらいはパワフルだと思うよ」
シルバーブロンドの髪を揺らし、冗談めかして言う。
だが、その一言が──ジュラ姉の内奥を直撃したようだった。
「……男子相手に、こんなに本気になるなんて、生まれて初めてよ……アルドきゅん!!」
ドォンッ!
大地を抉る一歩。
ジュラ姉は前傾姿勢で踏み込み、肉食獣そのものの構えを取った。
爪先がコンクリートを削り、地面が砕ける音が耳をつんざく。
黄金の瞳が俺を射抜き、獲物を逃さぬ捕食者の気配を放つ。
俺は影山くんを背負ったまま、ゆっくりと瞳を細めた。
(……やっぱりかぁ。マイネさんの部下達は、高校生の子達とはまた別のスキルで操られてるんだよな)
(時間もそうかけられないし……さて、どうするかね)
ジュラ姉を正面から見据えながら、心の中だけは妙に呑気に考えていた。
74
あなたにおすすめの小説
異世界をスキルブックと共に生きていく
大森 万丈
ファンタジー
神様に頼まれてユニークスキル「スキルブック」と「神の幸運」を持ち異世界に転移したのだが転移した先は海辺だった。見渡しても海と森しかない。「最初からサバイバルなんて難易度高すぎだろ・・今着てる服以外何も持ってないし絶対幸運働いてないよこれ、これからどうしよう・・・」これは地球で平凡に暮らしていた佐藤 健吾が死後神様の依頼により異世界に転生し神より授かったユニークスキル「スキルブック」を駆使し、仲間を増やしながら気ままに異世界で暮らしていく話です。神様に貰った幸運は相変わらず仕事をしません。のんびり書いていきます。読んで頂けると幸いです。
男女比がおかしい世界の貴族に転生してしまった件
美鈴
ファンタジー
転生したのは男性が少ない世界!?貴族に生まれたのはいいけど、どういう風に生きていこう…?
最新章の第五章も夕方18時に更新予定です!
☆の話は苦手な人は飛ばしても問題無い様に物語を紡いでおります。
※ホットランキング1位、ファンタジーランキング3位ありがとうございます!
※カクヨム様にも投稿しております。内容が大幅に異なり改稿しております。
※各種ランキング1位を頂いた事がある作品です!
田舎農家の俺、拾ったトカゲが『始祖竜』だった件〜女神がくれたスキル【絶対飼育】で育てたら、魔王がコスメ欲しさに竜王が胃薬借りに通い詰めだした
月神世一
ファンタジー
「くそっ、魔王はまたトカゲの抜け殻を美容液にしようとしてるし、女神は酒のつまみばかり要求してくる! 俺はただ静かに農業がしたいだけなのに!」
ブラック企業で過労死した日本人、カイト。
彼の願いはただ一つ、「誰にも邪魔されない静かな場所で農業をすること」。
女神ルチアナからチートスキル【絶対飼育】を貰い、異世界マンルシア大陸の辺境で念願の農場を開いたカイトだったが、ある日、庭から虹色の卵を発掘してしまう。
孵化したのは、可愛らしいトカゲ……ではなく、神話の時代に世界を滅亡させた『始祖竜』の幼体だった!
しかし、カイトはスキル【絶対飼育】のおかげで、その破壊神を「ポチ」と名付けたペットとして完璧に飼い慣らしてしまう。
ポチのくしゃみ一発で、敵の軍勢は老衰で塵に!?
ポチの抜け殻は、魔王が喉から手が出るほど欲しがる究極の美容成分に!?
世界を滅ぼすほどの力を持つポチと、その魔素を浴びて育った規格外の農作物を求め、理知的で美人の魔王、疲労困憊の竜王、いい加減な女神が次々にカイトの家に押しかけてくる!
「世界の管理者」すら手が出せない最強の農場主、カイト。
これは、世界の運命と、美味しい野菜と、ペットの散歩に追われる、史上最も騒がしいスローライフ物語である!
パワハラで会社を辞めた俺、スキル【万能造船】で自由な船旅に出る~現代知識とチート船で水上交易してたら、いつの間にか国家予算レベルの大金を稼い
☆ほしい
ファンタジー
過労とパワハラで心身ともに限界だった俺、佐伯湊(さえきみなと)は、ある日異世界に転移してしまった。神様から与えられたのは【万能造船】というユニークスキル。それは、設計図さえあれば、どんな船でも素材を消費して作り出せるという能力だった。
「もう誰にも縛られない、自由な生活を送るんだ」
そう決意した俺は、手始めに小さな川舟を作り、水上での生活をスタートさせる。前世の知識を活かして、この世界にはない調味料や保存食、便利な日用品を自作して港町で売ってみると、これがまさかの大当たり。
スキルで船をどんどん豪華客船並みに拡張し、快適な船上生活を送りながら、行く先々の港町で特産品を仕入れては別の町で売る。そんな気ままな水上交易を続けているうちに、俺の資産はいつの間にか小国の国家予算を軽く超えていた。
これは、社畜だった俺が、チートな船でのんびりスローライフを送りながら、世界一の商人になるまでの物語。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
白いもふもふ好きの僕が転生したらフェンリルになっていた!!
ろき
ファンタジー
ブラック企業で消耗する社畜・白瀬陸空(しらせりくう)の唯一の癒し。それは「白いもふもふ」だった。 ある日、白い子犬を助けて命を落とした彼は、異世界で目を覚ます。
ふと水面を覗き込むと、そこに映っていたのは―― 伝説の神獣【フェンリル】になった自分自身!?
「どうせ転生するなら、テイマーになって、もふもふパラダイスを作りたかった!」 「なんで俺自身がもふもふの神獣になってるんだよ!」
理想と真逆の姿に絶望する陸空。 だが、彼には規格外の魔力と、前世の異常なまでの「もふもふへの執着」が変化した、とある謎のスキルが備わっていた。
これは、最強の神獣になってしまった男が、ただひたすらに「もふもふ」を愛でようとした結果、周囲の人間(とくにエルフ)に崇拝され、勘違いが勘違いを呼んで国を動かしてしまう、予測不能な異世界もふもふライフ!
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
三歳で婚約破棄された貧乏伯爵家の三男坊そのショックで現世の記憶が蘇る
マメシバ
ファンタジー
貧乏伯爵家の三男坊のアラン令息
三歳で婚約破棄され
そのショックで前世の記憶が蘇る
前世でも貧乏だったのなんの問題なし
なによりも魔法の世界
ワクワクが止まらない三歳児の
波瀾万丈
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる