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第五章 魔導帝国ベルゼリア編
第193話 リヴィスとマイネ④ ── 終わらぬ“欲”と、君への…… ──
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フォルティア荒野──その中央の地下深く、かつて幾度となく戦乱が渦巻いたこの地の最奥に、誰にも知られることなく、ただひっそりと構築された巨大構造体があった。
それはまるで、地を抉り、大地の中枢にまで手を伸ばさんとするかのような無骨で滑らかな、白銀の筒状建造物。
中心核には、完璧な半球体の部屋があった。
艶やかな白に覆われたその空間には、何も無い。ただ空気と、響きすぎるほどの静寂と、そして──希望と狂気が、同居していた。
その中心に、ふたりの影。
科学と魔法。異邦と原住。探求と強欲。
すべてが交差するその部屋で、リヴィス・ハルトマンと、強欲の魔王マイネ・アグリッパは向き合っていた。
「……“感情”を、エネルギーに変える……だと……?」
リヴィスの声は、いつも通りの無機質さを保ちながらも、どこか微かに、信じがたいものを口にする者の困惑を含んでいた。
白銀の強化スーツに包まれた腕を組み、彼は斜め下を見据えるようにして、口元に手を当てる。
マイネは、そんな彼を真っ直ぐに見据えながら、唇の端を上げて言った。
「正確に言うなら、人の持つ“欲望”をエネルギーに変える、じゃな。」
「……欲望を……エネルギーに……」
リヴィスは繰り返し、視線を壁面に投影されたホログラムの座標図に移す。
「そんなことが可能なのか? 人の感情に、欲に、そこまでのエネルギーがあるなどと、俄には信じ難い……」
「──人の行動原理は、詰まるところ、すべて“欲”によるものじゃ。」
マイネは白く光る床を一歩、静かに踏みしめる。
「文化も、芸術も、争いも、愛も。人がこの世界で築いてきたものの根源は、すべて“欲望”から生まれておる。欲が無ければ、変化も進化も起きぬ。欲こそが、世界の原動力じゃ。」
彼女はゆっくりと、リヴィスの目の前に立った。
わずかに伏せられたその金紫の瞳が、柔らかな確信を帯びて持ち上がる。
「お主のような男の“欲”ならば──計り知れぬエネルギーになろうよ。」
リヴィスは沈黙した。
やがて、ぽつりと呟く。
「つまり……俺の“帰還したい”という欲望を消費し……その“想い”自体をエネルギーとして燃やし尽くし……俺を元の世界へ送り返す……そういうことか。」
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「──なるほど。それは確かに、“一度きりの賭け”に違いないな。」
目を細めながら、彼は足元の床を見下ろした。
「一度それを使えば、“帰りたい”という欲すら、俺の中から消え失せる。二度と同じことはできないし、することもない……俺という人間そのものが、別物になるに等しい。」
その表現に、マイネは軽く頷いた。
「我が "我欲制縄" があってこその術じゃ。……だが、お主の欲だけでは──足りぬ。」
「……何?」
リヴィスは目を上げた。その黒曜の瞳が、マイネの金紫の瞳を正面から射抜く。
「他に……何を使うつもりだ?」
その問いに、マイネはふっと、頬を緩めた。
「決まっておろう。妾の“欲”よ。」
「……お前の……?」
「“お主の望みを、叶えてやりたい”──という、な。」
それは、あまりにも自然に放たれた、あたたかな声だった。
その響きに、リヴィスの目がわずかに見開かれた。何かを言いかけて、口を閉じる。
しばしの沈黙の後、彼は目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……どうして、ただの異邦人の俺に、魔王であるお前が、そこまで……?」
マイネはその問いに、ほんの一拍だけ間を置いた後、小さく噴き出した。
「ふふ……お主は、頭はいいのに、アホじゃな。」
「……どういう意味だ?」
「野暮なことは、聞くな。──愚か者が。」
笑って答えるマイネに、リヴィスもまた、鼻で小さく笑った。
「……そうだな。すまない。」
それ以上、何も言葉は交わされなかった。
ただ、二人の間に流れる静かな空気が、互いの想いを確かに伝えていた。
そして──一人の男の命運を賭けた“帰還”の儀式が、静かに始まろうとしていた。
◇◆◇
真っ白な半球の空間。
壁も床も、まるで曇りなき硝子のように滑らかで、どこか人工的な胎内を思わせる。
視界を埋め尽くすその空間の中央に、リヴィスとマイネが並び立っていた。
足元には幾何学的な円陣──魔導式の複合陣がうっすらと浮かび、その線は生き物のように脈打ち始めている。
リヴィスの指が、装着した銀色のデバイスのパネルを滑る。
「……エネルギー供給のリミッターを解除した。これで、一度に上限なくエネルギーを充填できる。装置への負荷は、この際、置いておくとしよう。」
その言葉に、マイネは唇を持ち上げてにやりと笑う。
「上出来じゃ。」
リヴィスの視線が端末から外れ、マイネの方を見やる。
「今から、ベルと妾の "欲望”の感情をエネルギーに変換する。物の例えではなく、文字通り "気持ちが力になる”という訳じゃ。」
マイネの口から出る言葉は冗談のようでいて、声音には一切の揺らぎが無い。彼女の掌にはすでに"我欲制縄"が現れており、その黒革の口が静かに開いていた。
「“欲望”の純度が高いほど、得られるエネルギーも大きくなる。“元の世界に戻る。それ以外、何も要らない”……そのような心構えでいるのじゃぞ。」
「……言われるまでもない。」
リヴィスは短く答えると、最終確認の操作を終えた。背後では、部屋の壁一面がゆっくりと蠢き、魔法と機械の複合技術で生まれた光紋が浮かび上がる。
彼の口から次に発せられたのは、どこか静かな覚悟に満ちた声だった。
「……俺が各地に遺した装置には、念のため“ロック”をかけてある。遺伝子……血の情報コード──俺か、血縁者でなければ起動できないようにな。誰かに悪用されることは、ないとは思うが……」
マイネは「分かっておる」とだけ返し、視線を逸らさずに微笑を浮かべる。
「定期的に妾が見て回り、異変が無いか調べておく。心配はいらぬ。」
そのやり取りの後、リヴィスはふと、壁面に映る自らのクローンの映像を目にする。
その男──いや、彼自身を模した存在は、王冠を被り、民に祝福される様子だった。
「ベルゼリアの皇帝役は……俺のクローンがしっかり務めてくれている。ナノマシンは注入せず、普通に歳を取り、妻を娶り、子を成している。……あいつの方が、俺より余程“人間”らしい生き方をしているな。」
それは皮肉とも羨望ともつかぬ響きだった。
マイネは肩をすくめ、くすりと笑う。
「お主には、妾がいたじゃろ?」
予想外の言葉に、リヴィスは目を見開いた。だがすぐに、ふっと小さく笑い、
「……ああ。そうだったな。」
とだけ言った。
その言葉には、確かな実感と、微かな感謝の響きがあった。
◇◆◇
白の空間が、脈動した。
球体の内壁を思わせる真円の室内。音もなく、光もなく、ただそこに「存在」するだけの静謐。
その中心で、二人は立っていた。
異邦の科学と、この世界の魔法とを融合させた超構造体──“帰還門・ソウル・ドライバー”。
長き旅の果てにたどり着いた終着点で、リヴィス・ハルトマンは最後の準備を終え、腕元のデバイスに指を滑らせた。
「……エネルギー供給、リミッター解除完了。最大圧力で注入可能……あとは……」
すぐ傍に立つマイネが、ゆっくりと手を上げた。その手には、黒革の奇妙な財布──魔神器 "我欲制縄"。
「では、いくぞ……」
その声は、思いのほか静かだった。
「一度発動すれば、二度とは引き返せぬ。覚悟は、良いな?」
リヴィスは、視線をまっすぐに彼女へ向け、ただ一言。
「ああ……始めてくれ。」
マイネは頷き、財布の口をゆっくりと開けた。
刹那、空間が震える。
壁面の全体に、回路めいた光の線が奔った。青と金の混じった魔法的光子が、まるで生き物のように走り、部屋を染め上げてゆく。
リヴィスの足元には、幾何学的な魔法陣が浮かび上がった。円の中に組み込まれた式は、古代語でも数式でもない、ただ“意志”に反応して発光する理の図形。
マイネが、叫んだ。
「──"貪欲昇華"!! 欲を喰らい、力へと昇華せよ!!」
その瞬間、リヴィスとマイネの全身から光が立ち上った。
魂の奥底から湧き上がる“願い”が、熱量を持って噴き上がる。
光は二人の胸元から放たれ、《我欲制縄》の口へと吸い込まれていく。
光は脈動し、回路を走り、帰還門へと流れ込む。
──リヴィスは、目を閉じた。
(帰る……必ず、帰る……)
それ以外の全ての思考を捨て、ただひとつの欲求へと意識を絞る。
──マイネもまた、同じく目を閉じていた。
(ベルの望みを、妾は……)
“この男の帰還を叶えたい”という感情を、そのままに魔力と変え、魔神器に注ぎ込む。
二人の欲望は、確かに昇華され、力となっていた。
エネルギー流入の警告ランプが点灯し、機構が熱を帯び始める。
だが。
そのとき──
ふと、重なってしまった。
二人の視線が。
リヴィスがほんのわずかに目を開け、マイネの姿を見た。
マイネもまた、リヴィスを見つめていた。
その瞳が、揺れた。
ほんの、一瞬。
だが、確かに。
マイネの胸に、“もし”という想いが過ってしまった。
(もし、これが──失敗したら?)
(ベルは、“帰還”という願いを失って──
このまま、この世界で、妾と……)
その迷いは、ほんの微かなものだった。
けれど、“我欲制縄”は見逃さない。
それは、「欲」そのものを測定し、選別し、燃料とする装置だった。
その“ゆらぎ”に、光が反応する。
ぶわっ、と立ち昇っていた光柱が、ぎらりと震え、激しく脈を乱した。
「……しまっ──!?」
マイネが目を見開き、思わず叫ぶ。
次の瞬間、制御装置のインジケーターが一斉に赤点滅し、アラート音が部屋に鳴り響く。
魔法陣が軋む。
回路が悲鳴を上げるように、光の筋が断ち切られていく。
リヴィスの足元の陣がバチッ!!と閃光を弾き、焼け焦げるように黒く焦げついた。
我欲制縄の口が、ギイッ……という異様な音と共に閉じかけ、光が収束していく。
──そして。
全ての光が。
唐突に、消えた。
静寂。
今しがたまでの爆ぜるような輝きは、幻だったかのように。
「……し……失敗……した……?」
マイネの震える声が、空間に響いた。
震える手で、リヴィスの姿を探す。
「べ……ベル……」
彼女の視線の先で、リヴィスは天井を仰ぎ見ていた。
虚ろな瞳。
やがて、わずかに口元を歪め、吐き出すように言葉を紡いだ。
「そうか……これが……俺の……」
それは、最期の言葉だった。
喉の奥から、黒く濁った血が込み上げ、リヴィスの唇を濡らした。
膝が崩れる。
音もなく、崩れ落ちるように、床に倒れた。
「ベルッ!!」
マイネの絶叫が、部屋に響いた。
彼女は駆け寄り、倒れたリヴィスの身体を抱き上げる。
その目に、涙があった。
かつて“強欲の魔王”と呼ばれた女の、心からの──
悔恨と、絶望の涙だった。
それはまるで、地を抉り、大地の中枢にまで手を伸ばさんとするかのような無骨で滑らかな、白銀の筒状建造物。
中心核には、完璧な半球体の部屋があった。
艶やかな白に覆われたその空間には、何も無い。ただ空気と、響きすぎるほどの静寂と、そして──希望と狂気が、同居していた。
その中心に、ふたりの影。
科学と魔法。異邦と原住。探求と強欲。
すべてが交差するその部屋で、リヴィス・ハルトマンと、強欲の魔王マイネ・アグリッパは向き合っていた。
「……“感情”を、エネルギーに変える……だと……?」
リヴィスの声は、いつも通りの無機質さを保ちながらも、どこか微かに、信じがたいものを口にする者の困惑を含んでいた。
白銀の強化スーツに包まれた腕を組み、彼は斜め下を見据えるようにして、口元に手を当てる。
マイネは、そんな彼を真っ直ぐに見据えながら、唇の端を上げて言った。
「正確に言うなら、人の持つ“欲望”をエネルギーに変える、じゃな。」
「……欲望を……エネルギーに……」
リヴィスは繰り返し、視線を壁面に投影されたホログラムの座標図に移す。
「そんなことが可能なのか? 人の感情に、欲に、そこまでのエネルギーがあるなどと、俄には信じ難い……」
「──人の行動原理は、詰まるところ、すべて“欲”によるものじゃ。」
マイネは白く光る床を一歩、静かに踏みしめる。
「文化も、芸術も、争いも、愛も。人がこの世界で築いてきたものの根源は、すべて“欲望”から生まれておる。欲が無ければ、変化も進化も起きぬ。欲こそが、世界の原動力じゃ。」
彼女はゆっくりと、リヴィスの目の前に立った。
わずかに伏せられたその金紫の瞳が、柔らかな確信を帯びて持ち上がる。
「お主のような男の“欲”ならば──計り知れぬエネルギーになろうよ。」
リヴィスは沈黙した。
やがて、ぽつりと呟く。
「つまり……俺の“帰還したい”という欲望を消費し……その“想い”自体をエネルギーとして燃やし尽くし……俺を元の世界へ送り返す……そういうことか。」
そして、ゆっくりと首を横に振る。
「──なるほど。それは確かに、“一度きりの賭け”に違いないな。」
目を細めながら、彼は足元の床を見下ろした。
「一度それを使えば、“帰りたい”という欲すら、俺の中から消え失せる。二度と同じことはできないし、することもない……俺という人間そのものが、別物になるに等しい。」
その表現に、マイネは軽く頷いた。
「我が "我欲制縄" があってこその術じゃ。……だが、お主の欲だけでは──足りぬ。」
「……何?」
リヴィスは目を上げた。その黒曜の瞳が、マイネの金紫の瞳を正面から射抜く。
「他に……何を使うつもりだ?」
その問いに、マイネはふっと、頬を緩めた。
「決まっておろう。妾の“欲”よ。」
「……お前の……?」
「“お主の望みを、叶えてやりたい”──という、な。」
それは、あまりにも自然に放たれた、あたたかな声だった。
その響きに、リヴィスの目がわずかに見開かれた。何かを言いかけて、口を閉じる。
しばしの沈黙の後、彼は目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「……どうして、ただの異邦人の俺に、魔王であるお前が、そこまで……?」
マイネはその問いに、ほんの一拍だけ間を置いた後、小さく噴き出した。
「ふふ……お主は、頭はいいのに、アホじゃな。」
「……どういう意味だ?」
「野暮なことは、聞くな。──愚か者が。」
笑って答えるマイネに、リヴィスもまた、鼻で小さく笑った。
「……そうだな。すまない。」
それ以上、何も言葉は交わされなかった。
ただ、二人の間に流れる静かな空気が、互いの想いを確かに伝えていた。
そして──一人の男の命運を賭けた“帰還”の儀式が、静かに始まろうとしていた。
◇◆◇
真っ白な半球の空間。
壁も床も、まるで曇りなき硝子のように滑らかで、どこか人工的な胎内を思わせる。
視界を埋め尽くすその空間の中央に、リヴィスとマイネが並び立っていた。
足元には幾何学的な円陣──魔導式の複合陣がうっすらと浮かび、その線は生き物のように脈打ち始めている。
リヴィスの指が、装着した銀色のデバイスのパネルを滑る。
「……エネルギー供給のリミッターを解除した。これで、一度に上限なくエネルギーを充填できる。装置への負荷は、この際、置いておくとしよう。」
その言葉に、マイネは唇を持ち上げてにやりと笑う。
「上出来じゃ。」
リヴィスの視線が端末から外れ、マイネの方を見やる。
「今から、ベルと妾の "欲望”の感情をエネルギーに変換する。物の例えではなく、文字通り "気持ちが力になる”という訳じゃ。」
マイネの口から出る言葉は冗談のようでいて、声音には一切の揺らぎが無い。彼女の掌にはすでに"我欲制縄"が現れており、その黒革の口が静かに開いていた。
「“欲望”の純度が高いほど、得られるエネルギーも大きくなる。“元の世界に戻る。それ以外、何も要らない”……そのような心構えでいるのじゃぞ。」
「……言われるまでもない。」
リヴィスは短く答えると、最終確認の操作を終えた。背後では、部屋の壁一面がゆっくりと蠢き、魔法と機械の複合技術で生まれた光紋が浮かび上がる。
彼の口から次に発せられたのは、どこか静かな覚悟に満ちた声だった。
「……俺が各地に遺した装置には、念のため“ロック”をかけてある。遺伝子……血の情報コード──俺か、血縁者でなければ起動できないようにな。誰かに悪用されることは、ないとは思うが……」
マイネは「分かっておる」とだけ返し、視線を逸らさずに微笑を浮かべる。
「定期的に妾が見て回り、異変が無いか調べておく。心配はいらぬ。」
そのやり取りの後、リヴィスはふと、壁面に映る自らのクローンの映像を目にする。
その男──いや、彼自身を模した存在は、王冠を被り、民に祝福される様子だった。
「ベルゼリアの皇帝役は……俺のクローンがしっかり務めてくれている。ナノマシンは注入せず、普通に歳を取り、妻を娶り、子を成している。……あいつの方が、俺より余程“人間”らしい生き方をしているな。」
それは皮肉とも羨望ともつかぬ響きだった。
マイネは肩をすくめ、くすりと笑う。
「お主には、妾がいたじゃろ?」
予想外の言葉に、リヴィスは目を見開いた。だがすぐに、ふっと小さく笑い、
「……ああ。そうだったな。」
とだけ言った。
その言葉には、確かな実感と、微かな感謝の響きがあった。
◇◆◇
白の空間が、脈動した。
球体の内壁を思わせる真円の室内。音もなく、光もなく、ただそこに「存在」するだけの静謐。
その中心で、二人は立っていた。
異邦の科学と、この世界の魔法とを融合させた超構造体──“帰還門・ソウル・ドライバー”。
長き旅の果てにたどり着いた終着点で、リヴィス・ハルトマンは最後の準備を終え、腕元のデバイスに指を滑らせた。
「……エネルギー供給、リミッター解除完了。最大圧力で注入可能……あとは……」
すぐ傍に立つマイネが、ゆっくりと手を上げた。その手には、黒革の奇妙な財布──魔神器 "我欲制縄"。
「では、いくぞ……」
その声は、思いのほか静かだった。
「一度発動すれば、二度とは引き返せぬ。覚悟は、良いな?」
リヴィスは、視線をまっすぐに彼女へ向け、ただ一言。
「ああ……始めてくれ。」
マイネは頷き、財布の口をゆっくりと開けた。
刹那、空間が震える。
壁面の全体に、回路めいた光の線が奔った。青と金の混じった魔法的光子が、まるで生き物のように走り、部屋を染め上げてゆく。
リヴィスの足元には、幾何学的な魔法陣が浮かび上がった。円の中に組み込まれた式は、古代語でも数式でもない、ただ“意志”に反応して発光する理の図形。
マイネが、叫んだ。
「──"貪欲昇華"!! 欲を喰らい、力へと昇華せよ!!」
その瞬間、リヴィスとマイネの全身から光が立ち上った。
魂の奥底から湧き上がる“願い”が、熱量を持って噴き上がる。
光は二人の胸元から放たれ、《我欲制縄》の口へと吸い込まれていく。
光は脈動し、回路を走り、帰還門へと流れ込む。
──リヴィスは、目を閉じた。
(帰る……必ず、帰る……)
それ以外の全ての思考を捨て、ただひとつの欲求へと意識を絞る。
──マイネもまた、同じく目を閉じていた。
(ベルの望みを、妾は……)
“この男の帰還を叶えたい”という感情を、そのままに魔力と変え、魔神器に注ぎ込む。
二人の欲望は、確かに昇華され、力となっていた。
エネルギー流入の警告ランプが点灯し、機構が熱を帯び始める。
だが。
そのとき──
ふと、重なってしまった。
二人の視線が。
リヴィスがほんのわずかに目を開け、マイネの姿を見た。
マイネもまた、リヴィスを見つめていた。
その瞳が、揺れた。
ほんの、一瞬。
だが、確かに。
マイネの胸に、“もし”という想いが過ってしまった。
(もし、これが──失敗したら?)
(ベルは、“帰還”という願いを失って──
このまま、この世界で、妾と……)
その迷いは、ほんの微かなものだった。
けれど、“我欲制縄”は見逃さない。
それは、「欲」そのものを測定し、選別し、燃料とする装置だった。
その“ゆらぎ”に、光が反応する。
ぶわっ、と立ち昇っていた光柱が、ぎらりと震え、激しく脈を乱した。
「……しまっ──!?」
マイネが目を見開き、思わず叫ぶ。
次の瞬間、制御装置のインジケーターが一斉に赤点滅し、アラート音が部屋に鳴り響く。
魔法陣が軋む。
回路が悲鳴を上げるように、光の筋が断ち切られていく。
リヴィスの足元の陣がバチッ!!と閃光を弾き、焼け焦げるように黒く焦げついた。
我欲制縄の口が、ギイッ……という異様な音と共に閉じかけ、光が収束していく。
──そして。
全ての光が。
唐突に、消えた。
静寂。
今しがたまでの爆ぜるような輝きは、幻だったかのように。
「……し……失敗……した……?」
マイネの震える声が、空間に響いた。
震える手で、リヴィスの姿を探す。
「べ……ベル……」
彼女の視線の先で、リヴィスは天井を仰ぎ見ていた。
虚ろな瞳。
やがて、わずかに口元を歪め、吐き出すように言葉を紡いだ。
「そうか……これが……俺の……」
それは、最期の言葉だった。
喉の奥から、黒く濁った血が込み上げ、リヴィスの唇を濡らした。
膝が崩れる。
音もなく、崩れ落ちるように、床に倒れた。
「ベルッ!!」
マイネの絶叫が、部屋に響いた。
彼女は駆け寄り、倒れたリヴィスの身体を抱き上げる。
その目に、涙があった。
かつて“強欲の魔王”と呼ばれた女の、心からの──
悔恨と、絶望の涙だった。
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