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第六章 学園編 ──白銀の婚約者──
第246話 ダンジョン・サバイバル
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競技場の床が、軋んだ。
それは轟音ではなかった。
むしろ、絵本のページをめくるような、場違いなほど軽やかな音だった。
パキリ、と。
巨大な石畳の一部が歪み、色づき、輪郭を失っていく。
次の瞬間。
床だったはずの場所に、扉が現れた。
淡いパステルカラーで縁取られた、どこかおとぎ話めいた装飾。
取っ手までついた、どう見ても“迷宮の入口”とは思えない代物だ。
「……え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
その問いに答える暇すら与えぬように、扉は音もなく開いた。
重力が、消える。
「うわっ──!?」
「きゃあああっ!?」
四人一組で固まっていた受験生たちが、まとめて足元を掬われる。
悲鳴が上がり、手が伸ばされ、掴もうとした床はもう存在しない。
次々と、次々と。
競技場のあちこちで扉が開き、
若き挑戦者たちが“下”へと吸い込まれていく。
落下。
ただの落下だ。
だが、それは“地面に落ちる”類のものではない。
視界がひっくり返り、音が歪み、光が遠ざかっていく。
「──戻って来れるんだよな……?」
観客席のどこかで、誰かが小さく呟いた。
その声は、ざわめきに紛れてすぐに消えた。
だが、その不安は確実に、競技場全体に染み込んでいく。
数百人。
いや、正確には“約六百人、約百五十チーム”。
それだけの人間が、いま、地面の下へと消えていったのだ。
競技場に残ったのは、
空虚な床と、取り残された観客たちの息遣いだけだった。
その空気を、ぴたりと切り裂く声が響いた。
『慌てるでない』
幼い少女の声。
鈴を転がしたようでいて、異様なまでに通る声だった。
観客席の視線が、一斉に中央の高台へと集まる。
そこに立っていたのは、
巨大な魔女帽子を被った、小柄な少女──マリーダ・フォン教授。
フリル過多の魔法少女然とした衣装。
年端もいかぬ外見。
だが、その場に立つ“気配”だけで分かる。
──格が違う。
マリーダはマイクを手に取り、観客席を見渡す。
その視線は、慈愛でもなければ、親切でもない。
管理者のものだった。
『ダンジョン内での挑戦者どもの様子は、きちんと観測できるようになっておる』
そう言って、彼女は杖を軽く振る。
シャララーン、と、可愛らしい効果音。
だが次の瞬間。
空気が、震えた。
競技場の上空に、いくつもの巨大な球体が浮かび上がる。
透明な水晶のような球──いや、魔力球だ。
一つ、二つ、三つ。
いや、十を超え、二十を超え、観客達の視界を埋め尽くすほどに現れる。
そして、その中に。
映った。
落下していく受験生たちの姿が。
「……すご……」
「映ってる……中の様子が……」
「これが……“迷宮の主”の力……」
観客席から、ざわめきと感嘆の声が溢れる。
水晶球の中では、
闇に包まれた通路へと落ちていく者。
咄嗟に体勢を立て直そうとする者。
仲間の手を必死に掴む者の姿が、鮮明に映し出されていた。
安全だ、と言われたわけではない。
だが、“見えている”という事実が、観客の不安を麻痺させていく。
マリーダは、その反応を楽しむように、口角を吊り上げた。
『さて』
マイク越しの声が、わずかに弾む。
『ワシはこれから、ダンジョン内に潜る』
一瞬、理解が追いつかなかった。
『ダンジョンの最奥から、挑戦者どもを──生かさず、殺さず、苦しめてやるつもりじゃ』
その言葉に、観客席から乾いた笑いが起こる。
冗談だと、そう思いたかったからだ。
だが、マリーダの目は笑っていない。
『──それに』
彼女は杖を肩に担ぎ、楽しげに言葉を続ける。
『万が一、ワシのダンジョンの最深部……地下50階まで到達する者が現れたなら』
空気が、張り詰める。
『ワシが直接、相手をしてやらねばならんからのう』
その瞬間、観客席の一部がざわついた。
地下50階。
それがどれほどの意味を持つ数字なのか、詳しく知らずとも理解できる。
“最深部”
“直接相手をする”
それはつまり──
『キサマら観客どもは、存分に楽しむといい』
マリーダは、にぃ、と幼い顔に似つかわしくない、意地の悪い笑みを浮かべた。
『予選会の観戦を、な』
そして。
再び、杖が振られる。
シャララーン。
今度は、彼女自身の足元に、ファンシーな扉が音もなく現れた。
「……教授が……?」
誰かが息を呑む。
マリーダは一歩踏み出し、扉の中へと身を投じる。
その姿が完全に消える直前、彼女は心の中で楽しげに呟いた。
(いかにラグナ殿下であろうと、六時間で最深部に辿り着くのは至難の業……)
(ましてや──あの、憎き“色欲の魔王”の使徒が、ワシの元へ来るなど……)
亜空間のトンネルを落下しながら、
幼女の顔に、歪んだ期待と憎悪が浮かぶ。
(……じゃが)
(万が一……万が一、ヤツが辿り着いたとしたら)
その時は。
(──ワシ自ら、引導を渡してやるとしよう……!)
(このダンジョンの中でなら、ワシは──誰よりも強い……!)
扉が、閉じる。
競技場に残された観客たちは、
水晶球に映る迷宮の光景を見上げながら、言葉を失っていた。
予選会は、すでに始まっている。
そしてそれは──
ただの選抜試験では、決してなかった。
◇◆◇
観客席のざわめきが、完全に落ち着くことはなかった。
空中に浮かぶ無数の水晶球には、すでに迷宮へと落下した挑戦者たちの姿が映し出されている。
暗転する視界、回転する床、必死に仲間の名を叫ぶ口元。
それらが同時多発的に映るせいで、観る側の神経まで引きずり込まれるようだった。
そんな中──。
「おいおい、もう始まってるじゃあないの」
やけに気の抜けた声が、後方から聞こえた。
リュナたちが座る一角の通路を、紙袋の山がずんずん進んでくる。
正確には、“山の様な紙袋を両手に抱えたヴァレン・グランツ”が、人ごみを強引に割ってきていた。
袋の中身は透けて見える。
ポップコーン。飲み物。しかも量が尋常じゃない。
「スタートの瞬間、見逃しちまったぜ。いい演出だったらしいな?」
そう言いながら、ヴァレンは水晶球を見上げ、少しだけ肩をすくめた。
その瞬間、リュナがギロッと振り返る。
「おせーよ、ヴァレン。兄さん達、もうダンジョン入っちゃったっすよ?」
「誰のせいだと思ってんだ?」
即座に切り返しながら、ヴァレンはリュナの前に紙袋を一つ差し出した。
「開始直前になって『ポップコーンが食べたい』とかワガママ言い出したのは誰だ?」
「……う」
言葉に詰まったリュナの鼻先に、袋が押し付けられる。
中身は出来立てらしい、まだほんのり温かいポップコーンと、冷えた飲み物。
「ほら。文句言う前に受け取れ」
「……ちっ」
悪態をつきつつも、リュナは素直に受け取った。
その様子を見届けると、ヴァレンは残りの袋を抱え直し、次々と配り始める。
「蒼龍さん、どうぞ」
「フレキくん、こぼすなよ」
「グェルくん……ストローいるかい?」
「えっ、あ、あの、ありがとうございますッ!」
さらにその後ろ、召喚高校生たちの列にも、流れるように袋を渡していく。
「はいはい、人数多いな……」
「ミサキちゃん達は、キャラメル味かな」
「流星くん達、飲み物はコーラでいいかい?」
一通り配り終えたころには、ヴァレンの腕から袋は消えていた。
リュナはポップコーンを一つ摘まみ、口に放り込む。カリッ、という軽い音。
(……コイツ、全員分買ってたから遅くなったのか)
そう思うと、少しだけ胸の奥が緩んだ。
ヴァレンはふう、と一つ息を吐き、リュナの隣に腰を下ろす。
背もたれに体を預け、水晶球を見上げた。
「さてさて……ブリジットさん達は無事に予選を通過できるかな」
どこか気楽な口調。
だが、視線は真剣だった。
「まぁ、相棒もいるし、大丈夫だとは思うが」
その言葉に、リュナが即座に噛みつく。
「は? 大丈夫に決まってっしょ」
ポップコーンをポリポリ食べながら、断言する。
「いくら真祖竜スキル使わねー縛りがあったとしても、兄さんに勝てるヤツなんている訳なくね?」
ヴァレンは一瞬だけ口角を上げ、それから首を振った。
「普通のバトルなら、な」
「……?」
「だが、この“ダンジョン・サバイバル”のルールじゃ、強い者が必ずしも勝つとは限らない」
その言い方に、周囲の空気が少し変わる。
猫の覆面の奥から、グェルの声が響いた。
「ど、どういう意味ですかッ!? ヴァレン様!」
グェルの隣、ちょこんと座っていたフレキが、尻尾を揺らしながら口を開く。
「もしかして……“脱落条件”の事ですかっ?」
ハッハッハッ、と犬らしい息遣い。
ヴァレンはフレキに視線を向け、満足そうに頷いた。
「流石はフレキくん。御名答」
そして、人差し指を立てる。
「たとえばだ。この場にいる俺たちフォルティア組全員が、このルールで“ダンジョン・サバイバル”に参加したと仮定しよう」
視線が自然と集まる。
「誰が勝つと思う?」
少し間が空いて、ミサキが首を傾げた。
「うーん……強さで言えば、ヴァレンさんかリュナさんじゃない?アルドくん抜きなら。」
流星も頷く。
「そーだなー。その二人には、正直太刀打ちできる気がしねぇもんな。」
もっともな意見だ。
だが、その時。
「……はっ」
藤野マコトが、目を見開いた。
「ヴァレン氏。拙者、正解が分かったやも知れませんぞ」
ヴァレンは、にやりと笑った。
「流石の洞察力ですな、藤野氏」
藤野は一拍置いて、静かに告げる。
「──勝者は……影山氏、ですな?」
「えっ!? お、俺!?」
突然名前を呼ばれ、影山が素っ頓狂な声を上げる。
ヴァレンは大きく手を叩いた。
「ご明察!!」
リュナは目を丸くする。
「えー!?影山っち!?いや、影山っち戦闘向きじゃねーし、それは無いんじゃね? たしかに、スキルはすげーけど……」
そこまで言って、はっと気づいた。
「……あ。」
ヴァレンは、その反応を待っていたように笑う。
「気付いたみたいだな」
「影山くんが“絶対不可視”を全開で発動させれば、俺やリュナですら影山くんの存在を認識できなくなる」
影山がごくりと喉を鳴らす。
「その状態で、影山くんが俺たち全員のネームプレートを、こっそり掻っ攫っていったらどうなる?」
一瞬の沈黙。
「……あ」
「……終わりっすね」
「そう。なす術もなく、ゲームオーバーだ」
ヴァレンは、どこか楽しそうに肩をすくめた。
「つまりだ。倒せない相手であっても、“プレートを奪う”という勝利条件が用意されている以上──強さが、そのまま勝利に繋がるとは限らない」
水晶球の中で、誰かが迷宮の分岐に立ち尽くしている映像が流れる。
「なかなかよくできたルールだねぇ」
その言葉には、評価と警戒が半々に混じっていた。
グェルが急に慌て始める。
「あ、アルド坊ちゃん達、大丈夫でしょうかッ……!? し、心配になってきましたッ!」
椅子の上でそわそわと身を揺らす。
だが、リュナは相変わらずポップコーンを食べながら、余裕の笑みを浮かべた。
「ま、大丈夫っしょ」
「ジュラっちも玲司も、なかなか頼りになるヤツらだし?」
一度、ポップコーンを噛み砕いてから、にっと笑う。
「それに……」
「ウチの兄さんと姉さんが、こんなとこで負けるはずねーし?」
ギザ歯が覗く、自信満々の笑顔。
ヴァレンも、その言葉に異論はなかった。
「ま、そういう事だな」
そう言って、椅子に深く腰掛ける。
視線は、水晶球の一つ──
ブリジット・チームが落ちていった先を、じっと捉えていた。
迷宮は始まったばかり。
観る側もまた、試されているのだ。
◇◆◇
少し離れた観客席。
水晶球が放つ淡い光が、観客たちの顔を不規則に照らしている。
その明滅の合間で、佐川颯太と天野唯は、並んで空中の球体を見上げていた。
映し出されるのは、闇に飲み込まれていく迷宮の入口。
次の瞬間には別の球体へと映像が切り替わり、そこには既に戦闘を始めたチームの姿がある。
視線を移すたびに、アルドたちのチームと、ラグナたちのチームを、無意識のうちに探してしまう。
「……大丈夫だよね」
天野が、ぽつりと呟いた。
いつもの委員長然とした声よりも、ほんの少しだけ弱い。
「ラグナくんも……アルドさん達も……」
颯太はすぐに返事をしなかった。
その代わり、胸の奥に引っかかっていた感覚が、ゆっくりと形を持ち始める。
「……そうだな」
そう答えつつも、視線はスクリーンから離れなかった。
迷宮に落ちる直前の、ラグナの後ろ姿。
背筋を伸ばし、迷いなく歩いていく、あの時の光景が、脳裏に蘇る。
───────────────────
「この予選会の“ダンジョン・サバイバル”はね」
あの時、ラグナはやけに楽しそうだった。
胸を張り、少し得意げに、佐川の前で語っていた。
「“ラグヒス6”でも、思い出深いイベントなんだ」
「自動生成型ダンジョン。構造はランダムで、決まった道筋は存在しない」
まるで懐かしいゲームを語るような口調。
目の奥には、確信めいた光が宿っていた。
「でもね、颯太」
ラグナは指を一本立てて、笑った。
「ラグヒス6をやり込んだ僕には、この手のダンジョンの攻略法が、しっかり頭に刻まれてるんだ」
「だから安心して見ていてくれたまえ!」
そう言って、予選会場へ向かっていった背中。
振り返りもしなかった、自信に満ちた足取り。
───────────────────
再び、現実に目を向ける。
「……」
颯太は、無意識のうちに拳を握っていた。
(ラグナのやつ……)
胸の奥で、言葉にならない違和感が膨らんでいく。
(この予選会も、“ラグヒス6”のイベントだと思ってたみたいだ……)
だが。
(少なくとも、俺のいた日本では――)
(“ラグヒス6”なんてゲーム、存在しなかったはずだ)
一瞬、水晶球の光が強くなり、颯太の視界を白く染めた。
その眩しさが、逆に思考を鋭くする。
(ラグナは、俺たちとは別の世界の記憶を持ってるのか……?)
(それとも――)
そこまで考えたところで、胸の奥に、ひやりとした感覚が走った。
得体の知れない、不吉な予感。
理由は分からない。
だが、“何かがおかしい”という直感だけが、はっきりと残る。
「……颯太くん?」
天野の声に、はっと我に返る。
彼女は、不安そうにこちらを見上げていた。
手を胸の前で握りしめ、水晶球と颯太を交互に見ている。
「……ごめん」
颯太は小さく首を振り、無理やり思考を切り替えた。
(──いや、今は考えても答えは出ない)
ここで悩んでも、迷宮の中にいる彼らに届くわけじゃない。
(まずは……)
(ブリジットさん達と、ラグナ達を応援しよう)
そう自分に言い聞かせるように、颯太は視線を上げた。
水晶球の一つが、切り替わる。
そこには、深い階層へと進もうとするチームの背中が映っていた。
天野も、それに気づき、ぐっと息を呑む。
「……始まったね」
「ああ」
二人並んで、同じ映像を見つめる。
迷宮は、容赦なく挑戦者を選別していく。
その残酷さを、まだ誰も知らないまま。
颯太は、胸の奥に残る小さな違和感を押し込みながら、ただ静かに、スクリーン球を見つめ続けていた。
それは轟音ではなかった。
むしろ、絵本のページをめくるような、場違いなほど軽やかな音だった。
パキリ、と。
巨大な石畳の一部が歪み、色づき、輪郭を失っていく。
次の瞬間。
床だったはずの場所に、扉が現れた。
淡いパステルカラーで縁取られた、どこかおとぎ話めいた装飾。
取っ手までついた、どう見ても“迷宮の入口”とは思えない代物だ。
「……え?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
その問いに答える暇すら与えぬように、扉は音もなく開いた。
重力が、消える。
「うわっ──!?」
「きゃあああっ!?」
四人一組で固まっていた受験生たちが、まとめて足元を掬われる。
悲鳴が上がり、手が伸ばされ、掴もうとした床はもう存在しない。
次々と、次々と。
競技場のあちこちで扉が開き、
若き挑戦者たちが“下”へと吸い込まれていく。
落下。
ただの落下だ。
だが、それは“地面に落ちる”類のものではない。
視界がひっくり返り、音が歪み、光が遠ざかっていく。
「──戻って来れるんだよな……?」
観客席のどこかで、誰かが小さく呟いた。
その声は、ざわめきに紛れてすぐに消えた。
だが、その不安は確実に、競技場全体に染み込んでいく。
数百人。
いや、正確には“約六百人、約百五十チーム”。
それだけの人間が、いま、地面の下へと消えていったのだ。
競技場に残ったのは、
空虚な床と、取り残された観客たちの息遣いだけだった。
その空気を、ぴたりと切り裂く声が響いた。
『慌てるでない』
幼い少女の声。
鈴を転がしたようでいて、異様なまでに通る声だった。
観客席の視線が、一斉に中央の高台へと集まる。
そこに立っていたのは、
巨大な魔女帽子を被った、小柄な少女──マリーダ・フォン教授。
フリル過多の魔法少女然とした衣装。
年端もいかぬ外見。
だが、その場に立つ“気配”だけで分かる。
──格が違う。
マリーダはマイクを手に取り、観客席を見渡す。
その視線は、慈愛でもなければ、親切でもない。
管理者のものだった。
『ダンジョン内での挑戦者どもの様子は、きちんと観測できるようになっておる』
そう言って、彼女は杖を軽く振る。
シャララーン、と、可愛らしい効果音。
だが次の瞬間。
空気が、震えた。
競技場の上空に、いくつもの巨大な球体が浮かび上がる。
透明な水晶のような球──いや、魔力球だ。
一つ、二つ、三つ。
いや、十を超え、二十を超え、観客達の視界を埋め尽くすほどに現れる。
そして、その中に。
映った。
落下していく受験生たちの姿が。
「……すご……」
「映ってる……中の様子が……」
「これが……“迷宮の主”の力……」
観客席から、ざわめきと感嘆の声が溢れる。
水晶球の中では、
闇に包まれた通路へと落ちていく者。
咄嗟に体勢を立て直そうとする者。
仲間の手を必死に掴む者の姿が、鮮明に映し出されていた。
安全だ、と言われたわけではない。
だが、“見えている”という事実が、観客の不安を麻痺させていく。
マリーダは、その反応を楽しむように、口角を吊り上げた。
『さて』
マイク越しの声が、わずかに弾む。
『ワシはこれから、ダンジョン内に潜る』
一瞬、理解が追いつかなかった。
『ダンジョンの最奥から、挑戦者どもを──生かさず、殺さず、苦しめてやるつもりじゃ』
その言葉に、観客席から乾いた笑いが起こる。
冗談だと、そう思いたかったからだ。
だが、マリーダの目は笑っていない。
『──それに』
彼女は杖を肩に担ぎ、楽しげに言葉を続ける。
『万が一、ワシのダンジョンの最深部……地下50階まで到達する者が現れたなら』
空気が、張り詰める。
『ワシが直接、相手をしてやらねばならんからのう』
その瞬間、観客席の一部がざわついた。
地下50階。
それがどれほどの意味を持つ数字なのか、詳しく知らずとも理解できる。
“最深部”
“直接相手をする”
それはつまり──
『キサマら観客どもは、存分に楽しむといい』
マリーダは、にぃ、と幼い顔に似つかわしくない、意地の悪い笑みを浮かべた。
『予選会の観戦を、な』
そして。
再び、杖が振られる。
シャララーン。
今度は、彼女自身の足元に、ファンシーな扉が音もなく現れた。
「……教授が……?」
誰かが息を呑む。
マリーダは一歩踏み出し、扉の中へと身を投じる。
その姿が完全に消える直前、彼女は心の中で楽しげに呟いた。
(いかにラグナ殿下であろうと、六時間で最深部に辿り着くのは至難の業……)
(ましてや──あの、憎き“色欲の魔王”の使徒が、ワシの元へ来るなど……)
亜空間のトンネルを落下しながら、
幼女の顔に、歪んだ期待と憎悪が浮かぶ。
(……じゃが)
(万が一……万が一、ヤツが辿り着いたとしたら)
その時は。
(──ワシ自ら、引導を渡してやるとしよう……!)
(このダンジョンの中でなら、ワシは──誰よりも強い……!)
扉が、閉じる。
競技場に残された観客たちは、
水晶球に映る迷宮の光景を見上げながら、言葉を失っていた。
予選会は、すでに始まっている。
そしてそれは──
ただの選抜試験では、決してなかった。
◇◆◇
観客席のざわめきが、完全に落ち着くことはなかった。
空中に浮かぶ無数の水晶球には、すでに迷宮へと落下した挑戦者たちの姿が映し出されている。
暗転する視界、回転する床、必死に仲間の名を叫ぶ口元。
それらが同時多発的に映るせいで、観る側の神経まで引きずり込まれるようだった。
そんな中──。
「おいおい、もう始まってるじゃあないの」
やけに気の抜けた声が、後方から聞こえた。
リュナたちが座る一角の通路を、紙袋の山がずんずん進んでくる。
正確には、“山の様な紙袋を両手に抱えたヴァレン・グランツ”が、人ごみを強引に割ってきていた。
袋の中身は透けて見える。
ポップコーン。飲み物。しかも量が尋常じゃない。
「スタートの瞬間、見逃しちまったぜ。いい演出だったらしいな?」
そう言いながら、ヴァレンは水晶球を見上げ、少しだけ肩をすくめた。
その瞬間、リュナがギロッと振り返る。
「おせーよ、ヴァレン。兄さん達、もうダンジョン入っちゃったっすよ?」
「誰のせいだと思ってんだ?」
即座に切り返しながら、ヴァレンはリュナの前に紙袋を一つ差し出した。
「開始直前になって『ポップコーンが食べたい』とかワガママ言い出したのは誰だ?」
「……う」
言葉に詰まったリュナの鼻先に、袋が押し付けられる。
中身は出来立てらしい、まだほんのり温かいポップコーンと、冷えた飲み物。
「ほら。文句言う前に受け取れ」
「……ちっ」
悪態をつきつつも、リュナは素直に受け取った。
その様子を見届けると、ヴァレンは残りの袋を抱え直し、次々と配り始める。
「蒼龍さん、どうぞ」
「フレキくん、こぼすなよ」
「グェルくん……ストローいるかい?」
「えっ、あ、あの、ありがとうございますッ!」
さらにその後ろ、召喚高校生たちの列にも、流れるように袋を渡していく。
「はいはい、人数多いな……」
「ミサキちゃん達は、キャラメル味かな」
「流星くん達、飲み物はコーラでいいかい?」
一通り配り終えたころには、ヴァレンの腕から袋は消えていた。
リュナはポップコーンを一つ摘まみ、口に放り込む。カリッ、という軽い音。
(……コイツ、全員分買ってたから遅くなったのか)
そう思うと、少しだけ胸の奥が緩んだ。
ヴァレンはふう、と一つ息を吐き、リュナの隣に腰を下ろす。
背もたれに体を預け、水晶球を見上げた。
「さてさて……ブリジットさん達は無事に予選を通過できるかな」
どこか気楽な口調。
だが、視線は真剣だった。
「まぁ、相棒もいるし、大丈夫だとは思うが」
その言葉に、リュナが即座に噛みつく。
「は? 大丈夫に決まってっしょ」
ポップコーンをポリポリ食べながら、断言する。
「いくら真祖竜スキル使わねー縛りがあったとしても、兄さんに勝てるヤツなんている訳なくね?」
ヴァレンは一瞬だけ口角を上げ、それから首を振った。
「普通のバトルなら、な」
「……?」
「だが、この“ダンジョン・サバイバル”のルールじゃ、強い者が必ずしも勝つとは限らない」
その言い方に、周囲の空気が少し変わる。
猫の覆面の奥から、グェルの声が響いた。
「ど、どういう意味ですかッ!? ヴァレン様!」
グェルの隣、ちょこんと座っていたフレキが、尻尾を揺らしながら口を開く。
「もしかして……“脱落条件”の事ですかっ?」
ハッハッハッ、と犬らしい息遣い。
ヴァレンはフレキに視線を向け、満足そうに頷いた。
「流石はフレキくん。御名答」
そして、人差し指を立てる。
「たとえばだ。この場にいる俺たちフォルティア組全員が、このルールで“ダンジョン・サバイバル”に参加したと仮定しよう」
視線が自然と集まる。
「誰が勝つと思う?」
少し間が空いて、ミサキが首を傾げた。
「うーん……強さで言えば、ヴァレンさんかリュナさんじゃない?アルドくん抜きなら。」
流星も頷く。
「そーだなー。その二人には、正直太刀打ちできる気がしねぇもんな。」
もっともな意見だ。
だが、その時。
「……はっ」
藤野マコトが、目を見開いた。
「ヴァレン氏。拙者、正解が分かったやも知れませんぞ」
ヴァレンは、にやりと笑った。
「流石の洞察力ですな、藤野氏」
藤野は一拍置いて、静かに告げる。
「──勝者は……影山氏、ですな?」
「えっ!? お、俺!?」
突然名前を呼ばれ、影山が素っ頓狂な声を上げる。
ヴァレンは大きく手を叩いた。
「ご明察!!」
リュナは目を丸くする。
「えー!?影山っち!?いや、影山っち戦闘向きじゃねーし、それは無いんじゃね? たしかに、スキルはすげーけど……」
そこまで言って、はっと気づいた。
「……あ。」
ヴァレンは、その反応を待っていたように笑う。
「気付いたみたいだな」
「影山くんが“絶対不可視”を全開で発動させれば、俺やリュナですら影山くんの存在を認識できなくなる」
影山がごくりと喉を鳴らす。
「その状態で、影山くんが俺たち全員のネームプレートを、こっそり掻っ攫っていったらどうなる?」
一瞬の沈黙。
「……あ」
「……終わりっすね」
「そう。なす術もなく、ゲームオーバーだ」
ヴァレンは、どこか楽しそうに肩をすくめた。
「つまりだ。倒せない相手であっても、“プレートを奪う”という勝利条件が用意されている以上──強さが、そのまま勝利に繋がるとは限らない」
水晶球の中で、誰かが迷宮の分岐に立ち尽くしている映像が流れる。
「なかなかよくできたルールだねぇ」
その言葉には、評価と警戒が半々に混じっていた。
グェルが急に慌て始める。
「あ、アルド坊ちゃん達、大丈夫でしょうかッ……!? し、心配になってきましたッ!」
椅子の上でそわそわと身を揺らす。
だが、リュナは相変わらずポップコーンを食べながら、余裕の笑みを浮かべた。
「ま、大丈夫っしょ」
「ジュラっちも玲司も、なかなか頼りになるヤツらだし?」
一度、ポップコーンを噛み砕いてから、にっと笑う。
「それに……」
「ウチの兄さんと姉さんが、こんなとこで負けるはずねーし?」
ギザ歯が覗く、自信満々の笑顔。
ヴァレンも、その言葉に異論はなかった。
「ま、そういう事だな」
そう言って、椅子に深く腰掛ける。
視線は、水晶球の一つ──
ブリジット・チームが落ちていった先を、じっと捉えていた。
迷宮は始まったばかり。
観る側もまた、試されているのだ。
◇◆◇
少し離れた観客席。
水晶球が放つ淡い光が、観客たちの顔を不規則に照らしている。
その明滅の合間で、佐川颯太と天野唯は、並んで空中の球体を見上げていた。
映し出されるのは、闇に飲み込まれていく迷宮の入口。
次の瞬間には別の球体へと映像が切り替わり、そこには既に戦闘を始めたチームの姿がある。
視線を移すたびに、アルドたちのチームと、ラグナたちのチームを、無意識のうちに探してしまう。
「……大丈夫だよね」
天野が、ぽつりと呟いた。
いつもの委員長然とした声よりも、ほんの少しだけ弱い。
「ラグナくんも……アルドさん達も……」
颯太はすぐに返事をしなかった。
その代わり、胸の奥に引っかかっていた感覚が、ゆっくりと形を持ち始める。
「……そうだな」
そう答えつつも、視線はスクリーンから離れなかった。
迷宮に落ちる直前の、ラグナの後ろ姿。
背筋を伸ばし、迷いなく歩いていく、あの時の光景が、脳裏に蘇る。
───────────────────
「この予選会の“ダンジョン・サバイバル”はね」
あの時、ラグナはやけに楽しそうだった。
胸を張り、少し得意げに、佐川の前で語っていた。
「“ラグヒス6”でも、思い出深いイベントなんだ」
「自動生成型ダンジョン。構造はランダムで、決まった道筋は存在しない」
まるで懐かしいゲームを語るような口調。
目の奥には、確信めいた光が宿っていた。
「でもね、颯太」
ラグナは指を一本立てて、笑った。
「ラグヒス6をやり込んだ僕には、この手のダンジョンの攻略法が、しっかり頭に刻まれてるんだ」
「だから安心して見ていてくれたまえ!」
そう言って、予選会場へ向かっていった背中。
振り返りもしなかった、自信に満ちた足取り。
───────────────────
再び、現実に目を向ける。
「……」
颯太は、無意識のうちに拳を握っていた。
(ラグナのやつ……)
胸の奥で、言葉にならない違和感が膨らんでいく。
(この予選会も、“ラグヒス6”のイベントだと思ってたみたいだ……)
だが。
(少なくとも、俺のいた日本では――)
(“ラグヒス6”なんてゲーム、存在しなかったはずだ)
一瞬、水晶球の光が強くなり、颯太の視界を白く染めた。
その眩しさが、逆に思考を鋭くする。
(ラグナは、俺たちとは別の世界の記憶を持ってるのか……?)
(それとも――)
そこまで考えたところで、胸の奥に、ひやりとした感覚が走った。
得体の知れない、不吉な予感。
理由は分からない。
だが、“何かがおかしい”という直感だけが、はっきりと残る。
「……颯太くん?」
天野の声に、はっと我に返る。
彼女は、不安そうにこちらを見上げていた。
手を胸の前で握りしめ、水晶球と颯太を交互に見ている。
「……ごめん」
颯太は小さく首を振り、無理やり思考を切り替えた。
(──いや、今は考えても答えは出ない)
ここで悩んでも、迷宮の中にいる彼らに届くわけじゃない。
(まずは……)
(ブリジットさん達と、ラグナ達を応援しよう)
そう自分に言い聞かせるように、颯太は視線を上げた。
水晶球の一つが、切り替わる。
そこには、深い階層へと進もうとするチームの背中が映っていた。
天野も、それに気づき、ぐっと息を呑む。
「……始まったね」
「ああ」
二人並んで、同じ映像を見つめる。
迷宮は、容赦なく挑戦者を選別していく。
その残酷さを、まだ誰も知らないまま。
颯太は、胸の奥に残る小さな違和感を押し込みながら、ただ静かに、スクリーン球を見つめ続けていた。
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