真祖竜に転生したけど、怠け者の世界最強種とか性に合わないんで、人間のふりして旅に出ます

難波一

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第五章 魔導帝国ベルゼリア編

第74話 欲望の影、香りの中で

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 カレーの香りが、部屋の隅々まで広がっていた。

 広めの木製ダイニングに置かれたテーブル。

 その上には湯気を立てる鍋、漬け物や小さなサラダ皿、そして一人分とは思えぬ量の白米を盛った皿が並ぶ。

 その中で、まるで女神の啓示でも受けたかのような表情で身を乗り出し、カレーの皿を覗き込んでいるのは──

 

「こ……これじゃ……! これこそ、妾が! 妾が愛してやまぬ“道三郎のカレー”……っ!」

 

 感極まったように目を潤ませた地雷系女子──否、“強欲の魔王”マイネ・アグリッパが、感動の声をあげる。

 ドロリと濃厚なルウに、とろけるような牛肉。

 炒め玉ねぎの甘みとスパイスの刺激が幾重にも折り重なった芳醇な香りは、確かに“あの弁当のカレー”に違いない。

 

 「ふはぁ……ふははははっ……!! まさか、こうも早く、再び巡り会えるとはのう……運命……いや、これは……愛じゃな!」

 

 スプーンが勢いよく皿に突き刺さる。

 マイネはそのまま、豪快に、がつがつと食べ始めた。山盛りだったはずのカレーがみるみるうちに減っていく。

 口の端にルウをつけたまま夢中で頬張るその姿は──地雷系どころか、ただの食い意地の張った山賊に見えなくもない。

 

 「……なーにが“妾”だし。ドワーフのオッサンみたいな食い方しやがって……」

 

 ぼそりと、リュナが低い声で呟いた。

 ソファに座り、胡坐をかいた姿勢でジュースのグラスをゆるく回しながら、食べっぷりを呆れ顔で眺めている。

 

 「あ、マイネさん。おかわり、まだありますからね!」

 

 朗らかな声が響いた。

 ブリジットが笑顔で、キッチンに目配せしながらそう告げる。

 エプロン姿のヴァレンが無言で鍋を混ぜ、タイミングよくしゃもじを掲げてみせた。

 

 「おぉ……おぉぉ! そち、気が利くのう! どうじゃ? 妾の専属侍女にならぬか?」

 

 「うちのボスをスカウトすんじゃねぇよ、強欲バカ」

 

 ヴァレンが振り向きもせずに突っ込んだ。

 鍋を混ぜる手は止めないまま、サングラスの奥で目だけが笑っているのが、声の響きからでもわかる。

 

 「ふふっ……だって妾、良きものは全て欲しいのじゃ。可愛い侍女も、美味なるカレーも──この世のあらゆる価値あるものは、全て妾のモノ……ふふふ……」

 

 「……ヒトんのカレー食いながら、何言ってんだか……」

 

 リュナがジュースを啜りながら、ため息まじりに吐き捨てる。

 だがマイネは気にも留めず、すでに食後の“二皿目”へと突入していた。

 

 そのカレーの湯気の向こうには、穏やかで、まるで嵐の前の静けさの様であった。



 ◇◆◇



 テーブルの傍ら。食事の賑わいからわずかに離れた場所に、静かな緊張の空気があった。

 床に小さく座っているのは、ミニチュアダックスの姿をしたフレキ。

 その柔らかな毛並みの前に、黒い執事服に身を包んだ男が、厳粛な姿勢で正座している。

 

 「……随分、お姿が変わられましたね、ベルザリオンさん」

 

 フレキが静かに口を開いた。

 その声には怒りも責めもなかった。ただ、遠くを見るような、かすかに滲む緊張だけがそこにあった。

 

 正座していた男──至高剣ベルザリオンは、整えた黒髪を一つに結い、すっとした横顔に影を落としたまま、静かに一礼した。

 

 「……。」

 だが、次の瞬間。

 

 「──お許しください!」

 

 ベルザリオンは勢いよく床に額を叩きつけた。土下座である。

 食器の音が止まる。空気が一瞬、固まる。

 

 「……あの時の自分は、身勝手な信念で、貴方を斬りました」

 「許していただけるとは、思っておりません……」

 「若きフェンリル王よ。いかなる裁きでも、受け入れる所存です」

 

 彼の背はまっすぐに伸び、額は深く床に付いていた。

 その姿に、テーブル側の面々も思わず視線を送る。

 

 ブリジットは食事の手を止め、心配そうにその様子を見守っていた。

 マイネもちらりとベルザリオンに目を向け──わずかに眉を下げた。

 だが、隣でじっと彼女を見ていたヴァレンと目が合うと、慌てて顔をそらし、スプーンをカレーに突っ込んでむしゃむしゃと食べるフリをする。

 

 「んむ……このルウの深み、本当に旨いのじゃ……」

 

 一方で、フレキは──瞳を閉じ、しばらく黙っていた。

 その小さな胸に去来するものを、丁寧に飲み込むように。

 

 やがて、ゆっくりと口を開く。

 

 「……あの時は、父上も貴方に賛同していました」

 

 まっすぐに、ベルザリオンを見つめる。

 

 「そして、ブリジットさんとリュナさんは──牙を向けてきた父上やフェンリルの皆を、今は“家族”として受け入れてくれています」

 

 その言葉に、ブリジットとリュナが小さく微笑む。

 

 「……だから。もし、貴方が心から反省しているなら──ボクも、許します!」

 

 フレキは口を開き、長いマズルをくにゃりと曲げて、笑みを浮かべる。

 

 「一緒に、カレー食べましょう! ベルザリオンさん!」

 

 ハッハッハッ、と口を開けて笑うその姿は、誰よりも無垢だった。

 

 「……フレキ殿……!」

 

 ベルザリオンは、再び頭を下げた。深く、深く──まるで涙をこぼさぬよう、床に押しつけるように。

 その肩は、わずかに震えていた。

 

 その様子を見守るブリジットは、静かに胸を撫で下ろし、笑顔を浮かべる。

 リュナは頬杖をついて、それをニヤニヤと眺めながらも、どこかあたたかい目をしていた。

 ヴァレンは、手元の鍋に火を止めていたが、なにも言わず、ただ満足げにうなずく。

 

 そんな空気を、あっさりと打ち破るのは、もちろんこの人。

 

 「ふぅむ……あのワンコ、なかなかの器じゃのう。どうじゃ? 妾のペットにならぬか?」

 

 マイネがもぐもぐとカレーを咀嚼しながら、至極当然のように言い放つ。

 

 「はぁ!? フレキっちはうちのペットだし! やらねーよ!!」

 

 即座にリュナが噛みついた。

 

 「……えっ、ボク、ペットなんですか?」

 

 フレキが首を傾げる。ぴょこりとしたその仕草に、場が一気に和む。

 

 「あー……うん、違う違う。ペットじゃなくて──家族っすよ?」

 

 リュナが照れ臭そうに言い直すと、フレキはにこりと笑った。

 

 「はい、家族です!」

 

 ──そして、カレーの香りに包まれた空間は、再びやわらかな温度を取り戻していた。

 

 ◇◆◇



 食卓には、空になった皿の山と、香辛料の余韻が漂っていた。

 マイネは新たに盛られたカレーにスプーンを突き立て、満足そうにうなずいていた。


 「……で。何しに来たの?お前。」


 ヴァレンが立ち上がることなく、視線だけをマイネに向けて尋ねる。

 声は軽いが、その眼差しにはいつもの飄々さがなかった。

 ブリジットも少し眉を寄せながら、ゆっくりと口を開く。


 「……確か、強欲の魔王さんの支配する“スレヴェルド”って、このフォルティア荒野の西に隣接してる領土なんですよね?」


 その言葉に、マイネはスプーンの動きをピタリと止めた。


 「うむ……その通りじゃ」


 ふと、彼女の瞳が翳る。いつもの地雷系らしい気まぐれさとは違う、重たい沈黙が一瞬、場を包んだ。


 「じゃが……その”魔都スレヴェルド”は、。今やベルゼリアの手に堕ちたのじゃ」


 「……は?」


 最初に声を上げたのは、リュナだった。

 普段は飄々としている彼女が、明らかに訝しげな表情を浮かべて、マイネをまじまじと見る。


 「なっ!?」


 今度はヴァレンが椅子を蹴るようにして立ち上がった。いつもは冗談まじりに話を流す彼が、珍しく動揺を隠さない。


 「ちょ、ちょっと待て!? 急に何だよそれ……。どうしてスレヴェルドが……!」


 「落ち着いてください、ヴァレン様」


 静かな声で、ベルザリオンが進み出た。完璧な所作で正面に立ち、深く一礼する。


 「ご説明いたします。お嬢様が命からがらフォルティアまで逃げ延びた理由も、それにございます」


 静寂が支配する食卓に、低く澄んだ声が響いた。

 ベルザリオンが背筋を正し、端正な顔立ちに険しさを宿しながら口を開く。

 

 「──一月ほど前、魔導帝国ベルゼリアが突如として、スレヴェルド領に対し大規模な軍事行動を開始いたしました」

 

 その一言で、場の空気がわずかに張り詰めた。

 彼の語る「ベルゼリア」は、この地の誰にとっても脅威の象徴。だが今、その存在がついに牙を剥いたという。

 

 「先遣部隊には……見たこともないスキルを用いる、若者たちが含まれていました。年の頃は十代半ばほど。少年少女に見えた彼らが、魔導兵を従えて、我が“魔都スレヴェルド”へと侵攻してきたのです」

 

 「若者……?」と、ブリジットが思わず息を呑む。

 しかしその声には、驚き以上に戸惑いが滲んでいた。

 魔族の首都とも呼ばれるスレヴェルドを、少年少女が率いる軍が──?

 

 ベルザリオンは静かにうなずき、話を続けた。

 

 「彼らの力は……恐ろしいものでした。防衛の要であった魔族の結界をいともたやすく打ち破り、街に潜む者たちを次々に拘束。そのうち幾人かは、“謎のスキル”によって精神を奪われ、まるで……洗脳されたかのような状態で、我々に牙を剥いてきたのです」

 

 「洗脳って……マジっすか?」

 

 椅子の背にもたれかけていたリュナが、思わず身を乗り出す。

 「それ、あーしの”咆哮”スキル的なヤツ?精神干渉とか?」

 

 ベルザリオンは軽く首を振る。

 

 「詳細は掴めておりません。ただ……魔力探知を遮断され、言葉も通じず、彼らは完全に“敵”として動いていました。旧友だった者が、何の感情も宿さぬ瞳で我らに刃を向ける──そんな光景が、繰り返されたのです」

 

 その言葉に、誰もすぐには言葉を返せなかった。

 食卓に漂う香ばしいカレーの匂いが、今やまるで別世界のもののように遠ざかってゆく。

 

 ふと、音もなくスプーンが皿の上に置かれる。

 マイネだった。

 豪快に飯をかき込んでいた彼女は、先ほどまでの勝ち気な笑顔を失い、黙ったまま俯いていた。

 肩が、ごく微かに震えている。

 

 それでもベルザリオンは、淡々と告げた。

 

 「我ら四天王も、迎撃に立ちました。しかし……私を除く三名は、同様のスキルによって捕縛され、現在はベルゼリアの兵として、戦線に立たされています」

 

 ピシ……と、どこかで誰かの指が食器を握る音がした。

 

 言葉を失った空気の中、ヴァレンが苦い息を吐く。

 

 「……ベルゼリア。あいつらが……スレヴェルドを、そんなやり方で……」

 

 その低い呟きに、マイネが顔を上げることはなかった。

 

 「ひょっとして……次は、本格的にエルディナ王国方面へ進軍してくるつもりか……?」

 

 リュナが絞り出すように言ったその問いに──

 

 ベルザリオンは、ゆるやかに頷いた。

 

 「──その可能性は、極めて高いと見ております」

 

 食卓に、緊張の濃度が満ちてゆく。

 そして今、明確になった。

 フォルティアの地は、再び戦乱の渦中に飲み込まれようとしているのだと──



 重たい空気をひと息で吹き飛ばすように、マイネが手にしていたスプーンを皿に置いた。

 ことり、と小さな音がテーブルに響き、全員の注意が自然と彼女に向けられる。


 「……という訳でじゃな」


 マイネは少し肩を落とし、しゃなりと指先で目元を拭う。赤い瞳には、うっすらと涙が滲んでいる……ように“見える”。


 「侵略を受けた、かわいそうな妾はのう……命からがら、このフォルティア荒野へと逃げてきたという次第じゃ」


 しおらしげな声色に、ブリジットは思わず眉尻を下げ、胸を詰まらせたような顔をする。

 マイネはくるりと椅子の上で体勢を変え、ふわりと髪を揺らしながら彼女を見上げる。


 「なあ、お主。この地の領主なのじゃろ? 哀れな妾の亡命を──どうか、受け入れてくれぬかの?」


 うるんだ瞳、儚げな声、どこか芝居がかった演技。それでも、妙に心を動かされるのは、マイネの“それすら魅力に変える天性”ゆえか。

 ブリジットは椅子から半ば跳ねるように立ち上がり、両手をテーブルについた。


 「マイネさん……そうだったんだ……!」


 その目には、純粋で真っすぐな同情の光が宿っている。


 「それは、本当に……大変だったね……!」


 マイネは「ふふっ」と口元に小さな笑みを浮かべ、無言で一礼するように首を傾げてみせた。

柔らかな表情は、まるで一匹の小動物のようだ。

 ──だが。



 「……騙されるな、ブリジットさん」



 それまで様子を見ていたヴァレンが、低い声で口を開いた。

 彼は椅子の背に寄りかかったまま、腕を組み、鋭い目つきでマイネを横目に見据える。


 「こいつは、そんなヤワなタマじゃない。ちょっと領地を追われたくらいで、涙を浮かべて誰かに頼るようなタイプかよ。むしろ、そういう状況を──楽しんでる顔してるだろ?」


 その言葉に、ブリジットが「えっ……」と声を漏らし、リュナはスプーンを口元に添えたまま目を細めた。


 「……何せ、こいつはな」


 ヴァレンはゆっくりと息を吐いた。


 「たったひとりで、“魔導帝国ベルゼリア”を崩壊寸前まで追い込んだ女だぜ?」


 「…………は?」


 最初に反応したのはリュナだった。彼女の手からスプーンが皿の上に落ち、小さな音を立てた。

 ブリジットも硬直したように目を見開く。



 「ちょ、ちょっと待って、それ……冗談……だよね……?」
 

 「いや、本当だ──経済、軍事、民心すらも、こいつの“”に喰われた」



 ヴァレンは肩をすくめながら答える。


 マイネは唇に指を当てて笑う。可憐な外見に似合わない、冷ややかで愉悦を孕んだ笑みだった。



 「あれは……を見誤った帝国が悪いのじゃ。じゃが……」



 くるりと椅子を半回転させ、足をぶらぶらと揺らしながら言う。



 「──“たったひとりで国家を崩壊寸前に追い込んだ”などと、貴様に言われるとはのう。……嬉しい評価じゃ、ヴァレン・グランツよ。」



 ──そう言ってニヤリと笑ったその目は、さっきまで浮かべていた涙の残滓すら吹き飛ばす、紛うことなき“強欲の魔王”のそれだった。
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