人間が裏返るマジック

kuroiwa cashio

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 夏祭りの当日、昼まで空を覆っていた重い雲は消え去り、今では空に星を見ることができた。
 しかし、時折生暖かい突風が吹くので、男は被ってきた帽子を仕方なく手に持つことを強いられた。
 バスを降りた男は、夏祭りの会場である大きな市民公園へと歩いて向かっていた。共に抜けられない仕事があって、彼女と現地で集合することになったのだ。
 帰り際の渋滞を避けるために車は家に置いて、バスと電車で移動した方が良いと判断した。

 待ち合わせ場所である公園の北側入り口付近にあった屋台の前で、既に彼女は待っていた。正確にはその屋台を物色しているのを男が見つけた。
 屋台には、どこかで見たようなキャラクターのお面や、子供向けの玩具が整然と並んでいた。
「高いね」近付いてきた男の存在に気付いた彼女が、耳元で囁くように言った。どれも箔がついたお祭り価格だった。
 その中には、安価なお菓子のおまけに付いてくるような、小さなプラスティックの塊もあったが、千円を下回る商品は一つもなかった。

 後ろから浴衣姿の子供を連れた家族が近付いてきたので、二人はその屋台を離れた。
 周囲を見てみれば、その他にも意外と着物や浴衣姿の人が多くいた。
 男はその光景を羨望のまなざしで眺めていたが、今は二人とも仕事帰りであった。はたから見れば、家路に着く”ただの会社員”に見えるだろうと思った。

 会場には、二つ、三つ、大小のステージがあるようで、それらに近付く度に子供の出し物や演歌歌手の歌声などが聞こえた。市で一番の夏祭りだ。
 子供の笑い声、誰かの歓声、どこかの口論、売り子の呼び込み。静寂とはかけ離れた喧噪の中、固い土の歩道を二人は歩き始めた。


「A子!来てたんだ」男が声を掛けようか迷っている間に、彼女が浴衣姿のA子を見付けて声を掛けた。「同窓会ぶりだよね?」
 A子は、気まずそうにうなずいた。
「久しぶり」男は言った。
 やはり気まずそうにうなずいた。

「いいなー浴衣、ほんと似合ってるよ!」言いながら彼女は、A子の周りをグルグルと何度も回っていた。
 A子は、たとえ同性の元同級生が話し相手であっても緊張してしまうようで、ギュッと肩をすぼめてじっと立っていた。
 誰と来たのか尋ねると、家族で来ていたがはぐれてしまい、再度合流するために電話で決めた集合場所に向かっている最中だったようだ。

「あの後、無事に帰れた?すごい土砂降りだったね」彼女がA子の顔を覗き込みながら尋ねた。A子の小さな返事の内容は、男の立つ場所まで届くことはなかった。
 それがきっかけとなって、三人はA子の集合場所である、ステージ脇の運営テントに向かって歩き始めた。
 花火が始まるまでは、はっきりした目的があるわけでもなかった

「あの……あれからあの夢を見なかった?」彼女と僅かに距離ができたその時、少しの沈黙の後に、不意にA子が小声で尋ねてきた。
「ああ、見たよ。あれから一度見たかな」男は答えた。他意はないが、つられて小声になった。

「わたしはね、今日も見てしまったの……」A子が言った。「どうしても忘れたいのに、忘れられないの」
 男は言葉に詰まった。それは自分も同じ気持ちだった。

「ねっ、アレ食べようよ」りんご飴の屋台を指差して彼女が言った。男は、彼女に有無を言わさず手を引かれながらA子の方を見たが、もう自分たちには付いてこなかった。
 A子は自分の胸の前で、小さく団扇を振ってサヨナラをしてきて、男も手を挙げて応えた。
 二人から離れていくA子に気付くことなく、彼女はグングンと屋台へと突き進んでいった。


 花火の時間まではまだ間があった。
 近付いてみると、無料ステージの後部座席がいくらか空いていた。それはただのパイプ椅子の羅列に過ぎなかった。
 二人はそこに座って屋台で購入した物を食べながら、花火の開始時間までそこで過ごすことにした。

「花火と一緒にドローンも飛ぶらしいよ」彼女が言った。「楽しみだねー」
「へぇ、すごいね」男はネットでそのようなものを見かけたことはあったが、実際に見るのは初めてだった。
 腕時計を見たが、まだ一時間弱は待たなくてはならない。彼女と他の場所で時間を潰して、今頃会場に入った方がよかったと少し後悔した。
「あそこ座れるよ!いこう」彼女が言った。男がその方向を見ると、前の方に座っていた団体客が離席したようで、そこの一帯だけ空席があった。
 男は気乗りはしなかったが、その誘いに従い、ステージ前方へと一緒に向かっていった。

「ありがとうございました!」
 先ほどまでいた場所から近付いたこともあって、マイクから聞こえる音量は、たとえ野外だとしても不自然なほど大きく感じた。
 二人がようやくその席にたどり着いた時、周囲からパラパラとした拍手が起こり、外国の民族衣装に身を包んだ人たちが、ステージ横に掃けていくところだった。
 今時、あまり見かけないような、黒いタキシード姿の司会者だけがステージ上に残った。

 次の出し物の準備が行われている間、司会者の談笑が続いた。素直に聞いている人は少なく、多くは小声でそれぞれの連れや仲間と話すか、スマホを見るために黙って下を向いていた。
 男は時計に目をやった。期待したほど時計は進んでいなかった。まるで会社や学校での体感時間のように感じた。
 彼女がくすくすと笑いを堪えながら、スマホで自分を撮影していることに気付いて、男は彼女のスマホを両手で覆った。

「続いては、皆様お待ちかねの華麗なマジックショーをご覧ください!」相変わらずの爆音とともに司会者が袖に消えた。
 大げさな登場音と共に照明が焚かれ、ステージ上が一気に明るくなった。アシスタントらしい、腰の辺りまでスリット入った煽情的なドレスに身を包んだ数人の女性が両脇から登場し、それは始まった。

「どうしたん?」
 急に目を見開いたまま、身動き一つしなくなった男に気付いた彼女が言った。


 あのマジシャンだった。
 真っ白な冷笑を浮かべたような表情のマスク。タイトなコートにとがった革靴。
 それは間違いなくあの男だった。


「ねぇ、聞いてるの?」
 男は声にならない答えを発した。胸に痛みを感じるくらい心臓が激しく鼓動していた。口の中が一瞬で渇き、上手く言葉が出てこない。理由なく汗が額を流れた。
「帰ろう……」ようやく喉から絞り出すような言葉が出てきて、男は立ち上がった。
「えっ?」彼女は、訳が分からないという表情をしていた。

 男は彼女の両肩をつかみ半ば無理やり立たせると、その手を引きながら椅子と人との間をかがみながら縫うように進み続けた。
「なに?ちゃんと説明してよ!」
 ようやく椅子の列を抜けた時、彼女が激しく手を振り払った。
 男はきちんと説明するべきだと頭では分かっていても、何一つ言葉が出てこなかった。
 ステージ上では、刀の刺さった箱の中から無傷の女性が出てきて、周囲から子供の歓声とパラパラとやる気のない大人の拍手が聞こえた。

「さあ、次のマジックでは、是非とも会場に居られる皆様にもご参加頂ければと思います!」
 腕を伸ばしマイクを取ると、ステージ中央に向かいながらマジシャンは言った。マイクが大きく動く度、不快なハウリング音が鳴った。

「さてと……そこに美男美女のカップルがおられますねぇ!
 あなた!!!
 はい、そこのあなたです!どうかステージ上に、いかがですか?お二人ともご一緒でも構いませんよ」

 自分たちが呼ばれたことに気付いて、彼女が顔を真っ赤に染めた。視線が合い男は首を強く横に振った。
「ダメだ、帰ろう」
 再び彼女の手を掴み自分の方へ引き寄せた。手を強く握りすぎていることは分かったが、力をうまく制御できなかった。
 案の定、彼女は怒りを隠そうともせずに、男の手を振り払おうとした。
 彼女が、こういった束縛や制限などが大嫌いなのは知っていたが、絶対に行かせるわけにはいかない。男は手を離さなかった。

「おやおや、なんと嫉妬深い彼氏さんでしょうか?咎められてしまいましたねぇー、クックックッ」おちょくるような調子でマジシャンが言った。
 その言葉につられて、周囲の人々が一斉にこちらを見て、低い声で笑っていたが、そんなことはどうでも良かった。

「それでは……あなた!どうでしょう?はーい、団扇を持ったあなた。どうか、ステージに上がっては頂けないでしょうか?」
 マイクを持ったマジシャンは、自分たちを諦めて他の人間を壇上に上げることしたようだった。

「行こう!」
 男は無理やりにでも彼女を引っ張り、ステージから離れようと決断した。この場所で冷静になることはできなかった。
 その頃には座席周辺にも人が集まり、巨大な人の群れがステージ周辺を囲っていた。
「ちょっと!」
 彼女は、再び駄々っ子のように腕を振って、つかんできた男の手を振り払おうとした。彼女の手首に巻かれた複数のアンクレットが擦れ、カチャカチャと鳴った。
「後でぶん殴ってくれてもいい!嫌いになってくれてもいい!とにかく行こう!」
 ただならぬ男の力と叫びに、怒りが多少は収まったのか、ようやく彼女はしぶしぶ従った。周りを囲む人と人との間にある小さな隙間をこじ開けながら、二人はひたすら進んでいった。
 いつの間にか、持っていたはずの帽子はどこかへ消えていた。ただ彼女の腕だけは放さなかった。


「お待たせしました!これから皆様にお見せするのは”人間が裏返るマジック”でございます!」


 マジシャンがマイクをどこかに置くゴツンという音と、うねるようなハウリングの音が同時に響いた。
 それまで鳴り響いていた音楽が消えた。散発的に聞こえるどこかの子供の奇声と誰かがせき込む音をのぞけば、周囲は静寂に包まれた。
 もう少しで人の群れを抜け出すことができる。その時だった。
 背後で誰かの叫び声を聞いた。男はとっさに後ろを振り返った。
 舞台上にいたのは、恐らくA子だった。さっき見たばかりの、見覚えのある浴衣がそう告げていた。瞬時に絶望と怒りが男を支配した。

「何、何が起きてるの?」彼女は異様な喧騒の中、まるで引き摺られるように引っ張られながら、大声で言った。
 何も考えられなかった。問いかけに答えることもできなかった。とにかくここから離れなければならない。それだけだった。
 甲高い叫び声と野太い怒号が混じった声が、少しずつ会場に広がっていった。
 突然、背後から差す光が消え、周囲が暗くなった。恐らく舞台上の明かりが消えたのだ。男はもう振り返りはしなかった。

「お巡りさん、いるんでしょ?見回りの!第二ステージに来て!早く!誰か呼んで!」マイクを通して、正気を失った司会者の金切り声の爆音が、夏祭り会場全体に響き渡った。

「振り返るな!走れ!」今にも立ち止まろうとする彼女を制すために、男は腕を引っ張り、叫んだ。絶対に見せるわけにはいかない。
 会場のただならぬ喧噪は、更に周辺の人々を呼び込み、巨大な人の渦を育み続けた。
 背後から、無数の足音と椅子の倒れる音が交わった轟音が響き、逃げてきた人々でできた黒い波と咆哮が、猛烈な勢いで襲ってきた。
 二人は、威圧的な波の力に押されるがまま、前へ進み続けるしかなかった。
 程なくして、完全に人の波に飲み込まれた。



 気が付くと、男は独りで立っていた。
 彼女の手だと信じて握っていたものは、玩具のバットだった。

 その感触、その温もり、そのどれもが彼女の手であることを担保していた。
 しかし男の手の中にあるのは、無機質なプラスティックだったのだ。

 それまでの喧騒が嘘のように、人の姿はまばらだった。
 人々が枝分かれして、それぞれの帰路に着く、いつもの日常にすら見えた。
 どれだけ周囲を見回しても、彼女の姿はそこになかった。

 これは夢なのだと玩具のバットが言っていた。夢であれば幸いだ。しかし夢ではないことを男は知っていた。

 かすれた声で彼女の名前を叫び、行く当てもなく、男は歩き続けた。
 いつの間にか、空に月が浮かんでいて、男は嘲笑われているような気がした。
 白い満月が、冷笑する仮面のように見えた。


(完)
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