71匹目のひつじ

kuroiwa cashio

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71匹目のひつじ

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1.

「私、今日バイトだから、先行くね」
 放課後、授業が終わり、後は帰るだけという安堵感もあって、机にうつ伏せになってうとうとしていた少女が嫌々目を開くと、もうそこには声の主はいなかった。
 少女は、もう少しこうしていようか、急いで帰宅して眠ってしまうか考えたが、答えは出ない。
 カーテンが少女の閉じた目に光と影を交互に送り込み、窓から漏れてくる野球部の声出しもうるさかったが、眠気の方が勝利しそうだった。

 しかし、それは叶わなかった。
 突然、椅子を床に引きずる不快な音が立て続けに聞こえた。
 反射的に顔を上げると、女が数人ばかり前の席に集まり始めた。一瞬、離れた席に追い払おうかと思ったが、ここで眠ることは諦めた。
A子とその他の人たち、つまり自分とはあまり縁のないモテる女とその取り巻きだった。
 速やかに帰宅するため、少女はカバンを机の上に置いて教科書などを詰め込み始めた。


午前2時ちょうどに、時計を見ながらひつじを数え続けると02:00:59を超えても02:01:00にならず、数字が増え続ける
時計が、02:00:71を示した時、ドアをノックする音が聞こえるので、そのドアを開けてそこに立っている人から渡された契約書にサインしないと、あなたは死ぬ


 A子が、仲の良いクラスメートを集めて怪談話をしていたのだ。
「あなたたちも暇ねぇ。高校生にもなってそんな話をするなんて」
 手を止めて彼女たちの話に耳を傾けていたことをA子に気付かれてしまった少女は、仕方なく口を開いた。
 一斉に他の女たちも振り返って少女を見た。霊などの怪異を全く信じない少女は笑い飛ばすことすらできたが、そうはしない。口論になりたくはなかった。

「そう言いつつ、本当はあなたも怖いんじゃないの?」少し意地悪な調子でA子が言った。その他の女たちの表情も、復唱したように同じように見えた。
「残念ながら、わたし大人だからね」カバンをつかみ、立ち上がりながら少女は答えた。強い眠気のせいで、いつもよりカバンは重たかった。
「だったら今夜やってみてよ。明日、感想を聞かせてよね?」
 A子はそう言うと、邪魔だと言わんばかりに、少女にここから離れるよう手で払う仕草をした。憎らしいことに、A子は細くて長い指をしている。
「はいはい、分かりました」
 少女はその場を離れ、素直に帰宅することにした。
「絶対にドアを開けて契約するのよ」
 少女の背後で、A子が話す言葉の内容がわずかに聞こえた。肩をすくめながら少女はクラスを出た。眠かった。



2.

(しまった!)
 少女は目を覚ますなり、ベッドの上で思った。
 帰宅して食事の時間まで少しだけ眠るつもりだった。しかし、すっきりと明瞭な意識が、眠っていた時間が一時間や二時間ではないことを少女に確信させた。
 恐らく母親が食事の時間に起こしに来てくれたはずだが、自分が追い払ったに違いない。その記憶すらなかった。
 窓の外からは、冷たい風と共に季節外れでもあり、時間外れに思える蝉の鳴き声が聞こえた。まだ目は闇に慣れておらず、周囲は真っ暗にしか見えない。
 何時間眠ったのだろうか。嫌な予感を抱えながら、少女は手を這わせてどこかにあるはずのスマホを探った。
「あれ……?」
 持ってきたはずのスマホは、どうやらベッドの上にはないようだった。
 洗面台かどこかに置き忘れたのかもしれない、と少女は思った。
 仕方なくベッドからギリギリ届く位置にあるはずの、ボードに置かれた目覚まし時計にまで思い切り手を伸ばし、それを目の前に引き寄せた。
 時計の針は、1時56分を指していた。
 少女はため息をついた。空腹感はないが、このまま眠れそうにもなかった。


午前2時ちょうどに、時計を見ながらひつじを数え続けると、02:00:59を超えても02:01:00にならず、数字が増え続ける


 放課後のA子の怪談話を思い出した。
(時計が、02:01:00にならないって……?)
 少女は、A子がデジタル表示の時計を前提に説明していたのだと気付いた。
 手元にあるようなアナログ表示の時計ではどうなるのだろう、と少女は何となく考えた。その頃には部屋の様子をうっすらと目視することができた。

 時計はもうすぐ2時を指す。

(アナログ時計なら手も足も出ないでしょ?)
 刻々と午前2時へと近付く秒針に急かされるような気がして、少女はひつじを数えてみることを決断した。

「ひつじが1匹……」ひつじを数え始めてすぐに、文字通り数えていては間に合わないことに少女は気付いた。
「2匹、3匹……」少女の微かなつぶやきのようなカウントが暗闇の中に続く。

「25匹、26匹!……」その時、下の階にある大きな壁掛け時計が2時を告げる鐘を鳴らした。
 一瞬、少女はびくりと身を固めるが、すぐに一階の時計の音だと気付き、構わず数え続けた。

「59匹、60匹……」
 秒針が60秒に達したその時、突然、それが当然であるかのように左回りを始める時計を見た。

「えっ?」
 少女は呆然として、左回りに逆行する秒針を見つめることしかできなかった。

 秒針が49秒に到達した時、突然、玄関のドアを強く叩く音が闇に響いた。
 少女が恐怖で動けない間もドアを叩く音は止むことがない。音は少しずつ大きくなっていく。しかし、いい加減眠りから覚めても良いはずの家族が反応する様子もない。
「ヒロシ!」少女は隣の部屋で眠っているはずの弟の名前を叫んだ。
 しかし、返事はない。

 少女は部屋を飛び出した。弟の部屋のドアを開けようとするが、ドアノブはびくともしない。ドアを叩き、弟の名前を叫び続けるが応えはない。
 その間も、玄関のドアを激しく叩く音が響き渡る。

 少女は恐怖に身を屈め、手すりを両手で伝いながら階段を降りていった。
「お父さん!お母さん!」
 下の階にいるはずの両親に向かって叫ぶが、何の反応もない。
 左手にある玄関の方を見ることはできなかった。
「お父さん!お母さん!」少女は叫び続けた。ドアを叩く音をかき消したかった。

 ようやく父と母の眠る寝室にたどり着き、少女は叫びながら寝室のドアを開けようとした。しかし、どうしてもドアを開けることができない。
「お父さん!お母さん!助けて!」
 叫んでも、ドアを叩いても、何の応えもない。玄関のドアをヒステリックに叩き続ける音が少女を追い詰めていく。


そのドアを開けて、そこに立っている人から渡された契約書にサインしないと、あなたは死ぬ


 A子の言葉が頭をよぎった。
 凄まじい恐怖に嗚咽しながら、このままここに居続けるべきかドアを開けるべきか考えたが、答えなど出なかった。
(助けて、助けて、助けて!)
 少女は動けなかった。もう言葉も出てこない。できることは、心の中で助けを求め続けることだけだった。

 やがて、ドアを叩く音がピタリと止んだ。
(助かった?)そう思っても、しばらく動くことができなかった。
 少女は全身の感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配を必死に感じようとした。周囲からは何の物音も気配も感じなかった。ただ自分の荒い息遣いだけが聞こえた。
 どれほどの時間が経ったのか分からない。ようやく少女は恐る恐る顔を上げることができた。

 突然、目の前が影に覆われた。
 とっさに振り返ると、そこには自分と同じ年頃の少女が立っていた。声を上げることすらできなかった。

 いきなり肩を突き飛ばされ、少女は押し倒された。容姿からは想像もできない力だった。
 考える間もなく、仰向けにされ、両手で首を掴まれた。襲ってきた少女が、全体重を首を掴んだ手に掛けてくる。
(嘘でしょ……)
 喉が押しつぶされ、自分が醜いうめき声を上げているのを聞いた。何もかも信じられなかった。
 自分の首を絞める少女は、何故か泣いていた。

(A子……嘘でしょ?)

 少女は何も分からないまま、呆然とA子を見上げていた。不思議と苦痛はなかった。ただこれが死ぬことなのだと思った。



3.

「どうして……」
 やがて少女は動かなくなった。

 それでも長い間、A子は身動きすることは出来なかった。動かないのだ。何度やっても慣れることはできなかった。
 A子は、ナメクジの這うように、ゆっくりと少女の首から手を離した。身体中の筋肉、関節がこわばり思い通りにならなかった。他人のもののように感じられる両手が、激しく震えているのを見ていた。
 程なくしてA子は弛緩し、身体の自由を取り戻すことができた。
「契約さえしてくれれば、あなたと交代できたのに……どうして契約してくれなかったの?」
 A子のすすり泣く声が闇になびく。もう動くことのない少女のためにではなく、気の毒な自分のために泣いた。

 突然、ドアが開いた。
 刻が戻ったのだとA子は思った。だるそうに少女から離れ、その傍にゆっくりと立ち上がった。
 同時に、母親らしい女性の叫び声が家中に響き渡った。その女性は、床に仰向けに倒れ込んでいる少女の姿を見て、力なくその場にへたり込んだ。
 すぐに父親であろう男性が飛び出してきて、少女を抱き起こそうとしたが、重大な異変に気付き動きを止めた。

 A子は、無表情に突っ立ってそれらを見下ろしていた。もう涙は乾いていた。
 自分の頭に手を当てて確かめた。首を絞めている間、ずっと髪を引っ張られていたのだ。ごっそり抜け落ちていないか気になっていた。

「救急車!救急車を呼べ!」
 父親は、隣に居る妻に向かって叫んだ。しかしその女性は動けないようだった。

(やっぱり、私のこと見えていないんだ……)A子は思った。前と同じだった。その前の時もそうだった。

 父親は、持ち上げた少女の上半身をゆっくりと床に寝かせると、寝室に戻り電話を掛けに行ったようだった。
 その頃、階段からドタドタと大きな音を立てながら、少年が降りてきた。弟なのだろうとA子は思った。

「姉ちゃん……」階段を降りてきた少年が呟く。それ以上少女に近付くことはできずに、その場に呆然と立ち尽くしていた。
 A子はその少年を美しいと思った。
 電話を握ったままの父親が、A子の目の前を通り過ぎて、弟に近付く。
「救急車が来る。お前は外で待って、ここに呼んできてくれ……。早く行け!」
 強い調子で父親に言われて、ようやく我に返った弟が玄関に向かって走って行く姿をA子は見ていた。

「早く私の身体に戻してよ……もういいでしょう?」
 A子はつぶやいた。異様な倦怠感に襲われていた。自分のベッドでひたすら眠りたかった。

 父親は顔を歪めて少女のそばに座り込んだまま、押し黙って少女の腕の辺りをさすり続けていた。
 母親のすすり泣きが止むことがなかった。ずっとだ。A子はそれを煩わしいと思った。
 そんなことより、あの美しい少年と話してみたいとA子は思った。あの少年なら私と契約してくれるだろうか?

 しばらくして、救急車のサイレンの音が聞こえた頃、彼女はようやく自分の身体に戻ることができた。
 夜明けにはまだ時間があった。


(完)
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