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プロローグ
プロローグ
しおりを挟む1985年の8月。
目の前に広がる広々とした赤の広場を散歩するナタリアは、レーニン廟の真横に広がる長蛇の列を横目に、広場の終わりにそびえ立つ巨大な聖ワシリィ教会に向かって歩いていた。
自分がこのモスクワという大都会にやってきてから早くも一年と三ヶ月が経過しようとしていた。季節も移り変わり、冬場は非常に寒かったモスクワも、今の時期は太陽の日差しが燦々と照りつけて少しばかりジメジメする。薄黄色の半袖のワンピースにつばの広い帽子を被る彼女は、少し歩き疲れて赤の広場の傍にあるベンチに腰掛けて、小さく息をついた。
今日もソ連全土や、様々な世界からこの国を遥々訪れた観光客でこの広場も大きな賑わいを見せている。広場の隅には土産屋が立ち並び、また赤の広場の真正面にはソ連で最も大きなデパート・グム百貨店の壮麗な建物もそびえ立つ。物不足が深刻であることが常であるソ連でも、最近は少しずつだが外国産の物も増えていて、デパートの中をウィンドウショッピングするのも楽しかった。そのような、僅かだが確かな生活の変化を目にすることで、この国も少しずつ変わってきたということを実感できる。
ナタリアがモスクワにやって来たばかりの頃はまだ、ソビエトにおける最高権力者だったチェルネンコ書記長がまだ実権を握っていた。だがそんな彼も今年の3月に急逝し、今では新進気鋭のゴルバチョフがソビエトの最高指導者となり、ソビエト政治は、かつての停滞の時代から改革路線にゆっくり舵を切り始めていた。
政治のことに関して特にこれといった知識もない平凡な一市民である彼女だったが、それまでのソ連政治とは明らかに違うのは、こんな広場の賑わいや、街の雰囲気からはっきりと感じ取れている。
彼女の目の前で、そんな風に時代も季節もめまぐるしく映り変わっていくが、赤の広場のこのベンチから眺めるソビエト連邦の首都の景色は、初めてこの場所に立ったあの時と何も変わらない。
何もかもが壮大で、赤くて、美しかった。
「隣いい?“ナターシャ”」
「・・・あれ、ソフィー・・・来てたの?どうぞ?」
ベンチに腰掛けて、カラフルで巨大な玉ねぎ型のドームを持つ聖ワシリィ大聖堂を眺めて、彼女がそんな風に物思いに耽っていると、彼女の隣にはボサボサの赤髪でいつも眠そうな顔をした同僚、ソフィア・クルニコワが腰掛けた。
一体どこで買ってきたのやら、その両手に抱えた茶色の紙袋を遠慮もなく開くと彼女は中からカツやレタスの挟まったサンドイッチを取り出して、黙ってむしゃむしゃと頬張り始めた。ナタリアにとってそれは日常的な出来事なので、何も言わず、ただ黙って先ほどの続きを・・・つまり、ここまでの思い出を振り返る作業を続行しようとする。
しかし、彼女の左耳から休みなく入ってきたレタスのシャキシャキと鳴り響く音がどうしても気になり、しまいには頭の中全部がカツサンド一色になっていた。
そんな時、我慢の限界を迎えたナタリアの腹が音を鳴らす。
彼女はみるみる頰を赤くした。
さっきまでは、横目でちらりとソフィアの動向を伺う余裕があったものの、今では頑なに遠くを見つめるその視線をぴくりとも動かすこともできない。カラフルな玉ねぎ型のドームも今ではすっかり美味しそうなチョコの包み紙に見えて仕方がなかった。
急に、カツのソースの香りがぐっと近づいてナタリアは思わずびくっと肩を揺らす。
・・・眼下にはカツサンドが浮いている。
いや、ソフィアの右手が、カツサンドをナタリアの、はっきりと目に見える位置まで運んできていたのだ。
左手に持ったカツサンドを相変わらずむしゃむしゃと美味しそうな音を鳴らして食べるソフィアの横顔をまじまじと見つめて、彼女はようやく差し出された右手のカツサンドを受け取ると、ためらいもなく齧りつく。
「・・・お、美味しいね・・・ありがと」
とりあえず礼を言うと、ソフィアはもぐもぐしながら何かをふがふがと口にした。
二人の間には心地よい沈黙が続く。昔誰かが言っていた言葉は本当らしい。互いに沈黙がさほど苦じゃない相手となら、いい友達になれるという言葉。いくら仲のいい相手とはいえ、その相手とずっと喋り続けることが苦手なナタリアにとって、適度な沈黙を許してくれるソフィアは良き友人であり、良き同僚であった。
「どう、ソフィー?最近の調子は」
ナタリアはようやく食べ終えたらしいソフィアの顔を伺うと、そんな質問を投げた。
「どうって?」
質問の真意が分からない彼女は聞き返す。しかしどうと聞かれても、ナタリア自身、話題がこれといって見つからない中で投げた問いであるため、聞き返されてしまうと、なんか答えに困る。
「・・・あ、そうだ。出会ってまだ半年だよね、私たち」今まで振り返っていたことを思い出して言った。「色々なことがあったけど、なんとか徐々に認められてきてるなって。最近仕事も楽しいじゃない?」
「そうだね」
彼女はようやくカツサンドを食べ終えて、紙ナプキンで指先をこまめに拭いていた。
「・・・本当に楽しいと思ってる?」
無表情な彼女なんていつものことなのに、ナタリアは確認した。
「楽しいよ」
やっぱり彼女は無表情で、あまり楽しくなさそうに答える。
それっきり、また言葉を詰まらせた。
「・・・言葉に言い表せないんだ、本当に楽しいから」
言葉が足りないことを自覚しているのか、わざわざ言い直した彼女にナタリアは可笑しくて笑みを溢す。
「それなら、もっと笑顔になってよ、もう」
「難しいんだよ、笑顔を作るのって」
簡単に言うけどさ、とでも文句を言いたげな表情がますます可笑しい。
「それなのに、よくもこんな“アイドル”なんて仕事を選んだね?どうしてなの?」
彼女たちが日々従事している仕事は、ソ連国民に笑顔と娯楽を提供する仕事だった。映画に出演するのも、歌や踊りを披露するのも、テレビやラジオに出演するのも、全部彼女たちの仕事。
だから一つのジャンルに囚われない様々な芸術的な仕事をこなす、この職業を一体なんと呼べばいいのか。自分たちをスカウトしてくれたソビエト文化省の役人は、これをアイドルという聞き馴染みのない言葉で表現した。
まるで聞き馴染みのない単語に彼女たちは最初意味も分からず、ただ言われた通りのことをやってきたが・・・こうして一年を経て、その仕事は少しずつ、その本当の姿を現しつつある。
そしてナタリアは、それぞれのメンバーがどうしてこの仕事をしているのか、どうしてスカウトされたのか、・・・今までそんなことをあまり疑問に感じたこともなかった。だから彼女は、前からずっと聞きたくて、それでも聞けなかったことをようやく尋ねたのだが、隣に座るソフィアは思い悩むように透き通った8月の青い空を見上げて、考え込むようにしばらくの間黙り込んでいた。
「うーん、面白そうだったから。父さんに勧められて。それだけ」
本当に彼女らしく、ただそれだけの言葉を呟いた。
彼女の父親がいるのはまさに、今いる赤の広場の前にそびえる城壁の内側。そこはクレムリンと呼ばれる、この国の政治的な中枢機関が置かれている歴史的な場所。自分たちの活動が広く国家に認められているのも、そんな彼女の父親の政治力のおかげといっても過言ではない。
「ピアノ、誰よりも上手だもんね、ソフィーは」
ソフィアは何も言わない。ピアノの腕は誰もが認める特技なのに、彼女はそのことをあまり誇りには思っていないらしかった。
「私なんて、大した特技もないからさ」
彼女がため息混じりに呟くと、ソフィアはすかさず彼女をまじまじと見つめた。
「・・・何?」
「・・・じゃあ、ナターシャはさ、なんでアイドルになろうって思ったのさ」
「それは・・・」
気づけばソフィアは身を乗り出し気味に、隣に座るナタリアをじっと見つめている。彼女は上手く言い逃れたくて言葉を濁そうとしていた。しかし考えてみれば、自分だけこんなこと聞いておきながら相手の問いに一切答えないのは全くフェアじゃない。生真面目な性格の彼女は、思い出をたどって、その答えを見つけようとする。
「私は昔から臆病で優柔不断で、だけど、すごく負けず嫌いで・・・そんな性格を変えたくて」いかにもありきたりな、自分の性格の問題点をある程度列挙した後で急に思いついたのか、もう一言だけ付け加えてみる。「もうひとつ・・・ある。私、ウクライナ人として、コンプレックスを抱いてたの」
付け加えたように出た答えにもソフィアはさほど驚かず、へぇ、とだけ頷いた。まるでその話はもう百回も聞いたと言わんばかりの反応だ。
それもそのはず、彼女ほどナタリア自身の性格をよく理解している人間はなかなかいない。
「あんたのそんな部分が、そこに繋がるんだね」
「・・・うん」
ロシア人はみんな怖い人間だという偏見を、彼女はこれまでずっと心のどこかに抱えて生きてきた。
歴史的にウクライナを抑圧して田舎者呼ばわりし、労働者の国が誕生したかと思いきや、農民というだけで敵視してシベリアの収容所に送り、挙げ句の果てには人口飢饉まで引き起こして多くの農民を死に至らしめたことだってある。
彼女の出身である西ウクライナに暮らす人々は、表面上ロシア人と自分たちは兄弟関係にあると謳っているが、その裏で、ロシアに対して・・・ソ連の中央政府に対して根強い反感を持っているも知っていた。だから彼女だって、そんな反感意識を持った人々と同じくらい、ロシア人に対して微かな対抗心とコンプレックスを抱いてきたのだ。
ところが彼女・・・たくさんのロシア人の中から一人だけ選ばれた“花”である彼女、ソフィアは、ナタリアがこれまで頭の中にイメージしてきたどんな無愛想なロシア人とも違って優しかった。親も政治家という恵まれた環境で育った彼女だが、ナタリアのような田舎娘に対しても、誰に対しても分け隔てなく接してくれる。
自分が何かで思い悩んでいれば彼女はいつだって側にいてくれた。
下手な励ましやお世辞など言わない、ただ思ったことを正直に口にする自然で能天気な彼女に、ナタリアは徐々に強く惹かれていく。そんな心の広い彼女のような人間になりたいと、いつしか思うようになる。
・・・そして、こんな風にロシア人に対して対抗意識を募らせている自分の方が、田舎者で世間知らずな自分を受け入れてくれる懐の広いロシア人たちより、ずっと醜い存在であることにも気づかされてしまったのだ。
「ソフィーのおかげで、私は、・・・ロシア人に対してずっと抱いてきた悪い感情も、ほとんど無くすことができたんだよ。だからアイドルになるきっかけになった、そのもう一つの感情は、もう消えちゃったんだけど・・・」
ナタリアは少し照れ臭そうに言った。
「私はあんたの下手くそな、ウクライナ訛りのロシア語が好きだよ」
そして突然彼女から返ってきた予想もしない言葉に驚いて、ナタリアはソフィアの横顔を凝視する。
「無理して私と一緒の言葉を話すことなんかないよ」
「さっきの言葉、・・・も、もう一度言って、ソフィー・・・!」
彼女はソフィアの肩を激しく揺らす。
「下手くそ」
無表情で、なおかつ、感情の全くこもっていない声でからかうように言った。
「そこじゃなくてさ・・・っ!その続き!・・・ほんとに私のロシア語・・・」
「好きだよ」
普段ぼんやりと無表情なソフィアは、焦るナタリアを眺めて珍しく、にっこりと笑った。そのずるい不意打ちのような笑顔にナタリアは完全にやられて・・・すっかり押し黙ってしまう。
そしていつものように、二人の間には沈黙が訪れた。
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