2 / 4
第一章
守護天使のお導き
しおりを挟む
第一章「旅立ち、守護天使のお導き」
遡ること1年前、1984年4月。
いつもと変わらない冬の寒さが残る静かな夜のこと。夕食を終えて、彼女はブラウン管テレビが煌々と光るリビングを足早に駆け出すと、自分の部屋に潜り込み、ベッドのそばまで駆け寄る。閉め忘れたカーテンを、外の様子を何気なく確かめながらゆっくりと閉め、ベッドに寝転って枕元の小さな戸棚に置かれたラジオのスイッチに手を伸ばす。
一つ一つの動作にここまで慎重になるのにはちょっとした理由があった。ダイヤルをそっと回し、昼間に聞いていた国内向けの退屈なラジオ番組の周波数をいじる。そして、最近知ったお気に入りの“秘密の”周波数に切り替える。およそ一年前に顔見知りの商店で見かけ、どうにかして譲ってもらった性能の良い西側製のラジオだから、海外からの電波を捉えることなどとてもたやすいことだった。
ラジオは甲高いノイズ音を発しながら、ようやくどこかの放送局の放送を掴む。彼女はいつものようにワクワクしながら耳を澄ませる。聞こえてくる音声は全て生の英語だ。名前も知らない司会者二人の対談らしい。
少ない授業数だが、学校の英語の授業で覚えた微かな英語力を駆使しても、彼女が放送の中身を上手く聞き取ることはできない。ただし毎回聞いているこの放送はどうやらイギリスにあるBBCという放送局のもの、ということだけはおぼろげに理解できていた。
彼女の住むソビエト連邦と、そんなイギリスという国との間には見えない巨大な壁がそびえ立っている。東西ドイツを分け隔てる物理的な壁をもとに、ヨーロッパを真二つに分断する見えない壁。かつてイギリスの首相チャーチルは、その巨大な壁を“鉄のカーテン”と表現したが、そんなカーテンが降ろされたことによって、西側にあるイギリスの文化は決してここ、東側には流入してこないはずだった。
ところがラジオという存在はとても偉大だった。人類が勝手に引いたそんな国境線を超えて、電波に乗った彼らの文化は、今やこの国に流入しつつあったのだから。
BBCのラジオ番組は司会者とゲストと思しき人物との対談を終えて、ようやく音楽を流し始める。ドラムロールの音が鳴り響き、エレキギターの音やピアノの音が美しく重なった。ベースギターの重低音が、彼女の心臓を激しくノックする。そして何と言ってもボーカルの歌い方が堪らない。・・・彼が歌うこの曲は、ここ最近の彼女にとって一番のお気に入りである。
・・・ただ、せっかくこんなにも素晴らしい楽曲と素晴らしいミュージシャンが西側には数多くいるというのに、それを誰かに話したり誰かと語り合ったりすることができないというのは、とても残念なことだ。
こんな曲を聴いていることが誰かにバレたりでもすれば、彼女のみならず、彼女の家族にも大きな危害が及ぶ可能性もあるのだから。
そんな音楽が大好きな少女ナタリア・リヴォフスカヤは、西側の音楽のみならず、西側の世界そのものに誰よりも強い憧れと好奇心を抱いていた。
ところが何故か、この途方もなく大きな国には移動の自由というものがまるで無いに等しい。国内旅行ならまだしも海外に行くとなると色々と煩雑な手続きが待っている。渡航理由を幾度となく尋ねられ、何度も役人にハンコを貰わなくちゃいけなかった。それどころか審査自体一年以上かかることもある。当然理由も告げられぬまま申請差し戻しの可能性もあるし、旅費の工面も楽なことではない。亡命対策に監視までつけられると専らの噂だった。
広大なソビエト連邦は、連邦というその名の通りいくつもの共和国によって構成された国家だが、その構成国の一つ、ウクライナ共和国の西部にあるリヴォフ州の小さな町ニコラエフに生まれ、そこで育った彼女には将来もこんな田舎の集団農場で芋掘りをする毎日が待っているに違いなかったから、いくら行きたい場所が国の内外を問わず数多くあったところで、そんなことは彼女の人生にとって殆ど関係のない話なのかもしれない。
彼女は十六歳の今だって、人生のことを少しだけ諦めている節がある。
そのような国家に決められた毎日というのは非常に平凡ではあるが、当然幸せであることも十分に理解していた。
西側の世界では貧富の格差が疫病のように蔓延していて、食べるものにも困る人々が大勢いるというのだから、世界のことを知らない彼女には驚きだった。
以前にも学校の授業でアメリカの貧しい黒人系やヒスパニック系の住むスラム街の映像を観せられたことがある。あそこまでの過酷な世界というのはソビエトに存在しないからこそ、その情景があまりに印象深く心に焼き付いていた。
だからこそ、そんな現実に比べれば全員が平等に暮らすことのできる共産主義を軸にするソビエト連邦はなんと偉大で恵まれているか・・・彼女がそのことに疑問を抱いたことはない。
だが、たとえそうだとしても・・・知りたいことは山のようにあるのに、分厚い鉄のカーテンなんかで蓋をして欲しくはない。だって今、目の前で繰り広げられるこの歌声みたいに素晴らしいものが、向こうにはもっと溢れているはずだから。自由に旅行へ行くことができないのなら、せめてラジオやテレビを通じてその世界に行った気分だけでも味わう自由があったって、いいのに。
「またそんなものを聴いてんのか、物好きめ」
聞き覚えのある声は、ナタリアを、魔法の旅から無理やり科学と労働者に彩られたソビエト連邦という現実へと連れ戻す。
「あ、アリョーシャ・・・!?」
慌ててベッドから起き上がると、ラジオの音量調整のつまみを聞こえなくなるくらい反時計回りに回して振り返る。
ランプの明かりだけの薄暗い部屋の戸口には、廊下の明かりをバックに逆光で表情がよく見えない兄アレクセイの姿がある。
「・・・もう帰ってきた、と?」
ノックくらいしてほしいという抗議の気持ちを押し殺しながら聞いた。
「長期休暇さ。じきにアフガニスタンへ行くことになるから帰ってこれるのはこれ以降、しばらくない」
襟元に曹長の階級章を付けたソ連軍の制服を身に纏うアレクセイは、部屋の中へ無神経にもズカズカと入って来る。膝近くまである長いロングブーツが一歩一歩、歩むたびに彼女の狭い部屋の床板を軋ませる。
ウクライナ語訛りの強いロシア語しか話せない彼女とは違って、軍隊生活が二年を迎え、ロシア語も訛りまで堪能で、何よりも熱心なソ連の信奉者である兄は、きっと自分が西側の音楽を聞いていることを快く思っていないはずだと、心のどこかで分かっていたつもりでいたから・・・彼女は固唾を呑むようにアレクセイの一挙手一投足を不安げな目で追っていた。
ベッドの脇までやって来ると、彼は先ほどナタリアが下げた音量調整のつまみを元どおり時計回りに回し上げる。何をするつもりかと思えば、今度は周波数を別の放送局に切り替える。すると再び・・・部屋の中に洋楽が流れ始めた。先ほどの格好いいロック音楽とは打って変わり、今度は明るく賑やかなダンスミュージック。歌っているのも、女性のボーカルだった。
ナタリアは薄暗い部屋の中で目を丸くした。目をこらすが、兄の表情はランプの明かりでうっすらとは見えても、はっきりとは分からない。
「僕はこっちの方が好きだ」
彼の口元は笑っているのだ、と確信する。
「これって、なんていう人たちの曲・・・?」
「E.V.A.は西ドイツのグループ。そしてこれは、『Girl of Destiny』って曲だ。世界じゃ有名な音楽グループなのに、まだ知らないなんてお前は、遅れてる」
その曲は既に10年近くも前に発表された曲だった。おまけに、そのグループ自体は数年前とうに解散していた。
「そんなら・・・どうしてもっと早く教えてくれなかったと!?意地悪な兄貴」
彼女は思わず、手元にあったクッションをアレクセイ目掛けて投げつける。自分をこれまで散々不安に陥れてきた恨みだって、そこには込められていた。
彼女の気合の込もったクッションを受け止めると、彼は優しくそれを彼女の元に放り返す。
「お前を叱ったり、それを誰かに密告したりするとでも?母さんにでも言いつけるか?」
ナタリアは首を横に振る。母がこんなことで自分を叱る姿など想像もつかなかったから。
「・・・ソ連では、親や兄弟は生物学上のつながりでしかなくて・・・同志こそが兄弟であり祖国こそが親で、血の繋がった家族がファシスト・・・資本主義者なら、容赦無く密告、糾弾すべきだって・・・学校で先生も言いよったばい・・・」
彼女は学校で教わったことそのままを、棒読みする。
「学校もまだまだ変な言葉を吹き込むもんだね。俺はナターシャを裏切るような真似は絶対にしない」兄の目は、いつにも増して真剣だった。「それどころか自分自身、すっかり西側音楽の虜になってるくらいさ・・・」
初めて聞く兄の嘘偽りなく正直な言葉に、彼女は言葉を失ってしまい、少しの間、茫然と兄を見つめた。相手がどんな思想を持っているのか分からない以上、この国で、誰かに本音を打ち明けるのはとても勇気のいることだし、そのことによって生じるリスクを考えたら、どうしても一歩前に踏み出すことができない。
・・・こんな形で兄の考えを知ることができたのは幸運だ。それと同時に、やっぱり自分たちは血の繋がった兄弟だという・・・何にも代えがたい喜びが彼女から警戒心を取り除いて、彼女の頰はようやく緩んだ。
アレクセイはベッドに腰掛けるナタリアと向かい合うように一人用のソファに腰掛けると相変わらず流れるE.V.A.の曲に耳を傾けて、時折、リズムを刻むように首を揺らす。音楽を聴くそんな仕草はナタリアだってあまり変わらない。
彼と同じ仕草をしている自分が可笑しかったし、この時間が、どこまでも幸せだ。何故もっと早く・・・兄と秘密を共有することができなかったのかと思ってしまう。兄はもうすぐアフガニスタンという遠い異国へ旅立ってしまうのに・・・。
そこで彼女は思うことがあったのか我に返って、いつの間にか音楽に没頭して瞳を閉じたままの兄の顔をじっと凝視した。
せっかくの名曲もこんな兄のせいで・・・今は耳に入ってこない。
「・・・アリョーシャ、兄貴はさ、アフガンで人を殺すの?」
彼女は思わず、突拍子も無い疑問を口にした。
それまで音楽にだけ夢中になっていた彼は、彼女の質問がよく聞こえなかったのか、少し首を傾げながらナタリアに視線を向ける。
「ううん、アフガンに行っても・・・兄貴はちゃんと、ここに帰ってこれると?」
言葉のニュアンスを変えて言い直す。
だがアレクセイは彼女の瞳をまっすぐに見つめるとただ微笑むだけで・・・何も言葉をくれない。
曲がちょうど終わる頃には、彼はソファを立ちナタリアの肩にそっと手を置き、そのまま振り向くこともなく部屋の戸口へとまっすぐに向かう。
いつの間にか、彼の背中は自分の思っていたよりずっと大きく見える。いつだって自分のそばに寄り添ってくれた頼り甲斐のあるたくましい背中だ。だがそんな彼に面と向かってありがとうと言うのは気恥ずかしいから、彼女はそんな最近はまじまじと見ることの少なくなった大きな背中に、こっそりささやくような声で、感謝の言葉を呟く。
アフガニスタンで敵を多く殺すか、もしくは戦死すれば、彼は祖国に凱旋し英雄として祭り上げられるのだろうが、ナタリアは、そのどちらをとっても少し嫌だった。
死ぬよりは生きて帰ってきてほしいと願うのは当然だ。しかし彼が万人の英雄になっていくのではなく、我儘なことを言っているのは百も承知だが・・・いつまでも自分だけを助けてくれる心優しい英雄のままでいて欲しかった。
◇
暖かい日差しが窓から差し込む4月下旬のある日のこと、ナタリアはいつものように学校へ向かう支度をするために姿鏡の前に立っていた。
ソビエトの学校には、どこでもちゃんと制服というものがある。
紺色のドレスに白いレース地のエプロンという、まさに絵に描いたメイド服のようなデザインこそ、ソビエトではメジャーな制服だ。
女子たちはスカートをミニに改造しては可愛く着飾ろうとする。ナタリアは世界のことをよく知らないが、これは万国共通の女の子の行動だと心のうちに確信している。だから彼女もその例に漏れない。学校の教師も含めてソ連の大人たちはミニスカートを資本主義的だ、退廃的だとよく愚痴を漏らしているが、そんな言葉は今の時代の若い女性たちが持つ反骨精神には通用しなかった。
自分の制服や髪型が可愛いと確信できるまで時計の針は大きく三十分も進んでいて、何故いくら早起きしても結局、いつも余裕を持って家を出ることができないのかと嘆き、やや慌てるようにして彼女は家の戸を思い切り開け放つ。
ウクライナの伝統的な茅葺き屋根の小さな家の庭には、春が近づくとたくさんの花が咲く。まだまだ春は始まったばかりで、どれもようやく蕾をつけたばかりで早く5月になるのが待ち遠しい。
彼女の好きなライラックの花も、もうすぐ、一面に咲き誇るのだから。
雪解けでぬかるんでしまった枯れた草の生い茂る田舎道を、小川に沿ってタイヤを時折食い込ませながら自転車で駆け抜ける。
スカートの裾に泥が跳ねないか不安に陥りつつ急ぎ足で漕いで、彼女はいつものように学校へ辿り着いた。いつもと同じ学校の風景だが、いつもと違うのは・・・木造校舎の前には見慣れない黒塗りのボルガが一台停まっていること。
こんな田舎にはまず見慣れない高級車に、彼女は何だと疑問に思いつつも、それを横目に校舎の中に足を踏み入れた。
「ナタリア・ニコラエヴナ、おはようございます」
突然、声が近くから響く。
身体をびくりと微かに震わせたのち、その声がした方向を振り向く。当然空耳なんかではなくて、近くの壁際には見慣れた一人の教師が立っている。
「・・・おはようございます先生・・・えっと、まだ遅刻では」
ナタリアの不安そうな表情が英語教師、ユリアに向かう。
ソ連の学校はいわゆる“3-6-2”制であり、7歳ごろから計11年間(義務教育は9年生まで)ずっと同じ学校に通い続ける。二月に誕生日を迎えたばかりの彼女は、もう17歳・・・すなわち最上級学年である11年生だ。上級生は年下に手本を見せる立場にある。
当然、無遅刻・無欠席の皆勤賞を取れば小さなバッジが貰える。
表彰台に立ち、このリヴィウ地区の共産党員から直々に皆勤バッジをもらうことがナタリアの些細な願望だったが、そんな目標の実現はもうすぐそこまで来ているはずだったのだ。
「もちろん、まだあと10分ある。いつだってギリギリだけど、もう少しくらい早く来れるんじゃないかしら?毎日毎日髪の毛を小ぎれいに整える必要だってないのよ?」
年配だが歳を感じさせない、典型的なソビエト女性らしい威厳のあるユリアは随所に棘のある喋り方をして、少し含み笑いを浮かべている。
「それにこんなに短いのね。今日の最初の授業は?」
彼女は、今度はナタリアのスカートの裾をじろりと睨みつけている。
「音楽の授業、・・・です?」
普段ならいくらスカートの丈が短くても、見て見ぬ振りをされるのがお決まりなのに、今日の彼女は異常なまでに彼女を深々と追及し、決して逃さない。
「その音楽の授業を見学したい、とおっしゃるお客様がお見えになっています。何でも、あなたに用があるんだと・・・」
それまで、ナタリアの足元をじっと見つめていたユリアは顔を上げるなり、かけているメガネをくい、と押し上げる仕草をする。
「えっ、私に、ですか?」
「文化省の方です。はるばるモスクワからあなたを訪ねて来たと」
そんな人物に心当たりは、全くない。
「あなたのような勉強の出来も良くない生徒に一体何の用があるのかは知りませんが・・・」
いつものユリアの小言も、その突然の訪問者という事実の衝撃が大きすぎて頭に入ってこない。
「聞いているのですか、ニコラエヴナ」
「・・・はい・・・」
生返事をしたのも彼女にはきっとバレバレだろう。ユリアは呆れるようにため息をつく。ナタリアの気持ちなんて完全に置き去りにされていた。
「くれぐれも失礼のないように・・・あと、そのみっともないスカートはもちろんですが。泥の跳ねた革靴も、あとでよく磨いておくことですよ」
彼女はこれまでの溜まりに溜まったナタリアに対する小言をまだ吐きつつ、ようやく、踵を返しかける。
当然一人その場に残されたナタリアは、言葉の意味をまだ半分だって理解できていなかった。
「ま・・・ま、待ってください先生!?私、何かしましたか!?」
ようやく・・・彼女の頭の中に浮かんできたのは、自分が本来この国では違法であるはずの外国の音楽を日常的にラジオで聴いているという事実だった。
ソビエト国内に張り巡らされた秘密警察が自分の家の中を盗聴している・・・なんてことも考えられないだろうか・・・と、根も葉もない心配事が次々と頭に浮かび上がっては、心配性な彼女の顔は青ざめていく。
だが、第一そんな違法行為をしていたのは彼女以外の知り合いにも数多くいるのは事実で、そんな中でどうして自分だけが目をつけられてしまったのだろうか・・・。疑問は尽きなかった。
「私の方こそ何も聞いていません。アポイントも何もなしに今朝突然向こうから訪ねて来たのですよ。・・・まあ何にせよ、モスクワのクレムリンからやって来た高官に、無礼な姿など見せられますか?」
再びナタリアに向き直ったユリアは、先ほどよりもずっと囁くような早口で言う。
どうやら彼女もまた人生で一度、顔を合わせるかどうかいうほどの大物を前にして緊張し、神経を尖らせている様子である。
ソビエト政府の理念を細かい部分まで徹底してナタリアに守らせようとする彼女の様子から、ようやく事の重大さが現実味を帯びて・・・ナタリアの元へ押し寄せて来た。
音楽室に入ったナタリアとその他の生徒たちがそれぞれの席に着き隣近所の生徒同士で談笑する普段と何一つ変わらない喧騒の中で、音楽教師のヒョードルが入ってきた。20代の若く気弱そうな男性教員で、いがぐり頭と、その小動物的な仕草から、生徒たちからはヨージク(ハリネズミ)とあだ名で呼ばれている彼だったが、普段より、さらにぎこちない姿を見てもやはり彼もまた突然の来訪者に動揺している様子を隠せない。
「えぇっと、みなさん、では今日は先日の続きではなく、別の曲で・・・」
平静を装っているが、黒板に刻む一文字目から白いチョークが折れて床に落ちる。慌てて彼が折れた半分を拾い上げたところで音楽室の扉が開き、室内の生徒の視線が一斉に音楽室の引き戸に向かって注がれた。
ナタリアはその場の誰よりも固唾を呑んで、彼を見つめる。
小ぎれいなスーツが印象的な彼は、さほど身長も高いわけではない。170前後で、年齢も四~五十歳に見えるが、本当はもっと若いのかもしれない。掻き上げて後ろに流した亜麻色の髪に部屋の照明が当たり、微かな輝きを放っている。クラスメイトの女子の目が、彼に釘付けになっている。確かに彼は歳相応の色気があって、ハンサムだった。
「うちの父さんとは違うわ」
「優しそうだから?」
「酒焼けしてないもの」
誰かがそんなことを囁いたので、ナタリアも含めてみんなこそこそ笑い声をあげる。
「気にせずに、続けてくれ」
音楽室の壁に寄りかかった彼は、にこやかに微笑み授業の再開を促す。
ヒョードルはよそよそしくぺこりと彼にお辞儀をしたのち二十数名の生徒たちを全員窓際に集めて合唱の体形に並ばせ、黒板にチョークで歌う曲名を、観客であるその男にも分かるように大きく書き込んだ。
ヒョードルのピアノ伴奏に合わせて、生徒たちは声を重ねる。
ナタリアはクラスの最前列で歌っている間にも、壁に寄りかかって集団の一人一人に目を配る彼をつぶさに観察していた。彼女に用があるといってこんなところに来たという彼はさすがにナタリアを見る機会も多いらしく、何度も視線がぶつかる。彼は謎めいた穏やかな笑みを終始崩さなかったが、そのような表情を向けられても、どんな表情をするのが正解なのかわからない。そもそも彼女の心の中は相変わらず、彼が何者であるのかという疑問で埋め尽くされていた。
「素晴らしい歌声だね、見事だ」
歌い終えた頃、たった一人の観客である彼から拍手が上がった。ようやく張り詰めていた緊張感から解放されたように周囲と顔を見合わせて教室全体が大きくどよめく。党の偉い人物に褒められたというのは、彼らを沸き立たせる材料としては十分だった。
ヒョードルもそんな彼とクラスの様子に安堵したのか、小さなため息をついた。
その後もナタリアたちは何曲か歌うことになり、後半には全員で輪になり有名なロシア民謡である『カリンカ』を、簡単な踊りと交えて歌う。どんな曲に対しても、文化省の役人ミハイルは何も言わず、ただ満足そうに眺めていた。だからこそナタリアの中での彼のそのような謎めいた雰囲気は、ますます深まっていく。
「素晴らしい歌をありがとう。これだけの歌声をソビエトの、この地域に留めておくのが勿体ないくらいだ」
彼の視線が再びナタリアを捉える。ふいを突かれて、さっと背筋を伸ばした。彼の目は常に穏やかだが・・・そこには心の奥底まで見透かすような鋭さもある。
「それでは本日最後になりますが、生徒を代表し、クラスで音楽の成績評価がトップであるナタリアに感謝の気持ちを込めてソビエト連邦国歌の独唱をお願いしたいと思います」
ヒョードルがピアノの椅子から立ち上がると、あらかじめ準備していたかのような説明ゼリフを口にする。だが当然そんなことなど事前に全く知らされていなかった彼女は唐突に与えられた役割を前にして困惑するばかりだ。
「そんな・・・、先生、私そんなこと聞いてません・・・」
ヒョードルにとってはそんなことお構いなしなのだろうか。彼はその場に立ち尽くす彼女に分かってくれと言わんばかりの目配せをするばかり。クラスメイトたちの好奇の目がただ一人彼女のもとに集まる。
確かにソビエトの要人がここまで来た以上、国家に忠誠心を示すことが筋なのかもしれない。極力、彼の名誉のためにも力になりたいところだが・・・今の彼女にとって自分一人だけが晒し者にされることの恐怖心は、何物にも変え難い。
「ヒョードル、申し訳ないが国歌はいい」
だが、そんなナタリアの張り詰めた緊張の糸は、そんな彼の言葉でぷつりと切られた。足元のカバンから彼は一枚の譜面を取り出し、ナタリアのそばまでやって来る。
出会って初めて、こんなにも彼がこんなにも近くにいる。緊張感で彼女の指先が微かに震えた。
「君には、これを歌ってもらいたくてね」
彼女の目の前に譜面がざっと広げられる。彼女は慎重な手つきでそれを受け取るなりじっと覗き込み、そこに刻まれたメロディーを指でゆっくりなぞる。
・・・音符を読むのが得意だから、音を取ることはそこまで難しくない。しかし彼女の頭に流れてきたメロディーは、ソビエトでよく歌われる音楽とは明らかに違っていて、おまけに・・・まるで知っているような曲調だ。彼女は首を傾げて、音符をもう一度、なぞった。
「英語の発音が良いと噂の君なら絶対に歌えると思ったんだけどな。どうだろう?」
彼が彼女の耳元で囁く。
その言葉が、心臓を思い切り突き刺した。
慌ただしく、再び手元の譜面をじっと見つめると楽譜の頭には、先ほどは緊張のあまり見落としていたが・・・『Beyond the Dream』という英語のタイトルが刻まれていた。
思い出したら、またはっとする。
これは紛れもなく、いつしかラジオで何度か聴いたことのある曲だ。
・・・もう一度聴きたいとずっと願っていた曲で・・・しかも、まさかこんな形で再会することになるとは思わなくて。
「難しそうかい?無理なら歌うことないよ」
「いや、無理とかじゃ、ないんです」
何を言っているんだろうと、思った。拒否してしまえば、もしかしたら、この場所からうまく逃げ出すことができただろうに。何故自分はまた無理に背伸びをしてそんな言葉を口にしているのか?
「歌えます。でも、上手く歌えるかどうかの保証は・・・」
負けず嫌いの彼女は、彼の目をじっと見つめて口にした。
「大丈夫。準備ができるまで君を待つ」
彼も彼女のそんな真摯な気持ちを丁寧に受け止めて、相変わらず人を安心させるような、心を掻き乱すかのような、優しい笑みを口元に浮かべた。
周囲の生徒たちからの期待を含んだ眼差しは相変わらず強い。ピアノの椅子に座ったまま動かないヒョードルの表情にも、なんとか歌ってくれという言葉がはっきり刻まれている。彼の手にも既に伴奏用の楽譜が手渡されていて、準備は整っているらしい。
教師も含めて、この場にいる全員が自分を吊し上げるのではないかという不信感は未だに拭えない・・・この国では本来違法であるはずの西側の音楽を何故か知っている、そんな自分を。
人一倍警戒心が強くて常に石橋を叩いて・・・叩きすぎて前に進めないような部分が、ナタリアは自分の短所だと認識している。そのせいか、いつだって掴みかけていたチャンスを逃してしまうのだ。
だって、もしかしたらその功績が認められて、一躍この地区の有名人になれるのかもしれない。
そんな淡い期待がほんのわずかでも彼女の心によぎっていたから。
譜面から決心したように顔を上げると・・・やっぱり、彼の穏やかな視線とぶつかる。
彼は待ってくれているのだ。
だからこそ細かい理由なんてどうでもいい・・・今はただ、そんな彼の期待に、どうしても応えたかった。彼のことを信じてみたかった。
彼女は大きく深呼吸して、背後のピアノに合図を送る。彼女と同様、緊張気味のヒョードルは、安堵するようにゆっくり頷く。
そして前奏がゆっくり流れ始めると、彼女は音楽室の空気を再び吸い込んだ。
彼女はたどたどしい英語の発音で歌い始める。
この気持ちを、なんと表現すればいいのか。
・・・生まれて初めてはっきり声にした英語の歌だ。
全身が魂ごと風船のように宙へと舞い上がっていくような不思議で、心地よい感覚。部屋の中で微かに口ずさむことは今までにもあったが、人前で誰かに聴かせるのは、彼女にとってこれが初めてだ。
歌詞の意味なんてさっぱり分からない。でも歌詞に込められた言霊は心の内側にすっと溶け込んでいく。
この原曲をラジオの向こう側で歌っていたマーガレット・スコットの歌声には、自分の歌声なんか到底及ばない。
だが、下手かもしれないが、もっと歌いたいと願う自分がいた。この歌声が誰かの心に溶け込んでいかなくても、自分が、この曲を歌いたいから。
彼女が初めての英語の曲を歌い終えたとき・・・クラスの中は一瞬静まり返った。ナタリアは不安でいっぱいになった顔を党員の彼に向ける。
そんな彼はただ、笑みを浮かべて大きな拍手をする。ナタリアは、心の底から安堵して、思わずその場に座り込みそうになる。
だが休むまもなく、それに続くようにして周囲のクラスメイトたちも一斉に、彼女に向かって大きな拍手と歓声を上げるのだった。
授業後、ナタリアは個室で件の彼と面談することになった。
「ご苦労だったね。話に聞く以上に、君の歌声はよかった」
彼の褒め言葉にもかかわらず、一方の彼女はソファに深々と腰掛けては初対面の彼を前に不安げな表情で押し黙っている。
本当に、あのような歌でよかったのか・・・これから自分の想像もつかない面倒ごとに巻き込まれていかないか。
そんな心配事が彼女の頭にはつきまとって、離れない。
「とにかく、綺麗な歌声だったよ・・・“ナターシャ”」
彼女の気持ちを察したのか、もっと優しく囁いた。その言葉に、彼女はようやく、それまでうつむいていた顔を上げる。彼が、自分のことを愛称の“ナターシャ”と、いきなり呼んでくれから。
「君の歌声で・・・僕も若い頃ラジオにしがみついていたことを思い出したんだ。あの頃はまだフルシチョフの時代で、アメリカと核戦争になりかけたキューバ危機もあった頃。少し周波数をいじればラジオからはビートルズが流れてくる。その頃から熱心な共産党支持者だった僕が、一瞬で心を鷲掴みにされてしまった。反戦的、平和主義的な歌詞だと言われて、当時のソ連当局による締め付けは、今の比じゃない」
共産党員とはとても思えないような赤裸々な話に、ナタリアはすぐさま引き込まれていた。彼は語り口調までもが、その辺の、隠し事と建前だけで生きているような大人たちより、ずっと魅力的だ。
「僕の名前はミハイル・トカレフ。文化省の人間だ。純粋なロシア人だと思ったかい?・・・出自は君と同じウクライナ出身の、ウクライナ人でね」
「・・・ロシア人とばかり、思ってました」
「ロシア人は怖い?」
「・・・少し」
「かなり、だろう。顔を見る限り」
「す、すみません、そんなつもりじゃ」
彼女は慌てて否定したものの、ミハイルは彼女の気持ちなどとうに見透かしていた。
「もしや君は西側の音楽を違法に聴いていることがバレて、モスクワから駆けつけた僕に摘発されるとでも思っていたんじゃないか?」
彼女は、そこが個室ではあるが念入りに今一度、周囲の様子を確認した。だがミハイルの後ろの窓もしっかりと閉じられていた。
「安心してくれ、僕は君側の人間だ」
先ほどの話からでも彼が自分に危害を及ぼす恐れのない人物であることはよく理解していたはずなのに、彼女は、自分たちの会話を盗み聴いている人間が他にはいないものかと念入りに確認した後で、ようやく少しの落ち着きを取り戻す。
「君みたいな人間を逮捕したい輩はもちろん、党内部には多くいる。しかしこんな些細なことで逮捕などしていれば、国内の刑務所はすぐ膨れ上がってしまうだろう?土地がいくらあっても看守が足りない。そもそも、そんな看守自身が違法な手段で入手したレコードを聴いているような有様なんだよ」
ミハイルは相変わらず可笑しく笑うが、ナタリアはまだこの状況が呑み込めていないで、彼の話から一人取り残されている。
「単刀直入に言おう。ナタリア、君の力が欲しい。君の力が偉大なソビエトを復活させる」
予想通り、何も分からずきょとんとしたナタリアの反応を待たずに、彼は手元で四つ折りに畳まれていた世界地図を目の前のテーブル一面に広げる。
「ソビエトという国は決してロシアだけで出来ているんじゃないだろう。ご存知の通りウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニア、グルジア、カザフスタン、タジキスタン、・・・その他、数多くの異なった民族が住む共和国を組み合わせて“連邦”という形で構成されている」
社会科の授業で何度も目にしたソビエト連邦の国土は、今見返しても巨大だった。ソビエトに並ぶ大国アメリカの国土よりも自分たちの国土が大きいと知った時は、いかに自分たちの国家が偉大であるかと感動したことを今もはっきり覚えていた。
世界で初めての有人宇宙飛行を成し遂げたのもアメリカではなくソビエト連邦だ。ガガーリンは、ソ連が世界に誇る英雄に違いない。その誇りがあるから、ナタリアはこの国を、自信を持って好きだと言える。
「君は本当に、この国が好きか?」
彼は巨大なソビエトの地図を指差して、言った。
「もちろん私はソビエト連邦を、誇りを持って、誰よりも愛しています」
だから彼の問いに対してはほとんど間を置かずに、そのように言い切る。
「本当に、そう思ってるかい?」
彼女の答えを聞いて、今度は試すような口調になった。
「西側世界では、今あんなに様々な音楽が生み出されている。ソビエトでは未だに様々な規制が緩和されない。音楽以外でもそうだ。西側の文明、というだけで皆忌避する傾向がある。君は、ソ連の全てが好きだと本当に言い切れるかい?それは“井の中の蛙、大海を知らず”で終わってないかな?」
「ええっと、それは・・・」
彼女は言葉に詰まる。自分は、世間知らずだと言われたら多分それまでの、いくら実際にこの目で確かめてみたいと願っても海外には決して足を踏み出すことのできない、所詮はソビエトの一庶民に過ぎない。だからこそミハイルの問いは、あまりに卑怯にも感じられる。
それが負けず嫌いなナタリアの闘争心に火を灯した。
「・・・私はアメリカのことも西側のこともよく知りません。確かに、華やかな文化が花開いていて、素晴らしい曲が流れているかもしれません。・・・でも、あなたが素晴らしいとおっしゃる、そんなアメリカや西側にだって、悪い部分はたくさん、あるということだけは知ってます」
彼女の言葉に、ミハイルが感心するようにその目を大きく見開いて、少しだけ今より前屈みの姿勢になった。そんな彼に、熱くなった彼女は続ける。
「どんなに素晴らしいものがアメリカにあったって、ソビエトの素晴らしさには決して勝てないって思うんです。ソビエトには、資本主義世界とは違って格差も差別もありません。みんなが平等に暮らしている。それだけでも私には十分ですが、まったくの赤の他人でも必ず大切にするところが、ソビエトの本当に素晴らしい文化だと思ってるんです」
授業で教師たちが盛んに口にしていた言葉を反芻しながら一生懸命、自分なりの言葉で反論した。ミハイルは彼女の言葉に逐一頷き、真剣に耳を傾けている。
「具体的に、どういう場面で?」
「ソ連人は困っている人を決して見捨てません。駅のホームで困っているおばあさんを見かければ必ず重い荷物を持ってあげる・・・ベビーカーを押していて長い階段が登れなくて困ってるご婦人を見かけたら、一緒になって持ち上げてあげます。それは個人個人の関係にとどまりません、国同士の関係に関しても、そうです。もし同盟国が経済的に困っていれば絶対に支援する。西ドイツやアメリカの軍隊が攻撃しそうになったら、絶対にソビエト軍がその同盟国を守ります」
そこまで言い切ったのち、彼女は最後に一言付け加える。
「・・・誰にだって、愛するものに対して好かん部分は絶対にあります。好かんところが1個や2個あってん、好きなところが10個でもあったら、それでよか、って思いませんか?私は、他人との結びつきがのうなった社会なんて嫌ばい、私は、誰もが平和に暮らするソビエトば、ただ、愛しとるんです」
ミハイルはなるほど、と言ったきり少しだけ沈黙した。
ナタリアは、こんなにも言葉が溢れ出してくるとは思わなかった。その上、普段は逐一気をつけているのに一度感情的になると自然にウクライナ語が混じり、自分自身を制御しきれなくなってしまう。
彼女はそんな負けず嫌いな自分の性格がとても恥ずかしく思えた。
「すみません、その、私、何も分からないのにすごく、偉そうなこと言っちゃったかもしれなくて」
「いや、君がね、こんなにも真剣にこの国を愛していたとは思わなくて・・・とても感心しているよ」
彼の考えていることは分からない。でも相変わらず、自分のことを試していることに変わりはない。だから彼女の緊張感は緩むどころか、先ほどよりずっと強まっていた。
「じゃあ、もし、君が単に知らないだけで嫌いなところが他に沢山あったら?君は今ソビエトには好きなところが10個あると言った。でも、仮にもしも嫌いなところが、1個や2個どころではなく10個も20個も、次から次に・・・ボロボロと、ペンキが剥がれ落ちるように見つかっていくのなら、君はどうする?」
「それは・・・」
言葉を必死に探すが、彼の追撃は容赦なく続く。
「国民の間には、その“見えない部分”によって不満が高まってきている。これはフィクションじゃない、現実さ。この悪い腫瘍を除去しない限り、君の愛するソビエト連邦は、いずれ崩壊する」
「そんな、ソビエトは世界でもっとも偉大で・・・だから、崩壊など」
教師の言葉を曇りもなく鵜呑みにする彼女の真剣な言葉を彼は一笑に付し、
「かつてのローマ帝国も、偉大だったね。しかし崩壊した。栄えた国家は、時代の荒波を乗り切れなければ崩壊してしまう。ウクライナだって・・・キエフ・ルーシ大公国の時代は偉大だったかもしれないが、それはモンゴルによって崩れ去った。・・・いや、それは結果に過ぎない。キエフルーシも、長引く内乱ですっかり弱体化していたのだからね、滅びは必然だった」
歴史的な出来事を引き合いに出して、彼女の言葉を明確に否定した。
「・・・そんな」
「残念だけど、今のアメリカや西側の経済はソ連をはるかに凌いでいる。これは覆しようのない事実だ。その一方、ここソ連では経済がますます停滞と衰退の一途を辿っている。軍事力や科学に注力し過ぎた結果がこれだ。崩壊しない方がおかしいと思わないか?」共産党員であるはずのミハイルの顔が、まるで別人のように・・・一段と険しさを増す。「暴走した軍事力や手に負えない強大な科学技術が、やがて君の身近な人や大切な人の命を、あらゆる形で奪うことになる。僕は、最もそれを恐れている」
彼の言葉一つ一つ、彼女には全てが初めて聞く言葉と衝撃的なものばかりだ。
これまで自分がただ漠然と永遠を信じて疑わなかった国家が目の前から消えて無くなってしまうことが、そもそも一体どういうことなのか。自分の住んでいるこの場所は、国家がなくなれば、どうなるというのか?
考えれば考えるほど、頭の中は雪のように真っ白に染まっていく。人生において確実な永遠など存在しないことなどこれまでも分かっていた。だが、あらゆる物の中では最も絶対的な永遠が目の前で崩れ去ろうとしていることが自分の生きているうちに起こり得るなんて。
さきほどの鬼気迫る表情から一転して、言葉を失ったナタリアに対し彼は再び穏やかな口調で声をかける。
「君がソビエトを誰よりも強く愛しているのは、よく分かった。他者を思いやる気持ちは僕も絶対に残したい。それは西側や資本主義社会で多くの人が見失った考え方だ。さっきは悪かった、君の言うことは何も間違っちゃいないよ」
意地悪な質問をしたことを謝りつつ、
「だからね、君の美しい歌声がソビエトを崩壊から救い、さらに、より良い方向へと変革することができると、僕は信じている」
「歌声、が・・・?」
彼はようやく彼女がこれからすべきだという役割を口にしたのだが・・・それがあまりに現実とかけ離れているように思えると、ますます何のことだか、分からなくなった。
首を傾げていると彼はすかさず手元に用意してあった一枚の紙を机に置く。それを手に取って、ざっと目を通したあと彼女は紙面の・・・読めるが意味の分からない単語を指差した。
「айдолってのは、どぎゃん意味になるとですか?」
彼女はその単語を“アイドル”と発音した。他にそのような単語を知らない上に、聞いたこともなかった。
「идол(偶像)という単語があるだろう」ミハイルはソファを立ち、左手の窓から中庭を眺める。「君にはソビエト国民から愛される偶像、すなわちイコンになってもらいたい。アイドルとはそういうものだ、あの花々みたいに」
中庭に咲く・・・様々な形の花弁を持った花々を見て、言った。共産主義社会で、個性というものは常におざなりにされがちだ。出る杭は打たれてしまうのである。しかし、そんな社会に画一性を求める共産主義を謳う地上のユートピアにも、色や形で個性を主張する草花が咲き乱れることまでは止められない。
「君はウクライナに咲く花だよ。他にベラルーシの花、ロシアの花、・・・様々な花々を、国中や、同じ共産圏から集める。集めた花々を花束にして、それをソ連の人々に届ける。それがこの国を大きく変えるはずだから」
「私が・・・ウクライナの花?」
「僕は君の美しさと華やかさに惚れ込んだ。歌だってうまい。・・・ナターシャ、君なら絶対に国民から愛される存在になれる」
知らない人が聞けば大げさな口説き文句にも聞こえるような言葉を呟いた。
「西側の風を取り入れた歌や踊り、そして君の素晴らしい個性でこの国を変えてみないか」
ソファに座る彼女はこれまで一度も言われたこともないような胸を熱くする言葉で自分の頰が瞬く間に赤々と染まっていくことに気づいた。しかし、他人をすぐには信用できない彼女は、その言葉をそのまま受け取ることはない。
「・・・私はソビエトを愛しています、だからこそこの国に尽くしたい気持ちは強いのですが・・・この・・・紙に書かれたアイドル?になるとしたら私は、この田舎を出ることになるんでしょうか・・・?」
「もちろん君を大都会モスクワに招待する。そこで、君は国営のラジオ放送やテレビ番組に、積極的に出演してもらいたい」
彼の提案は夢のような誘い。偉大なる憧れの街モスクワ・・・彼女の頭の中には華やかな幻想が、瞬く間に繰り広げられる。
青い空に向かって摩天楼のように突き出すスターリン建築で有名な外務省やモスクワ大学、高級ホテルなどの建物群。クレムリンの宮殿や黄金の正教会のドーム。赤の広場に面したレーニン廟・・・それは自分の住む村からは遠く離れた、偉大なソビエト連邦の、唯一無二の首都だ。
手元の、一枚の紙を握る指の力が興奮で強まっていくことを感じた。この紙は、そんな夢のような憧れの都モスクワへの旅のチケットだから。
モスクワに行けるということだけでもたまらないのに、憧れていたラジオに出演して、国中の多くの人に感動を与えられる姿を想像すると、彼女の指の震えは簡単に消えるものじゃない。
だが・・・・祖父母や母、兄は、自分がアイドルという見たことも聞いたこともない仕事に就くことを知ったら何を思うだろうかという不安が、同時に降りかかってくる。
父は昔に家を出たきりで、残された母親は兄と妹の二人を祖父母の手も借りて懸命に育ててきた。兄は軍隊にも行き、今度はアフガンだ。残された母はたった一人で祖父母の面倒まで見なければならならず、これから寂しい思いをさせてしまうのではないだろうか?
そのような心配事が舞い込んでくると・・・彼女は、自分だけがいい思いをして都会に出ることが、まるで後ろめたいことのように感じてしまう。
「ミハイルさん、ごめんなさい・・・私、今すぐには決心がつかなくて」
普段から優柔不断だと言われてしまう自分の性格には、またもや嫌気がさしてしまう。
自分はなんと臆病者だろうか。せっかくのチャンスを余計な心配ごとで失ってしまうのか?
頭では、そんなこと分かっていたとしてもそんな勇気を出すのは・・・やっぱり怖い。受け取りかけた契約書をそっと机の上に置くと、再びミハイルの手元に押し返した。
「せっかくのお言葉でも、私にはやっぱり荷が重すぎて。ソビエトの未来を背負うだけの勇気は、まだ、私には無くて・・・」
ミハイルは何も言わずに、黙って彼女から受け取る。
こんなにも煮え切らない態度に彼も心底呆れているだろう、と思ったのだが、彼は普段通りの穏やかな表情を少しも崩していない。
「いや、気にすることはない。むしろ難しい判断を迫って申し訳ないよ。もし君の気が変わることがあれば、その時はこの番号に電話を」
彼は番号を書いたメモを彼女にそっと手渡すと未練など微塵も何も感じさせることなく颯爽と立ち上がって、部屋の戸を開いた。一人その場に取り残されたナタリアは、彼の顔をまっすぐに見つめて見送ることもできない。
ソビエトの広範な地図も片付けられてしまった何もない来客机の上に、彼女はただぽつねんと、寂しげな視線をいつまでも落としていた。
日の暮れかけて美しい夕日が西に沈もうとしている頃合いに、それとは対照的で真っ暗な表情を浮かべたナタリアは家に帰り着く。庭先に自転車を止めていると、庭の片隅にある納屋の中がやけに騒がしい。先ほどから鶏が懸命に鳴いていたが、明らかに様子が変だ。
不審に思って様子を見に伺うと、案の定、祖母が鶏を追っかけ回してようやく捕まえ、必死に暴れて断末魔をあげるその首元に向かって、大きく鉈を振りかざしているところだ。
「ごめん、邪魔しちゃった・・・?」
「あらナターシャ!どうしたと、そぎゃん顔ばして!」
薄暗い納屋の中でもはっきりと分かってしまうほど、自分の今の表情は酷いらしい。
「・・・何でもなか。手伝おう、か?」
祖母には余計な心配などかけまいという気持ちから思わずそんなことを口走ったのは良いが、この家族の中で誰よりも血を見るのが苦手なことを思い出すと、すぐに手伝うと言ったことを後悔する。
「ほんと!そいつは助かるたい、こいつの脚ば押さえてくれん!」
自分よりウクライナ語の強い独特の訛りがある元気のいい祖母に言われるがまま、ナタリアは暴れて羽を撒き散らす鶏の脚を嫌々押さえた。
「今夜はとびっきりん、チキンキエフばこしらえるたい!」
祖母のアンナは嬉しそうに言いながら鉈を容赦なく振り下す。思わず目を背けたが、勢いよく飛び散った鶏の鮮血はナタリアの頰にも容赦無く降りかかる。鶏のものとはいえ血は苦手だ。生臭い血の匂いに耐えて首の無くなった胴体を袋にねじ込む。そうしている間にも首を失ったはずの鶏はジタバタと暴れまわる。早く頰に付着した血を拭いたいという気持ちに耐えつつ、不気味に暴れる脚を押さえて彼女は血抜きを手伝う。
「アリョーシャがあと三日でここば発つけんね!今のうちに精一杯なご馳走ば振る舞うとかにゃん!」
「そっか、あと三日・・・」
アフガンに発つ前、二週間の休暇を与えられた兄だが時間が経つのは早くて、もうこれからしばらく会えなくなるのだと思うと急に寂しさが襲ってきた。
普段から一緒にいる時はそんなこと微塵も感じたことがないのに、今日学校に現れたミハイルと会い、話したことを思い起こすと、心がざわつく。もしかしたら、兄は棺に入って帰ってくるんじゃないか?
一緒にいることが当たり前になりすぎるとそれが永遠のように感じてしまうが、永遠など決してありえないと・・・今日は十分に理解させられたから、彼女の胸は不安の黒々とした雲に覆い尽くされていく。
「あのね、おばあちゃん、もしこの家からアリョーシャがいなくなって、・・・私までいなくなったら」
「ん!ナターシャ、今なんて言うたんと!?」
「あっ、なんでもなか・・・!血抜きは、もうこんぐらいでよかと?」
学校であった出来事を正直に話そうと思ったのだが、聞こえていなかったことをいいことに結局自分の心のうちへと閉じ込めてしまう。
手元で懸命に抑えていた鶏は、今ではすっかりと動かなくなっていた。
彼女は夕食中も家族の談笑に付いていくことができずに一人ぼんやりしながら、いつ、どのようなタイミングでこの悩みを打ち明ければいいものかと何度もその機会を窺うが、言葉は喉に引っかかって出てこない。
「やっぱり変わらんね、じいちゃんの腕」
アレクセイがナイフでチキンキエフを切ると、中から溶けたバターがどろりと白い皿の上に流れ出し、その豊潤な香りが食欲を誘う。だがナタリアだけはまだナイフにすら手をつけておらず、具の無い真っ赤なビーツのスープを無意識に口にしていた。
「まだボケとらんけん。なるべく薄く叩いた鶏肉にたっぷりのスパイス入りバターを包んで、そっと握るようにして包むだけたい。こんなん、誰でもできる」
「そうは言っても、こうも上手く揚げられるものか?」
確かに皿の上にごろんと転がった大きなチキンキエフは絶妙な色合いだ。祖父はかつてモスクワで党幹部お抱えの料理人をしていた経験もあるという、かなりの腕の持ち主だったが、今はこうして郷里でひっそりと暮らしていた。
「じいちゃんほどの腕前なら、まだ引退してなくても」
「もう若くはないけん。フルシチョフが失脚した時、仲の良かった友人がクレムリンを去ったんだが、これはちょうどいい機会だと思ってな」
ナタリアは二人の会話の中にモスクワという単語が飛び出し、思わず食いつく。
これまでは一度だって意識したことはなかったのに、もし祖父が地元に戻らずモスクワに留まっていれば、こんな悩みを抱えることも・・・。
「ナターシャ、食べないのか?」
「いや、食べるけど・・・」
兄に自分の気持ちを悟られないようにと、彼女はようやくナイフを押し当てる。先ほど自分の目の前で死んだ鶏が、今こうして口の中にいるのは何となく不思議な気持ちだ。
祖父の腕前は確かなもので、美味しいはずなのに今は今日の出来事が頭の中を駆け巡っていたので、よく味は分からなかった。
夕食後はまっすぐ部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした彼女は一息つき、いつものようにラジオに電源を入れようとしたが、電源に触れようとしたところでその手を止める。
・・・何故だか今日はあまり聴く気にはなれなかった。
彼女の頭の中には、今授業で歌ったマーガレットの『Beyond the Dream』が滔々と流れていた。その出来事はまるで遠い昔に見た夢のようにも感じられたのだが、これは決して夢ではない。慌てて机の上に置かれた通学カバンの中身を漁ると、案の定、そこに今日ミハイルから渡された楽譜がある。動かぬ証拠を手に取り、感慨深く見つめていた彼女は、やはり声に出して歌いたい衝動に駆られてしまう。
無論声が出そうになったところで、理性やプライドが食い止めてしまうのだが。
・・・ああ、やっぱり、今日ミハイルさんから託された依頼を素直に引き受ければよかったんだ・・・!
彼女は押し寄せる途方も無い後悔に大きくため息をついて、がっくり肩を落とす。
今後も農家で一生を終える方が、きっと自分のためになる。運命の流れに身を任せていた方が余計な心配ごとを産まなくて済むのだと自分を偽って平静さを保とうとしていたが、それは所詮ただの強がりに過ぎない。
結局いつもと何一つ変わらないのだ。ソビエトを、世界を知る大きなチャンスが目の前に到来したというのに、慎重すぎる彼女の性格が、それを無駄にしていた。
そんな風に一人で落ち込んでいる彼女の部屋の戸が、突然ノックされる。返事をするまでもなく、アレクセイがひょっこり顔を覗かせた。
「ナターシャ、・・・って、なんだ、ラジオ聴いてるんじゃ」
入って早々に彼は意外そうに呟いた。この頃は彼女も部屋で兄と一緒に、ラジオから流れる洋楽に耳を傾ける機会が増えていた。
「勝手に入ってこないでよ。なんのつもり?」
彼女は不機嫌そうな顔を隠そうともしない。
「ノックしたじゃないか、何を怒って」傍にまで来るとアレクセイは手元にある楽譜の存在にすぐ気がつき、隙だらけの彼女の手からすぐさま楽譜は奪い取られ、彼は薄明かりの下でそれをまじまじと見つめる。
「か、返して」
彼女はようやく我に返り、取り返そうと必死に手を伸ばした。
「お前、これをどこで?」
言うべきか悩ましかった。だが、言わなければ・・・たった一つの楽譜は返ってこない。彼が自分と同等かそれ以上に負けず嫌いで、納得するまではなかなか譲らない性格であることを、彼女は日頃の経験から嫌という程分かっているから。
結局は兄の問い詰める強い視線に抗うことのできなかったナタリアは観念したように今日の出来事を正直に打ち明ける。アイドルという聞き覚えのない単語を交えた不思議な計画が現在ソビエト政府組織の一部で進行していることを、一体どのように分かりやすく伝えるべきか・・・最終的には兄が教えてくれたような西洋のポップミュージックグループなどを例に挙げて説明していた。
「よしてくれよ。お前の歌なんかラジオで聞いた日には恥ずかしくて街を出歩くこともできやしない」
アレクセイは彼女の必死の説明を笑うばかりで、まるで真剣に取り合おうともしない。
「本当ばい!信じてよ・・・!」
ここまで必死に打ち明けるか一日中悩んで、分かってもらえるように一生懸命説明したあとでの彼のこのような態度は到底受け入れられるものではない。だから、彼女は声を張り上げる。
「モスクワから来た共産党員が・・・私の歌ば聴きに、わざわざこぎゃん、辺鄙(へんぴ)な場所まで来てくれたの!こんなことって、あると思う?」
いつもと様子のまるで異なった彼女の言葉で、アレクセイは改めて真剣にその楽譜に視線を落とす。
一般的なソ連の人間がここまで精巧に作られた英語の楽譜を印刷して所持できるはずは、ない。アレクセイは疑問に感じて楽譜に目を凝らす。きちんと原本があるコピーなのか、下にはASCAP(アメリカ音楽著作権協会)のロゴが、若干掠れてはいるものの印字されている。無論彼にはASCAP自体なんであるかなど分からなかったが、そのアルファベットのロゴを見た瞬間にそれがただの楽譜では無いことも・・・彼女が決して冗談を言っているわけでは無いことも、ようやくどこかで悟る。
「・・・その党員、本当に、クレムリンからって?」
「間違いないもん、あの人は、文化省の役人だと!」
「近頃はこんな辺境にも西側のスパイが増えているらしいぞ。仲間が言ってた。何事にも警戒を怠っちゃいけない」
80年代アメリカのレーガン政権とソ連は、アフガン情勢を巡って鋭く対立していた。核戦争の危機だって誰もが本気で信じていた。近年就任したばかりのチェルネンコ政権も、おそらくその対立姿勢を引き継ぐつもりだろう。
「ミハイルさんはそんな人じゃない!会ったことだって、ないくせに!」
ソビエトの将来や今後のこの国のあり方を真剣に考えている人間が、アメリカや西側のスパイだなんて考えなど絶対に持ちたくない。
それより彼女自身が驚いたのは、ただ一度会っただけの彼を今すっかり信用してしまっている自分がいるということ。ずっと一緒にいるだけの兄より、何故、よくも知らない彼のことを信用しきっていられるのだろう?
慎重深くて疑り深い、普段の自分らしくないところにナタリアはひどく困惑していた。きっと今の自分の頭は、押し寄せる憧れのせいで冷静になれないのだ。
「・・・いい人だから信じたいの。」
思い切り深呼吸をして冷静さを取り戻す彼女は、ようやく心に抱き続けている素直な気持ちを口にする。「それに唄いたいの。私の歌でソビエトを変えられるんだって、言ってくれたから。夢みたいな話でしょ?そんなに上手い話があるかって思うかもしれないよね、・・・ばってん、私は、このわずかなチャンスにでも賭けてみよごたる!そして自分自身ん目で、この広か世界ば見てみよごたるったい!それが私の・・・ずっと抱いてきた夢やったけん!」
アレクセイは妹の熱い言葉と真剣な表情に、驚く。
普段は夢など決して語ることもなく、運命に成り行き任せなのに、今の彼女はまるで別人のように、それとはかけ離れている。ここまで彼女を本気にさせる彼の存在という存在に強く興味を惹かれると同時に、彼女に、その希望を叶えて欲しいという気持ちも不思議と強まっている。
「・・・分かった、その話が仮に本当だとして・・・」兄はようやく聞く耳を持ったが、相変わらず疑い深く、彼女に尋ねた。「お前が行こうとしてるのは、モスクワだぞ。周囲に頼る人間なんて誰もいない。いるのは、ここに住むウクライナ人とは違うロシア人。彼らに田舎者と、異民族だとバカにされても、お前は強い気持ちを持ち続けられるのか」
彼女は、押し黙る。憧れが頭の中を支配していたから、そんなことは微塵も想像もしていなかったのだ。
「生半可な覚悟なら許さない。国にその身を捧げる心意気は買うが、国家のため何かをするというのは、簡単じゃないんだ」
アレクセイの言葉には熱がこもる。軍隊で国家のため日々訓練を積んできただけに、その言葉には重みがある。
ナタリアはただ黙っていた。その境遇に耐えられるかどうかなんて、まだ微塵も分からない。
・・・実際にその場所に行かない限り、どんな世界が待っているかなんて。
「メディアや国民に向かって自分の姿をさらけ出すのは華やかなことかもしれない。だが、そうなるということは、国民や政府からの非難や文句も、全てを一身に受けなくちゃいけないということだ!」
彼の言葉はとても厳しいもので、その一言一言が彼女をひどく打ちのめす。
「その覚悟だって無いのに決断を焦って、一生を棒に振ることはない」
アレクセイは楽譜を彼女に返すこともなく立ち上がると、部屋を出て行こうと彼女に背を向けた。
「待ってよ、まだ!」ナタリアが戸口の前で彼を呼び止めた。「結局兄貴は・・・私がモスクワに行くことは、反対・・・?」
「反対に決まってる。お前はその器じゃないから」
そっけなく一言呟いたアレクセイは再び踵を返して、自分の部屋に戻っていく。またもや惨めな思いをして一人取り残された彼女は、ベッドのマットレスを思い切り拳で殴りつける。兄に一言も言い返せないことが、とても悔しかった。彼の言った言葉が全て的外れなら・・・こんな惨めな思いをしなくてもよかったのに。
カーテンの閉め忘れた窓の外に今日も広がる暗闇を茫然自失の表情で、睨み付けるように見つめた。
翌朝、彼女はいつもより早く目が覚めた。昨日の出来事が相変わらずもやもやと頭の中にあって、一向に振り払われない。そのせいか今日の彼女はいつもより早起きして、身だしなみも普段に比べてそこまで丁寧に整えないまま、家を飛び出した。
学校に到着して駐輪場に自転車を停めると、彼女の目の中にはまたもや不釣り合いなボルガが飛び込んできた。彼はもしかしてまだ自分のことを諦めきれていないのだろうか・・・?だとすると、チャンスの神様はまだ自分のことを見限っていないのかもしれない。
今もまだ昨晩のアレクセイの言葉が、彼女の脳裏には焼き付いて離れない。
負けず嫌いな彼女は希望に拳を強く握って、今日こそは絶対に覚悟を決めてやると大きく意気込んで息を吸うと、校舎の中に足を踏み入れた。
まだ人気の少ない校舎に足を踏み入れ、二階に通じる階段へと向かおうとしたところ、彼女は昨日と同じようにユリアと鉢合わせた。彼女は階段の手前の壁に寄りかかり、どこか落ち着かない様子で立っている。
「今日はやけに早いんですね?」少し驚くようにナタリアの姿を見る。「まだ三人ほどしか登校してませんから」
「・・・今日も、来てるんですか?党の人」
ナタリアが尋ねると、ユリアは黙って頷き、正面突き当たりの左を指差す。その方向にある廊下を進むと、職員室や事務室、来客室が並んでいた。
「彼は今来客室で校長とお話を。あなたに用があるとおっしゃっていましたから」
その言葉で、彼女の背筋がぴんと伸びた。
改めて兄に言われた言葉を思い出しつつ、職員室の方へとゆっくりと足を進める。昨日会ったばかりなのに彼女の足取りは緊張感に包まれていた。
突き当たりを左に曲がろうとしたところで、何気なく背後に気配を感じ取った彼女がちらりと後ろを見ると、そう遠く無い位置にユリアがいる。
「先生?」どうして、後についてきたのだろう。「玄関に立ってなくてもいいんですか?」
ユリアという英語教師は、普段から登校してくる生徒一人ひとりに朝の挨拶と小言を垂れ流す役割を担っていた。そのため生徒からの人気は薄い人物だが、熱心さと几帳面さだけは本物だった。
「あなたが登校してきたら、彼に連れてくるように言われたのよ」
彼女は少しの沈黙の後で、そのように言った。
ナタリアはそれ以上特に疑問を抱くこともなく再び視線をまっすぐ廊下に戻す。
彼女が廊下を歩き始めようと足を踏み出したその瞬間に、先ほどはまるで気づかなかったのだが、遠くの職員室の前にはスーツ姿の二人組の男が向き合って何かを話している。
彼女はその二人の姿に違和感を抱く。二人の顔ははっきりと見て取れるが、その顔に見覚えもなく雰囲気からしても、とても教師ではなさそうだから。
「あの二人・・・先生、あの二人って?」
「・・・彼らも党員です。昨日のトカレーヴィチさんの同僚だとか」
ユリアはまた少しの沈黙の後で、言った。彼女はその際にユリアの顔をじっと凝視していたが、彼女はいつもに比べてやけに視線を逸らす。
どうして視線を逸らすのだろう、普段は睨み付けるように・・・あるいは、全身に穴を開けるほど生徒や自分のことをじろじろと見てくるのに?
ナタリアの背筋にはどこか薄気味の悪い予感が鮮烈に走る。
「本当に、昨日の人?」彼女は恐る恐る、聞き返してみる。「先生、ミハイルさんは本当に来客室に?」
ユリアは疑り深い彼女にする言い訳を探している。そんな彼女の顔を横目で見て、ナタリアはようやく何かを確信するように、足を止める。
「ナタリア?どこへ」
後ずさりを始めたナタリアを、ユリアは不審に思って呼び止める。
「すみません先生・・・ちょっと、自転車の前カゴに忘れ物をしてきたのを、思い出して」
「そんなのはあとでもいいでしょう。早く・・・」
「どうして急がせるんですか?」ナタリアは、左腕を掴んできた彼女の手を強く振り払った。「変です、今日の先生・・・!」
ナタリアの声が廊下に響く。二人組のうちの片方の男がユリアとナタリアのやりとりに気づいてこちらに顔を向ける。
彼女は目の合った男の、その顔をはっきりと目に焼き付けた。
ミハイルのような穏やかな表情とはかけ離れて、冷徹な睨みを効かせている。
彼が何者であるかを考える余裕などなく、そのようなことを頭に思い浮かべる前に、彼女は真っ先にユリアを突き放して全速力で走りだした。
「待て!」
彼女の背後から、まるで怒号のような叫び声が廊下に響く。彼女の直感は正しかったらしくて、ほとんど生きた心地もしないまま狭い校舎の中を逃げ惑った。
彼女は、自分をあいつらに差し出したのだ・・・!
ナタリアは信頼していた教師に裏切られたショックに心を痛めていたが、そんなことを考える余裕もなく、今はただがむしゃらに逃げる。背後からは自分を追いかける靴音が鳴り響いていた。学校は早い時間ということもあってか人影がほとんどない。誰に取り押さえられる心配もなく、追っ手から上手く姿を隠すと、彼女はようやく一階の校舎の突き当たりにあった女子トイレに転がり込んだ。
そして息つく間もなく、今度はその狭い窓から飛び出して、外の花壇の影に身を隠した。
彼らは当然トイレの中を入念に捜索するだろうが、その隙に、彼女は花壇から花壇へと、校舎の窓から自分の姿が見えないように移っていく。そんな彼女の制服は既に土埃で薄汚れていた。
「そこで、何を?」
泪目になった彼女はぎょっとしたが、その声の主をゆっくりと見上げる。自分よりずっと活発な髪の短いタチアナと、左右の三つ編みにレースのリボンを丁寧に巻いた几帳面なオリガが、校舎の隅で朝早くから怪しい動きを繰り広げている彼女を後ろで不安げに見つめていた。
「ターニャ、リョーナ・・・今、今はちょっとさ・・・」
彼女は、かすれるような声で唇に人差し指を添える。彼女の不可解だが必死さの伝わる様子に二人は思わず顔を見合わせて、目の前の彼女にならって花壇の影に隠れるように身をかがめた。そして花壇の影から微かに頭を出し、周囲に目を配る。
「一体何、やらかしたのよ!」
タチアナが尋ねてもナタリアは青ざめるばかりで、ろくに言葉が出ない。
「ここじゃすぐバレるわ。早く向こうの茂みに。急いで!」
二人は、てっきりナタリアが教師に叱られて学校内を追いかけ回されているものだと勘違いしていたが、それでも こんな状態になったクラスメイトを放っておくことはできずに背後から覆いかぶさるようにしてナタリアを隠し、三人は校庭のはずれにあった雑木林までやってきた。
「ここならまだ時間が稼げそう」
「さあ話しなさい、ナターシャ。一体何なの?」
「・・・わ、私にも分らない、二人組に、突然追いかけられて・・・!」ナタリアは息を切らしながら答える。 「ユリア先生は党員だって言ってたけど・・・」
オリガとタチアナは、またもや顔を見合わせた。
「あなた・・・昨日も党員が、あなたに用があるって」
「違う、あの人たちは、昨日の人とは全く違う!だって、明らかに私を捕まえようとしてたんだ・・・!」
目の前の二人には、まだ昨日の出来事を少しも話していなかった。
昨日、ミハイルという男にアイドルという不可解なものになってみないかと誘われたこと・・・そして、自分がそれをすぐに断ってしまったこと。
その出来事を今二人には初めて面と向かって話した。
「えっ、ナターシャが昨日の授業で英語の曲をあの人から歌うように言われたのは、そういうことで・・・!?」
「すごいわ、大事件!どうしてせっかくの、そんな申し出を簡単に断ったりなんかしたのよ・・・あなたって人間は!」
分かってくれるのかと思いきや、驚いた二人の勘違いはますます強いものになっていた。ナタリアという人材が国にとってはどうしても必要だが、党員一人では彼女を承諾させられないから、強硬手段を取ろうと今日は二人がかりで押しかけてきたのだという支離滅裂な説が飛び出したのだ。
しかし当然、自分のことに対してさほど自信もないナタリアはそこまで自分の歌唱力を過大に評価しているはずもなく、二人の唱えた説を真っ向から否定した。
「そもそもミハイルさんが私にそんなことするわけがない・・・!」
申し出を断った時、気が変わるようなことがあれば電話をするようにと優しく言ってくれた彼のことを思い出す。彼女は今でも、そんな彼の言葉を強く信じて疑わない。
「・・・じゃあナタリアはさ、本当はどうしたいの?」オリガは聞いた。「あなたはもう、その誘いは完全に断ったつもり?」
「・・・昨日、私の優柔不断さがあの人の大事な申し出を遠ざけてしまったけど・・・昨日の夜も、私、一生懸命に考えた」
兄に厳しいことをたくさん言われたりもした。それがとても悔しかった。しかし、楽譜をもう一度見た瞬間にこみ上げてきた自由で美しい音を歌いたいという欲望は嘘偽りのないもので、きっと、この世のどんなものにも勝る。
そして、何より自分の歌声でもっと広い世界を見てみたい。自分の一生がここだけで終わるのは絶対に嫌だった。
自分の力で、この世界をもっと素晴らしいものにしたいという願いは、絶対に本物だ・・・!
「そう考えたら私はやっぱり、アイドルになりたい・・・!今日私は、そのために学校に来たのに・・・!」
なのに、どうして自分は追い回されているのか。そんな理不尽な怒りが彼女の心の奥底から沸沸と湧き上がっている。
「あ!やばいよ、あの二人、・・・?こっちに、迫ってるみたい」
校舎を見張っていたタチアナに肩を叩かれて、ナタリアは茂みからこっそり顔を覗かせる。やはり夢なんかじゃなくて、先ほどの二人の男たちが建物の影や茂みを覗き込みながら確実にこちらに迫っていた。
「これからどうするか、教えて」タチアナはナタリアの両肩に手を置く。「あなた次第。私たちがあいつらの気を引く」
ナタリアはタチアナの目を真っ直ぐに見た。そして、隣で微笑むオリガの顔も。
二人のことはきっとこの学校で、誰よりも信頼できる。
「ここから逃げても、いい?」
二人が黙って頷いたのを見て、ナタリアは感謝で胸をいっぱいにしながら、自転車が停められた校舎の脇までこっそりと走る。一瞬だけ後ろを振り向くと、二人組の男たちはさっそくタチアナとオリガに、ナタリアの行方を尋ねていた。
自転車に飛び乗った彼女は整備されているとはとても言えないボロボロのアスファルトの上を全速力で駆けた。
これからどこへ向かおう。彼女は追跡が困難になるようにわざと茂みの中を走ったり、時折どこかの家の納屋に自電車ごと隠れたりしながら、追いつかれないように必死で逃げ回った。家に逃げ帰ろうという考えがふと頭に浮かんでも、先回りされているに違いないと思ったら、すぐさまそんな思考を打ち消す。
帰りたくとも帰れないのは明らかだ。せめて何が起こったのかだけでも知りたかったが、知るすべはない。・・・いつ終わるとも知れない不安と恐怖で心が打ち砕かれそうだった。
散々走り回った挙句に彼女は自転車を乗り捨てる。今となっては徒歩で逃げ惑っていた彼女がようやくたどり着いたのは一つのバス停。
・・・そうだ、バスで逃げようか。
市街地から外れた閑散とした大きい道路に面するぽつりと佇んだ奇妙な屋根を持つ独特なデザインのバス停には、ちょうど一台のバスが停車している。
『リヴィウ行き』と表示されたバスに、彼女は何の躊躇もなく乗り込む。バスの車内は平日のこの時間でも多くの乗客に埋め尽くされている。彼女が後方のひとつ空いた座席に腰を落ち着かせると、隣にいた初老の男性客が、彼女の顔をじっと覗き込む。
「お嬢さん、学生さんか。どうしたんだい、こんな時間に」
「え、その・・・」彼女は自分が制服姿だということを完全に忘れていたので、慌てた。「リヴィウにいる親戚の病気が重篤になってしまったから、お見舞いに行こうと、していて」
「そうか、それは一大事だ。リヴィウの駅前に大きな花屋がある。あそこで花を買っていくといいだろう。この時期でも、たくさんの種類が置いてあるからね」
彼は咄嗟に吐き出した彼女の嘘を疑うことなく、むしろ親切にそんな気の利くことまで教えると、窓の外へ再び視線を落とす。
車内に設置された時計の針は十一時を指していた。
彼女は実に2時間近くも逃げてきたことを知ると突然疲れがどっと出て、そのままウトウトと眠り込んでしまった。
リヴォフは西ウクライナ最大の都市だ。ウクライナ語ではリヴィウと発音するため、近年では地図などでもウクライナ語名で併記される機会が次第に増えつつある。ソ連政府による民族懐柔政策の一環だ。
小さな町ムィコラーイウに比べても当然ながら、それは別の国にやってきたのかと錯覚するくらいに美しい建物が多く残る歴史も長い古都だが、そこではロシアの文化の影響をほとんど受けず、ウクライナ人の民族的アイデンティティが保たれてきた。
そんな案外近くても馴染みが薄い街にようやく逃げるようにして辿り着いたナタリアだったが、その運賃だけで手持ちのお金がほとんどなくなってしまったことに衝撃を受けた。持っていたわずかなルーブル紙幣はここに来る運賃だけでほとんどが消えて無くなっていたのだ。手元に残ったのはわずかなコペイカ硬貨だけ。
彼女がいくら嘆いたところで、追っ手はこの街にまでやってくる可能性は十分にある。対応策を必死で練ってみるが、こんな経験したこともない状況ではいいアイディアなど一向に浮かばなかった。・・・警察に助けを求めても、助けてくれるかどうかは分からない。党の言いなりである以上、自分を助けるふりをして突き出す可能性は十分考えられる。
旧市街の広場の傍に置かれたベンチに腰掛ける彼女は間違いなく周囲からの好奇な視線を集めている。それもそのはず、彼女は自分の街の学校の制服のまま飛び出してきたのだから。リヴィウにある学校の制服は彼女の白い前掛けのついた焦げ茶色の古いタイプの制服とはわずかにデザインが異なり、大体がもっと現代的な紺色のブレザーに更新されている。もし追っ手がこの街にやって来ようものなら、目立つ格好の自分なんてすぐ見つかってしまうに違いない。
彼女は両肩に下ろした三つ編みを解いて、さらによく目立つ白いレースの前掛けの紐を外して、それらを小さく折りたたみカバンの中に仕舞い込もうとしたが、そんな時ふと昨日彼から手渡された電話番号のメモがカバンの中に残されているままだったことを思い出した。
今こそ彼の力を借りるしか他に逃げ道はないと悟った彼女は、迷いのない足取りで近くの横一列に6台並んでいるうちの一番端にある公衆電話の前へとやって来た。
今自分がリヴィウに逃げているなんて言えば、彼は驚くだろうか・・・。
そんなことを考えながら、震える手でコペイカを投入しようとするものの、コインは上手く入らずに地面に落下した。少し焦りすぎているのか。拾い上げて入れ直す直前に一度深呼吸をして彼女はふと何気なく周囲を見渡す。その瞬間、彼女の視界には恐ろしい光景が飛び込んできて・・・先ほどから握りしめていた受話器が彼女の手を離れ、コードごと垂れ下がる。
彼女の目には数十メートル離れたところを歩く二人の男たちの姿がはっきりと焼き付く。それは恐怖心から生み出された幻覚か、何かの見間違いなのではないだろうかと目を大きく見開いて見つめるが、周囲の様子を用心深く伺っている様子から、彼らがどうも本物であることは間違いない。スーツを着替えたのか、今は目立たない地味な私服姿で自分のことを探している。彼らの顔の特徴はいくらその服装が変わろうとも、鮮明に覚えていた。
だが、どうやって、自分がここにいることを知ったのだろう・・・?
震え上がった彼女が垂れ下がった受話器を拾い上げてそっと元どおりに置くと、すぐさまその場を離れた。自分の姿が発見されるのはどうやら時間の問題らしい。
二人組は近くを歩く一人一人に、制服を着た少女がどこにいるかを尋ねて回っていた。彼らにナタリアのことを尋ねられた一人の男性はある方向を指さす。その指先には、ナタリアが先ほど座っていたベンチがある。ナタリアのいる公衆電話からそう遠くない位置だ。時々振り返りながら様子を伺っていた彼女は血相を変えてさっと顔を隠し、人混みの中に身を隠す。そして足早に旧市街を出ようと決め込んで、後ろを振り返ることもなく足元を見ながら歩き続けた。
だが、・・・ここに来て彼女の疲労感も限界に達していた。
歩き続けるうちに恐怖もその度合いを増している。徐々に歩く速度は落ちていき、彼女の頭の中では、もし自分が彼らに捕まってしまったらどのような罪状を掛けられてしまうのだろうかというような考えがぐるぐると回り始めている。もういっそのこと彼らに捕まってしまっても、大した罪になることはないだろう・・・すぐに疑いは晴れて釈放されるに違いない。
諦め掛けた彼女と追っ手との距離が徐々に近づいていこうとしたその時、彼女の右腕は、人混みから突然飛び出してきた何者かによって力強く掴み取られる。
まさかもう、・・・!?
心の準備など全くできていなかった彼女は恐れに慄いた形相で、その手の持ち主を凝視する。
「えっ・・・!」
彼女のか細い腕を強く引いたのは力強い男性の手で・・・その手の主は待ち望んだ守護神にふさわしく、大天使ミカエルの名の通り颯爽と舞い降りたミハイル・トカレフだった。
驚きのあまり目を大きく見開き、彼を見つめる。思わず歓喜の叫びを上げようとした彼女に対して、彼はただ小声で声を抑えるように言うだけ。
諦めかけてもつれかかっていた彼女の足は、彼にやや強引に手を引っ張られるだけでも不思議なことに少しずつ元気を取り戻していく。だが決して自分から彼に電話を掛けたわけでもなかったのに、どうして自分の居場所も、自分が今窮地に陥っていることもすぐに分かったのだろう?
怪しげな二人組に追い回されている理由もまだ何一つとして分からないが、しかし今は何も考えられない。ただ嬉しくて安堵して、目にはまた涙が滲んでいく。・・・ずっと、まだ手を離さないでいて欲しかった。
彼は土地勘があるのか、慣れた足取りで迷路のような街路を進んでいく。そんな彼は昨日のようにスーツ姿ではなく、そこら中にいるソ連人男性のような私服姿だから、制服姿の彼女とは違って周囲に溶け込んでおり、まるで目立たない。
それを利用してか時折彼が彼女の背中に覆いかぶさるように街角のショーウィンドウなどに張り付いては追跡の目を何度も欺く。
追っ手の姿がようやく見えなくなるとナタリアはミハイルに手を引かれるまま、ようやく近くの細い路地裏に転がり込んだ。
人気のない路地裏にやって来ると、ナタリアはこれまでずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと千切れるように、その場にしゃがみ込む。緊張と恐怖心で、彼女は息を荒くしていた。
「・・・あの人たち、一体何者なんですか・・・?」
どんなに疲労で心身共に疲れ果てていたとしても、彼女はミハイルの横顔を見上げて、今最も聞きたくて堪らなかった言葉を投げた。それまで彼女のすぐ隣に黙って立っていた彼は彼女を安心させるようにしゃがみこむと、申し訳なさそうな表情を見せた。
「どうやら余計なことに君を巻き込んでしまった・・・今の僕らには、国家反逆罪で逮捕状が出ている」
国家反逆罪というあまりにも聞き馴染みのない罪状が告げられると、途端に彼女の頭の中はたちまち真っ白になる。あまりにも心当たりがなかった。それ以上のことは何一つ考えられなくて・・・驚きとショックで言葉を失くした彼女を少しでも安心させようとその微かに震える彼女の背中にミハイルは優しくそっと手を置いたが、彼女はそんな彼の手も、すぐに振り払った。
「・・・やっぱりミハイルさんは、アメリカのスパイなんですか?」
言葉が堰を切ったように溢れてきた。彼女の中であらゆる疑念が確信に変わる。今朝から今までずっと溜め込んできたどうしようもない不安や恐怖が、安堵が訪れた瞬間に突然、怒りに変わっていくのだ。
「そうとしか思えんもん、だって普通ん人が、私のいる場所ば突き止めて来れるはずなんかなかとです!きっとこん街にもどこかに仲間がおるったい、私のこと、ずっと監視しとったんや・・・私に、夢や希望ば与えときながら結局は、私を誘拐して共犯者に・・・スパイに仕立て上げようとしとったんですね!」
ミハイルは彼女をじっと見つめたままで、何も答えない。
「なして、何も言うてくれんのですか!?」
こんなにも信じていたのだから、裏切られたと思うほどにナタリアの目には涙が溢れる。
「私、ミハイルさんからの真剣なスカウト、本当はとってもとっても嬉しかったばい・・・!だって、夢やったんやけん・・・世界や、ソビエトば、こん目で見ろごたると、どれだけ願うたか!」
ミハイルの表情は、不気味なほど動かない。彼は一体何を考えているのだろうか、まるで人形のように動かない表情を前にして、ナタリアの言葉には、ますます強い感情がこもっていく。
「・・・結局、昨日はあぎゃんこつ言うて断ってしもうたけど、ばってん、改めて自分ん頭でよう考えてみたんばい・・・何度も思い悩んでみたんばい!そしたらやっぱり私は、そん、アイドルってものになろごたる、・・・なってみたいんです!・・・ミハイルさん、ばってん、昨日ミハイルさんがかけてくれた言葉は、すらごつやったんと・・・(嘘だったんですか)?」
ミハイルはまだ何も、答えてくれない。
「いい加減、答えてください!私はただ、夢ば、願うただけです!一体何ばしたっていうとですか!?」
ふと、・・彼女は、彼がいつの間にか自分以外に視線を向けていることを察した。ゆっくりと、それまでナタリアの背中に差し出していた手を引っ込めたかと思うと、その代わり、ジャケットの内側から突然拳銃を引き抜く。
青黒く光る金属の光沢・・・彼が名乗る名字と同じ銃、トカレフだ。
ソビエト製拳銃らしい無骨で飾り気のない特徴を持つ、手袋の上からでも十分握りやすい大きめな銃は彼の右手に綺麗に収まっていて、彼ほどこの銃を上手く扱える人間はいないのだと、主張する。
「君のその言葉を待っていたよ」
彼女の口元は紫色に染まって震え、今となっては言葉もろくに発することができない。彼女の瞳には天使の姿などなくて、今はようやく正体を現した悪魔の姿だけが映り込む。
「私を、撃つんですか・・・」
ミハイルは何も言わず、黙ったまま。
・・・私はここで死んでしまうのか・・・?
夢を叶えられないまま。ソ連という国の現実を何一つとして知らされないまま、叶うはずのない夢を見たことを後悔して、絶望したまま死ぬことを悔しがりながら、彼女は感情を押し殺したように静かに俯いた。
そして一発の銃声が路地裏に響き渡る。
銃から排出された熱い薬莢が彼女の頰にぴたりと触れて、それはカラン、と綺麗な音を立てて彼女のすぐ横の地面へと落ちる。死への覚悟を決めていた彼女はただ額に伝う一滴の汗だけを感じていた。
ところが痛みらしい痛みだけは何も感じなかった。不思議に思って、ゆっくりと固く閉じていた瞳を開いていく・・・だが次の瞬間に、彼女の身体には突然宙へ舞うような感覚が襲いかかった。
「えっ・・・!?」
勢いよくその場から彼女の腕を掴みながら立ち上がる彼はナタリアの左腕を脇から抱え上げ、背後に引き寄せる。そしてさらに数発を発砲した。一体何に向かって・・・彼女が街路の先をじっと見つめると、何かが転がっているように見えた。しかしそれはものではなく、地面に倒れ込んだ人間の頭部だったのだ。それが人であることを知ると彼女はぎょっとして、ミハイルが何のために目の前で拳銃を撃ったのかを確信する。おまけに、それが誰かと思えば自分のことを追い回していたあの連中の一人なのだ・・・!
石畳の細い街路は緩やかにカーブしていて、立っていた相手の位置はこの位置から見れば死角だったはずなのに、何故ミハイルは彼を撃つことができたのだろうか・・・彼女はあまりに突然の展開に置き去りにされて、またもや呆然としていたが、今度は突然近くのレンガの壁の一部が弾け飛び、細かい破片が宙を舞う。
彼女には現在の状況を考える余裕などなく、残されたもう一人が盛んに応戦して路地裏では銃撃戦が展開される。彼女はしきりに飛び交う弾が当たらないよう、またもや酷く怯えながらも懸命に頭を低くかがめることに専念した。
弾切れになるまで撃ち終えるとミハイルはナタリアの脇を抱えて再び走り出す。
彼女の心臓は、また新たに訪れた死への恐怖でバクバクと高鳴っている・・・こんなにも生きた心地がしないのは生まれて初めてのことだった。
「僕らの計画を事前に察知して、それを叩き潰そうとしている改革反対派の、凝り固まった保守派の手下だ」
ミハイルは時折後ろを確認しながら慣れた手つきでポケットから新たに弾の込められたマガジンを取り出してトカレフに装填する。ようやく冷静さを取り戻していたナタリアは、今は必死にミハイルの腕にしがみついて離さない。
「・・・僕らは絶対に無実だ。それを証明してみせる」
こんな状況の今だって、彼のことを完全に信用しているわけではなかったが、たとえその確信がなくとも彼のことを誰よりも信用したいという気持ちから、彼女はしがみつくその腕の力をより強めることで、返した。
「君の名前は、ナタリア・リヴィウスカヤだね」
周囲では銃声を聞きつけた警察のパトカーのサイレンが鳴り響いている。二人は、石畳の街路を走り続けていた。今更になって何故そのようなことを言うのだろうと不思議に思いつつ彼の横顔をまじまじと見つめるナタリアに、彼は呟く。
「君の先祖は、この街に愛着を持っていたはずだ。ウクライナ人にとって誇りの詰まった名字だろう」
それは今まで殆ど意にも介さないことだったが、確かにこの街の名前リヴィウは、自分の名字の中にはっきりと刻まれていた。それは大して特別なことでもないと思っていたのだが、美しいこの街の景観を眺めた時・・・非常に特別なことであると同時に嬉しいと思えた瞬間、彼女の中でのウクライナに対する思いが、ますますと強まっていくのを感じていく。
二人が狭い路地を抜けると、そこで視界が一気に開けて、大きな広場に躍り出た。だが待ち構えていたかのように、すぐさま広場に通じるあらゆる路地から複数人の警官たちが銃を構えながら慎重に近寄る。そして、あっという間に二人を取り囲む。
「銃を捨てて、両手を頭の後ろに」
5人の警官は銃で威嚇しながら徐々に歩み寄り、二人との距離を縮めた。
「ミハイルさん・・・」
隣にいる不安げな彼女に、彼は少しだけ微笑むと全く抵抗する素振りも見せず、手にした銃から弾倉を引き抜いて、地面へと放り投げた。
「トカレフ!」広場に一人の男が突然駆け込んできたかと思うと、ミハイルは思い切り殴りつけられ、そのまま力なく地面に倒れこんだ。
「とんでもないことをしてくれたようだな」男は倒れたミハイルの腕を背中に回して、その頭に靴底を押し付ける。「お前、よくも、俺の相棒を!」
「だから跳弾で狙ったんだ、少しはマシだろう。彼の怪我の具合いはどうかな?」
ミハイルは落ち着き払った声で言った。
「そこまでだ、何者か知らんが勝手な真似は許さん!離れろ!」
感情的になって、目の前に立ち尽くしていたナタリアにも殴りかかろうとしていた男を、警官が銃を向けて静止する。
「なんだと?ふざけるな、ここはお前たちの管轄ではない。我々KGBの仕事だ!」
男は、その警官にまで鋭く牙を剥いた。相手がKGBの人間だと言うことがわかると、周囲の警官たちは皆銃を下ろし、一歩後方へと下がっていく。
「やはりKGBかい。誰の指示で?」
地面に伏せたまま、ミハイルは頭上の男を睨みつけた。
「黙れ、お前たちはこれから我々が尋問する。あれに乗せろ」
男は周囲の警官たちに協力を求め、ナタリアとミハイルを待機させていた護送車に詰め込む。その間ナタリアは一言も言葉を発することはなく、彼らの指示にも大人しく従っていた。
格子窓がはめ込まれた護送車の中で、二人は向かい合わせに座らせられる。ナタリアが今にも涙が溢れそうになるのを懸命に堪えていると、目の前にいるミハイルは口元に血をにじませながらも、彼女を安心させるかのような微笑を口元に浮かべていた。
◇
彼女たちはリヴィウの旧市街から少し外れた郊外のロンスキー刑務所に移送された。
外観は、それだけでは刑務所とは分からないほど景色に溶け込んだ昔ながらの洋風建築だが、そんな建物の内部は酷く無機質で所々緑色の壁の塗装が剥がれ落ち、補修が行き届いていないのかコンクリートの鉄骨が剥き出しになっていて、まるで廃墟のような趣まである。
長い廊下の先にいくつもの金属の分厚い扉に閉ざされた独房が並んでおり、そのあちこちからドアの軋む音と、看守の叫ぶ声が響き渡る。
彼女たちはまさにそんな場所で勾留されており、厳しい尋問を受けていた。
「政府や警察に対する地域住民の不審が、お前とあの小娘のせいで大きく強まっている。これに、どう責任を取る!?」
一階の取調室にいたミハイルは椅子に両手を縛られた状態で襟首を掴まれ、大きな罵声を浴びせられていた。今彼を尋問しているのはリヴィウ地区共産党の第一書記セルゲイ・ガシチャフであった。
中年小太りで、大酒飲み特有の人相の悪い顔つきである彼は、部下を怒鳴るためだけに支部長を務めているような男だったが、モスクワのクレムリンからようやく長年の連邦と党に対する献身的な貢献が認められ、数週間もすればウクライナ共和国の首都であるキエフの地区共産党の副書記の座が待っている。
「罪状を教えてやる。いいか?国家転覆罪に国家侮辱罪、警官に対する反抗罪。他にもある。何にせよ共産主義の崇高たる理念を汚した、お前の罪は重い!」
ガシチャフはひどく苛立っていた。
昨晩、同じナタリアという名前だけで、ムィコラーイウ村の数件違いの家に住む“ナタリア・ニコラエヴナ・マリノフスカヤ”という、自分たちの追っていた人物とは全く無関係の少女をよく調べもせずに逮捕・拷問してしまったことが、それを命じたリヴィウ地区共産党内での責任問題に発展していたのだ。
彼は自身のキーイウ行きが怪しくなることを強く恐れており、全ての証拠を隠蔽して中央政府にこの一件に関する報告を避けようと考えていた。
とりわけ反ロシアの気風の根強い西ウクライナで、ロシア人や党の信頼を損ねる行為はその地域の民族的な独立運動の機運を高める恐れがあり、タブー視されていたのだから。
「なぜ文化省の役人如きが、このような銃を振り回す?」
彼はミハイルから押収した愛銃のトカレフを面白半分に眺めていた。通常拳銃のグリップは金属板か木製、あるいはベークライト製だったが、彼のトカレフのグリップは非常に稀なことに琥珀を贅沢に使用していた。そもそもトカレフはもはや古い銃で、安全装置も無ければ懐に仕舞い込むにも、大きさからして嵩張ってしまう。少なくとも彼のような役人が隠し持つようなものではない。
「お前は何者だ?一体何の権限があって、こんなことをしているんだ」
地方政治家の自分よりキャリアが上の人間を罵ることは、彼にとってこの上のない娯楽の一つだった。
「このような取り調べは無意味だ。僕は別の部署から明確な指示を受けているのだから」
「まだ痛みが足りないか、ど変態が!」
嘲るように笑うと、ミハイルの座る椅子の脚は蹴飛ばされ、彼は冷たいコンクリートの床に両腕を縛られたまま倒れ込む。
「お前には党本部から逮捕状が出ているのに、何が別の部署だ?党は、この国に、一つしか存在しない」
「ソビエト共産党が一枚岩だと思っているのなら、君はよほどの田舎者だ。国政というものをまるで理解していない・・・そんな愚か者の男が、今度はキエフ共産党の副書記とはね、人事会議もいよいよ末期だ。国が衰退するわけだよ」
咳き込みながら、ミハイルは吐き捨てるように言った。怒りに沸き立つガシチャフがそんな彼の脇腹をさらに思い切り蹴りつけると、彼は大きく咳き込んで、黒々とした血を吐き出す。
そもそも何故彼が、自分に次期キエフ第二書記の座が舞い込んだことを知っているのだろうか。ガシチャフにとって彼の存在の全てが腹立たしく思えた。
「くそったれ・・・じゃあ聞くが、お前は一体誰の指令を受けて、ここに来たというのだ!」
「・・・ゴルバチョフだ」
その言葉に、尋問室にいた党員や KGBの職員たち全員が顔を見合わせて面白可笑しく笑い声を上げる。
「党ナンバー2とも目されている政治局員のゴルビーが、君のような政治家でもない役人ごときに一体何を命じたというのだ!?」
ガシチャフは椅子ごと倒されたミハイルの髪の毛を掴みあげて、再び床に向かって突き放す。だが、それでもミハイルは一向に態度を改める気配はない。
「・・・信じないのなら構わない。君のようにあちこちをたらい回しにされている地方党員とは立場が違うということを分らせてやる。僕にはゴルバチョフ書記だけでなくチェルネンコ最高書記長とも面会する権限があるんだ、少しは敬意を示せ!」
「ふん、馬鹿げたハッタリを抜かすな。私を侮辱するつもりか知らんが・・・!こっちだって、貴様に命というものの有り難みを分らせてやるとも!」
彼の顔は瞬く間に紅潮し、腰にかけられたホルスターに手をかけた。そのままマカロフ拳銃を引き出し、倒れた彼のこめかみに押し当てる。
「同志ガシチャフ、処刑の許可は降りていない」
そばにいたKGB職員の男が、怒りで暴走する彼の腕を掴んだ。
「ギャンギャン喚くKGBの犬どもめ!お前たちまで、この私の邪魔をするつもりか?」
セルゲイ・ガシチャフはもともとロシア南部の工業地帯出身だった。これまで党に人生を捧げてきた強い自覚があったが、40を過ぎた今でも自分のルーツとは全く無関係な辺境の地で勤務させられていることを腹立たしく感じていたのだ。
目の前に立ちはだかる同年代のミハイルがすでに党の信頼を勝ち得て、役人上がりで中央委員会に選出される可能性もあるエリート街道をまっすぐ突き進んでいる事実を知れば知るほど、彼に対しての個人的な妬みは強まっていく。
冷静さを取り戻したガシチャフは固く握られていた拳銃をようやくホルスターに仕舞い込んで、大きく息をつく。床に倒れ込んだままのミハイルを引きずり起こしてようやく椅子に座らせた彼の顔は、血が上るあまり、真っ赤になっていた。
「お前を逮捕せよという命令がクレムリンから直々に下った、お前は別の部署の指示だというが、じゃあ、こいつをどう説明できる?」
ガシチャフが要求すると部下が彼にファイルを手渡す。ガシチャフは、ミハイルの周囲をゆっくり歩きつつ見せびらかすようにその命令書を読み上げる。
「『文化省に属する党員ミハイル・トカレフがウクライナ西部で国家に対する扇動行為を働く恐れがあり、政治局はこの不穏な動きに懸念を抱いている。一刻も早い解決策が望まれる・・・直ちに彼を拘束し、その企みを暴け。』命令書には、このように書かれている!」
ガシチャフは彼に罪を認めさせるためか、椅子に縛り付けられたミハイルの顔にその命令書を押し付けるように見せた。
だが、ミハイルは敵意をむき出しにして言い返した。
「・・・文末の、KGB議長のサインに違和感がある。チェブリコフ議長のサインは以前にも目にしたことはあるが、その筆跡は明らかに違う。そんなにも読めない筆記体を彼が書くものか。彼は確かに改革派を忌み嫌う頭の固い人間だが、几帳面だ。何事にも杜撰な君とは違ってね」
そんなミハイルの指摘は、この命令がKGBの議長、すなわちトップによって命じられたものではなく、KGBの一部の幹部の暴走によるものだという指摘でもあった。
「私が捏造したとでも!?どこにそんな証拠が・・・!」
ガシチャフは又しても彼を椅子ごと後ろに向かって押し倒した。だが、ミハイルは頑なに抵抗を続けた。職員たちは彼の身分が党によって保証されているだけに、思い切った拷問を用いての自白強要手段をとることができないことに苛立っていた。彼が冤罪である可能性も捨てきれない以上、誰も責任は取りたくない。
だが、先ほどから答えを何一つ変えない彼に対して、同じ尋問室にいる職員たちの中には当然、違和感を抱き始める者もいた。
「彼の言うことが本当なら、一度ゴルバチョフ書記に確認を取った方が良いのではないか。もし彼の命令で動いているとすれば、これは重大な問題になる」
一人の職員がようやくガシチャフに提言する。だが、ガシチャフは今にも彼を突き飛ばしかねない勢いで威嚇するように詰め寄った。
「君は党ばかりか、自身の所属する組織のトップの方針に対してもそのような疑念を抱くのか?」
その一言に、誰も言葉を返さない。
「残念だが、その必要はない。ゴルビーはご多忙だから、お手を煩わせるようなことがあってはならない!」
ガシチャフはそのように言い切るが、実のところ彼のような地方の下級官吏にはゴルバチョフと直接コンタクトを取るだけの権限など無かったのだ。何のアポイントもなくソビエトのナンバー2と電話でコンタクトが取れるというミハイル・トカレフの目前で、それは許容しがたい屈辱であった。
古ぼけた電球の明かりだけが煌々と照らす薄暗い地下の廊下を、ナタリアは両脇を二人の警官にがっしりと掴まれながら進んでいた。
その廊下には三人分の靴の音だけが響いている。次に連れていかれるのはどんな部屋だろうか。先ほどまでの小部屋では執拗な尋問が行われ、怖い顔の捜査官と向かい合い、狭くて粗末な机の上で眩しい照明を何度も顔に当てられた。
だがナタリアは、そのような威圧的な尋問に対して必死に抵抗していた。国家反逆罪なんて罪状をかけられても納得できない以上、認めるわけにはいかなかった。ソビエト連邦を良くしようというミハイルの思想に共感しただけなのに・・・他にも洋楽を歌ったり、聴いたりしたことも罪状として追及される。確かにそれは事実だが、一体そのことの何が悪いというのか。
度重なる尋問で、すでに憔悴しきっていた彼女はいよいよ長い廊下の奥に差し掛かる。周囲の檻からは、自分と同じ運命を辿ったのか様々な罪状をかけられて拘束された人々の喚き声が微かに聞こえてくるような気がした。廊下に並ぶそれぞれの囚人部屋の覗き窓は外からしか開けられず、彼女がこの廊下を歩いていることなんか、きっと誰も知らない。
奥から三番目の部屋の前で、ようやく立ち止まった。警官が部屋の重い金属の扉をゆっくり開くと、軋んだ音を立てる。彼女は警官に押し込められるようにして部屋に通されるが、その暗い独房の中に彼女は別の人影を発見して、思わずぎょっとする。そして、今までこらえていた恐怖心が一気に噴き出した。
「離して!家に帰してよ!」
「大人しくしていろ、田舎者の小娘が」
「あんただって・・・あんただって、私と同じ田舎者たい!」ナタリアは廊下全体に響くような叫び声をあげる「私と同じウクライナ人のくせに、こんな理不尽なことして、ロシア人の言いなりになるなんて、恥ずかしゅうなかと!?あんたんロシア語だってね、自分じゃ完璧やて思うとるやろうけど、十分、なまっとる!!!」
地下室は静寂に包まれた。禁句だったのか、恐ろしい表情をした警官が左右から睨んでいた。彼らは拳銃も警棒も持っていて、逆らえばいつだって殺されるのだ。彼女はようやく少し冷静になって黙り込むと、ゆっくりと目をそらし、俯く。
「わ、悪かった・・・です、ほんなこつ・・・」
権力に逆らえない自分という存在はなんと惨めで、情けないのだろうか。悔し涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえるように唇を噛んだ無抵抗の彼女は、先ほどよりも激しく背中を押され、その目の前の小部屋に押し込まれた。
独房には扉の方から見て左右の壁際に二つの硬いベッドが置かれていた。独房の先客は、そのうち右の方のベッドに腰掛けてこちらを不安げに見つめている。悔し涙を流したナタリアは袖口でその涙を拭うと、黙って左側のベッドに上がり、両膝を抱えて座って、落ち込んだように顔を俯かせた。
しばらくしてから、ナタリアはハッとしたように顔をあげる。目の前の少女はこちらに向かい合うように腰掛けて、ナタリアのことを心配そうに見つめていた。
「どうして、あんたはこんなところにいると・・・?」
「私がナタリアという名前だから・・・。国家反逆罪らしくて」
ナタリアは、そんな彼女の言葉に背筋が凍りつきそうになる。
「名前だけ・・・?そんな、他に何かやったんじゃなくて・・・?」
「いいえ。他には、何の心当たりもないわ。私の名前は、ナタリア・ニコラエヴナ・マリノフスカヤ・・・」
「私も、ナタリア、なの・・・ナタリア・ニコラエヴナ・・・」
力なく呟いた。
目の前にいるのは、もう一人のナタリアだ。同じ名前の人間などここにはいくらでもいるが、父称まで一緒なのはある程度絞られる。ソ連では日常的に姓を省略して名前と父称だけを名乗ることも多いくらいだから、きっとどこかで間違いが生じてしまったのだろう。
全部の事情はなかなか呑み込めるものではないが、もう一人、今回の件とは全く無関係の人間が囚われてしまったという現実だけは確かなものだ。
彼女は溢れてきた涙を止めず、頰を濡らす。
自分を責めて、悔やんだ。華奢な少女は突如訳もわからぬまま真夜中に連行され、尋問され、拷問され・・・もう一人のナタリア、自分という存在が判明するまで、このような暴力を当たり前のように振るわれたのだ。
彼女自身、どんな悪いことをしたのかも全く分かっていないのに。
「どうして泣いているんですか?」
もう一人のナタリアは困ったように首をかしげる。
「だって私は、あなたみたいにボロボロじゃないから・・・」
本当はボロボロになるべきは自分のはずなのに、と一瞬思ったが、彼女と同様に、自分だって何も悪くないはずなのに、それも何かが違う気がした。
だから彼女は、この全てはロシア人のせいなのだと決めつける。自分たちをこんな目に遭わせるロシア人が・・・彼女は許せない。
ミハイルの言っていた言葉がまたもや呼び起こされる。ソビエトの悪い腫瘍・・・きっとこれも、その一つなのかと思い知った。
すっかり日も暮れた外では小雨が降り始め、気温は瞬く間に下がり、吐く息も白くなる。軍服の上から着古してシワだらけの革コートを羽織った男とその部下が雨に濡れながら黒光りする車を降りた時、ロンスキー刑務所の裏手口の前では数人の警備兵が敬礼をもって彼らを迎えた。
やや遅れるようにして、建物の中からは様子を見計らって慌ただしく出てきた職員たちも満面の笑みで彼を迎える。皆、彼の到着を心待ちにしていたのだ。
「よく来てくれた、同志クルニコフ、わざわざこのような辺境に!」
「挨拶は結構。それより、ここに国家反逆罪を働いた人間がいるそうだな」
「その通りだ」ガシチャフは胸を張って自信げに答えた。「“党中央政治局の命令通り”、素早く実行した」
「いいだろう。彼のもとへ通してくれ」
自らの手柄を誇らしげに自慢するガシチャフにほとんど興味を示さずにその真横を素通りする。
現在、党政治局員候補の座にあるアレクサンドル・クルニコフという名の男はどこか急ぎ足で、他の職員も置き去りにしたまま部下二名を伴って建物の中に入っていく。
狭くて息が詰まりそうな尋問室の閉塞された空間に足を踏み入れた彼が真っ先に目にしたのは、部屋の真ん中に置かれたパイプ椅子と、そこに両手を縛られた状態で座らせられていたミハイルの姿だった。彼の頰や手首は青紫色に腫れていて、拷問の跡は明らかだ。
「古風な尋問かね。あまり良い趣味とは言えないな」
「しかし、こいつがあまりにも国家を侮辱するような口を叩き続けるもので・・・」
アレクサンドルはそんな彼の弁明に耳を貸すこともなく、まるで昔馴染みでもあるかのようにミハイルの目を近くでまじまじと見つめて、にやりと笑う。ミハイルもまたそんな彼に余裕そうな笑みを返した。
「君は今の自分の置かれている立場がどういうものか、分かるか。反逆者だな」
ミハイルはその言葉に首を横に振った。
「党員である以上、僕は常に国家のために動く。叛逆なんて、もってのほかだ」
「だが私はソビエトの最高意志決定機関、政治局に最も近い人間だ。党の意向は、当然私の意向でもある。断言できる証拠はどこにある?私が違うと否定すれば君の罪状は確定するが」
ミハイルは真っ直ぐに、アレクサンドルに視線を注ぎ続け、決して目を逸らさない。
「君の目を見ていれば分かるよ、僕に罪がないことは」
「黙れ!身分の立場を弁えろ!」
ミハイルのそんな態度に憤ったのは、むしろそばに控えていたガシチャフだ。政治局員の来訪直前に少しでも自分たちの尋問の成果を見せつけておきたかっただけに、彼はまたもやプライドを傷つけられる格好となる。
党への忠誠を少しでもアピールしようと彼がミハイルに殴りかかろうとすると、アレクサンドルの部下がそれを制止した。
「君らしい、権威には動じない態度だ。政治との繋がりが深い外務省ならまだしも文化省の役人でありながら、次期中央委員会の人事会議に度々名前が上がるだけのことはある。クレムリンの人間は皆、それだけ君に関心があるのだ」アレクサンドルは周囲の喧騒など御構いなく、ミハイルに続けた。「だがね、君が今から実行しようとしていた計画というのは非常に荒唐無稽だ。政治局内でも悪い噂が尽きない」
彼は一体どこでそれを入手したのか、書類カバンから一つの資料を取り出した。ミハイルの計画を詳細に記述した文書だ。その文面を覗き込もうと建物内の職員たちは興味深そうに各々首を伸ばす。
「とても興味深い。ソ連のことを君なりに一生懸命考えた計画だろう。だがしかし、これじゃあ反逆罪だと言われても仕方がない。あまりに君のアイディアは資本主義的なんだ。我が国で受け入れられるはずもなかろう」
アレクサンドルの言葉に、周囲の人間も同調するかのように声をあげて笑い、張り詰めていたその場の空気も一瞬だけ和んだ。
「とりあえず聞くがね・・・君にとって、成功の見込みはどれほどのものかね?」
「やることに意味があるんだ」ミハイルは一切の間を置かないで迷わず言い放った。「成功か否かは関係ない。失敗しても、彼女の行動が第二、第三のナタリアを生み出していく。何年かかるか分らない。だがきっと最終的には、これがソ連を変える大きな原動力となる。改革(ペレストロイカ)は、必ず成し遂げられるだろう」
アレクサンドルとミハイルは、互いにどのような意図を持っているのか睨み付けるような視線を互いにぶつけ合いながら黙り込む。しばらくしてアレクサンドルが腰のホルスターからゆっくりと拳銃を引き出したのを見るなり、側に立っていたガシチャフたちは、口元に勝利を確信するような微笑を浮かべた。
「今この瞬間に、叛逆者が誰か分かったよ」アレクサンドルは拳銃のスライドを引きながら、宣言した。「ソビエトの改革を阻止しようと動く人間たちこそ、国家の、唯一無二の敵である」
その場にいた共産党支部の役人たちは、その言葉で顔を見合わせる。一呼吸置いた後で、彼らは一斉に悲鳴のような声をあげた。
「同志ミハイル・トカレフは政治局の信任を受け、この計画に従事していた。ところが党内部の改革に強く反発する保守強硬派の過激な一部の人間が、それを妨害すべく、諸君らに偽りの命令書を送付し、トカレフを拘束するように仕向けたのだ!」
アレクサンドルは天井に向けて発砲した。それを合図に軍服姿の彼の部下二人がすかさずマカロフを腰のホルスターから引き抜き、直近に立っていたセルゲイを固いコンクリートの床に押さえつける。
その場にいた職員たちも突然の剣幕に呆気にとられたが、慌てて銃を引き抜くとアレクサンドルと部下、そしてミハイルに、やや遅れて銃口を向けた。
「諸君、今すぐ銃を置け。誰だって反逆者にはなりたくなかろう」
アレクサンドルは、地下室によく響く声で叫ぶ。職員たちはいずれも困惑した表情で硬く銃を握りしめたまま、それらしい答えを口に出せる者は一人もいない。
アレクサンドルはしゃがみこんでセルゲイの耳元に囁く。
「この分からず屋どもに君から命令してやってくれないか。身の程知らずで君と同様に頭の固い連中だが、君の命令なら聞くはずだ」
「わ、私は、党の命令に忠実に従ったまでで・・・っ!罰せられるのは私じゃない、虚偽の命令書を送付した連中にこそ非があるだろう!」
「確かに一理ある。そっちはおまけだ。本当の罪は別だ」
「な、なんだ・・・」
「ナタリア・マリノフスカヤという無関係な少女の逮捕・拷問だよ。ウクライナ人とロシア人の関係悪化の懸念材料だ。まさかこのことを、民族紛争の火消しに常に神経質なクレムリンが黙っているとでも?」
すると、ガシチャフの顔は見るからに青ざめる。
「なぜ、そのことを・・・!?」
「まさか隠し切れるとでも?あまり我々中央の人間を見くびるな。党もKGBも一枚岩ではないんだ。君たちの情報は全て筒抜けだよ」
彼は言葉の中に、内部告発者の存在を匂わせる。
「君のキエフ行きは、ソビエト最高会議の決定を待たずとも見送られる。明日からは数年間、閉鎖都市の労働キャンプで働いてもらう」
「まっ・・・待て、私は・・・頼む、そんな馬鹿なことは・・・」
「君に恩赦を与えるのは私の役割じゃない。だが、今君がここにいる彼らを説得すれば、君の弁護を、上に依頼してやらないこともないが・・・」
「わ、分かった!おい、聞こえたな!?皆、銃を降ろせ!今すぐに!」
アレクサンドルの目論見通り、部屋にいた共産党員たちは皆渋々と銃を下ろし、それを部屋の隅に置かれたテーブルの一箇所に積み重ねる。
「助かったよ、サーシャ」
部屋にいたガシチャフやKGBの職員たちは皆両手を頭の後ろに上げたまま全員部屋から連れ出され、部屋にはミハイルとアレクサンドルだけが残った。
「気にするな、長い付き合いだからな。私とて不正は許せん。それに、私の娘も早く君に会いたがっているのだ。君がこんな場所で、くだらん罪にかけられたら困るよ」
アレクサンドルは、慣れた手つきで彼の腕を縛っていた紐を切り落とす。そして、ミハイルに、先ほど押収されていたトカレフの入ったホルスターを渡した。
「まだこんな銃を?」
「知り合いから譲り受けたものだから、簡単には手放せない。ありがとう」
「・・・そうだな、君の名字の銃だ。大事にしたまえ」
服の内側に仕舞い込まれるように、ホルスターの紐を肩から引っ掛ける。
「事後処理は我々に任せろ。君は、あのお嬢さんを早く迎えに行くんだ」
自由の身となった彼はアレクサンドルに重ねて感謝したのち、やや身体をよろめかせながらも椅子から立ち上がると、その足で地下牢へと続く階段に向かった。
ミハイルが独房のドアの鍵穴に鍵を差し込んだ時、一瞬だけ、その手を止める。分厚い金属の覗き窓を微かに開いて中の様子を覗き込むと、二人のナタリアが、マットレスのない金網のような二つのベッドの上で互いに黙り込んで座っている様子が、彼の目に飛び込んできた。・・・少女たちをこのような過酷な目に遭わせてしまった罪悪感が、改めて、彼の胸をひどく突き刺す。
鍵を回し切って重い扉が軋む音を立ててゆっくりと開いた。すると二人の恐怖に淀んだ目がこちらに向く。だが、戸口に立っているミハイルの姿を見るなり、彼女たちの目は驚きで大きく見開かれた。
「ミハイルさん・・・!?どうして、ここまでボロボロの身体になって・・・!?」
独房に閉じ込められていたナタリア・リヴォフスカヤは彼の痣だらけの風貌に酷く衝撃を受けて、恐る恐る立ち上がった。
「すまない、また、遅くなったかな」
「どうして謝るんですか!?私の方こそ・・・ミハイルさんのこと、本気で信じられなかった・・・」
涙は抑えようにも止まらない。ナタリアは迷わず駆け寄って痛々しい姿のミハイルの胸に飛び込む。自分の身体は全くの無傷なのに、自分を守ってくれた彼の身体がボロボロであることがとても耐えられない。
彼はただ黙って彼女の涙を自分のシャツに染み込ませ、震える背中を優しく撫でた。
「・・・そこにいるのは、ナタリア・マリノフスカヤかい?君もそんな暗い場所にいつまでもいないで、早くこんな場所から逃げよう」
ミハイルが言うと、ようやくもう一人のナタリアは軽く頷いて、硬い長椅子からようやく立ち上がった。
「私は家に帰ることが、できますか?」
解放されたことによる安堵感は依然として感じられない、どこまでも不安げな表情で呟いた。
「僕が必ず送り届けてあげよう。だから安心して欲しい」
ミハイルは、その言葉でようやく安堵したように笑みを浮かべた彼女の柔らかな表情に心底ほっとする一方、全く無実のそんな少女を拉致して自白を強要した、出世のためなら手段を選ばないセルゲイ・ガシチャフのような卑劣な党員やKGBに対し、非常に大きな怒りを覚える。
そして益々この国を根底から変えねばならないという決意を新たにした。
ナタリアを乗せたミハイルの運転する車は、夜の十時頃にはムィコラーイウ村に到着する。身体中傷だらけのナタリア・マリノフスカヤはひとまずリヴィウ市内の大病院に預けられて一週間ほど入院することになった。
アレクサンドルによれば今回の拉致問題の件で、セルゲイ・ガシチャフの閉鎖都市ニジニ・ノヴゴロドへの更迭、および党員資格の剥奪は免れないという。政府当局は、地域住民の間に共産党への怒りや不満が蔓延ることを恐れていたため、当然の判断であった。彼の処分はナタリア・マリノフスカヤ本人とその家族に対する謝罪として当然の結果ではあったが、それにしても一部に責任を押し付けることで事態の収束を図ろうとするソビエトの悪い体質は、結局のところ、何も変わる兆しは見えない。
「着いたよ」
車は見慣れた田舎道に停車するが、バックミラーに映り込むナタリアは硬い表情のままシートに身体を深々と埋め、まるで動き出す気配がない。
「降りないのかい?」
ミハイルが様子を伺おうと後部座席に振り返ると、彼女は勢いよく身を乗り出した。
「ミハイルさん・・・その、私の今日の決意は、本当なんですよ?」
彼女は、その真摯な双眸を運転席のミハイルにまっすぐ向ける。
彼はそんな彼女の表情を黙って受け止めた。
「今日の出来事で、決心がつきました。確かにソ連には・・・ミハイルさんの言うように、いくら隠そうとも決して覆い隠せない深い闇があるんだってことを、ようやく身を以て知ることができたんです」
知ることができたのはそればかりではない。悔しさに苛まれるように、ナタリアは自分の拳をぎゅっと握りしめる。
「それに、なんて無力なんだろうって思いました。ミハイルさんに守られた時も、独房で私と同じ名前の女の子が傷ついているのに何ひとつ励ましてあげられなかった時も・・・。いつもこんな感じです、私は自分で何かを決める意思が弱いし、すぐに行動することもできない・・・でも、それでも!まずは、そんな弱い自分ば変えたかとです。私は絶対自分自身には負けよごたなか。そして、私たちんこと田舎者呼ばわりするようなロシア人には、絶対に負けよごたなかんばい・・・!」
ナタリアは大きく息を吸い込むと、車外に聞こえるような声で叫んだ。
「どうかお願いします。こんな私を世界の人たちが羨む、強くて格好良くて、その、可愛い・・・最高のアイドルにしてください・・・!」
ミハイルは黙り込んだまま、数秒間彼女の顔を真剣に見つめる。ナタリアにとっても、それはとてお長い沈黙のように感じられたのだが、ようやくミハイルがゆっくり彼女に手を差し伸べる。
「おめでとう。今日から君はソビエトが誇るアイドルだ」
ナタリアは満面の笑みを浮かべて、ミハイルの傷だらけの手を、両手で包み込むように握りしめる。
その感触が、とても懐かしく感じられた。自分には物心ついた頃から父親という、本来なら誰にでもいるはずの存在がそばに無く、優しい彼の手をこんな風に握りしめていると、もし目の前にいる彼が自分の父親だったらどんなによかっただろうか、と思ってしまう。
「明日までに準備を済ませておいてくれ。明後日の朝一に、君は一旦リヴィウ駅からキエフ駅行きの電車に乗るんだ。それから、キエフ駅でモスクワ行きの列車に乗り換える。・・・そこまで、一人でも大丈夫かい?」
ミハイルは彼女に二枚の切符を手渡した。ナタリアは初めての一人旅に少し不安を抱きつつ、どうにかミハイルを安心させようと大きく頷いた。
それから車の外に出た彼女に対して、運転席の窓からミハイルが最後の確認にと声を掛ける。
「しばらく、君はこの場所に戻って来れない。それでも大丈夫かい?」
「はい!」ミハイルの最後の確認に対しても間髪入れることもなく、彼女は元気な返事をした。「だって私、たとえ無実とは言っても、とっくに立派な犯罪者ですもん。もう、学校には戻れない。それに、せっかく昨日まで無遅刻無欠席だったのに、ついに昨日は授業も何もかもサボっちゃったからどのみち行く意味もなくて。さよなら、皆勤賞」
笑顔でそう言い切った彼女に、ミハイルは初めて、声をあげて可笑しそうに笑う。
「よし、ナターシャ・・・素直で明るい君なら、きっとこの先も大丈夫だろう」
軽い握手を交わすと、彼の車は街灯もない田舎道を走り去った。
広く澄み渡った夜空が彼女の真上に大きく広がる。家の前でこれだけ綺麗な星空が広がっていることを、彼女はこれまで殆ど意識したこともない。大都会モスクワに向かおうとしている今になって、そのような素朴な部分で田舎が恋しくなるような錯覚に襲われてしまうが、頭に溢れ出す名残惜しさと寂しさを懸命に打ち消すと彼女はその思考を、憧れているモスクワ・・・ただひとつに集中させた。
家の玄関の前にまでやって来てドアノブに触れようとすると、ドアは勝手に開き・・・その中から、アレクセイが顔を覗かせた。
こんな時間に帰って来て、彼も家族も心配しているだろうということなど全く考えていなかったから、いきなりの兄の登場で彼女は戸惑った。
「・・・遅くなって、ごめんなさい」
その上、昨日の口喧嘩の気まずさがまだ残っていた。彼を納得させるだけの言い訳というのも、まだ完全に練られていたわけでもない。
二人の間には微妙な沈黙が流れている。
「・・・また昨日の党員か?」
アレクセイが沈黙を破るように口を開く。帰りが遅くなったのは昨日の共産党員と話し込んでいたからと思っているのだろう。それは半分正解だったから、彼女は黙って頷いた。
「結局、お前は行くのか。モスクワに」
「・・・行くって、決めたんだよ」彼女は真剣な眼差しをアレクセイに向けた。「アリョーシャが何言おうと構わない。私は絶対、私の力でこの国を変えたい」
アレクセイはいつにも増して頑固で強気な態度の彼女を見ると呆れるようにため息をつく。
それから彼は彼女の腕を少し強引に掴み引き寄せて家の中に入れると、くるりと背中を向ける。それっきり何も言わないもんかと思ったら、
「母さん、別に反対してなかったよ」
そんな突然の言葉を呟いて、真後ろのナタリアを驚かせた。
「そんな・・・兄貴は、私がモスクワに行くの、反対だったんじゃ・・・?」
それなのにどうして?
「中途半端な覚悟で行こうとしてたのを見かねて反対しただけだ。でも、昨日よりずっと真剣で決心もできたお前の目を見たら、反対したって無意味だろう。こんな時間に帰ってくるくらいだから・・・」
彼は決してナタリアの方に振り向くこともなく自分の部屋に入ろうとしていた。きっと優しい表情を湛えているに違いない。彼女は見えない彼の表情を背中だけで勝手に想像する。
たまらなく嬉しかった。普段は決して素直になれないが、今だけは、どういうわけか彼に甘えたくなっている。
「アリョーシャ・・・ありがとう、私兄貴が大好きみたい」
ナタリアは彼が自室に戻ろうとする直前に、思い切りその背中に飛びつく。無下に彼女を振り払うこともできなくて、彼はわずかに、頰を赤くしていた。
◇
二日後に、リヴィウ駅に到着したナタリアはホームに立っていた。
ありったけの荷物を詰め込んで大きく膨らんだトランクには夏用の服ばかりでなく、冬用の分厚いコートも詰め込まれている。この場所にはしばらく戻れないという現実を手元のトランクの重みを感じるたび、改めて噛みしめてしまう。
「お見送りありがとう。ここで大丈夫」
一緒にホームまで来ていたアレクセイはカーキ色の軍の制服に身を包んでいた。今日で休暇は終わり、アフガニスタンへと出発すべく軍の駐屯地に向かうため、同じようにリヴィウ駅へと来ていたのだ。そんな彼自身も重たい荷物を抱えているのに、ほとんど最後までナタリアのトランクを手放そうとはしなかった。
ホームへ降りる階段の手前でようやく彼女が自分で持つと言い切って、お節介な兄から奪い返す。
「身体にはくれぐれも気をつけろ」
「分かってる。でもそれはアリョーシャの方が・・・」最後までナタリアは、アフガンへと発つ兄のことが心配でたまらなかった。「・・・ちゃんと、生きて帰って来て」
「何だ、まだ心配してくれていたんだ」
兄は彼女をからかうように、笑う。
「だって兄貴は・・・、兄貴が生きて帰って来なかったら、お母さんだって悲しむ!」
今度はちょっと不機嫌そうに言った。
「そうだな。必ず再会できるように、とっておきのものを貸すよ」
アレクセイがカバンの中身を漁ると、謎めいた機械を取り出した。少し大きめの四角形の金属製の箱にはヘッドフォンが繋がれていた。
「貸すよ。絶対に失くすなよ、苦労して手に入れたんだから」
彼はその機械に繋がれたヘッドフォンをナタリアの耳に装着させて、電源を押した。手のひらに包まれた小さな金属の箱から流れてくる音楽に、彼女は驚きのあまり目を大きく見開いたままアレクセイを見つめた。
それは、まさしく普段ラジオで聴いているような音楽なのだ・・・!
「ウォークマン。西側では、この機械が流行ってるそうだ」
そんな兄の説明も、今はまるで耳に入らない。
「・・・これ、本当に貸してくれると!?」
彼女は興奮気味に言った。
「ああ、貸すとも。次会う時には返してくれよ」
ナタリアはその言葉が、必ず帰って来るという約束と同じ意味を持つことに気づいて、嬉しそうに頷いた。
そんな二人の会話を打ち消すように汽笛を鳴らした列車がホームに入ってくる。ナタリアはアレクセイとハグを交わして、重いトランクを両手でゆっくり持ち上げる。
「それじゃあ、また会う日まで」
彼に背中を押されながら、勢い良く列車に飛び乗った。乗車券にあらかじめ打刻されていた番号の座席に座ると、彼女は早速アレクセイから借りたウォークマンのヘッドフォンを再び耳に当てる。
その機械の使い方など全く分からないが、側面にあるボタンを押すと再び中のカセットテープは巻き直されて、さっきと同じ曲が最初から再生され始める。
不思議なことに、こうしてウォークマンを聴いていると兄と一緒にラジオを聴いた日々の思い出が鮮やかに思い出されていく。・・・彼女の胸の中に抱えていた寂しさも、今はどこかへうっすらと消えていくような気がした。
煙でぼんやりと煤けた車窓を開けて先ほどのプラットホームを見下ろすと、アレクセイがこちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。彼女はそんな兄に手を振り返し、彼の無事を祈るとともに、次はいつ帰ってこれるか分からない故郷にも、そっとお別れを告げる。
手を振りながら、次にこの場所に帰って来る時までには、さらに強い自分になろうと心の中で静かに誓うのだった。
(2章に続く)
遡ること1年前、1984年4月。
いつもと変わらない冬の寒さが残る静かな夜のこと。夕食を終えて、彼女はブラウン管テレビが煌々と光るリビングを足早に駆け出すと、自分の部屋に潜り込み、ベッドのそばまで駆け寄る。閉め忘れたカーテンを、外の様子を何気なく確かめながらゆっくりと閉め、ベッドに寝転って枕元の小さな戸棚に置かれたラジオのスイッチに手を伸ばす。
一つ一つの動作にここまで慎重になるのにはちょっとした理由があった。ダイヤルをそっと回し、昼間に聞いていた国内向けの退屈なラジオ番組の周波数をいじる。そして、最近知ったお気に入りの“秘密の”周波数に切り替える。およそ一年前に顔見知りの商店で見かけ、どうにかして譲ってもらった性能の良い西側製のラジオだから、海外からの電波を捉えることなどとてもたやすいことだった。
ラジオは甲高いノイズ音を発しながら、ようやくどこかの放送局の放送を掴む。彼女はいつものようにワクワクしながら耳を澄ませる。聞こえてくる音声は全て生の英語だ。名前も知らない司会者二人の対談らしい。
少ない授業数だが、学校の英語の授業で覚えた微かな英語力を駆使しても、彼女が放送の中身を上手く聞き取ることはできない。ただし毎回聞いているこの放送はどうやらイギリスにあるBBCという放送局のもの、ということだけはおぼろげに理解できていた。
彼女の住むソビエト連邦と、そんなイギリスという国との間には見えない巨大な壁がそびえ立っている。東西ドイツを分け隔てる物理的な壁をもとに、ヨーロッパを真二つに分断する見えない壁。かつてイギリスの首相チャーチルは、その巨大な壁を“鉄のカーテン”と表現したが、そんなカーテンが降ろされたことによって、西側にあるイギリスの文化は決してここ、東側には流入してこないはずだった。
ところがラジオという存在はとても偉大だった。人類が勝手に引いたそんな国境線を超えて、電波に乗った彼らの文化は、今やこの国に流入しつつあったのだから。
BBCのラジオ番組は司会者とゲストと思しき人物との対談を終えて、ようやく音楽を流し始める。ドラムロールの音が鳴り響き、エレキギターの音やピアノの音が美しく重なった。ベースギターの重低音が、彼女の心臓を激しくノックする。そして何と言ってもボーカルの歌い方が堪らない。・・・彼が歌うこの曲は、ここ最近の彼女にとって一番のお気に入りである。
・・・ただ、せっかくこんなにも素晴らしい楽曲と素晴らしいミュージシャンが西側には数多くいるというのに、それを誰かに話したり誰かと語り合ったりすることができないというのは、とても残念なことだ。
こんな曲を聴いていることが誰かにバレたりでもすれば、彼女のみならず、彼女の家族にも大きな危害が及ぶ可能性もあるのだから。
そんな音楽が大好きな少女ナタリア・リヴォフスカヤは、西側の音楽のみならず、西側の世界そのものに誰よりも強い憧れと好奇心を抱いていた。
ところが何故か、この途方もなく大きな国には移動の自由というものがまるで無いに等しい。国内旅行ならまだしも海外に行くとなると色々と煩雑な手続きが待っている。渡航理由を幾度となく尋ねられ、何度も役人にハンコを貰わなくちゃいけなかった。それどころか審査自体一年以上かかることもある。当然理由も告げられぬまま申請差し戻しの可能性もあるし、旅費の工面も楽なことではない。亡命対策に監視までつけられると専らの噂だった。
広大なソビエト連邦は、連邦というその名の通りいくつもの共和国によって構成された国家だが、その構成国の一つ、ウクライナ共和国の西部にあるリヴォフ州の小さな町ニコラエフに生まれ、そこで育った彼女には将来もこんな田舎の集団農場で芋掘りをする毎日が待っているに違いなかったから、いくら行きたい場所が国の内外を問わず数多くあったところで、そんなことは彼女の人生にとって殆ど関係のない話なのかもしれない。
彼女は十六歳の今だって、人生のことを少しだけ諦めている節がある。
そのような国家に決められた毎日というのは非常に平凡ではあるが、当然幸せであることも十分に理解していた。
西側の世界では貧富の格差が疫病のように蔓延していて、食べるものにも困る人々が大勢いるというのだから、世界のことを知らない彼女には驚きだった。
以前にも学校の授業でアメリカの貧しい黒人系やヒスパニック系の住むスラム街の映像を観せられたことがある。あそこまでの過酷な世界というのはソビエトに存在しないからこそ、その情景があまりに印象深く心に焼き付いていた。
だからこそ、そんな現実に比べれば全員が平等に暮らすことのできる共産主義を軸にするソビエト連邦はなんと偉大で恵まれているか・・・彼女がそのことに疑問を抱いたことはない。
だが、たとえそうだとしても・・・知りたいことは山のようにあるのに、分厚い鉄のカーテンなんかで蓋をして欲しくはない。だって今、目の前で繰り広げられるこの歌声みたいに素晴らしいものが、向こうにはもっと溢れているはずだから。自由に旅行へ行くことができないのなら、せめてラジオやテレビを通じてその世界に行った気分だけでも味わう自由があったって、いいのに。
「またそんなものを聴いてんのか、物好きめ」
聞き覚えのある声は、ナタリアを、魔法の旅から無理やり科学と労働者に彩られたソビエト連邦という現実へと連れ戻す。
「あ、アリョーシャ・・・!?」
慌ててベッドから起き上がると、ラジオの音量調整のつまみを聞こえなくなるくらい反時計回りに回して振り返る。
ランプの明かりだけの薄暗い部屋の戸口には、廊下の明かりをバックに逆光で表情がよく見えない兄アレクセイの姿がある。
「・・・もう帰ってきた、と?」
ノックくらいしてほしいという抗議の気持ちを押し殺しながら聞いた。
「長期休暇さ。じきにアフガニスタンへ行くことになるから帰ってこれるのはこれ以降、しばらくない」
襟元に曹長の階級章を付けたソ連軍の制服を身に纏うアレクセイは、部屋の中へ無神経にもズカズカと入って来る。膝近くまである長いロングブーツが一歩一歩、歩むたびに彼女の狭い部屋の床板を軋ませる。
ウクライナ語訛りの強いロシア語しか話せない彼女とは違って、軍隊生活が二年を迎え、ロシア語も訛りまで堪能で、何よりも熱心なソ連の信奉者である兄は、きっと自分が西側の音楽を聞いていることを快く思っていないはずだと、心のどこかで分かっていたつもりでいたから・・・彼女は固唾を呑むようにアレクセイの一挙手一投足を不安げな目で追っていた。
ベッドの脇までやって来ると、彼は先ほどナタリアが下げた音量調整のつまみを元どおり時計回りに回し上げる。何をするつもりかと思えば、今度は周波数を別の放送局に切り替える。すると再び・・・部屋の中に洋楽が流れ始めた。先ほどの格好いいロック音楽とは打って変わり、今度は明るく賑やかなダンスミュージック。歌っているのも、女性のボーカルだった。
ナタリアは薄暗い部屋の中で目を丸くした。目をこらすが、兄の表情はランプの明かりでうっすらとは見えても、はっきりとは分からない。
「僕はこっちの方が好きだ」
彼の口元は笑っているのだ、と確信する。
「これって、なんていう人たちの曲・・・?」
「E.V.A.は西ドイツのグループ。そしてこれは、『Girl of Destiny』って曲だ。世界じゃ有名な音楽グループなのに、まだ知らないなんてお前は、遅れてる」
その曲は既に10年近くも前に発表された曲だった。おまけに、そのグループ自体は数年前とうに解散していた。
「そんなら・・・どうしてもっと早く教えてくれなかったと!?意地悪な兄貴」
彼女は思わず、手元にあったクッションをアレクセイ目掛けて投げつける。自分をこれまで散々不安に陥れてきた恨みだって、そこには込められていた。
彼女の気合の込もったクッションを受け止めると、彼は優しくそれを彼女の元に放り返す。
「お前を叱ったり、それを誰かに密告したりするとでも?母さんにでも言いつけるか?」
ナタリアは首を横に振る。母がこんなことで自分を叱る姿など想像もつかなかったから。
「・・・ソ連では、親や兄弟は生物学上のつながりでしかなくて・・・同志こそが兄弟であり祖国こそが親で、血の繋がった家族がファシスト・・・資本主義者なら、容赦無く密告、糾弾すべきだって・・・学校で先生も言いよったばい・・・」
彼女は学校で教わったことそのままを、棒読みする。
「学校もまだまだ変な言葉を吹き込むもんだね。俺はナターシャを裏切るような真似は絶対にしない」兄の目は、いつにも増して真剣だった。「それどころか自分自身、すっかり西側音楽の虜になってるくらいさ・・・」
初めて聞く兄の嘘偽りなく正直な言葉に、彼女は言葉を失ってしまい、少しの間、茫然と兄を見つめた。相手がどんな思想を持っているのか分からない以上、この国で、誰かに本音を打ち明けるのはとても勇気のいることだし、そのことによって生じるリスクを考えたら、どうしても一歩前に踏み出すことができない。
・・・こんな形で兄の考えを知ることができたのは幸運だ。それと同時に、やっぱり自分たちは血の繋がった兄弟だという・・・何にも代えがたい喜びが彼女から警戒心を取り除いて、彼女の頰はようやく緩んだ。
アレクセイはベッドに腰掛けるナタリアと向かい合うように一人用のソファに腰掛けると相変わらず流れるE.V.A.の曲に耳を傾けて、時折、リズムを刻むように首を揺らす。音楽を聴くそんな仕草はナタリアだってあまり変わらない。
彼と同じ仕草をしている自分が可笑しかったし、この時間が、どこまでも幸せだ。何故もっと早く・・・兄と秘密を共有することができなかったのかと思ってしまう。兄はもうすぐアフガニスタンという遠い異国へ旅立ってしまうのに・・・。
そこで彼女は思うことがあったのか我に返って、いつの間にか音楽に没頭して瞳を閉じたままの兄の顔をじっと凝視した。
せっかくの名曲もこんな兄のせいで・・・今は耳に入ってこない。
「・・・アリョーシャ、兄貴はさ、アフガンで人を殺すの?」
彼女は思わず、突拍子も無い疑問を口にした。
それまで音楽にだけ夢中になっていた彼は、彼女の質問がよく聞こえなかったのか、少し首を傾げながらナタリアに視線を向ける。
「ううん、アフガンに行っても・・・兄貴はちゃんと、ここに帰ってこれると?」
言葉のニュアンスを変えて言い直す。
だがアレクセイは彼女の瞳をまっすぐに見つめるとただ微笑むだけで・・・何も言葉をくれない。
曲がちょうど終わる頃には、彼はソファを立ちナタリアの肩にそっと手を置き、そのまま振り向くこともなく部屋の戸口へとまっすぐに向かう。
いつの間にか、彼の背中は自分の思っていたよりずっと大きく見える。いつだって自分のそばに寄り添ってくれた頼り甲斐のあるたくましい背中だ。だがそんな彼に面と向かってありがとうと言うのは気恥ずかしいから、彼女はそんな最近はまじまじと見ることの少なくなった大きな背中に、こっそりささやくような声で、感謝の言葉を呟く。
アフガニスタンで敵を多く殺すか、もしくは戦死すれば、彼は祖国に凱旋し英雄として祭り上げられるのだろうが、ナタリアは、そのどちらをとっても少し嫌だった。
死ぬよりは生きて帰ってきてほしいと願うのは当然だ。しかし彼が万人の英雄になっていくのではなく、我儘なことを言っているのは百も承知だが・・・いつまでも自分だけを助けてくれる心優しい英雄のままでいて欲しかった。
◇
暖かい日差しが窓から差し込む4月下旬のある日のこと、ナタリアはいつものように学校へ向かう支度をするために姿鏡の前に立っていた。
ソビエトの学校には、どこでもちゃんと制服というものがある。
紺色のドレスに白いレース地のエプロンという、まさに絵に描いたメイド服のようなデザインこそ、ソビエトではメジャーな制服だ。
女子たちはスカートをミニに改造しては可愛く着飾ろうとする。ナタリアは世界のことをよく知らないが、これは万国共通の女の子の行動だと心のうちに確信している。だから彼女もその例に漏れない。学校の教師も含めてソ連の大人たちはミニスカートを資本主義的だ、退廃的だとよく愚痴を漏らしているが、そんな言葉は今の時代の若い女性たちが持つ反骨精神には通用しなかった。
自分の制服や髪型が可愛いと確信できるまで時計の針は大きく三十分も進んでいて、何故いくら早起きしても結局、いつも余裕を持って家を出ることができないのかと嘆き、やや慌てるようにして彼女は家の戸を思い切り開け放つ。
ウクライナの伝統的な茅葺き屋根の小さな家の庭には、春が近づくとたくさんの花が咲く。まだまだ春は始まったばかりで、どれもようやく蕾をつけたばかりで早く5月になるのが待ち遠しい。
彼女の好きなライラックの花も、もうすぐ、一面に咲き誇るのだから。
雪解けでぬかるんでしまった枯れた草の生い茂る田舎道を、小川に沿ってタイヤを時折食い込ませながら自転車で駆け抜ける。
スカートの裾に泥が跳ねないか不安に陥りつつ急ぎ足で漕いで、彼女はいつものように学校へ辿り着いた。いつもと同じ学校の風景だが、いつもと違うのは・・・木造校舎の前には見慣れない黒塗りのボルガが一台停まっていること。
こんな田舎にはまず見慣れない高級車に、彼女は何だと疑問に思いつつも、それを横目に校舎の中に足を踏み入れた。
「ナタリア・ニコラエヴナ、おはようございます」
突然、声が近くから響く。
身体をびくりと微かに震わせたのち、その声がした方向を振り向く。当然空耳なんかではなくて、近くの壁際には見慣れた一人の教師が立っている。
「・・・おはようございます先生・・・えっと、まだ遅刻では」
ナタリアの不安そうな表情が英語教師、ユリアに向かう。
ソ連の学校はいわゆる“3-6-2”制であり、7歳ごろから計11年間(義務教育は9年生まで)ずっと同じ学校に通い続ける。二月に誕生日を迎えたばかりの彼女は、もう17歳・・・すなわち最上級学年である11年生だ。上級生は年下に手本を見せる立場にある。
当然、無遅刻・無欠席の皆勤賞を取れば小さなバッジが貰える。
表彰台に立ち、このリヴィウ地区の共産党員から直々に皆勤バッジをもらうことがナタリアの些細な願望だったが、そんな目標の実現はもうすぐそこまで来ているはずだったのだ。
「もちろん、まだあと10分ある。いつだってギリギリだけど、もう少しくらい早く来れるんじゃないかしら?毎日毎日髪の毛を小ぎれいに整える必要だってないのよ?」
年配だが歳を感じさせない、典型的なソビエト女性らしい威厳のあるユリアは随所に棘のある喋り方をして、少し含み笑いを浮かべている。
「それにこんなに短いのね。今日の最初の授業は?」
彼女は、今度はナタリアのスカートの裾をじろりと睨みつけている。
「音楽の授業、・・・です?」
普段ならいくらスカートの丈が短くても、見て見ぬ振りをされるのがお決まりなのに、今日の彼女は異常なまでに彼女を深々と追及し、決して逃さない。
「その音楽の授業を見学したい、とおっしゃるお客様がお見えになっています。何でも、あなたに用があるんだと・・・」
それまで、ナタリアの足元をじっと見つめていたユリアは顔を上げるなり、かけているメガネをくい、と押し上げる仕草をする。
「えっ、私に、ですか?」
「文化省の方です。はるばるモスクワからあなたを訪ねて来たと」
そんな人物に心当たりは、全くない。
「あなたのような勉強の出来も良くない生徒に一体何の用があるのかは知りませんが・・・」
いつものユリアの小言も、その突然の訪問者という事実の衝撃が大きすぎて頭に入ってこない。
「聞いているのですか、ニコラエヴナ」
「・・・はい・・・」
生返事をしたのも彼女にはきっとバレバレだろう。ユリアは呆れるようにため息をつく。ナタリアの気持ちなんて完全に置き去りにされていた。
「くれぐれも失礼のないように・・・あと、そのみっともないスカートはもちろんですが。泥の跳ねた革靴も、あとでよく磨いておくことですよ」
彼女はこれまでの溜まりに溜まったナタリアに対する小言をまだ吐きつつ、ようやく、踵を返しかける。
当然一人その場に残されたナタリアは、言葉の意味をまだ半分だって理解できていなかった。
「ま・・・ま、待ってください先生!?私、何かしましたか!?」
ようやく・・・彼女の頭の中に浮かんできたのは、自分が本来この国では違法であるはずの外国の音楽を日常的にラジオで聴いているという事実だった。
ソビエト国内に張り巡らされた秘密警察が自分の家の中を盗聴している・・・なんてことも考えられないだろうか・・・と、根も葉もない心配事が次々と頭に浮かび上がっては、心配性な彼女の顔は青ざめていく。
だが、第一そんな違法行為をしていたのは彼女以外の知り合いにも数多くいるのは事実で、そんな中でどうして自分だけが目をつけられてしまったのだろうか・・・。疑問は尽きなかった。
「私の方こそ何も聞いていません。アポイントも何もなしに今朝突然向こうから訪ねて来たのですよ。・・・まあ何にせよ、モスクワのクレムリンからやって来た高官に、無礼な姿など見せられますか?」
再びナタリアに向き直ったユリアは、先ほどよりもずっと囁くような早口で言う。
どうやら彼女もまた人生で一度、顔を合わせるかどうかいうほどの大物を前にして緊張し、神経を尖らせている様子である。
ソビエト政府の理念を細かい部分まで徹底してナタリアに守らせようとする彼女の様子から、ようやく事の重大さが現実味を帯びて・・・ナタリアの元へ押し寄せて来た。
音楽室に入ったナタリアとその他の生徒たちがそれぞれの席に着き隣近所の生徒同士で談笑する普段と何一つ変わらない喧騒の中で、音楽教師のヒョードルが入ってきた。20代の若く気弱そうな男性教員で、いがぐり頭と、その小動物的な仕草から、生徒たちからはヨージク(ハリネズミ)とあだ名で呼ばれている彼だったが、普段より、さらにぎこちない姿を見てもやはり彼もまた突然の来訪者に動揺している様子を隠せない。
「えぇっと、みなさん、では今日は先日の続きではなく、別の曲で・・・」
平静を装っているが、黒板に刻む一文字目から白いチョークが折れて床に落ちる。慌てて彼が折れた半分を拾い上げたところで音楽室の扉が開き、室内の生徒の視線が一斉に音楽室の引き戸に向かって注がれた。
ナタリアはその場の誰よりも固唾を呑んで、彼を見つめる。
小ぎれいなスーツが印象的な彼は、さほど身長も高いわけではない。170前後で、年齢も四~五十歳に見えるが、本当はもっと若いのかもしれない。掻き上げて後ろに流した亜麻色の髪に部屋の照明が当たり、微かな輝きを放っている。クラスメイトの女子の目が、彼に釘付けになっている。確かに彼は歳相応の色気があって、ハンサムだった。
「うちの父さんとは違うわ」
「優しそうだから?」
「酒焼けしてないもの」
誰かがそんなことを囁いたので、ナタリアも含めてみんなこそこそ笑い声をあげる。
「気にせずに、続けてくれ」
音楽室の壁に寄りかかった彼は、にこやかに微笑み授業の再開を促す。
ヒョードルはよそよそしくぺこりと彼にお辞儀をしたのち二十数名の生徒たちを全員窓際に集めて合唱の体形に並ばせ、黒板にチョークで歌う曲名を、観客であるその男にも分かるように大きく書き込んだ。
ヒョードルのピアノ伴奏に合わせて、生徒たちは声を重ねる。
ナタリアはクラスの最前列で歌っている間にも、壁に寄りかかって集団の一人一人に目を配る彼をつぶさに観察していた。彼女に用があるといってこんなところに来たという彼はさすがにナタリアを見る機会も多いらしく、何度も視線がぶつかる。彼は謎めいた穏やかな笑みを終始崩さなかったが、そのような表情を向けられても、どんな表情をするのが正解なのかわからない。そもそも彼女の心の中は相変わらず、彼が何者であるのかという疑問で埋め尽くされていた。
「素晴らしい歌声だね、見事だ」
歌い終えた頃、たった一人の観客である彼から拍手が上がった。ようやく張り詰めていた緊張感から解放されたように周囲と顔を見合わせて教室全体が大きくどよめく。党の偉い人物に褒められたというのは、彼らを沸き立たせる材料としては十分だった。
ヒョードルもそんな彼とクラスの様子に安堵したのか、小さなため息をついた。
その後もナタリアたちは何曲か歌うことになり、後半には全員で輪になり有名なロシア民謡である『カリンカ』を、簡単な踊りと交えて歌う。どんな曲に対しても、文化省の役人ミハイルは何も言わず、ただ満足そうに眺めていた。だからこそナタリアの中での彼のそのような謎めいた雰囲気は、ますます深まっていく。
「素晴らしい歌をありがとう。これだけの歌声をソビエトの、この地域に留めておくのが勿体ないくらいだ」
彼の視線が再びナタリアを捉える。ふいを突かれて、さっと背筋を伸ばした。彼の目は常に穏やかだが・・・そこには心の奥底まで見透かすような鋭さもある。
「それでは本日最後になりますが、生徒を代表し、クラスで音楽の成績評価がトップであるナタリアに感謝の気持ちを込めてソビエト連邦国歌の独唱をお願いしたいと思います」
ヒョードルがピアノの椅子から立ち上がると、あらかじめ準備していたかのような説明ゼリフを口にする。だが当然そんなことなど事前に全く知らされていなかった彼女は唐突に与えられた役割を前にして困惑するばかりだ。
「そんな・・・、先生、私そんなこと聞いてません・・・」
ヒョードルにとってはそんなことお構いなしなのだろうか。彼はその場に立ち尽くす彼女に分かってくれと言わんばかりの目配せをするばかり。クラスメイトたちの好奇の目がただ一人彼女のもとに集まる。
確かにソビエトの要人がここまで来た以上、国家に忠誠心を示すことが筋なのかもしれない。極力、彼の名誉のためにも力になりたいところだが・・・今の彼女にとって自分一人だけが晒し者にされることの恐怖心は、何物にも変え難い。
「ヒョードル、申し訳ないが国歌はいい」
だが、そんなナタリアの張り詰めた緊張の糸は、そんな彼の言葉でぷつりと切られた。足元のカバンから彼は一枚の譜面を取り出し、ナタリアのそばまでやって来る。
出会って初めて、こんなにも彼がこんなにも近くにいる。緊張感で彼女の指先が微かに震えた。
「君には、これを歌ってもらいたくてね」
彼女の目の前に譜面がざっと広げられる。彼女は慎重な手つきでそれを受け取るなりじっと覗き込み、そこに刻まれたメロディーを指でゆっくりなぞる。
・・・音符を読むのが得意だから、音を取ることはそこまで難しくない。しかし彼女の頭に流れてきたメロディーは、ソビエトでよく歌われる音楽とは明らかに違っていて、おまけに・・・まるで知っているような曲調だ。彼女は首を傾げて、音符をもう一度、なぞった。
「英語の発音が良いと噂の君なら絶対に歌えると思ったんだけどな。どうだろう?」
彼が彼女の耳元で囁く。
その言葉が、心臓を思い切り突き刺した。
慌ただしく、再び手元の譜面をじっと見つめると楽譜の頭には、先ほどは緊張のあまり見落としていたが・・・『Beyond the Dream』という英語のタイトルが刻まれていた。
思い出したら、またはっとする。
これは紛れもなく、いつしかラジオで何度か聴いたことのある曲だ。
・・・もう一度聴きたいとずっと願っていた曲で・・・しかも、まさかこんな形で再会することになるとは思わなくて。
「難しそうかい?無理なら歌うことないよ」
「いや、無理とかじゃ、ないんです」
何を言っているんだろうと、思った。拒否してしまえば、もしかしたら、この場所からうまく逃げ出すことができただろうに。何故自分はまた無理に背伸びをしてそんな言葉を口にしているのか?
「歌えます。でも、上手く歌えるかどうかの保証は・・・」
負けず嫌いの彼女は、彼の目をじっと見つめて口にした。
「大丈夫。準備ができるまで君を待つ」
彼も彼女のそんな真摯な気持ちを丁寧に受け止めて、相変わらず人を安心させるような、心を掻き乱すかのような、優しい笑みを口元に浮かべた。
周囲の生徒たちからの期待を含んだ眼差しは相変わらず強い。ピアノの椅子に座ったまま動かないヒョードルの表情にも、なんとか歌ってくれという言葉がはっきり刻まれている。彼の手にも既に伴奏用の楽譜が手渡されていて、準備は整っているらしい。
教師も含めて、この場にいる全員が自分を吊し上げるのではないかという不信感は未だに拭えない・・・この国では本来違法であるはずの西側の音楽を何故か知っている、そんな自分を。
人一倍警戒心が強くて常に石橋を叩いて・・・叩きすぎて前に進めないような部分が、ナタリアは自分の短所だと認識している。そのせいか、いつだって掴みかけていたチャンスを逃してしまうのだ。
だって、もしかしたらその功績が認められて、一躍この地区の有名人になれるのかもしれない。
そんな淡い期待がほんのわずかでも彼女の心によぎっていたから。
譜面から決心したように顔を上げると・・・やっぱり、彼の穏やかな視線とぶつかる。
彼は待ってくれているのだ。
だからこそ細かい理由なんてどうでもいい・・・今はただ、そんな彼の期待に、どうしても応えたかった。彼のことを信じてみたかった。
彼女は大きく深呼吸して、背後のピアノに合図を送る。彼女と同様、緊張気味のヒョードルは、安堵するようにゆっくり頷く。
そして前奏がゆっくり流れ始めると、彼女は音楽室の空気を再び吸い込んだ。
彼女はたどたどしい英語の発音で歌い始める。
この気持ちを、なんと表現すればいいのか。
・・・生まれて初めてはっきり声にした英語の歌だ。
全身が魂ごと風船のように宙へと舞い上がっていくような不思議で、心地よい感覚。部屋の中で微かに口ずさむことは今までにもあったが、人前で誰かに聴かせるのは、彼女にとってこれが初めてだ。
歌詞の意味なんてさっぱり分からない。でも歌詞に込められた言霊は心の内側にすっと溶け込んでいく。
この原曲をラジオの向こう側で歌っていたマーガレット・スコットの歌声には、自分の歌声なんか到底及ばない。
だが、下手かもしれないが、もっと歌いたいと願う自分がいた。この歌声が誰かの心に溶け込んでいかなくても、自分が、この曲を歌いたいから。
彼女が初めての英語の曲を歌い終えたとき・・・クラスの中は一瞬静まり返った。ナタリアは不安でいっぱいになった顔を党員の彼に向ける。
そんな彼はただ、笑みを浮かべて大きな拍手をする。ナタリアは、心の底から安堵して、思わずその場に座り込みそうになる。
だが休むまもなく、それに続くようにして周囲のクラスメイトたちも一斉に、彼女に向かって大きな拍手と歓声を上げるのだった。
授業後、ナタリアは個室で件の彼と面談することになった。
「ご苦労だったね。話に聞く以上に、君の歌声はよかった」
彼の褒め言葉にもかかわらず、一方の彼女はソファに深々と腰掛けては初対面の彼を前に不安げな表情で押し黙っている。
本当に、あのような歌でよかったのか・・・これから自分の想像もつかない面倒ごとに巻き込まれていかないか。
そんな心配事が彼女の頭にはつきまとって、離れない。
「とにかく、綺麗な歌声だったよ・・・“ナターシャ”」
彼女の気持ちを察したのか、もっと優しく囁いた。その言葉に、彼女はようやく、それまでうつむいていた顔を上げる。彼が、自分のことを愛称の“ナターシャ”と、いきなり呼んでくれから。
「君の歌声で・・・僕も若い頃ラジオにしがみついていたことを思い出したんだ。あの頃はまだフルシチョフの時代で、アメリカと核戦争になりかけたキューバ危機もあった頃。少し周波数をいじればラジオからはビートルズが流れてくる。その頃から熱心な共産党支持者だった僕が、一瞬で心を鷲掴みにされてしまった。反戦的、平和主義的な歌詞だと言われて、当時のソ連当局による締め付けは、今の比じゃない」
共産党員とはとても思えないような赤裸々な話に、ナタリアはすぐさま引き込まれていた。彼は語り口調までもが、その辺の、隠し事と建前だけで生きているような大人たちより、ずっと魅力的だ。
「僕の名前はミハイル・トカレフ。文化省の人間だ。純粋なロシア人だと思ったかい?・・・出自は君と同じウクライナ出身の、ウクライナ人でね」
「・・・ロシア人とばかり、思ってました」
「ロシア人は怖い?」
「・・・少し」
「かなり、だろう。顔を見る限り」
「す、すみません、そんなつもりじゃ」
彼女は慌てて否定したものの、ミハイルは彼女の気持ちなどとうに見透かしていた。
「もしや君は西側の音楽を違法に聴いていることがバレて、モスクワから駆けつけた僕に摘発されるとでも思っていたんじゃないか?」
彼女は、そこが個室ではあるが念入りに今一度、周囲の様子を確認した。だがミハイルの後ろの窓もしっかりと閉じられていた。
「安心してくれ、僕は君側の人間だ」
先ほどの話からでも彼が自分に危害を及ぼす恐れのない人物であることはよく理解していたはずなのに、彼女は、自分たちの会話を盗み聴いている人間が他にはいないものかと念入りに確認した後で、ようやく少しの落ち着きを取り戻す。
「君みたいな人間を逮捕したい輩はもちろん、党内部には多くいる。しかしこんな些細なことで逮捕などしていれば、国内の刑務所はすぐ膨れ上がってしまうだろう?土地がいくらあっても看守が足りない。そもそも、そんな看守自身が違法な手段で入手したレコードを聴いているような有様なんだよ」
ミハイルは相変わらず可笑しく笑うが、ナタリアはまだこの状況が呑み込めていないで、彼の話から一人取り残されている。
「単刀直入に言おう。ナタリア、君の力が欲しい。君の力が偉大なソビエトを復活させる」
予想通り、何も分からずきょとんとしたナタリアの反応を待たずに、彼は手元で四つ折りに畳まれていた世界地図を目の前のテーブル一面に広げる。
「ソビエトという国は決してロシアだけで出来ているんじゃないだろう。ご存知の通りウクライナ、ベラルーシ、リトアニア、ラトビア、エストニア、グルジア、カザフスタン、タジキスタン、・・・その他、数多くの異なった民族が住む共和国を組み合わせて“連邦”という形で構成されている」
社会科の授業で何度も目にしたソビエト連邦の国土は、今見返しても巨大だった。ソビエトに並ぶ大国アメリカの国土よりも自分たちの国土が大きいと知った時は、いかに自分たちの国家が偉大であるかと感動したことを今もはっきり覚えていた。
世界で初めての有人宇宙飛行を成し遂げたのもアメリカではなくソビエト連邦だ。ガガーリンは、ソ連が世界に誇る英雄に違いない。その誇りがあるから、ナタリアはこの国を、自信を持って好きだと言える。
「君は本当に、この国が好きか?」
彼は巨大なソビエトの地図を指差して、言った。
「もちろん私はソビエト連邦を、誇りを持って、誰よりも愛しています」
だから彼の問いに対してはほとんど間を置かずに、そのように言い切る。
「本当に、そう思ってるかい?」
彼女の答えを聞いて、今度は試すような口調になった。
「西側世界では、今あんなに様々な音楽が生み出されている。ソビエトでは未だに様々な規制が緩和されない。音楽以外でもそうだ。西側の文明、というだけで皆忌避する傾向がある。君は、ソ連の全てが好きだと本当に言い切れるかい?それは“井の中の蛙、大海を知らず”で終わってないかな?」
「ええっと、それは・・・」
彼女は言葉に詰まる。自分は、世間知らずだと言われたら多分それまでの、いくら実際にこの目で確かめてみたいと願っても海外には決して足を踏み出すことのできない、所詮はソビエトの一庶民に過ぎない。だからこそミハイルの問いは、あまりに卑怯にも感じられる。
それが負けず嫌いなナタリアの闘争心に火を灯した。
「・・・私はアメリカのことも西側のこともよく知りません。確かに、華やかな文化が花開いていて、素晴らしい曲が流れているかもしれません。・・・でも、あなたが素晴らしいとおっしゃる、そんなアメリカや西側にだって、悪い部分はたくさん、あるということだけは知ってます」
彼女の言葉に、ミハイルが感心するようにその目を大きく見開いて、少しだけ今より前屈みの姿勢になった。そんな彼に、熱くなった彼女は続ける。
「どんなに素晴らしいものがアメリカにあったって、ソビエトの素晴らしさには決して勝てないって思うんです。ソビエトには、資本主義世界とは違って格差も差別もありません。みんなが平等に暮らしている。それだけでも私には十分ですが、まったくの赤の他人でも必ず大切にするところが、ソビエトの本当に素晴らしい文化だと思ってるんです」
授業で教師たちが盛んに口にしていた言葉を反芻しながら一生懸命、自分なりの言葉で反論した。ミハイルは彼女の言葉に逐一頷き、真剣に耳を傾けている。
「具体的に、どういう場面で?」
「ソ連人は困っている人を決して見捨てません。駅のホームで困っているおばあさんを見かければ必ず重い荷物を持ってあげる・・・ベビーカーを押していて長い階段が登れなくて困ってるご婦人を見かけたら、一緒になって持ち上げてあげます。それは個人個人の関係にとどまりません、国同士の関係に関しても、そうです。もし同盟国が経済的に困っていれば絶対に支援する。西ドイツやアメリカの軍隊が攻撃しそうになったら、絶対にソビエト軍がその同盟国を守ります」
そこまで言い切ったのち、彼女は最後に一言付け加える。
「・・・誰にだって、愛するものに対して好かん部分は絶対にあります。好かんところが1個や2個あってん、好きなところが10個でもあったら、それでよか、って思いませんか?私は、他人との結びつきがのうなった社会なんて嫌ばい、私は、誰もが平和に暮らするソビエトば、ただ、愛しとるんです」
ミハイルはなるほど、と言ったきり少しだけ沈黙した。
ナタリアは、こんなにも言葉が溢れ出してくるとは思わなかった。その上、普段は逐一気をつけているのに一度感情的になると自然にウクライナ語が混じり、自分自身を制御しきれなくなってしまう。
彼女はそんな負けず嫌いな自分の性格がとても恥ずかしく思えた。
「すみません、その、私、何も分からないのにすごく、偉そうなこと言っちゃったかもしれなくて」
「いや、君がね、こんなにも真剣にこの国を愛していたとは思わなくて・・・とても感心しているよ」
彼の考えていることは分からない。でも相変わらず、自分のことを試していることに変わりはない。だから彼女の緊張感は緩むどころか、先ほどよりずっと強まっていた。
「じゃあ、もし、君が単に知らないだけで嫌いなところが他に沢山あったら?君は今ソビエトには好きなところが10個あると言った。でも、仮にもしも嫌いなところが、1個や2個どころではなく10個も20個も、次から次に・・・ボロボロと、ペンキが剥がれ落ちるように見つかっていくのなら、君はどうする?」
「それは・・・」
言葉を必死に探すが、彼の追撃は容赦なく続く。
「国民の間には、その“見えない部分”によって不満が高まってきている。これはフィクションじゃない、現実さ。この悪い腫瘍を除去しない限り、君の愛するソビエト連邦は、いずれ崩壊する」
「そんな、ソビエトは世界でもっとも偉大で・・・だから、崩壊など」
教師の言葉を曇りもなく鵜呑みにする彼女の真剣な言葉を彼は一笑に付し、
「かつてのローマ帝国も、偉大だったね。しかし崩壊した。栄えた国家は、時代の荒波を乗り切れなければ崩壊してしまう。ウクライナだって・・・キエフ・ルーシ大公国の時代は偉大だったかもしれないが、それはモンゴルによって崩れ去った。・・・いや、それは結果に過ぎない。キエフルーシも、長引く内乱ですっかり弱体化していたのだからね、滅びは必然だった」
歴史的な出来事を引き合いに出して、彼女の言葉を明確に否定した。
「・・・そんな」
「残念だけど、今のアメリカや西側の経済はソ連をはるかに凌いでいる。これは覆しようのない事実だ。その一方、ここソ連では経済がますます停滞と衰退の一途を辿っている。軍事力や科学に注力し過ぎた結果がこれだ。崩壊しない方がおかしいと思わないか?」共産党員であるはずのミハイルの顔が、まるで別人のように・・・一段と険しさを増す。「暴走した軍事力や手に負えない強大な科学技術が、やがて君の身近な人や大切な人の命を、あらゆる形で奪うことになる。僕は、最もそれを恐れている」
彼の言葉一つ一つ、彼女には全てが初めて聞く言葉と衝撃的なものばかりだ。
これまで自分がただ漠然と永遠を信じて疑わなかった国家が目の前から消えて無くなってしまうことが、そもそも一体どういうことなのか。自分の住んでいるこの場所は、国家がなくなれば、どうなるというのか?
考えれば考えるほど、頭の中は雪のように真っ白に染まっていく。人生において確実な永遠など存在しないことなどこれまでも分かっていた。だが、あらゆる物の中では最も絶対的な永遠が目の前で崩れ去ろうとしていることが自分の生きているうちに起こり得るなんて。
さきほどの鬼気迫る表情から一転して、言葉を失ったナタリアに対し彼は再び穏やかな口調で声をかける。
「君がソビエトを誰よりも強く愛しているのは、よく分かった。他者を思いやる気持ちは僕も絶対に残したい。それは西側や資本主義社会で多くの人が見失った考え方だ。さっきは悪かった、君の言うことは何も間違っちゃいないよ」
意地悪な質問をしたことを謝りつつ、
「だからね、君の美しい歌声がソビエトを崩壊から救い、さらに、より良い方向へと変革することができると、僕は信じている」
「歌声、が・・・?」
彼はようやく彼女がこれからすべきだという役割を口にしたのだが・・・それがあまりに現実とかけ離れているように思えると、ますます何のことだか、分からなくなった。
首を傾げていると彼はすかさず手元に用意してあった一枚の紙を机に置く。それを手に取って、ざっと目を通したあと彼女は紙面の・・・読めるが意味の分からない単語を指差した。
「айдолってのは、どぎゃん意味になるとですか?」
彼女はその単語を“アイドル”と発音した。他にそのような単語を知らない上に、聞いたこともなかった。
「идол(偶像)という単語があるだろう」ミハイルはソファを立ち、左手の窓から中庭を眺める。「君にはソビエト国民から愛される偶像、すなわちイコンになってもらいたい。アイドルとはそういうものだ、あの花々みたいに」
中庭に咲く・・・様々な形の花弁を持った花々を見て、言った。共産主義社会で、個性というものは常におざなりにされがちだ。出る杭は打たれてしまうのである。しかし、そんな社会に画一性を求める共産主義を謳う地上のユートピアにも、色や形で個性を主張する草花が咲き乱れることまでは止められない。
「君はウクライナに咲く花だよ。他にベラルーシの花、ロシアの花、・・・様々な花々を、国中や、同じ共産圏から集める。集めた花々を花束にして、それをソ連の人々に届ける。それがこの国を大きく変えるはずだから」
「私が・・・ウクライナの花?」
「僕は君の美しさと華やかさに惚れ込んだ。歌だってうまい。・・・ナターシャ、君なら絶対に国民から愛される存在になれる」
知らない人が聞けば大げさな口説き文句にも聞こえるような言葉を呟いた。
「西側の風を取り入れた歌や踊り、そして君の素晴らしい個性でこの国を変えてみないか」
ソファに座る彼女はこれまで一度も言われたこともないような胸を熱くする言葉で自分の頰が瞬く間に赤々と染まっていくことに気づいた。しかし、他人をすぐには信用できない彼女は、その言葉をそのまま受け取ることはない。
「・・・私はソビエトを愛しています、だからこそこの国に尽くしたい気持ちは強いのですが・・・この・・・紙に書かれたアイドル?になるとしたら私は、この田舎を出ることになるんでしょうか・・・?」
「もちろん君を大都会モスクワに招待する。そこで、君は国営のラジオ放送やテレビ番組に、積極的に出演してもらいたい」
彼の提案は夢のような誘い。偉大なる憧れの街モスクワ・・・彼女の頭の中には華やかな幻想が、瞬く間に繰り広げられる。
青い空に向かって摩天楼のように突き出すスターリン建築で有名な外務省やモスクワ大学、高級ホテルなどの建物群。クレムリンの宮殿や黄金の正教会のドーム。赤の広場に面したレーニン廟・・・それは自分の住む村からは遠く離れた、偉大なソビエト連邦の、唯一無二の首都だ。
手元の、一枚の紙を握る指の力が興奮で強まっていくことを感じた。この紙は、そんな夢のような憧れの都モスクワへの旅のチケットだから。
モスクワに行けるということだけでもたまらないのに、憧れていたラジオに出演して、国中の多くの人に感動を与えられる姿を想像すると、彼女の指の震えは簡単に消えるものじゃない。
だが・・・・祖父母や母、兄は、自分がアイドルという見たことも聞いたこともない仕事に就くことを知ったら何を思うだろうかという不安が、同時に降りかかってくる。
父は昔に家を出たきりで、残された母親は兄と妹の二人を祖父母の手も借りて懸命に育ててきた。兄は軍隊にも行き、今度はアフガンだ。残された母はたった一人で祖父母の面倒まで見なければならならず、これから寂しい思いをさせてしまうのではないだろうか?
そのような心配事が舞い込んでくると・・・彼女は、自分だけがいい思いをして都会に出ることが、まるで後ろめたいことのように感じてしまう。
「ミハイルさん、ごめんなさい・・・私、今すぐには決心がつかなくて」
普段から優柔不断だと言われてしまう自分の性格には、またもや嫌気がさしてしまう。
自分はなんと臆病者だろうか。せっかくのチャンスを余計な心配ごとで失ってしまうのか?
頭では、そんなこと分かっていたとしてもそんな勇気を出すのは・・・やっぱり怖い。受け取りかけた契約書をそっと机の上に置くと、再びミハイルの手元に押し返した。
「せっかくのお言葉でも、私にはやっぱり荷が重すぎて。ソビエトの未来を背負うだけの勇気は、まだ、私には無くて・・・」
ミハイルは何も言わずに、黙って彼女から受け取る。
こんなにも煮え切らない態度に彼も心底呆れているだろう、と思ったのだが、彼は普段通りの穏やかな表情を少しも崩していない。
「いや、気にすることはない。むしろ難しい判断を迫って申し訳ないよ。もし君の気が変わることがあれば、その時はこの番号に電話を」
彼は番号を書いたメモを彼女にそっと手渡すと未練など微塵も何も感じさせることなく颯爽と立ち上がって、部屋の戸を開いた。一人その場に取り残されたナタリアは、彼の顔をまっすぐに見つめて見送ることもできない。
ソビエトの広範な地図も片付けられてしまった何もない来客机の上に、彼女はただぽつねんと、寂しげな視線をいつまでも落としていた。
日の暮れかけて美しい夕日が西に沈もうとしている頃合いに、それとは対照的で真っ暗な表情を浮かべたナタリアは家に帰り着く。庭先に自転車を止めていると、庭の片隅にある納屋の中がやけに騒がしい。先ほどから鶏が懸命に鳴いていたが、明らかに様子が変だ。
不審に思って様子を見に伺うと、案の定、祖母が鶏を追っかけ回してようやく捕まえ、必死に暴れて断末魔をあげるその首元に向かって、大きく鉈を振りかざしているところだ。
「ごめん、邪魔しちゃった・・・?」
「あらナターシャ!どうしたと、そぎゃん顔ばして!」
薄暗い納屋の中でもはっきりと分かってしまうほど、自分の今の表情は酷いらしい。
「・・・何でもなか。手伝おう、か?」
祖母には余計な心配などかけまいという気持ちから思わずそんなことを口走ったのは良いが、この家族の中で誰よりも血を見るのが苦手なことを思い出すと、すぐに手伝うと言ったことを後悔する。
「ほんと!そいつは助かるたい、こいつの脚ば押さえてくれん!」
自分よりウクライナ語の強い独特の訛りがある元気のいい祖母に言われるがまま、ナタリアは暴れて羽を撒き散らす鶏の脚を嫌々押さえた。
「今夜はとびっきりん、チキンキエフばこしらえるたい!」
祖母のアンナは嬉しそうに言いながら鉈を容赦なく振り下す。思わず目を背けたが、勢いよく飛び散った鶏の鮮血はナタリアの頰にも容赦無く降りかかる。鶏のものとはいえ血は苦手だ。生臭い血の匂いに耐えて首の無くなった胴体を袋にねじ込む。そうしている間にも首を失ったはずの鶏はジタバタと暴れまわる。早く頰に付着した血を拭いたいという気持ちに耐えつつ、不気味に暴れる脚を押さえて彼女は血抜きを手伝う。
「アリョーシャがあと三日でここば発つけんね!今のうちに精一杯なご馳走ば振る舞うとかにゃん!」
「そっか、あと三日・・・」
アフガンに発つ前、二週間の休暇を与えられた兄だが時間が経つのは早くて、もうこれからしばらく会えなくなるのだと思うと急に寂しさが襲ってきた。
普段から一緒にいる時はそんなこと微塵も感じたことがないのに、今日学校に現れたミハイルと会い、話したことを思い起こすと、心がざわつく。もしかしたら、兄は棺に入って帰ってくるんじゃないか?
一緒にいることが当たり前になりすぎるとそれが永遠のように感じてしまうが、永遠など決してありえないと・・・今日は十分に理解させられたから、彼女の胸は不安の黒々とした雲に覆い尽くされていく。
「あのね、おばあちゃん、もしこの家からアリョーシャがいなくなって、・・・私までいなくなったら」
「ん!ナターシャ、今なんて言うたんと!?」
「あっ、なんでもなか・・・!血抜きは、もうこんぐらいでよかと?」
学校であった出来事を正直に話そうと思ったのだが、聞こえていなかったことをいいことに結局自分の心のうちへと閉じ込めてしまう。
手元で懸命に抑えていた鶏は、今ではすっかりと動かなくなっていた。
彼女は夕食中も家族の談笑に付いていくことができずに一人ぼんやりしながら、いつ、どのようなタイミングでこの悩みを打ち明ければいいものかと何度もその機会を窺うが、言葉は喉に引っかかって出てこない。
「やっぱり変わらんね、じいちゃんの腕」
アレクセイがナイフでチキンキエフを切ると、中から溶けたバターがどろりと白い皿の上に流れ出し、その豊潤な香りが食欲を誘う。だがナタリアだけはまだナイフにすら手をつけておらず、具の無い真っ赤なビーツのスープを無意識に口にしていた。
「まだボケとらんけん。なるべく薄く叩いた鶏肉にたっぷりのスパイス入りバターを包んで、そっと握るようにして包むだけたい。こんなん、誰でもできる」
「そうは言っても、こうも上手く揚げられるものか?」
確かに皿の上にごろんと転がった大きなチキンキエフは絶妙な色合いだ。祖父はかつてモスクワで党幹部お抱えの料理人をしていた経験もあるという、かなりの腕の持ち主だったが、今はこうして郷里でひっそりと暮らしていた。
「じいちゃんほどの腕前なら、まだ引退してなくても」
「もう若くはないけん。フルシチョフが失脚した時、仲の良かった友人がクレムリンを去ったんだが、これはちょうどいい機会だと思ってな」
ナタリアは二人の会話の中にモスクワという単語が飛び出し、思わず食いつく。
これまでは一度だって意識したことはなかったのに、もし祖父が地元に戻らずモスクワに留まっていれば、こんな悩みを抱えることも・・・。
「ナターシャ、食べないのか?」
「いや、食べるけど・・・」
兄に自分の気持ちを悟られないようにと、彼女はようやくナイフを押し当てる。先ほど自分の目の前で死んだ鶏が、今こうして口の中にいるのは何となく不思議な気持ちだ。
祖父の腕前は確かなもので、美味しいはずなのに今は今日の出来事が頭の中を駆け巡っていたので、よく味は分からなかった。
夕食後はまっすぐ部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした彼女は一息つき、いつものようにラジオに電源を入れようとしたが、電源に触れようとしたところでその手を止める。
・・・何故だか今日はあまり聴く気にはなれなかった。
彼女の頭の中には、今授業で歌ったマーガレットの『Beyond the Dream』が滔々と流れていた。その出来事はまるで遠い昔に見た夢のようにも感じられたのだが、これは決して夢ではない。慌てて机の上に置かれた通学カバンの中身を漁ると、案の定、そこに今日ミハイルから渡された楽譜がある。動かぬ証拠を手に取り、感慨深く見つめていた彼女は、やはり声に出して歌いたい衝動に駆られてしまう。
無論声が出そうになったところで、理性やプライドが食い止めてしまうのだが。
・・・ああ、やっぱり、今日ミハイルさんから託された依頼を素直に引き受ければよかったんだ・・・!
彼女は押し寄せる途方も無い後悔に大きくため息をついて、がっくり肩を落とす。
今後も農家で一生を終える方が、きっと自分のためになる。運命の流れに身を任せていた方が余計な心配ごとを産まなくて済むのだと自分を偽って平静さを保とうとしていたが、それは所詮ただの強がりに過ぎない。
結局いつもと何一つ変わらないのだ。ソビエトを、世界を知る大きなチャンスが目の前に到来したというのに、慎重すぎる彼女の性格が、それを無駄にしていた。
そんな風に一人で落ち込んでいる彼女の部屋の戸が、突然ノックされる。返事をするまでもなく、アレクセイがひょっこり顔を覗かせた。
「ナターシャ、・・・って、なんだ、ラジオ聴いてるんじゃ」
入って早々に彼は意外そうに呟いた。この頃は彼女も部屋で兄と一緒に、ラジオから流れる洋楽に耳を傾ける機会が増えていた。
「勝手に入ってこないでよ。なんのつもり?」
彼女は不機嫌そうな顔を隠そうともしない。
「ノックしたじゃないか、何を怒って」傍にまで来るとアレクセイは手元にある楽譜の存在にすぐ気がつき、隙だらけの彼女の手からすぐさま楽譜は奪い取られ、彼は薄明かりの下でそれをまじまじと見つめる。
「か、返して」
彼女はようやく我に返り、取り返そうと必死に手を伸ばした。
「お前、これをどこで?」
言うべきか悩ましかった。だが、言わなければ・・・たった一つの楽譜は返ってこない。彼が自分と同等かそれ以上に負けず嫌いで、納得するまではなかなか譲らない性格であることを、彼女は日頃の経験から嫌という程分かっているから。
結局は兄の問い詰める強い視線に抗うことのできなかったナタリアは観念したように今日の出来事を正直に打ち明ける。アイドルという聞き覚えのない単語を交えた不思議な計画が現在ソビエト政府組織の一部で進行していることを、一体どのように分かりやすく伝えるべきか・・・最終的には兄が教えてくれたような西洋のポップミュージックグループなどを例に挙げて説明していた。
「よしてくれよ。お前の歌なんかラジオで聞いた日には恥ずかしくて街を出歩くこともできやしない」
アレクセイは彼女の必死の説明を笑うばかりで、まるで真剣に取り合おうともしない。
「本当ばい!信じてよ・・・!」
ここまで必死に打ち明けるか一日中悩んで、分かってもらえるように一生懸命説明したあとでの彼のこのような態度は到底受け入れられるものではない。だから、彼女は声を張り上げる。
「モスクワから来た共産党員が・・・私の歌ば聴きに、わざわざこぎゃん、辺鄙(へんぴ)な場所まで来てくれたの!こんなことって、あると思う?」
いつもと様子のまるで異なった彼女の言葉で、アレクセイは改めて真剣にその楽譜に視線を落とす。
一般的なソ連の人間がここまで精巧に作られた英語の楽譜を印刷して所持できるはずは、ない。アレクセイは疑問に感じて楽譜に目を凝らす。きちんと原本があるコピーなのか、下にはASCAP(アメリカ音楽著作権協会)のロゴが、若干掠れてはいるものの印字されている。無論彼にはASCAP自体なんであるかなど分からなかったが、そのアルファベットのロゴを見た瞬間にそれがただの楽譜では無いことも・・・彼女が決して冗談を言っているわけでは無いことも、ようやくどこかで悟る。
「・・・その党員、本当に、クレムリンからって?」
「間違いないもん、あの人は、文化省の役人だと!」
「近頃はこんな辺境にも西側のスパイが増えているらしいぞ。仲間が言ってた。何事にも警戒を怠っちゃいけない」
80年代アメリカのレーガン政権とソ連は、アフガン情勢を巡って鋭く対立していた。核戦争の危機だって誰もが本気で信じていた。近年就任したばかりのチェルネンコ政権も、おそらくその対立姿勢を引き継ぐつもりだろう。
「ミハイルさんはそんな人じゃない!会ったことだって、ないくせに!」
ソビエトの将来や今後のこの国のあり方を真剣に考えている人間が、アメリカや西側のスパイだなんて考えなど絶対に持ちたくない。
それより彼女自身が驚いたのは、ただ一度会っただけの彼を今すっかり信用してしまっている自分がいるということ。ずっと一緒にいるだけの兄より、何故、よくも知らない彼のことを信用しきっていられるのだろう?
慎重深くて疑り深い、普段の自分らしくないところにナタリアはひどく困惑していた。きっと今の自分の頭は、押し寄せる憧れのせいで冷静になれないのだ。
「・・・いい人だから信じたいの。」
思い切り深呼吸をして冷静さを取り戻す彼女は、ようやく心に抱き続けている素直な気持ちを口にする。「それに唄いたいの。私の歌でソビエトを変えられるんだって、言ってくれたから。夢みたいな話でしょ?そんなに上手い話があるかって思うかもしれないよね、・・・ばってん、私は、このわずかなチャンスにでも賭けてみよごたる!そして自分自身ん目で、この広か世界ば見てみよごたるったい!それが私の・・・ずっと抱いてきた夢やったけん!」
アレクセイは妹の熱い言葉と真剣な表情に、驚く。
普段は夢など決して語ることもなく、運命に成り行き任せなのに、今の彼女はまるで別人のように、それとはかけ離れている。ここまで彼女を本気にさせる彼の存在という存在に強く興味を惹かれると同時に、彼女に、その希望を叶えて欲しいという気持ちも不思議と強まっている。
「・・・分かった、その話が仮に本当だとして・・・」兄はようやく聞く耳を持ったが、相変わらず疑い深く、彼女に尋ねた。「お前が行こうとしてるのは、モスクワだぞ。周囲に頼る人間なんて誰もいない。いるのは、ここに住むウクライナ人とは違うロシア人。彼らに田舎者と、異民族だとバカにされても、お前は強い気持ちを持ち続けられるのか」
彼女は、押し黙る。憧れが頭の中を支配していたから、そんなことは微塵も想像もしていなかったのだ。
「生半可な覚悟なら許さない。国にその身を捧げる心意気は買うが、国家のため何かをするというのは、簡単じゃないんだ」
アレクセイの言葉には熱がこもる。軍隊で国家のため日々訓練を積んできただけに、その言葉には重みがある。
ナタリアはただ黙っていた。その境遇に耐えられるかどうかなんて、まだ微塵も分からない。
・・・実際にその場所に行かない限り、どんな世界が待っているかなんて。
「メディアや国民に向かって自分の姿をさらけ出すのは華やかなことかもしれない。だが、そうなるということは、国民や政府からの非難や文句も、全てを一身に受けなくちゃいけないということだ!」
彼の言葉はとても厳しいもので、その一言一言が彼女をひどく打ちのめす。
「その覚悟だって無いのに決断を焦って、一生を棒に振ることはない」
アレクセイは楽譜を彼女に返すこともなく立ち上がると、部屋を出て行こうと彼女に背を向けた。
「待ってよ、まだ!」ナタリアが戸口の前で彼を呼び止めた。「結局兄貴は・・・私がモスクワに行くことは、反対・・・?」
「反対に決まってる。お前はその器じゃないから」
そっけなく一言呟いたアレクセイは再び踵を返して、自分の部屋に戻っていく。またもや惨めな思いをして一人取り残された彼女は、ベッドのマットレスを思い切り拳で殴りつける。兄に一言も言い返せないことが、とても悔しかった。彼の言った言葉が全て的外れなら・・・こんな惨めな思いをしなくてもよかったのに。
カーテンの閉め忘れた窓の外に今日も広がる暗闇を茫然自失の表情で、睨み付けるように見つめた。
翌朝、彼女はいつもより早く目が覚めた。昨日の出来事が相変わらずもやもやと頭の中にあって、一向に振り払われない。そのせいか今日の彼女はいつもより早起きして、身だしなみも普段に比べてそこまで丁寧に整えないまま、家を飛び出した。
学校に到着して駐輪場に自転車を停めると、彼女の目の中にはまたもや不釣り合いなボルガが飛び込んできた。彼はもしかしてまだ自分のことを諦めきれていないのだろうか・・・?だとすると、チャンスの神様はまだ自分のことを見限っていないのかもしれない。
今もまだ昨晩のアレクセイの言葉が、彼女の脳裏には焼き付いて離れない。
負けず嫌いな彼女は希望に拳を強く握って、今日こそは絶対に覚悟を決めてやると大きく意気込んで息を吸うと、校舎の中に足を踏み入れた。
まだ人気の少ない校舎に足を踏み入れ、二階に通じる階段へと向かおうとしたところ、彼女は昨日と同じようにユリアと鉢合わせた。彼女は階段の手前の壁に寄りかかり、どこか落ち着かない様子で立っている。
「今日はやけに早いんですね?」少し驚くようにナタリアの姿を見る。「まだ三人ほどしか登校してませんから」
「・・・今日も、来てるんですか?党の人」
ナタリアが尋ねると、ユリアは黙って頷き、正面突き当たりの左を指差す。その方向にある廊下を進むと、職員室や事務室、来客室が並んでいた。
「彼は今来客室で校長とお話を。あなたに用があるとおっしゃっていましたから」
その言葉で、彼女の背筋がぴんと伸びた。
改めて兄に言われた言葉を思い出しつつ、職員室の方へとゆっくりと足を進める。昨日会ったばかりなのに彼女の足取りは緊張感に包まれていた。
突き当たりを左に曲がろうとしたところで、何気なく背後に気配を感じ取った彼女がちらりと後ろを見ると、そう遠く無い位置にユリアがいる。
「先生?」どうして、後についてきたのだろう。「玄関に立ってなくてもいいんですか?」
ユリアという英語教師は、普段から登校してくる生徒一人ひとりに朝の挨拶と小言を垂れ流す役割を担っていた。そのため生徒からの人気は薄い人物だが、熱心さと几帳面さだけは本物だった。
「あなたが登校してきたら、彼に連れてくるように言われたのよ」
彼女は少しの沈黙の後で、そのように言った。
ナタリアはそれ以上特に疑問を抱くこともなく再び視線をまっすぐ廊下に戻す。
彼女が廊下を歩き始めようと足を踏み出したその瞬間に、先ほどはまるで気づかなかったのだが、遠くの職員室の前にはスーツ姿の二人組の男が向き合って何かを話している。
彼女はその二人の姿に違和感を抱く。二人の顔ははっきりと見て取れるが、その顔に見覚えもなく雰囲気からしても、とても教師ではなさそうだから。
「あの二人・・・先生、あの二人って?」
「・・・彼らも党員です。昨日のトカレーヴィチさんの同僚だとか」
ユリアはまた少しの沈黙の後で、言った。彼女はその際にユリアの顔をじっと凝視していたが、彼女はいつもに比べてやけに視線を逸らす。
どうして視線を逸らすのだろう、普段は睨み付けるように・・・あるいは、全身に穴を開けるほど生徒や自分のことをじろじろと見てくるのに?
ナタリアの背筋にはどこか薄気味の悪い予感が鮮烈に走る。
「本当に、昨日の人?」彼女は恐る恐る、聞き返してみる。「先生、ミハイルさんは本当に来客室に?」
ユリアは疑り深い彼女にする言い訳を探している。そんな彼女の顔を横目で見て、ナタリアはようやく何かを確信するように、足を止める。
「ナタリア?どこへ」
後ずさりを始めたナタリアを、ユリアは不審に思って呼び止める。
「すみません先生・・・ちょっと、自転車の前カゴに忘れ物をしてきたのを、思い出して」
「そんなのはあとでもいいでしょう。早く・・・」
「どうして急がせるんですか?」ナタリアは、左腕を掴んできた彼女の手を強く振り払った。「変です、今日の先生・・・!」
ナタリアの声が廊下に響く。二人組のうちの片方の男がユリアとナタリアのやりとりに気づいてこちらに顔を向ける。
彼女は目の合った男の、その顔をはっきりと目に焼き付けた。
ミハイルのような穏やかな表情とはかけ離れて、冷徹な睨みを効かせている。
彼が何者であるかを考える余裕などなく、そのようなことを頭に思い浮かべる前に、彼女は真っ先にユリアを突き放して全速力で走りだした。
「待て!」
彼女の背後から、まるで怒号のような叫び声が廊下に響く。彼女の直感は正しかったらしくて、ほとんど生きた心地もしないまま狭い校舎の中を逃げ惑った。
彼女は、自分をあいつらに差し出したのだ・・・!
ナタリアは信頼していた教師に裏切られたショックに心を痛めていたが、そんなことを考える余裕もなく、今はただがむしゃらに逃げる。背後からは自分を追いかける靴音が鳴り響いていた。学校は早い時間ということもあってか人影がほとんどない。誰に取り押さえられる心配もなく、追っ手から上手く姿を隠すと、彼女はようやく一階の校舎の突き当たりにあった女子トイレに転がり込んだ。
そして息つく間もなく、今度はその狭い窓から飛び出して、外の花壇の影に身を隠した。
彼らは当然トイレの中を入念に捜索するだろうが、その隙に、彼女は花壇から花壇へと、校舎の窓から自分の姿が見えないように移っていく。そんな彼女の制服は既に土埃で薄汚れていた。
「そこで、何を?」
泪目になった彼女はぎょっとしたが、その声の主をゆっくりと見上げる。自分よりずっと活発な髪の短いタチアナと、左右の三つ編みにレースのリボンを丁寧に巻いた几帳面なオリガが、校舎の隅で朝早くから怪しい動きを繰り広げている彼女を後ろで不安げに見つめていた。
「ターニャ、リョーナ・・・今、今はちょっとさ・・・」
彼女は、かすれるような声で唇に人差し指を添える。彼女の不可解だが必死さの伝わる様子に二人は思わず顔を見合わせて、目の前の彼女にならって花壇の影に隠れるように身をかがめた。そして花壇の影から微かに頭を出し、周囲に目を配る。
「一体何、やらかしたのよ!」
タチアナが尋ねてもナタリアは青ざめるばかりで、ろくに言葉が出ない。
「ここじゃすぐバレるわ。早く向こうの茂みに。急いで!」
二人は、てっきりナタリアが教師に叱られて学校内を追いかけ回されているものだと勘違いしていたが、それでも こんな状態になったクラスメイトを放っておくことはできずに背後から覆いかぶさるようにしてナタリアを隠し、三人は校庭のはずれにあった雑木林までやってきた。
「ここならまだ時間が稼げそう」
「さあ話しなさい、ナターシャ。一体何なの?」
「・・・わ、私にも分らない、二人組に、突然追いかけられて・・・!」ナタリアは息を切らしながら答える。 「ユリア先生は党員だって言ってたけど・・・」
オリガとタチアナは、またもや顔を見合わせた。
「あなた・・・昨日も党員が、あなたに用があるって」
「違う、あの人たちは、昨日の人とは全く違う!だって、明らかに私を捕まえようとしてたんだ・・・!」
目の前の二人には、まだ昨日の出来事を少しも話していなかった。
昨日、ミハイルという男にアイドルという不可解なものになってみないかと誘われたこと・・・そして、自分がそれをすぐに断ってしまったこと。
その出来事を今二人には初めて面と向かって話した。
「えっ、ナターシャが昨日の授業で英語の曲をあの人から歌うように言われたのは、そういうことで・・・!?」
「すごいわ、大事件!どうしてせっかくの、そんな申し出を簡単に断ったりなんかしたのよ・・・あなたって人間は!」
分かってくれるのかと思いきや、驚いた二人の勘違いはますます強いものになっていた。ナタリアという人材が国にとってはどうしても必要だが、党員一人では彼女を承諾させられないから、強硬手段を取ろうと今日は二人がかりで押しかけてきたのだという支離滅裂な説が飛び出したのだ。
しかし当然、自分のことに対してさほど自信もないナタリアはそこまで自分の歌唱力を過大に評価しているはずもなく、二人の唱えた説を真っ向から否定した。
「そもそもミハイルさんが私にそんなことするわけがない・・・!」
申し出を断った時、気が変わるようなことがあれば電話をするようにと優しく言ってくれた彼のことを思い出す。彼女は今でも、そんな彼の言葉を強く信じて疑わない。
「・・・じゃあナタリアはさ、本当はどうしたいの?」オリガは聞いた。「あなたはもう、その誘いは完全に断ったつもり?」
「・・・昨日、私の優柔不断さがあの人の大事な申し出を遠ざけてしまったけど・・・昨日の夜も、私、一生懸命に考えた」
兄に厳しいことをたくさん言われたりもした。それがとても悔しかった。しかし、楽譜をもう一度見た瞬間にこみ上げてきた自由で美しい音を歌いたいという欲望は嘘偽りのないもので、きっと、この世のどんなものにも勝る。
そして、何より自分の歌声でもっと広い世界を見てみたい。自分の一生がここだけで終わるのは絶対に嫌だった。
自分の力で、この世界をもっと素晴らしいものにしたいという願いは、絶対に本物だ・・・!
「そう考えたら私はやっぱり、アイドルになりたい・・・!今日私は、そのために学校に来たのに・・・!」
なのに、どうして自分は追い回されているのか。そんな理不尽な怒りが彼女の心の奥底から沸沸と湧き上がっている。
「あ!やばいよ、あの二人、・・・?こっちに、迫ってるみたい」
校舎を見張っていたタチアナに肩を叩かれて、ナタリアは茂みからこっそり顔を覗かせる。やはり夢なんかじゃなくて、先ほどの二人の男たちが建物の影や茂みを覗き込みながら確実にこちらに迫っていた。
「これからどうするか、教えて」タチアナはナタリアの両肩に手を置く。「あなた次第。私たちがあいつらの気を引く」
ナタリアはタチアナの目を真っ直ぐに見た。そして、隣で微笑むオリガの顔も。
二人のことはきっとこの学校で、誰よりも信頼できる。
「ここから逃げても、いい?」
二人が黙って頷いたのを見て、ナタリアは感謝で胸をいっぱいにしながら、自転車が停められた校舎の脇までこっそりと走る。一瞬だけ後ろを振り向くと、二人組の男たちはさっそくタチアナとオリガに、ナタリアの行方を尋ねていた。
自転車に飛び乗った彼女は整備されているとはとても言えないボロボロのアスファルトの上を全速力で駆けた。
これからどこへ向かおう。彼女は追跡が困難になるようにわざと茂みの中を走ったり、時折どこかの家の納屋に自電車ごと隠れたりしながら、追いつかれないように必死で逃げ回った。家に逃げ帰ろうという考えがふと頭に浮かんでも、先回りされているに違いないと思ったら、すぐさまそんな思考を打ち消す。
帰りたくとも帰れないのは明らかだ。せめて何が起こったのかだけでも知りたかったが、知るすべはない。・・・いつ終わるとも知れない不安と恐怖で心が打ち砕かれそうだった。
散々走り回った挙句に彼女は自転車を乗り捨てる。今となっては徒歩で逃げ惑っていた彼女がようやくたどり着いたのは一つのバス停。
・・・そうだ、バスで逃げようか。
市街地から外れた閑散とした大きい道路に面するぽつりと佇んだ奇妙な屋根を持つ独特なデザインのバス停には、ちょうど一台のバスが停車している。
『リヴィウ行き』と表示されたバスに、彼女は何の躊躇もなく乗り込む。バスの車内は平日のこの時間でも多くの乗客に埋め尽くされている。彼女が後方のひとつ空いた座席に腰を落ち着かせると、隣にいた初老の男性客が、彼女の顔をじっと覗き込む。
「お嬢さん、学生さんか。どうしたんだい、こんな時間に」
「え、その・・・」彼女は自分が制服姿だということを完全に忘れていたので、慌てた。「リヴィウにいる親戚の病気が重篤になってしまったから、お見舞いに行こうと、していて」
「そうか、それは一大事だ。リヴィウの駅前に大きな花屋がある。あそこで花を買っていくといいだろう。この時期でも、たくさんの種類が置いてあるからね」
彼は咄嗟に吐き出した彼女の嘘を疑うことなく、むしろ親切にそんな気の利くことまで教えると、窓の外へ再び視線を落とす。
車内に設置された時計の針は十一時を指していた。
彼女は実に2時間近くも逃げてきたことを知ると突然疲れがどっと出て、そのままウトウトと眠り込んでしまった。
リヴォフは西ウクライナ最大の都市だ。ウクライナ語ではリヴィウと発音するため、近年では地図などでもウクライナ語名で併記される機会が次第に増えつつある。ソ連政府による民族懐柔政策の一環だ。
小さな町ムィコラーイウに比べても当然ながら、それは別の国にやってきたのかと錯覚するくらいに美しい建物が多く残る歴史も長い古都だが、そこではロシアの文化の影響をほとんど受けず、ウクライナ人の民族的アイデンティティが保たれてきた。
そんな案外近くても馴染みが薄い街にようやく逃げるようにして辿り着いたナタリアだったが、その運賃だけで手持ちのお金がほとんどなくなってしまったことに衝撃を受けた。持っていたわずかなルーブル紙幣はここに来る運賃だけでほとんどが消えて無くなっていたのだ。手元に残ったのはわずかなコペイカ硬貨だけ。
彼女がいくら嘆いたところで、追っ手はこの街にまでやってくる可能性は十分にある。対応策を必死で練ってみるが、こんな経験したこともない状況ではいいアイディアなど一向に浮かばなかった。・・・警察に助けを求めても、助けてくれるかどうかは分からない。党の言いなりである以上、自分を助けるふりをして突き出す可能性は十分考えられる。
旧市街の広場の傍に置かれたベンチに腰掛ける彼女は間違いなく周囲からの好奇な視線を集めている。それもそのはず、彼女は自分の街の学校の制服のまま飛び出してきたのだから。リヴィウにある学校の制服は彼女の白い前掛けのついた焦げ茶色の古いタイプの制服とはわずかにデザインが異なり、大体がもっと現代的な紺色のブレザーに更新されている。もし追っ手がこの街にやって来ようものなら、目立つ格好の自分なんてすぐ見つかってしまうに違いない。
彼女は両肩に下ろした三つ編みを解いて、さらによく目立つ白いレースの前掛けの紐を外して、それらを小さく折りたたみカバンの中に仕舞い込もうとしたが、そんな時ふと昨日彼から手渡された電話番号のメモがカバンの中に残されているままだったことを思い出した。
今こそ彼の力を借りるしか他に逃げ道はないと悟った彼女は、迷いのない足取りで近くの横一列に6台並んでいるうちの一番端にある公衆電話の前へとやって来た。
今自分がリヴィウに逃げているなんて言えば、彼は驚くだろうか・・・。
そんなことを考えながら、震える手でコペイカを投入しようとするものの、コインは上手く入らずに地面に落下した。少し焦りすぎているのか。拾い上げて入れ直す直前に一度深呼吸をして彼女はふと何気なく周囲を見渡す。その瞬間、彼女の視界には恐ろしい光景が飛び込んできて・・・先ほどから握りしめていた受話器が彼女の手を離れ、コードごと垂れ下がる。
彼女の目には数十メートル離れたところを歩く二人の男たちの姿がはっきりと焼き付く。それは恐怖心から生み出された幻覚か、何かの見間違いなのではないだろうかと目を大きく見開いて見つめるが、周囲の様子を用心深く伺っている様子から、彼らがどうも本物であることは間違いない。スーツを着替えたのか、今は目立たない地味な私服姿で自分のことを探している。彼らの顔の特徴はいくらその服装が変わろうとも、鮮明に覚えていた。
だが、どうやって、自分がここにいることを知ったのだろう・・・?
震え上がった彼女が垂れ下がった受話器を拾い上げてそっと元どおりに置くと、すぐさまその場を離れた。自分の姿が発見されるのはどうやら時間の問題らしい。
二人組は近くを歩く一人一人に、制服を着た少女がどこにいるかを尋ねて回っていた。彼らにナタリアのことを尋ねられた一人の男性はある方向を指さす。その指先には、ナタリアが先ほど座っていたベンチがある。ナタリアのいる公衆電話からそう遠くない位置だ。時々振り返りながら様子を伺っていた彼女は血相を変えてさっと顔を隠し、人混みの中に身を隠す。そして足早に旧市街を出ようと決め込んで、後ろを振り返ることもなく足元を見ながら歩き続けた。
だが、・・・ここに来て彼女の疲労感も限界に達していた。
歩き続けるうちに恐怖もその度合いを増している。徐々に歩く速度は落ちていき、彼女の頭の中では、もし自分が彼らに捕まってしまったらどのような罪状を掛けられてしまうのだろうかというような考えがぐるぐると回り始めている。もういっそのこと彼らに捕まってしまっても、大した罪になることはないだろう・・・すぐに疑いは晴れて釈放されるに違いない。
諦め掛けた彼女と追っ手との距離が徐々に近づいていこうとしたその時、彼女の右腕は、人混みから突然飛び出してきた何者かによって力強く掴み取られる。
まさかもう、・・・!?
心の準備など全くできていなかった彼女は恐れに慄いた形相で、その手の持ち主を凝視する。
「えっ・・・!」
彼女のか細い腕を強く引いたのは力強い男性の手で・・・その手の主は待ち望んだ守護神にふさわしく、大天使ミカエルの名の通り颯爽と舞い降りたミハイル・トカレフだった。
驚きのあまり目を大きく見開き、彼を見つめる。思わず歓喜の叫びを上げようとした彼女に対して、彼はただ小声で声を抑えるように言うだけ。
諦めかけてもつれかかっていた彼女の足は、彼にやや強引に手を引っ張られるだけでも不思議なことに少しずつ元気を取り戻していく。だが決して自分から彼に電話を掛けたわけでもなかったのに、どうして自分の居場所も、自分が今窮地に陥っていることもすぐに分かったのだろう?
怪しげな二人組に追い回されている理由もまだ何一つとして分からないが、しかし今は何も考えられない。ただ嬉しくて安堵して、目にはまた涙が滲んでいく。・・・ずっと、まだ手を離さないでいて欲しかった。
彼は土地勘があるのか、慣れた足取りで迷路のような街路を進んでいく。そんな彼は昨日のようにスーツ姿ではなく、そこら中にいるソ連人男性のような私服姿だから、制服姿の彼女とは違って周囲に溶け込んでおり、まるで目立たない。
それを利用してか時折彼が彼女の背中に覆いかぶさるように街角のショーウィンドウなどに張り付いては追跡の目を何度も欺く。
追っ手の姿がようやく見えなくなるとナタリアはミハイルに手を引かれるまま、ようやく近くの細い路地裏に転がり込んだ。
人気のない路地裏にやって来ると、ナタリアはこれまでずっと張り詰めていた緊張の糸がぷつりと千切れるように、その場にしゃがみ込む。緊張と恐怖心で、彼女は息を荒くしていた。
「・・・あの人たち、一体何者なんですか・・・?」
どんなに疲労で心身共に疲れ果てていたとしても、彼女はミハイルの横顔を見上げて、今最も聞きたくて堪らなかった言葉を投げた。それまで彼女のすぐ隣に黙って立っていた彼は彼女を安心させるようにしゃがみこむと、申し訳なさそうな表情を見せた。
「どうやら余計なことに君を巻き込んでしまった・・・今の僕らには、国家反逆罪で逮捕状が出ている」
国家反逆罪というあまりにも聞き馴染みのない罪状が告げられると、途端に彼女の頭の中はたちまち真っ白になる。あまりにも心当たりがなかった。それ以上のことは何一つ考えられなくて・・・驚きとショックで言葉を失くした彼女を少しでも安心させようとその微かに震える彼女の背中にミハイルは優しくそっと手を置いたが、彼女はそんな彼の手も、すぐに振り払った。
「・・・やっぱりミハイルさんは、アメリカのスパイなんですか?」
言葉が堰を切ったように溢れてきた。彼女の中であらゆる疑念が確信に変わる。今朝から今までずっと溜め込んできたどうしようもない不安や恐怖が、安堵が訪れた瞬間に突然、怒りに変わっていくのだ。
「そうとしか思えんもん、だって普通ん人が、私のいる場所ば突き止めて来れるはずなんかなかとです!きっとこん街にもどこかに仲間がおるったい、私のこと、ずっと監視しとったんや・・・私に、夢や希望ば与えときながら結局は、私を誘拐して共犯者に・・・スパイに仕立て上げようとしとったんですね!」
ミハイルは彼女をじっと見つめたままで、何も答えない。
「なして、何も言うてくれんのですか!?」
こんなにも信じていたのだから、裏切られたと思うほどにナタリアの目には涙が溢れる。
「私、ミハイルさんからの真剣なスカウト、本当はとってもとっても嬉しかったばい・・・!だって、夢やったんやけん・・・世界や、ソビエトば、こん目で見ろごたると、どれだけ願うたか!」
ミハイルの表情は、不気味なほど動かない。彼は一体何を考えているのだろうか、まるで人形のように動かない表情を前にして、ナタリアの言葉には、ますます強い感情がこもっていく。
「・・・結局、昨日はあぎゃんこつ言うて断ってしもうたけど、ばってん、改めて自分ん頭でよう考えてみたんばい・・・何度も思い悩んでみたんばい!そしたらやっぱり私は、そん、アイドルってものになろごたる、・・・なってみたいんです!・・・ミハイルさん、ばってん、昨日ミハイルさんがかけてくれた言葉は、すらごつやったんと・・・(嘘だったんですか)?」
ミハイルはまだ何も、答えてくれない。
「いい加減、答えてください!私はただ、夢ば、願うただけです!一体何ばしたっていうとですか!?」
ふと、・・彼女は、彼がいつの間にか自分以外に視線を向けていることを察した。ゆっくりと、それまでナタリアの背中に差し出していた手を引っ込めたかと思うと、その代わり、ジャケットの内側から突然拳銃を引き抜く。
青黒く光る金属の光沢・・・彼が名乗る名字と同じ銃、トカレフだ。
ソビエト製拳銃らしい無骨で飾り気のない特徴を持つ、手袋の上からでも十分握りやすい大きめな銃は彼の右手に綺麗に収まっていて、彼ほどこの銃を上手く扱える人間はいないのだと、主張する。
「君のその言葉を待っていたよ」
彼女の口元は紫色に染まって震え、今となっては言葉もろくに発することができない。彼女の瞳には天使の姿などなくて、今はようやく正体を現した悪魔の姿だけが映り込む。
「私を、撃つんですか・・・」
ミハイルは何も言わず、黙ったまま。
・・・私はここで死んでしまうのか・・・?
夢を叶えられないまま。ソ連という国の現実を何一つとして知らされないまま、叶うはずのない夢を見たことを後悔して、絶望したまま死ぬことを悔しがりながら、彼女は感情を押し殺したように静かに俯いた。
そして一発の銃声が路地裏に響き渡る。
銃から排出された熱い薬莢が彼女の頰にぴたりと触れて、それはカラン、と綺麗な音を立てて彼女のすぐ横の地面へと落ちる。死への覚悟を決めていた彼女はただ額に伝う一滴の汗だけを感じていた。
ところが痛みらしい痛みだけは何も感じなかった。不思議に思って、ゆっくりと固く閉じていた瞳を開いていく・・・だが次の瞬間に、彼女の身体には突然宙へ舞うような感覚が襲いかかった。
「えっ・・・!?」
勢いよくその場から彼女の腕を掴みながら立ち上がる彼はナタリアの左腕を脇から抱え上げ、背後に引き寄せる。そしてさらに数発を発砲した。一体何に向かって・・・彼女が街路の先をじっと見つめると、何かが転がっているように見えた。しかしそれはものではなく、地面に倒れ込んだ人間の頭部だったのだ。それが人であることを知ると彼女はぎょっとして、ミハイルが何のために目の前で拳銃を撃ったのかを確信する。おまけに、それが誰かと思えば自分のことを追い回していたあの連中の一人なのだ・・・!
石畳の細い街路は緩やかにカーブしていて、立っていた相手の位置はこの位置から見れば死角だったはずなのに、何故ミハイルは彼を撃つことができたのだろうか・・・彼女はあまりに突然の展開に置き去りにされて、またもや呆然としていたが、今度は突然近くのレンガの壁の一部が弾け飛び、細かい破片が宙を舞う。
彼女には現在の状況を考える余裕などなく、残されたもう一人が盛んに応戦して路地裏では銃撃戦が展開される。彼女はしきりに飛び交う弾が当たらないよう、またもや酷く怯えながらも懸命に頭を低くかがめることに専念した。
弾切れになるまで撃ち終えるとミハイルはナタリアの脇を抱えて再び走り出す。
彼女の心臓は、また新たに訪れた死への恐怖でバクバクと高鳴っている・・・こんなにも生きた心地がしないのは生まれて初めてのことだった。
「僕らの計画を事前に察知して、それを叩き潰そうとしている改革反対派の、凝り固まった保守派の手下だ」
ミハイルは時折後ろを確認しながら慣れた手つきでポケットから新たに弾の込められたマガジンを取り出してトカレフに装填する。ようやく冷静さを取り戻していたナタリアは、今は必死にミハイルの腕にしがみついて離さない。
「・・・僕らは絶対に無実だ。それを証明してみせる」
こんな状況の今だって、彼のことを完全に信用しているわけではなかったが、たとえその確信がなくとも彼のことを誰よりも信用したいという気持ちから、彼女はしがみつくその腕の力をより強めることで、返した。
「君の名前は、ナタリア・リヴィウスカヤだね」
周囲では銃声を聞きつけた警察のパトカーのサイレンが鳴り響いている。二人は、石畳の街路を走り続けていた。今更になって何故そのようなことを言うのだろうと不思議に思いつつ彼の横顔をまじまじと見つめるナタリアに、彼は呟く。
「君の先祖は、この街に愛着を持っていたはずだ。ウクライナ人にとって誇りの詰まった名字だろう」
それは今まで殆ど意にも介さないことだったが、確かにこの街の名前リヴィウは、自分の名字の中にはっきりと刻まれていた。それは大して特別なことでもないと思っていたのだが、美しいこの街の景観を眺めた時・・・非常に特別なことであると同時に嬉しいと思えた瞬間、彼女の中でのウクライナに対する思いが、ますますと強まっていくのを感じていく。
二人が狭い路地を抜けると、そこで視界が一気に開けて、大きな広場に躍り出た。だが待ち構えていたかのように、すぐさま広場に通じるあらゆる路地から複数人の警官たちが銃を構えながら慎重に近寄る。そして、あっという間に二人を取り囲む。
「銃を捨てて、両手を頭の後ろに」
5人の警官は銃で威嚇しながら徐々に歩み寄り、二人との距離を縮めた。
「ミハイルさん・・・」
隣にいる不安げな彼女に、彼は少しだけ微笑むと全く抵抗する素振りも見せず、手にした銃から弾倉を引き抜いて、地面へと放り投げた。
「トカレフ!」広場に一人の男が突然駆け込んできたかと思うと、ミハイルは思い切り殴りつけられ、そのまま力なく地面に倒れこんだ。
「とんでもないことをしてくれたようだな」男は倒れたミハイルの腕を背中に回して、その頭に靴底を押し付ける。「お前、よくも、俺の相棒を!」
「だから跳弾で狙ったんだ、少しはマシだろう。彼の怪我の具合いはどうかな?」
ミハイルは落ち着き払った声で言った。
「そこまでだ、何者か知らんが勝手な真似は許さん!離れろ!」
感情的になって、目の前に立ち尽くしていたナタリアにも殴りかかろうとしていた男を、警官が銃を向けて静止する。
「なんだと?ふざけるな、ここはお前たちの管轄ではない。我々KGBの仕事だ!」
男は、その警官にまで鋭く牙を剥いた。相手がKGBの人間だと言うことがわかると、周囲の警官たちは皆銃を下ろし、一歩後方へと下がっていく。
「やはりKGBかい。誰の指示で?」
地面に伏せたまま、ミハイルは頭上の男を睨みつけた。
「黙れ、お前たちはこれから我々が尋問する。あれに乗せろ」
男は周囲の警官たちに協力を求め、ナタリアとミハイルを待機させていた護送車に詰め込む。その間ナタリアは一言も言葉を発することはなく、彼らの指示にも大人しく従っていた。
格子窓がはめ込まれた護送車の中で、二人は向かい合わせに座らせられる。ナタリアが今にも涙が溢れそうになるのを懸命に堪えていると、目の前にいるミハイルは口元に血をにじませながらも、彼女を安心させるかのような微笑を口元に浮かべていた。
◇
彼女たちはリヴィウの旧市街から少し外れた郊外のロンスキー刑務所に移送された。
外観は、それだけでは刑務所とは分からないほど景色に溶け込んだ昔ながらの洋風建築だが、そんな建物の内部は酷く無機質で所々緑色の壁の塗装が剥がれ落ち、補修が行き届いていないのかコンクリートの鉄骨が剥き出しになっていて、まるで廃墟のような趣まである。
長い廊下の先にいくつもの金属の分厚い扉に閉ざされた独房が並んでおり、そのあちこちからドアの軋む音と、看守の叫ぶ声が響き渡る。
彼女たちはまさにそんな場所で勾留されており、厳しい尋問を受けていた。
「政府や警察に対する地域住民の不審が、お前とあの小娘のせいで大きく強まっている。これに、どう責任を取る!?」
一階の取調室にいたミハイルは椅子に両手を縛られた状態で襟首を掴まれ、大きな罵声を浴びせられていた。今彼を尋問しているのはリヴィウ地区共産党の第一書記セルゲイ・ガシチャフであった。
中年小太りで、大酒飲み特有の人相の悪い顔つきである彼は、部下を怒鳴るためだけに支部長を務めているような男だったが、モスクワのクレムリンからようやく長年の連邦と党に対する献身的な貢献が認められ、数週間もすればウクライナ共和国の首都であるキエフの地区共産党の副書記の座が待っている。
「罪状を教えてやる。いいか?国家転覆罪に国家侮辱罪、警官に対する反抗罪。他にもある。何にせよ共産主義の崇高たる理念を汚した、お前の罪は重い!」
ガシチャフはひどく苛立っていた。
昨晩、同じナタリアという名前だけで、ムィコラーイウ村の数件違いの家に住む“ナタリア・ニコラエヴナ・マリノフスカヤ”という、自分たちの追っていた人物とは全く無関係の少女をよく調べもせずに逮捕・拷問してしまったことが、それを命じたリヴィウ地区共産党内での責任問題に発展していたのだ。
彼は自身のキーイウ行きが怪しくなることを強く恐れており、全ての証拠を隠蔽して中央政府にこの一件に関する報告を避けようと考えていた。
とりわけ反ロシアの気風の根強い西ウクライナで、ロシア人や党の信頼を損ねる行為はその地域の民族的な独立運動の機運を高める恐れがあり、タブー視されていたのだから。
「なぜ文化省の役人如きが、このような銃を振り回す?」
彼はミハイルから押収した愛銃のトカレフを面白半分に眺めていた。通常拳銃のグリップは金属板か木製、あるいはベークライト製だったが、彼のトカレフのグリップは非常に稀なことに琥珀を贅沢に使用していた。そもそもトカレフはもはや古い銃で、安全装置も無ければ懐に仕舞い込むにも、大きさからして嵩張ってしまう。少なくとも彼のような役人が隠し持つようなものではない。
「お前は何者だ?一体何の権限があって、こんなことをしているんだ」
地方政治家の自分よりキャリアが上の人間を罵ることは、彼にとってこの上のない娯楽の一つだった。
「このような取り調べは無意味だ。僕は別の部署から明確な指示を受けているのだから」
「まだ痛みが足りないか、ど変態が!」
嘲るように笑うと、ミハイルの座る椅子の脚は蹴飛ばされ、彼は冷たいコンクリートの床に両腕を縛られたまま倒れ込む。
「お前には党本部から逮捕状が出ているのに、何が別の部署だ?党は、この国に、一つしか存在しない」
「ソビエト共産党が一枚岩だと思っているのなら、君はよほどの田舎者だ。国政というものをまるで理解していない・・・そんな愚か者の男が、今度はキエフ共産党の副書記とはね、人事会議もいよいよ末期だ。国が衰退するわけだよ」
咳き込みながら、ミハイルは吐き捨てるように言った。怒りに沸き立つガシチャフがそんな彼の脇腹をさらに思い切り蹴りつけると、彼は大きく咳き込んで、黒々とした血を吐き出す。
そもそも何故彼が、自分に次期キエフ第二書記の座が舞い込んだことを知っているのだろうか。ガシチャフにとって彼の存在の全てが腹立たしく思えた。
「くそったれ・・・じゃあ聞くが、お前は一体誰の指令を受けて、ここに来たというのだ!」
「・・・ゴルバチョフだ」
その言葉に、尋問室にいた党員や KGBの職員たち全員が顔を見合わせて面白可笑しく笑い声を上げる。
「党ナンバー2とも目されている政治局員のゴルビーが、君のような政治家でもない役人ごときに一体何を命じたというのだ!?」
ガシチャフは椅子ごと倒されたミハイルの髪の毛を掴みあげて、再び床に向かって突き放す。だが、それでもミハイルは一向に態度を改める気配はない。
「・・・信じないのなら構わない。君のようにあちこちをたらい回しにされている地方党員とは立場が違うということを分らせてやる。僕にはゴルバチョフ書記だけでなくチェルネンコ最高書記長とも面会する権限があるんだ、少しは敬意を示せ!」
「ふん、馬鹿げたハッタリを抜かすな。私を侮辱するつもりか知らんが・・・!こっちだって、貴様に命というものの有り難みを分らせてやるとも!」
彼の顔は瞬く間に紅潮し、腰にかけられたホルスターに手をかけた。そのままマカロフ拳銃を引き出し、倒れた彼のこめかみに押し当てる。
「同志ガシチャフ、処刑の許可は降りていない」
そばにいたKGB職員の男が、怒りで暴走する彼の腕を掴んだ。
「ギャンギャン喚くKGBの犬どもめ!お前たちまで、この私の邪魔をするつもりか?」
セルゲイ・ガシチャフはもともとロシア南部の工業地帯出身だった。これまで党に人生を捧げてきた強い自覚があったが、40を過ぎた今でも自分のルーツとは全く無関係な辺境の地で勤務させられていることを腹立たしく感じていたのだ。
目の前に立ちはだかる同年代のミハイルがすでに党の信頼を勝ち得て、役人上がりで中央委員会に選出される可能性もあるエリート街道をまっすぐ突き進んでいる事実を知れば知るほど、彼に対しての個人的な妬みは強まっていく。
冷静さを取り戻したガシチャフは固く握られていた拳銃をようやくホルスターに仕舞い込んで、大きく息をつく。床に倒れ込んだままのミハイルを引きずり起こしてようやく椅子に座らせた彼の顔は、血が上るあまり、真っ赤になっていた。
「お前を逮捕せよという命令がクレムリンから直々に下った、お前は別の部署の指示だというが、じゃあ、こいつをどう説明できる?」
ガシチャフが要求すると部下が彼にファイルを手渡す。ガシチャフは、ミハイルの周囲をゆっくり歩きつつ見せびらかすようにその命令書を読み上げる。
「『文化省に属する党員ミハイル・トカレフがウクライナ西部で国家に対する扇動行為を働く恐れがあり、政治局はこの不穏な動きに懸念を抱いている。一刻も早い解決策が望まれる・・・直ちに彼を拘束し、その企みを暴け。』命令書には、このように書かれている!」
ガシチャフは彼に罪を認めさせるためか、椅子に縛り付けられたミハイルの顔にその命令書を押し付けるように見せた。
だが、ミハイルは敵意をむき出しにして言い返した。
「・・・文末の、KGB議長のサインに違和感がある。チェブリコフ議長のサインは以前にも目にしたことはあるが、その筆跡は明らかに違う。そんなにも読めない筆記体を彼が書くものか。彼は確かに改革派を忌み嫌う頭の固い人間だが、几帳面だ。何事にも杜撰な君とは違ってね」
そんなミハイルの指摘は、この命令がKGBの議長、すなわちトップによって命じられたものではなく、KGBの一部の幹部の暴走によるものだという指摘でもあった。
「私が捏造したとでも!?どこにそんな証拠が・・・!」
ガシチャフは又しても彼を椅子ごと後ろに向かって押し倒した。だが、ミハイルは頑なに抵抗を続けた。職員たちは彼の身分が党によって保証されているだけに、思い切った拷問を用いての自白強要手段をとることができないことに苛立っていた。彼が冤罪である可能性も捨てきれない以上、誰も責任は取りたくない。
だが、先ほどから答えを何一つ変えない彼に対して、同じ尋問室にいる職員たちの中には当然、違和感を抱き始める者もいた。
「彼の言うことが本当なら、一度ゴルバチョフ書記に確認を取った方が良いのではないか。もし彼の命令で動いているとすれば、これは重大な問題になる」
一人の職員がようやくガシチャフに提言する。だが、ガシチャフは今にも彼を突き飛ばしかねない勢いで威嚇するように詰め寄った。
「君は党ばかりか、自身の所属する組織のトップの方針に対してもそのような疑念を抱くのか?」
その一言に、誰も言葉を返さない。
「残念だが、その必要はない。ゴルビーはご多忙だから、お手を煩わせるようなことがあってはならない!」
ガシチャフはそのように言い切るが、実のところ彼のような地方の下級官吏にはゴルバチョフと直接コンタクトを取るだけの権限など無かったのだ。何のアポイントもなくソビエトのナンバー2と電話でコンタクトが取れるというミハイル・トカレフの目前で、それは許容しがたい屈辱であった。
古ぼけた電球の明かりだけが煌々と照らす薄暗い地下の廊下を、ナタリアは両脇を二人の警官にがっしりと掴まれながら進んでいた。
その廊下には三人分の靴の音だけが響いている。次に連れていかれるのはどんな部屋だろうか。先ほどまでの小部屋では執拗な尋問が行われ、怖い顔の捜査官と向かい合い、狭くて粗末な机の上で眩しい照明を何度も顔に当てられた。
だがナタリアは、そのような威圧的な尋問に対して必死に抵抗していた。国家反逆罪なんて罪状をかけられても納得できない以上、認めるわけにはいかなかった。ソビエト連邦を良くしようというミハイルの思想に共感しただけなのに・・・他にも洋楽を歌ったり、聴いたりしたことも罪状として追及される。確かにそれは事実だが、一体そのことの何が悪いというのか。
度重なる尋問で、すでに憔悴しきっていた彼女はいよいよ長い廊下の奥に差し掛かる。周囲の檻からは、自分と同じ運命を辿ったのか様々な罪状をかけられて拘束された人々の喚き声が微かに聞こえてくるような気がした。廊下に並ぶそれぞれの囚人部屋の覗き窓は外からしか開けられず、彼女がこの廊下を歩いていることなんか、きっと誰も知らない。
奥から三番目の部屋の前で、ようやく立ち止まった。警官が部屋の重い金属の扉をゆっくり開くと、軋んだ音を立てる。彼女は警官に押し込められるようにして部屋に通されるが、その暗い独房の中に彼女は別の人影を発見して、思わずぎょっとする。そして、今までこらえていた恐怖心が一気に噴き出した。
「離して!家に帰してよ!」
「大人しくしていろ、田舎者の小娘が」
「あんただって・・・あんただって、私と同じ田舎者たい!」ナタリアは廊下全体に響くような叫び声をあげる「私と同じウクライナ人のくせに、こんな理不尽なことして、ロシア人の言いなりになるなんて、恥ずかしゅうなかと!?あんたんロシア語だってね、自分じゃ完璧やて思うとるやろうけど、十分、なまっとる!!!」
地下室は静寂に包まれた。禁句だったのか、恐ろしい表情をした警官が左右から睨んでいた。彼らは拳銃も警棒も持っていて、逆らえばいつだって殺されるのだ。彼女はようやく少し冷静になって黙り込むと、ゆっくりと目をそらし、俯く。
「わ、悪かった・・・です、ほんなこつ・・・」
権力に逆らえない自分という存在はなんと惨めで、情けないのだろうか。悔し涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえるように唇を噛んだ無抵抗の彼女は、先ほどよりも激しく背中を押され、その目の前の小部屋に押し込まれた。
独房には扉の方から見て左右の壁際に二つの硬いベッドが置かれていた。独房の先客は、そのうち右の方のベッドに腰掛けてこちらを不安げに見つめている。悔し涙を流したナタリアは袖口でその涙を拭うと、黙って左側のベッドに上がり、両膝を抱えて座って、落ち込んだように顔を俯かせた。
しばらくしてから、ナタリアはハッとしたように顔をあげる。目の前の少女はこちらに向かい合うように腰掛けて、ナタリアのことを心配そうに見つめていた。
「どうして、あんたはこんなところにいると・・・?」
「私がナタリアという名前だから・・・。国家反逆罪らしくて」
ナタリアは、そんな彼女の言葉に背筋が凍りつきそうになる。
「名前だけ・・・?そんな、他に何かやったんじゃなくて・・・?」
「いいえ。他には、何の心当たりもないわ。私の名前は、ナタリア・ニコラエヴナ・マリノフスカヤ・・・」
「私も、ナタリア、なの・・・ナタリア・ニコラエヴナ・・・」
力なく呟いた。
目の前にいるのは、もう一人のナタリアだ。同じ名前の人間などここにはいくらでもいるが、父称まで一緒なのはある程度絞られる。ソ連では日常的に姓を省略して名前と父称だけを名乗ることも多いくらいだから、きっとどこかで間違いが生じてしまったのだろう。
全部の事情はなかなか呑み込めるものではないが、もう一人、今回の件とは全く無関係の人間が囚われてしまったという現実だけは確かなものだ。
彼女は溢れてきた涙を止めず、頰を濡らす。
自分を責めて、悔やんだ。華奢な少女は突如訳もわからぬまま真夜中に連行され、尋問され、拷問され・・・もう一人のナタリア、自分という存在が判明するまで、このような暴力を当たり前のように振るわれたのだ。
彼女自身、どんな悪いことをしたのかも全く分かっていないのに。
「どうして泣いているんですか?」
もう一人のナタリアは困ったように首をかしげる。
「だって私は、あなたみたいにボロボロじゃないから・・・」
本当はボロボロになるべきは自分のはずなのに、と一瞬思ったが、彼女と同様に、自分だって何も悪くないはずなのに、それも何かが違う気がした。
だから彼女は、この全てはロシア人のせいなのだと決めつける。自分たちをこんな目に遭わせるロシア人が・・・彼女は許せない。
ミハイルの言っていた言葉がまたもや呼び起こされる。ソビエトの悪い腫瘍・・・きっとこれも、その一つなのかと思い知った。
すっかり日も暮れた外では小雨が降り始め、気温は瞬く間に下がり、吐く息も白くなる。軍服の上から着古してシワだらけの革コートを羽織った男とその部下が雨に濡れながら黒光りする車を降りた時、ロンスキー刑務所の裏手口の前では数人の警備兵が敬礼をもって彼らを迎えた。
やや遅れるようにして、建物の中からは様子を見計らって慌ただしく出てきた職員たちも満面の笑みで彼を迎える。皆、彼の到着を心待ちにしていたのだ。
「よく来てくれた、同志クルニコフ、わざわざこのような辺境に!」
「挨拶は結構。それより、ここに国家反逆罪を働いた人間がいるそうだな」
「その通りだ」ガシチャフは胸を張って自信げに答えた。「“党中央政治局の命令通り”、素早く実行した」
「いいだろう。彼のもとへ通してくれ」
自らの手柄を誇らしげに自慢するガシチャフにほとんど興味を示さずにその真横を素通りする。
現在、党政治局員候補の座にあるアレクサンドル・クルニコフという名の男はどこか急ぎ足で、他の職員も置き去りにしたまま部下二名を伴って建物の中に入っていく。
狭くて息が詰まりそうな尋問室の閉塞された空間に足を踏み入れた彼が真っ先に目にしたのは、部屋の真ん中に置かれたパイプ椅子と、そこに両手を縛られた状態で座らせられていたミハイルの姿だった。彼の頰や手首は青紫色に腫れていて、拷問の跡は明らかだ。
「古風な尋問かね。あまり良い趣味とは言えないな」
「しかし、こいつがあまりにも国家を侮辱するような口を叩き続けるもので・・・」
アレクサンドルはそんな彼の弁明に耳を貸すこともなく、まるで昔馴染みでもあるかのようにミハイルの目を近くでまじまじと見つめて、にやりと笑う。ミハイルもまたそんな彼に余裕そうな笑みを返した。
「君は今の自分の置かれている立場がどういうものか、分かるか。反逆者だな」
ミハイルはその言葉に首を横に振った。
「党員である以上、僕は常に国家のために動く。叛逆なんて、もってのほかだ」
「だが私はソビエトの最高意志決定機関、政治局に最も近い人間だ。党の意向は、当然私の意向でもある。断言できる証拠はどこにある?私が違うと否定すれば君の罪状は確定するが」
ミハイルは真っ直ぐに、アレクサンドルに視線を注ぎ続け、決して目を逸らさない。
「君の目を見ていれば分かるよ、僕に罪がないことは」
「黙れ!身分の立場を弁えろ!」
ミハイルのそんな態度に憤ったのは、むしろそばに控えていたガシチャフだ。政治局員の来訪直前に少しでも自分たちの尋問の成果を見せつけておきたかっただけに、彼はまたもやプライドを傷つけられる格好となる。
党への忠誠を少しでもアピールしようと彼がミハイルに殴りかかろうとすると、アレクサンドルの部下がそれを制止した。
「君らしい、権威には動じない態度だ。政治との繋がりが深い外務省ならまだしも文化省の役人でありながら、次期中央委員会の人事会議に度々名前が上がるだけのことはある。クレムリンの人間は皆、それだけ君に関心があるのだ」アレクサンドルは周囲の喧騒など御構いなく、ミハイルに続けた。「だがね、君が今から実行しようとしていた計画というのは非常に荒唐無稽だ。政治局内でも悪い噂が尽きない」
彼は一体どこでそれを入手したのか、書類カバンから一つの資料を取り出した。ミハイルの計画を詳細に記述した文書だ。その文面を覗き込もうと建物内の職員たちは興味深そうに各々首を伸ばす。
「とても興味深い。ソ連のことを君なりに一生懸命考えた計画だろう。だがしかし、これじゃあ反逆罪だと言われても仕方がない。あまりに君のアイディアは資本主義的なんだ。我が国で受け入れられるはずもなかろう」
アレクサンドルの言葉に、周囲の人間も同調するかのように声をあげて笑い、張り詰めていたその場の空気も一瞬だけ和んだ。
「とりあえず聞くがね・・・君にとって、成功の見込みはどれほどのものかね?」
「やることに意味があるんだ」ミハイルは一切の間を置かないで迷わず言い放った。「成功か否かは関係ない。失敗しても、彼女の行動が第二、第三のナタリアを生み出していく。何年かかるか分らない。だがきっと最終的には、これがソ連を変える大きな原動力となる。改革(ペレストロイカ)は、必ず成し遂げられるだろう」
アレクサンドルとミハイルは、互いにどのような意図を持っているのか睨み付けるような視線を互いにぶつけ合いながら黙り込む。しばらくしてアレクサンドルが腰のホルスターからゆっくりと拳銃を引き出したのを見るなり、側に立っていたガシチャフたちは、口元に勝利を確信するような微笑を浮かべた。
「今この瞬間に、叛逆者が誰か分かったよ」アレクサンドルは拳銃のスライドを引きながら、宣言した。「ソビエトの改革を阻止しようと動く人間たちこそ、国家の、唯一無二の敵である」
その場にいた共産党支部の役人たちは、その言葉で顔を見合わせる。一呼吸置いた後で、彼らは一斉に悲鳴のような声をあげた。
「同志ミハイル・トカレフは政治局の信任を受け、この計画に従事していた。ところが党内部の改革に強く反発する保守強硬派の過激な一部の人間が、それを妨害すべく、諸君らに偽りの命令書を送付し、トカレフを拘束するように仕向けたのだ!」
アレクサンドルは天井に向けて発砲した。それを合図に軍服姿の彼の部下二人がすかさずマカロフを腰のホルスターから引き抜き、直近に立っていたセルゲイを固いコンクリートの床に押さえつける。
その場にいた職員たちも突然の剣幕に呆気にとられたが、慌てて銃を引き抜くとアレクサンドルと部下、そしてミハイルに、やや遅れて銃口を向けた。
「諸君、今すぐ銃を置け。誰だって反逆者にはなりたくなかろう」
アレクサンドルは、地下室によく響く声で叫ぶ。職員たちはいずれも困惑した表情で硬く銃を握りしめたまま、それらしい答えを口に出せる者は一人もいない。
アレクサンドルはしゃがみこんでセルゲイの耳元に囁く。
「この分からず屋どもに君から命令してやってくれないか。身の程知らずで君と同様に頭の固い連中だが、君の命令なら聞くはずだ」
「わ、私は、党の命令に忠実に従ったまでで・・・っ!罰せられるのは私じゃない、虚偽の命令書を送付した連中にこそ非があるだろう!」
「確かに一理ある。そっちはおまけだ。本当の罪は別だ」
「な、なんだ・・・」
「ナタリア・マリノフスカヤという無関係な少女の逮捕・拷問だよ。ウクライナ人とロシア人の関係悪化の懸念材料だ。まさかこのことを、民族紛争の火消しに常に神経質なクレムリンが黙っているとでも?」
すると、ガシチャフの顔は見るからに青ざめる。
「なぜ、そのことを・・・!?」
「まさか隠し切れるとでも?あまり我々中央の人間を見くびるな。党もKGBも一枚岩ではないんだ。君たちの情報は全て筒抜けだよ」
彼は言葉の中に、内部告発者の存在を匂わせる。
「君のキエフ行きは、ソビエト最高会議の決定を待たずとも見送られる。明日からは数年間、閉鎖都市の労働キャンプで働いてもらう」
「まっ・・・待て、私は・・・頼む、そんな馬鹿なことは・・・」
「君に恩赦を与えるのは私の役割じゃない。だが、今君がここにいる彼らを説得すれば、君の弁護を、上に依頼してやらないこともないが・・・」
「わ、分かった!おい、聞こえたな!?皆、銃を降ろせ!今すぐに!」
アレクサンドルの目論見通り、部屋にいた共産党員たちは皆渋々と銃を下ろし、それを部屋の隅に置かれたテーブルの一箇所に積み重ねる。
「助かったよ、サーシャ」
部屋にいたガシチャフやKGBの職員たちは皆両手を頭の後ろに上げたまま全員部屋から連れ出され、部屋にはミハイルとアレクサンドルだけが残った。
「気にするな、長い付き合いだからな。私とて不正は許せん。それに、私の娘も早く君に会いたがっているのだ。君がこんな場所で、くだらん罪にかけられたら困るよ」
アレクサンドルは、慣れた手つきで彼の腕を縛っていた紐を切り落とす。そして、ミハイルに、先ほど押収されていたトカレフの入ったホルスターを渡した。
「まだこんな銃を?」
「知り合いから譲り受けたものだから、簡単には手放せない。ありがとう」
「・・・そうだな、君の名字の銃だ。大事にしたまえ」
服の内側に仕舞い込まれるように、ホルスターの紐を肩から引っ掛ける。
「事後処理は我々に任せろ。君は、あのお嬢さんを早く迎えに行くんだ」
自由の身となった彼はアレクサンドルに重ねて感謝したのち、やや身体をよろめかせながらも椅子から立ち上がると、その足で地下牢へと続く階段に向かった。
ミハイルが独房のドアの鍵穴に鍵を差し込んだ時、一瞬だけ、その手を止める。分厚い金属の覗き窓を微かに開いて中の様子を覗き込むと、二人のナタリアが、マットレスのない金網のような二つのベッドの上で互いに黙り込んで座っている様子が、彼の目に飛び込んできた。・・・少女たちをこのような過酷な目に遭わせてしまった罪悪感が、改めて、彼の胸をひどく突き刺す。
鍵を回し切って重い扉が軋む音を立ててゆっくりと開いた。すると二人の恐怖に淀んだ目がこちらに向く。だが、戸口に立っているミハイルの姿を見るなり、彼女たちの目は驚きで大きく見開かれた。
「ミハイルさん・・・!?どうして、ここまでボロボロの身体になって・・・!?」
独房に閉じ込められていたナタリア・リヴォフスカヤは彼の痣だらけの風貌に酷く衝撃を受けて、恐る恐る立ち上がった。
「すまない、また、遅くなったかな」
「どうして謝るんですか!?私の方こそ・・・ミハイルさんのこと、本気で信じられなかった・・・」
涙は抑えようにも止まらない。ナタリアは迷わず駆け寄って痛々しい姿のミハイルの胸に飛び込む。自分の身体は全くの無傷なのに、自分を守ってくれた彼の身体がボロボロであることがとても耐えられない。
彼はただ黙って彼女の涙を自分のシャツに染み込ませ、震える背中を優しく撫でた。
「・・・そこにいるのは、ナタリア・マリノフスカヤかい?君もそんな暗い場所にいつまでもいないで、早くこんな場所から逃げよう」
ミハイルが言うと、ようやくもう一人のナタリアは軽く頷いて、硬い長椅子からようやく立ち上がった。
「私は家に帰ることが、できますか?」
解放されたことによる安堵感は依然として感じられない、どこまでも不安げな表情で呟いた。
「僕が必ず送り届けてあげよう。だから安心して欲しい」
ミハイルは、その言葉でようやく安堵したように笑みを浮かべた彼女の柔らかな表情に心底ほっとする一方、全く無実のそんな少女を拉致して自白を強要した、出世のためなら手段を選ばないセルゲイ・ガシチャフのような卑劣な党員やKGBに対し、非常に大きな怒りを覚える。
そして益々この国を根底から変えねばならないという決意を新たにした。
ナタリアを乗せたミハイルの運転する車は、夜の十時頃にはムィコラーイウ村に到着する。身体中傷だらけのナタリア・マリノフスカヤはひとまずリヴィウ市内の大病院に預けられて一週間ほど入院することになった。
アレクサンドルによれば今回の拉致問題の件で、セルゲイ・ガシチャフの閉鎖都市ニジニ・ノヴゴロドへの更迭、および党員資格の剥奪は免れないという。政府当局は、地域住民の間に共産党への怒りや不満が蔓延ることを恐れていたため、当然の判断であった。彼の処分はナタリア・マリノフスカヤ本人とその家族に対する謝罪として当然の結果ではあったが、それにしても一部に責任を押し付けることで事態の収束を図ろうとするソビエトの悪い体質は、結局のところ、何も変わる兆しは見えない。
「着いたよ」
車は見慣れた田舎道に停車するが、バックミラーに映り込むナタリアは硬い表情のままシートに身体を深々と埋め、まるで動き出す気配がない。
「降りないのかい?」
ミハイルが様子を伺おうと後部座席に振り返ると、彼女は勢いよく身を乗り出した。
「ミハイルさん・・・その、私の今日の決意は、本当なんですよ?」
彼女は、その真摯な双眸を運転席のミハイルにまっすぐ向ける。
彼はそんな彼女の表情を黙って受け止めた。
「今日の出来事で、決心がつきました。確かにソ連には・・・ミハイルさんの言うように、いくら隠そうとも決して覆い隠せない深い闇があるんだってことを、ようやく身を以て知ることができたんです」
知ることができたのはそればかりではない。悔しさに苛まれるように、ナタリアは自分の拳をぎゅっと握りしめる。
「それに、なんて無力なんだろうって思いました。ミハイルさんに守られた時も、独房で私と同じ名前の女の子が傷ついているのに何ひとつ励ましてあげられなかった時も・・・。いつもこんな感じです、私は自分で何かを決める意思が弱いし、すぐに行動することもできない・・・でも、それでも!まずは、そんな弱い自分ば変えたかとです。私は絶対自分自身には負けよごたなか。そして、私たちんこと田舎者呼ばわりするようなロシア人には、絶対に負けよごたなかんばい・・・!」
ナタリアは大きく息を吸い込むと、車外に聞こえるような声で叫んだ。
「どうかお願いします。こんな私を世界の人たちが羨む、強くて格好良くて、その、可愛い・・・最高のアイドルにしてください・・・!」
ミハイルは黙り込んだまま、数秒間彼女の顔を真剣に見つめる。ナタリアにとっても、それはとてお長い沈黙のように感じられたのだが、ようやくミハイルがゆっくり彼女に手を差し伸べる。
「おめでとう。今日から君はソビエトが誇るアイドルだ」
ナタリアは満面の笑みを浮かべて、ミハイルの傷だらけの手を、両手で包み込むように握りしめる。
その感触が、とても懐かしく感じられた。自分には物心ついた頃から父親という、本来なら誰にでもいるはずの存在がそばに無く、優しい彼の手をこんな風に握りしめていると、もし目の前にいる彼が自分の父親だったらどんなによかっただろうか、と思ってしまう。
「明日までに準備を済ませておいてくれ。明後日の朝一に、君は一旦リヴィウ駅からキエフ駅行きの電車に乗るんだ。それから、キエフ駅でモスクワ行きの列車に乗り換える。・・・そこまで、一人でも大丈夫かい?」
ミハイルは彼女に二枚の切符を手渡した。ナタリアは初めての一人旅に少し不安を抱きつつ、どうにかミハイルを安心させようと大きく頷いた。
それから車の外に出た彼女に対して、運転席の窓からミハイルが最後の確認にと声を掛ける。
「しばらく、君はこの場所に戻って来れない。それでも大丈夫かい?」
「はい!」ミハイルの最後の確認に対しても間髪入れることもなく、彼女は元気な返事をした。「だって私、たとえ無実とは言っても、とっくに立派な犯罪者ですもん。もう、学校には戻れない。それに、せっかく昨日まで無遅刻無欠席だったのに、ついに昨日は授業も何もかもサボっちゃったからどのみち行く意味もなくて。さよなら、皆勤賞」
笑顔でそう言い切った彼女に、ミハイルは初めて、声をあげて可笑しそうに笑う。
「よし、ナターシャ・・・素直で明るい君なら、きっとこの先も大丈夫だろう」
軽い握手を交わすと、彼の車は街灯もない田舎道を走り去った。
広く澄み渡った夜空が彼女の真上に大きく広がる。家の前でこれだけ綺麗な星空が広がっていることを、彼女はこれまで殆ど意識したこともない。大都会モスクワに向かおうとしている今になって、そのような素朴な部分で田舎が恋しくなるような錯覚に襲われてしまうが、頭に溢れ出す名残惜しさと寂しさを懸命に打ち消すと彼女はその思考を、憧れているモスクワ・・・ただひとつに集中させた。
家の玄関の前にまでやって来てドアノブに触れようとすると、ドアは勝手に開き・・・その中から、アレクセイが顔を覗かせた。
こんな時間に帰って来て、彼も家族も心配しているだろうということなど全く考えていなかったから、いきなりの兄の登場で彼女は戸惑った。
「・・・遅くなって、ごめんなさい」
その上、昨日の口喧嘩の気まずさがまだ残っていた。彼を納得させるだけの言い訳というのも、まだ完全に練られていたわけでもない。
二人の間には微妙な沈黙が流れている。
「・・・また昨日の党員か?」
アレクセイが沈黙を破るように口を開く。帰りが遅くなったのは昨日の共産党員と話し込んでいたからと思っているのだろう。それは半分正解だったから、彼女は黙って頷いた。
「結局、お前は行くのか。モスクワに」
「・・・行くって、決めたんだよ」彼女は真剣な眼差しをアレクセイに向けた。「アリョーシャが何言おうと構わない。私は絶対、私の力でこの国を変えたい」
アレクセイはいつにも増して頑固で強気な態度の彼女を見ると呆れるようにため息をつく。
それから彼は彼女の腕を少し強引に掴み引き寄せて家の中に入れると、くるりと背中を向ける。それっきり何も言わないもんかと思ったら、
「母さん、別に反対してなかったよ」
そんな突然の言葉を呟いて、真後ろのナタリアを驚かせた。
「そんな・・・兄貴は、私がモスクワに行くの、反対だったんじゃ・・・?」
それなのにどうして?
「中途半端な覚悟で行こうとしてたのを見かねて反対しただけだ。でも、昨日よりずっと真剣で決心もできたお前の目を見たら、反対したって無意味だろう。こんな時間に帰ってくるくらいだから・・・」
彼は決してナタリアの方に振り向くこともなく自分の部屋に入ろうとしていた。きっと優しい表情を湛えているに違いない。彼女は見えない彼の表情を背中だけで勝手に想像する。
たまらなく嬉しかった。普段は決して素直になれないが、今だけは、どういうわけか彼に甘えたくなっている。
「アリョーシャ・・・ありがとう、私兄貴が大好きみたい」
ナタリアは彼が自室に戻ろうとする直前に、思い切りその背中に飛びつく。無下に彼女を振り払うこともできなくて、彼はわずかに、頰を赤くしていた。
◇
二日後に、リヴィウ駅に到着したナタリアはホームに立っていた。
ありったけの荷物を詰め込んで大きく膨らんだトランクには夏用の服ばかりでなく、冬用の分厚いコートも詰め込まれている。この場所にはしばらく戻れないという現実を手元のトランクの重みを感じるたび、改めて噛みしめてしまう。
「お見送りありがとう。ここで大丈夫」
一緒にホームまで来ていたアレクセイはカーキ色の軍の制服に身を包んでいた。今日で休暇は終わり、アフガニスタンへと出発すべく軍の駐屯地に向かうため、同じようにリヴィウ駅へと来ていたのだ。そんな彼自身も重たい荷物を抱えているのに、ほとんど最後までナタリアのトランクを手放そうとはしなかった。
ホームへ降りる階段の手前でようやく彼女が自分で持つと言い切って、お節介な兄から奪い返す。
「身体にはくれぐれも気をつけろ」
「分かってる。でもそれはアリョーシャの方が・・・」最後までナタリアは、アフガンへと発つ兄のことが心配でたまらなかった。「・・・ちゃんと、生きて帰って来て」
「何だ、まだ心配してくれていたんだ」
兄は彼女をからかうように、笑う。
「だって兄貴は・・・、兄貴が生きて帰って来なかったら、お母さんだって悲しむ!」
今度はちょっと不機嫌そうに言った。
「そうだな。必ず再会できるように、とっておきのものを貸すよ」
アレクセイがカバンの中身を漁ると、謎めいた機械を取り出した。少し大きめの四角形の金属製の箱にはヘッドフォンが繋がれていた。
「貸すよ。絶対に失くすなよ、苦労して手に入れたんだから」
彼はその機械に繋がれたヘッドフォンをナタリアの耳に装着させて、電源を押した。手のひらに包まれた小さな金属の箱から流れてくる音楽に、彼女は驚きのあまり目を大きく見開いたままアレクセイを見つめた。
それは、まさしく普段ラジオで聴いているような音楽なのだ・・・!
「ウォークマン。西側では、この機械が流行ってるそうだ」
そんな兄の説明も、今はまるで耳に入らない。
「・・・これ、本当に貸してくれると!?」
彼女は興奮気味に言った。
「ああ、貸すとも。次会う時には返してくれよ」
ナタリアはその言葉が、必ず帰って来るという約束と同じ意味を持つことに気づいて、嬉しそうに頷いた。
そんな二人の会話を打ち消すように汽笛を鳴らした列車がホームに入ってくる。ナタリアはアレクセイとハグを交わして、重いトランクを両手でゆっくり持ち上げる。
「それじゃあ、また会う日まで」
彼に背中を押されながら、勢い良く列車に飛び乗った。乗車券にあらかじめ打刻されていた番号の座席に座ると、彼女は早速アレクセイから借りたウォークマンのヘッドフォンを再び耳に当てる。
その機械の使い方など全く分からないが、側面にあるボタンを押すと再び中のカセットテープは巻き直されて、さっきと同じ曲が最初から再生され始める。
不思議なことに、こうしてウォークマンを聴いていると兄と一緒にラジオを聴いた日々の思い出が鮮やかに思い出されていく。・・・彼女の胸の中に抱えていた寂しさも、今はどこかへうっすらと消えていくような気がした。
煙でぼんやりと煤けた車窓を開けて先ほどのプラットホームを見下ろすと、アレクセイがこちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。彼女はそんな兄に手を振り返し、彼の無事を祈るとともに、次はいつ帰ってこれるか分からない故郷にも、そっとお別れを告げる。
手を振りながら、次にこの場所に帰って来る時までには、さらに強い自分になろうと心の中で静かに誓うのだった。
(2章に続く)
0
あなたにおすすめの小説
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる