ツァーリ・ナタリア!

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第二章

ソ連人

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第二章 「ソ連人」


 ミハイル・トカレフは文化省の大臣などを交えた定例会議を終えたあと真っ先に、赤の広場近くの巨大な政府庁舎に足を踏み入れ、政治局員候補・アレクサンドル・クルニコフの執務室を目指した。
受付で名前を告げて内線電話を繋いでもらうと、待たされることもなく彼はエレベーターでその上階に上がる。天井の高い廊下を進み、その重厚な木の扉の前までやってくる。
 ・・・こんなところに執務室を構えることができるのはソ連国内の限られた人間だけだ。
 扉を開けて中に入ると、調度品の並んだ部屋の真ん中には、革張りの立派なソファに腰掛ける、どこか上機嫌なアレクサンドルの姿があった。
 「いよいよ君の計画が始動するというわけか」
 上機嫌の理由は、テーブルの上に置かれた写真にある。そこに写っているのは彼の一人娘であるソフィアであった。彼女がミハイルによってアイドルに指名されたきっかけは、無論当初は友人の娘としてだったが、ただの親の七光りでは終わらない才能を彼女が秘めていることをミハイルは実施したオーディションの段階でも確信していた。
 「来月の戦勝記念日には間に合わせたい。順調にいけばだが」
 ミハイルは自身が文化省の人間や国営放送局と交渉中である旨を説明する。
 5月9日の戦勝記念日はソ連のみならず、東側…東欧にとっても極めて特別な祝日だ。彼女たちのデビューを飾るには何かと好都合な日に違いない。しかし放送局は国営である以上、当然ソ連政府の言いなりだ。党のお墨付きを得られなければ出演は難しい。
 しかしながら、改革派の先鋒に立つ政治局員のゴルバチョフはその計画に対して比較的好印象であり、彼の後押しの結果なんとか党の公認団体としての承認を得ることができたのだった。
 「兎に角、どこか無愛想なところもある娘だが、是非ともよろしく頼みたい」
 ミハイルの属する文化省の予算は、アレクサンドルの手によって、前年に比較して増額が見込まれていた。それ以外に党内でアイドル計画が一部の反対を押し切って成立できたのも、彼より上の立場である機関、政治局に大きな人脈を構築していた彼の政治力と見事な根回しのおかげだったのだ。
 「こちらこそ・・・サーシャの橋渡しがなかったら、僕のこんな野望はおそらく実現することもなかった」
 ミハイルは深い感謝を込めてアレクサンドルと固い握手を交わした。改革派のアレクサンドルが目指すものは経済の停滞しきったこの国の悪い現状を打破して再びソ連を西側の超大国・アメリカを凌ぐ国家にすることに他ならない。その目標の実現には、党内部にいる保守派の老人たちを悉く一掃し、積極的な改革を片っ端から行う必要がある。
 そして何より、この改革を推し進めて自らの成果を残すことで、悲願であった次期政治局員の座に就くことも彼の大きな野望であった。
 そんな時目の前に舞い込んできた友人ミハイルの計画はまさに、ソ連という国を再び偉大にするためにも・・・そして自分の権力の基盤を確固たるものにするという点でも、非常に優れている。
 そのためにも彼は、ミハイルに対する支援を惜しまなかった。

 執務室を出た瞬間に、彼は圧迫されていた空気から逃れるように深く息を吸い込む・・・手のひらが珍しく汗ばんでいた。計画は、もはや後には引けない段階にまで来ていたのだから、のし掛かるプレッシャーは相当なものだった。
 ・・・親友や純粋無垢な少女たちを騙すという、これほど嫌なことはこの世にはない。
 彼には誰にも言えない秘密がある。今から自分のやろうとしている行為は、表向きにはソ連を救うことだが・・・誰かが自分の本当の目的を知れば、大変なことになるだろう。
 だがそれでも、彼はあらゆるものを失い、どんなに裏切り者と罵られようとも、必ず成し遂げねばならないという野望をその胸のうちに秘めていた。





 
 ナタリア・リヴォフスカヤが西ウクライナのムィコラーイウ村を飛び出してから早くも三日目に突入しかけていた頃。
 「ナターシャ、ナターシャ、・・・起きてよ!」
 耳元で誰かの呼ぶ声がした。
 ナタリアは硬い電車の窓枠に頭を押し付けながら眠りこけていた。夢の中にはカラフルな色合いを持つユニークな 玉ねぎ型のドームの、モスクワのシンボルともいうべき、ワシリィ大聖堂が大きくそびえ立つ。彼女は今、赤の広場に立つ。周囲にはロシア人と、ソ連中のいろいろな肌の色、ルーツを持つ人種の人間がいる。しかし何故かウクライナ人というルーツを持つ自分だけが、たった一人ポツンとその場所に立っていた。
 遠くに兄の姿を見つける。ようやく安堵したのか、彼の元へ駆け寄ろうとするが、その瞬間彼は黒々とした大きな汽車に乗りこんで、見知らぬ土地へと去っていく。彼が手を振る。行かないで、と駅のプラットフォームが終わるまで追いかけても、彼の姿は徐々に遠ざかっていく。
 駅員に止められて自分がこの国に一人取り残されたウクライナ人であることを再び悟ると、眠っている彼女の頰には、一筋の冷や汗が伝った。
 「ねぇ、ナターシャ、起きてってばぁ」
 突如肩を大きく揺さぶられた彼女が目覚めたところにいたのは、銀色の髪の毛を持つ小柄な少女だ。彼女は黒い毛皮帽子をかぶり、その透き通るような青い瞳でナタリアの双眸を、じっと見つめていた。
 「わ・・・ロシア人!?」
 「ううん、ベラルーシ人」
 「あ・・・そうだっけ」 
 彼女が初対面でないことも頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。初対面じゃないとはいえ、あくまで彼女との出会いはまだ1日程度だったが。
 「そんなことより、着いたの!モスクワに!」
 「え、ウソ・・・」彼女は無我夢中で窓の外を眺める。「ほんとだ・・・!」
 駅のプラットフォームに掲げられたモスクワ駅へようこそ、という横断幕が、彼女の興奮を高める。同じ国の首都なのに、ここに来るまでに要した時間を考えるとまるで別の国にやって来たような気もする。
 「・・・ほんとに、遠かったね」
 これから始まる新たな生活に心躍らせる反面、先ほど自分が見ていた夢のような不安だってある。自分は見知らぬ土地にたった一人置き去りにされた可哀想なウクライナ人だ。アイドルになりたいと高らかに宣言したのに、果たして本当にやっていけるのだろうか。今になって、そのモスクワという巨大な都市にやって来たという実感が湧いた瞬間から、とめどなく不安が押し寄せる。
 「ナターシャ、緊張しているの?」
 「うん・・・そ、う、なのかもしれない」
 「大丈夫だよ。だって私がいる」
 にっこり笑った彼女の笑顔に見とれていると、二人の横を客が荷物を提げて続々と通り過ぎて行き、皆出口からプラットフォームに降り立っていく。
 「さ、私たちも行こう」
 少女は荷物棚から要領よく大きな荷物を二人分下ろすと彼女に一つ手渡し、少し前を歩く。少しの間呆気に取られていたナタリアは慌てて荷物を抱えながらその少女の後に続いてキエフスキー駅のプラットフォームに降り立つ。列車の到着を知らせるソビエト連邦国歌のメロディーが先ほどからずっと流れていた。
 「ねぇ、アンゲリナは・・・寂しくないの?」
 大きな荷物と不釣り合いな小さな少女は相変わらず挙動不審に不安がるナタリアに振り返る。
 「さぁ、寂しさよりも楽しみの方が勝っちゃって」
 こんな笑顔を以前にも見たことがあった。
 彼女の笑顔は、これまでに見てきた人間の中でも一番キラキラと眩しく輝いていて、畑に咲くひまわり・・・と喩える方が、しっくりくるような気がした。
 
 彼女・・・アンゲリナ・カミンスカヤとの出会いはつい昨日のことだった。それも単なる偶然の出来事。
 モスクワ行きの列車に乗り換えるためにリヴィウを発った翌日の早朝、ウクライナ共和国の首都キエフに到着したナタリアだったが、列車から降りた時、大きな荷物を担いだ彼女に出会ったのだ。
 初めて出会うベラルーシの女の子は自分よりもずっと小さくて、歳も二つほどしか離れていない。それなのに自分よりもずっと前向きで、広い心を持っていた。
 ベラルーシはウクライナの北部にあるソ連の重要な構成国の一つだ。彼女はその首都ミンスクからやってきたのだという。ミンスクからモスクワまで直行の寝台列車があるというのに、どうしてわざわざ遠回りになるキエフを訪れたのかと尋ねると、彼女自身、今までキエフという都市を訪れたことがなかったから、ついでに寄っておきたかったと答えた。彼女はそんな風に、好奇心旺盛な少女だ。
 キエフからモスクワに向かう列車の予定発車時刻は20時だったから、乗り換えには何時間も時間がある。そこで出会ったばかりの彼女たち二人は駅の食堂で一緒に食事をした後でキエフ中央駅を飛び出すと、すぐさま市内を散策することになった。
 人見知りで臆病なナタリアを小柄な彼女はぐいぐい引っ張る。キエフがまだどんな場所かも理解できていないのにさっと飛び出していくので、案の定、二人は街のあちこちで迷子になっては幾度となく警察官の世話になった。
 キエフ自体は思ったよりも小さな街だし、そこら中にある正教会のおかげで自分のいる場所くらいは掴めるのだが、なにせ丘の上に作られた都市であり郊外に行けば行くほど坂道も多く、実は通れない道もあったりする。
 駅で貰った地図を入念に眺めてから行動したいナタリアだからこそ、行き当たりばったりなアンゲリナと一緒にいるのは楽しい反面、うまく言い表せないストレスが溜まっていく。第一まだ出会ってから二時間と経っていない。誰かと一緒にいることが時に苦痛になることもある神経質な彼女が待ってほしいと言っても快活な彼女の背中は止められなかった。そもそも彼女は人に強くものを頼むことだって得意ではないのだから。
 やや人を振り回し気味の無邪気な彼女に対して流石に文句の一つでも言ってやろうと凄んだ矢先のこと。
 「ねぇナターシャ!あれ、見て、すごいよ!」
 土産屋の露店が多く並ぶアンドレイ坂を下る途中にそびえ立っていた、おとぎ話に出てくるような真っ青なドームを持つ壮麗な聖アンドレイ教会は、空の透き通った青色にすっかり同化して、まるで輪郭を失ったように溶け込んでいた。
 「すごい・・・教会の屋根って、こんなに青くしてもいいの?」
 彼女の旅の疲れや抱えるストレスは一気にどこかへと消えてしまった。同じウクライナなのにポーランドやリトアニアといった周辺国に強い影響を受けてきたリヴィウの建築様式とはここまで違うのかと、まるで感心するように見とれていた。しかし無機質なソ連の物々しい、画一化されたコンクリートの個性と呼べるものがまるでないような集合住宅も、市内にはそれとなく見受けられ、そんなコンクリートの海の中で時代に取り残された教会だけが、どういうわけか置いてきぼりになっているような気もした。
 アンドレイ坂には観光客のために様々な伝統工芸品や土産物を売る露店が立ち並び、そこでは当然ロシア人も数多く行き交う。リヴィウでは少ないロシア人も、ここではさほど珍しい存在でもないのだ。

 キエフの美しい夜景を十分に堪能した彼女たちは打ち解けて、すっかりと仲良しになっていた。今では、モスクワに着いて落ち着いたらまた会おうという約束まで交わしている。
 「ねぇ、ナターシャはさ、どうしてモスクワに?」
 深夜の0時、ようやく乗り込んだ寝台列車のベッドに腰を落ち着かせると彼女はそんなことを聞く。四人一部屋のコンパートメントの列車で、真上のベッドに寝そべる二人の見知らぬ先客は、既にすやすやと寝息を立てて寝ていた。
 そういえば、こんなに仲良くなったのに、お互いモスクワまでの旅の目的を何も知らなかったのだ。
 「私はね、人に会う予定があるんだ。モスクワに住んでみないかって言われて・・・」
 正直に言おうとも考えたが、アイドルという聞き馴染みのない単語をうまく説明できる自信などなかったため、彼女は言葉を濁した。
 「そっか。誰に会うの?もしかして、恋人とか?」
 「それは、・・・その」
 だが当然に、そうやって彼女の追及に戸惑う。
 「いいよ言わなくて、いずれ分かるもの」アンゲリナは、お楽しみは後にとっておくものと言って、それ以上の追及はしない。「私はね、今度からモスクワで音楽の仕事をする。まだ具体的な話は何も知らないんだけどね」
 音楽の仕事と聞いて、自分もそうだ、と思わず言いかけたが、今更答えを言い直すのもどこが気が引けたので、彼女はそうなんだ、とただ相槌を打つ。まさか自分と一緒の仕事をやるのではないかと思ったが、それはきっとただの思い過ごしに違いない。
 だってこの国には非常に多くの人間がいる。あまりに偶然すぎる出会いや奇跡など信じられない。ミハイルからのスカウトすらまだ信じられないでいる彼女は、自分の素直じゃない気持ちに少しだけ嫌気が差した。
 
 夜行列車は二人を乗せて夜の草原を走る。
 窓の外は真っ暗で街灯以外には何も見えなかった。一個隣の部室からは賑やかな声が漏れていた。皆お酒を持ち寄って家族や、または友人たちと一晩中騒がしくするのだろう。時には周囲の寝台室の乗客も巻き込み一晩の付き合いとはいえ、あっという間に仲良しになる。
 二人はそんな喧騒とかけ離れた世界で無言のまま寝床に座り、時々見えてくる闇にぽつんと浮かび上がってくる街の灯りを見つめていた。距離感はまるで掴めない。比べる周囲の景色は全て闇に塗りたくられているから、その街は彼方にあるのかもしれないし、ひょっとすればすぐ近くにあるのかもしれない。
 そんな景色も見飽きて、ふと目線を向かい側の寝床に腰掛けたアンゲリナに移した時、彼女は、やや薄暗いオレンジ色の車内灯が彼女の被る黒い帽子の隙間から覗かれる長い白銀の髪の毛を、まるで黄金色のような鮮やかさに染め上げていることに気づいた。
 まるで昔見た夕暮れ時の小麦畑のようだ。溢れてくるノスタルジーを抱えながら、思いもよらずにうっとり見つめていると、そんなナタリアの視線に気づいた彼女はわざとらしく髪の毛を手で覆う。
 「ナターシャったら、鏡で自分のを見たら?」
 彼女は両肩に垂れた亜麻色の三つ編みを指差した。
 「私の髪の毛は、あなたのように綺麗じゃないもの・・・」
 アンゲリナは歌の仕事をすると言った。見た目もさることながら、きっと歌の技術も信じられないくらい高いのだろう。
 アンゲリナはすっかり黙り込んだまま、まるで仕返しでもするかのように口元をキュッと締めて、笑顔でナタリアを見つめる。こうなるとほとんど睨めっこだ。彼女の人形のような愛らしい目鼻立ちに見つめられると、なんだか自分の愛想のない表情をこれ以上相手に見せるのも嫌になる。気恥ずかしさで目線を逸らし気味になった。
 どうやら、睨めっこは自分の負けらしい。
 「今日一緒に歩いていて思ったの。あなたって、ことごとく自信がない」
 「へ・・・」
 「ダメだよ、自分のことを好きにならなくちゃ、きっとこれからモスクワで何をやってもうまくいかないよ。だから、これから私の髪の毛を見つめるのは禁止」
 意地悪く笑うと、彼女は黒い毛皮帽子の真上の蝶結びを解いて大きな耳あてを垂らし、その内側に長い髪の毛を隠した。
 そんな彼女の様子に見とれてナタリアも変な笑いを隠せなかった・・・気恥ずかしさを打ち消す笑い。出会って間もない少女にそんな風に諭されてしまうなんて、少しも思わなかった。
 「自分のこと、もし好きになることができれば、世界は変わるのかな?」
 どうしてそんな疑問を口にしていたのだろう。今とは違う世界なんか想像もつかないし、そんなに簡単に世の中が変わるとも思えない。
 「絶対に変わる。人生はあなただけのものなのよ?もちろん自分だけじゃなくて、あなたがロシア人のことを好きになれれば、もっと変わるんだけど」
 ナタリアは頬を真っ赤に染めた。たった1日過ごしただけで、彼女にロシア人を苦手としていることはバレバレであった。
 この時のアンゲリナとの出会いが、のちの自分の人生においてかけがえのないものになるとはナタリアは予想もしていなかった。こんなのは、他人を思いやり、助け合うソ連ではどこにでもありふれた出会いの一つであり、ドラマティックには程遠いと思い込んでいたのだから。





 翌日の昼下がり。
 ナタリアは床板を軋ませる音を立てながらゆっくり階段を上がっていた。階段の踊り場の窓からは、周囲を取り囲むようにそびえ立つコンクリートの建物の外壁が眼に飛び込んでくる。太陽の明かりは、そんな無機質な構造物の影に隠されていた。そんな何の面白みもない景色を呆然と眺めていると、彼女の口からは自然とため息が溢れる。しばらくは美しさとのどかさが自慢の、故郷の村には帰ることはできないのかと。
 まるでウクライナの旗のような、大地に広がる小麦畑と青空のコントラストが今となっては懐かしかった。今日から一人でこの街になじんでいけるのだろうかという不安が波になって次々に押し寄せてくる。

 心配事は彼女が今朝モスクワ駅に到着した時から始まっていた。モスクワ・キエフスキー駅に降り立ち、キエフで仲良くなった少女・アンゲリナと一度別れてから、どういうわけか、彼女はロシア人の駅員や警官に散々な扱いを受けたのだ。モスクワは他のどんな都市よりも警官が数多く出歩いているが、駅の構内を記念にフィルムカメラで撮影しようとしたところスパイの疑いをかけられ、交番で疲れるほどの取り調べを受けたのだ。
 その取り調べは約2時間にも渡った。
 彼女が独立意識の高い西ウクライナ出身であることが分かると、これまた言葉のイントネーションがおかしいというような差別的な言葉を悪ふざけ半分に吐き捨てられた。
 それにいちいち突っかかって反論しようものなら、彼らはさらに厳しい睨みを返す。駅構内でのカメラ撮影が禁止であることを再三注意されたのち、ようやく疑いが晴れて交番を出た頃にはとっくに正午となっていた。
 
 憧れのモスクワという淡い幻想は早々に彼女の中から消え去って、赤の広場をぽつんと歩く彼女の足の一歩一歩には僅かな怒りが滲んでいる。撮影禁止の立て札を見なかった自分が悪いにせよ、ロシア人と接するだけで何故あそこまで気分を悪くしてしまうのだろうと、彼女は誰にも相談できない悩みを悶々と抱えてしまう。
 自分でも、それが大きな偏見であることは分かっていた。大体の警官は皆親切で、右も左もわからない彼女に道を丁寧に道を教えてくれる。ところがロシア語の隅々から偏見を感じると、ついウクライナに誇りを抱く彼女は少しだけむっとする。例えば、~出身と表現したい際、通常国を表す前置詞にはв を用いるのだが、ウクライナ出身の彼女がいくら意識して~в Украине(ウクライナに住んでいた)と言っても、駅や広場といった場所を表す前置詞наを用いて”на “Украине?(ウクライナに?)と訂正されてしまう具合だ。
些細な部分ではあるのだが、こんな言葉の節々で、所詮自分という人間はロシア人からすればよそ者にすぎないのだと気付かされてしまう。
 出発前、ミハイルから手渡された書類一式を手元に抱えて不動産を管理する政府職員の元へと赴いて、厳つい表情を湛えたロシア人の役人とちぐはぐな手続きと会話を交わし、それでようやく部屋の鍵や書類一式を受け取った彼女は逃げるように新たな自分の住処・・・モスクワ郊外にある寂れた共同住宅へと、やって来たのだ。
 
 モスクワ市内には建築された時代の異なる様式の建物が混在している。
 1950年代、スターリンが政権を担っていた時代に建築された様式の建物は、スターリンの名を取って“スターリンカ”と呼ばれている。
 この様式の建物は他の建物と比べて非常に厳つく、頑丈で巨大、室内も広々としており、装飾が施されることも多い。外務省の本庁舎や、モスクワ大学の巨大な校舎などがスターリンカの代表的な例であった。
 もちろんスターリンカと単に言っても、そびえ立つ荘厳な建物だけがスターリンカであるとも限らない。そのような豪華な建物に住まうことができたのは警察や官僚といった特権階級ノーメンクラトゥーラと呼ばれる一部の階層の人々のみであった。都市部に住む工場働きの一般的な労働者に与えられる同年代の住宅もまたスターリンカと呼ばれるのだが、豪華さとは程遠く四角いコンクリート製の無機質な、いわゆるアパートの類であった。特権階級用のスターリンカと区別する意味でコムナルカ共同住宅とも呼ばれるそれは必要十分に快適であり、共同のトイレや台所、浴槽を備える全く無駄のないものであった。
さて、そんなコムナルカも時代によってフルシチョフカ、ブレジネフカと区分される。だがこの二つにさほど大きな差もない。
 表向きには平等を謳うソ連のユートピア思想とはどこか乖離したものであるこれらの様式であるが、ソ連市民にとっての憧れの住まいの原点、モスクワやペテルブルクといった都市への憧れを抱かせる役割を十分に果たした。
彼女が住まうことになったのは、そんなブレジネフカが増えてきたモスクワの中でも一世代前の様式となった、フルシチョフカの古びたコムナルカであった。
 
人口過密都市であるモスクワは住宅不足がとても深刻であり、住まうことさえ困難な状況は今も相変わらずだ。物不足が深刻なソ連では普通の商品を買うだけでも長蛇の列を作ると言われるが、アパートもまた例外ではない。モスクワやレニングラードといった大都市に住みたいがために、粗末なバラックにすら労働者は住み着いた。そのような状況下で大変恵まれたアパートに、いわば“政府のコネ”で住まうことができるというだけでも感謝せねば、という気持ちをナタリアは抱き、浮かんでくる不満全てを揉み消そうと努力する。
 (隣に住む人、どんな人だろう・・・)
 家族以外の人間とも顔を突き合わせての生活などあまり想像できなかった。風呂もトイレも共同で、となるとほぼ毎日誰かと顔を合わせるわけだから、人見知りであることを自覚しているナタリアは肩身の狭い思いを感じずにはいられない。

 ずっしり重いトランクを抱えたまま一階のロビーから階段を上がり、三階の廊下にたどり着いた彼女は廊下を歩く。こんな景色の街でも、せめて部屋の中だけは自分の理想通りであってほしいというささやかな願いを抱きながら、廊下の突き当たり、自分に割り振られた部屋の戸を開いた。
 「うわぁ」
 部屋に入った瞬間に彼女が口にした第一声は、そんな呆れ返るような言葉。カビ臭い匂いが鼻につき、当たり前だが住み慣れた実家の一軒家とは大きく違っている。
 呆然とした気持ちで近くの壁を試しに指で撫でてみると、壁に塗られた塗料の粉が付着する。他の部分に目をやると、ひび割れたコンクリートがむき出しになっていて、職員の言葉通りリフォームをしたとはいえ築年数が20年という時の経過による老朽化だけは決して誤魔化せない。
 トランクを部屋の隅に投げ出したまま、彼女はすでに備え付けられていた窓際のベッドの上に転がり込む。硬いマットレスに横になったまま天井を見つめて虚無感をうち消そうと躍起になり、アイドルの仕事が始まってステージの上に立ち、色鮮やかな照明が当てられた自分の姿を想像してみた。そんな夢を叶えるためにここへやって来たのだから、この程度の試練は神様が自分を成長させるために与えてくれたものなのだと懸命に言い聞かせた。
 そうしているうちにも、やがてどれくらいの時間が経っただろうか、ウトウトと疲れで眠りかけていた頃、廊下から賑やかな話し声が急に耳に飛び込んで、彼女を妄想の世界から現実世界へと強引に引き戻した。
声はどんどんと近づく。
 しまいに自分の部屋の前までそれが訪れた時、ナタリアは息を押し殺すように身動き一つ取らずベッドの上で固まった。
 部屋の戸がノックされると、覚悟したようにゆっくりと立ち上がって部屋の戸を恐る恐る開いた。・・・同じアパートに住む住人なのだろうか?
 ドアを開いた先には、一人の女性が立っていた。
 「こんにちは。あなたが今日引っ越してきた子ね」
 背の高くて綺麗なブロンドの髪の毛をおしゃれにパーマしている女性は目元に笑みをうっすらと浮かべ、唇に塗られた赤いルージュの下に白くて整った綺麗な歯を見せる。全体の雰囲気もそうだが、顔つきからしてロシア人とは違う。甘いダマスクローズを思わせる香水をかすかに漂わせた彼女のロシア語には、ロシア人とは違う、やや厳つい訛りがあった。
 「は、はじめまして・・・私の名前は、ナタリア」
 「知ってるわ。ナタリア・リヴォフスカヤちゃんね。ナターシャと呼ぶわ。よろしくね」
 背の高い女性とゆっくり握手をしようと手を伸ばすと、彼女の後ろにこっそり隠れていた少女が、見覚えのある美しい白銀の髪の毛を揺らして、愛らしげな顔をひょっこりのぞかせる。
 「ナターシャ、お部屋の雰囲気は?」
 ナタリアはあまりに予想外の出来事を前にして、言葉を失った。
 「あなたのことはこのリーナから聞いてる。それにミーシャからも!」
 彼女はミハイルとは既に知り合いらしかった。彼女がアンゲリナに、今日ここに入居してくるウクライナ人の話をすると、アンゲリナは驚いた顔をして、行きの電車で、まさにそのウクライナ人と出会った話をしたという。
 当然そんな偶然など簡単には信じてもらえるものでもない。ドイツ女性とアンゲリナは、ナタリアのいないところでこっそり、ナタリアが本当にここへ来るかどうかの賭けをしていた。
 「疑ってごめんなさいね、リーナ。この賭けはあなたの勝ち」
 「ふふ、これで最初の掃除当番はエルザさん」
 彼女エルザ・ディートリヒは東ドイツの出身だ。そこは決してソビエト連邦の構成国ではないのだが、同じ東側に属する重要な同盟国だ。そして西ドイツという西側の国家と壁一枚隔てた、東西に分断された悲しい国家でもある。国が民族ごと真二つに割られてしまうというのは一体どのような感情なのだろう・・・ナタリアには、とても想像がつかない。
 「国が二つに裂かれたら悪いことばかりよ。もし裂かれた時友達が西側に行ってたら、もうこっちには戻って来れないし」
 友達だけならまだしも、家族も、誰も彼もが、ベルリンにそびえ立つ大きな壁によって引き裂かれたのだという。
 「・・・それって、もとはと言えば、アメリカや西ドイツが悪いんですよね。東ドイツの優秀な技術者や学者を騙して西ドイツに連行した・・・それを食い止めるために壁を作るしかなかったんだって・・・そんなの、許せないな、その人たちにだって家族はいたのに」
 エルザは勢いよく出たナタリアの純粋な言葉に一瞬きょとんとした。
 「ううん、ナターシャ。それはね、お互い様。大きな声じゃ言えないけど、ソ連にも責任があるの。でも私は、いつかドイツが一つになることを望んでいる」
 「いつか必ずソ連が動いて、東ドイツが一つの国家として統一を果たすはずですよね。だって、ソ連は同盟国を助けるんですもん」
 「・・・そうね」
 どこか含みを持たせる言い方。それから、まるでタブーの話題であるかのようにエルザはそれ以上そのことに関しては何も口にしなかった。自分の言ったことを褒めてくれると思っていただけに、そんなエルザの反応はナタリアにとってはとても意外だったし拍子抜けだ。
 「もう分かっているとは思うけれど、ここに住まうことになった子たち、みんなあなたと同じ計画の参加者よ」
 彼女は今更大事なことに気がついたように目を丸くしていた。アンゲリナが行きの電車で、モスクワでこれから始めようとしている歌の仕事は何の因果か、本当に奇跡のような偶然で、自分がこれから目指そうとしている仕事と一緒なのだ。
 「私たち、ただの友達から仕事仲間になっちゃったね」
 人懐っこいアンゲリナは、突然の展開に戸惑うナタリアを安心させるかのように、彼女のこわばった手を白く柔らかい指で包み込む。
 思えばこの少女もベラルーシ人・・・。
 その瞬間、ミハイルの言っていた言葉が鮮やかにナタリアの頭の中に蘇っていく。ソビエトや共産圏の様々な場所から一つ一つの花を集め花束にするという、胸を高鳴らせるあの言葉だ。
彼女の中に自分はウクライナを代表する花だという、何度心の中で唱えようとも想像のつかなかった非現実的な言葉が・・・いよいよ現実味を帯びて目の前に訪れる。
 ところが、自分はまだまだ芽も出ていない状態なのではないか、本当にこれから花を咲かせることはできるのか・・・といった不安な気持ちが、一方では反発するように彼女の胸に押し寄せてくる。
 目の前にいる彼女たちの姿というものは、鏡を覗いた時に映り込んだ自分自身の姿よりもずっと美しく華やかで可愛らしい容姿だから、すでに立派な花を咲かせているではないか?
 野暮ったい三つ編みをいつまでもしてる自分なんて、ダサいだけ。自分に自信がなく、すぐに他人と比べてしまいがちな彼女は当たり前のようにそんなことを思う。
 「ナターシャ、何も心配することないの。あなたの目の色、髪の色は抜群に美しいわよ」
 エルザはナタリアの耳元でそっと囁く。
 咄嗟のことで呆気にとられてしまったナタリアに、彼女は追い討ちをかけるようにウインクを投げた。
 「これからアパートの中を案内してあげる。付いて来て」
 ナタリアの抱える不安や迷いを真正面から打ち消すように、エルザは彼女の腕を強く引いた。初対面とはとても思えないその強引さだが、彼女は全く抗うことができなかった。
 「行こうよ、ナターシャ」
 無邪気なアンゲリナはそんな戸惑うナタリアの背中を強く押した。

 エルザの案内で、4階建の共同アパートの建物内に備えられたキッチンや風呂場などを確認する。どれもナタリアが思っていた以上に掃除が行き届いており、古さなど感じさせない。ガスや電気も水道も全部ある。何とかやっていけることを確信すると、彼女は大げさに胸をなでおろした。
 「掃除や料理は当番制ね。今日の時点でアパートに住んでいる子はあなたたち三人。他の三人は明日には引っ越して来る予定だから、それからちゃんとした役割分担を決めるわ」
 徐々に秘密のベールに包まれていたアイドル計画の骨格部分が、わずかながらにも見えてきたような気がした。
 七人・・・それがこのアイドルグループのメンバーの数なのだろうか、他にどんなメンバーがいるのだろうかと、ナタリアはあれこれ頭の中に思い浮かべてみた。ソ連の構成国は10以上もあるが、その中にロシア人は含まれているのか?しかし考えてみればソ連の盟主ロシアの人間が含まれていないはずはない。少々の不安が滲んだ。
 「ナターシャ、ここにはいないけどね、あなたの向かいのお部屋に今日引っ越してきた子がもう一人いるの。さっきノックした時はお昼寝中だったみたいで、応答がなかったんだけれど」
 アンゲリナがナタリアの服の袖を引っ張ると、今歩いて来た廊下の先を指差す。
 「エルザさん、その人はどこの国の人で・・・」
 「何言ってるのナターシャ、“ソ連人”ね?」
 「あ・・・」
 「ソ連に住む子はみんなソ連人。いくら、各々の民族的なアイデンティティが違っていても」
 エルザは笑って言ったが、目元は笑っていない。その微かな表情の変化も、他者の気持ちに過度に敏感なナタリアは見逃さなかった。
 「ごめんなさい、エルザさん、私、そんなつもりじゃ…」
 申し訳なく呟くと、エルザの目元は急に和らいだ。
 「少し厳しめの言い方になったわね。誰が、どんな民族なのか知ることは大事なこと。だからあなたがそれを聞いたことは良いことよ。でもね、私たちはどんなに出自や宗教、思想が違っても、絶対に同じ国民であるってことは常に頭の片隅に置いていて欲しいから、こんなことを言ったの。気にしないで」
 ナタリアを引き連れたエルザは例の隣人の部屋の前で立ち止まる。
 「じゃあ、一応言うけど。…この子はロシア人よ」
 彼女がロシア人に対して偏見じみた苦手意識を抱いていることを知っているかのように、エルザは呟く。ナタリアの顔はわずかに曇った。
 人種だけで判断することはよくないと分かってはいるものの、やはりどんな人間か気になって仕方がない以上、人見知りで小心者な彼女の胸は相変わらず不安でいっぱいになっていた。
 「開けてみてナターシャ、ソフィーはすごくいい子だよ。きっと大丈夫」
 アンゲリナは笑顔でそのように微笑むが、きっと誰に対しても人懐っこくて愛される存在であるはずの彼女だから、そんな感想が自ずと出てくるのだと、ナタリアは彼女の言葉などあまり参考にならないといった感情を抱く。しかしソフィア・・・そんな名前の彼女は一体どんな顔をしていて、どんな性格をしているのだろうかという謎めいた好奇心も、一方では彼女の頭の中を支配する。だが、それ以上に今の彼女を突き動かす原動力は、これから何年間か、嫌でも絶対に顔を突き合わせていかなければならないという、逃れることのできない運命だった。
 
 心臓が高鳴ってしまうのをどうにか抑えて意を決した彼女が部屋の戸を叩くと、ゆっくりドアが開き・・・眠たげな赤髪が、ふらりと向こうから現れた。
 その眠そうな彼女の目はナタリアより少し高い位置にあった。ロシア人という心理的な大きさもさることながら、背の高さという物理的な大きさまでもが、ナタリアを必要以上に怖がらせる。
 「・・・おはようございま・・・」
 「・・・は、は、はじめまし、て!」
 緊張しながらもまっすぐ凝り固まった手を差し出したナタリアの手を見て、彼女はそれをただ無関心そうに眺めた。
 「・・・」
 「・・・」
 互いに見つめ合うだけの無言の時間が続いた。ナタリアは平静さを欠き、背筋からは冷や汗がどっと吹き出しているが、自分のことを見下ろしている彼女は一体今、何を思っているのだろう。
 思考が完全に停止してしまっているナタリアは、この沈黙をかき消すためには、果たしてどんな言葉を言うのが正解であるのかも分からない。
 そんな彼女が訳もわからず差し出した右手を、目の前に立ちはだかるソフィアはやはり無言のまま黙って見つめている。そして、ナタリアの背後からはエルザの笑いを押し殺す声がした。
 「・・・ああ、握手?ほい」
 しばらくしてから、ようやく目の前の癖毛まじりの赤髪はぽんと両手を叩き、彼女の手を握った。互いの細い指がようやく触れ合って・・・、ナタリアの頭の中には不思議な感情が渦巻く。彼女の綺麗な赤髪、わずかに高い身長。そして大きな胸・・・そして、この国で一番偉いというロシア人。
 本当に、こんなにも自分のコンプレックスが化けて出たような人間と、すぐ誰に対しても劣等感を抱きがちな自分が、果たして仲良くなれるのだろうかと、ますます不安がる。
 「で、あんたは誰?」
 「え、え、えと、私は・・・ナタリア・・・」
 ソフィアは彼女の全身をつぶさに観察した。その無表情は、どんな感情を抱いているのかヒントさえくれないほど冷たく感じる。
 「ナタリアね。あんたの亜麻色のおさげ、美味しそう」
 「はぁ・・・!?」
 それまで握り合っていた右手を慌ただしく引っ込めて、彼女は警戒の姿勢をとる。
 「もうソフィーは、また食べ物のこと考えてるの?」
 後ろでアンゲリナが可笑しそうに笑った。
 「だってほら、もう夕飯の時間だし」
 ソフィアは眠そうな目をこする。
 アンゲリナに対しても無表情な彼女だが、アンゲリナとはうまく打ち解けているらしかった。ナタリアは、こんな自分といきなり仲良くしてこようとする彼女だから当然と言えば当然だ、と思った。
 自分も、そんなふうにソフィアと仲良くできたらいいのに、とは思うものの、一体何を考えているかわからない上、話のテンポが噛み合わない相手とはどのように接すればいいかなど、分かるはずもない。
 だからこそ、誰とでもすぐ打ち解けるアンゲリナの性格が、今だけはとても羨ましかった。
 そんな時、誰かのお腹が勢い良く鳴り響く。
 「・・・」
 全員の視線はソフィアではなく、ナタリアに注がれている。
 彼女は恥じらいの気持ちを少しでも紛らわそうと視線を泳がせた。すると廊下の端に掛かっている時計が彼女の目に飛び込んでくる。17時半を指している時計の針を見た瞬間、自分が朝から何も食べていないのだということに気づき、ますます空腹感は強まった。
 「お腹空いてるんだね、誰がこの中にいるの?」
 アンゲリナは面白おかしくナタリアのお腹を指でつつく。
 「アンゲリナ、やめて!」
 「ほんと、あなたって面白い!気に入ったわナターシャ」
 エルザとアンゲリナは腹を抱えて笑い合っているが、そんな中でもソフィアだけは無表情にぽかんと虚空を眺めていた。
 エルザは一度彼女たちに一度外へ出る支度をするために部屋へ戻るように促した。数十分後、揃った皆に彼女はこれからレストランでロシア料理をご馳走してくれるという話をした。

 モスクワには古くから地下鉄の路線が開通していた。地下深くに続く長いエスカレーターを下ると、1950年代のスターリン時代の名残がある豪華絢爛な駅構内が、彼女たちの視界に飛び込む。メトロという存在など人生の中で一度も見たこともなかったナタリアは、その天井の装飾や、壁に並んだソ連の英雄の像に何度も釘付けになっていた。
 通勤客でごった返しているモスクワのそんな地下鉄構内を、四人は前後に2人、二列で歩いた。アンゲリナと並んで歩くナタリアは前を歩くソフィアの背中を警戒するように見つめている。
 それにしても背の高い二人が人混みを掻き分けていく姿は圧巻だ。エルザの身長の方が少し高いものの、どちらも170cmを優に超え、180にも届きそうだ。隣を歩くアンゲリナは150cmには届いていると主張したが、どうにも怪しい。
 一方の自分も会う人会う人に160cmと主張しているが、測り方によっては158cmで、少し足りないことだって多々ある。
 どのみち前を歩く二人に比べれば自分たちの存在が小動物に過ぎないことになんら変わりはなかった。
 「私も、ロシア人に食べられちゃうのかな」
 ナタリアは半分だけ冗談混じりに言った。
 「おかしな事言うのはソフィーだけだよ、安心して」
 ソフィアはエルザと何気ない会話をしている様子だが、そんな彼女たちが一体どんな会話をしているか、内容は周囲の喧騒ではっきりと聞き取ることができない。
 「・・・ナターシャは頑張ってソフィーと仲良くなろうとしてるの?」必死な彼女の様子をアンゲリナは真横からまじまじと見つめる。「でも焦ったら、きっとソフィーもびっくりして、ますます殻に閉じこもっちゃうと思う」
 「だって・・・。というか、アンゲリナの誰とでも仲良くなれるコツを教えて欲しいな」
 こんなにも誰かが羨ましいと思うのは、彼女の人生できっと初めてのことだ。誰かを羨まなくとも、平等に物が手に入るこの国では生きていけると信じていたのだが、それは所詮小さな田舎のコミュニティという世界の中だけの話で、モスクワいという大都会で芸術という方面に進む以上、物質的なモノ以上に能力や才能だとか、そんな目に見えないモノが必要になる。
 それは共産主義国家でも平等に手に入らないし、簡単には手に入らない。どんな才能でもお金で買えたら、楽なのに・・・。
 「無理に仲良くなろうとするんじゃなくてさ、相手のことを好きになるの。相手の好きなところを、たくさん見つけてあげる。それが誰かと仲良くする一番の方法だよ」
 アンゲリナは相変わらず、さも簡単であるかのようにそんなことを言うが、相手の好きな部分を見つける行為自体がとにかく苦手なのに一体どうすればいいのか、とナタリアは不満そうに口を尖らせた。
 自分のことだって好きになれないのに。

 クレムリンにほど近いアルバーツカヤ駅に降り立った四人は、歩いてすぐの場所にあった高級レストランの中に足を踏み入れた。予約されているのか、すぐに彼女たちは二階の部屋へと通される。
 「あなたたちにはね、3人組のグループを組んで今月9日の戦勝記念日、ラジオ番組の中で曲を歌ってもらうことになったの」
 赤いカーペットの敷き詰められたレストランの窓際で白いテーブルクロスを引いた長方形のテーブルを囲む三人は、そんなエルザの言葉に釘付けになっていた。9日といえば、今からわずか一週間後であった。実家にいる時から頻繁に聴いていたラジオに、まさかこんなにも早いタイミングで自分たちが出演する機会が舞い込んでくるとは考えてもいなかった。
 ナタリアにとってずっと憧れていた夢のようなオファーには違いなかったが、呑み込むこともできずに驚いてぽかんと口を開けていると、給仕が彼女たちの目の前にガルショーク(つぼ焼きシチュー)を運んだ。
 「あ、そのガルショークはね…容器の上にかぶせてあるキノコの傘みたいに膨らんだパンをちぎって、中のシチューにつけて食べるの」
 かぶさった焼きたてのパンの芳醇な香りが食欲をそそる。
 「美味しい」
 ソフィアはエルザの説明をろくに聞くこともなく、すでに慣れた手つきでパンをその大口に放り込み、もぐもぐと盛んに動かしている。
 容器にパンの生地をそのまま被せてオーブンで焼き上げるガルショークは当然上に乗ったパンが高温であり、アンゲリナはちぎるのにも苦労している様子だった。
 彼女たちが皆一様にせわしなく口と手を動かしている中でもナタリアの頭の中には目の前のシチューなどまるで存在しないかのように、先ほどのエルザの話ばかりが何度も繰り返されていた。
 誰よりも空腹であったはずの彼女は、しばらく料理の前で黙り込んだまま何か考え事をしていたが突然ふとあることに気づいたように驚いた顔を上げる。
 「・・・ってことは、練習時間、たった一週間ってことなんですか・・・?」
 その場にいた全員が食事をする手をぴたりと止めて、一人だけ場違いな彼女を見つめる。
 「食べないのかしらナターシャ、あなたが一番お腹空いてるんじゃないの?」
 さきほど彼女が鳴らしたお腹の大きな音を思い出したように、エルザはまたクスリと笑みを浮かべた。
 「冷めちゃったらもったいないよ」
 ナタリアの右隣に座ったアンゲリナは両手で可愛らしくパンをかじっている。
 その一方、左隣に座るソフィアはもうそれを完食したらしく、上品に紙ナプキンで口元を拭っていた。
 一人だけ周りの空気から取り残されていることに気づかされた彼女は恥ずかしそうに手元の熱いパンをちぎり、つぼ型の陶器に入ったきのこ入りのシチューにつけて、ゆっくりと口に放り込む。朝から何も食べていなかっただけに彼女の目はその瞬間、キラキラと輝いた。
 「お、おいひい、れす!」
 火傷しそうになるくらいの熱々のパンを放り込み、ゆっくり味わっていると、彼女たちの目の前にはさっそく次の料理が運ばれる。
 「あれ、これがボルシチ?」
 それはしかし、彼女のよく知っているボルシチとはまるで違うもののように感じた。
 普段から食べているスープというよりも、それはまるでシチューだった。使われている具材だって、まるで違う。怪訝な顔で見つめて、これはボルシチではないと、彼女は自分でも気づかぬうちに無意識に呟いている。
 「へぇ。私の知ってるボルシチは、これだけど?」
 すると突然左隣に座るソフィアがそんなことを、まるで言葉を返すように呟いた。やはり美味しそうに、スプーンですくっては素早い手つきで口の中に放り込んでいる。まるでショベルカーのようだ。
 「・・・ぼ、ボルシチはウクライナ料理ばい、ロシアのものじゃなか!」
 ナタリアはどういうわけかむきになって、ソフィアのそんなさりげない言葉に噛みついていた。自分の祖母から教わったレシピともかけ離れていたため、その思い出を踏みにじられたような気持ちになり、どうしても抗いたい気持ちが芽生えていたのだ。
 「どっちでもいいじゃない、そんなことはさ」とても無関心そうにソフィアは口をモゴモゴと動かしながら言った。「食べてみて。このボルシチ“もどき”も、あんたが思っている以上に美味しいから」
半信半疑のまま、彼女はソフィアが美味しそうに食べているのを横目で眺めながら、それをスプーンですくい上げる。しかし思った以上にとろけた牛肉の香りが鼻腔を刺激し、それはナタリアの食欲を誘う。
 「・・・お、美味しい・・・」
 ウクライナのボルシチは基本ビーツなどの野菜を中心に煮込んで作るスープのような食感のものが多いが、ロシアなど一部の地域ではビーツの他にトマトなども加え、シチューのようにじっくり煮込んで作るものもあり、具材も味わいも地域によって多少異なる。東欧だけで40以上ものバリエーションのある料理だが、ウクライナの田舎から一度も出たこともなく一つの種類のボルシチしか知らなかったナタリアには、違う種類のボルシチがこの世に存在することなど考えたこともなかったのだ。
 「ね。料理に国境なんかないよ」
 ソフィアはナタリアと顔も合わせず、相変わらずの無表情で呟く。ナタリアは自分が何故こんなにムキになってしまったのか分からずに、押し寄せてくる恥ずかしさで頰を赤くしたまま黙々とそれを味わう。
 「・・・ば、ばってん、やっぱりボルシチは、ウクライナが発祥ばい、こりゃ別ん料理で!」
 「ふぅん」
 やはり納得がいかないのかウクライナ語をむき出しにするほどの彼女を、しかしソフィアは特に相手にすることもなく素早く手元の皿を空っぽにする。
エルザはそんな2人の言い争いに特に口を出すわけでもなく、ただ黙ったままどこか楽しげに傍観していた。
 
 料理を完食した後で全員の前にはジャムを添えた紅茶が出された。ウクライナでも紅茶にジャムや蜂蜜を入れて飲む機会は多いが、他の皆がどのように飲むのかを、ナタリアは注視した。ソフィアは、ジャムをスプーンで一口含んだあと、紅茶を口にしていた。
 「これがモスクワ風」
 教えて欲しいと頼んだわけでもないのにナタリアに言った。だが彼女は妙な反抗心でそれを試すこともなく、ジャムを四杯ほどスプーンで掬い取ると、ティーカップに放り込んでかき混ぜた。
 ひと段落し終えたところでエルザが先ほど途中まで口にした話の続きを始めた。ナタリアは誰よりも彼女に釘付けになり、その言葉を一言一句漏らすまいと懸命に耳を傾けていた。
 「戦勝記念日を祝福する国営放送のラジオで夕方にひとつだけ放送枠が空いたから、そこであなたたちが歌うことになってるの。お願いできる?」
 戦勝記念日とは、第二次世界大戦でナチスドイツからの厳しい侵略を受けたソ連が、1945年5月、ドイツの降伏に伴って戦いに打ち勝った日であり、侵略を受けた東欧諸国では最も重要な記念日とされていた。
 ウクライナに住む多くの人々もその戦争を経験し、多くの犠牲者を出していたため、彼女にとっても大きな祭りとして非常に馴染みの深い行事であった。
 政府にとってもこのような記念日にこそスラヴ民族を鼓舞したいという意図があり、『民族の融和・友好』をモットーに掲げて活動する彼女たちの番組への出演は好都合で、即座に出演許可が降りたのである。
 「そういえばエルザさんは出演しないんですか?同じアイドルなのに」
 「今回はあくまでもお試し出演だから、三人で十分なのよ。他の子達にも言ってある。いくらソ連とはいえ、ウクライナ・ベラルーシ・・・そしてロシアがこの国の中心だもの、先陣くらい譲ってあげなくちゃね」
 反響次第では今後彼女たちの活動の指針が定まるのだという。もし国民からの問い合わせが殺到すれば、頻繁にラジオ番組への出演のオファーが来るし、劇場でのコンサートが開かれる機会というのも十分にあり得た。
 もちろん失敗すれば、それから何ヶ月、何年と仕事は無くなってしまう恐れだってある。まだ顔も知らない他のメンバーのためにも、どこか責任の重い初舞台であることには違いなかった。
 「明後日からが特訓。アパートに隣接するスタジオでレッスンを受けてもらうわね」
 いよいよ始まる自分のアイドルとしての道。
 ナタリアは手元のすっかり甘くなった紅茶を、勢いよく飲み干した。初めてのラジオ出演に淡い期待を抱く一方で、果たして上手くやっていけるのかという不安も、やはり、強く抱いた。



 朝早くナタリアは廊下から聞こえてくる騒々しい話し声を耳にして目を覚ます。硬いマットレスの敷かれたベッドは旅の疲れをあまり癒してくれなかったが、それでももう少しだけ惰眠を貪っていたいと寝返りを打つ。けれども、そんな彼女の望みは無視されて、廊下から聞こえてくる騒音が、ますます彼女を起床へと追い立てる。仕方なく重石のぶらさがったような瞼をこじ開けて靴を履くと、彼女はドアの前にまで歩いた。するとその話し声はより鮮明になっていく。
 二人の女が、廊下の先でやかましく言い争っているのが聞こえてきた。彼女はドアに耳を当てて、そんな彼女たちの会話を盗み聞いた。
 「部屋を交換してほしいと言っているだけじゃない!」
 「どの部屋だって大して変わらない。嫌だよ、譲る義理なんかないね」
 「変わるの!私の部屋の隅にどでかい支柱があるからベッド周辺が手狭になってるの!」
 「どの部屋にだって柱の一つや二つくらい・・・」
 ドアに耳を当てれば、当然かもしれないが、聞こえてくるのは自分の知っている声ではない。
 ふと、彼女の頭に昨日のエルザの話が蘇ってきた。
 あと三人、ここに引っ越してくる予定という話をしていたが、そのうち二人が例の彼女たちなのかもしれない。だからその口喧嘩じみた会話の内容が一体なんであるのか、ナタリアはますます気になってドアに耳を押し付ける。
 二人はしばらくの間そんな風に言い争っていたが、突然どこからともなく二人の間に割り込むようにして聞き覚えのある声・・・エルザの声が、ドアに押し付けたナタリアの耳に飛び込んできた。昨日のソフィアとの言い争いも含めて基本的に静観を決め込むような彼女だったが、やかましく声を上げる二人の言い争いにはさすがの彼女も耐えかねたようだ。
 「サラ、実はここ以外にも上にもう一つ、普通よりも広い部屋があるの。案内するわ」
 「ええ、ほんとに?」あからさまに嬉しそうな声が弾む。「見せてもらえる?あなたはまだこの女よりも幾分話が分かるみたいで助かるわ!」
 エルザの提案に食いついたサラ・マイネリーテは、目の前の女に対して聞こえよがしに捨て台詞を吐くと彼女に連れられて階段を上っていく。甲高い声の主がいなくなった廊下が再びしんとした静寂に包まれる中、一人取り残された喧嘩相手の、疲れを隠さないため息だけがその場全体に響いた。
 ナタリアは廊下の様子を伺うつもりでそっとドアを開き、わずかに顔をのぞかせる。恐る恐る部屋を出て、廊下の先にいる肩ほどまでの黒い髪の毛の女に近づくと、気配に振り向いた彼女は意外なほど笑顔で手を振った。ナタリアはたどたどしい顔で、そんな予想外に明るい彼女にぺこりとお辞儀をした。
 「おはよう。私は今日ここに引っ越してきたばかりなんだ」
 ナタリアと彼女は互いに簡単な自己紹介をする。彼女の名前はニノ・ヴァシュキロワという。彫りの深い顔立ちに青い瞳、黒髪というどこかエキゾチックな雰囲気を醸し出す彼女の顔を、ナタリアは物珍しそうに見つめた。
 「ナタリー。そんなに珍しい?」
 「あ・・・私の住んでたところじゃちょっと見慣れない顔だもの、ごめんなさい」
 相変わらず自分とは異なる他人の顔やパーツを、悪気がなくともじろじろと眺めてしまう自分の癖を恥じた。
 「私に慣れたら、きっとグルジア人が世界で一番綺麗な人種だと思い知ることになる」
 彼女はグルジア人であることを大きな誇りにしていた。ソ連人としての自覚はあるかと尋ねても、その理念に協調するどころかロシア人に対しては不思議な対抗心を燃やしている。だがそんな部分に、ナタリアは親近感を抱いてしまう。
 「良い迷惑だよね。スターリンの出身地だかどうとか、いつも槍玉になって。もっと立派な偉人はいる。画家のピロスマニだってグルジアだ」
 「私たちだってそう、大切な文化や偉人はいつもロシア人に奪われるの。チャイコフスキーだってお父さんはウクライナ人なのに。ゴーゴリだって、本当はホーホリっていうウクライナ語で表記するべきなのに」
 「全く傲慢だな、ロシア人って。そんな状況でソ連だ、仲良し一つの国家だ、なんて私は少しアホくさいって思うんだ」
 二人の会話は妙に噛み合ったが、次第に話す言葉も尽き、二人の間には沈黙が訪れた。まだ初対面で少しだけおどおどとしたナタリアを、ニノは真っ直ぐ、まるで観察するように見つめる。
 「それで、ナタリー。あんたはなんで、この仕事に?」
 「あ、ううん。私はソ連が好き。でも・・・だからこそウクライナ人の代表になって、ロシア人に負けたくないって思ったんだ。ロシア人だけが威張ってるだけの国なんか私は嫌だし・・・それじゃあ“連邦”の意味がないから・・・」
 「つまり、その・・・あんたはアイドル活動を通じて、彼らと対等の立場になりたい?」
 「まさに、その通り!」
自分がうまく言葉にすることができなかった気持ちを、彼女がいとも容易く要約してくれたことを嬉しく思って、彼女は声を弾ませた。
 「・・・じゃあ、ニノは?どんな理由で?」
 ニノは周囲をじろりと伺ったあとで、ナタリアの耳元に囁いた。
 「うん、まぁ・・・正直に言えばグルジアはいずれ一つの国として独立すべきだとは思ってるよ。でも、あんたの話を聞いたらそんな手もあるんだなって感心して」
 「そういう、手・・・?」
 「あんたはさ、アイドルなんてものになってこの国を内側から変えたいと思ってるんだろう?私はそんなこと、実は一度も考えたことなくて」
ニノは、どこかいたずらっ子のような笑みを浮かべる。
「私には、そんな深い考えなんて無かったよ。ただ、この国で一番になりたかっただけ」
 一昨年ごろ、モスクワを観光で訪れた彼女の目に飛び込んだオーディションのチラシ。ギターを弾きながら呑気に歌うことが好きだった彼女は特にこれといった信念や理想もなく、ほんの腕試しのつもりでそのオーディションに応募したという。モスクワでの滞在期間もそのオーディションを受けるためだけに伸ばした。その自由奔放で恐れを知らない彼女の性格を気に入ったミハイルは、彼女をメンバーに引き入れたのだった。
「今、こうしてナターシャの話を聞くと、私も・・・グルジア人とロシア人が平和にお手手繋いで歩ける世の中も案外実現できそうな気がした。すごくいいなって」
 彼女の言葉にはグルジア人らしい陽気さと、あまり気難しいことは考えない呑気さが溢れている。そんな平和な彼女に、ほんの些細ではあるかもしれないが影響を与えることができたと感じると、ささやかな喜びがナタリアの胸を満たした。
 「ちょっと!信じられないわ!どういうつもりなのよ、しっかり説明してちょうだい!エルザ!?」
 階段から、先ほどの口喧嘩の相手・・・サラが、エルザの腕を掴みながら慌ただしく降りてきた。ナタリアは初めて、その高飛車な女の顔を見る。長い栗色の髪の毛を後ろで一つ結びにした彼女は一体エルザの提案の何が気に食わなかったのか、ひどい不満顔だった。ナタリアは、自分自身だって無愛想な顔をしている自覚はあったが、彼女はもっと怖い顔をしている。
 「ニノ?今日からこの子があなたのルームメイトになるの、ぜひとも仲良くしてあげて」
 「は・・・え、はぁ!?ちょ、それ、どういう」
 ニノは驚きのあまり思わずそれまで手に提げていたトランクを床に落とした。
大部屋に住むための交換条件として、エルザがサラに提示したものであった。
 確かに上の階の部屋は広い。ツギハギだらけでも真ん中には仕切り用のカーテンも一応備わってある。だが結局は仕切れば通常の部屋より狭くなるのは確実だし、かと言って部屋を仕切らなければニノとの口喧嘩が毎晩のように繰り返される恐れもある。
 「信じられない、私がレニングラードに住んでいた時の学生寮の方がずっと広くて、シャワールームもトイレもあったのに、この建物ときたらどこも共用だなんて・・・それだって耐え難いのに、こんな女とルームシェアだなんて。ルビャンカ(モスクワの刑務所)より劣悪よ」
 「いやルビャンカの方がずっとひどいでしょ」
 どこか怒りっぽくてプライドの高いサラはリトアニア出身で、ソ連の最高学府の一つであるレニングラード(ペテルブルク)大学に通っていたエリートだ。歳は23歳で、ナタリアより7つほど離れている。28歳のエルザよりも歳は下だが、歳の離れた彼女にだって容赦なく噛み付く荒々しい性格で、臆病なナタリアはこんな相手とも果たして上手くやっていけるのかと不安がる。
 「ま、・・・別に私はいいけど、相部屋でも。面白そうじゃん」
 「まぁニノ、ほんと?それは助かるわ!」
 「ちょ、え、あんた!一体何を言ってるの・・・!?」
 ニノは先ほど床に落としたトランクを拾い上げて、そそくさと階段に足をかけた。そんな彼女の挙動をサラは意外そうに目で追っている。
 「私はこのリトアニア女よりずっと大人だからね。やれやれ、しかし子守か・・・まいったなぁ」
 サラより歳が4つ下のニノはとっくに階段の手すりに手をかけ、こちらを振り向くと嘲笑うような笑みを浮かべていた。あからさまな挑発だが、対する彼女は顔を赤くして黙り込んだまま、ニノの先を追い越すように階段を駆け上がっていく。
 エルザはそんな騒々しい二人の様子を眺めて、またもや隠しきれない笑いを堪えていた。
 あっという間に二人の喧嘩を解決させてしまうエルザとニノのやり方には、ナタリアはどこか感心している。
 「さぁナターシャ。早くあの寝坊助さんも起こしてちょうだいね。朝食にするわ」
 エルザはナタリアの部屋の真向かいの部屋を指差した。昨日の今日でまだロシア人である彼女のことをよく知れたわけではないから、それはまるで機嫌の悪い番犬を起こしに行くかのようなスリルがあった。 
 
 同じ頃、霧もやの霞むモスクワの公園の散歩から戻ってきたばかりのアンゲリナは、ぼやけた視界の向こう側で挙動不審にウロウロとしている見慣れない少女の姿を目撃する。自分が住まうコムナルカの前を行ったり来たりしている彼女は、この街の大半を占めるスラヴ人と異なった見た目が印象的だった。視界が開けてきて、彼女の目にはっきりと飛び込む黒い髪の毛に彫りの浅い顔立ちの人種は、直接目にしたことなど一度もなかったが、おそらくアジア系に違いない。片手には地図、もう片方の手には重たそうなトランクを提げている。アンゲリナはもしやと思って、紙袋を抱えながらそっと彼女の背後に忍び寄る。
 「初めまして。あなたは何をお探し?」
 軽い気持ちで声をかけたのだが、相手は怯えるように肩を揺らして、それから、子犬のような彼女の顔がゆっくりとアンゲリナの方を向く。
 物静かな雰囲気を抱く彼女は遠目に見ると小柄ではあるが、そばに寄るとアンゲリナよりも少しだけ背が高い。
 「今日ここらへんに引っ越す予定の・・・でも、まさかご存知じゃない、ですよね」
 待ち望んでいたその言葉を聞くなり、アンゲリナは嬉しそうに微笑む。
 「それ、思い当たりあるかも。ついて来てくれるなら」
彼女は躊躇いがちな少女の手を引いて建物に入っていく。意外そうに目を丸くしていた彼女に、扉の前で種明かしをした。この建物に住んでいること、そして自分が同じ仕事仲間であること。
 少女はようやく安心したように、安堵のため息を漏らした。
 
 彼女たちが住むコムナルカの二階に作られた広々とした共用のリビングは台所に隣接している。ソファーや最新式のブラウン管カラーテレビの他、大きな本棚やレコードプレイヤーまであり、自室に籠ることに飽きれば、ここで十分に時間を潰せるようになっている。物不足のソ連とは思えないほど、その室内は充実していた。
 台所の大きなテーブルに並べられた数種類のパンや生ハム、チーズ、ベーコン、サラミ、ボイルされた白ソーセージやプレッツェルといったまるでホテルの朝食ビュッフェのような色鮮やかさとバリエーションの豊富さに皆目を奪われる。料理というより、既成の食材をただ集めてきただけのようなラインナップだが、普段朝食といえばカーシャ(蕎麦がゆ)とシチー(酸味の効いたキャベツのスープ)、そしてライ麦を使った黒パンばかりを食べて育って来た東欧の彼女たちには、今日の料理担当であるドイツ人エルザが提供する食材は、どこまでも新鮮だった。
 「こんなに、どこで仕入れたの?物不足なご時世に」
 ニノはクロワッサンを物珍しげにひとつ摘み上げると感動したようにその芳醇な香りを楽しむ。
 「それは当然、国家機密」
 彼女たちが政府のお墨付きを得た団体であることがその大きな要因であることは、もはや言うまでもない。
 「ブルジョワ的だね、ソビエトの理念に反してる」
 そうは言いつつ、もぐもぐと、果たして食べきれるのかどうかも分からない量を大皿の上に盛り付けたソフィアは一人リビングに戻り、さっそくコーヒーとともにそれらを食していた。
 ソフィアの他、サラやエルザもコーヒーを選んだが、一方で普段紅茶を飲む習慣が根付いている庶民出身の四人は紅茶を手放さない。
 「恥ずかしいけど私、これまで一度も飲んだことないわ、そんなに黒いもの」
 「一口だけでも飲んでみて。案外美味しいんだから」
 隣に座る初対面のサラがやたらと勧める。ナタリアにとっては朝、ニノと口喧嘩していたあの情景が思い浮かんできて、そんな彼女の優しさは意外なものに感じられる。ナタリアは渋々一口だけコーヒーをすするが、どうも不思議な味だ。苦みと酸味が口の中に残って妙な感じだが、・・・でも香りは上品で、どこかクセになりそうだった。
 「うーん、でもやっぱり・・・私は紅茶にジャムや蜂蜜を溶かして飲むのが一番落ち着くよ」
 「まだまだお子様の舌ね。でも、いずれ分かるようになる」
 「・・・こんな美味しいコーヒーをソ連で飲めるなんて、一体どういうわけ?これがペレストロイカ・・・?」
 そんな彼女の反応とは異なり、それまで紅茶を飲んでいたはずのニノがナタリアからサラのコーヒーカップを受け取って口にし、一人で感動していた。
 「ちょっと何、人のを勝手に飲んでるの!」
 「グルジアで飲んだのは、こんなに美味しくない。美味しいと噂のブラジルコーヒーはみんな欲しがってたけど、高いし、そもそも滅多に入荷しなくて、いくら並んだって手に入らなかったし」
 ニノはお構いなしにサラのコーヒーをぐいぐい飲んでいるが、そんな彼女の絶賛に、彼女もすっかり気をよくしていた。
 「あんたでもコーヒーの味の違いは分かるものなのね?」
 父親がリトアニア中央共産党の幹部であり、上流階級出身であることを自慢するようなサラはどこか庶民的な彼女を見下すように呟いた。それからすぐに自分がこれまでに飲んだコーヒーの自慢が始まると、ニノはあからさまに嫌な顔をする。そんな二人の間に挟まれたナタリアは、もっと微妙な表情になって萎縮していた。斜め前に腰掛けるエルザも、助け舟を出す気配はない。
 「コーヒーばかり飲んでると舌がバカになるよ」
 そんな時、ナタリアの真正面に座っていたソフィアが突然割り込むように呟いて、予期せぬ反撃にサラは、威嚇の対象をニノからソフィアに変えて睨みつけるが、目の前の彼女は相手にする様子もない。そんな彼女はコーヒーをすすっている・・・。相変わらず、それが本音なのかどうかも分からないミステリアスな発言をする彼女を、ナタリアは意外そうに見つめていた。
 「ねえ、ロシア人?私に喧嘩売るつもり?」
 サラはじろりとソフィアを睨みつけている。
ソフィアは全く動じる気配も見せずに紅茶をすする。
「コーヒーもいいけど、時々はいい機会だから、サラも紅茶飲んでみたらいいよ」
「飲まないわ、そんな安っぽいものは」
彼女は突き放すように言った。
「サラ、あんた紅茶がこの世に一種類しかないと思っているなんて、かわいそうに。コーヒーと一緒だよ。特に、初めて飲んだけど・・・このロンネフェルトの深いアイリッシュモルトの味わいも分からないなんて、人生損だね」
ソフィアはティーカップを高々と掲げる。明らかにサラを挑発するような仕草だ。彼女がそんな仕草をするとは思わず、そんな唐突に引き起こされた二人の鋭い対立に、ナタリアは視線をキョロキョロと泳がせる。そもそもどうしてソフィアがそんなサラを怒らせるようなことを突然言い出したのか、分からない。
 「誰にでも喧嘩ふっかけるのはやめときなって、サラ」
 ニノが仲裁に入る。
 「私が喧嘩を??冗談を言うのはよして、このロシア人が悪いの」
「しかしね、そのロシア人のお父さんは共産党政治局員候補だよ?下手するとあんたのお父様の首が・・・」
 ニノが呆れたように言うと、サラは目を丸くしてニノを見つめた。
 その場には、もうひとつのカップになみなみ注がれたコーヒーを飲み干すソフィアの、すする音だけが響いていた。ナタリアには、ソフィアの言動というものがますます分からなくなる。
 「そうね。彼女のお父様の資金提供のおかげで、うちは成り立ってるのよ」
 ソフィアの隣に座るエルザもようやくコーヒーを飲みながら呟いた。
 「政治・・・えっ、クレムリン・・・」
 それっきりサラは戦意を喪失するように黙り込んでそれ以上は何も言えなくなってしまうのだった。
 
 五人がテーブルで食事を楽しんでいる頃、隣の台所では戻って来たばかりのアンゲリナが、散歩の帰り道に連れて帰ってきた新人の少女と一緒に朝食を皿に盛り付けているところだ。ナタリアが興味津々に台所を遠目に眺めていると、その少女の皿に盛られたものにはパンやチーズが多く、肉類が一切盛られていないことに気づく。
 「ご覧、中央アジアからのお客様らしい」
 ニノが言った通り、遠目に映る少女の名前はクララ・スユンシャリナといって、中央アジアにある構成国の一つ、カザフスタン共和国出身だ。
 歳は14歳と、このメンバーの中では最年少。
 さすがのアンゲリナとは多少既に打ち解けている様子だったが、彼女が聞き耳を立てていると、それは会話が弾んでいるというよりも、むしろアンゲリナの言葉の一方通行のような気がしないこともなかった。
 

 メンバーたちはその後モスクワ観光と銘打って、昨日のように地下鉄に騒がしく乗り込むと、モスクワの中心部クレムリンの前にまでやって来た。
 クレムリンの正面に広がる巨大な赤の広場にはカラフルな玉ねぎ型のドームを持つワシリィ大聖堂の他、様々な革命を記念する建造物や博物館がそびえていた。その中でも特に目立つ建造物であるレーニン廟は、今日も多くの観光客の耳目を惹きつけてやまない。
 国内外の観光客によって、そのレーニン廟の出入り口付近には長い行列ができており、彼女たちの中でもとりわけこのような社会見学に熱心なサラが気乗りのしないニノを連れてその列に並ぶ。
 中央にそびえるそんなレーニン廟の目玉は、ソ連の高い技術力と個人崇拝が密接に結びついたことによって生まれたエンバーミング手術によって永久保存された、偉大な指導者レーニンの遺体だった。今も何年おきかに防腐処理を行う手の込んだその展示物は、ある意味悪趣味かもしれないが、それでも数多くの人々を引き寄せるのは彼が偉大なカリスマ性を持った、ソ連人民から強く愛される指導者なのだからだろう。
 ナタリアはそんな偉大な祖国の創始者を誇らしく思う一方、レーニン廟のすぐそばまで足を運んでも、他のメンバーのようには列に並ぶ気になれなかった。しばらく建物の前で足踏みするように躊躇した挙句、ナタリアはそそくさと広場の石畳を歩いて、別の方向に向かう。左手には巨大なモスクワ一のデパートであるグム百貨店がそびえ立ち、さらに歩けば、巨大な正教会であるワシリィ聖堂が見えてくる。
 「でかいなぁ・・・」
 ソビエト連邦では宗教の信仰は事実上、禁止されていた。
 無論全面的な禁止に踏み込めば国民の大きな反発を招く恐れがあるために限定的な信仰だけが認められているが、もし仮に政府に反抗的な態度をとるならばすぐさま宗教指導者が逮捕されてしまうのも事実だ。スターリンが政権を掌握した1920年代、30年代には数多くの聖職者が実際に処刑され、様々な歴史的な教会が爆破、もしくは囚人の牢獄として使用された歴史がある。
 そのような歴史の渦の中で、このワシリィ聖堂もまた一時はスターリンによる爆破の危機に瀕したことがあった。しかし彼は、信仰心の篤いロシア人・スラヴ人の憤慨を恐れて爆破に踏み込むことはできなかった。
 それほど、この教会はロシア人にとっての心の拠り所であり、シンボルである。ロシア人ではなく、どちらかというとウクライナ・カトリックの教会に馴染みのある彼女でもその彼らの信仰心はよく理解できた。

 教会にほど近い場所にあるベンチに腰掛けて、見上げるように眺めていると、
 「あの教会、好きなの?」 
 くせ毛気味な赤髪が、突然彼女の視界を遮った。思わず声をあげそうになるが、逆光気味の彼女の顔をよく見れば自分のよく知っている顔だとわかる。
 ソフィアはなんの断りも遠慮もなくナタリアの隣に腰掛けた。

 二人の間には何もないような時間が流れた。今自分の隣に座っているロシア人が一体何を考えているかなど一日経った今だって分からないが、ナタリアは気まずい感情を抱えたまま、どんな言葉をかければ無難なのかという考えを一生懸命張り巡らせる。
 そんな時ソフィアがじっと、隣に座ったナタリアの顔を覗き込む。
 「あんたって死体とか、そういうの見るのは苦手?」
 ・・・想像していたのとは全く真逆の言葉が、ナタリアに向けられる。
 「なんで、そんなこと?」
 「・・・レーニン廟の前まで来たっていうのに入らないなんて、ソ連人らしくないもの」
 レーニン廟の前で足踏みしていたことを、彼女はどこからか見ていたとでもいうのか。
 彼女の言う通り、ナタリアは死体を見るのは得意ではなかった。一度本で読んだことのあるエジプトのミイラの話が小さい時のトラウマであるから、そのようなものからこれまでも極力自分を遠ざけてきたのだ。
 「ソフィアだって、みんなと一緒に、あの建物入らなくてよかった?」
 ナタリアが聞き返した。
 「私も、死体とか、ちょっと苦手だから」
 彼女は素っ気なく答えたが、ナタリアは意外そうに、彼女の横顔を見つめた。
 「ソフィアに怖いものなんてあったの?」
 「あるよ。私だって人間だし」
 真顔で返した彼女の反応を可笑しそうに笑うナタリアに対して、どこか不満そうなソフィアの声がこだまのように返される。
 「私のことを初対面で美味しそうだなんて言う人が?」
 「本当に美味しそうだよ、間違いない。綺麗な亜麻色の髪・・・キャラメルみたいでさ」
 ようやく、そういうことなのかと思える。
 ナタリアは今やそんな彼女独特の言い回しを、彼女なりの褒め言葉として受け止めることができている。アンゲリナの言った通りで、ロシア人は案外悪い人間ばかりじゃないのかもしれない・・・。
 彼女の内側に自分と似た部分があることを知った時、彼女はどこか嬉しくなる。
それからの二人の間には再び微妙な静寂が訪れる。せっかくソフィアの性格を一つ掴めたと思ったのに・・・他の部分は、まだまだ掴めなていなかった。
 たったの一日で彼女のことを全て知った気になっている方が間違いなのかもしれない。
 ナタリアはどこか必死になり、会話を続けようと懸命に言葉を絞り出した。
 「・・・そういえば、レーニンって、そんなにすごい人だったのかな?」話題に困るようにナタリアはふと、そんな疑問を口にする。「自分の遺体を永久に保存する理由って、なんだろう」
 「さぁ」
 彼女の何事に対しても無関心そうな様子には今だって何の変化もない。ぴくりともしない表情を見せられ、やはり彼女と普通に会話を続けるのは難しいのかとやや心が折れそうになりながら、しかしそんな弱気な心には負けずに言葉を捻り出す。
 「学校で先生から教わったの。キリスト教やイスラム・・・、そういう宗教があると特定の権力者を作り出してしまって、世の中を聖職者が牛耳るようになるから、労働者は彼らの言いなりになってしまう・・・それが原因の一つで、西側世界では格差が生み出されてしまっているんだって」
 ソフィアは、まだ黙り込んでいる。
 最初は話す話題を見つけようとしていた中で何の気なしに口にした疑問だが、今ではむしろナタリア自身がその疑問について深く考えていた。
 「でも・・・ほんとに不思議だよね。宗教はそんな風に否定しちゃうのに、この国の政府は永久に一人の指導者の遺体を保存して・・・まるで、神様みたいに崇めてさ・・・」
 「ナタリアは、カミサマ、信じてる?」
 ナタリアの語尾に被せるようにして、急にソフィアはそんな疑問を投げた。その質問にはどんな意図が含まれているのか、ナタリアは必死に考えてみたが、自分の目をしっかりと見て決して逸らさない彼女の純粋な瞳を前にして、そんな余裕など微塵もない。
 「・・・いるかもって、思ってるけど」彼女の急かすような眼差しに抗えず口にした。「だけど、レーニンが神様かどうかなんて、よく分からないよ」
 少なくとも彼女がイメージするような神様とレーニンの姿というのは乖離しているように思える。レーニンを神様だなんて呼べばそれこそ神を否定する共産党員に叱られるのではないか?
ソビエトが偉大であることは言うまでもなく常識で、分かりきっていることだ。レーニンは万人が平等に暮らすユートピア、ソビエト連邦を、お与えになった・・・。
 だから彼を神と呼んだって何もおかしいことではない。旧約聖書でも神様は、人々に理想郷を与えたりするのだ。
 ところが、この頃ナタリアは自分の住むこの国が、果たして万人が望んでいた理想郷であるのかどうかの確信を、以前と比べても明確には抱けなくなっている。
 おそらく、ミハイル・トカレフという人物に出会って、様々な話を聞いてから・・・。
 「何を信じるのも自由だと思う」ソフィアは、ようやく自分の考えを言葉にした。「だけど、自分の信じるものが本当に正しいかどうかなんて誰にも分からないよ。分からないから、カミサマは沢山いるんだ、この広い世界に」   
 ソフィアは青く澄み渡った五月の空を見上げている。その綺麗な灰色の瞳には綺麗な青が溶け込み、いつの間にかナタリアはそんな彼女の瞳の中に凝縮された曇りのない世界に目を奪われていた。
 「・・・ソフィアこそ、神様って信じてるの?」
 「明日のご飯を保証してくれる人を、私はカミサマと呼ぶ」
 彼女はナタリアに顔を向けると、初めて得意げな笑みを見せる。 
 その思いもよらなかったあまりに無邪気な笑顔と、政治や倫理といった難しい話から完全に切り離されたたったそれだけの言葉に、ナタリアの胸は大きく高鳴っていた。

 



 正午過ぎ。
 ミハイルは自分の公用車に乗り込み、モスクワの市街地を走っていた。
 車は赤の広場の城壁を抜けてまっすぐ進み、モスクワ川にかかる橋を渡ってソフィスカヤ・ナヴェレージュナヤ通りを東へ進む。
 左手の窓からは川を隔てた向こう側にそびえる巨大なクレムリンの雄大な景色を一望できる。
 車はさらに南へと向かい、郊外の住宅街へ差し掛かる。車を大通りの路肩に停めると、車から降りた彼は狭い路地を進み、そして開けたところに出たところ、緑の生い茂る公園にたどり着いた。
 もう少し先には高くそびえ立つ、均一な外観の集合住宅が密集しているが、そんな巨大な構造物とは不釣り合いな緑の深い公園には、始まったばかりの春の陽気を楽しむ市民の姿が散見される。
 公園のそばに停車している一台の白い車を見つけたミハイルの肩には力が入り、周囲に気を配る。この近くに、車の持ち主がいるはずなのだ。
 公園の芝生の上に敷かれた遊歩道を歩いていくと、向こう側のベンチに腰掛けてコムソモリスカヤ・プラウダ(党機関紙)に目を通す男の姿を確認する。このご時世、昼間から真剣にプラウダなんて読む人間はよほど熱心な党員か、物好きか、暇を持て余した人間くらいだ。ほとんどが、さほど面白くもない党の成果報告の記事だから。
 ミハイルは改めて警戒するように周囲をよく見渡して足を進め、そんな男の隣に、何気なく腰掛けた。
 「そんなもの読んでると、逆に怪しまれるぞ」
 新聞を読んでいた男の新聞を読む手にはなんら変わりがない。微かなため息を漏らした後、彼はゆっくりと口を開いた。
 「ウラルの山奥にある秘密設計局に潜伏させていた内通者が捕らえられ、消息を絶った。そいつは20数年間も我々が資金提供を行って手塩にかけて育てたというのに。・・・次はお前の番になるかも知れない。とにかく、警戒することだ」
 ミハイルは、隣に腰掛ける不機嫌そうな男の横顔を見る。黒い髪と口ひげを蓄え、大きな眼鏡をかけているが、それはつけ髭だし、髪の毛の色だって本当は茶色であることを知っている。彼はミハイルがたった今歩いてきた遊歩道を歩く一人一人の民間人の顔を、新聞を読むふりをして真剣に睨みつけていた。
 「“ゲオルギー”・・・今日は一段と作り込んでるな。君にいくつ顔があるかは分からないが」
 スパイとして普段から様々な人間関係に入り込んでいる以上、一体いつ、誰に見られるかも分からない。そのためゲオルギーと名乗る彼には、定期的に顔や容姿を変える必要がある。これまでにも様々な工作活動に参加し、用済みになった何人もの人間を殺してきた。常日頃からKGBに狙われる身分であるため、彼はミハイルと会話を交わす今もしきりに周囲へ目を泳がせている。
 「すまないな。最近、この国の諜報部員は窮地に立たされっぱなしだ・・・有益な情報が入ってこなくなり、大変苦慮してる」
 苛々の言い訳をすると癖であるかのように煙草に火をつけて、思い切り煙を吸い込み、そして少し咳き込んだ。煙草を握りしめるその指が微かに震えているところを見ても、彼は自分がいつKGBに囚われてしまうか、恐れや不安を強く抱いているのは明らかだ。
 「・・・ところで、今更だが君の計画書は読んだ。長官も本気でソビエトを内側から崩壊させるつもりかと興味津々だよ」
 だがゲオルギーは、果たしてそんなことをして国を壊せるのかと疑いを隠さない。それでも当のミハイルは自信をたっぷり含んだ様子で答える。
 「冷戦はじきに終わる。このことに疑いはないよ。西側文化の良さを知った国民は、いよいよ大きな自由を手にしたがる」
 西側文化を少々受け入れたところで国の体制は簡単に崩壊しないと思い込む改革派のゴルバチョフたちをミハイルは上手く利用し、遂に念願だったこの計画を実行に移したのだ。
 そんな彼はまるで帝政ロシアの末期、皇帝ニコライ二世に取り入った妖僧ラスプーチンのように、やがては国を崩壊へと導く存在だが、復讐のためなら喜んでラスプーチンになろうという決意なら、最初からある。
 「友の命を連中は無惨にも奪った。どうなろうとも、ソビエトを崩壊させる。そのためには情報提供を惜しまないよ」
 ミハイルは安全保障会議の音声を録音したテープを、通行人の目を気にしつつ手渡した。東ドイツやハンガリーといったソ連以外の同盟国の軍関係者も参加する東欧の戦略兵器配備に関する内容の極秘会議だが、文化省の役人であるミハイルには参加の権限などない。
そこで会議に参加している役員の一人に、議場に盗聴器を持ち込ませていた。彼もまた報奨金目当てで、中央情報局CIAに接近してきた協力者であった。
 だがミハイルは、そんな彼とは一度も顔を合わせたことはない。
 互いに名前も顔も地位も詳細を知らなかった。仮に知り合い同士だと、芋づる式に摘発されてしまうリスクがあるから、互いに面識をほとんど持たないようにするのはスパイの鉄則でもある。
 議場にいる彼の盗聴器が傍受した会議の音声は、モスクワ郊外の森の中の茂みに隠された車のトランクの中に備わった録音機材がカセットテープに書き込む。
 ・・・そうして録音されたカセットテープが、今ここにあるというわけだ。
 「ともかく感謝する。我々も君のプロデュースした彼女たちをアメリカ国内で宣伝し、世界的なアイドルになるよう、全面的に協力する」
 ミハイルから受け取ったテープを新聞紙の裏に隠しながら懐へしまい込むと、彼はそれまで読んでいた新聞を折り畳んで膝の上に置いた。
 「君の積極的な我々への協力は高く買うが・・・しかし、君の可愛い娘たちがいずれ君の正体を知る時が来たら、どうするつもりなんだ?」
 そのような問いかけに彼はしばし黙り込む。死ぬまで自分の秘密を彼女たちに隠し通せるとはまさか思っていない。ソ連が崩壊した以上は遅かれ早かれ、それも避けては通れない道だ。
 「きっと、彼女たちは僕を憎むだろう。それだけは間違いない。騙している以上許されるなんて思っちゃいない。だが、もう後戻りはできない」
 彼女たちはほとんどがソビエトを本気で内側から変えたいと願っている。ソビエトは彼女たちの活躍で確かに変わるはずだ。しかし変わるのは、文化や慣習にとどまらない。政治や経済のシステム、その全てが大きく変わってしまう。
 ・・・そして、それらが全て変貌した時、現在の巨大な連邦という形だって喪われてしまう可能性がある。自分を信じた彼女を裏切るにとどまらず、彼女たちにとって掛け替えのない存在になるはずであろう家族を奪い取ることに、ミハイルは強い葛藤を抱えていた。
 彼自身の抱える苦悩に共感を示すように、ゲオルギーは煙をまっすぐ吐き出した。
 「ところで例の・・・東ドイツ出身の彼女はどうだ?使えるか」
 ミハイルがその場を離れようと立ち上がると、ゲオルギーはメンバーの一人、エルザの話題を唐突に口にした。
 「・・・ああ。さすがは“元”東ドイツ国家保安省シュタージの職員だね。身体能力もずば抜けている。何よりアイドルという名声・・・その隠れ蓑があれば、どんな相手にも警戒心を抱かせることなく・・・その懐に潜り込んでいける」
 優しく紳士的な印象とは裏腹に、情け容赦なく一人の女をアイドルとしても・・・そして一人の“女スパイ”としても利用しようと画策する彼の意外な薄情さと、恨みを晴らすことだけに真っ直ぐなその信念に、ゲオルギーは思わず呆れたような笑みを浮かべる。
 「一歩間違えれば君のグループは立派な売国奴だな。確かに、もう後戻りはできまい」
 「今はそうかもしれない、だがいずれは・・・きっとソ連という国家こそがすべて過ちだったと多くの国民が気づくはずだ。僕がそれを証明する」 
 強い決意を込めた言葉を残したミハイルは何事もなかったかのように、今歩いてきた遊歩道を進み、公園を後にした。




 
 防音壁で周囲を覆った地下のレッスンスタジオには、どこから持ち込まれたのか、外国製のスピーカーや音響機材がずらりと並んでいた。どれも国内では、ほとんどお目にかかれない代物だ。
 彼女たちが住んでいるコムナルカの隣の建物は一階から上が全て倉庫や空き部屋ばかりの、ほとんどの階がまるで廃墟のような建物なのだが、その地下には練習や収録のための立派なスタジオが備え付けられていた。これから建物の改装も進み、他のフロアもより充実したものになることを聞かされていた。
 赤の広場から戻ってきた彼女たちの中で初出演を控えている三人は、早速エルザに連れられて階段を降り、巨大な地下スタジオへと足を踏み入れている。
 「これって・・・実物のマイク!?」初めて触れる機材の数々に、ナタリアは大きな目を輝かせていた。「このレコードの山は!?誰の曲なんだろう・・・」
 エルザが部屋に入ると誰よりも興奮気味な彼女呼び寄せるが、今の彼女にはそんな言葉はどれも耳に入らない。スタジオのガラス越しに見えるドラムやギター、そしてバラライカをはじめとして数多くの民族楽器が彼女の興奮をますます高めていた。
 「今日は歌う曲の楽譜を渡すけど、残りの五日間で完璧にするわよ、いい?とにかく時間がないの」
 ソフィアは周囲の機材にはそれほど関心も示していないが、ただ唯一、部屋の隅に置かれたグランドピアノを見つけると少し興味を示したようにその前へと座っていた。
 「あれ、ソフィーってピアノ弾けるの?」
 「これでも、昔はピアニストを目指してたから」
 アンゲリナが見つめるそのそばで、ソフィアは長くて綺麗な指を鍵盤に押し当てる。一オクターブの曲を弾くことなど、指の長い彼女にはなんの困難もない。器用な指で、超絶技巧で非常に難しいことで知られるリストの曲を何不自由なく奏でている。離れた位置にいるナタリアも、並べられたレコード盤の束を漁るその手を思わず止めてその普段の眠そうな様子とはまるで異なる華麗な姿に見入っていた。
 そばでピアノの美しい音色を聴いていたアンゲリナも、彼女の絡まりそうで絡まらない指使いに恍惚とした表情を浮かべている。
 「さすがね。ソフィーには伴奏役をお願いしても問題なさそう」エルザがピアノを弾く彼女に背後から一枚の譜面を手渡した。「これ、弾けるかしら?」
 ソフィアは手渡されたばかりの楽譜に一通り目を通すと、さっそく鍵盤に指を置いた。
 「何も問題ない」
 初めて見たばかりの楽譜をその通りに演奏し始めて、軽快なマーチのような音楽が部屋いっぱいに流れた。なんという曲目なのか手元にある楽譜を覗き込んでみると、そこには『Радуга  воспоминаний思い出の虹』というタイトルが刻まれている。
 「ピオネールで歌われる曲なの」
 ピオネールとは、共産圏におけるボーイスカウトのことを指す。英国でボーイスカウトが発足すると、それは瞬く間に世界中へと広まりソ連にもその文化は入り込んできた。ところが一般的なボーイスカウトとピオネールが明らかに違っているのは、十歳から十五歳までの、知力体力共に優れた成績優秀者である少年少女だけが選ばれ、誰しもが入団できるわけではなかったという点にある。
 「私も入れなかった。だからこの曲をここで歌えることになるなんて、なんだか嬉しい」
 ナタリアは故郷の学校にいた頃をふと思い返してみる。学校の中にも何人かピオネールに入団した生徒がいたが、彼らの首を彩る真っ赤なスカーフは、彼女を含むその他大勢の生徒たちの憧れの的だった。
 「私は入団していたの。だからこの選曲は私好みね」
 譜面のサブタイトルには『世界平和を望む』という一文が刻まれている。ピオネールのモットーは世界中の人々が一つになって仲良くすること。それはソビエトの理念の一つを、まさに体現したものだった。
 ドイツとの大規模な戦争は人類史上最悪の惨禍をもたらした。戦争全体を通じてのソビエト側の死者は民間人を含めて2000万人を越したが、それでもソ連はドイツによる熾烈な侵略を跳ね除けたのだ。それがこの国の誇りであり、同時に絶対に忘れてはならない出来事だ。
だからナタリアたちも、ソ連国民の気持ちを代表して・・・平和を祈る気持ちを戦勝記念日に合わせて、この曲に込めなければならなかった。

 ナタリアとアンゲリナの二人は楽譜を抱えたまま地下のレッスンスタジオから出て、建物の二階に上がる。伴奏練習に熱心なソフィアの邪魔にならないように、自分たちだけでまずは練習しなければならないと考えたのだ。
 階段を上がると真正面と左右に三つの部屋が並んでいる。彼女たちは階段から見て右手側のドアを開いた。すると軋むような音を立てて、ドアが開く。カーテンも何も備わっていない、ただ木箱と古ぼけた棚だけが置き去りにされた粗末な部屋だ。今は誰も住まなくなったそんな部屋だが、今から20年ほど前まで住んでいた人の面影を今も思わせる。
 「ここに住んでた子供も、ピオネール団員だったのね」
 棚の中には古ぼけた写真の入った額縁が偶然にも残されていたが、両親と一緒に写る少年は、首に赤いスカーフを巻きつけていた。胸元には誇らしいレーニンのバッジが光る。
 ナタリアは部屋の固い窓をなんとかこじ開けて、埃混じりの空気を少しでもマシなものにしようと試みる。
 「こんなにひどいところに長年放置されてたんじゃ、その写真も浮かばれないね」
 ナタリアがそんなことを言うと、アンゲリナはくすりと笑う。
 「私、何か変なこと言った?」
 「ううん。・・・その写真の子、今何をしてるんだろうね?」
 1962年・・・その白黒写真の下には白い文字で年号が書かれていた。
 「私たちより10個以上も歳上だね・・・。できるなら本人に返してあげたいけど・・・何か手がかりでも知ってるかな、エルザさん」
 写真には日付以外の情報など何も書かれていない。もし、エルザかミハイルがこの家の前の持ち主を知っていたら返すこともできるかもしれない。ナタリアはその写真立てを、また大事そうに空っぽの本棚の隅に立てかけた。
 「ナターシャは優しいね。普通、そんなことは考えないもの」
 「・・・意外。アンゲリナなら当たり前にそう思うんじゃないかって、思ってたもの」
 そもそも、こんなことはとても当たり前に湧き出した感情だったから人から特別扱いされるようなものでもないと思っていた。
 「ナターシャは私のこと買い被りすぎだよ・・・それは誰にでもできることじゃない。あなただけが持つ、素晴らしい個性だから」
 アンゲリナはそれっきり何も言わず窓辺に腰を下ろして楽譜を見つめた。彼女の白磁のような美しい素肌が太陽の光に照らされて、小さく光り輝いた。彼女に褒められたという事実以上に、これまで絶対に、どんなに手を伸ばそうとしても届かないと思い込んでいた彼女に少しだけ、手が触れたような、そんな実感が堪らなく嬉しかった。
 ナタリアは彼女に倣って、楽譜を読み込む。歌詞が一言一句頭の中を駆け回る。音符にその言葉を一つずつ載せて、軽く口ずさんだ。
 音をとるのはそこまで難しくない。
 「ねえ、アンゲリナ、もしよかったら、自分たちの確認できたところだけでも一緒に合わせてみない?」
 歌うパートはやや異なっている。アンゲリナが高音で、ナタリアがそれのちょっと低い中間の歌。低音は、ピアノの伴奏をするソフィアが一緒に兼ねることになっていて、三人がそれぞれの役割をしっかり果たすことで完成する曲だ。
 二人はせーので歌声を重ね合う。伴奏なしだから本当にこのメロディで合っているのか少し不安だが、二人だけのデュエットは、未完成ながらにも美しいメロディを奏でた。
 「ナターシャの声量って、すごく安定してるね」
 「それを言うのなら、アンゲリナの方だって・・・」
 彼女は度肝を抜かす。彼女の美しく透き通った見事な歌声が、今でも耳から離れないのだ。もしもこれを三人で歌うことになったら、自分の歌声なんて彼女の声に覆い隠されてしまうんじゃないかと、彼女はどこか不安にも感じる。
 「でも、やっぱりまだまだ全然、物足りないね。伴奏とかじゃなくて・・・なんて言えばいいのかな」
 アンゲリナは必死でそれらしい言葉を探す。ナタリア自身は今のでも十分本気を出していると考えていたから、客観的にどんなところが悪いか全く理解できていなかった。
 「ナターシャの歌声はね、確かに高温も低音もすごく安定してるんだけど・・・歌詞にあまり感情がこもっていないなって思うの」
 「え・・・」
 ナタリアは手元の楽譜に視線を落とす。だって、さっきは練習の時にしっかり、何度も楽譜の歌詞を読み込んだつもりだった。かなり自分では意識したつもりだったのだ。
 「そう?・・・私は、一生懸命自分なりに表現したつもりだったのに」
 「歌詞にあるよね、子供時代っていうフレーズが」アンゲリナは、これまで見たこともないような真剣な表情で彼女に訴えかけている。「この曲って、すごくキラキラした歌詞だよね。平和を願う歌詞。子供時代の楽しい思い出・・・わかった、じゃあ今度は鏡を見ながら歌ってみる?」
 二人はそれから、壁にかかっていた楕円形の姿鏡の前に並んだ。そして、またもや二人は一緒に歌声を重ね合う。
 「気づいたことは?」
 歌い終えた直後のアンゲリナの問いに、ナタリアが、普段より少し暗い顔をして頷く。
 「私もしかして、いつも歌ってる時、全然笑ってない・・・?」
 いつもの表情の固さが、せっかくのキラキラした歌詞やリズムの良いメロディをどこか台無しにしているような気がした。
 「でも・・・ラジオなんだし、聞く人にはそんな私の感情、伝わらないんじゃ?」
 そんなことを呟くと、アンゲリナは首を横に振る。
 「ナターシャは、気持ちが声に出るんだよ」彼女の言葉が真っ直ぐナタリアの胸を突き刺す。「私、ナターシャのことたくさん知ってる。あなたは素直だから、感情が絶対に顔に出る。だったら、その感情は絶対顔だけじゃなくて、声にも出るんだから」
 そんなはずはない、とナタリアはまだ少し半信半疑だ。
 「・・・じゃあ、どうしたらいいんだろう。歌ってる時笑顔を作るなんて、どうすれば、できるんだと思う?」
 隣で歌うアンゲリナのように、自分も、どうすれば感情豊かに歌うことができるのだろうか、真剣に考える。
 「難しいことじゃないよ」彼女はナタリアに、微笑を浮かべた小さな愛らしい顔を真っ直ぐに向ける。「思い出してみて、楽しかったことを。ナターシャが子供時代に楽しいと感じたことを・・・」
 難しい質問のようにも思えたが、彼女は一生懸命過去の記憶を掻き分けて、楽しかったことを見つけ出す。そうして振り返ってみると、意外にもたくさんあることに気付かされた。
 「ああ、そうだ。私・・・小さい時はよく、近くの湖でボート漕いだり、近くの遺跡を探検したり・・・」
 西ウクライナの美しい風景が彼女の頭の中を駆け抜けた。一緒に遊んだのはほとんどの場合、同じ学校の友達だった。彼女たちには一切何も告げずに飛び出して来てしまったけど、あの時の、楽しかった思い出を振り返ったら、何かひとつでも言い残しておけばよかったなと思う。
 「それから何年に一度か、オデッサに行ったの。いいところだった。浜辺が美しくてね。砂で大きな城を建てたり、兄を砂の中に埋めたりだとか・・・」
 ウクライナ南部の歴史ある街オデッサは黒海に面しており、昔から交易都市として栄え、今は数少ない保養地として、ソ連全土からたくさんの人が押し寄せる。
 「羨ましいな、ベラルーシに海はないもの。だからね、私は海を、まだ一度も見たことないんだ」
 「だったらいつか行こう、一緒にオデッサやクリミア、ソチに・・・黒海は、こことは比べ物にならないくらい暖かいんだから」
 彼女の目は、これまでにないほどキラキラと輝いていた。
 「・・・私、ナターシャに埋められちゃうな」
 「うん、埋めてあげる。兄より小さいから、すぐだよ」
 窓から爽やかな風が吹き込んで、二人の髪の毛を揺らす。そんな憧れのバカンスに行くことができるのはいったいいつになるかも分からないが、待ち遠しい夏はもうすぐそこまで迫っていた。
 「どう?子供時代の楽しい思い出を振り返ってみて」
 アンゲリナに言われて、はっとして目の前の鏡を見つめる。あんなに固く引き締まっていた彼女の頰は緩み、今では微かな笑みを浮かべていた。彼女はその光景が到底現実的なものであるとは思えない。
 「・・・不思議、まるで、自分じゃないみたい」
 「変な子。自分の顔でそんなに驚くなんて」
 横からアンゲリナがからかうから、ナタリアは余計におかしくなって、ますます笑みを深める。
 「今の気持ちをしっかりと思い出せば、さっきよりもずっと感情のこもった歌が歌えるのかな」
 「絶対に、歌える」彼女が瞳を輝かせる。「何百倍も、素敵な歌声になると思う。今のナターシャの方がずっと可愛いし」
 そんな彼女の真っ直ぐで何も飾らない褒め言葉が堪らなく嬉しい。日々、少しずつ、彼女のおかげで自分は良い方向に変わっていく。
 「ありがとう、アンゲリナ。こんなにも可愛くなかった私を壊してくれて」
 「私がいつでも、ナターシャの鏡になってあげる」
 そんな彼女の自信満々な言葉が頼もしかった。
 もし再び迷うようなことがあれば、彼女を見つめればいい。彼女は何があってもその何よりも明るい笑顔で、自分を導いてくれる存在なのだから。
 二人は鏡の前から離れてもう一度楽譜をしっかり読み込んだのち、再び、声を重ね合わせる。
先ほどの歌声よりずっと温かくて、柔らかかった。





 
 彼女たちの猛特訓が始まってから3日が経過した日の夜。
 戦勝記念日である5月9日は、すでに明後日に迫っていた。
 時計の針は午後6時を指している。ナタリアとエルザ、アンゲリナ、そして新たにここに入居することになったクララ、ニノ、サラの6人は、彼女たちが住まう二階にある共用の広い台所で夕食の支度をしていた。
 今日の料理当番は本来クララとソフィアの二人だけだったが、ソフィアが練習に時間をずっと費やしているため代わりを頼んだところ、皆暇そうにしているのか急遽全員がこの一箇所に押し寄せてきた。
一般的なコムナルカよりも改装して多少は広いはずの台所はもはや狭苦しい空間となっていた。
 こんな時間になってもまだ練習を止めないソフィアに対して、ナタリアは不安をもやもやと抱いている。自分たちが歌の練習を終えたのは三時間も前のことなのに、彼女だけは一人スタジオに残ると言って聞かず、結局置いて行くしかなかった。
 ジャガイモの皮や芽を丁寧に包丁で取り除きながら、彼女は和気藹々とした周囲を見渡す。誰もソフィアに対しては関心を払っていない様子で野菜を切ったり、鍋を揺らしているところなので、こんな楽しそうな空気を壊してまで彼女のことが心配だなんてことを言い出すのは躊躇われた。
 「それで今日は何を作るの?」
 人参を丁寧にみじん切りにしていたニノが今更のように口にすると周囲は一様に笑いに包まれた。
 「最初にサリャンカだって言ったじゃない。あんたは何も知らないで人参切ってたわけ?」
 サリャンカは東欧でよく食べられる酸味のきいたスープであり、ボルシチやウハーに並び、ロシア料理に於ける三大スープ料理と謳われている。毎朝食べても飽きのこない定番の料理だ。
 「とは言っても、さすがに飽き飽きする。ほかに何かメニューはない?」
 「わがままばっかり、いやなグルジア女」
 「わがままなのはいつだってサラの方だ、リトアニア女」
 サラはフライパンでニンニクと一緒に切った具材を炒めながら横目で彼女を睨みつける。
二人の部屋は同じであり、毎朝毎晩、嫌でも顔を突き合わせなければならない。互いの不満はかなり蓄積していると言っても過言ではなかった。だが、サラはさすがにそれも慣れてきたのか、それとも単に諦めたのか・・・一週間以上が経過した今では文句をエルザにぶつけることも少なくなっていた。
 なんだかんだ言ってもニノとサラの関係は良好になりつつあることにエルザもどこか安心した様子で、二人のそんないつもの口喧嘩のようなやりとりを穏やかに眺めている。
 「それにしてもソフィアさんは・・・大丈夫なんですか?」
 最年少のクララが心配するように言うと、ナタリアはジャガイモを切る手を止めてそんな彼女を食い入るように見つめる。
 「いよいよ本番が明後日に迫っているもの。心配ないわ、彼女は頑張り屋さんなだけ。クララは偉いわね、仲間の心配もきちんとできるから」
 エルザは安心させるように言って、十以上も年の離れた彼女の肩を抱きしめた・・・ソフィアのことを心の底から信頼するように。
 肉や野菜の焼ける音がジュージューと響く横で、鍋の湯が煮立つ音も聞こえてくる台所。こんな音を聞いたらきっと、ソフィアのお腹だって、絶対共鳴するように鳴り響いて、すぐさまスタジオを飛び出してくるのに違いない。ナタリアは、そんな安心させるようなエルザの言葉を聞いても余計にモヤモヤするだけだった。
 「ほら、包丁止まってる」隣のニノがナタリアの顔を覗き込む。「何かあった?もしかして明後日の本番に自信がないとか?」
 「まあ、それも多少はあるけど・・・」
 言葉を濁すように、曖昧な返事を返す。
 「しっかりなさい。せっかくの晴れ舞台なのに最初からそんなんじゃ、国民の心はキャッチできないわ」
 サラが厳しい口調で言った。
本当は初デビューを飾る三人のことが、これ以上ないほど羨ましい彼女だから、ナタリアがそんな風に本番に対して自信のない仕草を見せていると、つい口を出したくなる。
 「この間も言ったけど、笑顔を意識すればきっと大丈夫だよ」
 赤パプリカを刻み終えたばかりのアンゲリナも、横から自信満々に言った。
 「アンゲリナちゃんの方がよっぽど大人よ。小さいのに」
 サラが背丈の小さいアンゲリナをとても可愛がるように言った。
彼女は確かに誰からも人気であるには違いないが、いつも不機嫌なサラが彼女にだけはどうも心を許している。
 「違うの、そうじゃなくて」ナタリアは思っていることすべてを吐き出した。「私自身の心配じゃなくて、ここに一人だけいないソフィアが気になって。私たちだけ置いてきぼりにして、よかったのかな・・・私たちが練習に参加しなきゃ、本番でソフィアの奏でる音にうまく声を重ねられないかもしれないって思ったの」
 押し込めていた不安を一気に吐き出す。自分はソフィアに対してこれまで苦手意識を持って接していたはずなのに、なぜ今ではこんなに彼女のことを心配しているのか分からない。
 サラは、そんな彼女の目をじろりと睨みつけた。彼女には睨みつけている自覚などないのだろうが、ナタリアは怯えた表情を見せた。
 「ソフィアが寂しいかどうかなんて、どうしてあんたに分かるの?彼女のことがそんなに好きなら、ただずっと彼女のそばにいればよかったじゃない」
 サラの言葉でナタリアは目を丸々と大きく見開く。
 「私、そんなつもりじゃ・・・」
 まだ彼女に対しては苦手意識を強く持っているはずなのに。
周りで見ていた皆もサラの言葉に同調するように笑うと、彼女一人を取り残して、元通り包丁やフライパンの柄を握りしめて料理を黙々と続けた。
 結局、ナタリアは自分の考えていることなどほとんど分からない。ソフィアに対して自分がどのような感情を抱いているかなど・・・ますます知りようもないことだ。サラが言う通り自分がソフィアのことを好きだと仮定しようとするも、自分がロシア人なんかに心をそう簡単に許すはずがないと首を横に振った。
 「そうだ、ニノが言ってた通り別の料理も作ってみたら面白いんじゃないかな?」具材を切り終えて手持ち無沙汰のアンゲリナが突然、皆に提案した。「サリャンカの他にもいろんな料理を」
 適当なニノが提案するより、こんな風に彼女が提案すると頑固なサラでさえ、喜んで賛同する。
 ところが何を作っていいのか、誰の頭の中にも良いアイディアがすぐに浮かばない。
 「えと、みんな何食べたい?」
 「なんでも」
 「私も、なんでも・・・サラダとか?」
 「それは・・・料理??」
言い出しっぺのアンゲリナやニノだってちょうど良いメニューなんてろくに思い浮かばず宙を見つめて考えを巡らせるばかりで、まるで使い物にならない。
 「じゃあ、ラグマンという混ぜ麺を作ってみたいな・・・さすがに一から麺を作る時間はなさそうだから、パスタで代用してみる」
 メンバーの中で一人だけ、クララが誰よりも早く準備をし始めた。全員の目が一斉にそんな彼女の動作に釘付けになった。彼女は大きな冷蔵庫の中から新たに牛肉やトマト、ピーマン、玉ねぎを取り出した。調味料に使う大きい唐辛子だって忘れないように袋から取り出す。
 そんな動作を眺めていた皆はようやく何か閃いたのか顔を見合わせ、互いに頷き合ったところで一斉に動き出すと、ごそごそと調理支度をし始める。
違う民族同士何かを相談し合う彼女たちの表情はまさしく真剣そのものだ。
 「よし、そういうことなら私も久々に張り切っちゃうわね・・・!」
 そう言ってエルザもまた台所の野菜を入れた木箱の中からジャガイモをいくつか拾い上げると、大きな作業机の上にゴロゴロ転がした。
 





 何度練習してもダメな子供時代を、ソフィアは頭の中で繰り返していた。
 父親がクレムリンの政治家ということもあって周囲からの評価という名の視線は厳しく、いつだって完璧を求められた。将来はソ連を代表する音楽家になりなさいと散々母に小言のように言われ続けた。
著名な作曲家プロコフィエフに学んだこともある音楽家出身の彼女は、それがあなたの到達すべき愛国者像なのよと言う。そんな彼女また、ソ連を愛する熱心な共産主義者なのだ。
 ソフィア自身、特に愛国者を目指したいと思ったことはない。何に対しても無関心で自由に生きたいと願っている彼女は、しかし娘を愛国者に育て上げたいという両親の圧力を前に、板挟みになっていた。
 彼女がアイドルという聞き馴染みもない妙な職を志したのも、もともとはそれが父親の望みだからだ。父の友人を名乗る同じ共産党員ミハイルという男が、彼女をスカウトした。これまで将来何の役にも立たないと思っていた自分のピアノの技術や歌の技術が、どこかで活かせるのならばと思った彼女は、いつの間にか、そんなアイドルを志すことになっていた。
 ピアノの鍵盤を叩く音が、強まる。
 それに合わせて自分のパートを歌う。残りの二人がいないとやや調子が狂うと思いつつも、自分は二人を導く存在だからこそ他の二人以上に頑張らなくてはならないと思い込んでいた。
 そんな時、ソフィアの鼻をつんと鋭くいい香りが刺した。
 お腹を空かせすぎてついに幻を感じてしまったのだろうか。
懸命に時計を見ないで指を動かして頑張ってきたソフィアだが、どう足掻いたって、美味しいものの前では人は無力だ・・・そう諦めてピアノを叩く指を止め、香りのする方向へ振り返ると、そこにはナタリアとアンゲリナが笑顔で立っている。
 そんな二人の手にはたくさんの料理の盛られた大きい皿が握られている。
 「・・・それ、私に?」
 「うん。みんなで作ったんだ、アンゲリナのアイディアだよ」
 大きな皿の上には、メンバー全員のそれぞれの出身国の伝統料理が少しずつ盛り付けられていた。ソフィアはこんな大作を目前にしてもなお相変わらず無表情のままだが、それでも彼女の目はその料理に強く惹き込まれていた。
 「正確に言うとクララのアイディアだけど・・・どうぞ!」
 アンゲリナが皿を彼女に差し出すよりも早く、ソフィアはそれを分捕るように受け取って大事そうに抱えた。
 それを見たアンゲリナはとても可笑しそうに笑う。

 レッスン室の壁際に置かれた小さな机に座るとソフィアは、その一つ一つの料理を美味しそうに頬張るが、ある時、そのフォークを止めて不思議な顔をしながらもぐもぐと咀嚼する。
 「・・・エルザって、料理下手なんだね」
 誰が作ったとも言っていないはずの一部分の料理をエルザのものと断定して、彼女は呟いた。
 普段朝食で用意されるソーセージやハム、チーズといった様々なものが手作りではなくて、食材そのものばかりなのは、彼女が手の込んだ料理を普段から殆どやらない立派な証拠に違いない。ごくりとそれを呑み込むと、何か人生において非常に大事なことをひとつ覚えたように、彼女はこくりと頷いた。
 「・・・それでも、ちゃんと食べるのね」
 「たとえ料理の見栄えが殺人現場みたいでも、食べてあげなくちゃ、もったいないもの」
 確かに、そのエルザお手製のジャーマンポテトは、ナタリアでも擁護しきれない見た目と味付けだ。見た目にも焦げ目が多く、それでいて味つけも塩と胡椒でごまかしたような素材の味がする。エルザの弁解では、ドイツ料理は素材の味がメインである以上仕方がない・・・ということだが、百歩譲っても焦げ目の多い料理を伝統料理とは呼ばないというサラの鋭いツッコミを前に、いつも強気なエルザは押し黙っていた。
 「ありがとう。とっても美味しかった」
 二人が彼女の食べっぷりに夢中になっていると時間はあっという間に流れて、気づけば最初は綺麗に盛られていたはずの大きな皿の上には、食べた後以外、何も残されていなかった。
 「私、当てられる。どれが誰の料理だったか。ここにあったのはグルジア料理、ここがカザフスタン料理、これが悩んだけど・・・おそらくリーナのベラルーシ料理だ。で、こっちは分かりやすい、リトアニア料理、で、言わずもがなドイツ料理・・・」
 皿の上にかすかに残った料理の痕跡を一つ一つ指差しながら的確に答え合せをしていく彼女の腕前に、ナタリアもアンゲリナも驚きの表情を隠さない。
 「で、これは、・・・私がいなかったのに気がきくね。ロシア料理なんて」
 彼女の一言でその場が静まり返る。
 アンゲリナはそのおかしな空気感にはっとすると、少し困惑した様子を見せて、空気を読むようにそっと隣に立つナタリアの顔色を伺った。
案の定、そこにはプライドの高い彼女の、やや眉間にしわを寄せた目が、しっかりソフィアを捉えていた。
 「ゔぁ、ヴァレーヌィクは・・・ウクライナ料理たい!」
 ナタリアはもはや滲み出る不機嫌さを隠さずに、反論した。
 ソフィアは自分の言葉の何が悪かったのか分からないようで、首を傾げてしまう。
 「ヴァレーニキ?・・・ああ、これか。てっきりペリメニだと思った。確かに甘かったな。チェリー味だったね」
 ヴァレーニキ(ヴァレーヌィク)とはウクライナで伝統的に食べられる餃子のような皮に具材を包んだ料理だ。ひき肉を詰めることもあるし、一般的に果物やジャム、チーズなど、甘いものを包み込んでデザートとして食べることが多い。
 しかし一方で、ロシアでよく水餃子のようにして食べられる、ヴァレーニキによく似たペリメニは、中の具材に甘いものを使うことは稀だ。
 「そうだね、あんたのヴァレーニキ・・・味はいいけど食感が違うんだ」ソフィアはナタリアのプライドを砕くつもりなのか、容赦無く指摘する。「てっきりアレンジしたペリメニだと思ったじゃないか」
 十分すぎるし、それだけで彼女の誇りだとかプライドがぐちゃぐちゃになってしまうのは明らかだ。せっかくウクライナ料理を褒めてもらえると思って、張り切って作ったのに。
 ナタリアはもはや何も反論することもできず、呆然と彼女が綺麗に平らげた白い皿を虚しく見つめている。
 「皮が厚かったのさ。ヴァレーニキとペリメニの最大の違いは皮の厚さくらいなんだから。・・・けど、どっちでもいいじゃないか。ロシア料理だろうとウクライナ料理だろうと。そもそも、そこまでの違いはない。美味しいことに変わりはないよ」
 ソフィアの最後の褒め言葉はずるい。
 ナタリアはムキになって声をあげたことも、彼女が素直な感想を漏らしただけで落ち込んだことも、それら全てが恥ずかしく思えてきて、今度は頰を赤々と染めていた。彼女に対抗心を燃やす自分はなんとバカバカしいのか。本当に、自分でも忙しいと思うくらいに、ここに来てから喜怒哀楽が著しかった。
 二週間ほど前の初めて彼女と出会った日の夜のことを思い出す。
 たかがボルシチくらいで・・・本当はボルシチくらいでなんであんなにムキに、プライド剥き出しになってしまったのか、よく分からないけど。
 そして、それと同じようなことを今でもこうやって繰り返してしまっていること。なかなか変われない自分がどこまでも情けなくて、どこかに消えてしまいたい気持ちでいっぱいになっている。
 「すごいんだね、ソフィーはなんでも分かっちゃうんだ」アンゲリナは彼女の博識ぶりに興奮したのか、彼女へと詰め寄った。「ソフィアがなるべきはやっぱり料理人なんじゃない?」
 「作るのは得意じゃないんだ。食べる専門で」彼女は机から立ちあがると再びピアノに向かい、そしてまたナタリアたちの方へと振り向いた。「アイドルでよかった。だってこんなにも美味しい料理をタダで食べられるんだから」
 彼女のいつもの自由気ままな理由に、ナタリアとアンゲリナは思わず顔を見合わせて笑みを浮かべる。
 「そうだ、ソフィアの伴奏に合わせて、私たちも歌っていいかな・・・!」
 ナタリアが勇気を出して、少しだけおっかない彼女に提案してみた。
 「もう夜九時だ、さすがに私もあと一回弾いたらここを出ようとしてたところで・・・」
 食欲が満たされると、今度は眠そうに、大きなあくびをする。
 しかし一度お願いした以上は簡単には引きさがれるわけがない。
 「その一回だけで十分なの!・・・ねえお願い、私たち今日3回も合わせたじゃない」
 「それなら尚のこと、もう合わせる必要はないんじゃ・・・」
 「でも、きっともう一回合わせたら、今までで一番の歌が歌えるはずなの!!」
 その中にアンゲリナも加わった。
 彼女たち二人は、キラキラした表情と、その目に強い闘志を滾らせて、ソフィアの座るピアノの近くに駆け寄る。楽譜を持った二人をこれ以上、止めようも無さそうだ。
 ソフィアは仕方なく鍵盤に指を並べて、ピアノの前に並ぶ二人を見つめながら大きく息を吸う。
「準備はいい?」
「うん!」
 ソフィアの軽やかなピアノのメロディーが流れ、3人の音が綺麗に重なり合う。





 1984年5月9日の戦勝記念日当日は、青く澄み渡った青空が広がる中で始まった。
 モスクワの赤の広場ではたくさんの戦車や装甲車、ミサイルを積んだ車が隊列を成して行進する。銃を持った兵士たちもそれに続いて長い脚を高らかにあげて行進し、見守る聴衆が歓声を以ってそんな彼らを迎えるのだ。
 軍楽隊の演奏が鳴り響く。ソ連国歌に始まり、『勝利の日』と呼ばれる軍歌も演奏された。

 そんな中、モスクワ市内の国営ラジオ放送局のスタジオの前の廊下には三人の、まだまだ無名なアイドルの姿があった。
 《モスクワ中央放送局です。この時間は戦勝記念日の特集と、中継をお送りします》
 今日は戦勝記念日という特別な日であるため、いつも以上に強く、熱のこもった口調で、いかにもプロパガンダ的な内容の原稿を身振り手振りも交えながら司会者の男性はマイクの前で雄弁に語っていた。
 《我々偉大なるソビエト連邦が39年前、ナチスドイツの支配から東欧地域を悪の呪縛から解放した日はいつか。そう、まさに、今日この日、5月9日なのです!ファシストの野望は見事に打ち砕かれ、我々は自由を手に入れました。今、皆さんが自由に、そして平等に、そして平和に暮らせているのは、先人たちのあまりに多い犠牲があったからこそなのです。今こそ偉大なる先人に、ソビエトのために命を差し出した英雄たちに、哀悼の意を、そして感謝の言葉を述べようではありませんか!》
 ガラス張りの小さなスタジオの向こうからもビシビシと伝わって来る熱意に、ナタリアは興奮を覚えた。この言葉が今、同時にソ連全土に流れていると考えると、胸の動悸は抑えようにも抑えられなかった。
 「ナタリア、あまり緊張しないで。普段通りだよ」
 ソフィアが、廊下の壁に張り付くナタリアの肩へそっと手を置いた。
 「ソフィアの方こそ」
 「何言ってるの、私は緊張なんか」
 「ソフィーって案外強がりだよね」アンゲリナがくすりと笑った。「だってソフィーの指、震えてる」
 「・・・ほんと、自分じゃ全然気づかなかったな」
 ソフィアは自分の指を見て、おお、と軽く驚きの声を漏らす。自分自身で緊張していることにも気づかない人間がいることにナタリアもアンゲリナも、おかしくなって笑い合う。そんなことをしている間にも自分が今までずっと抱えていた緊張や不安というのはどこかへと消えているような気がした。
 「みなさんお待たせしました。もうすぐで本番になります。これから収録スタジオに案内しますので、スタジオに入ってからは無言でお願いします」
 スタッフの若い女性が現れてそう告げると、三人は待ち構えたように廊下に並べられた椅子から立ち上がって互いに顔を見合わせる。
 「私たちの初デビュー、いいものにしようね」
 真ん中にいるナタリアはソフィアとアンゲリナの手を強く握る。
 「うん!素敵な笑顔で歌おうね」
 アンゲリナもまた、ソフィアの手を握った。
 「・・・えっと、二人とも。私の伴奏にしっかりついてきて」
 二人に手を握られたソフィアは、少し頼りない声で呟いた。

 《それではみなさん、次のコーナーに移りたいと思います。つづいてのコーナーは新生音楽コーラスグループによる生演奏です。このグループの名前は・・・まだありません。私の目の前には可愛らしい少女が三人見えますね。はは・・・さあ、彼女たちは一体、どんな歌を皆さんに披露してくれるのでしょうか。歌う曲名は、ピオネールでも最近歌われるようになった『Радуга  воспоминаний』です!・・・さあ、子供時代の輝かしい思い出を振り返りながら、そして、これからの世界平和を願いながら、ゆっくりとご堪能ください・・・!》

 
・・・


 《皆さん、いかがでしたか。彼女たちは本当に素晴らしい歌声を持っていますね・・・、今後も彼女たちの活躍からは目を離せません!本ラジオ局では彼女たちの歌をこれから続々とお送りしていく予定なので、お楽しみに。さて、それでは次のコーナーに移りたいと思います・・・》

 彼女たちの初デビューはわずか5分間という人生の中においては非常に短い一瞬の出来事であり、想像していたよりも華やかなものとは言い難い。それでもスタジオを出た3人の表情はついに大きなことを一つやりきったという、言葉にはできない大きな達成感に満ち溢れていた。
「・・・どうにか、緊張しないで歌えたよ」アンゲリナは元気いっぱいに両手でピースを作る。「このラジオを聴いている人たちがどう感じたのかは分からないけど」
「私も・・・」ナタリアは目を輝かせる。「私たちの声、今ソビエト全国に流れたんだよね・・・すごいな・・・そんな実感なんて、全然湧かないんだけどね」
放送局の廊下で、三人はそれぞれ、初めての本番を通して感じた感動の余韻を噛みしめている。
「ソフィアは?」
 ナタリアの呼びかけに彼女だけは応じず、一人黙り込んだまま、どこか上の空だった。しかし彼女の隣を歩いていたナタリアは構わず、そんな彼女の手を勢いよく握りしめる。
 「・・・よかったよ、ソフィア。ありがとう、私たちをこんな風に導いてくれて・・・!」
 突然のことに驚いた彼女はナタリアの顔を、まるで初対面の相手を眺めるかのようにまじまじと見つめた。
 「あんたって、そんな顔もできたんだ」
 こんなにも感情豊かな彼女の表情を見たのは、ソフィアにとってはきっとこれが初めてだったのかもしれない。彼女は一体、いまどんな気持ちを抱いているのだろうか。相変わらず彼女の考えを読み取るのは難しかったが、きっと自分と同じくらい達成感に満たされているのだろうと思うと、嬉しかった。

 収録を終えたばかりの彼女たちはエレベーターで放送局の一階に降りる。玄関口までの長い廊下を歩いていると、スーツの男性の姿がそこにあった。コーヒーの入った紙コップを手に持つ彼の姿に、彼女たちは思いも寄らずぎょっとする。
「ミハイルさん!?」
 3人は一斉に駆け出して、夢中で見慣れた彼を取り囲んだ。
 「君たちの初舞台、収録スタジオの外で聴かせてもらった。・・・ついに、大きな一歩を踏み出したね」
 放送局で働いている事務員も皆仕事の手を止めて耳をそば立てていたのだという。放送が終わった直後も歌っていた彼女たちについて、すっかり話し込んでいたばかりでなく、今の出演者は一体誰なのかという電話での問い合わせが放送局に殺到し、今も職員総出で対応に追われていた。
 そんな彼女たちには知り得ないラジオの向こう側の反響の大きさを知ると、彼女たちは舞い上がるような気持ちで抱きしめ合い、成功の喜びを分かち合う。
 「リーナ、やはり君は天使という名前の通り、天から授かったような歌唱力を持ってるね。まるで賛美歌のようだ。・・・ただ、低音域はまだ少し苦手そうだね。今後様々な楽曲に挑戦してもらうから、レパートリーを増やすためにも重点的にその部分をカバーして欲しい」
 アンゲリナの歌声は放送局の職員からの評価がとりわけ高く、さっそく彼女をどこかに出演させるべきとの声があちこちから聞こえていた。
 「ソフィー、君のピアノの技術には感服したよ。冒頭や中盤における超絶技巧のアレンジが特に見事だ。バックコーラスでも非常に上手くみんなを支えていたね。君の多才さ、器用さは本当に素晴らしい。ただあまり気にならなかったけど、声が震え気味だった。ほんの微かだが」
 ナタリアとアンゲリナが、どっと吹き出した。
 「何が可笑しいのさ」
 「だってソフィー、始まる前にもあんなに指震わせてたし」
 「指先だけじゃなくて声まで震えてた」
 「誰だって最初は緊張するもの。でも多分、もう震えないから」
 彼女にしては珍しく、強がるように言った。
 「そして、ナターシャ」
 ミハイルの青い瞳がまっすぐに彼女を捉えると、よく慣れ親しんだ彼なのに緊張感が身体中を包み込む。一体彼はどんな感想をくれるのだろう・・・。
 「君の声は誰からも愛される声だ。芯のある声は、今でも耳から離れない・・・力強くて、美しい声だね。歌の技術は正直なところ、まだまだ足りてないかもしれない。だけど、それもこれからの練習次第で大きく変わっていくだろう」
 ナタリアは顔を薄桃色に染めながら、その言葉を何度も何度も咀嚼しては呑み込んだ。
 だって、こんなにも嬉しい言葉は他にあるだろうか?
 自分の未熟さは強く肌に感じているが、いつか目の前の彼からもっと素敵な褒め言葉を引き出したい。
そして本当にソ連に住む全ての人たちを自分の歌声で感動させたい。
 彼女の心の中で、そんな野望がメラメラと燃え盛っていた。


(3章に続く)
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