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第三章
英雄
しおりを挟む時は流れて一年後のこと。
1985年夏。
初めてのテレビ出演は、彼女たちがラジオで初デビューを飾ってからおよそ一年後のことだった。放送局の楽屋には水色のシャツに赤のスカーフを結んだ、まるでピオネールのような衣装に身を包むメンバーたちが本番開始を今か今かと待ちわびていた。
彼女たち七人が全員揃ってテレビに出演するのはこれが初めてのことであり、短い時間と言っても失敗は許されない。これまではラジオの出演だけで、声しか知られていなかった彼女たちの姿が初めてソビエト全土の何億というテレビの前の国民に姿を表すのだから、今回のテレビ出演は、国民の期待を大きく背負うものに違いなかった。
「大丈夫?・・・みんな少し不安げな顔だけど」
エルザの瞳に映り込んだメンバーの表情は、どれも皆初めて顔を合わせた時のような緊張感でいっぱいになっていた。
「むしろ待たされたのよ」一人だけあまり緊張した様子がないリトアニア人のサラが言った。「毎日レッスンずくめだったのに、いざ出演が決まったところで時間はたったの20分なんて」
不満げな表情ではあるが、彼女の言葉は、それだけ今回の出演を心待ちにしていたことを物語っていた。
今年はエルザや彼女たちのプロデューサー的存在であるミハイル・トカレフが奔走した年でもある。春にソ連の最高指導者であったチェルネンコが持病の悪化で急逝し、1985年4月、ソビエト政治は改革派の急先鋒に立つ若手の政治局員ゴルバチョフの手に委ねられたのだ。
彼や、彼同様にソビエトの抜本的な改革に取り組もうと志す党の政治家たちのお墨付きのおかげで、順調に彼女たちの仕事は増え、内容もより充実したものになっていく。
だが、ソ連の一国民たる彼女たちは、ソビエト政治の流れが変わったことをまだそれほど実感できていない。モスクワ市内の風物詩とも言える店の前にできる長蛇の列や、西側の文化が厳しく統制される風潮は、未だに根強くある。ソビエト経済は70年代のブレジネフ時代に停滞を迎えて、未だにその状況を打破できていなかった。
「あなたたちはペレストロイカ(改革)の追い風なの。まだソビエトが変わっていないと感じるのなら、あなたたちが、この国を変える」
メンバーのまとめ役的な存在であったエルザ・ディートリヒの力強い言葉に全員の目には輝きが灯された。特に彼女・・・ウクライナ人のナタリア・リヴォフスカヤは、おそらくこの場の誰よりも熱い眼差しをエルザや他のメンバーに注いでいた。
『ソ連の花束』と掲げられた巨大な横断幕の下に、拍手で迎えられてスタジオに入場した彼女たち七人は横一列に並んだ。司会者からマイクを手渡されたエルザは、一人ずつメンバーの紹介を始める。緊張しながら一歩前に踏み出して丁寧な、ぎこちないお辞儀をするメンバーもいれば、その一方で余裕を見せつつ、ふざけて会場の笑いを取るメンバーもいるほど反応は様々で、個性溢れる彼女たちの姿は、ラジオの向こうではこれまで決して伝わってこなかった光景であった。
大きなカメラを回すスタッフたちの顔にも時折、笑みが溢れた。
「そして最後にウクライナに咲くライラック・・・ナタリア・リヴォフスカヤ!」
「は・・・はじめまして・・・ナタリアです!・・・」
メンバーは皆、一人一人それぞれ自分の頭に好きな種類の花飾りをつけていた。ナタリアが選んだのは白いライラックの花で、ぎこちないお辞儀とともにその小さな無数の花びらが、まるで小刻みに弾む彼女の胸の鼓動のように揺れ動いている。
会場全体から跳ね返ってきた拍手に視線を上げると、観覧席にいる客たちは皆笑みを浮かべて自分を受け入れる。
緊張気味な彼女の心は、その瞬間、言いようのない安堵に包み込まれていた。
「ソビエトが誇る新進気鋭の音楽グループ。ブーケト・ツヴェトフで、最初に歌う曲は彼女たちの定番曲、『花束』!」
ブーケト・ツヴェトフ・・・ロシア語で花束を意味する、それぞれ種類も個性も違った彼女たちは今日ここでまた、新たな一歩を踏み出した。
番組収録の終了後、控え室には額に汗を滲ませたメンバーの姿があった。
「ソフィーのコサージュ、可愛い。エリカの花?」
ベラルーシ人のアンゲリナ・カミンスカヤは、四つほども年上の彼女ソフィア・クルニコワの髪の毛に飾られた赤い花飾りを指差した。触ろうとしても身長が30近くも離れた彼女の頭までは手を伸ばさなければ届かない。ソフィアは無表情のまま、どこか意地悪く頭を揺らしたり避けたりしては、アンゲリナをいじって遊んでいた。
「家の軒先によく生えてるよね。リーナの頭についたひまわりを見てると、お腹が空く。そっちの方が私にはあっていたかも?」
「もうソフィー、これは食用じゃないよ」
ひまわりの種は、ソ連国民にとってはとても馴染みのある食べ物だ。ロシアという寒々しい地域からはひまわりのイメージなど湧きにくいが、ソビエトはこれでもれっきとした世界最大のひまわり生産大国だ。ひまわりの種を煎って売る露店は街中に見受けられ、その芳ばしい香りを一度でも嗅げば誰しもつい買ってしまうようなソ連庶民を代表する食べ物である。
いくら家柄の良い人間でも一度ひまわりの種を前にすれば釘付けになってしまう。マルクスが唱える階級間闘争なんて小難しい話を抜きにして、本当の意味で国民を平等を導いてくれる存在だった。
「ソフィアとひまわり・・・、まるで、映画ね」
エルザが姿鏡の前に座っているソフィアの背後にやってくると、彼女の癖毛気味な赤髪を面白そうにいじくりながら呟いた。
数年前イタリアとソ連は「ひまわり」という合作映画を撮影した。第二次世界大戦の最中、東部戦線に従軍したイタリア軍兵士がソ連で行方不明となり、戦死したものと思われていた。だがその事実を受け入れられない彼の妻はイタリアを飛びだし、夫を見つけるため遥々ソ連に駆けつける・・・というようなあらすじの映画だ。
その妻役であった、ソフィア・ローレンという世界的に有名な女優が、それこそ撮影のためにウクライナのひまわり畑を訪れたことがあった。ソフィア・ローレンという名の知れた大女優は彼女たちにとっても憧れのイコン(アイドル)に違いない。
「いずれは、あなたたちにも女優の仕事が舞い込むわ」
この楽屋にいるメンバーの誰もが、その言葉に耳を傾けていた。ナタリアは特に興味深くエルザの顔をまじまじと見つめる。
「ただ歌うだけの存在じゃない。様々なチャンスが与えられる存在で、いろんな仕事を通じて、あなたたちは国民に愛されていくの」
アイドルという存在は完成に時間がかかるものだと、彼女は言った。決してすぐになれるものじゃない。何年かかるかも分からない・・・いろんな仕事を上手にこなす必要があるのだ。
それらの事実が、ナタリアには、重くのし掛かるようにも思える。本当はエルザの言葉にちょっと期待したのだが、よく考えてみれば・・・自分の認識というのはとても甘い気がする。すぐにでも一流女優と肩を並べられるなど、虫のいい話だった。
「私は表情が堅苦しいから、演技なんかきっとダメダメだよ。私が女優として映画に出れば、それこそ世間からは悪い噂が立ちそうだもの」
強く憧れ続ける存在であるにも関わらず、ナタリアはそうやって、いつもの自信の無さを滲ませる。そんな彼女の悪い癖は、紙の上に万年筆のインクを垂らした時のように、じわじわと侵食した。
「あのね。いいかしら」エルザは相変わらず勝手に自己完結しているナタリアの肩に、手を置いた。「最初から完璧に何もかもこなせるわけないし、その必要もない、だってお客さんはそういうのを求めているわけじゃないから」
エルザの言葉の意味はやっぱり判然としない。考える時間も貰えず、いずれ分かる、と言ったきりエルザは向こうに行く。勿論そんなのはいつものことで、彼女は大抵の場合、その答えが何であるかを教えない。ぼやかした言い方をされるのが苦手で、はっきりとした言葉を相手に求めてしまう彼女は、エルザのこういう部分が本当は少しだけ苦手だ。
「私はナタリアさんの歌声が好きですよ。あんなに見事な音域は、私には出せないもの」
隣にいるエンバー最年少の少女クララ・スユンシャリナが少し控えめに、恥じらいを滲ませながら褒めてくれたことが、ナタリアの胸をどきりとさせた。普段周囲にやや心を閉ざしがちな中央アジア系の黒髪の彼女に褒められることは、きっと他の誰に褒められるよりも嬉しくて、力がある。彼女の髪の毛を飾る白いシクラメンの花が汚れない彼女の純白さをよくも表している。
少し照れ臭くなり、感謝の言葉もすぐには出てこない。
「よかったねナターシャ。無口なクララのお墨付きを得れば、きっとなんでもできるよ」
いつの間にかアンゲリナはクララの背後にこっそりと立ち、彼女の艶やかな黒い髪の毛を櫛で丁寧に解いていた。クララは小さな手で彼女の手を払いのけようとするけれど、アンゲリナは最後まで手を抜く様子もなく、そればかりか今度は何のつもりか、彼女の髪の毛を丁寧に編み始めている。
「クララの書いてる曲、まだできないの?」
「・・・ど、どうしてそれ、知ってるの・・・!?」
クララは化粧鏡の前に置かれた五線譜の挟まったスケッチブックに気づいて、少し慌ただしい様子でそっと他人の目が入らないように手で覆い隠した。
「いつから知ってたの?いやだなあ・・・」
普段はナタリア以上に無表情になりがちな彼女が、今は恥じらいで顔を真っ赤にしていた。
「そんなこと言うと余計に見たくなっちゃうんだけどな」
「見たいと言うよりも、聴いてみたいよ」
離れたところに座っていたソフィアが興味津々に立ち上がり、クララは今となっては、すっかりメンバーに取り囲まれてしまった。
「大丈夫だよクララ、あなたの作ったその歌をみんなで歌える曲にアレンジして。私あなたの作った曲だったら、きっと絶対に気にいるもの」アンゲリナは強くクララにそんなことを勧めている・・・それが余計にクララのハードルを大きく上げることになろうとは思わずに。
「ソフィーだって、演奏に協力してくれるよね?」
対するソフィアは板チョコレート一枚でサビ一個と、考え事をするようにぼそりと呟くだけだった。
アンゲリナとクララの髪の色は白銀と黒の真反対でも、その関係性は、長年連れ添った姉妹のようであり、ナタリアはそんな年下二人を見つめて、とても穏やかな気持ちになっていた。クララが前より表情豊かになったのは、もしかしなくても、アンゲリナのおかげに違いない。
「ちょっと!どういうこと、これ!?」
ナタリアの背後、大きな机を挟んで数メートルほど離れた反対側の壁際に並んだ姿鏡の前に座っていたサラ・マイネリーテが、突然大きな声を張り上げた。
メンバーの視線が一斉に彼女のもとに集まると、彼女の手には、ぐしゃぐしゃになった手紙の便箋が握り締められていた。
「どうしたの、サリー?」
「どうもこうも・・・今日は、もう何もやる気が起きないわ」サラは、握り締めていた便箋を指で引き裂くと、乱雑にゴミ箱へ放り込んだ。「ごめんなさい、気にしないで・・・大声出しちゃったけど」
「もしかして男?」
エルザの言葉にサラの眉が、アンテナのようにぴくりと反応する。
「随分と察しが良いのね・・・。悪い?アイドルが男と揉めたのよ。馬鹿げてるわよね?」
サラの生まれ故郷はバルト海にほど近いリトアニア共和国だが、彼女はソ連最高学府の一つであるレニングラード大学に以前通っていた。レニングラード時代、彼女は一人の同じリトアニア生まれの男性と出会い、しばらくの間交際していたのだ。その関係は当然今も続いていたはずだが、サラがアイドルを志ざし、モスクワに引っ越してから二人の関係はどこかギクシャクしたものになっていた。
「最近手紙のやり取りも少なくなってきて、なんか変だなって・・・思ってた。どうしてそんなことにも気づかずに私はあんなに・・・だって、聞いて、私はいつもちゃんと丁寧な文章に丁寧な慣用句、目に見える形での愛情表現だって忘れずきちんと書いてたのに・・・、それなのに・・・?」
サラの悲痛な訴えが控え室にどんよりと曇った空気を一気に流し込む。きっと彼女のことだから、本番が終わるまで彼からの手紙は開封せず、読むことを収録後の楽しみに取っておいたのだろう。それなのに、今頃開けてみると内容は予想に反して、彼女には到底受け入れられないもので・・・。
手紙の内容は、他のメンバーたちも容易く察しがつく。
「モスクワで、新しい相手でも探せばいいじゃない?サラのような美人なら、きっと引く手数多だし!」
ナタリアはこの場の重く沈んだ空気を何とかしたいと思って、必死にフォローを入れるが、彼女は何の反応も見せない。むしろ却って火に油を注ぐようなことをしでかしてしまったのではないかと、背筋に、悪い予感すら走る。
「サリーね。気持ちはよくわかるけどね・・・」
無力なナタリアを庇うかのように、エルザが口を開く。
「相手だって悪いかもしれないわ。でも、あなたの手紙や電話の接し方にも、どこか問題あったんじゃないか、と思うの」
サラに近寄るなり珍しく何か優しい励ましの言葉でもかけてくれるのかと思いきや・・・彼女は、いつもより厳しい口調で唐突に、そんなことを言う。
「どういうことよ・・・?」
サラの頭の中は少し混乱していた。当然怒りも込み上げていた。
「どうもこうも。あなたは相手に重たいと思われたのかも。手紙の返信だって、もしかしたら一方的だったんじゃないかしら?」
エルザの言葉に軽く打ちのめされたサラの目はついに怒りで大きく見開かれる。
「恋は一方通行じゃダメなのよ、サリー。自分の気持ちばかり優先するのは大人のすることじゃないでしょ。それが許されるのは学生のうちだけ。あなた、彼に寂しいと言って問い詰めたりしてない?自分から歩み寄ることもなくモスクワに来てほしいって、何度も繰り返したり・・・」
「私の手紙、勝手に読んだの・・・?」
サラは、エルザの言葉があまりに図星であるためか、強い怒りで手を震わせていた。
「読むわけないでしょ、封を切った跡だって無いのに。でも分かるもの・・・あなたのこと。あなたは自分のわがままを、他人に押し付けすぎている。そのことを改めなくちゃ、あなたは変われない」
その場にいるメンバーの一部は、にわかにエルザの本当の狙いを察していた。サラを慰めるどころか、こんなに彼女の粗を問い詰めているのは、彼女の普段の行いを改めさせるための説教に他ならない。サラのことを思っての、彼女なりの愛情に違いなかった。
「今に始まったことじゃないけれど、あなたのその態度って本当に鼻につくわよね!・・・優しい言葉くらいかけてくれたっていいのに・・・あなたは本当に鬼よ。ひどいわ・・・!」
当然、そんなエルザなりの思いやりというのは、彼女には伝わるはずもなかった。
頭に飾られた白ユリが室内照明に照らされて、どこか眩い後光を放つエルザは、今にも泣き出しそうなサラを目の前にしても凛として動じることはなく、その美しさは彼女にこれ以上ないほど相応しい。
堂々とした彼女の威厳は、小ぶりで可愛らしい印象を与える黄色いエニシダの花を頭に飾り付けたサラにとって、どれも妬ましく感じる要素に他ならない。
「一年経っても嫌よ。あなたのこと全く好きになれない。・・・間違ってる?」
「・・・間違ってないわ。私は、あなたに嫌われて当然のことを言っているもの」
手元のコーヒーを飲み干して紙コップを握り潰すと、エルザはその場から遠ざかろうとした。そんな立ち去ろうとする彼女の背中を、サラは負け犬のように呼び止めた。
「待ちなさいよ!・・・まだよ、まだ終わってないから・・・!」エルザの口から謝罪の言葉も聞けなかった不満を大いに含みつつ、唸る。「いつもそうやって私のこと、メンバーみんなの前で小馬鹿にして、一体何が楽しいのよ。私は、傷ついてるんだから」
声を上げた彼女に、エルザは無害だが、ある種残酷な笑みを湛えたまま振り返る。
「自分の頭で、どうしたらいいのかをよく考えて頂戴」
当然のように答えもろくにくれないまま、彼女が控室を出ようとドアノブに手をかけると、ちょうど戻ってきたばかりのニノ・ヴァシュキロワと鉢合わせた。
「まぁニノ、今までどこに?」
「やあエルザ、ちょっと頼まれごとをしててね・・・しかし、髪の毛の白いユリ、よく似合ってる。すごく綺麗だ」
「ふふ。お上手ね。グルジア人は男だけじゃなくて、女までこうなのかしら?」
いつもの調子の良い彼女の言葉にエルザは、サラに対して向けた微笑みとはまた趣の異なった笑みを浮かべた。
「それよりも向こうで不貞腐れてる・・・あなたのガーベラと同じ黄色のお花が似合うお姫様にも、同じような言葉を掛けてあげて欲しいの。お願いね」
すれ違いざま、耳元にそんな言葉を囁かれたニノは咄嗟に嫌そうな表情を浮かべる。しかしエルザにしては珍しく頼み込むように言われて、根はお人好しの彼女はどうにも無下に断れなかった。と言うよりか・・・慌てて我に返ってその意図を問いただすべく声をかけようとしたのだが、その時にはすでに件のエルザは廊下の奥の闇へ消えていた。
他方、掴みどころのない彼女に散々な物言いをされて一種の放心状態だったサラは化粧鏡の前に一人座り、ぶつくさと不満げな言葉を発していた。そんな彼女の背中を、少し離れた位置にいるナタリアたちもどこか心配そうな様子で眺めていたが、彼女から発せられるネガティブな雰囲気が、誰も近寄らせない大きく見えない壁を作っていた。
一体エルザはサラに何を吹き込んだのだろうか。控えに戻ってきたばかりのニノには先ほど繰り広げられたエルザとサラの口喧嘩のことなど知る由もなく、おまけに、その後始末を任されたことだけはようやく察しのついた彼女は思わず周囲に聞こえるほどの大きなため息を吐く。ここで彼女の機嫌を取らなきゃますます面倒なことになるのは目に見えて明らかなことだから。
「・・・なぁサリー、よく見たら、あんたも黄色だったんだ」
サラの目の前の鏡に、ぎこちない笑顔を浮かべたニノの顔が映り込んだ。
「だから何」
鏡に映ったニノの顔を睨みつけるように、その鏡にサラの不機嫌極まりない顔が映る。
「・・・あんたのその、エニシダのことなんだけどさ」
ぎこちない言葉は、ニノの気持ちが素直に出ている証拠。普段からサラとは口喧嘩ばかりしているから、いざ褒めろと言われたところで面と向かって褒められるはずもない。気恥ずかしさが邪魔をしていた。
「醜いって言いたいの?私は今もう喧嘩する気はないけど・・・」
「違う・・・」
「汚いって言えば」
「違う!」
「くすんだ黄色?」
「もう!今日のあんたは一段と面倒くさいんだから」
今更逃げることもできない状況に追いやられたニノに残された選択肢はもはや褒めるという一択に過ぎない。
「私の花よりもずっと綺麗な花だよねって、褒めてあげるだけ。綺麗だよね・・・!」
「・・・」
「何か、おかしいことでも・・・」
言葉次第ですぐに気分がコロコロと変わりがちなサラは、ニノの言葉を真に受けて顔を赤くしていたが、正直なところ、普段は決して自分のことを褒めないニノをよく知っているだけに信じられなくて、その両目は驚きで点になっている。
一方のニノも、人を褒めること自体は好きなのに、それだけのことが何故こんなに恥ずかしいのだかよく分からないまま、颯爽とその場から踵を返すと、まっすぐナタリアたちのいる真反対の化粧台のところへ逃げるようにやってきた。
「ニノ、あんたの恥ずかしいセリフで、なんとか場の空気が和らいだ。ありがとう」
珍しくソフィアが感心していた。同時に、どことなくニノのことを茶化すような口ぶりでもある。
「よして。何があったか全然知らないけど・・・全部エルザのせいだから」
どうせあとでエルザを捕まえて追及したって、彼女はメンバー全員が仲良くなるために大事なことだとか、そんな、さも真っ当そうな理由を突きつけるに違いなかった。
当然ニノは、エルザという女は自分たちにさせておいて自分一人背後に立ち笑いを押し殺しているような女狐と思い込んでいる節があるためか、そのような言い訳は信じない。サラを褒めさせたのも彼女の些細な“お楽しみ”に、自分が利用されただけだと思わずにはいられなかった。
クララから差し出されたお茶の紙コップをひとしきり飲み干した彼女は、突然思い出したように、控室の隅にいたナタリアを呼びつけた。
「ナターシャ、伝言があるんだ。事務所に電話が来てたからスタッフに呼び止められて、あんたの代わりに私が対応したんだけど」
ニノはポケットからその伝言を書き記したメモを取り出してナタリアに手渡した。何のことかさっぱりなナタリアは手元のメモを覗き込んだが、そこに書かれた病院の名前と、病室の番号は全くピンとこない。しかし、メモの一番下にも何かが書かれており、その名前を見つめて半信半疑に首を傾げる。しかし、何か引っかかる。
その部分だけ、何度も読み返した。
“アレクセイ・ニコラエヴィチ・リヴォフスキー”
ナタリアは、ようやく驚いて声を上げた。
「こっちだって驚いたよ、お兄さんがいるんだね・・・無事だってさ。よかった」
ニノはまるで自分のことのように安堵の気持ちを浮かべていた。もし万が一にも、それが“戦死報告”だったりしたら、この控え室の空気は一体どうなっていたことだろう・・・。
それより今ニノは兄を心配するナタリアを励ますかどうかで言葉選びを慎重に悩んでいた。だが目の前の彼女はそんな気遣いなど気にする様子はなく、一刻も早く病院に駆けつけて、兄に会いたいという気持ちが心の中を支配している。
「ねえニノ・・・私が今すぐ病院に行っても大丈夫かな・・・?」
ナタリアの兄であるアレクセイ・リヴォフスキーは、アフガニスタンで負傷し、現在モスクワの病院に入院しているというのだ。無事でよかったと思う反面、それ以上に手足を喪っていたりしないか、とか心配事が、今度は湯水のように、次から次へと彼女の頭の中に溢れる。
「いいに決まってるでしょ!エルザには私たちが伝えておく」
ナタリアは、感謝するようにニノを強く抱きしめた。
「今すぐ行ってあげてナターシャ。大事な家族なんだから」
「・・・リーナ、ありがとう」
アンゲリナは、ナタリアの背中を押す。彼女は強く頷くとカバンを手に取り、テレビ局の廊下を走りだす。
彼女はカバンの中で、今日も持ち歩いていた彼の大事なウォークマンを懸命に握りしめていた。
◇
モスクワ市内の大病院の一人用の病室のベッドの上で、アレクセイ・リヴォフスキーは気だるそうに虚空を見つめていた。
右脚と頭部には包帯が巻かれている。自分の真隣で哨戒任務にあたっていた戦友と違い、手足をもがれて命を喪うようなことにはならなかったが、アメリカをはじめ西側が支援したゲリラが自陣に向けて撃ちこんだ迫撃砲弾の破片は、彼の身体から肉を抉り取った。
たった一年間のアフガン駐留。その拭い去ることもできない惨めな事実の前に、アレクセイの目には悔し涙が滲む。本当はもっと活躍できたはずなのに、戦場で過ごす日々は自分が思っていたものとは明らかに違っていたのだ。見えない敵から攻撃を受ける自分たちは、銃を撃つ機会すら殆ど与えられなかった。
「アリョーシャ・・・」
病室の扉が、小さく開いた。かすかに顔をのぞかせたナタリアの顔をアレクセイは一瞬だけ、認識できなかった。そもそも彼女の小さな呼び声も彼の耳から脳の奥へ届くのに、少しの時間を要する。
ようやく彼女の声が現実味を帯びて頭の中にじわじわと浸透してくると、彼は無言のままで、ドアの隙間から覗かれた彼女の全身をまじまじと目に収める。
「・・・ナターシャ?」
ようやく言葉を発する彼に、彼女は安堵の笑みと、そして少しの涙を目に浮かべて病室に慎重に足を踏み入れ、踏み入れた後は迷わず彼が横たわるベッドに駆け寄った。
ナタリアはアレクセイの体に巻きつけられた包帯の存在なんてまるで気にした様子もなく無理矢理、抱擁を交わす。その瞬間彼は懐かしさに目を細めた。ずっとこれまで自分につきまとってきたのは消毒液と包帯の匂い。焼けた砂の匂いと、生臭い血の匂いだ。
だが、そんな世界に彼女がもたらしたのは忘れかけていた実家の懐かしくて暖かい香りだ。ムィコラーイウ村から遠く離れたこのモスクワにやってきてもなお消えることのない昔からの彼女の香りが、自分を地獄の戦場から現実へと引き戻していくような気がしたものの、瞬間、彼は、自分はこんな幸せな場所にいるべきではないと、無意識に優しい彼女の腕を振りほどいている。
「・・・すまないナターシャ・・・その」ナタリアの少し寂しげな顔が、彼の目に映り込んだ。「・・・痛むんだ」
気まずさを紛らわすため、ナタリアは懸命に首を振る。
「まだ、傷も治りかけなのに・・・私ったら。こんなにも早く、アリョーシャに再会できるとは思ってなかったから。ごめんね。兄貴と会えたのが、すごく嬉しいの」
二人の間には微妙な空気が流れていた。彼は、ナタリアほどこの再会を素直に喜ぶことはできていなかった。戦場を早々に離れてモスクワにやってきたのは全く不本意なことだから。
自分がこれまで思い描いてきた理想とは、アフガンで活躍し、モスクワの群衆に笑顔で出迎えられる景色に他ならなかった。
「信じられないかもしれないけどね・・・私、今日初めてテレビ番組に出演してきたんだ!」
「・・・そうか」
彼は、関心もなさそうに呟く。
「信じてないのね?私だって信じられない!放送はまだだけど、アリョーシャにもちゃんと見て欲しい」
「・・・うん」
彼女が何を言っても彼は上の空で、ナタリアはその様子に戸惑っている。目線もふわふわと漂いがちで、ろくに自分には合わせてくれない。
「・・・本当に、観てくれる?」
「ああ。観たいとも」
自分の知っている兄の姿とはかけ離れた別人がまるで自分の目の前に横たわっているようだった。匂いだって、彼女が知っている兄の匂いじゃない。
一体何が彼を変えてしまったのだろうか。
・・・欲しい言葉は、相槌なんかじゃないのに。
彼女はせめて彼に気分を良くしてもらおうと、思い出したように手元のカバンからウォークマンを取り出す。その機械に見覚えのあった彼は、まばたきを繰り返しながら目を向ける。
「覚えてる?もし無事に再会できたら、私がアリョーシャにこれを返すって・・・約束」
彼女は彼の固く握り締められた右手の拳を優しく開くと、その手にウォークマンを握らせた。中に入ったカセットテープにはビートルズの曲が入れられていたが、それを裏返せばちゃっかり、彼女が初めてラジオで歌った時の曲も一緒に録音されていた。
あとで自分の歌も聴いてもらおうという魂胆だった。
「・・・どうして、それを、今返すのさ」ところが、アレクセイはどこか怪訝な表情で握らされたウォークマンを見つめた。「今返されたりしたら、仲間のところに帰れない。俺はいつまでもこんなところに居座るつもりはないよ。これはまだお前が持っとくべきものだ、でなきゃ・・・次こそ再会できなくなる」
彼は機嫌が悪そうにそれをナタリアに突き返した。
彼の言っていることがさっぱり分からない彼女は、困惑しきった表情を浮かべる。
「どうして・・・?」
「・・・まだ俺はやるべきことをやれてない」
相変わらずの不満顔で言った兄の態度に、とうとう、ナタリアはいつの間にか感情的になっている。
「せっかく人が心配ばしとるとに・・・!なんね、さっきからそん態度・・・!」
「お前に心配して欲しいなんて、これっぽっちも思っちゃいない」
アレクセイは無表情のまま、一体彼女は何をそんなに怒っているのだろうと、ナタリアのことを訝しげに見つめた。
「アリョーシャは馬鹿だよ!正気じゃなか、こんなにボロボロになって、またアフガンなんかに行くつもり!?・・・信じられない」
ナタリアには、戦場に戻りたがる彼の気持ちなど微塵も理解することができない。ところが、残してきた仲間たちのことを忘れられず、あの地獄から逃れて自分だけが安全な場所にいることに対し、計り知れない大きな罪悪感を抱える兵士は、この病院にも数多くいるのだ。
とりわけ強い正義感を持ったアレクセイも、まさにその兵士の一人である。
「ナターシャ。ソ連に精一杯奉仕して、西側と戦うのが俺の仕事さ。国民の義務だ。お前がアイドルなんてものを目指すのも、これと一緒」
「・・・そうだけど、私は兄貴みたいに命の危険なんか冒したりしない・・・!」
「お前だって立派な大人だから、分かるはずだ。どんなに危険なことでも誰かがやらなきゃいけないことがある。俺は、まさにその役目を担っているんだ」
「・・・でもそれは、他の誰かに任せればいい仕事じゃないの!?どうして兄貴なの!?それが知りたいの!」
ナタリアは、納得のいく答えが欲しかった。
「・・・他の誰か?」アレクセイは、じろりと、彼女を睨んだ。「ふざけんな!なして、俺が英雄になったらいかんば言うったい・・・!?今こうしよる間に、たくさんの仲間が、アフガンで命ば落としよるったい、なして!・・・なして、俺ん大切な仲間ば救うことば、許してくれんったい!?」
アレクセイもまた感情的になったのか、珍しくウクライナ訛りの声を荒げたが、目の前で少し怯えた表情をのぞかせた妹の表情に気付いた途端、水をかけられたように冷静になる。
彼は、昔からソ連の英雄になることに憧れを抱いてきたのだ。ガガーリンになることを夢見てきた。皆が英雄になるように学校で教わってきたのだ。それが唯一無二の正しいことなのだと、思い込んできた。
この国は常に戦時中だった。日頃からお国のためというスローガンが叫ばれ、国のために働き、国のために行動し、家庭はいつも二の次。この国では何があっても生活の豊かさより思想が優先される。軍隊生活によって、彼はますますそれに磨きがかかっている。自分の力で少しでも多くのソ連国民が幸せに、安全に暮らすことができるのなら、彼はそれだけで幸せに感じることができる。
利益ばかり追い求めて貧富の格差が生まれるようなアメリカや資本主義を憎み打倒しようなど、かつての西側の音楽を愛する彼なら馬鹿馬鹿しいと一笑に付していたというのに、今ならソ連国民の幸せのためなら自分の身体を犠牲にしてもいいとまで思い込んでいたのだ。
「私たちにも家庭はある。私にとってアリョーシャは大事な家族だよ。そんな私たちより誰かの家庭を守る方が、大事だとでも言うと・・・?」
アレクセイは黙り込んだままで、何も言わない。
「大体そんなに勲章を手に入れるのが偉いわけ?勲章のために、自分の命を国に差し出すことが偉い?ううん、そぎゃんのはおかしか、絶対に馬鹿げとる!」
ナタリアは見えない何かに洗脳されてしまった兄を救い出すかのように、さらに言葉に力を込める。
病室にはウクライナ訛りの彼女の悲痛な訴えだけが響いた。
「全員が英雄やったら勲章ん価値だって英雄ん価値だって、きっと全部が薄れてしまうに決まっとるばい!英雄なんて・・・なるる人間だけがなればよか!アリョーシャは所詮、そん器じゃなかっただけばい!」
ナタリアはただかつてのように一緒に、西側で生まれた洋楽を、彼と一緒に楽しんで聴きたかっただけなのだ。
それなのに、そんな彼女の言葉が追い討ちのようにアレクセイの心を深く傷つけてしまう。
「・・・今すぐ、出て行け」
何を言ってもそんな赤の他人のような冷たい言葉しかくれない兄に、ナタリア自身も深く傷ついていた。気がつくと足は回れ右をして病室を飛び出し、彼女は今、病室の前の廊下に立ち尽くしていた。
なぜ自分の気持ちを、彼は分かってくれないのだろうか。
・・・そんな思いが、彼女の胸を苦しいほどに締め付けていく。
苦しみは涙になって頬をとめどなく伝い、ナタリアは嗚咽を含みながら廊下の壁際にしゃがみ込んで泣きじゃくっていた。
◇
短い夏が終わって、日照時間も徐々に短くなって秋が深まるモスクワの夕暮れの中、ミハイルは一人の男の背中を追っていた。
挙動不審な動作で人目をやけに気にしつつ、人通りの少ない道ばかりを選んで歩くその姿からは、何者かに追われている様子がすっかりにじみ出ているようだ。男は手に買い物袋をぶら下げていて、網状の手提げ袋には牛乳瓶のラベルがぼんやりと伺えた。
「エフゲニー・リガチョフか?」
中庭に通じる通路に足を踏み入れると、ミハイルはすぐ目の前を歩いているあまりにも無防備な老齢の男に後ろから声をかける。
「だ、誰だあんた」
咄嗟の呼び声に狼狽した男が怯えきった顔を後ろにゆっくり向けると、そこには丈の長い灰色のロングコートに身を包み、ぎらりと鋭い目つきをしたミハイルが茶色い革手袋をつけた両手をぶら下げて堂々と立つ。その姿に慌てふためく男が手に下げていた買い物袋を地面に落とすと、牛乳瓶の割れる音がエントランスにこだました。
「1978年に、黒海で原子力潜水艦の大規模な事故が起きた」
「し、知らん!私はエフゲニーなんて名前じゃないし・・・!私の名前はボリス・・・」
戦慄した表情を見せたのも束の間。男が隙を見計らって駆け出すが、ミハイルは決して逃さない。胸元から消音器付きのトカレフを即座に引き抜くと、逃げようとした彼の背中に三発の銃弾を叩き込んだ。
その挙動に一切の迷いはない。銃口からは白い煙が上に向かってまっすぐ立ち昇る。
男は何も語らないまま血まみれになってアスファルトに倒れ込む。流れる血だまりに真っ白な牛乳も混じり合って、そこには異様な文様が描かれる。
かつて兵器設計局に勤務していた彼は、原子力潜水艦に搭載する原子炉設計の責任者であった。だが彼は納期に間に合わせるための安全テストが不合格だった項目を無視して書類を改竄し、軍に潜水艦を納品する。この国では“どの月の何日までに納品せよ”という命令が出されれば、なるべく厳密に守らねばならない。それが出世への一番の近道なのだから。
再び起こされた原子力潜水艦の事故はソ連当局にも大きな衝撃を与えたが、政府は責任者の更迭だけでその事件を収束させたばかりでなく、炉心溶解(メルトダウン)を食い止める作業に従事した際の被曝によって犠牲になった隊員5名を、潜水艦の沈没という最悪の事態を回避した英雄として美談に仕立て上げ、国民の批判を躱す。裁かれるべき人間は公正に裁かれず、目の前を歩くその男もまた職を追われただけで、それ以上の処罰は受けることはなく年金まで受け取っている・・・ミハイルはこの男の殺害がせめてもの弔いだと考えていた。
散らばった薬莢を三発分すべて回収してポケットに放り込み、遺体を軽々と引きずったのち、予め用意していた暗緑色の死体袋に包むと彼は手際良くそれを引きずりながら人気の無い裏口に出た。一人の男が壁に寄りかかり、煙草を美味そうにふかしている。今日もその容姿はまるで赤の他人だが、よく見知ったCIAと繋がりのある協力者だ。
「ゲオルギー、手伝ってくれ」
ミハイルの呼びかけに気づいた彼はタバコを足でもみ消すと人目を気にしつつ重たい死体袋を車のトランクに二人掛かりで押し込む。
「君は感情的になりがちだな。その性格はスパイにとって致命的だ」
ミハイルの行為はかなり個人的な理由だ。殺したところでどうなることでもないのはミハイル自身でも理解しているが、このまま自分の親友を殺した元凶の男をのうのうと生かしておくわけにもいかない。
トランクに積まれた死体袋はモスクワ郊外に運び出し、硫酸をかけて重石ごと下水道に放り込む算段だった。
「アイドルたちの方はどうなんだ?」
車の運転席に腰を落ち着かせた愛煙家であるゲオルギーは癖の強いフランス煙草に改めて火をつけながら口にする。
「順調だ。去年と比べたら皆ずっと成長しているよ」
ゲオルギーはミハイルの自信たっぷりな言葉に満足したのか、大きく煙を鼻から吐き出しながら笑みを浮かべる。ミハイルを信用していないわけではないが、正直なところ荒唐無稽なその計画には半信半疑だった。ところが彼は一年でそれなりの成果を見せつつある。今やラジオの電源を入れれば1日に4回は彼女たちの歌が聞こえてくるような有様。無論そんなプロデューサーという名を借りた工作員としての腕前もさることながら、スパイとなった彼が提供する共産党上層部の人間にしか知り得ない機密情報も、CIAには大いに役立っている。
「ソ連政府は彼女たち『ブーケト・ツヴェトフ』を、外貨獲得の手段と位置付けているようだが」
「そうなることを見越している。彼女たちが世界的に有名になれば、それだけ世界ツアーの機会も増える。世界を知れば、ソ連がいかに間違った国かを自身の目と耳で知ることになるだろう。その時ようやく彼女たちの手でソ連は崩れ去る」
「しかし・・・もし君の目論見が外れたら?ソ連経済が彼女たちの手によって持ち直し、再びソ連が強大な国になってしまったら?彼女たちが人種や宗教の隔たりを超えて団結すれば、その時こそラングレーは、君を見限りかねない」
CIAが彼の計画を支援しているのも、あくまで彼がソ連を弱体化させる工作活動を行うと約束したからだ。もし、ソ連の経済を弱体化させるどころか逆に意図せず強めてしまい、西側との冷戦が再び激化していくとなると、アメリカにとってミハイルや彼女たちはもはや邪魔者に他ならない。
彼女たちの存在はいわば諸刃の剣だ。
しかし、そんなゲオルギーの懸念の声をミハイルは強く否定した。
「ソ連の国民は自由を縛られることに十分嫌気がさしている。アイドルが民主化の起爆剤になるなら、それは確実に誘爆を引き起こして、たちまちこの国は崩壊するさ。前にも言った通りだ」
確固たる確信を抱く彼の言葉に、ゲオルギーはもはや異論を挟む余地もなく、すでに山盛りになった灰皿のわずかな隙間に、吸い終えたばかりの短い煙草を擦り付けた。
『ブーケト・ツヴェトフ』のメンバーが皆共通に抱くのは、愛するソ連という国を良いものに変革したいという想いであった。ミハイルはソ連を内側からことごとく破壊するという本音を隠しつつ、そのような想いを理念として掲げ、建前にしてきた。
しかし時々ではあるが・・・そんな建前が時々ぐるりと反転してしまいそうになる。
ソ連崩壊が、果たして皆の幸せに結びつくのか。ナタリアという純粋で無知な、ソ連を真っ直ぐに愛する少女に出会ってから、あえてこの国を崩壊させず、国の全面的な改革を心の底から望んでもいいのではないか、という想いも、時折抱くようになった。
彼女には、そんな誰かの心を揺り動かす不思議な力があるのだ。
だがそんな時、天秤にかけられるようにして潜水艦事故で死んだ友人の悲痛な顔が彼の脳裏を掠める。放射線で真っ赤に腫れた彼が、形を失って次第に溶けていく・・・。痛みや悲しみという記憶は時の経過とともに消えていくが、自分はそんな記憶が消えないようにしてきたではないか。
ソ連を崩壊させなくては、いずれ近いうちに、近しい人がこんなことで死ぬ羽目になる。
何より友人の復讐のため、という個人的な執念により純粋な彼女たちを利用していることには罪悪感を感じることもあるが、あくまでも万人の正義に繋がることを信じて、そのような葛藤を押し殺すようにミハイルは車をゲオルギーに任せて降りると、人気のない路地を黙々と歩く。
モスクワ川に面したソビエト文化省の本庁舎8階には、新たに『ブーケト・ツヴェトフ』専門の職務を担う事務所が設営されていた。文化省の広報担当や経理など数人の人員が急遽文化省のあちこちから掻き集められ、ミハイルの指示を受けてそこで働いている。これまでロシアのボリショイ・バレエやミハイロフスキー劇場で事務、海外公演の企画などを担っていた彼らは、このような仕事をほとんど経験したことのないエルザ以上にベテランだ。
以前ならこれだけの人員が必要となることもなかったが彼女たちの活動の幅が広がってくると、バックアップの必要性は以前よりずっと高まってきたのだ。
事務所の電話は、ブーケト・ツヴェトフが初めてのテレビ放送を敢行してからというもののずっと鳴り止まない。
「ディートリヒさん。国営放送局から次回の番組出演の依頼ですが・・・」
窓際に置かれた彼女の執務机には電話のメモが置かれる。そこにはメンバーの名前と、歌って欲しい曲のタイトルがあらかじめ列挙されている。それらのメンバーがその日、別の予定が入っていないかを確認して正式にスケジュール表に書き込む。この後で誰かに承諾する旨の電話をさせるため、メモに大きめの印鑑を押して机の脇に押しやる。・・・このくらいのことはおそらくミハイルがやってくれるはずだが。
「ディートリヒさん、ラジオ出演の依頼です!」
また別の職員が彼女にメモを手渡す。そこには自分の名前があった。今週水曜日は今度の芸術祭で発表する映画撮影の予定があるので、木曜日に変更できないかと、要望などをメモに赤ペンで書き込み、またそれも確認の印を押して机の脇に押しやる。
「ディートリヒさん・・・これもお願いします」
エルザは連日のアイドル業務にやつれ、疲れ果てた虚ろな目で、電話対応にあたる職員から数分おきに持って来られるメモを受け取り、依頼内容をその都度カレンダーやノートに書き込んでいく。この作業は単純ではあるが目が回るほど忙しい。
大抵の依頼主は国営放送局なのだが、電話をかけてくる依頼主の中にはレニングラードの共産党本部だったり、広大なソ連の国土の端にあるような共和国の共産党本部、中にはピオネールの地方組織から直にオファーが来たりすることもあって、同じメンバーの名前や日程が重なった場合はどの都合を優先するかなど柔軟に頭を使わねばならないことも多い。また当然だが自分の独断で決められないことも多く、ミハイルや他の職員たちとの会議を重ねる必要のある案件だってある。
人手不足もあり現状モスクワ以外での活動は考えていなかったから各共和国への派遣はまだ視野に入れておらず、そのような依頼は断るしかない。
書類仕事の多い警察出身の彼女にとって事務仕事はさほど苦ではないが、アイドルの仕事を兼ねながらこのような業務を日々こなしていると、さすがに身体の休まる暇もなかった。
スケジュール管理を担う職員が圧倒的に不足している中、ミハイルが留守の間に事務所を管理するのはエルザ・ディートリヒの仕事であった。
ようやく鳴り続く電話が一通り落ち着いたところで彼女は昼休憩と言って席を立つと、関係者以外は入れない、同じフロアの奥にある内側から鍵の掛かる小さな会議室に入り、そこに置かれた皮張りのソファーに深々と腰を埋めた。
持ってきたコーヒーを口にしながら、彼女はソファの真下に隠されたアメリカ大使館の職員から密かに受け取った西ドイツの新聞に目を通す。情報統制が厳しいソ連では知り得ない情報が多く掲載されているが、その中でも東ドイツの情勢を記した記事が彼女の目を惹く。近頃一部で市民による反政府的な行動も見受けられ、逮捕者も続出しているらしい。数年前まで西側全体では反政府運動やベトナム反戦運動といった若者達の運動が盛んに繰り広げられていたが、それは今、東側全体にも別の形で波及しつつある。
時代はもはや強力な警察権力では大衆全体を抑えきれず、マスメディアによって良くも悪くも変容する世の中になっていた。アイドルとしてマスメディアの急先鋒に身を置く彼女は、自分たちの活動が絶対に世の中を変えられるという強い自信を胸に抱いている。
そんな時、会議室のドアがノックされる。エルザが部屋のロックを内側から解除すると、ようやく職場に戻って来たミハイルが顔を覗かせたのだ。
「やあ、また留守を頼んで悪かったね。仕事も捗っているようで」
「構わないわ。全然」
エルザは先ほどの疲れをうまく隠し、涼しげな笑顔で答える。
「でも、またすぐここを離れるから・・・重ね重ね仕事を任せることになると思うが・・・」
「気にすることなんて何もないわよ。あなたは他にもすることが多いんだから、これくらい私に任せてくれなくちゃ」
気丈に振る舞っている彼女だが、実のところ無理に背伸びをしていることをミハイルは以前から気づいていたから、早いうちに上層部に人員を増やしてほしいという要望書を提出する必要があると考えた。
そして何より、歳が20近く離れた彼女が自分に対して好意を寄せていることも、どこかで感じ取っていた。
これだけ歳の差があれば子供とも変わらないのに彼女はお構いなしで、ミハイルの前では少し甘えた様子も見せる。
彼女の持つ美貌は、世界的な映画女優と比べて決して謙遜はない。しかし彼女のそんな甘え方が娘のように可愛らしく思うことはあっても、それが恋に発展するようなことはあり得ない。
・・・そもそも彼女の過去の生い立ちを考えてみれば、彼女が父親のような彼にべったり甘えるのは当然のことなのかもしれなかった。
今から遡ること、1963年。
霧に包まれるドイツのベルリンに銃声が響いた。ベルリン市内を東西に二分する壁・・・いわゆる“ベルリンの壁”を乗り越えようとした一人の男性が射殺されたのだ。深緑のシートを被せられた遺体の担架の横で泣きじゃくる少女がいる。彼女は射殺された父親に連れられて西側に亡命するはずだった。
東ドイツ政府は壁が建設されて以降西ベルリンに亡命しようとする自国民を容赦なく射殺するよう軍や警察(シュタージ)に命じてきた。自国から優秀な人材が流出することを極度に恐れていたのだから。捕らえられた少女は警察に連行され、思想の再教育・矯正施設に何年間か入れられた後、今度は孤児院に預けられ、やがて熱心な共産党員の家庭が彼女を引き取ることになる。
政府の傀儡といっても差し支えない家族に育てられた彼女は亡命未遂者としての父親の汚名など忘れさせるかのように立派な共産主義者となり、シュタージに入隊して、政府の体制に批判的な国民を厳しく取り締まるという立場になる。
一見すると彼女は東ドイツ社会党の目論見通り政府に忠実な・・・理想の国民になったわけだが、決して父親を殺された恨みを忘れたわけではなかった。強かな彼女は何年も我慢を重ねて、東ドイツにさも忠実であるようなふりをしてきたのだ。父を撃った張本人である警察組織に入隊したのも、復讐のため。
国民に潜む反体制派を調査する任務を担う彼女は、十数年前に射殺された父親の監視記録や事件当日の調査報告書を膨大な記録保管庫の中から探し当てて、父を射殺した人物の名前を割り出した。その男はすでに退職し、おまけにベルリンの壁突破を阻止したとして勲章まで授与されていた事実が、東ドイツにおける受勲者全員を記録した資料の中でも明らかにされた。
当時から工作員として訓練を積んできた彼女は躊躇いもなく彼の殺害を実行に移す。彼の乗ったトラバントを爆破するという大胆な犯行だったが、起爆のタイミングを誤り、年老いた彼の妻もその犠牲になってしまう。彼女は警察の立場を利用して証拠を揉み消し、おまけに、その男と自身との繋がりを示す63年の事件報告書や父の監視記録等を破棄・改竄したことで、事件は迷宮入りとなってしまうが、そんな彼女は、無実の人間を殺してしまったことで強い後悔に苛まれていた。
・・・自分を苦しめ続けた長年の“敵”を倒したのだが、そんな彼女の心を覆うのは・・・言いようもない虚しさだ。
そもそも、彼を殺害したからと言って、父親が帰ってくるはずも無ければ巨大な壁が建設された際にベルリンの西側地区に買い物に出ていた自分の母親と弟にもどのみち、会うことはできない。
彼女の新たな復讐の手は祖国東ドイツ、ましてや東側陣営の盟主ソ連そのものに向けられる。歪んだ体制を破壊しない以上、自分の復讐劇に幕引きを図ることはできないと考えたのだ。彼女は当時東ドイツ国内に潜伏していたCIAの工作員と接触し、様々な機密情報を提供するようになるが、そんな彼女の美貌が何かの役に立つと考えたCIA職員は彼女と、表向きにはソ連の共産党員であり、裏の顔はCIA協力者であるミハイルを引き合わせる。ミハイルは当時から花束のメンバー集めを行なっていたが、ソ連国民ではないものの彼女をメンバーの一人として加える決断を下し、彼女をこうしてモスクワに招き入れた。
改革に燃える救世主たちを共産党一党独裁による悪夢の体制からの解放に導く“自由の女神たち”へ、内側から変える牽引役として期待したのだ。
「エルザ。君には本当に、この国を破壊するつもりはあるのかい?」
唐突にそのような質問を投げられて、振り向いたエルザはミハイルの意図を汲み取ろうと考えているのか、しばし黙り込む。
「ねえミーシャ、どんな回答なら満点を?」
「・・・正直に答えてくれたらどんな回答だって満点だ」
エルザはそれまで手に抱えていた新聞をテーブルの上に置くと、まっすぐにミハイルの目を見据える。
「・・・私はソ連を内側から叩き壊すつもり。偽善的な共産主義という考え方が許せないの。この感情がぶれたことは、一度もない」
あの復讐を果たした際に無実の人間が犠牲になった時でさえ、彼女の強い気持ちが変わることはなかった。
「・・・120点だ。君のことを疑ってすまない」
ミハイルはまるで先ほどから葛藤に揺れていた本心を覆い隠すように、笑顔で言った。
「変ね、ミーシャ。何か隠していることがあるんじゃないの」
エルザの視線の先には、ミハイルの靴のつま先がある。その仕草に彼は心を見透かされたように、心臓をどきりとさせる。
「革が傷むわ、早く拭いたほうがいいわよ、それ」
「相変わらず、鋭いね君は」
彼女はミハイルの靴底に付着した血痕を見ただけで、誰を殺害したのかをよく知っている様子だった。
「ほらね、心に深く抱えた傷も復讐心も、決して消えたりしない。だからあなたがソ連を壊したくないと考えていたりするのなら、それはきっと一抹の迷いなのよ」
そんなことまでとっくにバレバレだったのかと・・・ミハイルは息をつき、降参するように両手を上げた。
「君の言う通りだな」
「これは私の悲願。家族揃って食卓を囲む。西側にいる私の弟は最後に会った時まだ3歳だった。でも私と同じくらい大きくなった彼、私のこときっと何も覚えてない・・・。この痛みや悲しみが、分かる?」
彼は真剣な眼差しのまま、黙って大きく頷く。
「壁の建設だって・・・裏で牛耳ってたソ連さえなければこんな目に遭わないで済んだのよ。KGBに捕まって撃ち殺されたって構わないわ、それでも私は自分の復讐を成し遂げたい」
「国を引き裂かれて悲劇を味わっている君が、民族共同体であるソ連という国家を引き裂こうだなんて、それもおかしな話だよ」
ソ連が崩壊すればこれまで団結していた多様な民族はことごとく分断されてしまうというような恐れも、最初からミハイルの胸中にはあった。
「それは違うわミーシャ。本来あるべき形に戻るだけ・・・だって今のソ連は力のない民族を武力で虐げた上に成り立っているもの。民族の調和なんて、そんなの欺瞞よ。悪夢のスターリン時代から本質は何も変わってない」ミハイルの迷いを打ち消すように、彼女はずっと強い口調で言う。「でも『花束』は、私の理想。現実世界は理想みたいにはいかないわよね。でも・・・せめて人種も宗教もルーツもバラバラなあの子たちには、たとえソ連が壊れても、いつまでもこのまま家族でいてほしいって、そう願うから、私はこの活動に参加するの」
理想が現実に決して追いつかないことは皮肉にも共産主義という皆が幸せに平等に暮らすという理念を追い求めているはずなのに実際には少しも追いつけない・・・この国の、そんなどうしようもない現実が、何より雄弁に物語っていた。
エルザの切なる願いに胸を打たれたミハイルは改めて目の前の彼女を心の底から尊敬する。
「やはり君は僕が見込んだ通り、素晴らしい女性だ」
そんな風に、ミハイルから一人前の女性として扱ってもらっただけで、エルザはたまらなく嬉しくなる。自分のためというよりも、ミハイルのために自分の身を捧げてもよいとすら、思っていた。
彼が小さな会議室を出て、職員たちが忙しなく書類作業に追われる仕事場に戻ると、文化省を訪ねていたアンゲリナとばったりと出くわした。広報宣伝担当者との話がちょうどひと段落したところらしい。
ミハイルを見つけたアンゲリナは元気いっぱいに手を振って嬉しそうに駆け寄る。つい何時間か前まで、彼女は併設された写真スタジオでポスターに使用する宣材写真を撮られていたのだ。
二人は仕事場を離れて廊下に出る。あとの事務はまたエルザ一人に任せっきりになってしまうが、自分の処理すべき書類だけ、彼女から受け取っていた。ミハイルはそれらをざっと確認する。
「リーナ、来週はテレビ番組の収録が予定として組まれてるみたいだけど、これは前から知っているね?」
スケジュール表には、メンバーの予定がところ狭しと刻まれている。これに加えて歌のレッスンやダンス練習、演技指導など、実に様々な予定が組み込まれるのだから、きっと売れっ子バレエダンサー並みにハードだ。
「初めてのソロでの番組出演は、緊張するかい?」
来週行われる初めての一人での番組収録は、ベラルーシ共和国に住む人々の、彼女への反響の大きさから実現した企画だった。
今年で16歳になる彼女は、その低い身長のせいか、もっと歳下に見られがちだが、プロとしての意識はおそらくメンバーの誰にも負けない。見た目からは考えられないほど、彼女は芯が強くてしっかり者だった。
「背丈の小さかった君が今じゃこんなに立派に活躍している。僕は堪らなく嬉しいんだ」
「今だって、私の背が小さいこと分かってるくせに、そんなこと言うなんて」
アンゲリナは笑顔で、ミハイルの背中を叩いた。
今からほんの数時間前に人を殺してきたことなど噯(おくび)にも出さず、ミハイルは遺体を引きずったその手で、アンゲリナの白銀の髪の毛を優しく撫でた。
同時に彼女の腕の中にある黒い毛皮帽子が彼の目に鮮明に飛び込んでくる。そろそろ寒くなってきたかと思う一方で、普段の何気ない日常の一風景として見落としがちなその帽子は、じっくり見ると一般市民が被るものにしてはどこか奇妙で不釣り合いにも映る。
ロシアの秋は短い。もう間もなくやってくる冬は想像絶する気温にまで下がることが常だ。だから毛皮帽子をかぶることは全く珍しいことではないが、彼女が大事そうに抱えるその帽子は一般に売られているようなものではなく、ソ連海軍の兵士が被っているものだった。
「その帽子・・・」
「え、これですか?」
アンゲリナは帽子を大事そうに抱えて、微笑む。こうしてみると、それはもはや彼女にとって体の一部分に他ならない。
「これと一緒なら、どんなところでも寂しくないんです。お守り代わりなのかも」
明るく振る舞う表情の中に微かな暗い影が刻まれたのを彼は見逃さない。
ミハイルの頭の中には1978年の事故が脳裏へ鮮やかに蘇る。
おそらくその帽子を被っていた男は、小柄なミハイルとは対照的で大柄な体躯と凛々しい顔立ちの海軍士官・・・その名前は、ルスラン・カミンスキー。
母親と二人暮らしだった幼少期のミハイルが移り住むことになったベラルーシ南部ホメリの近所の家に住んでいた彼とは昔馴染みの親友で、ともにソ連という国家のために尽くすことを誓い、それぞれ軍と公務員という別々の道を歩んできた。
アンゲリナが亡き父ルスランに今も思いを馳せているのは知っていたが、彼女が常に被るその帽子を見た時に、ミハイルは今一度言葉には言い表せないほどの衝撃を受ける。
「君がまだそれを被り続けていたのかと思ったら、驚いてしまったんだ」
父の遺品は、彼の愛読書やレコード類の類とともに全て残らず処分したものとばかり思っていた。辛い過去は忘れるようにとミハイルが彼女と、彼女の母にそう助言したのだ。アンゲリナは約束を守らなかったことに対する罪悪感を含んだ、悲しげな表情を浮かべた。
「ごめんなさい。未練がましいってこと、私にもよく分かってて。それなのに私は・・・。こんなことしたって、二度とお父さんには会えないのに」
アンゲリナは、処分すべきと言われたにも関わらず捨てられなかった、父が死の寸前まで被っていた帽子を、ぎゅっと握りしめる。
「いや、謝ることじゃないさリーナ。君にお父さんを想う気持ちがあれば、きっと天国の彼は報われる・・・」
娘が大好きで、常に幼い彼女の写真を持ち歩いていた彼を思い返すたび今でもミハイルは目頭が熱くなった。彼は今を必死で生きる彼女に改めて胸を打たれて、彼女を強く抱きしめる。
暖かい腕の中に包まれた彼女はやや戸惑った様子で、彼を澄んだ瞳で見上げた。
「君のお父さんの仇はとった」
「え、仇・・・」
もう16歳とはいえ、まだまだ子供のアンゲリナが自分の父を殺害した人間を可視化できるわけではない。しかし事故の裏側には必ず事故を引き起こす元凶となった人間が複数存在する。・・・しかしそんな嫌な世界の現実というものをミハイルはアンゲリナに対し素直に伝えようとは思えず、言いかけた言葉をつぐむ。
「君は一人じゃない。これから悲しいことがあっても、君には花束(ブーケト・ツヴェトフ)のメンバーがそばにいる。彼女たちが君にとっての家族なんだ」
別の意味でそんな彼の物騒な言葉を解釈したアンゲリナは、ようやく照れたように笑う。
「・・・だからミハイルさんは、お父さんを亡くして独りぼっちだった私を・・・でもそれが仇だなんて、なんか大袈裟ですよ?」
初めて彼女に友達や兄弟と呼べる相手ができた。これがどんなに嬉しいことか、今の生活ぶりを振り返ってみても、彼女自身にも、はっきり言葉にするのは難しい。
「・・・リーナは、お父さんを殺したこの国を恨んでいるかい?」
そんな疑問を彼女に対しても、いつの間にか投げかけていた。
「とんでもない!・・・事故なんて、どんな国でだって起きますから」彼女は、ほとんど間を置くこともなく答える。「私はこのソビエト連邦が好きなんです。ナターシャやソフィー、他にも、いろんな人種のみんながいるこの国が好き、みんなに出会えたのは同じソ連人だから。だからこの国と、この国の人たちを恨むことなんて・・・そんなこと、私には絶対にできないです」
恨み節は天使のような彼女にはあまりにも似つかわしくもない。彼女の答えはむしろ、期待通りだ。しかしミハイルはエルザの言葉でようやく固まりかけていた自信が、そのような彼女の言葉によってまたしても揺らいでいくのを感じていた。
◇
秋のモスクワの夜空を花火が美しく彩っていた。シャンデリアが煌々と輝き壁一面に革命を讃える絵画がずらりと並ぶホテルの大広間では、タキシードや軍服といった礼装に身を包んだ男たち、そんな彼らの妻と思わしき煌びやかなドレスを着た女性たちがシャンパンを片手に談笑している。
今日11月7日はソ連における10月革命の記念日(1917年当時のユリウス暦では10月)であったが、60年以上前のその日、まさにソビエト連邦が成立したという重要な記念日だ。
モスクワ中心部のホテル・モスクワの大広間では、ナタリアたちブーケト・ツヴェトフを招いての共産党主催の晩餐会が、盛大に開かれていた。
そんな中で多くの関係者に囲まれていたエルザは、美しい黄色のドレスに身を包んでいる。化粧もさることながら、そのドレスは背の高い彼女にこれ以上ないほどよく似合っていた。そんな彼女の周囲には当然のように多くの人だかりができている。一人の政府関係者の男性は彼女に香りの良い白ユリの花束をプレゼントした。
「あら花束だなんて、素直に嬉しいわ。星の飾り物もキラキラして綺麗ね!」
七色のそれぞれ違う種類の花々は、見た目もさることながら心地の良い香りを放っている。
「私はスクリーン上のあなたの名演に心惹かれました」
党員の男がにこやかに微笑むと、エルザも嬉しそうにキラキラと、まるでダイヤモンドのような笑みを返した。
「嬉しいですわ。これからもソビエトを代表する素敵な花になれるように、精進いたします・・・」
彼女がそのように晩餐会に訪れている人々と盛んに交流を重ねる一方、招待されたのにも関わらず、存在感が相変わらず低い他のメンバーは会場の脇に追いやられがちであり、エルザ一人が取り沙汰されている状況をとりわけサラは恨むような視線で眺めていた。
「サリー、もうやめた方がいいよ。身体に障るから・・・」
サラは、給仕が運ぶシャンパンのグラスにはまるで興味も示さず、ボトル単体で持ってくるように要求した。運ばれてきた高級シャンパンのコルクを慣れた手つきで開けグラスになみなみ注ぐと、もう彼女のことを止められる人間はいない。目の前でただ不安げに見つめているナタリアのことなど、そっちのけだ。
一方の彼女は失恋から未だ完全に立ち直れず傷心気味なサラのことを気遣ったものの、まさか泥酔して余計に扱いの難しくなった彼女の相手をすることになるとは思ってもみなかった。
「あの女狐が、全て悪いんだから」
失恋に加えてあのようなことをエルザに言われ三ヶ月以上経った今でも、彼女はまだそのことを引きずっていた。酔いがまわるとそのネガティブな感情はさらに露骨になる。当然エルザがテレビや映画で各方面から盛んに声が掛かっていたその期間、サラには一つも女優としての仕事は舞い込んでいない。自分ばかりが嫌な目に遭い、もがき苦しむ間にも、エルザは不幸せな自分を置き去りにして名声を勝ち取り、幸せになっていく。そのことが許せなかった。
「ねえサリー・・・その人のこと、本気で好きだった?」
ナタリアは無意識のまま、思ったことを口にしていた。
「好き・・・とかじゃないの。そんなのじゃない・・・!」分かって欲しいとは思っているのに、簡単には分かって欲しくないという感情も渦巻く彼女は、いつもよりずっと素直じゃない。「結婚も考えるくらいに趣味が合う。一緒にいるだけで未来は明るかった。私が好きなものはあの人も好きなの。色の好みも、味覚も。私の料理を美味しいと言ってくれたんだから・・・」
サラはシャンパングラスを傾けて、微かに揺らす。シャンデリアの光で黄金色の波の影がゆらゆらと、白いテーブルクロスの上でほのかに踊る。
「大学でも、強気な性格だし少数民族でよく一人ぼっちだった私に声をかけてくれたのはあの人なの。私は、こんな性格なのに、人好きよね。あの人だけは私のことを友達として接してくれた。嬉しかった。しかも、私の尖ってて可愛くない性格を、それでも好きだと言ってくれたんだ」
サラの目から涙がこぼれ落ちそうになるのを見たナタリアは、少し焦りを募らせる。
「でもね、もう私のことを好きとは言ってくれない。別れを告げられて。これが最期・・・私の何がいけなかったの?」
「サラは、・・・美人だよ。泣くことなんてないって・・・」
「美人だから何?」サラの目からは、ついに我慢していた涙が一筋零れ落ちる。「私にいくら魅力があっても、あの人はもう私のもとには戻らない。それに私は全然魅力的じゃないの。嫉妬深くて怒りっぽい劣等感の塊なんだから・・・」
普段は自信いっぱいな彼女のことを思うほど、掛けるべき言葉も見つからなかった。
「あのエルザに負けてる。だって私まだ一度も女優のオファーなんて来てないんだから」
「でも、それに関しては・・・」ナタリアはなおも積極的に説得を試みようと、サラの顔をじっと見つめた。「負けてなんかない、絶対に。そんなこと言っちゃダメ、大体無理してまだ女優になれなくてもいいじゃない、それが私たちの全てじゃないんだから・・・!」
「全てよ!すべてに決まってる・・・!」サラは弱々しさを一変させて、今度は闘志の宿った鋭い目つきでナタリアを睨んだ。「だって私、誰にも負けたくないんだもの・・・こう思って何が悪いの?私は、英雄になりたい。この国のてっぺんに立って、みんなを見返してやりたい!」
酔いの回った彼女は瞳を野望でメラメラと燃やしていた。
不思議なほど、先ほどの涙のあとも、とうに乾いている。
「・・・サラも、兄貴みたいなこと言うんだ・・・ごめん、それに関してはちょっと、同意できないよ」
急に声のトーンも落ちるところまで落ちた寂しげなナタリアの言葉に、それまでヒートアップしていたサラの感情も水を引っ掛けられたかのように急に静まった。
「あなたのお兄さんが何を言ったって?」
現在入院中の兄が英雄になることに固執してアフガンのような地獄に再び舞い戻ろうとしていることを愚痴まじりに呟くと、サラはむしろ感心するように耳を傾けた。少なくとも目の前の彼女はアレクセイとは同意見の様子だ。普段のソ連への愛国心に漲る彼女であれば、むしろ当然の反応だとも言えるのだが・・・。
「いいお兄さんね。私は、向上心を抱かない人間の方が嫌いだもの。だから、彼の意見は正しい」
「サラまで、そんなこと言うなんて・・・」気付くと、今度はナタリアの方が感情的になっている。「命を捨ててまで、なるべきもの?英雄って?」
身を乗り出してきて必死になっているナタリアの真剣な表情なんてこれまで一度も見たことがなかったサラは、ただ驚くように目を大きく見開くばかりだった。
「そもそも英雄って何?そんなになれたらすごいもの?私には分からない!そんな馬鹿らしいことでアリョーシャには死んで欲しくなか!せっかく、会うことだってできたのに・・・!!」
「・・・そんなに好き?お兄さんのこと」
ナタリアはサラの不意打ちじみた突然の言葉により、瞬く間に硬直させられる。
「す・・・好きじゃなかったい、そんなんじゃなくて・・・」
彼女の頰は面白いくらいに赤く染まる。賑わいを見せる祝宴の席で自分たちなど見向きすらされないと思い込んでいたのに、今だけは、周囲からの視線を強く感じる気がした。
「・・・そうね、お兄さんを納得させたいなら、あなたがお兄さんを納得させる英雄になればいいじゃない。」
酔っておかしくなっているのかと思うほど、彼女の口から零れたアドバイスは、ナタリアにとっては不思議なものだ。彼女の胡散臭いものを見るような視線を感じ取ったサラは不機嫌そうな眼差しで返す。
「なによもう、じゃあね、例えばガガーリンは一体何だっていうのよ。彼は世界で初めて宇宙に行った人間。彼だって、英雄でしょ!?」彼女は強く言い放つ。「武器を持つことだけが、英雄の条件なんかじゃないの」
彼女は語気を先ほどよりずっと強めた。一方で、それは彼女なりの、まだまだ酔っていないという強がりでもある。
「私たちは絶対にソ連を救う英雄になる。なってみせるんだから。世界中で大人気になって、外貨を稼いで、ソ連経済の発展に貢献する。この国がアメリカを凌ぐ大国になれば、私たちは立派な英雄なのよ?それって、すごいことだと思わない?」
サラは、少しずつ自信を取り戻しつつあった。そもそも彼女がこんなふうにアイドルなんて聞き慣れないものに志願したきっかけは、ソ連という大国の誇りを背負うとともに、その大国の影でつい薄れがちな故郷の小国リトアニア共和国の誇りをも背負っているためだった。ナタリアと同じく、リトアニア人は田舎者扱いされがちだが、プライドの高い彼女は絶対に周囲の人間を見返してやろうと常日頃から考えている。そのためには、何としてでも他の誰よりも一番にならなければいけない。
「お兄さんはアフガンで戦うことに英雄としての価値を見出しているみたいだけど、それだけが英雄の条件じゃないと、あなたが教えてあげればいい」
サラは飲み干したシャンパンのボトルをテーブルの端に退けると、皿の上に載ったスモークチーズの一切れをつまんで席を立つ。
「・・・いい響きよね、英雄。私だって絶対に、この国を救う英雄になりたい」
そんな堂々とした立ち振る舞いのサラは、まるで最初に出会った頃と同じような自信に満ち溢れていた。エルザに先を越されて傷ついていた彼女の心は、ナタリアと言葉を交わしたことによって勇気づけられたのかも知れない。
「ほら、もうすぐであなたたちの出番だけど、こんなところにいてもいいの?」
記念式典の冒頭で、すでに他のメンバーよりも早くニノとのデュエットコーラスを終えていたサラは会場の端に設けられた壇上で演奏している小規模な楽団を指差した。あの場所で、これから多くのお偉いさん達を前にして歌を披露するのだと思うと彼女の手のひらは汗に滲む。
「あの舞台の上、・・・緊張した?」
ナタリアは目を細めながら、少し不安そうに尋ねる。
「少しね。けど、大したことないわ」
自信に満ちた彼女の大したことない、という言葉ほど、ナタリアにとって参考にならない言葉はなかった。
パーティー会場でひときわ注目を集めるエルザに対しての周囲の視線がやや落ち着いた頃合い、一人の軍服姿の男が彼女の元へと歩み寄った。
「ディートリヒさん・・・映画へのご出演、おめでとうございます」
陸軍で高位であることを示す星のマークの並んだ肩の階級章を輝かせたその男は、エルザの手を取るとその甲に接吻する。歳はミハイルとそこまで変わらず、顔立ちもよく整っている。むしろ彼のほうが身長も高く、多くの女性を惹きつける魅力も備わっていた。
「あら、貴方は・・・失礼ですがどちら様でしょう・・・様々な方にお声をかけられるもので、もし一度どこかでお会いしたことがあるようでしたら、大変申し訳ないですわ」
ややわざとらしくはにかんだ笑みを浮かべるが、エルザにとって目の前の相手は、名前などわざわざ聞く必要もないような重要人物であり、相手から話しかけてくるのを待っていたほどだ。
「とんでもございません、貴方とはまだ初対面ですので」
こちらへどうぞと、エルザを部屋の隅にあるソファーへ案内する。
「こんな形でのパーティーには、慣れていないもので・・・」
エルザはぎこちなさを演じた。
「そうでしょう。これは特権階級に許された贅沢ですから」
たとえそれが事実であるとしても、彼は、ここがすべての国民が平等に暮らすべき共産主義国であるということに対してなんの悪意もなく言い切り、
「あなたの出身はドイツでしたか。良質なモーゼルワインですよ。おめでとうございます・・・これで貴方も、特権階級の仲間入り」
彼女に白ワインのグラスを勧める。
「あら、でもモーゼルなんて今じゃ西側よ?」
引き裂かれた祖国のことを、暗に皮肉る。
「貴方の祖国統一を願って飲むのですよ。いつか必ず、あなたの祖国東ドイツが共産主義の理念を貫徹してドイツを一つにまとめ上げる・・・」
エルザは男の、そのハリボテの共産主義に陶酔する眼差しを、嘲笑った。
「そんなに都合よくいくかしら?向こうさんはこんなに、美味しいワインを作れるのに?」
彼女は試すような口調で聞く。
「そりゃ当然ですとも。腐りきった資本主義社会は、いいものは作りますがその分労働者を粗末に扱う。だから人々の頭には、常に不満が蓄積しているのです。彼らが共産主義の理想に共鳴しても、政府はそれを頭ごなしに否定し、ストライキも禁じて牢屋に閉じ込めてしまう。我々は、そんな優秀な人民たちを抑圧から解放するのです。我々の軍事力こそが、その問題を解決するのです」
男は強い自信を持ってそう言った。
「私の名前はドミトリー・ポポフ大佐。ソ連アフガン派遣軍で、バンジシール渓谷に潜伏するゲリラの掃討作戦を指揮しています」
彼女は、握手を求める大きな手を握った。
改めてそんな彼の灰色の瞳を見つめる。戦場で無慈悲に多くの人命を奪い取ってきた冷酷な眼差しだ。おそらく彼はソ連のためなら罪もない民間人にも平然と手を下し、銃口を向けるのだろう・・・しかも、自分の手は決して汚さずに。
彼女は奥歯をぎり、と噛み締めながらもそれを決して表情には出さないよう、努めて笑顔を作る。
「じゃあ、貴方が、ポポフさん?・・・実は貴方のこと名前だけは知っていましたの!お噂はかねがね・・・ただ話に聞いていた以上にハンサムな方で、気づきませんでしたわ・・・!」
エルザは彼の右足に薄いストッキングに包まれた細く美しい脚をわざとらしく絡ませ、胸を腕に押し付ける。彼の呼吸が微かに荒くなることを耳元で悟ると、極め付けに、誘惑するような睫毛の長い大きな瞳で彼の目をまっすぐに見つめる。
「・・・いやぁ私も・・・貴方がテレビで歌う姿を見て、実はすっかり惚れ込んでしまいました・・・それにしても、やはり、ドイツの女性は美しい」
そんな彼の言葉が、彼女の癪に触る。
美しい・・・本気で自分が心の底から笑えたことなどなくて、本来持つべき美しさを奪いとった側に立つ人間が、何故そんなことを言えるのかと怒りがふつふつと湧き上がる彼女は、自分が笑顔を失った63年の出来事を微かに思い出していた。
同じ会場内にいるミハイルは壇上に面したソファー席に腰掛け、壇上で踊りを伴って歌を披露するナタリア、アンゲリナ、クララの三人を、感心した様子で眺めていた。
きらびやかなドレスを身に纏うソフィアが、すぐそばで美しいピアノの音色を奏でる。その場にいる客は皆一様に会話をやめて、壇上に魅入っていた。
「ミーシャ、どうだ、楽しんでいるか」
ミハイルのそばには政治局員候補のアレクサンドル・クルニコフが現れる。
「さぞ良いものだろう、自分が日々娘のように育てている踊り子たちの舞台はね」
隣に腰掛けたアレクサンドルの恍惚な、羨ましそうな眼差しに、ミハイルは穏やかな笑みを浮かべてこくりと頷いた。
「私の娘がいつも世話になってる。どうだ、ソフィーは・・・見ろ、あの子の腕は天才的だよ」
彼は吸いかけの葉巻をケースから取り出すとマッチで先端をじわじわと炙りながら火をつけ、柔和な笑みを浮かべた。様々な苦労によって顔に深く刻み込まれたシワと白髪混じりの髪の毛は、彼を実年齢よりも老けて見せる。
20近く年上で、しかもミハイルよりずっと上の地位に立つことを特別威張る様子もなく、彼は誰の目から見ても親しくミハイルに語りかけた。
「ソフィーを見ているとな、あの子の兄、最初の妻との倅(せがれ)のことがね、恋しくなるよ」
ミハイルは、突然寂しげに語り始めた旧友の顔をじっと見つめる。
「ゲーニャくんか。彼は外務省に入っただろう?そういえばずっと会ってないが・・・」
彼と最後に顔を合わせたのは数年前のことだ。アレクサンドルに顔つきもよく似て、礼儀正しく、少しシャイな青年だったことをよく覚えていた。
「君には言っていなかったがね、あの子は大使館職員としてアメリカ国内に駐在していた。もちろん、大使館職員というのは表向きで・・・実際には情報収集活動を行うスパイさ。彼はコンピューターや精密機械なんてものに詳しいからな」
近年の著しいコンピューター技術の発展に伴い、情報収集も従来に比べて困難を極めてきた。そこでスパイにも、そのような精密機器を扱うスキルが求められるようになっているのだ。
「・・・しかも、アメリカ駐在か。さぞ出世も期待されているんだろう?」
彼が期待を含んだ表情で隣の彼を見つめるが、彼は残念そうに、首を横に振る。
「・・・数日前、本国にもたらされた情報だ。彼はアメリカ国内で行方をくらましたと・・・大事な機密情報を、持ち逃げしてな」
彼はアメリカ国内で市民になりすまして活動するソ連工作員の名簿や顔写真をFBIに暴露したというのだ。その結果、FBI捜査官による囮捜査や潜入捜査によってKGB・S局の諜報員数十名が摘発され、それまでの有益な情報が得られなくなってしまった。
ミハイルはとても信じられないとでも言うように、孤独な父親の顔を真顔で凝視する。
自身でもそんな彼の息子と似たようなことを裏でやっていることなど決して噯にも出さず、あたかも道場するかのように沈痛な表情を浮かべてみせるが、一方のアレクサンドルはいつもと変わらぬ・・・落ち着き払った笑みを浮かべるだけだった。
「約束してくれないか。このことをソフィーには伝えないでほしい。あの子とは10も離れた兄だし、腹違いの息子だから・・・きっと特別な思い入れもない。今の妻は悲しんだ様子もないどころか。ああ、いや、だから・・・ソフィー、彼女も、きっとそうに違いない」
自分と初めての妻の間にできた長男に、亡命という、ソ連では最も憎まれる裏切り行為を突きつけられ目の前から去られてしまった彼は、悲しみこそ表には出さないものの、口に含んだ葉巻の煙を高い天井に向かい魂が抜けるように思い切り吐き出していた。アレクサンドルにとっては息子の件で自分たち夫婦が罪に問われなかったことだけが、大きな救いだ。
「誰にも言いふらすわけないよ。約束する、あなたの名誉のためにもね」
アレクサンドルは満足げに、黙って頷いた。
彼は頑なに口にしないが、同じ党員である現在の妻が“あんなモノはもはや自分たちとはなんの関係もないソ連人民の敵”と断言したことが党指導部に評価されていた。無論、そのおかげで裏切り者の親であるとはいえアレクサンドルの首の皮はかろうじて繋がったが、それでも彼はあまりに冷酷な妻の発言に、どこまでも複雑な気持ちを抱えていた。
「・・・ソフィーは他人に甘えるのが得意じゃない。素直に甘えるのが昔から苦手な子供でね」
ピアノを美しく奏でるソフィアを見て、目を細めた。
「感情を素直に出すのが苦手だね。いつも思うよ・・・彼女のピアノに込める情熱は凄いけど、歌やダンスになると感情表現に苦戦するんだ・・・特に、明るい曲では」
改めて壇上にいるそんなピアノ奏者を二人の共産党員は黙って見つめる・・・巧みな指さばきだが、ひとつ、その欠点を挙げるとするならば、表情が硬い。
「あの子の素質を引き出すのに、凄腕の君すらも苦労しているんだな・・・頑張ってくれ。どう転んでも可愛い娘だから」
あまり期待した様子もなく、また、子供に親の気持ちなど分からないと悟ったように哀愁漂う溜め息交じりの紫煙を吐き出す。
「そういえばミーシャ、覚えているか。一年半前のリヴォフ(リヴィウ)での件だ」
彼の穏やかな双眸に突然、政治局員として日頃活躍している時と同じような鋭い光が灯った。
「忘れるはずもないよ。助けられたんだから」
「その場にいたガシチャフ・・・とかいう荒くれ者の共産党員だがね」
ミハイルに拷問まがいの尋問を企てた、いっぱしの地区共産党員である彼は、無関係の少女の誤認逮捕後、党の命令によって更迭され、今はウクライナ東部の工業地帯での労働に従事しているという話をミハイルは耳にしていた。
「つい先日、労働キャンプを出所した。KGBによるはからいでね」
「何?」
ミハイルは耳を疑う。
「あんな上に媚びへつらうことしかできないような男が、一体何の役に立つのか・・・今後の人事には目が離せん。党員として復帰するか、それとも何か別の役割を与えられるか、やや気になる案件だが、これだけは確かだ」周りの視線を気にするように、ミハイルの耳元に囁いた。「KGBの人間は、どこかで君のことを恨んでいるはずだ。友人として忠告しよう、くれぐれも連中をこれ以上怒らせるな」
「・・・党に対する忠誠心は連中よりも強い僕を攻撃するとはね」
ミハイルは、本心を悟らせない仮面のような笑みを浮かべた。
「いや・・・君がソ連のためを思って行動していることは重々承知しているさ。私も、君たちが推し進めるソ連の改革には大賛成だ。今までのこの国は共産主義の美しい理想を、軍拡や厳しい規制によってすっかり歪めてきた。君やゴルバチョフのような若い力が、この国をいい方向に必ず変えてくれると信じている」
「・・・ありがとうサーシャ。やはり、あなたは僕の親友だ」
ミハイルは彼と向き合うと、固い握手を交わす。
「私のようにソ連を信奉する孤独な老人には、もはや親友と呼べるのは君くらいしかいない」
その言葉は弱々しく、寂しげだ。
「何を言う、あなたほど素晴らしい党員は居ないし、僕は誰よりもあなたを尊敬している。それに老人なんて・・・まだ60歳になろうとしているところだろう?」
「この国の平均寿命なんかその限りじゃないか。これもウォッカのせいだ」
「今年の5月から始まった節酒令による酒の規制は、どうやら失敗みたいだね」
冬の厳しい寒さのためか、ソ連のアルコール消費量は世界でもトップレベルだが、そのため平均寿命は六十歳程度と、深刻な社会問題ともなっている。
アルコール依存症がもたらす重度の鬱病は盛んに自殺も誘発していた。当然そんな社会に蔓延する悪しき慣習も、改革派にとっては変革すべき案件であったのだ。ところがロシア人から酒を取り上げることは結局のところ、非常に難しかったのだ。
「そもそも私は規制自体には、最初から反対さ。ゴルビーのひどい失策だね。国民はアルコールが含まれていれば洗剤や靴磨きだって飲む。実際そのせいで重病者が続出しているんだ」
二人は声を押し殺しながら腹を抱えんばかりに笑い合うが、ミハイルの胸中には、ソ連を叩き壊すため、目の前の親友をいつかは裏切らねばならないという罪悪感が今更のように浮かび上がり、それを押し沈めるのに苦心した。
◇
パーティー会場のある2階から自身の客室がある14階へ、エルザは機械音が轟々と鳴り響く年季の入ったエレベーターで上がっていた。彼女の隣には少しほろ酔い気味の、顔の赤らんだ男の姿がある。先ほどからエルザの右腕をしっかり抱き寄せては頑なに離さないそんな男にすっかり気のあるそぶりを見せながらも、彼女は内心ひどく蔑んだ目で、彼の横顔を見つめていた。
部屋の前にまで来たところで彼はまるで理性を失った獣のように、おもむろにエルザを廊下の壁に押し付けると、無理やりにキスを迫る。
「・・・、ダメよ大佐、まだお預け」
恍惚とした表情を浮かべたエルザは焦らすように、限りなく近い位置まで寄せられた興奮気味の彼の口元に人差し指を持っていくと、慣れた手つきで身体をゆっくり自分から引き離して部屋の扉の鍵を開け、彼を先に通した。
エルザは軍服を着崩したドミトリーから上着をはぎ取るとベッドに座らせ、冷蔵庫から青いラベルのバルチカビールを取り出して彼に進めた。
彼がそれを飲む最中、目の前でエルザは上に羽織っていたローブを脱ぎ捨て、さらにドレスの背中のファスナーをゆっくりと下ろし始める。まるでストリップショーを見ているかのように、結露で濡れたビール瓶を握りしめながら彼はまじまじと、そんな彼女の立ち振る舞いを見つめていた。ビールが喉を鳴らす音が響くと、いつの間にか彼女は、薄い桃色の花柄が刺繍された下着一枚の姿になっている。ブラジャーの背中のホックを両手で外し、それがすとんと床に落ちると、彼女の形の美しい豊胸があらわになる。
彼の隣に腰掛けると、今度は黒いストッキングをゆっくりと下ろして、曲線を描く彼女の美脚がはだける。
「さぁ、大佐。私をどうしてくれるのかしら?」
ドミトリーは完全に理性を失い、彼女の肩を抱き寄せ、その胸元に顔を埋めようとしたが、その瞬間彼の腹は大きな音を立て、表情は瞬く間に苦痛に歪んだ。
「まあ、どうしたのポポフさん・・・?」
「は、腹が痛むんだ」
エルザは腹を抱えてベッドのそばに崩れ落ちる彼の背中を揺する。
「まぁ大変!このフロアの部屋は全て、トイレが備わってないのに!」
フロアの突き当たりに共用のトイレがあると呟きかけた頃には、彼は凄まじいスピードで部屋を飛び出して行き、部屋の扉がゆっくり閉じた瞬間、エルザはそれまで堪えていた笑いを一気に吐き出し、ほとんど裸のままベッドにうつ伏せになって腹をよじらせた。先ほど彼に飲ませた瓶ビールにはあらかじめ下剤を混ぜておいたのだ。
彼女があえて14階の部屋を選んだのは部屋にトイレが設置されていないこともそうだが、そもそもこのフロアに設置されている共用トイレは整備中であり、利用するためには一個下の階に行かねばならないからである。そのことが余計に可笑しくて仕方がなかった。
彼女は先ほど彼から密かに盗んだ鍵をドレスのポケットから取り出すと大急ぎで動きやすい服に着替え、部屋を出る。向かう先は上の階、ドミトリーが宿泊している部屋だった。
15階に上がった時、エレベーター付近では今から下に降りようとしていた彼の部下と思わしき軍人二人と出くわすが、彼らがエルザのことを疑うはずもなく、むしろ彼女の美貌に見とれつつ愛想の良い挨拶を交わすだけ。
部屋の前に誰もいないことを確認すると、さっと鍵を開けて中に侵入し、彼女は大佐の持ち物を物色する。目的のアタッシュケースは、クローゼットの陰に忍ばせてあった。ポケットからピッキング用に様々な形状を持つ金具の束を取り出すと、その金具一つ一つをケースの小さな鍵穴に差し込む。
少し手こずったが、どうにか開けることに成功して中から膨らんだ革のレポートファイルを取り出した。薄暗い部屋の中でファイルを開くと、表紙に極秘文書と捺された印が目に映る。彼女は息を呑むように部屋の入り口を見つめた。いつ彼が気づいて部屋に戻ってくるか分からない。そんな緊張感で彼女の額にはますます、悪い汗が滲む。普段はほとんど緊張感も抱かない彼女だが、今だけは指先がよく震えていた。
たどたどしい指先でミノックスというドイツ製小型カメラを操り、中に挟まれた機密文書を机の上に広げて一枚一枚丁寧に撮影していく。何が書かれているのかなど、軍事的な知識がほとんどない彼女には分からないが、このことがアフガンで無益に殺されている罪のない人々を救うことに繋がる・・・。そう考えると彼女は不思議と勇気をもらった。
どうにか撮影が完了して元どおり書類をしまい込むと彼女はアタッシュケースを鍵まできちんと掛け直して元の位置に置き、部屋の扉を開けた。
「・・・あら、エルザ?」
部屋を出た瞬間に、彼女ははっと驚いて肩を揺らした。
そして、呼ばれた声のする方・・・廊下の先を見つめる。本来なら、そこにいるはずの無い人物の姿を目にしてエルザの頭は瞬く間に白くなった。
物覚えが良いサラは彼女の客室が14階にあることをあらかじめ聞いていたためか、エルザがこの階にいることを訝しんだ。
必死で動揺を隠し極力平静を装いながら、たった今出てきたばかりの部屋の扉を後ろ手にゆっくりと閉める。だが、むしろそんな彼女の動作が、余計にサラの目には挙動不審に映り込む。
「どうして、そんなところに・・・?」出てきたばかりの部屋の重厚で立派なスイートルームの扉をサラは見上げる。「まさか、男?」
その問いを、あえてエルザは否定しなかった。
「へぇ、男。あなたが瞬く間に女優デビューを果たしたのも、そういうことかしら?」
サラはエルザの予想に反してあらぬ勘違いをして、彼女を蔑んだ目で見つめる。このフロアに宿泊しているのはどれも各界の著名人であったり、お偉いさん方であったりするのだから。
「サリーこそ、どうしてこのフロアにいるの・・・?あなたが言うように、こうも場違いな・・・?」
「私にははっきりとした理由がある。あなたみたいに“ふしだらな”ものじゃなくてね」
サラは恩師である音楽家と会ってきたばかりだと言った。
レニングラード大学で将来について真剣に悩んでいた頃、彼女に音楽の道へ進むよう促したのはレニングラードから少し離れた首都モスクワにあるモスクワ音楽院に所属する講師ペトロ・アレシンスキーである。彼はソ連の著名な指揮者であった。
確かにそれは真っ当な理由だ。少なくとも、スパイ行為や身体を売る行為と比べれば遥かに・・・。
「いいかしらサリー。あなたは勘違いしている。あなたが、その先生と会って何もなかったように、私だって、この部屋の彼とは何も無かった」
「じゃあ何の目的があって」
そんな中、勢いよく廊下の奥から走り込んで来る男の姿を目にすると、エルザはその光景とあまりのタイミングの悪さが信じられなくて、大口を開ける。
「ディートリヒさん、まさか私の部屋までわざわざ来られていたとは、ご心配をおかけして・・・」
「あ・・・あ、いえ、・・・ポポフさんがなかなか戻られないので、もしかしたら、お部屋に戻っているのかと伺ったんですのっ!」
自分の部屋に彼を呼び寄せていたことも、今となっては目の前のサラには、完全にバレていた。
ほろ酔い気味でネクタイも緩み、一番上のボタンも外れた彼のワイシャツの右襟には、言い逃れのできないエルザの赤い口紅の痕跡が微かに残っている。
サラはそれらの完璧なまでに整った証拠をつぶさに確認すると、勝利を確信するようにニヤリと口角を上げて、笑みを浮かべる。
「エルザの同僚のサラ・マイネリーテと申します。ああ、私は用事があるので、あとはお二人で、ごゆっくりなさってください」
たっぷりと皮肉を込めた言葉を残し、他人行儀のサラは二人の元を足早に去ってしまう。エルザは平静さを欠き、彼女と同じように一刻も早くこの場を立ち去りたいという衝動に駆られる。サラが他のメンバーに自分の行為を言いふらすのは、正直何よりも怖いものがあるのだ。
「・・・おや?それは」鍵が差し込まれたままの鍵穴を見つめて、彼は首を傾げた。「掛けてきたつもりだ・・・確かに上着のポケットにしまって・・・」
「・・・嫌ですわ大佐ったら、いくら私に“挿れたかった”からって・・・ご自分の部屋の鍵を挿しっぱなしにしておくなんて」
慌てたエルザは、少しわざとらしく彼に色気を使った。
「い、いや!この部屋には重要な書類がある、誰も入れるわけにはいかない・・・」
彼はエルザを押しのけて慌てて部屋の中を覗き込む。「本当に、この部屋にあるものには、何も触れていないでしょうね・・・!?」
「何を触るって、言うのですか?」エルザはあからさまに不機嫌そうに呟いた。「じゃあ、私との楽しい夜もお預けってことかしら、残念・・・」
演技とはいえ、彼女は悲壮感たっぷりに呟きながら彼に背を向ける。
「待ってください、この話はまだ・・・!」彼は立ち去りかける彼女を呼び止めた。「ここの鍵を、あなたの部屋にあった私の上着から引き抜いたでしょう?」
彼はエルザの予想に反して、非常に疑り深い・・・こうなるとビールに下剤を混入したことだってバレてしまいかねない・・・エルザの全身からは、冷や汗がどっと噴き出す。
「私を疑うのは好きにして頂戴・・・私がそんなもの、盗むと思ってるの!?・・・もういい。あなたとは二度とお話しません!」
エルザは強い怒りを滲ませてみせ、軍人である彼を萎縮させた。それ以上、彼がその場で彼女を追及してくることはなさそうだ。
どうにか上手くその場をやり過ごし、彼を部屋の前に置き去りにしたまま、まるでサラを追いかけるかのように素早い足取りでエレベーターの前に迫る。
心には虚しさばかりが募る。自分はただ復讐を成し遂げたいだけなのに・・・なぜ自分は、こんなにも、惨めな想いをしなければならないのか・・・行き場のない怒りが彼女を覆い尽くした。ボタンを連打してもエレベーターは、なかなか上がって来てくれない。無性に苛々とした気持ちが湧き上がる。
いくら任務とはいえ、こんなふうに、嫌いな相手に身体を売る行為は嫌で仕方がない。何年経とうとも決して慣れない。だから自分より、ずっとサラの方が美しい生き方をしていると思えて羨ましかった。
できることならサラやナタリアたちのように可愛らしい少女のままでいたい。いくら愛するミハイルや家族のためにと思っても、こんなことをするのに一体何の価値があるのかを考えるたびに・・・彼女の胸は苦しくなっていく。
大広間に戻るエルザを見つけると、茶色のウィッグとメガネで給仕になりすました男性が近づいた。
良くも悪くも人目を惹くエルザを介抱する素振りを見せながら彼女の肩を抱えて、人気の無い会場の隅のソファーに座らせる。
「気分が悪そうですね、大丈夫ですか」
CIA諜報員のゲオルギーは、周囲を気にしつつ、まるで本物の給仕のように彼女を気にかけるふりをして飾り気のない白いハンカチを手渡した。
「おかげで、ひどい気分」
彼から受け取ったハンカチで口元を覆う仕草をしながらそっとドレスのポケットから取り出した小型カメラのフィルムを包むと、彼にさりげなく返した。
「あいつに怪しまれたわ。私のことも監視させると思う」
エルザが、ゲオルギーの耳元に囁いた。
「何?」彼は微かに動揺して、周囲を警戒する。「やむを得ない。消す方が無難だ」
そうして、また給仕のフリをしてにこやかに微笑むとその場を離れようとする。
「それだけ?」
突然自分を呼び止めるかのようなエルザの不満が入り混じった言葉にロレンスは固まった。
「なんの慰めも、ねぎらいもないの?」
「君の言ってることは、よく分からない」
ゲオルギーに、取り合う気はなかった。
「ふざけた態度ね、連中の前に突き出してやるわ」
じろりと彼を睨みつけるように言った。
「(声を抑えろ、誰に見られているかも分からんのに)」
ゲオルギーは珍しく感情的になった彼女を前に苦笑いを浮かべて、小声で唸る。人目を気にするようにして再び先ほどまで手にしていた銀色の盆を手に取り、人ごみの中に消えた。
許されるなら今すぐに大声を出して泣き出したい。普段は気丈に振る舞っているが、本当は泣きたくて仕方のないことだって山のようにある。だが、こんなところで泣いていれば周囲に怪しまれてしまう。
「せっかくの完璧な化粧が崩れるよ」
そんな時、目の前に自分のドレスと同じ黄色いハンカチが差し出された。見上げると、そこにはタキシード姿のミハイルが立っていたのだ。
エルザはせめて気丈に振る舞おうと目に力を込める。それに合わせて、彼女の力強い眉毛が動いた。
「気が済むまでそこにいる。大丈夫だよ、怪しまれたりしない」
エルザの隣に腰を下ろすと、それ以上は何も言わず、ただ彼女の背中を優しく撫でた。無理な励ましなどせずにただ黙ったままいつまでも隣にいてくれる彼の優しさが、彼女はとにかく嬉しくて堪らない。
エルザはいつの間にか泣き出して、差し出された黄色いハンカチを大きく濡らした。
「自分の身体どころか大事な心まで傷つける必要はないよ」
「こうすることしか、他に道はないの。分かって」
自分の父を殺した張本人を殺害したあの日から、今更汚れ仕事を止めるなど、そんな後戻りができるはずも無い。いくら辛くても、せめてミハイルが隣にいてくれるなら、そんな惨めな現実も耐えられる気がした。
その翌朝、エルザはホテルの14階にあったポポフ大佐のシャワールームの床の上に転がって死んでいる大佐の遺体が発見されたという報告を耳にする。彼の頭部には損傷が見られたが、バスタブに張られた湯と、その体内から多量のアルコールも検出されたこともあり、急激な血圧上昇による転倒事故として処理されることになった。
◇
1985年も年末に差し掛かった12月。モスクワは今日も大雪に見舞われ、気温もマイナスを叩き出している。昼間なのに、吹雪で事務所の窓の外の視界は悪い。
ブーケト・ツヴェトフの初となる年末の劇場公演は間近に迫っていた。限られた抽選の前売り券には応募が殺到し、すぐさま完売してしまうという大きな好評ぶりを見せており、彼女たちの世間からの注目度の大きさを物語っている。
だが同時に、それがプレッシャーとなって、メンバーたちの心に大きくのしかかっていたのだ。
そんなコンサートの本番まで残り三日というある日の夕方、七人のアイドルたちがいつもより大きな部屋に揃って練習している最中、ドアが誰かの手によってノックされた。
「失礼するよ」
珍しく、こんなところでミハイルが姿を見せた。
「練習をこのまま続けるかね」
彼女たちの講師として指導にあたっていたモスクワ音楽院で講師を務める指揮者・作曲家であるペトロ・アレシンスキーは、白くて立派な口ひげを蓄えた七〇代という老齢にも関わらず、目の鋭さだけは決して衰えていない。
彼はサラの父親の友人であり、サラに対してもレニングラード大学時代、音楽を教えていた。
「ええ、ありがとうございます。どうぞ続けてください」
ミハイルが自分たちの練習を熱心に見入っていることもあって、彼女たちの顔には一様に、決して失敗できないという緊張感が漂った。
今回歌う曲もそのほとんどがソ連中あちこちの伝統的な民族音楽であるため、彼女たちは各々の国の民族衣装を着こんでいる。
講師ペトロの合図とともに部屋のスピーカーからレコードに録音された弦楽器の音が鳴り響く。他の民族衣装を着た彼女たちが後ろ一列に下がって踊る中、一人だけ先頭に出て、大きな帽子が特徴的な民族衣装を着て踊っていた少女はクララだ。軽快な弦楽器の音色は、中央アジアの草原と躍動感あふれる馬を連想させる。彼女のミステリアスな踊りと、あまり聞き馴染みのないカザフ語の歌声は、まるで草原に吹く風をうまく表現したかのような繊細さと美しさがあった。
曲が終わってクララが客席に一礼をすると、ミハイルは大きな拍手をした。
熱のこもった指導が繰り広げられ、ようやくレッスンが終わった時には夜の二十二時というものだった。この一、二週間、朝からこんな時間までずっとこんなことの繰り返しで、彼女たちの疲労はそろそろ限界に達しつつある。
「疲れているだろうから、僕からは一言だけ」
その場にいた全員の視線が一斉に彼へと注がれる。
「今回の公演には、東側諸国だけじゃなく、西側諸国からも何人かの記者が来ることになっている。努力次第では、ソビエト発のアイドルとして世界中のラジオにも君たちの歌声が登場し、そしてレコードだって、大々的に売り出されることになる」
その言葉に、皆の顔がキラキラと輝いた。誰しもが憧れていたことなのだ。自分たちの歌声が電波に乗って、レコードになって、世界中を駆け巡るという壮大な夢・・・そんな夢を叶えるチャンスが、こんなにも早く訪れることになるなんて。
「互いに、いい本番にしようじゃないか」
ペトロは無愛想な顔に、ようやく初めての笑顔を浮かべ、ミハイルもそれに穏やかな微笑みを返して彼の背中を見送った。メンバーたちも皆ここで解散となり、そのまま隣に建つコムナルカに戻り始める。
「ああ、ナターシャ。ちょっといいかな」
皆と一緒に部屋から出るところだったナタリアは足を止めて、レッスン室に残されたミハイルに振り返った。
彼女をレッスン室の中へと呼び戻した後、彼はそっと防音扉を閉める。今まで廊下に響いていた他のメンバーの話し声はそれと同時にはっきり途切れた。
「三日後、緊張するかい?」
彼女を部屋の隅にあるパイプ椅子に座らせて、音響機材のそばに行ったあと、何を探しているのか、棚の中に積まれた無数のレコード類を漁っている。彼女はそんな彼の背中を見つめながら、口元に嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「・・・今までだってテレビ番組には何度も出演した私たちなんです。ラジオ番組なんてもう十回は超えたくらい。今更緊張するわけもないって、心の中ではいつも思ってたのに・・・。でも、あんなに沢山のお客さんたちと近い距離で歌うんですよ?どうしても信じられなくて・・・本当は、ちょっと怖いんです。ドキドキって、ずっと胸の鼓動が、止まらなくて」
ナタリアは夢中で今の気持ちを言葉にした。ミハイルは相変わらず彼女の言葉を黙って聞きながら戸棚のレコードを漁っているようだったから、どんな表情をしているかなど全く分からない。
「私、たくさんのお客さんを前にしたら、声ちゃんと出せるかな・・・上がっちゃったりしないかな・・・」
「大丈夫だ、ナターシャ。君が、これからここにいるみんなを引っ張っていくのだから」
一枚のレコードを両手に抱えたまま、ようやく彼はこちらに振り返る。
レコード盤の端に針を置くと、部屋のスピーカーからは音楽が流れ始める。
序盤に流れ始めたピアノの音。聞き馴染みのあるボーカルの声。
「あ、これって・・・E.V.A.の『Girl of Destiny』ですよね」
紛れもなく、自分の大好きな曲だ。
「十七歳の君には、歌詞通り、相応しいと思ってね」彼はにこやかに笑う。「だから、君にはコンサートの終盤にこの素晴らしい曲を歌ってもらいたいんだ」
そして驚愕の言葉が、彼女の耳に飛び込む。
「・・・、私が・・・!?え、どうして、私なんかが・・・!!」
椅子から立ち上がると悲鳴にも似た驚きの声をあげる。彼女が勢いよく立ち上がったことで、そのパイプ椅子はバランスを崩してがしゃんと音を立てて床に倒れる。
冗談でしょう、と、彼女の大きく見開かれた目は強く訴えかけていた。
「嘘じゃないよ。君のウォークマンのカセットにもこの曲が入っているだろう?毎日聴いているのなら、すぐにでも歌えるはずだ」
ウォークマンを持っていることも、普段からABBAの音楽を何気なく口ずさんでいて、そのくらい彼女が大好きな曲であることも、勘のいいミハイルには既にお見通しなのだ。
「でも・・・私は、E.V.A.みたいに格好良く歌える自信なんか、どこにも・・・」
「ナターシャ、怖がってばかりじゃ前には進めない」
不安でいっぱいの彼女を安心させるような優しさと、しかしその内側に確かな厳しさの込もった彼の言葉には何一つ反論できず、ややうつむきながら、渋々と頷く。
そして彼女が手渡された曲の楽譜を入念に読むと、様々な思いがこみ上げる。
・・・確かに自分がこの曲を歌う機会なんて、今後はいつ巡ってくるかも分からない。結局は彼の口車に乗せられて一か八か、挑戦してみたい気持ちが強くなっていく。
「でも、どうして、コンサートの終盤にソロで歌うのが私だけなんですか?」
そのような彼女の疑問に対してミハイルは相手を射止めるような真っ直ぐな曇りのない目で、ナタリアを見つめる。
「君がこれからのチームのリーダーなんだ、ナタリア・リヴィウスカヤ」
彼女はそんな信じられない言葉にまたも耳を疑い、その場に立ち尽くした。
「君以外にはいない。君だけが持つ歌声と熱い想いはきっとこの国の人を笑顔に変えることができるから」
「・・・臆病だし負けず嫌いで、自己評価も低いし、それに・・・こんな自分は可愛くないって思うことが多いのに、こんな私なんかが、誰かの笑顔を作ることなんてできるんですか?」
日頃言いくるめられることの多いナタリアは、さすがにそれはお世辞が過ぎると口を尖らせ、ついムキになって言い返した。
「いくらミハイルさんがそれを望んだって、私は、まだその器なんかじゃないんです・・・!」
今は珍しく、彼の真剣な、嘘偽りないはずの言葉を疑っている。
どうしても容易には信じられない。自分より周りの皆の方がずっと能力があると、自分よりもずっと熱い想いを持っていると信じていたから。
彼女の中にあるリーダー像は明確にエルザと決まっていた。彼女こそが自分のゴールであって、彼女になりたい、彼女のような美しい大人になりたいと願っていたのに、まだまだ未熟な自分が、いきなりそのゴール地点に飛ばされるというのは、あまりに残酷な仕打ちのように感じられたのだ。
「その通り、君は自分に自信がなく、でも負けず嫌いで、そして怒りっぽい。その上、変なプライドもある。可愛くないといえば確かに可愛くない。笑顔を作るのもメンバーの中では、下手な方」
彼は容赦無くナタリアのダメな部分を列挙する。ナタリアは初めて知るミハイルの姿に圧倒されて、きょとんとした。
「それでも君は、一歩一歩、着実に前へ進んでいる。いい方向にね」
ますます唖然としたナタリアに構わず、彼は続ける。
「これから君は様々な経験を通じて、大きく成長していくはずだ。最初から完璧でいる必要なんか微塵もない。テレビや国境の向こうには、きっと君と同じように、自分に自信がなくて、自分は惨めだと思い込んでいる人は山のようにいる。そんな人たちに自信や勇気を与えるため、最も説得力のある方法はなんだと思う?」
それまで流していたGirl of Destinyが終わるのを見計らい、レコード針を上げると、部屋の中は静寂に包まれる。ナタリアには、ミハイルのそんな問いはあまりに難しく、何度考えてもむしろ混乱が生まれるばかりで。
「その人たちと同じ目線やスタート地点に立って共に歩くこと。それがアイドルの役目だよ、ナターシャ。超人じみたスポーツ選手をいきなりテレビで目にたって、自分には無理だし絶対こうはなれないと、多くの人は思う。しかし最初から完璧じゃない君が少しずつ完璧になっていく姿を多くの人が見た時、自分に自信がなかった彼らは君のようになりたいと夢を持つ。アイドルという存在は、決してゴールじゃない。君だけが持つその一生懸命で素直で真っ直ぐで、負けず嫌いで、そして誰からも愛される性格が、徐々にみんなを、夢というゴールに導いていく・・・すごく素敵なことじゃないか?君はみんなを導く魔法使いだ。まだ、見習いだけど」
魔法使い、という言葉は卑怯だ。
きっと誰だって魔法という魅力的な力に憧れるのに。もし自分がそうなれるのなら、挑戦してみたいって、思ってしまう。
「・・・私は本当に、みんなに影響なんて与えられますか・・・?」
「もう既に、与えているとも。世界は徐々に変わり始めているから。あとは君が、その波に乗るだけだから」
またもや彼の上手い言葉に乗せられてしまったことを半分悔しがりながらも、しかし彼の言う通り、もし誰かに影響を与えられるとしたら・・・彼女には真っ先に影響を与えたい人物がいた。
そもそもつい先日、自分は英雄になると誓ったばかりだ。すぐ臆病風に吹かれてしまう自分を恥じ入るように、彼女は自分の両頬をつねって喝を入れた。
「・・・私はダメダメですけど、自分に負けたくないんです・・・だって私はソビエトが誇る英雄なんですから」彼女は手元の楽譜を、ぎゅっと力強く握りしめた。「リーダーの仕事、引き受けます!絶対に誰にも負けない存在に、なってみせますから!」
その力強い言葉にミハイルはただありがとう、とだけ呟き、彼女と何度目かも分からない固い握手を交わした。
スタジオを出ると、今も夜の闇の中に、街灯の明かりに照らされた白い雪が舞う。髪の毛に雪をかぶりながらすぐ隣のコムナルカに戻ると、その一階のエントランスにはたっぷりコートを着込んだサラが、白い毛皮帽子を頭にかぶって待ち構えている。
「サラ、どうしたの、こんなに寒いのに」
「皆あんたを待ってるの、私たちの・・・“リーダー”」
まさか、既に知っているとは思わなかった。しかも彼女の口ぶりでは他のメンバーも既に知っている様子だ。サラが誰よりもリーダーに憧れていたことは知っていたから・・・それが気まずくて、ナタリアは言葉を発するのをどこか少しだけ躊躇っている。
「本音を言うとね、悔しいの。すごくよ?」
ようやくサラが口にした言葉はそんな、いつもと変わらない不機嫌なものだったから、ナタリアは戸惑いながら懸命に彼女に対して掛けるべき言葉を探している。
「でも・・・努力家のあなただから許せるの。特別なんだからね」
サラは手袋の上から握っていた暖かいコーヒーの入ったマグカップをナタリアに差し出す。細い湯気が天井に向かってゆらゆら漂っていた。
「コーヒー、好き?」
「・・・えっと、そうでも」
「だったらあげない」
「い、いや嘘だよ!・・・いや、嘘じゃないかも・・・」
「どっちなの、優柔不断ね!あんたはやっぱリーダーには不向き。今すぐ回れ右して実家に帰るべきよ」
「そんな!」
少し意地悪な彼女からコーヒーを慌てて奪い取ると、それは、時々口にしていたものよりずっと美味しく感じられた。一年経って、ようやくコーヒーというものの味にも慣れてきたのかもしれない。それか多分、このコーヒーを淹れた誰かさんの腕が良かったのか。
「・・・ごめんね、サラ!私なんかが」
彼女の背中を呼び止める。
「・・・そうやってすぐ謝らないで。あなたの悪い癖」
そうは言っても、きっと何かにつけて引きずりがちな彼女のことだから、今もどこかで痩せ我慢しながらナタリアが何か気まずい思いをしなくて済むように気遣ってくれていると思わずにはいられない。
だが、そう思えば思うほど・・・色々あっても優しいサラのことが好きになる。
「・・・サリー、ありがとう、私、なんか嬉しいよ」
「愛称で呼ばないで。ずっと年下のくせに」
「サリーの淹れたコーヒー、思ったより美味しかった・・・!」
サラは彼女の褒め言葉に何も言わず、黙って階段を駆け上がった。背中を向けながら、どんな表情をしているのだろう。そんな彼女らしい仕草が可笑しくてナタリアは彼女の背中をしばらく黙って見つめる。
それから、寒さのせいであっという間に緩くなってしまったコーヒーを慌てて一気に飲み干した。
そして、12月31日のコンサートの当日が訪れる。
夕方六時から始まった大晦日開催のコンサート本番はプログラム通り順調に進行していく。会場はほぼ満席で、客層もロシア人ばかりではなく、ソ連中のあちこちから集まって来た様々な人種で構成されていた。皆ラジオやテレビによる大規模な宣伝によって彼女たちを知り、駆けつけた人々であった。
それぞれの共和国の民謡がモスクワ放送交響楽団の多彩な民族楽器によって演奏され、カラフルな民族衣装を身にまとったアイドルたちが歌やダンスで素晴らしいパフォーマンスを繰り広げる。
やがてコンサートも終盤に近づき、ついに、全員で最後の曲を歌った瞬間、会場からは大きなどよめきとともに、万雷の拍手が送られた。
「本公演の指揮・監修は、モスクワ音楽院、ペトロ・アレシンスキー氏!」
楽団の指揮者であり、今回ずっと講師として彼女たちに寄り添ってきた彼が登壇して、ステージ上で横一列に並んだアイドル一人一人に握手を交わしていく。
「(さぁ、頑張ってこい、ここからが君の正念場だ)」
ナタリアと握手する際、同時にペトロは彼女の背中を優しく叩いて、耳元にそう囁いた。
拍手がまだまだ鳴り止まない中、一度全員が退場し、指揮者がその後も何度かステージや幕間を行ったり来たりしては聴衆を盛り上げている。
メンバーの中で一人、ナタリアは大急ぎで控室に駆け込むと民族衣装を脱ぎ、今度はネクタイを締めたフォーマルな私服に着替えた。
控室の鏡の前には薄紫色のライラックのコサージュが置かれており、彼女はそれを忘れずに取り上げると胸元に挿した。鏡に映り込む自分は誰が見ても可愛い。そう思うと、彼女は心の底から嬉しくなって、緊張するのも忘れて足取りも軽くなり・・・小走りで再び壇上に立った。
彼女の登場とともに拍手が鳴り止むとスポットライトが舞台の上の彼女だけを照らす。先ほどの熱気から一転、静まりかえる大海原のような客席のざわめきが肌にビリビリと伝わる。
その実感とともにようやく襲いかかってきた緊張感で微かに震える指先を彼女はどうにか抑えつつ、言葉を形にした。
「・・・皆さん、こんばんは・・・!今日から私がグループのリーダーとなった、ウクライナ出身のナタリア・リヴォフスカヤです。まだまだ未熟な十七歳。自信が無くて可愛げもない私ですが、それでも私のこの歌をどうか聴いて欲しいんです!まだ皆さんが一度も聴いたことのない、馴染みのない曲だと思います。でも、私はこの歌が大好きなんです!だから、どうかこの国の多くの人たちが思想も国境も関係なく、世界の音楽や文化を愛して欲しいと願って、一生懸命に歌います・・・」
彼女の言葉とともに舞台はディスコ会場のような賑やかな照明に彩られていく。
「それでは、聴いてください!EVAの・・・『Girl of Destiny』!」
・・・軽快でノリのいいリズムが会場全部を包み込み、観客席からの歓声と熱狂は最高潮に達するのだった。
それは人生におけるたったの4分間の出来事に過ぎない。
しかしどんなに短くても、それは彼女の人生最高の瞬間に他ならない。歌い終えた瞬間に、観客席からは大きな拍手がまるで波のように彼女のもとへと押し寄せる。
呼吸は乱れて、その首筋は汗で滲んでいた。ハンカチで拭いつつ、彼女は目の前にいる大海原のような観衆に向かって、何度も丁寧なお辞儀をする。鳴り止まぬ拍手にただ圧倒されながら、まるで逃げ出すように背を向けて舞台の袖に転がり込むと、彼女をそばで見守っていたメンバーたちが一斉に彼女のもとへと駆け寄る。
皆彼女をねぎらうような笑みを浮かべているのに、ナタリアだけは一人不安で一杯な表情を浮かべていた。
「ナターシャ、その変な顔は何?もっと喜んでよ!」
「そうだよね、うん、・・・それは、そうだけど・・・」
アンゲリナに頬をつままれる。微かな痛みがじわじわ浸透して、先ほどの出来事が夢などではなく現実に起こっていたのだという実感が湧く。だが、それでも彼女はなかなかその微妙で堅苦しい表情を崩すことが、できない。
背中で今でも響く大きな拍手喝采の音を聞いても簡単には実感なんて湧いてこないのだ。彼女が先ほどまで立っていたその場所をもう一度じっと見つめたら、綺麗なスポットライトが真っ直ぐに当てられて暗闇の中に一筋の光の柱を作り出していた。
「ねえエルザさん!私あの場所で・・・本当に、輝けていましたか・・・?」
今は何よりも感想が欲しかった。自分が多くの人の前で、どんな風に映り込んでいたのかが知りたかった。常にメンバーと共に数々の舞台を踏んできたものの、たったの一人だけで大きな舞台の上に立ったことなど一度もなかったのだから。
・・・周囲からの評価を気にする心配性なのが、いつも通りの可愛くなくて自信の無い自分だから。
エルザは、彼女が真っ先に発した言葉に真顔になった後で、優しく微笑む。
「あの舞台で光っている照明より、ずっと輝いていたわ。ここにいる大観衆だけじゃなくて、ソ連中のテレビやラジオの前にいる人たちが、あなたに注目していた」
ナタリアの性格を理解しているように、わざと大げさに褒めちぎる。
エルザの目は真剣そのもので、お世辞でもなんでもなく、嘘偽りのない言葉だ。おかげで、ようやく実感が溢れてきたナタリアは初めて満面の笑みを零すと、周囲のメンバーたちと抱き合った。
ナタリアがスタッフに呼ばれたのはそれからほんの数分後のことだった。彼女に、ファンを名乗る男性が一人花束を持って訪れているというのだ。その男性の名前を聞くと、彼女は驚いたようにその場で飛び上がり、ろくに話も聞かずに楽屋の廊下を全速力で駆けていた。
廊下の突き当たりまで走ってくると、非常階段のそばには松葉杖を突く彼の姿がある。見た目が少し痛々しい彼との距離感は十数メートルくらいで、その距離を埋めるために一歩一歩、慎重に足を踏み出すのは、何故か勇気が必要だった。
むしろ、彼の方からナタリアの方にゆっくり近づいてくる。こんなにも必死になってここまで駆けつけて来たというのに、いざそんな彼を目の前にすると・・・緊張してしまい、ろくに目も合わせられなかった。
「顔を上げて、こっちを見てくれよ」
アレクセイは不貞腐れるように俯いていたナタリアの頬にそっと触れた。
「・・・嫌いなんでしょう、私のことなんか・・・嫌いなら、はっきり嫌いだと言って・・・」
ナタリアは拗ねたように頬を膨らまし、一度は向けかけた顔を、再び彼から背ける。
「嫌いだったら、リハビリ中に来たりしないよ。プロのボリショイバレエ劇団のチケットをタダで貰っても、こんな雪の中での外出なんかお断りだ」
彼女はようやく諦めたように、彼に対してゆっくり、愛想のない顔を向けた。
・・・アレクセイは、彼女が以前病室で目にした時よりもずっと明るい笑顔で微笑んでいる。その表情は、彼女のよく知っているかつての兄の優しい笑顔そのものだった・・・。
「・・・わ、私、まだ怒ってる。許してないよ」
大好きな兄の姿がようやく自分のもとへ帰ってきたというのに、彼女は嬉しさを誤魔化す厳しい表情のまま、素直に笑えない。
「素直じゃないお前が、すぐに許してくれるなんて思っちゃいないよ」
松葉杖を手放すと、アレクセイは少しよろめきながら彼女を抱きしめた。
「自分が間違ってた。お前の言う通り・・・戦場に行かなくても、ここで、何かできることはあるのかもしれない」
まだ松葉杖なしではしっかり立つことができないのか、脚をやや小刻みに震わせる彼の身体を両腕で支えながら、そんな彼の言葉に彼女の目頭は、ゆっくりと、熱を帯びていく。
ボロボロになりながら自分の生きる道を必死に模索していた彼の役に立てたというだけでも、なんと幸福なことだろう・・・。
彼女の胸の中は今、溢れ出してくる嬉しさでいっぱいだった。
「全部、お前の歌のおかげ」
「・・・それじゃあ、私は、兄貴にとっての英雄になれたんだね・・・」
自分の歌には誰かを変える力があると確信した時、彼女はついに我慢できなくなり、泣き始めた。
「泣くなよ、本当に、泣き虫なんだから」
それまで彼の体重を支えていた彼女の両腕はもはや力を失って、その重みで、二人は抱き合ったまま・・・誰もいない放送局の廊下に座り込んだ。
(4章に続く)
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