宝石の花

沙珠 刹真

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第一章

母の日のプレゼント

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 今日も昨日も一昨日も、明日も明後日も明々後日も一週間後も一か月後も一年後も、朝が来たら花のお世話。お昼も花のお世話。夜も花のお世話。お客が来たらお客の対応。
 毎日同じことの繰り返し。
 つまらない?
 そうでもないから、この店を継いだ。
 私――若林蛍わかばやしほたる――は、『花屋Morning Glory』の店主をやっている。
 先代から店を継いでまだ五年程度しか経っていない。継いだ時は二十代前半……いや歳の話はやめよう。虚しくなる。
 先代は四十年くらいやってたらしいが今は退いて、学生時代からバイトを経て正規雇用してくれた私に店をくれた。店どころか二階の居住スペースまでくれた。
 なんでかと思えば、継いだ一年後には行方不明になっている。
 居なくなるまでの一年弱、全国の観光地を転々と楽しんでいる写真が店宛てに定期的に送られてきていた。
 警察の人が来た時は何も知らされていなかったから、最初は驚いた。
 安いボロアパートを借りていたらしいが、家賃滞納から事が発覚したらしい。
 殺人事件の可能性もあり、店を継いだ私にも容疑は掛けられたが、部屋の中の家具がすべて本人の手によって売り払われていたことが判明し、失踪という扱いになった。
 今も一応捜索は続いているが、私は探す気はない。
 子供の頃から、友人どころか親とも馴染めずに浮いていた私を理解してくれた唯一の人だし、バイトする前からお世話になっていたから、もちろん感謝はしている。
 店の常連さんには心配されてる反面、薄情な奴と思われているかもしれない。
 でも行方不明の真相を知ってしまうと、むしろ本当に居なくなってしまえと思わずにはいられない。
 先代――先代孝之さきしろたかゆき――は"世間では"行方不明になっている。
 その真相とは、店の裏口から繋がっているここ、日本とは違う別の場所――異世界――で"隠居"しているだけである。
 い・ん・きょ!
「ああもう一々、新聞の取材とかで口裏合わせるめんどいから隠居やめろよお」
 レジ兼作業机に突っ伏しながら怨嗟の声が机にぶつけられる。
「あっ、あのー……」
 しまった。
 頭を勢いよく上げ、お客と目を合わせる。
 お客いたのかあ。聞かれたかな?
「いらっしゃいませ。どういったお花をお探しでしょうか?」
 笑顔。そう、営業スマイル。
 大丈夫。冷静さを保てば空耳だと思ってくれるはず。
「えっと……」
 何やら見てはいけないものを見てしまった目で私と花たちを交互に見てくる。
 後ろで一纏めに結んでいるポニーテールが左右に揺れている。
 お客さん、それじゃあ不審者に間違えられてしまいますよ。
 今度は口に出さずに心の中で助言をする。
「母の日に花を送りたくて、でもあんまり花のこと知らなくて……」
 ふむ、なるほど。それでは――
「一番メジャーなのは赤のカーネーションですね。詰まるところ無難中の無難。これを貰って嬉しくないお母様はこの世にほとんどいないでしょう。丈夫で長持ちと言われるくらいですから、お母様への長生きして欲しいという願いとも捉えられます。定番と言えばバラもありますよ。赤は『愛情』『美しい』、ピンクは『感謝』『おしとやか』なんて花言葉があるくらいです。お子さんから貰ったお母様はその花言葉を知り、その心の内を静かに受け取ることになるでしょう。あとはチューリップも捨てがたいですねー。色が多彩で他を主役に添えて脇役にも、自身が主役にもなる。他を助け、他に助けられる。まさに家族のような花です。ああそれと、ガーベラも良いですよ。色彩豊かで他の定番の花に比べて主張は抑えられていますが、その丸みを帯びた花は見る人の気持ちを落ち着かせ、明るくすることでしょう。他にも、ユリやスイートピー、紫陽花なんてのも定番っちゃ定番ですよ。それから定番から外れますがクレマチスなんてどうでしょうか? 紫色の高貴なイメージの色で控えめに見えるのに華やかさによる確かな存在感があり、優雅にお花を見て娘さんのことを想うことができるでしょう。見たところお若いですし、少々お値段上がりますが胡蝶蘭なんてのも全然ありです。蘭というのは節目のお祝いによくプレゼントされるお花なんですよ、還暦や古希からの長寿祝いに加え、ご自分の節目、つまり自立や就職、結婚などそんな時に支えてくれたお母様に感謝の気持ちを表したいという時にもうぴったりなんです」
 ――ここまで一息。
 嘘です。
 でも早口で語ってしまうのは花屋の性でしょう。
 一部、店頭に並んでいないお花のことも話に出したけど、後悔はしていない。
 調達すれば万事おーけー。
 即答し、これだけのことを話せたプロの凄さにお客様も驚いて固まってる。
 いや、あの目は珍妙なものを見る目だ。
 お客様とは言えそれは失礼だと思うな。
 しかも、見るからに私より若い女性。
 少しは年上を敬う心を……いかんいかん、こんなこと思ってたら老けこんじゃう。
「え、えっと……今度の五月の連休に両親が来るんです。私、静岡出身で、大学まで地元にいて、でも地元からは出たくて、どうせ出るなら思い切って北にって思って、こっちの教員採用試験受けて、合格して、この近所の中学校に赴任できました。
 家を出るまで、慣れない、知りもしない土地で女一人で生活なんて心配だとか、雪がたくさん積もるから貧弱な私じゃ生活できないとか、凄く親に反対されて、ちょっと強めに大丈夫だからって、育ててくれたお礼も言わずに出てきちゃって、しばらく帰省するつもりもなかったんですけど、向こうから心配だから来るって、もう飛行機のチケットも取ったからって決定事項になっちゃいまして……。
 それで、今さら遅いかもしれないですけど、自立するまで育ててくれてありがとうってお礼を言いたくて、ネットで何がいいか調べてたら母の日が近いし、安直ですけど、あと二週間くらいあるのでドライフラワー作ってあげれば持って帰れるし、長持ちするし、良いのかなって考えていて……」
 何やら不必要な身の上話を聞かされている。
 自分語りは他人が聴いて最もつまらない部類の話だと思っているが、まがいなりにも接客業ですから、お客様の話は最後までしっかり聞くのが常識です。
「はっ、すみません。いきなりこんな話されても迷惑でしたよね」
 何やら、新生活の不安とかもお抱えなさっているようで、しかも初対面の私にここまで語るとは、そうとう思い悩んでいると見える。
「いえ、花選びに参考にさせていただきます。とは言っても、私が選ぶよりもやはりお客様が選んだ方が良いと思いますよ」
「えっと、じゃあ……」
「ごゆっくり選んでください。花はそんなにすぐ枯れませんので」
「はい。では、遠慮なく」
「あと、ドライフラワーをご所望でしたね。それでしたら、花を選んでいただければうちでもやれますよ。道具の準備が大変でしょうし、時間的に余裕がありませんし、お任せしていただければと」
「え、本当ですか?」
「下の花たちに目が行きがちですが、少し目線を上に、そして壁をご覧ください」
 そう、うちの花屋ではドライフラワー関係のちょっとした小物も取り扱っているのである。
 湿気のある店内はドライフラワーの天敵なので、真空ガラスに封入された委託品ばかりだけどな!
 しかーし、お客様がご所望とあらば、店頭に並ぶ花たちをドライフラワーにするサービスもしている。
 今、思いついた。
 ついでに少し新しい取り組みもしたいと考えていたところに、都合の良いお客様ときた。
「メインに置く花を選んで予算を提示していただけたら、その分でアレンジもしますよ」
「すごい。花屋さんって入ったことなくて、そこまでしていただけるんですね」
「ここまでやるのは一部か、それともうちだけかもしれません。私もあんまり他をしりませんので」
「同業者はお互いライバルみたいな感じですか?」
「いえいえ。ほら、ここ住宅地の中にあるし、大きな道路に面しているわけでもないし、すぐそこに大きな広場があっても間に別の店があるから目立たないんですよ。だから話題にも上がらない」
「確かに」
 あんまり納得して欲しくないんだけど、事実だから仕方がないか。
「失礼を承知で伺いますが、お店の経営は大丈夫なのでしょうか?」
「失礼もなんも、疑問に思って当然でしょうねえ。ずばり、大丈夫です」
 そう。目立たなくても定期的に買ってくれる顧客がいれば問題ない。結婚式場なんかがいい例。業務提携さえしていれば事前にどれだけ必要かが分かるのでロスも少なく済む。
「へー、知りませんでした」
「あまり知られてませんでしょうからね」
 ちなみに別方面でも利益があるが、それは言わない。
 私はレジに座り、中断していた帳簿作業を再開する。いい加減アナログから卒業しないといけないと思って、もう三年は経ったかな?
「決めました。このスイートピーにします。予算というと、相場はどのくらいでしょうか?」
「スイートピーですね。かしこまりました。予算は大体、千円から三千円でしょうかね。お持ち帰りならコンパクトな方がいいと思いますし、おまかせしていただいてもかまいません。警戒しなくても、お安くしておきますよ」
「じゃあ――」「代わりと言ってはなんですが」
 レジを立ち、店の裏に一度入る。
 そこから、〝ある種〟を取ってくる。
「これをどうぞ」
 お客様は恐る恐る私の手から、その種を受け取った。
「これは……アサガオの種?」
「おお! よくわかりましたね」
「小学校以来ですが、なんとなく覚えていました」
「あとは、これらを用意してください」
 育てるのに必要なものをリストアップしたメモを渡す。
「土や肥料、その他諸々、うちで準備することも可能ですが、特に鉢植えは地味なものしかないものですから、せっかく育てるのなら自分の気に入ったものを買っていただくのがよろしいかと」
「育てるのがおまけしていだく条件?」
「そうです。お代は商品を渡す二週間後でかまいません。その時にアサガオの育て方を書いたメモもお渡ししますよ。今の時代、ネットでいくらでも出てきますが、一応ね。あと、まだアサガオの種を植えるには寒いんですよ、なのでもう少し待っていてください」
 これでこちらも儲かる。この子も元気になる……はずなのでWINWINの関係というやつだ。
「おっと忘れてた。お名前と電話番号伺ってもよろしいですか? 万が一があるかもしれませんので」
「はい。名前は藤田穂ふじたみのりです。藤は藤原の藤に田んぼの田、稲穂の穂と書きます。電話番号は090-〇〇〇〇-××××です」
「では、二週間後にはできていると思いますので、ご足労掛けますが再びご来店をお願いします。それと駐車場ですが、店の前の道路よりそちらの広場の方が広いのでそちらをお使いください」
「ご相談に乗っていだたき、ありがとうございました。では、よろしくお願いします」
「またのお越しをお待ちしております」
 店の戸を閉めた後も深く頭を下げ、藤田穂という新米教師は店から去っていった。
「さて、仕事、仕事。どんなのにしようかなー」
 私は久々のアレンジ依頼に浮足立ちながら、ひとまず帳簿作業を終わらせることには始まらないとレジに再び座ったのだった。





「ただいま」
 数か月前までは「おかえり」と返ってきていた声に返事はない。
 今年の春から新米数学教師として働きはじめ、生まれてから春まで出たことのない地元も出て、初めての一人暮らし。
「自分で作るつもりが、花屋さんに全部お任せしてしまった」
 無音になるのが寂しくて独り言を呟く。
「それにしても、変な店員さん?店主さん?だったなー。私より少し上くらいかなあ。店を持ってるなんてすごい人には違いないんだろうし、親身になって相談に乗ってくれたけど……うん、やっぱり第一印象って大事なんだ」
 いつか担任になった時には、しっかりと頼りある先生です!ってところを……第一印象でそれは難しいかなあ……
 そんなことを考えながら手元のメモを眺める。

必要なもの
・草花用の培養土
・軽石
・肥料
・鉢植え(小学校の時くらいの大きさ。お気に入りを探すこと。重要。)
・支柱
・じょうろ
・やる気
・種は直射日光に当たらない涼しいところで保存(玄関や冷蔵庫)

 やる気って……
 やっぱり変な人だ、あの花屋さん。
 四月のこの時期、道端や日当たりが悪いところには、まだ雪が残っている。つまり、そんなに暑くない。
 暖かい。
 うん、それがぴったりな空気。
 地元の静岡に比べたらまだ寒いくらいなんだけど、不思議と雪解けの様子がその寒さを和らげてくれている気がする。
 種は玄関に置いておけば大丈夫だろうし、あとは鉢植えかなあ。
 慣れぬ土地、初めての花屋。そこで少し抱えていたものが零れてしまった。
 まだ生活を始めて間もない部屋だけど、緊張が抜けて、落ち着いて……
 ……。
 …………。
「……はっ!」
 あっ、外が暗い。
「寝落ちしてしまった……」
 時計を見ると六時を過ぎていた。周りが山に囲まれているからなのか、日が暮れるのが一層早く感じる。
「今週の分の授業ノート準備しないと」
 慌ててベッドから抜け出し、少し寝ぼけ気味で頭がクラクラするのを我慢しながら、伸びをする。
 電気をつけ、カーテンを閉めたところでお腹が鳴る。
「そういえば、昼ごはんも食べてなかった」
 お腹が鳴ると途端に胃が空っぽであることを主張し始める。
 冷蔵庫を開けて、絶句。
「昨日……そうだ、昨日も寝落ちして買い出し行かなかったんだ」
 昨日は部活を見て、夕方に帰ってきてそのまま寝落ち。起きたのは八時目前だった。地図アプリによれば二十四時間営業のスーパーも車を使う距離にあるが、そんな気力も湧かずにイチゴジャムを付けた食パン一枚で済ませた。
 新米だから仕方ないけど、卓球の経験もないのに、女子卓球部の副顧問になった。指導はできないけど、トレーニングのサポートや準備の手伝いに、昨日は折角なので一年生と一緒に練習してみた。生徒よりも少ない運動量のはずなのに、部活終わりの生徒たちは元気あり余る様子で帰っていった。
 まだそんなに歳は離れていないはずだけど、学生の体力恐るべし。
「まだ間に合うどころか、惣菜の安売りしてる時間かな。よし!」
 財布とエコバッグ、車のカギを持って近くのスーパーへ。
 住んでいるアパート周辺は道路が広いので、免許証が青色なペーパーでも安心して運転できる。
 物の並びも大体覚えた、いつものスーパー到着。
 今週分の晩御飯用の野菜や、いざ簡単に済ませたい時用の焼きそばやレトルトカレーを買い物カゴに入れて総菜コーナーへ向かう。
 ぐぬぬ。ほとんど残ってない。
 日曜日の方が意外と総菜を買う人が多いのかな。
 残っていた唐揚げと梅おにぎりと昆布おにぎりを買い物かごに入れた。
 そういえば牛乳の賞味期限、切れてたっけ。
 家族で飲んでいた時は牛乳の減りが早くて、
「牛乳もう無くなった。お母さん明日買ってきてー」
「ええ、もう? ほんとお父さんと揃って飲みすぎなのよ」
 なんてこともあった。次の日の夜には冷蔵庫に補充されていたので、お母さんの優しさが今になって身に染みてくる。
 一人暮らしを始めてみると一リットルって案外多かったんだと驚いた。朝がドタバタしていたり、夜の風呂上りにはお酒を飲み始めてしまい、きちんと消費しきれない。
 今は地元では見慣れない銘柄ばかりの中で、どれが自分の口に合うか模索中だ。
 前回とは違う銘柄を一つカゴに入れる。
「あとは……」
 パンコーナーで朝の食パンと、その向こうに見えるのはお酒コーナー。
「あんまりお酒に頼るのもよくないよね」
 お酒に強い訳ではなく、九州から来ていた大学の友達を見ていると、むしろ弱すぎるくらいに思えてくる程度。つまり、おそらく、たぶん、私は普通か少し弱い程度。ビールは未だ苦手で、甘いチューハイくらいしか飲めない。でも、あのほろ酔いな気分で一日の疲れを忘れられる。
 いけない、いけない。
 一番安い食パンをカゴに入れ、無くなりかけていたイチゴジャムを入れる。
 そのままレジへ直行。よし、誘惑に勝った!
 会計を済まして、来た道を少し寄り道して周辺の道を覚えながら帰る。
 帰宅して、晩御飯を食べ、風呂というよりシャワーを浴びて、さてノート作り。
 一年生用の数学の教科書を開き、板書用に要所要所をノートにまとめていく。その時に注意点やこんな例えをしようなども横に書いておく。
 人によってはノートを作らない先生もいるみたいだけど、私には到底真似できない。
 一クラスだけ持っている二年生用のノートも作り、深夜零時……を少しオーバー。
「うわっ、やばい」
 いそいそと寝る準備をしてやっと就寝。
 布団の程よい重さが気持ちいい……





 気がつけばもう四月が終わって五月。世間はGWと浮かれているけど、私は仕事です。客が来なくてもお花のお世話がある。なのでどこかに遠出というのは基本的にできない。しようと考えたこともありませんけどね。
 というか、もう四月終わったんですけど。
 はい? どういうこと?
 あと二か月過ごせば一年が半分終わって、また雪が要らないくらい降ってくる忌まわしい冬が来るってこと?
 時の流れ、速くない? いや、この場合は早くない?かな? まあどっちでもいいや。
「歳かなあああぁーーー。もうそんなに若くないよなーとか思ってるけどさぁあー」
「あのー……」
 突っ伏していた頭を勢いよくレジ兼作業机から引き剥がす。
「いらっしゃいませ。どういったお花をお探しでしょうか?」
 しまった。戸のベルの音が聞こえいくらい思い詰めてたか。
 でも、笑顔で冷静に。
 そうすれば大丈夫なのは先日証明されている。
 って、なんだ藤田さんか。
 うーむ、なんだか見てはいけないものを見てしまった目でこちらを見てくるのは何故だ?
 心当たりがないぞ。
「二週間ほど前にお花をお願いしていた、藤田ですけども……」
「あっ、しまった……」
 顔も名前も憶えていたのについ反射的に定型文を発してしまった。しかも気づくまでの反応も鈍くなってきている。
 本当にやばいのかも、私。
「えっ、もしかしてできてない?」
「いえいえ、反射的につい、いつものフレーズが出てきてしまって」
 もちろん準備できていますとも。
 頭に疑問符を浮かべているって顔はきっとこんな顔なんだろうな。
 感情が表情に表れやすい子なのかな。
 新米教師って言ってたっけ。生徒さんたちには人気が出そうなキャラしてそう。
 美人だし。
「おそらく、想像されていたものと違うものですが、〝持ち帰る〟とお聞きしたものですから、こちらを用意しました」
 そう言って店の裏から注文を受けた瓶に詰められたスイートピーを取ってきて見せた。
「これは?」
 まあ、花のこと何も知らないって言ってたし、知ってるはずもないか。
「これは"ハーバリウム"というものです。本来は植物標本って意味なんですけど、最近では観賞用のインテリアとして、瓶にドライフラワーやプリザーブドフラワーを入れて専用のオイルに浸したものって意味が強いです。
 ドライフラワーってドライって言うだけあって花が砕けやすいんですよ。折角、娘さんから貰った大事な花が持って帰る間に残念な姿に、なんて花を販売している私も嫌だと思いましてね、少しお節介をさせていただきました。
 まあ、これオイル、つまり油なのでどちらにせよ飛行機でお持ち帰りはできませんがね。宅急便で送ることにはなりますが、華やかさもあるので失礼ながら少し遊んでみました」
 どちらに転んでも飛行機で持ち帰りは難しい。最初から実家に配送すれば問題は万事解決だけど、このお客、藤田さんは直接ご両親に感謝を伝えて渡したいと言っている。
 さてどうしたもんだと悩んだ結果、いや悩んだってほど悩まなかったかな? 丁度考えていた新商品とマッチ。
 それが、ハーバリウム。偶に趣味で作ってたのに、なんで売り物として出さなかったんだと過去の自分を恨む気持ちが沸々と湧き上がってくる。
「綺麗……」
 予想外で予想以上のものが出てきて藤田さんも驚いている。
 これが正しく釘付けって顔ね。
「最近はSNSでこういったものの写真を撮るのが流行っているらしく、インテリアとして人気急上昇中なんですよ。あと、やろうと思えば自作も可能です。実際こいつらは私が作ったものですしね」
 そうこいつ"ら"なのだ。
 この日のために五本を用意したのだ。
 決して、デザインを描いている時に楽しくなりすぎてたくさん描きすぎて、そのまま実行した訳じゃない。
 断じて違う。
 五本しか用意できなかったんだから違うったらちがーう。
「この黄色いのにします。最初にお願いしたのもオレンジ色でしたので」
「ラッピングのリボンの色、ご指定ありますか? あんまり色の種類ありませんが」
 ラッピング色の一覧表を見せる。
「うーん、ラッピングまで黄色なのはくどいですよね」
 ギフト用に用意した箱に緩衝材と選ばれたハーバリウムのガラス瓶を入れて蓋をする。手際よく白の包装紙でギフト梱包して後はリボンだけ。
「無難な赤でいいかな」
「ピンクもありますよ」
「うっ、そう勧められると迷っちゃう」
 ははーん。さては優柔不断だな。
「いえ、やっぱり赤で」
「かしこまりました」
 失礼なことを考えていたことを悟られないように笑顔で対応する。
 リボンのラッピングも終わり、次の話題へ。
「代金をといく前にですね、はいコレ」
 手渡したのはアサガオの育て方を書いたB5サイズのルーズリーフ一枚。
 なんと手書きです。アナログです。趣あるでしょう?
 コピー機どころか文書作成ソフトも持ってないだけです、はい。
 一応これでも顧客リストは表計算ソフト使ってデジタルで管理しているから、パソコンを使えるには使えるんだけど、あんまり文書を作成する機会なんてないのに専用のソフト買うのは勿体ない気がするし、そんな中でコピー機なんてあってもただのインテリアにしかならない訳で。
「絵、お上手ですね」
「おっと、そこを褒められるとは思いませんでした。職業柄という訳じゃないですが、花束の注文を受けた時なんかはよくデザインから描くんですよ、頭の中で完結できるほどの才能がないもので」
 褒められ慣れていないので、口角が上がってしまう。
「鉢植えは用意できましたか? その他もどうでしょう?」
「鉢植えと小さなじょうろは買いました。でも他は何をどこで買えばいいのやら、わからなくて。ホームセンターを歩き回ったんですけど、用意してくれるって言っていたから頼ろうかなーって。
 部活の指導に行く時間だったというのもありますが」
「では一緒に購入していただけますか?」
 うーん、ザ・押し売り!
「はい。お願いします」
 この子本当に大丈夫かな。両親が心配するのもなんとなくわかってきた気がする。
 再び裏に回り、土に軽石と肥料、支柱を取ってくる。
「土は申し訳ないんですが、袋が開いたものです。大丈夫ですか?」
「そんなに量を使いませんもんね。大丈夫です」
 料理の砂糖と同じで、思っているより使うんだけどね、土って。
「ではすべて合わせて、三千円になります」
「思ったより安い」
「高いって言われたらもう少し割引してましたけど、正直ですね」
「そんな、失礼なこと考えませんよ」
「世の中、居るものですよ、自分の価値感と全くかみ合わない、歯車が合わないって言うのかな、そういう人。かみ合わないだけなら良いんですけど、かみ合わない歯車を無理やりねじ込もうって人はほんと迷惑ですよ。それで時計とかオルゴールが正しく回るかって話です。」
「花で例えないんですね?」
「え? ああ、花でね。それなら……チューリップを植えてある花壇に無理やり向日葵を植えて、それを向日葵の花壇に植え替えようとしたら怒ってくる、みたいな感じかな。うーん、考えると実にシュール」
 思い出すのは店を継いで間もない頃に出会った一人の男の子とその親――



「おねえさん。おねえさん」
 戸を開けて店の外から声を掛けてくるのは小学校入学もまだであろう男の子。
 花の様子をチェックしていた作業を一旦止め、男の子の近くにしゃがみ込み目線を合わせる。
「どうしたの、ボク? 迷子?」
 今日はすぐそこの広場で地域の夏祭りが催されている。
 私はこれから咲き始めるマリーゴールドの鉢植えをビンゴの景品として提供している。他にも広場の飾りつけのために鉢植えを提供している。
 人込みが苦手なので祭りに参加はせず、店に籠っている。
 喧噪だけでも祭りは楽しめる。
「ううん。おにいちゃんときてる」
 男の子は首を大きく振り、迷子を否定。その動作は非常に微笑ましい。
「これでおかあさんにバラのおはなをプレゼントしたいの」
 男の子は手に握っていた硬貨を手渡してくれた。
「うーん、ごめんね。これだとお買い物はできないの」
「できないの?」
 うっ……純粋無垢なキラキラした目が私の心臓を刺してくる。
 眩しい! 苦しい! 辛い!
 ここ、『花屋Morning Glory』では、バラは一本で百円と相場と相違ない値段で取り扱っている。花束にもなれば値段を相応になるけど、おまとめ値引きもあるので安過ぎず高過ぎずっていう値段設定にしている。
 でも、そういうレベルの問題じゃないのだ。
 男の子が渡してくれた硬貨と思われたものは、ゲームセンターで使うようなメダルなのだから!
「これはお金じゃなくて、ゲームで使うメダルなの」
 ここは正直に。
 甘やかして間違ったことを覚えさせてはいけない。 
 心を鬼にするのだ、若林蛍。
「じゃあ、おかあさんにバラのおはなはプレゼントできない?」
 やめろぉ! その目はお姉さんには眩しすぎる!
 うぅ、仕方ない。
 だって、もう泣きそうな顔してるもん。
 子供泣かせたお店になっちゃうよ?
 一応、先代の顔もあるからそんなことできないんだよ、ちくしょー。
「でも、優しいボクにはお姉さんからバラのプレゼント」
 子供の頭を優しく撫でて、少し待ってもらうようにする。
 簡単な包装でバラを一本だけ男の子に持たせた。ついでにメダルは返した。
「ここを優しく持って帰ってね。気を付けるんだよ」
「おねえさん、ありがとう」
「走っちゃダメだよー」
 聞こえてない。
 まあ、あんな明るい笑顔見せてくれたから、いっか。
 ――そして翌日。事件は起こる。
「すみません。こちらお返しいたします。料金いくらでしょうか?」
「ふぇ?」
 店に凄い勢いで入ってきたと思ったら、またまたいきなりすぎる発言に変な声が出てしまった。
 すぐに気を取り直してお客の前に駆け寄る。
「ほら、あんたも謝りなさい」
 昨日来ていた男の子が手を引っ張られて件の女性の左後ろにいる。
「ぬすんでないもん」
 ついさっきまで泣いていたのか、目の周りが赤く腫れている。声も今にも泣き出しそうなほど震えている。
「とりあえず落ち着いてください」
「本当にうちの子供がとんだご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「ほんとうにぬすんでないの!」
 とうとう男の子も泣き出してしまった。
「あんたもいい加減にしなさい。お店の人に迷惑を掛けて、近所の人にも言いふらして、なんで私があんなこと言われないといけないのよ」
「だからぬすんでないの」
 色々誤解している。だけど、中々どうして切り込めない。
「いい加減泣き止みなさい! 恥ずかしいでしょう!」
 パチン。
 静謐。一瞬だけ、いつもの、普段と変わらない静かな花屋の空気が耳を満たす。
 それも束の間、反して男の子の泣き声が一層強く店内を支配する。
 教育とは言っても、人前でやるか普通?
 私は一定の教育としての暴力はアリだと思ってる。でも、ちょっとこれはない。あくまで最終手段。それも子供が友達に一方的に殴りかかったとかそういうレベルならって話。
 一部しか話は見えてないけど、子供のためというより、母親自身の保身のために振るわれた気がしてならない。
 だから、私も少し強めに言葉が出てくる。
「あのっ! その子は昨日確かにうちに来ていました。そして、私がバラを持たせました。お母さんにプレゼントしたいからって、まだお金のことが分からないみたいで、持ってきたのはゲームのメダルでしたが、それでもそんな優しい子の気持ちを無下にできなかったんです。だから、私が――」
 やばい。声が震えてくる。
「――プレゼントしました。だから、その子は悪くありません。
 他所様の教育に口は挟みたくありませんが、子供の考えも聞かず、信じず、子供が泣いているからと自分の恥ずかしさのために当たる方がよっぽど恥ずかしい行為だと思います」
 やってしまいましたあ!
 もう声と心音リンクしてるのかってくらい声が震えてたし、心臓バクバクになりながら口からペラペラと出てきたけど、途中でやばいって頭の中で警鐘が鳴りまくり。
 でも止められなかった。
 膝が笑うってこういうことかあ……
 うわあ、凄い怒ってる。
「じゃああなたがうちの子に勝手なことを教えたのね? お金も払わず、甘えればどうにでもなるって覚えてしまったらどうしてくれるのよ? お金を払ってない時点で万引きでしょう? 何を偉そうに口を利くかと思ったら、そんなことをうちの子にさせておいて、ふざけないでちょうだい! 子育ての大変さなんて、若いあなたにはわからないでしょう。責任を持って子供を躾けるのが親なの、親でもないあなたが勝手なことをうちの子にしないで。もう二度とこんなところ来ないわ」
 最後のとどめと言わんばかりに、返すと言っていたバラを床に叩きつけた。
 「もういいから、行くよ」と母親は男の子の腕を無理やり引っ張り連れて行ってしまった。
 車の音が遠くに聞こえなくなってから体から力が抜けた。
 その場にへたり込んで、床に落ちたバラを見つめる。
「ごめんね」
 自然と出てきた言葉だ。男の子と床に叩きつけれたバラに向かって、それしか思いつかない。
 止めたくても溢れてくる涙が口に入り、塩気を噛みしめる。
 怖かった。
 私の行動は間違いだったのかな?
 先代なら、どうしたんだろうか……



「とまあ、そんな感じで『うちの子に万引き教えてんじゃねぇ』って怒られまして、うわー世の中理不尽って思うこともあったんですよ。こういう人とは絶対仲良くなれないなってね。今はこう飄々と話せてますけどね、当時はもう怖くて怖くて」
 すべてを話した訳じゃないけど、簡潔に藤田さんに少しばかり思い出話を聞いてもらった。
「その男の子はあれから一度も来てないんですか?」
「ええ、来てませんよ。今は、ギリギリ小学生くらいでしょうねえ」
「そのくらいの歳だと、覚えているかも怪しいですね」
「いいんです、いいんです。もう過ぎたことだから。それよりも――」
 私の名刺を藤田さんに渡す。
「――この前渡した種を育てるにあたって、何かあればこちらに連絡をください。他にも別のお花育てたい、なんて相談でもいいですよ。深夜でも早朝でもいつでもウェルカムです」
「はい。できるだけ自分で頑張ってみますけど、何かあったら遠慮なく頼らせていただきます」
 そうして藤田さんは、お母様へのプレゼントを大事そうに持ち、また店を出て戸を閉めた上で深々と頭を下げて見えなくなった。
「がんばれー、色々と」
 聞こえるはずのない応援を送ってみる。
 さて、残ったハーバリウムを店のどこに置くか悩む作業に没頭してみましょうか。





 あの花屋さん、若林さんはやっぱり変人というイメージが強いけど、どこか歳相応かそれ以上の雰囲気を感じる。
「ダメなところは置いておいて、あんな大人の女性も憧れるなー」
 本当に、あのお店に入った瞬間の反応とか、好きなことを話すとぶっ飛ぶところとか、見習ってはいけないことも多い。だけど、若林さんが駆け出しの頃の話をし終えた後のあの大人の余裕、あの纏う雰囲気には思わず見惚れてしまった。
 よし、自宅に到着。今日こそ一発で駐車場にキレイに車を――
「綺麗に入ったけど斜めだ……」
 喜んだのも束の間、車を降りてみると他のアパート住居者の車に対して、自分の車が明らかに斜めになっている。
「うぅ、まあいっか」
 まだまだペーパー卒業は早いか。
 母へのプレゼントは玄関に一旦置いておく。
「土とかはお店の中から取ってきていたし、これも一旦玄関で」
 肥料も土もまとめて置いておき、支柱は鉢植えを置いてあるベランダへ。
 まだ時間は夕方に差し掛かったほど。
「流石に今から植えるのは種が可哀そう」
 貰ったメモを鞄から取り出し、ベッドに倒れこむ。
 横になりながら事細かに書かれたメモを眺めると、植える時期にも指定があった。
「そうだった、まだ寒いからもう少し後って言ってたっけ」
 メモには五月中旬から下旬くらいと書かれている。ただ、その年によって五月は気温の変動があるので、天気予報次第なのだそうだ。
「そういえば、いつだか異常気象で五月にも雪が降ってしかも積もったってニュースで見たな。車、大丈夫かな」
 他にも植える前の下処理なるものも書かれているが、どうやら貰った種はその必要がないそうだ。
「凄い、本当に細かく書かれてる。今年うまく咲いたら、来年も植えてみようかな、なんて、教員生活も楽じゃないのに、余裕あるかな……」
 ここまで手を尽くしてもらうと、まだ始めてすらいないのに楽しくなってくる。
 来年……まだ一年どころかやっと一か月が過ぎただけというのに、もうそんな先のことを考えて仕事をうまくやっていけるか不安になる。
 明日の昼にはお母さんとお父さんが来る。
 空港に迎えに行くのに、道を調べておかないとな。
 スマホから地図アプリを開き、現在地から旭川空港への道を検索する。
「三十分もかからないくらいかあ、一応道迷っちゃうかもしれないし早めに行こ」
 教員試験や引っ越してきた時にも旭川空港を使ったが、その時は市街行きのバスに乗り、旭川駅からワンマン電車で今住んでいるアパートの最寄り駅まで来た。そこからは地図を頼りに歩いた。
 人生で初めてワンマン電車というものを経験した。私は切符を手渡すだけだったけど、定期券を駅員に見せて降車していく人たちを見て、真似をしようとして止められて恥ずかしかった。
「雪が積もっててキャリーバック抱えながら歩いたっけ」
 雪を想定したような靴を持っていなかったので、靴の中に雪がどんどん入ってきて、足の先が凍えて感覚が無くなるかと思った。
 初雪国の手厚い歓迎を受けたのはいい思い出だ。雪が降っていなかった分まだ優しい方なのだろう。
「まだ一か月、でも、もう一か月かあ」
鎖のように連なり思い出されるのはアパートに入居した後のこと――



 アパートに着くと不動産スタッフの原さんが待っていてくれた。
 明るく柔らかい雰囲気を持つ初老に差し掛かったくらいの男の人だ。
「どうもこんにちは、藤田さん。ああ、その恰好、寒いでしょう。さあ、中へ入ってください。勝手ながら暖房を付けさせていただきました。部屋の中もひどく冷え込んでいたものでね」
 部屋は二階だったので、最後に階段が待ち構えているのは覚悟していたけど杞憂に終わる。
「疲れたでしょう。荷物持ちますよ」
「すみんせん。雪の上で全然キャスターが使えなくて」
 原さんは部屋の前から階段を下りてきて、キャリーバッグを持ってくれた。
 向こうの冬用装備でもなんとかなると思っていたけど、丁度引っ越してくる、この数日にかぎって寒波が来て冷え込んでいたため、短い時間しか外を歩いていないというのにかなり辛かった。
 寒さに雪まで降られてたら、私、その辺で倒れてたんじゃ……
 人間雪だるま?
 やめよ。初日から不吉なことは考えないようにしよう。
 部屋の中に荷物はすでに運びこまれていて、新生活用に買った新しいベッドやその他の家具なども配達されていた。不動産の方には至れり尽くせりで頭が上がらない。
「引っ越し前に荷物届けることになってしまって申し訳ありませんでした」
 素直に頭を下げる。
「いえいえ、なんてことありません。冬に布団が無いと凍えて死んでしまいます」
 笑っているけど、冗談に聞こえない。
 ひきつった笑顔を返して、少し相談を持ち掛ける。
「すみません、車を持たないとと思っているのですが、近くに中古車屋さんってありませんか?」
「確かに車がないと雪国は辛いですからね。ただ実はこの辺り、中古車屋はあんまり無くてですね、たくさんある地域には結構な距離歩かなきゃいけないんですよ」
「どのくらいですか?」
「歩けばですが、二時間かもっと掛かるかもしれませんね。私も乗りなれてないのでわからないんですが、バスもありますから安心してください」
 話しながらスマホでどこに中古車屋があるのか調べてくた。
「ここの道、環状線って呼ばれる大きな道路なんですけどね、この道をずっと行くとツインハープ橋っていう大きな橋があるんですよ。そこを越えたら道沿いにそれなりの数が見えてきます。車でなら大したことない距離ですが、自転車でも結構大変な距離になりますよ、当然歩きはもっと辛いですよ。
 あと、近くにも数件ありますが、中古車ならちゃんと選んだ方がいいですよ。近場の一件だけで決めるんじゃなくて、今はほらネットがあるから――」
 ネットで中古車の情報がまとめられたサイトを教えてもらい、走行距離や車検のタイミングはもとより、傷の状態や同じ車種でも取り扱う店によって金額がかなり上下すること、そして雪の降る地域特有のスタッドレスタイヤについて教えてもらった。
 なんでも、冬用タイヤ込みの値段になっているからお得に感じるが、実際にタイヤを見てみるともう使えないような、擦り減ったタイヤがついてくるだけで、結局新品を買う必要があるので、実質、損をすることがほとんどらしい。
「なんて、偉そうに言ってますがね、私も経験したことなんですよ」
 後頭部をスマホを持つ手とは逆の手で押さえて笑っている。
 私が大学を出たばかりということを知っているので、やはりお金のことを気にして教えてくれた。本当に頭が上がらない。
 その他、不安なこと、わからないことを色々聞いて、原さんは帰っていった。
「ふう、色々聞いたけど半分くらい抜けちゃったかも」
 部屋に一人になって、声が寂しく響く。
 ああ、本当に一人暮らししてくんだ。
 近くを通る車の音が小さく響き、消えては響く、その繰り返しが余計に虚しさを増幅し、これから先を考えるほど虚無に心を飲み込まれそうになる。
 やっていけるかな。ご飯、ちゃんと毎日作らないといけないし、洗濯物だって、あとは買い物もしっかりしないと。
 うぅ、寂しい。家に帰りたい。
 引っ越しの荷物がごちゃごちゃと乱雑した新しい自宅で私は涙を流していた。



「ホームシックになるの早すぎでしょ、初日だよ、初日!」
 初日のその後は、最優先でベッドを組み立て、作業が終わったのも束の間、夕方にも関わらず疲れでそのままぐっすり寝てしまった。
 次の日の朝からも荷物を片付けていき、終われば教えてもらった通りに中古車を調べ気づけば寝ていて、起きてからまた調べ物を再開し、その後に二日間かけて中古車屋巡りをした。
 そして、今乗っている小柄でワインレッドの中古車を見つけた。
 五十万と少々なお値段で高校からバイトでコツコツ貯めていたお金で全額一括支払いにした。
 財布には痛手だったけど、色とかデザインとか気に入ってしまったし、ローン組んで多めに払うことになるよりはいい判断だったと思っている。
 冬用タイヤも次の冬を越せるだろうなって程度のものがセットで、やっぱりいい買い物ができたと思う。
 もしあの助言がなかったら、不動産の人と同じ失敗してたんだろうなと、二日間の辛い中古車屋巡りを思い出して苦笑いする。
 そう、辛かった、本当に辛かった。
 結局どこからどこまでのバスを乗ればいいのかわからず、滅茶苦茶歩いた。
「あの時の私バカか? うんバカだったな」
 もう二度とあんな思いはごめんだと再び胸に刻む。
 というか、タクシー……いや高くつくからやめたってことにしておこう。
 初日に泣いた分、逆にこんなところで折れてたまるかーって立ち直れたのが大きい。その後にその分のエネルギーを歩くだけで使い果たすとは、誰が予想できただろうか。
「未だに偶に帰りたいって思うけど、生徒たちを置き去りになんてできないもん」
 教師を選んで正解だった。これが普通の企業に就職していたら、もれなく毎年話題になる昼休みには姿を消していた新入社員の仲間入りを果たしていたかもしれない。
 逃げるのも手なのは分かるけど、極端すぎて実感が湧かなかったけど、今なら気持ちが分かってしまう。
「うぅ、生徒たちよ、こんな不甲斐ない新米教師を許してくれえ」
 なんか、ダメな方の若林さんの影響出てる?
 気のせいか。
 うん、気のせいだ。
 ぼーっとしていると気づけば五時半を回っていた。
「さて、ご飯作ろっと」
 部屋の電気をつけ、カーテンを閉めて、冷蔵庫の前へ。
 親来るからってちょっと買い過ぎたかな……
 一人暮らしのものとは思えない量の食材が入った冷蔵庫を見て、また苦笑いを浮かべた。



 ふう。と心の中で気合を入れる。
 調べた道を頭に入れ、いざ空港へ。
 道はそんなに難しくない。大きな道路に出たら基本は真っすぐ。あとは、何とかなる!
 ナビがついていないのでスマホをナビ替わりにしているが、ホルダーが無いので音声だけを聞いている状態で運転している。
「スマホホルダー買おうかな。ナビ買ったり付けたりするより安いだろうし」
 運転し始めた時はペーパーな上に未経験の雪道にハンドルを持つ度に体を強張らせていたが、今はもうアスファルトが見えている。
「って言っても油断は禁物って言ってたな、松本先生」
 気を抜いて運転している訳じゃないが、やはり降雪地域ならではの意外な危険があるという。
 それを教えてくれた松本先生は同じ一年生の数学を持っている女性教員だ。歳は女性同士でも言及しちゃいけないけど、まだ倍は違うってほどではないはず。
 雪道が融けてきたら、次は滑り止め用の砂利が危ないのだそうだ。
 車通りが多いところはすぐに回収する車が出て回収してくれるが、そうじゃないところは回収が遅い。
 ほとんどの砂利は風で飛ばされて道路の端に自然と集まっていくが、交差点などは車が通らない中央部に溜まることもあり、山になったそれをカーブしている最中に踏むとハンドルを取られるらしい。
 車で遭遇することは滅多にないらしいけど、自転車を乗っている時は特に注意と言っていた。車輪が細い分、滑ると成す術がないらしい。
 そんなこんなで、法定速度をしっかり守って空港に到着。
 やっぱり要所だからかしっかり案内板があり、迷うのが逆に難しい道だったのですんなりと到着した。
 羽田からの飛行機の到着予定時間まではまだ時間がある。
 試験の時も住む場所を探しに来た時も引っ越しで来た時も、荷物があったからあんまり中を見れてなかったな。
 よし、思い立ったが吉日。
 中のお店を見て回ることにした。
 帰省するのがいつになるのかわからないけど、何をお土産にしようか悩む。
 悩む間も時間を気にして、そろそろというところで展望デッキがある三階へ行く。
 展望デッキには人が大勢いた。
 皆、私みたいに家族のお迎えなのかな。
 特に子供連れが多く、子供たちは皆「飛行機まだー?」と親に言っている。
 親たちは何度もそれを宥めているのか、少し疲れ気味で「もう少しだから待っててね」と言っている。
 そこへついに、飛行機が登場した。
 羽田空港のように大きな空港とは違い、旭川空港は閑散としている。
 何度か訪れた時もそうだったが、一機が飛んできて、そして帰っていく、あるいは帰ってきたのか。
 それ故に、子供たちの目線は飛んできた飛行機に集まっていた。
 飛行機をかっこいいと喜ぶ子供、お兄ちゃんやお姉ちゃんが帰ってきたと喜ぶ子供、はたまた出張に行っていたのかお父さんが帰ってきたと喜ぶ子供、それぞれの期待を一身に受けて飛行機は着陸した。
「ほら、下にお父さんのお迎えに行くよ」
「うん」
 展望デッキにいた親子がぞくぞくと到着ロビーのある一階へと降りていく。
「私も下に行かないと」
 それぞれの喜びに満ちた子供の笑顔を見て自然と自分も笑顔になったのが分かる。
 程なくして、お母さんとお父さんとも合流した。
「久しぶり」
「穂、元気にしてたか?」
「うん、元気。元気過ぎて生徒と一緒に部活やってるくらい」
「卓球だって? あんた運動苦手でしょう」
「苦手だけど、楽しいから頑張れるの」
 お母さんのキャリーバックを半ば強引に手に取った。
「車、向こうなんだ」
 ロビーから外に出て、右の方を指差す。
 混んでいたので、すぐ空き見つけたところに駐車することになった。
 そこが到着ロビーから出て右手奥、出発手続きの窓口や国際線などがある入口側で、到着ロビーから出てすぐの場所も意外と空いているのを見て失敗したな、と内心思った。
「車、高かったでしょ? お金大丈夫かい?」
「うーん、確かに貯金には痛手だったけど、車ないとやっていけないし、値段の割に良い買い物できたと思ってるから平気だよ」
 車に荷物を積み込み、お父さんが助手席に、後部座席にはお母さんが乗った。
「じゃあ、出発するね」
「免許取ってから乗ってなかったのに、大丈夫か?」
「お父さん、心配しすぎ。もう一か月乗ってるし、今日もここまで来てるんだから」
 そりゃあ、まだまだ下手だけど、と小さな声でつけ加えておく。
「凄いわね。五月になってもまだ雪が残っているのね」
「こんなに積もっているを見るのは初めてだ」
「冬になったら一面真っ白だよ。部屋探しに行った時、私も驚いたもん」
 お母さんもお父さんも帰る途中の道端に残った積雪に関心している。
「やっぱり心配だ」
「そうねえ」
「もう、やめてよ。仕事だって始まってるし、今更でしょ」
 プレゼントを渡す前に重たい空気にはなって欲しくない。
 笑顔で、そう笑顔で。
「それよりね――」
 生徒のこと、授業でのこと、部活でのこと、先生同士の他愛もない会話、約一か月間に起きた様々な出来事を話した。
 話が中途半端なところでアパートに到着した。
 もうなんか、疲れてきた。
 来てくれて嬉しかったし、期待していた半面、予想通りの話をされそうになって無理やり自分の話ばかりして、喉が枯れそうになった。
 これでも普段は授業で一時間弱は声を張っているから喉は強い方のはずなのに、緊張で喉がカラカラになっていた。
 なんで親の前なのに緊張しないといけないんだろ。
 音には出さずにため息が零れる。
 まだ日は高いところにある。
 いつもは気がつけば山の向こう側に差し掛かっているのに、今日に限って日の高さが気になって仕方ない。
 部屋はそこまで広くないし、二人寝るスペースどころか、布団もないので夜は街の方にあるホテルに泊まってもらうことになっている。
 どうして早くホテルに帰って欲しいと思ってしまうのだろう。
 せっかく用意したプレゼント、クローゼットの中に隠しておいて正解だったな。
「あら、良い部屋じゃない」
「へー、窓が二重になってるのか」
 部屋を見回して勝手に感想を言い合っている。
 ベッドと本棚と言えるか微妙なカラーボックス二つ、リビングテーブル、学生のころから使っているノートパソコンとそれ用の小さな机と椅子。
 特に飾り気のない、自分で言うのも恥ずかしいけど女性っぽさがない普通の部屋。
「テレビは買わなかったのね」
「うん。置くスペースがないって思ったのと、あんまり見る時間もないし、見ないし、お金もったいないなって思って」
 引っ越しの時にお金は多めに貰った。こっちに来て家電を買うためのお金だけど、必要のないものなら買わずに貯金に回そうと思って必要最低限しか使っていない。
「引っ越す前に渡した分じゃ足りなかったか?」
 話を聞いて欲しい。
「近くに大きな家電屋があるんだろ? ほら車乗ってる時にもちらっと見えた黄色いお店」
「世間じゃ若者のテレビ離れとかなんて言われて、みっともない若者と同じになっちゃだめよ? ニュースだって教師なら見ておかないと駄目でしょ?」
 みっともない、か。
 若者のテレビ離れとはよく言うが、離れて当然に思っている。もちろんバラエティー番組やドラマとテレビがなければ見れないものも多いが、スマホの普及やインターネットの発達でその絶対性が薄れている。
 ニュースはネットで見るにが学生の頃からの癖だ。通学時間を有効活用していたが、今は教員になって通勤が車になり、朝ご飯を食べている時や学校に行ってから午前の授業の準備をしている時など片手間で見るようになった。
 と心で言葉を並べるけど、それら全てを両親に言う勇気はない。
「うん。でも今はスマホで調べていつでも見られるからさ、大丈夫なの」
 今の私は笑顔でいるだろうか?
 やっと、二人とも腰を落ち着けてくれた。
「緑茶でいい?」
「おお、ありがとう」
 冷蔵庫から二リットル入りのペットボトルを出し、百均で買っておいたガラスのコップに注いでいく。
「もう向こうは暑いの?」
「今年は蒸し暑いわ。一週間前から弱いけど雨がずっと降ってるのよ」
「気温はそこまで高くないんだがなあ。ずっと雨が降ってる割に偶に顔を出す太陽のせいでな、仕事帰りにはシャツが汗で濡れちまう」
「そうなんだ。はい、お茶。こっちはね、やっと暖かくなってきたかなってところ。四月の頭は私には寒すぎたよ」
「静岡と天候が違いすぎて体壊さんか心配だよ、お母さんは」
「大丈夫だって。夏はそこまで気温上がらないはずだし、冬だって車あるから外にいる時間短いもん。ほら、ちゃんとエアコンだってあるんだから」
 この話題でもダメかあ。
 いつも家族でいた時、どんな話をしていたんだっけ。
 こんなに何を言っても心配だ、心配だって言う親じゃなかったはずなのに。
 心配してくれる気持ちは嬉しいけど、どんな話題でも私のことが心配だってことに行きついて、怖くなってくる。
 いつか無理やりにでも私を家に戻そうとするんじゃないかって。
 もう私は子供じゃない。
 成人もしているし、やっと夢だった学校の先生にだってなった。
 私だってこれから本当にやっていけるか心配していないわけじゃない。
 むしろ、お母さんとお父さん以上に、実際にここに生活していくんだって肌で感じて押し潰れそうになっていた。
 でも始まってみれば、まだ全員と馴染めているわけじゃないけど、頼りになる先輩教員方がいるし、生徒たちのエネルギーは何より支えになる。
 遠く離れていたって大学時代の友達だっている。
 当然、そんな私の心の内を知る訳もなく――
「夜は出歩くなよ」
 元々夜遊びに出歩くことなんて無かったの知ってるでしょ?
「鍵は寝る前にちゃんと確認しなさい」
 今まで家の鍵失くしたことも掛け忘れて出かけたこともなかったでしょ?
「職場の人に酷いことされたら相談しなさいね」
 なんで酷いことされる前提なの?
「コンビニ弁当ばかり食べたらダメだからね」
 空港からの帰り道に自炊のこと話したばかりでしょ?
「お金が足りなくなったらいつでも相談しなさい」
 車の免許ですら頼らなかったのに、高校のころからコツコツと貯金してるの知ってるでしょ?
 そして最後には「無理だと思ったらすぐにうちに帰ってこい」
 だから……
「もうっ――」
 そこで止まった。
 止めた。
「――そろそろ夕飯の支度するね」
「あらそういえば、穂のご飯ってあんまり食べたことないわね」
「楽しみだな」
 私は台所の方に移動し、夕飯の準備を始める。
 いつも一人の時より全然早いけど、夜には二人をホテルまで送り届けなければならないので少し早めの夕飯にする。
 鍋が楽かなと考えていたけど、もう暖かくなっているのでやめた。
 コンロが二つあるので、片方で味噌汁を作り、片方で旬じゃないけど鮭を焼いていく。
 フライパンでもしっかり焼けるんだと一人暮らしを始めてから知った。
 魚=グリルで焼くっていう先入観があったのは間違いない。
 元々、実家でも一人で昼を過ごす時は簡単なものだけど自分で作っていたけど、所詮は簡単なチャーハンやインスタントラーメン。
 でも一か月も自炊を継続していると結構慣れてくる。
 まだキャベツの千切りとか難しいことはできないけどね。
 キャベツの千切りはスーパーの加工済みの袋に頼ってるし。コンビニでも売っているので、何かと重宝している。
 いつもなら魚と野菜と味噌汁で終わるけど、味噌汁は早々に引き上げて卵焼き用のフライパンを取り出す。
 五回に一回くらいはスクランブルしちゃうけど、週二で練習して、うまく巻けるようになってきた。
 牛乳と同じく、卵パックって一人暮らしだと使いきるのが難しい。六個パックもあるけど、単価が高くなるのが気になって、ついつい十個入りを買ってしまう。
 それこそ毎日卵を使わないと消費できない。
 同じ悩みを抱えた新社会人が世の中に溢れていることを願ってしまう。
 最近は学習して寝る前にゆで卵にして殻も取り除いておき、あとは朝食べるだけっていうこともしている。
 あれこれ考えながらも、料理に集中している間にはい、完成!
 忘れず、またまた百均で買ってきた茶碗にご飯も盛り付けておく。
「はい。できたよ」
「あら、おいしそう」
 私が料理している間は明日観光に行く予定の富良野方面のことをスマホで調べていたみたいだ。
 台所で料理に集中していたおかげで、お母さんともお父さんとも話すことも顔を見ることもなく、ちょっと気分が晴れたのは皮肉な話だと思う。
 当たり前だけどいつもよりもリビングテーブルの上が混雑している。
 手を合わせて夕飯を食べ始める。
 まだ日が落ちきっていない時間に夕飯を食べるのは久しぶりな気がする。
 こっち来てからもしかして初めてかもしれない。
 山に囲まれているのもあって、日が落ちるのが早いのもあるだろうけどね。
「知らないうちに料理までできるようになって、凄いわねえ」
「さっきも言ったけど、これでもほぼ毎日自炊してるんだよ?」
「これならどこのお嫁さんになっても心配いらないわね」
「もうやめてよ。まだそんなの考える余裕ないから」
 はあ。
 心の中でため息が出る。
「変な男じゃないなら、お父さんは許せるからな」
「そろそろ、私の職場の周りも孫ができたって話になるのよねえ」
「今は生活に慣れるのに精いっぱいだよ」
「遠くに引っ越してきたからには出会いも難しいだろうなあ」
「そうねえ。学校の先生に若い人はいないの?」
 親孝行を考えるなら、孫の顔を早く見せてあげるのが良いんだろうけど、それはあくまでも親目線の親孝行であって、私が望むものじゃない。
 結婚願望がない訳じゃないし、あんまりのんびりしているとあっという間に時間はすぎるとは思っている。
 とはいえ、強要とまではいかなくても、こうも露骨に話しをされると嫌気がさしてくる。
 もう疲れた。
 あとは、笑顔で、誤魔化して、凌ごう。
 一人暮らしが始まって以来、作ってきた食事の中でダントツで一番おいしいと感じない食事の時間だった。
 食事も終え、お父さんもお母さんも、テレビも何もないから暇なのか珍しくスマホでニュースを見ている。
「片付け終わったし、もう暗くなってきてるし、ホテルまで送るよ。飛行機、疲れたでしょ?」
 泊まるビジネスホテルまで少々道が混みあっている。
 頭を空っぽにして、話を繋ぎ、やっとホテルに到着する。
「じゃあ、また明日。九時頃に迎えにくるね」
「ありがとうね」
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
 両親をホテルに送り届けて帰宅する。
 途中、大きな本屋があるのでノートや筆記用具の買い足しをしようとも考えたが、そんな気力もなく、横を通るだけで真っすぐ帰宅することにした。
 楽しみにしていたはずなのにな……


 ――次の日、穂は予定通り両親をホテルまで迎えにいき、そのまま富良野方面にある観光地各所を訪れた。要らぬ心労が溜まったのは言うまでもない。


 短い連休が終わった。
 せっかくの休みだったのに、全然休まらなかったな。
 むしろ疲れたくらい。
 結局、ハーバリウムも渡せなかった。
 あれだけ相談して、作ってもらったハーバリウムなのに……若林さんに申し訳ないな。
 次の土日に謝りに行こうかな。
 またレジに突っ伏してそう。
 クスリと笑ってしまう。
「なんだか楽しそうね、藤田先生」
「顔に出ちゃってましたか、恥ずかしい」
 松本先生に急に声を掛けられて、恥ずかしさと戸惑いの二重の意味で顔が真っ赤になる。
 二人とも授業が入っていない時間で、次の授業の準備や部活関係、その他雑務をのんびりやっている。のんびりなのは私だけではなく、閑散とした職員室に残る先生方も同じだ。連休明けなので生徒も先生もまだまだ休み気分が抜けきっていないのだ。
「GWの楽しかったことでも思い出してたの?」
「実はGWはあんまり楽しめなかったんです。その前に行った花屋の店員さんが面白い人で、ちょっと思い出し笑いです」
「花ねえ。可愛い趣味持ってるじゃない、うらやましいわ」
「いや、趣味って訳じゃないです。たまたまです。たまたまアパートの周りとか学校の周りの道を覚えるためにドライブしていたら、見つけて寄っただけです」
「ふーん。たまたま、ね」
「なんですか?」
「ずばり、彼氏できた? いやまだ早いかな?」
「違いますよ! どっちにしても失礼ですよ、松本先生」
 彼氏いるかなんてストレートに聞いてくるのもそうだし、まだ早いって確かに否定できないけど、そうじゃない。
「ごめんごめん。藤田先生、最初は一日中肩に力が入ってたのに、もう柔らかくなっちゃって、先輩として微笑ましい限り。だからちょっといじめちゃった」
「うぅ、ばれてましたか」
「皆そういうもんだよ。私も最初は緊張してたもん。教壇に初めてちゃんと立った時なんて声震えちゃってたんだから」
 "ちゃんと"というのは、教育実習の時ではなく、正規の教員として立った時という意味だろう。
「この子たちが数学分からなくなったら私の教え方が悪いんだって考えるともう肩に力が入って、毎日帰ったらすぐ寝落ちしてたくらい」
「へー、松本先生にもそういう時があったんですね」
「そ、あったの。でも今はそこまで重くは考えてないのよ。教師として失格かもしれないけどね。ほら、塾通うって子も増えてるし、世の中数学だけじゃない、得意なことを見つける一助になればいいかなって。そうしたら自然と肩の力も重みも抜けたの。繰り返すけど、あんまり教師としては良い例じゃないから鵜呑みはやめてね」
「勉強になります。私も自分なりの信念みたいなの早く見つけたいです」
「悩めるのも若者の特権よ。私もまだまだ若いけど」
 若い、その言葉を強調した松本先生は自分の席に戻っていった。





 本日もお客が来る気配なし。
 顧客ともアポはなし。
 暇だあ。
「暇暇暇暇暇暇暇……」
 と呪詛のように作業机に吐き出しても時計の針は進んでくれない。
 ましてお客が来てくれるなんてことはない。
「仕事サボってんじゃねえよ、蛍」
 声がしたので反射的に突っ伏していた顔を上げる。
 営業スマイルを一瞬で作るのも忘れない。
「いらっしゃいませ。どういったお花をお探しでしょうか?」
 うん?
 今後ろから声がしたような?
 しかも私の名前も呼び捨てで呼ばれたような?
 妙に聞き慣れた老け込んだ低い声だったような?
「こっちだよ、バカ野郎」
「ったい。なーんだ先代かー」
 頭に軽いチョップを喰らい、後ろを向くと白髪オールバックなおっさんが居た。
 一瞬だけ浮かれた気持ちが急降下し、それを表すように頭も机に吸い込まれる。
「なんだってなんだ。ったく折角顔出してやったのに」
「お客以外は店から出てった出てった」
「俺の店だ」
「今は私の店ですー」
「言うようになったじゃねえか」
「それとも隠居やめる気になりましたかー?」
「隠居じゃねえって何回言ったら分かるんだよ、お前は」
 このジジイの言い分によれば隠居ではないらしい。
 ここ、『花屋Morning Glory』の裏口から繋がる異世界の植物、宝石の花。その研究をしているらしい。
 自己申告なので本当にしているのかは知らない。
 けど、たまに種を持って帰ってくるので、一応活動はしているんだろうね、信用ないけど。
 こんな非現実的なこと信じろってのは難しい。
 でも実際に裏口はこの地球とは別の世界に繋がっている。
 漫画やラノベじゃあるまいし、何も知らない人に言ったって鼻で笑われて話にもならない。
 一応、元々は普通の金属のなんの変哲もないよくある裏口だった。
 私が先代と関わるようになるもっと前、私がまだ小さな子供だった時かあるいはそれよりも前か、店の裏にアパートが建てられた。
 別に空き地だったからアパートが建てられることは何も問題じゃない。
 裏だから花の日当たりとか気にする必要もないからね。
 でもどこで何を間違えたのか、建物と建物の間に人が通れる隙間すらなくなってしまった。
 アパートの屋根の傾き的にこっちに雪が落ちてくることはないけど、雪国では本当に洒落にならない建築だよ、これ。
 で、しばらくは裏口を使ってなかったらしい。
 内開きだから使えないことはないけど、人が通れなければ意味がないので使う必要もない。
 換気くらい?
 なら入口を開けてる。
 じゃあいつから異世界なんてものと繋がるようになったのかっていうと、いつからかは忘れたらしいけど、向こうの人が間違えてドアを開けたのが最初。
 不思議なことばかりだけど、このドアが一番の曲者かもしれない。
 こちら側から向こうに行くには、店の中からドアを開けないと異世界には繋がらないし、開ければ当然店の外からもドアが開いているように見える。
 でも、店の中から異世界に一歩でも踏み出すと突然消えたように見える。
 そんで、冬でも雪がなだれ込んでくることもない。
 ふっしぎー。
 非科学的?
 それを私に言われても困る。
 っと、そんなこんなで最初は言葉とか全然わからなかったらしいけど、世の中、こういう変なつながりがある場所がいくつかあるらしい。互いに他言無用で不干渉だから、どこに繋がる場所があるかは知らないけどね。
 で、日本語が分かる人を紹介してもらって向こうの言葉もわかるように。
 と、大雑把なことしか先代から聞いてないけど、ラノベの転生した主人公よろしく自動翻訳とか向こうも日本語とかそういうご都合主義なことはなかったらしい。
 まあ現実ってそんなもんだよね、非現実的なことだけど。
 ちなみに私はラノベで異世界云々が流行るより前にこのお店で異世界って存在を知った。
 他にも、うちみたいに同じ場所かは別として異世界と繋がっているってのはあながち嘘じゃないんだろうって、偶に有名な作品を読んでいて思うところがある。
「で、隠居から抜け出して今日はどうしたんすかあ?」
 机に声が当たり、小さな声でも響くように店の中に広がる。
「新しい種だ。というか球根だ。チューリップのな」
 顔を上げて布袋に入れられたそれを受け取る。
「ほんとだ。花の方も見てみたかったなあ」
「綺麗だったぞ。宝石の名前までは専門外でわからなかったが、オレンジ色で透明ではなかったな」
「へー、宝石質じゃないのも珍し……くもないか」
 渡すなり帰るそぶりを見せる先代ジジイ。
 そこへ入口の引き戸が開く音がする。
「む、お客か。姿を見られるわけにもいかんしな。じゃあ、そろそろ帰るよ。息災のようで何よりだ」
 さっさと帰れって意味で後ろを向かずに椅子に座ったまま腰の高さあたりで前後に手を振る。
「普通に起きてる……」
「普段仕事サボって寝てるみたいな言い方はお客と言えど失礼だと思いますよー」
「ていうか今、後ろに誰かいました?」
「気のせいじゃないですか? それとも藤田さんはそういうの見える人でしたか?」
 店に入ってきたのは藤田穂さん。
 今年から静岡から遥々北の大地に引っ越してきた、ひよっこ先生でGWに両親が来るから花をプレゼントしたい、と少し前に新商品のハーバリウムを購入していったお客様だね。
 怠けて考えるだけに留めていた販売用ハーバリウムを作るきっかけをくれた大切なお客様でもある。
 さらに、結構大きな不安を抱えているようなので、宝石の花の種を持たせて育てさせようとしているお客でもある。
 はて、連休明けで種を植えるには早い時期なのはメモにも書いておいたと思うけど、なんの要件かな?
「はてさて、どうされましたか?」
「えっと、せっかく作ってくれたハーバリウムなんですけど、渡せませんでした」
 ごめんなさいと頭も下げられた。
 この子、さては根っからの真面目ちゃんだな。
「別に謝る必要なんてないですよ。あれはあなたが注文して、あなたが購入したものです。そのあとどうしようと私に謝る必要はないですよ」
 まあ、親子関係でなにかあったみたいなのは明白だし、言及はしないでおこう。
「渡すつもりだったんですけど、結局、親の気持ちというか、心配ばかりされて、でもいい加減、私も大人だからそんなことないって大丈夫って言っても心配されて、挙句、話が飛んで孫とかそんな話になって、気分が曇ったままじゃ渡せないなーって思ってたら、もう帰ってしまって」
 私はこの子の相談役か?
 まあ嫌いじゃないし、見捨てておけないって思ったから種を渡したから別にいいけども。
 そういうの話す相手をちゃんと考えないと交友関係崩れるぞー。
 って、こっちに友達一人もいない私が言えることじゃないか。
「ハーバリウムは前も言いましたが、本来は植物標本のことです。つまり、生花と違って長持ちするんですよ。特に水を上げる必要だってないですしね」
 まあ一年後に同じものを渡そうとするなら流石に止めるけど。
「自分が本当に渡したいって思える時まで待ってから渡すのでもいいんじゃないですか? "母の日"だからっていう義務感で渡すんじゃなくて」
 花を渡すのにそんな~の日だからって義務感のある理由はいらない。
 日ごろの感謝、その気持ちさえ籠っていれば、それを花が代弁して生活を彩ってくれる。
 私の個人的な方針で、うちにはそういう母の日セールみたいなのはない。
 なくした。
 もちろん、藤田さんのようなお客は必ずいるので邪見に扱うようなこともしない。
「はい。そうします。あと、別のハーバリウム買ってもいいですか?」
「どうぞ大歓迎です。残り二本しかありませんが」
 藤田さんは紫のスイートピーと薄く青で演出したものを手に取った。
「お願いします」
「二千五百円になります」
「やっぱりかなりおまけしていただいていたんですね」
「気にしないでください。それよりもアサガオの方、よろしく頼みますね」
「もちろんです。天気予報を見る限り来週には植えてもいいと思うんですけど、大丈夫ですよね?」
「ええ、いいと思いますけどもう一週様子見た方が確実かもしれませんね」
 流れで育てることになっていることに何も疑問を持っていないけど、この子、本当に大丈夫か?
 お姉さん心配になってきた。
 簡単なラッピングを済ませて代金と交換する。
「ちょうどいただきました」
「ありがとうございました!」
 藤田さんは相変わらず店を出てからも丁寧にお辞儀をして帰っていった。
「親で悩めるなんて、うらやましいねえ」
 机に肘をつきながら店内の花々をぼーっと眺めながら呟く。
「それにしても、悩めるのは若者の特権かねー」
 日ごろから花たちのことで悩んでいる私も若いということだね、うん。


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