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パン屋をさせてあげる
しおりを挟む次の日、ドロシーは熱を出した。
守るんだと決意してもどうしようもなかった。鞭で痛めつけられた箇所が膿んで、薬を塗っても動けないほどだった。
時間がないのに!
床の上に敷いた毛布に包まりながら歯噛みする。
次の日、重たい体を起き上がらせると、汗をかいてぐっしょり濡れた服を洗濯してパン屋に向かった。
……また、パン屋を辞めさせられるだろうか?
いや、それでも構わないと思った。オズを守ろうというときに働いている場合ではない。
だって、オズが王都を目指して旅立つのは明日だ。
つまり、オズが死ぬのは明日だった。日が出る前。暗闇のなか。
そんなこと、絶対にさせない!
けれど、義理がある。いくらドロシーを簡単にクビにしたパン屋であっても、一日何の連絡もなく休むべきではなかった。
オズに言付けでも頼んでいたら良かった……。
そうすれば少なくとも無断で休むなんてことにはならなかった。
そう思いながら、パン屋へ向かう。
鶏の鳴き声よりもパン屋は早起きだ。だからドロシーもとても早く働く。
まだ薄暗いなかを歩く。町中は空気が重く、底が冷えるようだった。
水仕事で悴んだ手を揉む。今日は朝の用意をせずにきてしまった。
スープも作っていない。
子供達に怒られるだろうか?
「ドロシー」
歓喜に満ちた声が耳に届き、ドロシーは振り返る。
別次元の美しさを持つ男だと、ドロシーは再び思った。空も海も惚れるような圧倒的な輝きを放っている。
杖を持った彼はゆっくりと近付いてきた。
尻餅をつかせたのが嘘のようにドロシーの体は動かなかった。
「ようやく会えた。孤児院に行ったが会わせてはもらえなくてね。……パン屋の仕事をしているんだって? なんて働き者なんだろう」
「……」
ドロシーは動揺してギョロギョロと辺りを見渡した。
ジルときちんと話すのはドロシーにとっては初めてではない。
だが、ジルにとっては初めてのはずだ。
ジルはドロシーが殺される前――オズの手紙をびりびり破いた時に奇妙なことを口にしていた。
ドロシーを聖女だの何だのと。
人違いだろうとドロシーは思った。そんな立派な人なわけがない。だって、ただの孤児。捨て子だ。
――けれど、私は死んだはずなのに、生きている。
これは神の御業なのではないか。
聖職者が嬉々としてが語る奇跡なのでは。
聖女とは、そういうことを言っているのではないか。
「ど、どうして私の名前を知っているんですか」
問いかけると、甘く蕩けるような瞳で見つめられる。
「君を知っているからだよ、ドロシー。俺は君をずっと探していたんだ」
「わ、私の家族を知っているんですか? 捨てた親を知っている?」
「違うよ。俺が知っているのは君だ」
「お会いしたことは、なかったはずです」
一瞬、青い瞳が剣呑に輝いた。太陽が顔を出し、溶けた金のような美しい髪が風に揺らぐ。
唇が、いびつに歪んだ。ジルは凄絶に笑っていた。
「そうかな? 俺は、君に会ったことがある。魔王を倒して、歓喜の祝福に浴した日のことを忘れられない」
「魔王を倒した?」
孤児院のステンドグラスや彫刻で描かれた物語。
聖女達が邪悪なる魔王を倒してこの世界に平和をもたらした。そんな荒唐無稽な話を、このジルは言っているのだろうか。
「君は農地に戻り田畑を耕さなくてはならないと言っていた。いつだって君の手は働き者の手だ。爪の隙間に詰まった砂も、少し節の曲がった指も、摩耗して荒れた肌も、何も変わらない」
ジルは急にドロシーの手を掴んだ。ベルベットの手袋はつるりとしていて、自分の手との違いに息を呑む。
愛おしそうに撫でられた手はジルのいう通り荒れてささくれ立っていた。水仕事に雑草取りで曲がり、荒れて、針を刺して硬くなった皮膚。そういう労働の手の跡だからだ。
急に顔が燃えているように熱くなる。
ジルはドロシーを褒めているつもりなのだろう。
……けれど。
「農地なんて、持っているわけない。孤児は、畑なんて持てないんです」
惨めな気持ちがこの男にはわからないのだ。
親に捨てられて、何も持たないドロシーの気持ちなんか、分からない。
孤児院の畑だって、ドロシーのものじゃない。
ドロシーが耕したのに、院長のものになっていた。
当たり前のような顔をして、貴族達に紹介していた。
我々が育てた野菜です。よく面倒を見ているので美味しいですよ。
一度だって、食べたことはないのに。
荒れた手を勲章だと思うのは、何も知らない人だけだ。
ドロシーは綺麗な手でいたかった。つるりとしたジルの手袋のように。
「そんなことない」
苛立ちをぶつけたドロシーに、貴族の男は微笑んだ。
毒気が抜けるような優しい声に驚く。
「俺がいる」
「どういう意味……ですか?」
「まずは、見せてあげよう。君にあげたいものがあるんだ」
ジルが手を引いた。力が強くて振り解けない。
方向はーーパン屋に向かっていた。
煙突からもくもくと煙があがっている。
もうとっくにパンを焼き始めているみたいだった。
あたりには甘くて香ばしい嗅いだことのない、いい匂いが広がっていた。
正面の扉の前には、見たこともない上等な服を着た紳士が待っている。
彼は懐から懐中時計を取り出すと、がちりと開いて時間を確認した。
ジルが親しげに声をかける。
「イヴ。準備はいい?」
「ジル様、まだ焼きたてのクロワッサンしかご用意出来ていません」
「冷ませばいい。俺がふーふーしてドロシーに食べさせてあげる」
「……そちらの方が?」
青い瞳と茶色の髪がオレンジのランタンの光に照らされていた。
彼は私を認めると胸に時計を仕舞い込んで優雅に頭を下げた。
「初めまして、ドロシー様。ジル様の従僕であるイヴ・ノイシュバーンと申します。どうぞ、お見知りおきを」
「は、はあ……」
ドロシーはこんな高貴そうな人に様付けで呼ばれたことなんて一度もなかった。
若く、美しい男だった。ジルとは違う硬質な美しさがある。
けれどところどころジルとよく似た、つんとした凛々しさがあった。血を分けた兄弟だろうかと一瞬思ったが、目の色はともかく髪の毛の色が違いすぎる。従兄弟や親戚なのかもしれない。
「ドロシーの下僕だ。好きに使って。……さあて、お腹が空いただろう? 早く入ろう」
そう言って、ジルは扉をイヴに開けさせた。
からんころんとベルが鳴る。
店の中にはいい匂いが漂っていて、ぐうとお腹が鳴った。
働いてきた中で一番食欲がそそられる匂いだった。
籠の中に入れられたパンからは湯気がたちのぼっている。
焦げ目が小麦色に綺麗についていてとても美味しそうなクロワッサンだ。ふんわり膨らんでいて、とても大きい。
「小さい店だ。ドロシーのものになったんだから、もうすこし大きくしたいな」
「ジル様、気が早いです」
「わ、私のもの?」
何を言っているのかわからず首を傾げる。
ドロシーのものなんて、この店には何にもないのに。
服や髪を縛る紐だって、貸し出されたもので一つだってドロシーのものにならなかった。
おばさんは肉屋のおじさんと浮気しているのがバレるまで、ドロシーに冷淡だった。殆ど、泥棒と同じような扱いだった。だから、貸与されたものに名前もない。
「そうだよ。この店はドロシーの店になったんだ。このパン屋は君がオーナーだよ。材料も、窯もいいものを準備したんだ。元々のはボロでどうしようもなかったからね」
「……?」
何を言っているのか分からずドロシーはジルから視線を外した。
「あ、れ?」
いつものパン屋のおばさんもおじさんもいない。
本当ならば無断で休んだからと箒で追い払われ、頭を何度も叩かれたはずだ。
役立たずと罵られて、ゴミ溜めに帰りなと唾を飛ばすはずなのに。
「どうかした? ああ、ここに住んでたパン屋達のことが心配なの?」
「ど、どこにいったんですか? 女将さんも、ご主人もいない」
「ドロシーは知らない? 昨日は大立ち回りだったんだよ。女将の肉屋の亭主との浮気がバレたんだ。やはり何事も一途でないと。俺のように」
「浮気が、バレた」
「そう! パン屋の旦那が女将も肉屋も殺してしまったんだ。警吏がやってきて、牢に繋いでいるけれどおそらく刑は両手の切断になるだろうね」
ドロシーはどくりと心臓が跳ねた。
人を殺したものに与えられる罰はとても特殊だ。
昔々、魔王を倒した一人の錬金術師様が決めたとされる法では、罪を行った箇所をなくすという刑が執行される。
簡単にいうとーー悪いことをした箇所をなくすのだ。
人を手で殺したものは手を落とされる。
人を足で殺したものは足を切り落とされる。
人を言葉で惑わせたものは舌を引っこ抜く。
殺人は罪だが、殺しはしない。慈悲でも、優しさでもない。
どこかに欠損のあるものはつまり、罪人なのだ。何をしても許される存在になるということだ。
――殺人でどこかを失わずに済むのは、魔女や魔法使いを殺したときだけ。
「パン屋も廃業かと言われていたから、パン屋に土地を貸していた時計屋から買い取ったんだ」
「……何のために?」
貴族様がパン屋を開く意味なんてない。
ドロシーは急に怖くなった。ジルの行動の理由が分からない。
「君のために」
陶酔したような声でジルはドロシーを見た。
「ドロシー、君にパン屋をさせてあげる。俺が君に仕事も、お金も、ーー土地もあげるよ」
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