前世は聖女だったらしいのですが、全く覚えていません

夏目

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六色貴族

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「どうだろう? 気に入ってくれた? パン屋なんて初めて興味を向けたものだから、まだあまり詳しくはないんだ。付け焼き刃の知識で窯と材料にこだわった。粉の挽き方でも、美味しさが全く違うんだって。ドロシーは知っていた?」

「ま、待って。私にパン屋をさせる? な、なんでですか?」

「何故って……。求婚? 貴族の男は愛人にこうやって物を貢いで愛を乞うと聞いたものだから」

「……あ、あい?」

 かあーと頭が沸騰したように熱くなる。
 愛人。それがどんなものかはよく知らないが、淫らで厭わしいものだということは知っている。
 いつかドロシーは肉屋の旦那さんに誘われた。愛人にならないか?
 肉を分けてやる。孤児院の子供達が一生働いても食えないもんだぞ。

 げらげら笑っていたその声を、しっかり覚えている。

「王都からパン屋を三人連れてきた。早馬で飛ばせば何とかなるものだ。ドロシーも後で体験してみる? 錬金術師達が作った飛翔馬。空を飛び、鳥よりも早い」

「ジル様、飛翔馬の話は内密ということではありませんでしたか」

「そうだった。でも、ドロシーであれば問題はない」

 ドロシーは頭が痛くてどうにかなりそうだ。ジルが名前を呼ぶたびに、自分ではない誰かに話しかけているよう。

 ドロシーは一つ一つ、意味の分からないことを解きほぐそうとした。
 なにせ、何も分からない。ドロシーはジルがいきなりパン屋をくれるということも意味不明だ。
 欲しいとも言っていないのに、パン屋にならせてくれるという。
 ジルにそんなことをされる謂われはないのに。

「……私は貴方の愛人じゃありません」

「そ、そうだったのですか!?」

 激しく反応したのはイヴだった。彼は口を大きく開いて、ドロシーとジルを交互に見遣った。

「ドロシーが愛人なわけないだろう。彼女は……聖女だ」

「せっ、聖女!?」

 ひっくり返ってもおかしくないほど、イヴは仰け反った。

「比喩や誇張ではなく、ジル様はドロシー様を聖女として掲げるつもりなのですか!?」

「そうだけど」

 ありえない! と頭をガシガシ掻きながら、イヴはジルに詰め寄った。

「貴方がおかしくなってから約十年、お家のためと思っていましたが、信じられない! こんな見るからに薄汚い孤児を聖女に見立てるだって? どれだけ聖女伝説を厭えばこんな悍ましい考えが出てくるんです? これなら、白辺境伯のように誰も聖女を立てない方がマシです」

「マシ?」

 ジルは片眉をあげて問いかけた。

「マシって、どういう意味だろう。お前はドロシーが聖女に相応しくないとでも言いたいのか」

「言いたくはありませんがその通りです。愛人として愛でるのはいいでしょう。パン屋のマダムにでもしてやればいい。でも、聖女は違います。言っている意味、分かりますよね?」

「分からないな。イヴ、ドロシー以上に聖女を名乗れる子はいないよ。彼女は正真正銘の聖女なのだから」

「狂ってやがるのか? この薄汚い孤児のどこが聖女だと?」

 ダンと、低い振動が走り、ドロシーは目を瞑った。
 音に怯えながらゆっくりと目を開けると、ジルがイヴを片手で壁に叩きつけていた。
 バタバタとイヴの足がもがく。

「イヴ。麗しの義兄弟殿。俺達竜の一族は強靭な肉体と人並外れた力を持つと知っているだろうに、どうして挑発するようなことを繰り返すんだろうか」

「……ハッ、馬鹿力、め」

 指が食い込むように腕を握り抵抗されているのに、ジルは顔色ひとつ変えなかった。ドンと再び壁に押し付けられたイヴは小さな苦悶の声をあげる。

「ドロシーを気に入らない? だから、どうだと。青伯爵と呼ばれているのは俺だ。俺の意見が家の総意であり、意思だ。従者風情がこれ以上意見すると、鞭打ちだけではすまない」

「やれ、るもんなら、やっ……てみやがれ」

「分からない男だな」

 ジルの腕の血管が浮き出ていく。首を掴む力を強くしたのか、イヴは口の端に泡を出して気絶した。

「…………ッ」

 ジルはゆっくりと自分の義兄弟だと言っていた男を下ろすと、床に放り投げた。

「ドロシー、身内の争いを見せて申し訳ない。イヴは少しばかり一門のことに熱心でね。君は少しだって気にする必要はない」

「わ、私は……」

 何一つ分からないまま、この場にいる人間が一人、目の前の男に気絶させられた。
 男を軽々と宙に浮かせるほどの怪力を持つ男しかドロシーの近くにはいない。
 彼は蕩けるような笑みを向けているが、恐怖しかなかった。

「……わ、私、聖女というものにならなくてはならないのですか」

 少なくともこの目の前の男はドロシーを聖女にしたいらしい。

「……? 君は聖女だろう?」

「ち、違います」

「違わない。君は聖女だ。そうだ、パン屋は気に入ってくれた? パンを食べてみない? 王都で一番のパン屋の味だ。気に入ってくれると嬉しいんだが」

「……貴方は、おかしい」

 話が全く通じない。狂っているのではないかとさえ思う。
 椅子をひいて、ジルに無理やり座らせられる。パンを作っている職人達は決してこちらと目があわないようにしていた。

 手に持たせられたパンはまだ熱い。

「食べてみてくれ。君に一番に食べて欲しかったんだ。そうだ、権利書の話もしないと。……聖女の話もした方がいいだろうか。王都に行けば君が聖女であることなんて誰もが分かるだろうけれど、ドロシーが混乱しないようにね」

 ジルはドロシーの前に座り、籠からパンを取り出し自分の口の近くに持って行った。食べることはせず、ただドロシーが食べるのをじっと待っているようだった。
 ドロシーは苦悩した。そういえば、昨日は一日中熱にうなされて何も食べていない。

 ……お腹が減っていた。

 オズのことを思えばお腹なんて減らないはずなのに。ドロシーは薄情にも目の前のパンがたまらなく美味しそうに見えた。

 何度か逡巡をしてーードロシーはええいと決心をつけた。
 お腹が空いて力も出なければ夜にオズの力になれないかもしれない。
 手に持ったパンを口に運ぶ。
 さくりと、小気味いい音を立て口の中に甘さと香りが広がる。
 舌触りは軽やか。美味しくて、顔が勝手ににやけた。

 なんて、美味しいんだろう。バターの香りが鼻の中に広がっている。一口食べるともう一口欲しくなり、夢中で食べてしまう。

 王都で一番なんかじゃない。この国で一番だ。だって、ドロシーが食べてきたもののなかでこれが一番美味しい。
 なんでこんなにサクサクして食感がいいんだろう。

「美味しい?」

 ジルは嬉しそうに問いかけた。こくこくと頷く。
 悔しいけれど、こんなものを食べたら、もう二度と他のパンを食べたくなくなる。

「ドロシーに食べて欲しかったんだ。喜んでくれて良かった」

 にこりと微笑むジルは美しく、見惚れてはいけないのにぽおっと眺めてしまった。
 ドロシーが本当に産まれてきてから見たこともないような美貌の持ち主なのだ。微笑むだけで、光が差したような感覚に陥る。
 綺麗な人というのはそれだけで魅力的なのだと実感する。同じ人ではないみたいだ。

 もはや、自然が作り出す美しさに似ている。太陽が沈む前の稲穂の揺めき。夜の瞬きが作り出す星模様。そういうもの。

 オズの手紙を破った男なのに。
 でも、今の彼はオズのことすら知らないはずだ。時が本当に元に戻ったのならば。
 けれど、どうして前の時とは全然違うのだろう。一夜にして、パン屋の主人がいなくなって、ジルは新しいオーナーをドロシーにしようとしている。こんなの前の時は全くなかったのに。

 ロズウェルという男の上に乗って鞭で叩いていたのに、どうしてこんなにも違うのか。

「うん。やはり、権利書の前に、今の王都で行われている聖女の選定について話をしておこう」

「……聖女の選定?」

 ドロシーは首を傾げた。全く、なんのことだか分からなかったからだ。
 聖女というのは、ドロシーも知っている救国の英雄の一人だろう。魔王を討ち滅ぼした存在。
 でも、選定?
 聖女というのは神様に選ばれた尊い存在ではないのか。

「馬鹿げた慣習だよ。【年増】のエルフが考えた恐ろしく的を外れた儀式だ。ドロシーがいないから、ドロシーの代わりを見繕おうなんて」

「……ええっと」

 年増のエルフって誰のことだろう。
 それにドロシーのかわり? 自分のことではないだろうけれど……。

「魔王の復活の兆しがあるという。これはとても異例なことだ。千年以上の月日を経なければ蘇らないものが、蘇りを果たそうとしている。王都では緊急に会合が開かれ、英雄達の子孫が呼び集められた」

「英雄の……子孫……」

 ドロシーでも、王都のことは少し知っている。
 今や、英雄で生き残っているのは、弓兵のエルフだけ。
 エルフは数百年生き、死ぬ時は植物となって死ぬらしい。
 彼女は、人間の夫を何人も得て、ハーフエルフを次々と産んだ。彼らは王家の相談役を歴任している……。

 だから、王都はエルフが牛耳っているのだと聞いた。賄賂を渡すのも、耳長族でなければ、意味がない。

「俗に言う六色貴族のことだ」

「六色貴族、ですか?」

 ドロシーは聞いたことがなかった。元々、貴族というのは雲の上の存在だ。

 ジルのように歩く貴族は稀で彼らは普通馬車で移動する。
 道は汚れているし、せっかくの靴が台無しだから。
 使用人に汚れないように布をひかせていた姿を見たことがあるが、それだけ。貴族に違いがあるのも知らなかったし、あれは六色貴族だ、なんて判別がついたこともない。

「……あ」

 いや、見たことはないけれど、聞いたことはある。
 六色……色のことだ。

「青伯爵……」

「御名答。流石だね、ドロシー。他にも白、赤、黄、緑、黒がある。色がついた貴族は英雄達の子孫という意味だ」

「ジル、様も、その……六英雄の子孫なんですか?」

「まさか。あの性悪な竜は子供なんて残してない。竜の血を飲んだ人間を一族と見做しているだけだ」

「竜の血を飲んだ……?」

 よく分からないが、ジルが六英雄の一人である竜の血を引く子孫であることは認められているらしかった。
 夢物語のようなものが突然現実になり、狼狽える。子供達が聖女になりたい、聖騎士になりたいと言っていたが、ドロシーにとってはそんなことよりパン屋の方が身近だった。

 けれど、貴族の中には、聖女や聖騎士の方が近い人がいるのだ。
 現に目の前のジルはパン屋よりも、竜の方が近い。

「さて、呼び出された子孫達は【年増】エルフに号令をかけられ、魔王退治の旅に出る羽目になったが、そこで問題が生じた。……赤公爵……聖女の家系の聖女が男だったことが発覚したんだ。ずっと次男を女と偽って育てて社交界デビューさせていたことが明らかになった」

「聖女様が男の人だったってことですか? 何故、そんなことを?」

「女が産めなかったから、らしい。身勝手な理由だ。他の貴族をも欺いて、次男に女装をさせていた。そもそも、その根が劣悪だ。次男は本当に自分が女であると思い込んでドレスを脱いでみせた。彼のあの絶望的な表情……。両親は詐称の罪で王都の屋敷に軟禁しているが、一族は赤っ恥だ」

 その話は聞いたことがあるような気がする。それからは方々を駆けずり回っている……。
 ジルのしっとりとした声が蘇り、ドロシーは鳥肌が立った。
 オズがくれた手紙を破かれた時に、聞いた話だ。

「激怒したエルフは聖女の一族以外の六色貴族達に、それぞれ聖女候補を立てよと厳命を下してね。……候補者を出さないと言った白以外、候補者を探してる」

「……? …………?」

 探しているって、目の前のジルもだろうか?
 そういえばさっきイヴと揉めていたときに、ドロシーを聖女として掲げると言っていなかっただろうか。

「……え?」

 ドロシーは愛人にされかけているのではなく、聖女候補にさせられそうになっている?

「わ、私、を聖女にしようとしているん……ですか?」

 子供達が言っていたなりたいもの。聖女になりたい。
 そんなの、実現不可能だと思っていた。けれど、ジルはドロシーを聖女にしようとしている?

「勿論だ。ドロシー、君は聖女だからね」
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