前世は聖女だったらしいのですが、全く覚えていません

夏目

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あの鼻歌が聞こえる

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「どうか私と一緒に世界を救って下さい」

 世界をとは大きく出たものだ。無意識に口の端が上がる。
 この女はどの馬鹿げた勇者気取り達よりも賢明だった。そして同時に果てしなく馬鹿に見えた。
 竜であるこの俺に、済世の手伝いをしろとは。
 竜を殺して名を上げようとした愚か者は多かった。
 勇者になりたいと夢見た奴が殺しにくることも多かった。
 だが、世界を救う手伝いをしろといわれたのは初めてだった。

「……ク、クククッ!」

 腹の底から声が出た。
 この女は愚かだ。そうでなければ、天才だ。
 世界を滅ぼす邪悪と蔑まれた。あるいは、庇護してくれと神として崇められた。
 勇者とは殺しにくる悪鬼で、煩わしい敵だった。
 その自分が勇者になるのか? 英雄と讃えられるのか?

「面白い」

 女の顔がほころぶ。辛気臭い顔がマシになった。
 それなりに見れる顔だ。

「ありがとうございます。――――様」

「お前の名前は?」

「え?」

「名だ。あるのだろう?」

「……ドロシー、です。ただの、農民のドロシー」

「ドロシー」

 飽きるまでは付き合ってやる。竜は笑いながらそう続けた。

「この俺が世界を救ってやるのも悪くない」

 面白い提案をした礼のつもりだった。飽きたら、やめればいい。
 こんな小娘に抗うすべなどあるものか。俺の好きなように、好きなだけ振る舞うだけだ。
 無数に結んできた契約の一つだと、このときはまだ思っていた。



 ……ああ、灰が飛ぶ。黒々とした、焦げた臭い。
 娘の骨は煤だらけ。うち捨てられ、墓もない。
 世界を救ったはずだった。魔王を確かに討ち倒した。
 その結果がこれか? これがあの女が成したかったことか?
 魔女と面罵され、火炙りにされた。残ったのは小さく、脆い骨だけ。

 俺の乗った台車をひく、楽しそうな女の後ろ姿を思い出す。

 夕焼けのなか、鼻歌を歌っていた。
 農民達に伝わる民謡らしく、なまりがひどい。
 その時々によって歌詞が変わるのだと、笑っていた。その曲しかよく知らないのだろう。他の曲を聞いたことがなかった。

 田畑を耕すただの農民の娘だ。
 田舎の村にいたせいで娯楽らしい娯楽も知らない。
 村の井戸水が枯れた話や落ちぶれた吟遊詩人が語る物語が一番楽しい話だと思っているようだった。
 王都と比べたら村には麦畑しかないと世界は広いと、感嘆するように呟いていたのを聞いたことがある。

 年若い女が一人、故郷を離れる。そんなこと、ありえぬことだ。両親が許しはしまい。
 だが、ドロシーははした金を持って村を出たと言った。
 魔王のせいで蝗害や魔獣に襲われる日々。
 食うものすら困った両親が口減しのために、天使の声を聞いたと嘯く娘を旅に出した。そんなところだろう。
 捨てられたも同然のはずなのに、それでも故郷に帰りたがっていた。

 あの娘はただ、村のために、両親のために、家族のために、魔王を滅ぼしに行った。
 豊穣を夢見て善を成した。
 背丈を隠すほどみのる麦のために足にマメを作って歩いた。
 手の皮が捲れるほど戦った。血を浴びて、悲鳴をあげて、歯を食いしばって痛みに耐えた。泥の中に沈んでも、それでもと立ち上がった。最後の最後までもがいて、足掻いて、顔を上げて決して折れなかった。

 実りのため。あの揺れる麦畑のため。

 結局、故郷には帰れなかったというのに。

 それどころか、救った都で嬲られて殺された。
 望んでいた豊穣も見届けられずに、犯され、殴られ、罵声と汚泥のなかで死んだ。地獄の再現だっただろう。陵辱の限りを尽くされた。
 何もない村で一生を終えた方が幸せだったのではないか。
 王都で見せ物のように殺されるぐらいならば、魔王に嬲り殺しにされた方が幾分かマシだったのでは。
 あの日、俺が力を貸すと承諾しなければ、ドロシーは死ななかったのか。

 ただの農民の娘。そうであるべきだったのでは。

 ……ああ、でもそれではあの女は飢え死んでいただろう。天使の声をきいたと嘯く愚かな女として、路地で誰にも看取られず。

 あの娘を放逐した両親が憎い。
 魔王を滅ぼした女を、殺した愚か者どもが憎い。
 王都に住む綺麗な顔をした聖職者も、王族も、唾棄すべき存在だ。
 ーー仲間を売った剣聖が疎ましい。
 けれど、復讐はできなかった。聖騎士が憤怒の炎に焼かれて誰も彼もを皆殺しにして自害したからだ。あの清廉潔白な男が慟哭をあげながら割腹自殺をした。地獄に落ちた。
 怒りの矛先はなく、憂鬱が胸のうちに広がる。

 今でもあの鼻歌が、夕暮れのときに見たあの美しい情景が忘れられない。
 人を辞めて、何百年と経つ。
 人心を忘れ、良心を売り飛ばして生きてきた。そんな俺を、あの女が変えた。

 あの女は夕暮れの中にこそ生きている人間だった。麦の煌めきの美しさを教えてくれた女だった。
 美しいという言葉の意味を、夕焼けの空の中に見た。

 頬を照らす柔らかな金色の光のなか、女が微笑む。吹き抜ける風は穏やかで、麦の香りがした。そのうち、蝗が飛び回ると知っていても、豊かにみのる穂先がざわざわと揺れる様子は壮観だった。

 夕日を見ると、思い出す。鞄を持つ手に震えが走る。
 端金だけ持った裸足の女のことを。俺を呼びに来た馬鹿な女を。
 何の力も持たないただの娘だった。最期まで、そうだった。
 それでも世界を救った。まさしく、聖女だったのだ。

 魔王は滅び、娘は殺された。
 魔王が支配していた黄金の城は、王都に移された。娘を殺した都は娘の功績で自らを飾り立てた。誰が流した血で手に入れたか、忘れたように今でも誇らしげにある。
 ドロシーを処刑した場所は今では英雄の像が建っているのだと。
 聖女様と、崇めるのだと。誰の血でその像が出来ているのも知らず。
 醜く愚かな人間達だけが、虫のように美しい世界を食い荒らす。
 この世界など滅ぼされた方が、良かった。

 ――いいや、俺が、滅ぼしてやる。世界を救ったのだから、滅ぼす権利も持つはずだ。

 黄金の鞄を掴み、諸国を周る。

 滅べ、何もかも。この世全て。
 灰になって消えればいい。

 世界が終わりを迎える時、鼻歌はこの耳から消えるだろうか?
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