前世は聖女だったらしいのですが、全く覚えていません

夏目

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こんなの現実じゃない

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「オズが探していたのは手紙だろう」

 そんなことは知っている。誰に宛てたものかを、ドロシーは知りたかった。
 オズはドロシー宛てに手紙を書いていない。炎のなかに飛び込んだのは、そういう意味だろう。

「誰に宛てた手紙でしょうか」

 ドロシーの闇のように暗い眼差しに気圧され、先生は小さな声でその名前を口にした。

「ナタリーシャ」

「ナタリーシャ? 誰でしょうか。聞いたことがない」

「――そうなのか? オズが会いに行っていた少女だ」

 胸がモヤモヤして、体がどっと重くなる。口を開くのも億劫なのに、尋ねずにはいられなかった。

「オズはその子のことが好きだった?」

「私にはそう見えたが、ドロシーにはそうは見えなかった?」

 知らないです。分からないです。先生からの言葉を打ち切りたくて冷たく答えた。
 オズがドロシー以外を好き?
 そんなの、そんなの。

 口からこぼれそうになる言葉を押し殺す。

「ナタリーシャはどこに? オズのことを、伝えなきゃ」

「ナタリーシャは死んだ」

「……え?」

「もともと、病に侵された儚い子だったんだ。おそらく、死ぬ前にオズは手紙を渡そうと思ったのだろうね」

 ――ああ、だから、ドロシーが知っても意味がないと言ったのか。

 ナタリーシャに読んで欲しかったから。

「オズはナタリーシャを治すために、医者を目指す必要があるかもしれないとまで言っていたよ。錬金術師にはどうせなれない、だから、ナタリーシャを治してやりたいと」

「なれない」

 泥を食べているように惨めだった。

「錬金術師は血筋こそがモノを言う。オズは才能があるが、親がわからねば錬金術師として雇用されるのは難しい。王都へは区切りとして試験を受けに行くつもりだったのだ。王都の貴族の誰かの目に、あの輝かしき才能が目に留まればよいと思ったのは事実だけどね」

「でも、でも、オズは私に金貨を約束してくれました。使いきれないほどの金貨で、家を用意してくれるって。パン屋をさせて、くれるって」

「残酷なことを。……もう、オズが死んでしまったから真意は分からないね」

 どうなっているのだろう。
 オズから、ナタリーシャなんて名前本当に聞いたことはなかった。
 どうしてドロシーに送られるはずだった手紙が、ナタリーシャのためのものになっているのだろう。

 その女のために、オズは火の中に飛び込み、医者にもなろうとした?

 じゃあ、ドロシーとの約束は?
 金貨の夢は。ずっと待っていてと乞われた明日は?
 煌びやかに見えたドロシーの名前は。
 大切に刻んだ神聖な言葉は、何だったのだろう。

 ジュダという犯人を見つけて、オズは殺されることはなくなったはずだ。最初のオズが死んだ理由――異端審問官は死んだ。
 なのに、オズは自殺した。

 ドロシーのことを見向きもしなかった。

 オズは、どうして。
 私は、どうしたら。

「ドロシー、行く場所はあるのだろうか。よければ、しばらく私の家を使うといい。私はあまり家に帰っていないから、好きに使ってくれれば……」

「この女の世話を焼くのは俺の特権だ」

「シャイロック様」

 先生はお辞儀をした。
 シャイロックはそれに指を振るだけで応える。
 彼はドロシーについてきたのだ。二人で話したいと言うドロシーの要望に渋々応えて、外で待っていたはずなのに……待ちきれずに割り込んできた。

「ドロシーの世話は俺が見る。錬金術師如きは下がっていろ」

「出過ぎた真似を、致しました」

「いくぞ、ドロシー。もう訊きたいことはきけただろう?」

「シャイロック様、もう少しだけ」

「必要ない。用があればまた出向けばいい」

 シャイロックがドロシーの手を引く。
 先生に頭を下げながら、彼の長い脚に追いつけるように小走りになる。

「シャイロック様、まだ先生とお話ししていたんですよ」

「何が楽しくて死んだ人間の真意を探っているのかは知らんが、やめておけ」

「……シャイロック様には関係のないことです」

「お前は俺の助手だろう」

 助手ではありませんと言ったところでシャイロックは聞かない。
 オズが死んだあと、孤児院を追い出された(といってももはや住む場所も何もないのだが)ドロシーを、シャイロックは無理やり薬屋に連れ帰った。

 ドロシーに、やれご飯をつくれ、服を着替えさせろ、と命令をするので、おちおち泣いてもいられなかった。
 ぼおっとしそうになるたびに、シャイロックはドロシーにああしろ、こうしろと指示を出す。

 助手ではない。……ないけれど、これはどんな関係と言えるのだろう?

「食事にするぞ。お前が食べさせろ」

「シャイロック様、東の街に行かれるのではなかったのですか」

「麦の病気の件ならば元々、原因は分かっていた。手紙をやったから、行く必要もない」

「……でも、呼ばれていたのでは」

「俺にとって、植物医師というのは道楽だ。昔助けた聖女サマが農民だった」

 ぽおっと、話を聞いてしまうのは、ジルに聖女扱いを受けたからなのだろうか。
 農民だった、聖女様。魔王を討ち倒した……。
 ドロシーとはちっとも似ていない、愛された人間。最後は、骨だけになった英雄。

「それで愛着があるだけだ」

「西の街を出て行かれないのですか」

「お前もこの街を出るのならば出て行く」

 まごつくドロシーを無視して、シャイロックは店に入った。
 カフェテリアだ。シャイロックは適当に注文をすると、どっしりと椅子に腰掛けた。

「それで、お前はオズのどこが好きだったんだ」

「な、何の、話ですか?」

「あの見習い錬金術師のことが好きだったのだろう? どんなところがお前の好みだった?」

 テーブルの上に肘を乗せ、上目遣いでシャイロックはドロシーを見遣る。

「お前の好みが知りたい」

「な、な、何故?」

「知りたいからだ。いけないのか?」

「いけなくはありませんが。……オズは、手紙をくれました」

「手紙」

「はい。あんなに素敵なものを、貰ったことがありませんでした」

「だが他の女にやろうとしていたのだろう?」

「わ、私宛の! 私にだけくれたものです」

 ふうんと、シャイロックはドロシーから視線を逸らす。
 大きく深呼吸をした。
 ドロシーの手紙が、ナタリーシャの手紙に変わってしまったのだとは思いたくなかった。

「ならば、俺もくれてやろう」

 ぱっと紙が現れる。ペンが宙に浮き、カリカリと文字を描く。

 全身から汗が噴き出す。衆目など気にせず、シャイロックは魔法を使っている。

「シャイロック様!」

 何をしているのか、分かっているのか。
 お昼時のカフェは新聞を広げる紳士達ばかりだ。丸眼鏡を動かして、何度も確かめるようにシャイロックを見つめている。

「何を考えていらっしゃるんですか」

「ほら、読んでみろ」

 無視して投げ渡されてきた手紙に目を通すが、読めない。
 それもそのはずだ。
 ドロシーは文字が分からない。辞書を読みながらではないと、まともに意味が分からなかった。

「よ、読めません」

「何故」

「も、文字が……分からないから」

 瞳孔の長い美しい瞳がドロシーを映す。

「何と書いてあるのか、分かりません。オズの手紙も辞書を読んで、たくさん、たくさん時間をかけました。シャイロック様のお言葉は、何も、分かりません」

「……あぁ」

「申し訳ありません。何と書いてあるのでしょうか」

 ため息と共に漏れた感嘆は、色をつければ深い緑色だっただろう。

 こめかみを人差し指で叩き、シャイロックは八重歯を見せ凄絶に笑う。

「お前は、オズという男が本当に好きだったのか。……オズという男はお前に理解もできない手紙を長々と眺めさせ、うんうんと唸らせるだけ愛された男だったと。――不愉快だな」

「シャイロック様、す、すいません」

「謝ることさえ不快だ。あぁ、本当に、この澱を、どうしたものか」

 指を鳴らすと、現れたのは辞書の山だった。
 シャイロックは一つ一つに目を通し、ハッと鼻で笑った。

「お前の知能に合わせて辞書を用意してやる。孤児のドロシー。お前はオズという孤児と傷の舐め合いをした、そうだな?」

「ち、違います。オズは、オズがくれた手紙は」

「あぁ、ではお前の妄想だ。手紙など、貰ってはいないのだろう? 本当に大切なものであるのならば、あの火事の日、持ち出さないはずがない。お前は孤児で誰も必要とするものはいなかった。餓鬼どももお前のことは財布として扱った。ありがとうという言葉だけで動くのだから、なんと都合がいい」

「シャイロック様」

 どれも、本当のことだった。
 オズから手紙を貰っていないのも、必要とされていない孤児ということも。
 声が震えて、やがて体全体がガタガタと揺れた。
 おかしくなりそうだった。

「お前の妄想に嫉妬するのも、おかしな話か。ドロシー、お前に残されたものは何だ? 孤児達は皆、お前を置いていった。仕事先もなくなり、生きる意味さえない」

「や、やめ……」

「なあ、ドロシー」

 真っ黒なシャツはドロシーが皺の寄らないように熱心に広げたもの。
 白衣は染み抜きをして、丁寧に汚れをとった。シャイロックが纏うものはドロシーが用意したものだ。

 シャイロックはドロシーに仕事を与えた。

「お前、この先、俺なしでどう生きて行くつもりなんだ?」

「おい、アンタ!」

 怒鳴り込むように声をかけられる。
 周りを囲むのは新聞を広げていた紳士達だった。
 目を吊り上がらせ、シャイロックに手を伸ばす。

「魔法使いか?」

「だとしたら、どうだと?」

「――お前があの子達を!」

 あの子達というのはお針子達のことなのだろう。
 魔法使いの、魔女の仕業だとやはり思われているのだ。

「おい、よく見たらあのとき広間にいた奴じゃないか。ほら、領主様の隣にいた」

「ああ! ならば、やはりあの怖い魔女の手下か?」

「領主様もグルなんじゃ……」

 シャイロックは伸ばしてきた男を眼差しだけで制した。気圧された男が後ずさると、シャイロックの視線はドロシーに戻ってくる。

「西の街は魔法使いに敏感だな。いつだって空では鳥のように好き勝手に空を飛び回っているだろうに」

 空を飛ぶ魔法使い達ならば、確かにドロシーも見た。
 もしかして、他の街もそうなのだろうか。
 魔法使いや魔女達が普通の顔をして跋扈している?

「俺に手を出して、呪われるのは思わないのか? 名前なしの街に住む、何の力も持たない人間風情が」

 思い出すのは、うず高く積まれた金貨。麻の服を着た街の人々。
 堰を切ったような声。祈りを捧げ、助かりたいからと他人を犠牲に殺し合う人間達。
 血まみれの地獄。

「ま、魔法使いが脅しやがるのか!?」

「おい! 神父様を呼べ! 異端審問にかけろ!」

「はあ……」

 シャイロックがため息を吐いた瞬間、男の腕がねじ切れた。

 ぼとりと落ちた腕と、時間差で噴き出す血。めまいがする。

「ぎゃああああああ!」

「口を閉じろ。煩わしいな」

 口を糸が縫い付けていく。男は悲鳴も上げられず芋虫のようにのたうった。自分の腕を拾い、何度もくっつけようと押し付ける。

「全く。西は命知らずが多いものだ。他の街では聖騎士ども以外、魔法使いを見ても近付きはしないぞ? 腕一本で学習できて良かったな」

「お、おじさん!」

 ドロシーは男の腕に飛びつくと、出血している腕を布でぐるぐる巻きにした。圧迫すると、血は止まったが、青白くなった肌からは今にも死にそうなほど大量の汗が浮かんでいた。

「シャイロック様! どうして、こんなことを」

「どうして? 俺に不敬を働いた。万死に値する行為を、腕一本で帳消しにしてやったんだ」

「こ、こんなことをされるために、魔法を見せびらかしていたのですか」

「見せびらかす? あの程度の魔法、北では当たり前だ」

「悪徳の使者、魔王の手先め!」

 周りにいた紳士達の悪罵を、そよ風のように聞き流し、シャイロックはドロシーに笑いかける。

「西は名前を取られた街が多いからな。魔法使いを嫌悪する者が多いが、一方で無知で愚かだ。嫌悪ゆえに、危険か、そうではないかの区別もつけられん。幼稚極まりない」

「北では、当たり前だというのですか。人の腕を切り落とすことが?」

「北では魔法使いには近付かん。聖職者どもも臆病風にのまれて逃げ出す。雪は深く、夏でも溶けない。聖騎士どもの足は鈍く、民達は俺達に頭を垂れるしかない」

「……シャイロック様のされることは残酷すぎます……」

「英雄には相応しくないと?」

 年頃の女が俯いて恥じらうだろう艶然を浮かべて、小首をかしげるシャイロックを見ていると、背筋がぞぞと寒くなる。

「英雄などなれる器ではそもそもなかったということだろう。――ここで待っていても食事は運ばれてはこないか」

 ウェイトレスはぶるぶる震えて、テーブルの下に潜り込んでしまった。囲む男達以外の客ももういない。皆逃げてしまったらしい。

「ドロシー、帰るぞ。俺が食事を用意してやる」

「――この、あくま、が!」

 煌めく剣先がシャイロックに迫る。ドロシーは思わず彼に飛びついていた。
 シャイロックは慌てて飛び去る。
 テーブルが倒れ、周りにいた男達を吹き飛ばした。

「あくま、殺す! 王女サマ、仇!」

「乱暴な」

 しとっと降り立ったシャイロックに抱えられ辺りを見渡す。
 カフェテリアは半壊していた。男達は尻餅をついて、泡を吹いている。
 襲い掛かってきたのは古めかしい甲冑を身に纏った男だった。
 三十手前だろうか。眉を顰めたような皺が顔に刻まれている。
 男の背ほどもある巨大な剣を抱えていた。
 ボサボサの金髪には砂が混じり、青空のように澄んだ色のマントが血に濡れていた。

「……聖剣ベルセルク。選ばれた聖騎士にしか抜けぬモナークの金槌か。今代の聖騎士がこのような男とは」

「王女サマ、死んだ! お前、せいだ!」

「いやはや、俺はモナークの慈悲を見縊っていた。結局は、あいつ好みの清廉潔白、四角定規の奴ばかりお抱えなのだと思っていたがなるほど! これは確かに慈悲である!」

 怒気をぶつける騎士に構わず、シャイロックは不遜にもモナークの慈悲が、と笑い出した。

「モナーク様を、笑うな!」

「あぁ、いや。本当に感心していた。慈悲となんとやらの神とは知っていたが、正しき秤があるとは思わなかった。目隠しをして業の重さを測っているとばかり思っていたが。親に愛された子供しかなれぬ聖職者で、最も愛された者――当代の聖騎士がコレとはな!」

 ドロシーが見る限り、シャイロックは本当に感心しきっているようだった。
 聖騎士はシャイロックが愉快そうにするたび、ふっー、ふっーと荒い息を吐き出し、あ、う、あと言葉にならない音を吐き出している。

 手が落ち着きなく動き、視線が泳ぐ。シャイロックを前に臆している様子ではないのに様子がおかしい。
 孤児のなかにも彼のような者がいる。
 知恵遅れだの、変人だの、白痴だのと言われていた。

「王女を聖女だなんだと盛り立てたのも、ただ頭が足らないからだと誰が思うか。あの【年増】もお前のような者が教会から送り込まれて度肝を抜いただろうな」

「あ、う、ぅ、な、なんの、話」

「愉快だという話だ、聖騎士。褒美に苦しめずに殺してやる」

 指を鳴らした途端、男の全てがぺしゃんこになった。
 甲冑から肺臓がはみ出している。
 吐き気を催す暇もなかった。
 ころんと転がった剣だけが場違いに輝いていて、ドロシーは体から力が抜けるのを感じた。

「加重魔法の一つでこうなるのか。当代の聖騎士は脆くてだめだな」

 吐き捨てるようにシャイロックは口にすると、瓦礫を踏みつけ、黄金の鞄を拾い上げる。

「ドロシー、行くぞ」




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