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三の段
一
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右近少将との出逢いから、三月ばかりが過ぎた。
霜月(十一月)ともなると季節はとうに移ろい、庭の木々が黄や赤に染まった。乾いた空気は時折ひやりと頬を撫ぜてゆく。この頃には、連日送られてくる彼からの文を読むことが、落窪の日課になっていた。
右近少将の文には、さまざまなことが書いてある。例えば京で起きている事件や、宮中での行事、誰かと交わした会話など。
以前阿漕が惟成に「姫様は外の話に興味があるみたい」と言ったのが伝わっているらしい。知見を交えた文は、いかに彼が聡明で決断力のある人物かがよくわかる。屋敷からろくに出たことのない落窪にもわかりやすいよう配慮されているところはさすがである。しかし、彼の文はそれだけではない。
そういった世情のことのあとにはほとんど必ず、
「ねえ、また猫がいたずらしたみたい。今度は女房の頭に飛び乗って大変だったって」
くすりと笑えるような話がつづられている。
左大将邸で働く立派な出自の人々が大慌てする様子を脳裏に浮かべるとおかしいやらかわいそうやら、また、それを見ておもしろいと感じた右近少将を想像して、落窪はふふと吐息を漏らした。
「ねえ、阿漕ここ読んで。いつまでも頭から離れないものだから、この女房は食事をするときも頭に猫を乗せていたと書いてある」
落窪の楽しそうな横顔を見ていると、阿漕は感心せざるを得ない。情熱的な愛の言葉をつくすだけでなく、こういった興味の引きかたもあるのかと。
最初に強引に押しかけてきて以来、彼は律儀に文を寄越し続けている。誠意を見せる方法に切り替えたのだろう。
落窪が右近少将に尊敬の念や親しみの気持ちを抱いていることは、隣で見ていてよくわかる。もはや代筆などするほうが野暮だと思う。
一緒に文を読みながら、阿漕はたずねた。
「お返事はお書きになりませんの?」
「なっ何言ってるの、書くわけないでしょう!」
しかし、落窪はいつもこの返答である。一度も右近少将に文を返したことがない。
「阿漕、これも処分しておいてね」
彼は恋愛などする気がないのだ。
阿漕は押し付けられた文を胸元にしまいながら、むうと頬を膨らませる。
「こちらの屋敷の方々が姫様を大切に扱ってくださらないのなら、姫様も自由に恋人の一人や二人、作ってしまっても良いのでは?」
だが、落窪は慌てたようにあたりを見渡し、しいと口元で人差し指を立てた。
「そんなこと言ってはだめだよ」
「そんなことではございません。あたしは姫様に窮屈な人生を送ってほしくないのですわ」
しかし、落窪は決して首を縦に振ろうとはしなかった。中納言家の呪縛は固く落窪の身にまとわりついているのだ。
その落窪の意思が変わったのは、それからさらに数日が経った、とある日の昼下がりのことだった。
落窪はこの日も、いつもと同じように裁縫に励んでいた。そこに、阿漕が息急き切って駆けこんできた。
「姫様っ、文が届きましたわ!」
つい今しがた、惟成が右近少将の文を携えてやってきたのである。何日も文が途絶えていたため、阿漕はたいそうやきもきしていたのだが、落窪はというと、特段焦れた様子もなく、常に平静だった。しかし、届いた文を見て目を丸くする。
「本当?」
「はい、どうぞ」
落窪にとっては、自分のような人間に右近少将から文が送られてくることが異様であり、期待したためしはなかったので、阿漕と違って焦ったり憤ったりする発想がなかったのだ。もう飽きられたものだろうと思っていたところに文が届いたので、逆に驚いた。
読み進めるにつれて、落窪の眉が八の字に下がっていく。それを見た阿漕は、よほどのことが書かれているのかと疑い、落窪の後ろから文面を覗きこんだ。
「……どうしよう」
そこには、道頼が体調を崩して寝込んでいること、気持ちが弱っているので落窪から一言だけでもいただきたい、というようなことが切々と書かれていた。
落窪は頼みを断れるような性格ではなかったので、長いこと悩んだのち、今回だけは返事をしようと決めた。
それが、落窪の人生を大きく変えるとは思いもせず……。
「惟成さん、こちらにいらっしゃいますか? 蔵人少将様が髪を結ってくれとお呼びです」
妻戸を叩く音とともに、少女のあどけない声が聞こえた。阿漕がよく召し使っている女童(召使の少女)のつゆだ。用事を頼まれたことが誇らしい年頃らしく、いつもつんと鼻にかけたような物言いをするのが可愛い。
落窪から文を預かった惟成は、急いで三の君の曹司へ向かった。
「遅いじゃないか」
三の君の居所である寝殿の西面では、簀子縁に座を設けた蔵人少将が、気だるげに惟成を迎え入れた。三の君は御簾の奥でじっと黙っている。
「早くしてくれ」
今後の予定は特に聞いていないが、すぐにでも帰りたいのだろう。蔵人少将にとって、凡庸な三の君と過ごす時間は退屈で仕方ないらしい。結婚直後であるため、義務的に屋敷に通ってはいるものの、徐々に話す種がなくなり、今では会話も少ないという。
そうした背景をよく知っている惟成は小さく頷いて、蔵人少将に近づく。そのとき、軽い音がして懐から文が落ちた。あっと思う間もなく拾い上げた主人は、その場で文を開く。
「へえ、おまえももてるんだな。姫も見てみたらどうです」
「返してください!」
惟成は必死に文を取り返そうとするが、蔵人少将には人でなしのところがあった。彼は惟成の訴えより、三の君との会話の種を取ることを選んだ。
御簾の下から文を差し入れられた三の君は「まあ!」と声を上げた。
「これ、落窪の手蹟(筆跡)じゃないの」
「誰ですか、その落窪というのは」
「裁縫しか能のない、ただの女房ですわ」
落窪を自分の兄弟と認めたくない三の君は、彼の素性を偽った。蔵人少将は落窪の存在を知らなかったので、ふうんとだけ応じる。
「おまえは阿漕という女房と結婚したのではなかったか? 妻がいる屋敷で恋人を作るなんて、ずいぶんややこしいことをするんだな」
文の持ち主がばれてしまったことで、惟成は顔面蒼白である。蔵人少将の言葉など耳に入ってこない。
「お返しください」
半泣きでその場に平伏したが、三の君は「お母様に言いつけなくては」と言うばかりでちっとも文が返ってくる気配はない。
「惟成の相手に何か問題でも?」
「ええ、大問題ですわ!」
御簾が揺れる。語気も荒く、三の君がずいぶん興奮しているのが見てとれた。
「え…………っ」
ことの顛末を聞かされた落窪は、胸が潰れる思いだった。三の君から北の方、父に話がいくのは時間の問題だろう。いったいどういう罵声を浴びせられるのか。相手ができたのならさっさと出ていけと追い出されてしまうかもしれない。いずれにしても、落窪にとっては想像したくない未来だった。
「大殿! 大変ですわ!」
足音も荒く寝殿に駆けこんだ北の方は、脇息に肘をつきうたた寝をしていた中納言をがくがくと揺さぶる。そうでもしないと、年のいった中納言は起きないのだ。
北の方の突撃に気づき、慌ててやってきた女房たちは、彼女の無体な行いに小さく悲鳴をあげる。
「うるさいね! 今は緊急事態なんだよ! 静かにおし!」
「貴子よ、どうしたんだ……」
すっかり目を覚ました中納言は、揺られ続けたせいで顔色を悪くしながら問いかけた。烏帽子が落ちんばかりに乱れた姿に、屋敷の主人たる威厳はない。しかし、北の方はそんなことには構いもせず、大きく息を吸いこみ叫んだ。
「大殿さま! まったく、あのふしだらな落窪は、親になんの断りもなく男を作っていたようですわ!」
「落窪は男が好きだったのか」
「毎月のように男をたぶらかす香りを撒き散らしているのですから、そりゃあ男のほうが具合がいいんでしょうよ! あんな見た目で、ああ悍ましい! あの子と契る物好きなんてこの世にいないと思っていましたけれど、現実には、ほら、いるのですわ!」
「お、おお……親にも黙って勝手に男を通わせるのは良くないな」
元来中納言は主芙婀でありながら、平多の北の方に逆らえないところがあった。北の方を放って恋人を作ったあげく、忘形見を引き取らせた引け目もあるので、ここ十年ほどはますます北の方に押されるがままである。そのため、彼女が差し出した文を流し読みした中納言は、うんうんと何度も頷いた。宛名はないものの、運悪く落窪の文には道頼と対面したことが書いてあったので、中納言も北の方も、落窪はすでに男を部屋に何度も通わせているものだと思いこんだ。
我が意を得た北の方は、文を投げ捨てるなり中納言の両手を取り、ぎゅうと固く握りしめる。
「これは、蔵人少将殿の従者の惟成が持っていた文ですわ。落窪め、源中納言家の一員にもかかわらず、卑しい下男なんぞを通わせているのです!」
北の方は意図的に、落窪の相手が身分低く、釣りあわないことを強調した。中納言は押しが弱いものの、愛妾の忘れ形見である落窪を引き取り、今日まで屋敷に置いておく程度には落窪に対する情がある。落窪を引き取る甲斐性のある男が相手であれば、結婚を許してしまうかもしれない。しかし、北の方はそんなことを認めるつもりはなかった。憎き恋敵の忘れ形見に、自分の娘、息子より幸せな人生を歩ませてたまるか。主芙婀を惑わす香りを発することができるというだけの醜悪な存在に、自分の美しい子どもたちが負けるわけがない。
それに、落窪の裁縫技術。これを失ってはならないと、北の方は確信していた。蔵人少将は落窪の腕をたいそう高く評価しているらしい。蔵人少将を中納言家に留めるためにも、妻の屋敷で用意するものはすべて、完璧のものを仕立てねばならない。なにせ、大君や中の君の夫と違い、彼は苦労して結婚にこぎつけた甲斐のある将来有望な出世頭だからだ。
「あの子をこのまま放っておいたら、男女伽らしく、性欲にかまけてそのうち得体のしれない連中をも連れこむかもしれません。そんなことになったら、我が家の評判にも関わってきますっ、はたしてこの悪行が許せますか!」
「ゆ、許せぬ。ご先祖から脈々と続いてきた我が家の家名にかけて、そんなことは許せぬ!」
言いくるめられた中納言が、強く北の方の両手を握り返した。夫婦の結束が結ばれた瞬間である。
「あたくしに考えがございますわ。ふふ、こちらにはとっておきがあるのです」
にやりと口元を歪める北の方の姿に、女房の一人、小納言はぞっと背筋を粟立たせるのだった……。
霜月(十一月)ともなると季節はとうに移ろい、庭の木々が黄や赤に染まった。乾いた空気は時折ひやりと頬を撫ぜてゆく。この頃には、連日送られてくる彼からの文を読むことが、落窪の日課になっていた。
右近少将の文には、さまざまなことが書いてある。例えば京で起きている事件や、宮中での行事、誰かと交わした会話など。
以前阿漕が惟成に「姫様は外の話に興味があるみたい」と言ったのが伝わっているらしい。知見を交えた文は、いかに彼が聡明で決断力のある人物かがよくわかる。屋敷からろくに出たことのない落窪にもわかりやすいよう配慮されているところはさすがである。しかし、彼の文はそれだけではない。
そういった世情のことのあとにはほとんど必ず、
「ねえ、また猫がいたずらしたみたい。今度は女房の頭に飛び乗って大変だったって」
くすりと笑えるような話がつづられている。
左大将邸で働く立派な出自の人々が大慌てする様子を脳裏に浮かべるとおかしいやらかわいそうやら、また、それを見ておもしろいと感じた右近少将を想像して、落窪はふふと吐息を漏らした。
「ねえ、阿漕ここ読んで。いつまでも頭から離れないものだから、この女房は食事をするときも頭に猫を乗せていたと書いてある」
落窪の楽しそうな横顔を見ていると、阿漕は感心せざるを得ない。情熱的な愛の言葉をつくすだけでなく、こういった興味の引きかたもあるのかと。
最初に強引に押しかけてきて以来、彼は律儀に文を寄越し続けている。誠意を見せる方法に切り替えたのだろう。
落窪が右近少将に尊敬の念や親しみの気持ちを抱いていることは、隣で見ていてよくわかる。もはや代筆などするほうが野暮だと思う。
一緒に文を読みながら、阿漕はたずねた。
「お返事はお書きになりませんの?」
「なっ何言ってるの、書くわけないでしょう!」
しかし、落窪はいつもこの返答である。一度も右近少将に文を返したことがない。
「阿漕、これも処分しておいてね」
彼は恋愛などする気がないのだ。
阿漕は押し付けられた文を胸元にしまいながら、むうと頬を膨らませる。
「こちらの屋敷の方々が姫様を大切に扱ってくださらないのなら、姫様も自由に恋人の一人や二人、作ってしまっても良いのでは?」
だが、落窪は慌てたようにあたりを見渡し、しいと口元で人差し指を立てた。
「そんなこと言ってはだめだよ」
「そんなことではございません。あたしは姫様に窮屈な人生を送ってほしくないのですわ」
しかし、落窪は決して首を縦に振ろうとはしなかった。中納言家の呪縛は固く落窪の身にまとわりついているのだ。
その落窪の意思が変わったのは、それからさらに数日が経った、とある日の昼下がりのことだった。
落窪はこの日も、いつもと同じように裁縫に励んでいた。そこに、阿漕が息急き切って駆けこんできた。
「姫様っ、文が届きましたわ!」
つい今しがた、惟成が右近少将の文を携えてやってきたのである。何日も文が途絶えていたため、阿漕はたいそうやきもきしていたのだが、落窪はというと、特段焦れた様子もなく、常に平静だった。しかし、届いた文を見て目を丸くする。
「本当?」
「はい、どうぞ」
落窪にとっては、自分のような人間に右近少将から文が送られてくることが異様であり、期待したためしはなかったので、阿漕と違って焦ったり憤ったりする発想がなかったのだ。もう飽きられたものだろうと思っていたところに文が届いたので、逆に驚いた。
読み進めるにつれて、落窪の眉が八の字に下がっていく。それを見た阿漕は、よほどのことが書かれているのかと疑い、落窪の後ろから文面を覗きこんだ。
「……どうしよう」
そこには、道頼が体調を崩して寝込んでいること、気持ちが弱っているので落窪から一言だけでもいただきたい、というようなことが切々と書かれていた。
落窪は頼みを断れるような性格ではなかったので、長いこと悩んだのち、今回だけは返事をしようと決めた。
それが、落窪の人生を大きく変えるとは思いもせず……。
「惟成さん、こちらにいらっしゃいますか? 蔵人少将様が髪を結ってくれとお呼びです」
妻戸を叩く音とともに、少女のあどけない声が聞こえた。阿漕がよく召し使っている女童(召使の少女)のつゆだ。用事を頼まれたことが誇らしい年頃らしく、いつもつんと鼻にかけたような物言いをするのが可愛い。
落窪から文を預かった惟成は、急いで三の君の曹司へ向かった。
「遅いじゃないか」
三の君の居所である寝殿の西面では、簀子縁に座を設けた蔵人少将が、気だるげに惟成を迎え入れた。三の君は御簾の奥でじっと黙っている。
「早くしてくれ」
今後の予定は特に聞いていないが、すぐにでも帰りたいのだろう。蔵人少将にとって、凡庸な三の君と過ごす時間は退屈で仕方ないらしい。結婚直後であるため、義務的に屋敷に通ってはいるものの、徐々に話す種がなくなり、今では会話も少ないという。
そうした背景をよく知っている惟成は小さく頷いて、蔵人少将に近づく。そのとき、軽い音がして懐から文が落ちた。あっと思う間もなく拾い上げた主人は、その場で文を開く。
「へえ、おまえももてるんだな。姫も見てみたらどうです」
「返してください!」
惟成は必死に文を取り返そうとするが、蔵人少将には人でなしのところがあった。彼は惟成の訴えより、三の君との会話の種を取ることを選んだ。
御簾の下から文を差し入れられた三の君は「まあ!」と声を上げた。
「これ、落窪の手蹟(筆跡)じゃないの」
「誰ですか、その落窪というのは」
「裁縫しか能のない、ただの女房ですわ」
落窪を自分の兄弟と認めたくない三の君は、彼の素性を偽った。蔵人少将は落窪の存在を知らなかったので、ふうんとだけ応じる。
「おまえは阿漕という女房と結婚したのではなかったか? 妻がいる屋敷で恋人を作るなんて、ずいぶんややこしいことをするんだな」
文の持ち主がばれてしまったことで、惟成は顔面蒼白である。蔵人少将の言葉など耳に入ってこない。
「お返しください」
半泣きでその場に平伏したが、三の君は「お母様に言いつけなくては」と言うばかりでちっとも文が返ってくる気配はない。
「惟成の相手に何か問題でも?」
「ええ、大問題ですわ!」
御簾が揺れる。語気も荒く、三の君がずいぶん興奮しているのが見てとれた。
「え…………っ」
ことの顛末を聞かされた落窪は、胸が潰れる思いだった。三の君から北の方、父に話がいくのは時間の問題だろう。いったいどういう罵声を浴びせられるのか。相手ができたのならさっさと出ていけと追い出されてしまうかもしれない。いずれにしても、落窪にとっては想像したくない未来だった。
「大殿! 大変ですわ!」
足音も荒く寝殿に駆けこんだ北の方は、脇息に肘をつきうたた寝をしていた中納言をがくがくと揺さぶる。そうでもしないと、年のいった中納言は起きないのだ。
北の方の突撃に気づき、慌ててやってきた女房たちは、彼女の無体な行いに小さく悲鳴をあげる。
「うるさいね! 今は緊急事態なんだよ! 静かにおし!」
「貴子よ、どうしたんだ……」
すっかり目を覚ました中納言は、揺られ続けたせいで顔色を悪くしながら問いかけた。烏帽子が落ちんばかりに乱れた姿に、屋敷の主人たる威厳はない。しかし、北の方はそんなことには構いもせず、大きく息を吸いこみ叫んだ。
「大殿さま! まったく、あのふしだらな落窪は、親になんの断りもなく男を作っていたようですわ!」
「落窪は男が好きだったのか」
「毎月のように男をたぶらかす香りを撒き散らしているのですから、そりゃあ男のほうが具合がいいんでしょうよ! あんな見た目で、ああ悍ましい! あの子と契る物好きなんてこの世にいないと思っていましたけれど、現実には、ほら、いるのですわ!」
「お、おお……親にも黙って勝手に男を通わせるのは良くないな」
元来中納言は主芙婀でありながら、平多の北の方に逆らえないところがあった。北の方を放って恋人を作ったあげく、忘形見を引き取らせた引け目もあるので、ここ十年ほどはますます北の方に押されるがままである。そのため、彼女が差し出した文を流し読みした中納言は、うんうんと何度も頷いた。宛名はないものの、運悪く落窪の文には道頼と対面したことが書いてあったので、中納言も北の方も、落窪はすでに男を部屋に何度も通わせているものだと思いこんだ。
我が意を得た北の方は、文を投げ捨てるなり中納言の両手を取り、ぎゅうと固く握りしめる。
「これは、蔵人少将殿の従者の惟成が持っていた文ですわ。落窪め、源中納言家の一員にもかかわらず、卑しい下男なんぞを通わせているのです!」
北の方は意図的に、落窪の相手が身分低く、釣りあわないことを強調した。中納言は押しが弱いものの、愛妾の忘れ形見である落窪を引き取り、今日まで屋敷に置いておく程度には落窪に対する情がある。落窪を引き取る甲斐性のある男が相手であれば、結婚を許してしまうかもしれない。しかし、北の方はそんなことを認めるつもりはなかった。憎き恋敵の忘れ形見に、自分の娘、息子より幸せな人生を歩ませてたまるか。主芙婀を惑わす香りを発することができるというだけの醜悪な存在に、自分の美しい子どもたちが負けるわけがない。
それに、落窪の裁縫技術。これを失ってはならないと、北の方は確信していた。蔵人少将は落窪の腕をたいそう高く評価しているらしい。蔵人少将を中納言家に留めるためにも、妻の屋敷で用意するものはすべて、完璧のものを仕立てねばならない。なにせ、大君や中の君の夫と違い、彼は苦労して結婚にこぎつけた甲斐のある将来有望な出世頭だからだ。
「あの子をこのまま放っておいたら、男女伽らしく、性欲にかまけてそのうち得体のしれない連中をも連れこむかもしれません。そんなことになったら、我が家の評判にも関わってきますっ、はたしてこの悪行が許せますか!」
「ゆ、許せぬ。ご先祖から脈々と続いてきた我が家の家名にかけて、そんなことは許せぬ!」
言いくるめられた中納言が、強く北の方の両手を握り返した。夫婦の結束が結ばれた瞬間である。
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