落窪の男女伽

水市 宇和香

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二の段

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 惟成が阿漕を足止めしている頃、道頼は予定通り中納言邸を訪れていた。粗末に見せかけた牛車を屋敷の近くに留め、徒歩で邸内に入りこむ。
 釣灯籠に照らされた簀子縁を歩いてみても、人少なのためどこも静まり返っていた。
 道頼にとって、色事は遊びだ。婚姻によって家同士の結びつきが強まる――まして男は結婚したら女の家に入るため、良い結婚相手を選べば出世ができるというのは世の常だが、道頼の父は左大将、妹は女御であり、すでに昇進は約束されている。それに、自分の能力があれば、家格にかかわらず重用されるとわかっていた。ともすれば、結婚など煩わしいだけだ。
 十九の道頼にとって、恋人以上の立場に誰かを据え、自身を縛られることは耐えがたい苦痛なのだった。そのため、両親や乳母たちの再三の説教を聞き流し、逸楽の生活を送っているのである。 
 恋を愉しむのなら、すでに男を知っている女人がいい。下手に深窓の姫君相手に恋愛事を仕掛けようものなら、途端に姫の親類一同が出てきて、すわ結婚だと大事になってしまう。そのようなわけで、道頼の恋人は年上で物の分別もしっかりした女人ばかりなのだが、知性も教養も兼ね備えているがゆえに彼女たちは皆矜持が高く、素直でない物言いばかりすることに、彼は最近辟易していた。
 そこで、しばらく色恋事から遠ざかっていたのだが、男女伽の姫がいると聞いて久々に興味がそそられた。
 惟成経由で聞き出した落窪の曹司はすでに格子が下ろされ、妻戸も隙間なく閉じられていた。小さく戸を叩いてみても、なんの応えもない。道頼は周囲にさっと視線を走らせ、誰もいないことを確認したのち内側に潜りこんだ。その途端。
 むせかえるほどの芳香が道頼を襲った。充満する香りを嗅ぐたびに、一気に身体中が熱く滾る。この暴力的なまでの匂いは、主芙婀の性衝動を刺激する蠱惑的な色香は、男女伽が発情期に発するそれに違いなかった。
 放出の中は暗闇が濃すぎて、目を凝らしても周囲の様子がまったくわからない。そのとき、小さな掠れ声がした。
「誰、ですか」
 それは低い男のものだった。曹司を間違えたのだろうか。
(いや、他の局は人の気配がなかったはずだ)
 唯一話し声が聞こえたのは、阿漕の局だった。しかし、この場に男女伽の香りを発する女――おそらく落窪の君と、自分以外の男がいることは事実だ。間男と疑われ、諍いに発展しては面倒である。それに、色香にあてられた道頼は、すでに正気を保つのが難しくなっていた。
「……失礼、曹司を間違えたようです」
 それだけ告げるのがやっとだった。口内がからからに渇くほどの、飢えにも似た焦燥。自身が疼き、屹立しているのがわかる。これほどそそられるのは初めてだった。
 早々に立ち去らなければと思うものの、本能がそれを拒んでいた。この女人と契りたい。つがいになりたい。香りを独占して、この香りの持ち主を犯したい。その衝動をむりやり鎮める。別の男がいる場で夜這うわけにはいかない。しかし、それならば後日でも良い、なんとかしてこの男女伽にわたりをつけたい。そんなことを考えるばかりで、どうしても足が動かない。じいと闇の中をうかがってしまう。そこで違和感に気づいた。
 どれだけ探ろうとも、一人分の気配しか感じ取れないのだ。荒い息を必死に噛み殺し、時折鼻から抜けるような高い声をあげるのは、おそらく男である。そのたび、芳醇な香りが一際室内を満たすが、いっぽうで、女の吐息や物音は何一つない。
(まさか……)
 世の中には、乳房が三つある女や、睾丸が三つある男もいると聞いたことがある。男根を生やした女の噂も耳にした記憶があった。そう考えると、存在していても不思議はない。
「落窪の君、あなたは男なのでしょうか?」
「っ、う、……あこぎ」
 道頼の問いには答えず、震える声は唯一の側仕えを呼んだ。か細いそれに征服欲を刺激される。
(ほしいほしいほしいほしいほしい)
 頭の中はもはや、男女伽を自分のものにしたいという本能で満ち満ちていた。男だろうと構わない。ほしくてたまらなかった。
 様子見のつもりであったことなど、とうに頭から抜けていた。
 大粒の汗を握りしめながらその場に腰を下ろし、闇の中を探る。すると、足元に衣が広がっているのがわかった。存外、相手はすぐ近くにいるらしい。
「姫……」
 片膝をつき手を伸ばしてみると、相手の肩に触れたようだった。男が息を呑んで後ずさる。しかし、道頼が咄嗟に裾をつかんだため、離れることはかなわない。当然だ、みすみす逃すわけがない。
 道頼は相手を犯したい衝動を覆い隠すよう、ことさら甘い声音でささやいた。
「怪しい者ではありません。私は右近少将、藤原 道頼です。あなたにどうしても一目お会いしたく、無礼は承知の上で忍んで参りました」
 そう言いながら裾からそっと相手を撫で上げ、小刻みに震える身体を確かめた。女のものよりずいぶんしっかりした腕、肩幅。暑さのせいだけではないだろう、単と思しき衣は汗でしとどに濡れている。
「ゃ、だめ、です……」
「無体なことはしません。ただ、一度も文のお返事をいただけず、恋に焦がれた哀れな私に、少しでも情けをいただけたら……」
 肩から首筋、頬にかけて指を滑らせれば、顎と頬にざらついたものが当たった。びくりと彼の頬が痙攣する。
「あっ、あっ……!」
 その途端、落窪は道頼の手から逃げ出した。しかし、慌てたせいか大きな音を立て転んだ。
 その衝撃で妻戸が開いた。
 月光が差しこむ。戸のそばに転がる男が照らし出され、道頼は目を瞠った。
 その男は、女児のごとく振り分け髪をしていた。そして、袿をまとっていた。しかし、決して小柄でも華奢でもなく、道頼よりよほど肩幅があるように見える。
 えらの張った大きな輪郭、毛虫のような眉、小さな丸い目に、無数のあばたとつぶれた鼻。剃りきれなかった髭が点々と頬に浮いている。肌は白く、背も低そうだが、中性的とは無縁の出で立ちである。
「……」
 初めて見る醜男に、道頼は束の間言葉が出なかった。
 落窪は自身の姿を見られたことに気づくと、「ひっ」と悲鳴をあげた。そして、道頼を突き飛ばす。
「や、やだっ、見ないで……うっ、あこ、あこぎ、あっ、あこ、ぁ」
 か細い声とは裏腹に、力はたいそう強く、道頼は思わずよろめいた。体勢を立て直そうと裾を掴む手の力が緩まったその隙に、落窪は四つん這いで簀子縁に逃げた。
「うっ、うっ、うっ……」
 うずくまったまま押し殺したように泣く彼のうなじに、ごくりと唾を呑む。
 落窪が大声を上げないのは、完全に拒んでいるわけではないからだろうか。計りかねていると「姫様」と女の声が聞こえた。これ以上留まっていたら、人がやってくるだろう。
「手荒な真似をして申しわけございませんでした。またお目見えできる日まで」
 身体中を高揚させる男女伽の香りに逡巡しながら、道頼はその場をあとにした。


「いかなれや昔思ひしほどよりは
  今のま思ふことのまさるは
(どういうわけだろうか、あなたにまだ逢わない前に恋焦がれていたのよりも、昨夜はじめてお逢いした後の今、恋しい思いがつのってくるというのは)」
 
 明朝。右近少将の文を携えたつかいがやってきて、阿漕は激怒した。
「後朝の歌のつもりかしらっ? まったく信じられない!」
 後朝の歌というのは、男女が契りを交わした翌朝、男が女に送る文のことである。
「姫様と契った気になっているなんて、図々しいことこのうえないですわ!」
 阿漕のあまりの怒りぶりに、落窪は彼女をなだめる側に回っていた。
「お、落ち着いて……」
「落ち着いていられるわけがございません!」
 右近少将と落窪がつがいになればいいと願ってはいたが、一方的に押しかけてくるのは話が違う。昨晩、物音に気がついて阿漕が放出に向かうと、簀子縁で落窪が震えていた。惟成を問い質してやっとことと次第を把握した阿漕は、即座に彼を追い出し、朝まで放出の前に陣取って見張りをしていた。
「姫様が弱っているところにつけこむなんて!」
「……無体なことはしないと言っていたとおり、何もされていないから大丈夫だよ……」
「姫様は人を信じすぎです! あたしに話の一つも通さず忍んできたあげく、勝手に姫様に触れるなんて……っ! いくら今をときめく貴公子だって許せません! 惟成とも離縁だわ!」
 阿漕が文を破ろうとしたので、咄嗟に手を伸ばして止めた。その手のひらの熱さに阿漕は我に帰る。
「ご、ごめんなさい! 姫様が苦しいときにうるさくしてしまって!」
 慌てて盥(たらい)に浸した布を絞り、落窪の額のものと取り替えた。そして、衾を胸元まで引き上げる。
「静養していてくださいませね」
 言うなり彼女は曹司をあとにした。外で使者と話している声がうすらと聞こえる。阿漕の剣幕からして、手ひどく追い返しているのだろう。
 落窪は朦朧とした頭で昨晩のことを思い返していた。
 室内に満ちた主芙婀の香りが、落窪をますます狂わせ、自分の意思とは無関係に男女伽の蜜を滴らせてしまった。女とはまったく異なる見目にもかかわらず、女人以上にいやらしく身をくねらせる自分が厭わしくて、恐ろしくて、何より、そんな己の姿を誰かに見られることが恐怖だった。
 月明かりのもとで姿が曝け出されたとき、落窪は頭の中が真っ白になった。阿漕が来るまで頭を抱えてやり過ごすのが精一杯だった。
 だから、この醜い自分を確かに見たはずの右近少将が、また文を寄越してくるということが信じ難かった。 
 彼の匂いや甘い双眸を思い出すと、じわりと股が濡れるのがわかる。自身と後孔を乱暴に弄り回したい。男女伽の衝動がますます強くなり、今度こそ抑えきれない。落窪は自分の性に嫌悪しながらも、身体を弄るのをやめられなかった。そのとき、彼は無意識に枕元に置かれた文を握りしめていたのだった。

 それからどれくらいの時が経ったのか。ふと気がつくと、部屋の中は薄暗くなっていた。格子が降ろされているので、夜を迎えたのだろう。汗と愛液に濡れた身体を起こし、そっとあたりを窺う。
 妻戸の前には粥が載った御台盤が置かれていた。そして、その隣には文が一通。四つん這いで近づいて手に取ってみると、それは右近少将からのものだった。いつ届いたのかわからないが、あれほど怒っていたにもかかわらず、阿漕は受け取っておいてくれたようだ。
 流麗な文字で書かれた文を読み進めてみる。

「あなたの男女伽の匂いが忘れられず、惹かれるのをやめられません」
 
 にわかには信じがたい言葉だった。厭わしさしかなかった男女伽性を肯定されることがあるとは、思いもしなかったのだ。
 そのとき確かに落窪の身体は震えた。涙が一筋頬を伝う。
 落窪は文を何度も何度も読み返した。
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