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第二章
四話 見えなかったもの
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北区の大通りから少し奥まった通りには、アザミたちでも手が出せる仕立て屋が数店舗ある。そのうち一番良心的な価格で商売しているのがジャン・タノーの店だ。アザミも何度か購入したことがあった。その近くには写本屋や金銀細工師の工房が並んでいる。北側には富裕層の家が多いので、嗜好品を扱う店も多いのである。
北門の前には、多くの馬車や荷台を引いた馬が停まっていた。関門をくぐり終えた人々の塊だ。市場が佳境を迎える昼過ぎでもまだ人の移動は多く、ニーナ市が栄えていることがうかがえる。
「ハナミは歩いてこの町まで来たんだよな?」
「そうだよ。東門から入って、宿で一泊してから教会に向かったんだ」
「それじゃあ西門のほうまで歩こうか。僕もあんまりあのへんは行ったことがないんだけど」
ラロンド食堂は、広場から通りを十分ほど歩いた先の南側にある。日常的に使うものは市場で揃うし、休みの日に遊びに出かけることもなかったので、アザミはニーナ市で二年暮らしていながら、あまりこの都市に明るくなかった。広場から離れるほど安い貸し家や宿が立ち並び、治安が悪くなるという話は聞いていたが、まだ明るいし、外壁付近を歩かなければ問題ないだろうと思っていた。
「西のほうには、トマス・モンフォール様の屋敷があるんだ。今僕たちが働いているところだよ」
「ああ、草木がボーボーのボロ屋敷ね」
「いろんな虫が出てきておもしろいよ。日本では見たことないようなのがたくさんいて」
「へえ、例えば?」
「カエルと魚の合いの子みたいなやつ」
「何それ、エラ呼吸?」
「違うよ……たぶん」
「どんな顔してるの、ぜんぜん想像つかない」
「絵を描けたらいいんだけどな」
「うん、アザミくんの絵をまた見たい」
「見せてやれる日がくるといいけど……」
そんなことを話しながら家々の合間を歩いていく。西門から伸びた大通りを越えるころには、陽が傾き始めていた。
周囲の家はどれもゴーチエ親方の自宅兼食堂と比べると小さい。隣家とは壁がくっつきそうなほど近いうえ、石造りではなく木造だった。しかし、特段寂れた様子もないごく普通の家々だ。窓の外には洗濯物が吊るされ、家の中からは牛肉の汁物か何かのいい香りが漂っている。
「キャハハハハ!」
「待てってばあ!」
前方から十歳くらいの男女が駆けてきた。彼らとぶつかりそうになったところをハナミに抱き寄せられ、間一髪避けることができた。
「わっ、ありがとう。にしても元気だなあ……――ッ!」
子どもが曲がっていった先――細く薄暗い裏路地に、ぼろ布をまとった人間が六人うずくまっていた。皆一様に顔を伏せているため、性別はわからない。髪はばさばさで伸び放題だし、身体中垢で黒ずんでいる。だいぶ不衛生な様子だ。日本でいうホームレスである。
(初めて見た……)
日本でも、トルバート王国でも、アザミは彼らのような人を見たことがなかったのでショックだった。ましてやここは、外壁から離れた通りのはずだ。子どもたちが彼らの存在を気にも留めていなかったということは、すでに見慣れた景色なのだろうが……。
アザミが思わず足を止めてしまったので、浮浪者の一人がこちらに気づいた。伸び放題の白っぽい髪と髭で顔面の大半がおおわれているが、その奥から覗く眼光は鋭く、アザミの息を止めるには十分だった。
「早く行こう」
「で、でも……」
「でもじゃない」
毅然とした態度のハナミに引っ立てられるように腕を取られたが、どうしても彼らのことが気になって振り返る。
「菓子……、菓子くれ……」
しゃがれた声が「菓子」とつぶやいているのが聞こえたので、アザミは担いでいた籠からフォンダンを急いで取りだした。道中のおやつにと思って、昨日切り分けておいたものだ。
その途端、道端にうずくまっていた六人が全員立ち上がり、獣のような俊敏さでアザミに群がった。否、正確にはアザミの持つフォンダンに。
「俺のもんだ!」
「あたしのよ!」
「よこせえええ」
「アザミくんから離れろ!」
ハナミが浮浪者を蹴倒す。それでも彼らの勢いは止まず、もはやフォンダンは誰に奪い去られたかもわからない。あっという間にアザミの手から離れたその菓子を巡って、殴り合いが勃発していた。柔らかい生地のフォンダンは、皆に握りしめられぼろぼろと形が崩れていく。その粉くずすらもったいないと、他人の手を舐めとる彼らの目は血走っていた。
「これじゃない……これじゃない……、もっと、うまい菓子を……」
爛々と光る六対の双眸がアザミを射抜く。
その光景に絶句していると、ハナミが今度こそアザミの手を引き駆けだした。
「行くよ!」
「うん」と応えたいのに、恐怖で声が出ない。足がもつれそうになるのをなんとか堪えて、ハナミについていった。
「アザミくんの馬鹿! 何考えているんだ!」
広場にほど近い賑やかな大通りに出たところで、ハナミに怒鳴られた。いつもの飄々とした雰囲気は一切ない。本気で怒っている。
すっかり日が暮れ、店の軒先には蝋燭の明かりが灯っていた。酒場が並ぶ通りは行き交う人々が多く、たくさんの人間が怒声をあげるハナミをおもしろそうに眺めている。しかし、ハナミもアザミもそれどころではない。
「アザミくんが傷つけられるかもと思って肝が冷えた。もう二度とあんな考えなしなことはしないで」
「ごめん……お菓子がほしいって言ってたから……、少しでも飢えが収まるならと思って……」
「あんな切れ端をあげたところで満足するわけないだろ!」
ハナミの剣幕に目をぎゅっと閉じる。すると、あやすように抱きしめられた。
「……ごめん、怒鳴ったりして。アザミくんの優しいところ、大好きだよ。でも、また危険な目に遭うかもしれないから、ああいうことはしてほしくないんだ」
まだ震えが収まらないアザミの背中をなでながら、ハナミが言い聞かせるように続ける。
「ね、もうあんなことしないって約束して」
「……う、」
目の前に困っている人がいたら、今度は見捨てていけるだろうか。必ず無視をするとは約束できそうにない。しかし、ハナミの心配もわかる。どうしたらいいんだろう。
返事ができずに固まっていると、背中に回った手に力が入った。ぐっとさらに抱き寄せられる。
「ねえ、アザミくん?」
「……」
「ああいう人たちを救うには、俺たち個人では力が足りないんだ。そのために教会や行政があるんだよ」
そこで初めて、アザミは教会のことを思いだした。そうだ、教会では定期的に炊き出しをしているし、アザミ自身仕事の面倒も見てもらった。
(僕はぜんぜん考えが足りなかった……)
食べ物に困っている人にまた出会ったとき、同じように中途半端な手助けをするかもしれない。その行動を絶対悪だとは思わない。しかし、それで手を離すようではただの自己満足だ。そんなこと、ハナミは当然わかっていたようだったが、アザミは思いいたれなかった。
同い年だったはずのハナミが、すごく遠い人に感じられる。
ハナミの腕から離れ、改めて彼を見上げた。十代の甘さがとれた精悍な顔立ちには、確かにアザミの知らない九年の歴史が刻まれている。
(そうだよな、こいつはもう立派な大人なんだ……)
再会したときよりいっそう、年の差を感じる。ハナミもそう感じているのではないだろうか。過去をはぐらかされたのは、アザミが子どもすぎるせいかもしれない。
「アザミくん?」
じっとハナミを見つめるアザミに、ハナミが戸惑った様子で声をかける。
「あっ、ご、ごめん」
うまく立ち回れない自分が子どもじみていて嫌になる。
「帰ろうか」
「……うん」
どこかぎこちない動作で、アザミたちは食堂に帰った。ハナミに手を握られたが、わざわざ振り払うのも子どもっぽい気がしてそのままにした。
翌日。
ヌーヌ曜日もギルドの仕事は休みだ。そのため、アザミは昼間も食堂を手伝っていた。
「おーい、鶏肉の炒めはまだかあ?」
「はっ、はい!」
職人の妻が営んでいる店だからか、アンリの闊達な人柄のせいか、このラロンド食堂の常連は職人が大半だ。体格のいい男たちは、夜はもちろん朝でも昼でも酒をあおり、大声でげらげらと笑う。
そんなラロンド食堂に似つかわしくない客が、店前に大行列をなしていた。
開け放った窓の前にハナミが立ち、手際よく行列をさばいていく。カウンターに山盛りに載せていたビスケットは、まだ開店から一時間足らずにもかかわらず、すでにほとんどが売れていた。客の九割は女性だ。遠目に見ても皆おしゃれしているのがわかる。先頭に立つソフィは花屋を営んでおり、胸元に生花を挿していた。
「ハナミさん、こんにちは」
「こんにちは、ソフィさん。またいらしてくださったんですね」
ソフィは雪のように白い頬を赤く染める。目を伏した彼女は、残り少ないビスケットを大量買いしていった。
「また来ますね」
という言葉を残して。
ハナミは次の客にも同じような対応をする。時折「きゃあ」と黄色い悲鳴があがるのは、彼がにこりと微笑むからだ。
(うわあ……)
彼が菓子を売っているところを見るのは初めてだった。彼の作るものはどれもおいしかったので、そりゃあ人気が出るだろうと思っていたが、こういう売りかただとは……。
(でも、本人もまんざらでもなさそうだよな)
ハナミが愛想良く接客していることになぜか腹が立つ。
「アザミー、これ運んでー!」
「はい!」
つい手を止めてしまっていたアザミは、慌てて配膳に向かう。と、そのとき。
「ハナミさんって、本当に素敵だわ!」
肉屋のエメが、窓の外からハナミの手を引っ張った。体勢を崩したハナミの唇に唇を寄せる。
「ふふっ、大好きよ! また来るわね!」
ギャアアアと一帯が阿鼻叫喚。アザミは今度こそ固まった。
(あ、キ、キスした……)
ハナミは何事もなかったように次の客を相手にしている。客たちはあいかわらず騒然としていて、立ち去るエメに詰め寄ろうとする者もいたし、ハナミに彼女との関係を問いただそうとする者も後を絶たなかった。
だが、アザミはただ立ち尽くすことしかできなかった。胸に宿った不快な気持ちを押し殺すのに必死だったから。
先ほどのキスシーンがどうしても頭から離れない。そのうちハナミはエメと付き合うのだろうか。この家を出て、二人で暮らすかも……想像が無限に広がる。嫌だ。取られたくない。
(こんな感情知りたくなかった……)
親友の一番でいたい。そんな子どもっぽい自分の独占欲にほとほと嫌気がさす。
ハナミを見ていられなくて、アザミは仕事に専念することにした。胸にうずまくもやもやは晴れそうになかった。
北門の前には、多くの馬車や荷台を引いた馬が停まっていた。関門をくぐり終えた人々の塊だ。市場が佳境を迎える昼過ぎでもまだ人の移動は多く、ニーナ市が栄えていることがうかがえる。
「ハナミは歩いてこの町まで来たんだよな?」
「そうだよ。東門から入って、宿で一泊してから教会に向かったんだ」
「それじゃあ西門のほうまで歩こうか。僕もあんまりあのへんは行ったことがないんだけど」
ラロンド食堂は、広場から通りを十分ほど歩いた先の南側にある。日常的に使うものは市場で揃うし、休みの日に遊びに出かけることもなかったので、アザミはニーナ市で二年暮らしていながら、あまりこの都市に明るくなかった。広場から離れるほど安い貸し家や宿が立ち並び、治安が悪くなるという話は聞いていたが、まだ明るいし、外壁付近を歩かなければ問題ないだろうと思っていた。
「西のほうには、トマス・モンフォール様の屋敷があるんだ。今僕たちが働いているところだよ」
「ああ、草木がボーボーのボロ屋敷ね」
「いろんな虫が出てきておもしろいよ。日本では見たことないようなのがたくさんいて」
「へえ、例えば?」
「カエルと魚の合いの子みたいなやつ」
「何それ、エラ呼吸?」
「違うよ……たぶん」
「どんな顔してるの、ぜんぜん想像つかない」
「絵を描けたらいいんだけどな」
「うん、アザミくんの絵をまた見たい」
「見せてやれる日がくるといいけど……」
そんなことを話しながら家々の合間を歩いていく。西門から伸びた大通りを越えるころには、陽が傾き始めていた。
周囲の家はどれもゴーチエ親方の自宅兼食堂と比べると小さい。隣家とは壁がくっつきそうなほど近いうえ、石造りではなく木造だった。しかし、特段寂れた様子もないごく普通の家々だ。窓の外には洗濯物が吊るされ、家の中からは牛肉の汁物か何かのいい香りが漂っている。
「キャハハハハ!」
「待てってばあ!」
前方から十歳くらいの男女が駆けてきた。彼らとぶつかりそうになったところをハナミに抱き寄せられ、間一髪避けることができた。
「わっ、ありがとう。にしても元気だなあ……――ッ!」
子どもが曲がっていった先――細く薄暗い裏路地に、ぼろ布をまとった人間が六人うずくまっていた。皆一様に顔を伏せているため、性別はわからない。髪はばさばさで伸び放題だし、身体中垢で黒ずんでいる。だいぶ不衛生な様子だ。日本でいうホームレスである。
(初めて見た……)
日本でも、トルバート王国でも、アザミは彼らのような人を見たことがなかったのでショックだった。ましてやここは、外壁から離れた通りのはずだ。子どもたちが彼らの存在を気にも留めていなかったということは、すでに見慣れた景色なのだろうが……。
アザミが思わず足を止めてしまったので、浮浪者の一人がこちらに気づいた。伸び放題の白っぽい髪と髭で顔面の大半がおおわれているが、その奥から覗く眼光は鋭く、アザミの息を止めるには十分だった。
「早く行こう」
「で、でも……」
「でもじゃない」
毅然とした態度のハナミに引っ立てられるように腕を取られたが、どうしても彼らのことが気になって振り返る。
「菓子……、菓子くれ……」
しゃがれた声が「菓子」とつぶやいているのが聞こえたので、アザミは担いでいた籠からフォンダンを急いで取りだした。道中のおやつにと思って、昨日切り分けておいたものだ。
その途端、道端にうずくまっていた六人が全員立ち上がり、獣のような俊敏さでアザミに群がった。否、正確にはアザミの持つフォンダンに。
「俺のもんだ!」
「あたしのよ!」
「よこせえええ」
「アザミくんから離れろ!」
ハナミが浮浪者を蹴倒す。それでも彼らの勢いは止まず、もはやフォンダンは誰に奪い去られたかもわからない。あっという間にアザミの手から離れたその菓子を巡って、殴り合いが勃発していた。柔らかい生地のフォンダンは、皆に握りしめられぼろぼろと形が崩れていく。その粉くずすらもったいないと、他人の手を舐めとる彼らの目は血走っていた。
「これじゃない……これじゃない……、もっと、うまい菓子を……」
爛々と光る六対の双眸がアザミを射抜く。
その光景に絶句していると、ハナミが今度こそアザミの手を引き駆けだした。
「行くよ!」
「うん」と応えたいのに、恐怖で声が出ない。足がもつれそうになるのをなんとか堪えて、ハナミについていった。
「アザミくんの馬鹿! 何考えているんだ!」
広場にほど近い賑やかな大通りに出たところで、ハナミに怒鳴られた。いつもの飄々とした雰囲気は一切ない。本気で怒っている。
すっかり日が暮れ、店の軒先には蝋燭の明かりが灯っていた。酒場が並ぶ通りは行き交う人々が多く、たくさんの人間が怒声をあげるハナミをおもしろそうに眺めている。しかし、ハナミもアザミもそれどころではない。
「アザミくんが傷つけられるかもと思って肝が冷えた。もう二度とあんな考えなしなことはしないで」
「ごめん……お菓子がほしいって言ってたから……、少しでも飢えが収まるならと思って……」
「あんな切れ端をあげたところで満足するわけないだろ!」
ハナミの剣幕に目をぎゅっと閉じる。すると、あやすように抱きしめられた。
「……ごめん、怒鳴ったりして。アザミくんの優しいところ、大好きだよ。でも、また危険な目に遭うかもしれないから、ああいうことはしてほしくないんだ」
まだ震えが収まらないアザミの背中をなでながら、ハナミが言い聞かせるように続ける。
「ね、もうあんなことしないって約束して」
「……う、」
目の前に困っている人がいたら、今度は見捨てていけるだろうか。必ず無視をするとは約束できそうにない。しかし、ハナミの心配もわかる。どうしたらいいんだろう。
返事ができずに固まっていると、背中に回った手に力が入った。ぐっとさらに抱き寄せられる。
「ねえ、アザミくん?」
「……」
「ああいう人たちを救うには、俺たち個人では力が足りないんだ。そのために教会や行政があるんだよ」
そこで初めて、アザミは教会のことを思いだした。そうだ、教会では定期的に炊き出しをしているし、アザミ自身仕事の面倒も見てもらった。
(僕はぜんぜん考えが足りなかった……)
食べ物に困っている人にまた出会ったとき、同じように中途半端な手助けをするかもしれない。その行動を絶対悪だとは思わない。しかし、それで手を離すようではただの自己満足だ。そんなこと、ハナミは当然わかっていたようだったが、アザミは思いいたれなかった。
同い年だったはずのハナミが、すごく遠い人に感じられる。
ハナミの腕から離れ、改めて彼を見上げた。十代の甘さがとれた精悍な顔立ちには、確かにアザミの知らない九年の歴史が刻まれている。
(そうだよな、こいつはもう立派な大人なんだ……)
再会したときよりいっそう、年の差を感じる。ハナミもそう感じているのではないだろうか。過去をはぐらかされたのは、アザミが子どもすぎるせいかもしれない。
「アザミくん?」
じっとハナミを見つめるアザミに、ハナミが戸惑った様子で声をかける。
「あっ、ご、ごめん」
うまく立ち回れない自分が子どもじみていて嫌になる。
「帰ろうか」
「……うん」
どこかぎこちない動作で、アザミたちは食堂に帰った。ハナミに手を握られたが、わざわざ振り払うのも子どもっぽい気がしてそのままにした。
翌日。
ヌーヌ曜日もギルドの仕事は休みだ。そのため、アザミは昼間も食堂を手伝っていた。
「おーい、鶏肉の炒めはまだかあ?」
「はっ、はい!」
職人の妻が営んでいる店だからか、アンリの闊達な人柄のせいか、このラロンド食堂の常連は職人が大半だ。体格のいい男たちは、夜はもちろん朝でも昼でも酒をあおり、大声でげらげらと笑う。
そんなラロンド食堂に似つかわしくない客が、店前に大行列をなしていた。
開け放った窓の前にハナミが立ち、手際よく行列をさばいていく。カウンターに山盛りに載せていたビスケットは、まだ開店から一時間足らずにもかかわらず、すでにほとんどが売れていた。客の九割は女性だ。遠目に見ても皆おしゃれしているのがわかる。先頭に立つソフィは花屋を営んでおり、胸元に生花を挿していた。
「ハナミさん、こんにちは」
「こんにちは、ソフィさん。またいらしてくださったんですね」
ソフィは雪のように白い頬を赤く染める。目を伏した彼女は、残り少ないビスケットを大量買いしていった。
「また来ますね」
という言葉を残して。
ハナミは次の客にも同じような対応をする。時折「きゃあ」と黄色い悲鳴があがるのは、彼がにこりと微笑むからだ。
(うわあ……)
彼が菓子を売っているところを見るのは初めてだった。彼の作るものはどれもおいしかったので、そりゃあ人気が出るだろうと思っていたが、こういう売りかただとは……。
(でも、本人もまんざらでもなさそうだよな)
ハナミが愛想良く接客していることになぜか腹が立つ。
「アザミー、これ運んでー!」
「はい!」
つい手を止めてしまっていたアザミは、慌てて配膳に向かう。と、そのとき。
「ハナミさんって、本当に素敵だわ!」
肉屋のエメが、窓の外からハナミの手を引っ張った。体勢を崩したハナミの唇に唇を寄せる。
「ふふっ、大好きよ! また来るわね!」
ギャアアアと一帯が阿鼻叫喚。アザミは今度こそ固まった。
(あ、キ、キスした……)
ハナミは何事もなかったように次の客を相手にしている。客たちはあいかわらず騒然としていて、立ち去るエメに詰め寄ろうとする者もいたし、ハナミに彼女との関係を問いただそうとする者も後を絶たなかった。
だが、アザミはただ立ち尽くすことしかできなかった。胸に宿った不快な気持ちを押し殺すのに必死だったから。
先ほどのキスシーンがどうしても頭から離れない。そのうちハナミはエメと付き合うのだろうか。この家を出て、二人で暮らすかも……想像が無限に広がる。嫌だ。取られたくない。
(こんな感情知りたくなかった……)
親友の一番でいたい。そんな子どもっぽい自分の独占欲にほとほと嫌気がさす。
ハナミを見ていられなくて、アザミは仕事に専念することにした。胸にうずまくもやもやは晴れそうになかった。
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