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1 眠れぬ夜

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 音もなく、壁面に埋め込まれてあるデジタル時計の表示が変わった。
 それを横目で確認しながら、大きく寝返りをうって、彼女はこれが何度目のものかを考えていた。
「――」
 眠れない夜が続いていた。
 もう半年以上もだ。
 微睡んでは悪夢にうなされるように飛び起き、或いは身体を痙攣させた衝撃で目覚める。
 ならばいっそ眠らない方が楽なのかもしれない。

 原因はわかっている。

 だが、それにどう対応していいのかは、彼女にはわからなかった。
 答えの出ない問いを何度も繰り返し、結局はあきらめて別のことを考えようと意識を拡散させ、それでもまた最初の問いへと思考は戻っていく。
 そうしてそれは、窓代わりの壁面のスクリーンが時間に合わせて夜明けの薄闇を演出するまで続くのだ。
 こんな夜は、いつもシイナはマナを思い出す。
 つまり、毎日だ。
 マナ――それはシイナが育てた、彼女の娘に等しい少女だった。
 滅びの近い生き残りの人間と生殖能力を持たないクローンが取り残された絶望的なこの世界で、人類の未来を救うべく造られた唯一の女性体。

 奇跡のような少女。

 女が極端に産まれにくくなり、また、産まれても不妊の女性体の中で、彼女はクローンでありながらも強い血筋故に完全な生殖能力を持っていた。
 彼女を母体として、凍結保存させた精子との人工授精により、子供を産ませようとしていたシイナにとって、自分の命より大事な少女だった。
 だが、マナは去ってしまった。
 実験体のユウとともに。
 彼女が選んだ愛する者とともに。

 人類を滅亡から救うという最後の希望を捨てて。

 シイナには今もって理解することができない。
 崇高な使命を、愛という個人的な感情で放棄した養い子の心情を。
 当然の義務のように、生まれたときから決められていたように自然なその存在理由を、なぜマナは捨て去ることができたのだろう。
 それどころか、なぜ、疑問を持ち、思考し、自らの判断で選択し、拒絶したのか。
 そんな機会さえ、与えなかったのに。
 そうして、ここから去っていこうとする彼女の言葉が頭を離れない。

――わかって、博士。あたしユウが好きなの。彼を愛してるの。ユウでなきゃ、だめなの。

 愛するということ。
 それは、一体どういうことなのか。

 シイナはずっとそれを考えていた。

 誰かを大事だと思うこと。
 愛しいと思うこと。

 だが、それだけではないことも知っている。
 たくさんの愛があり、表現も、強さも、形も、変化も、それぞれだ。
 どれもそれは優しくありながら激しく、穏やかでありながら深い。

 そして自分には、それがない。

 欠陥品である自分にあるのは、怒りや憎しみといった負の感情だけだ。
 愛などという概念がこの世界から失われて、どれほど永い時間が経ったのか。
 特に、生殖能力が著しく衰え、生殖行為が義務と使命となったとき、彼ら人類は個人的な愛情を捨てた。
 自然界の動物のように、繁殖のための行為と割り切った。
 一妻多夫制を取り入れ、子孫を残せる雌に群がる獣のように生殖行為を繰り返した。
 それでも。
 どんなにあがいても。
 未来は変わらなかった。

 滅びは予定調和だったのだ。

 ならば、なぜもっと早く、諦めてくれなかったのだろうと、シイナは今も思う。
 もっと早く、潔く諦めてくれていたなら、自分は存在しなくても良かった。
 無用に傷つかなくても良かった。
 世界を呪わずにすんだ。

 この呪われた世界で、死ぬまでの間、こうして苦しみ続けることもなかったのに――

「――」
 密かな足音が聞こえる。
 やはり防音システムに切り替えておかなくてよかったと、シイナは思った。
 ベッドから起き、ドアへと向かう。
 パネルのボタンを押し、ドアを開ける。
 いきなり開いたドアに、フジオミのほうが驚いた。
「シイナ、起きていたのかい?」
「――ええ。あなたこそ、こんなに遅くに帰ってくるなんて」
「ああ。渡したいものがあったんだ。枯れないうちにと思ったら、こんな時間になってしまった」
 フジオミが腕を上げると、シイナの目に鮮烈な深紅が映った。
「これを君に」
 フジオミのさしだしたのは、まだ少し開き足りない、七分咲きの深紅の薔薇だった。
 彼の身体や髪には雨の雫がまとわりついていたのに、その深紅の薔薇には、微かな露しかなかった。
「どうしたの、これ?」
「第二ドームでの実験用のものを少しもらってきたんだ」
「これを、なぜ私に?」
「とても綺麗だから、君に贈りたくなった。花を贈る風習は、昔にもあったそうだ。僕もそれに習ってみた」
「――」
 微笑って、フジオミは濡れた髪をかきあげた。

 花を贈る。

 シイナだとて知っている。
 それは愛情を表す行為だということを。
 しかし、それが自分に、しかも、フジオミからなされようとは。
 こんな馬鹿げた行為に何の意味があるのだと、シイナは問いただしたい衝動にかられたが、かろうじて表情にも行動にも出さなかった。
 もう一度、腕の中の薔薇を見る。
 ビロードのように滑らかな花弁は、花開くのを待つかのようにほんの少しつぼみをほころばせている。
 彼の行動が改めて奇異に思えて、シイナはその薔薇に魅入る振りをした。
 内心の溜息を押し殺して。
「――」
 フジオミの行動には、理解しがたいものがある。
 この半年、いつも彼はシイナの考えられるあらゆる行動パターンから外れたことをするため、最初の頃のようにあからさまに動揺することはなくなったが、それがいっそうシイナにフジオミを理解させがたくしている。
 以前は全てがどうでもいいこととして、ただ己の楽しみのためだけに行動していたフジオミは、今は見る影もない。
 議長であるカタオカの補佐として、現存するドームを統括し、彼の本来の『義務』を果たしている。
 おかげで、ドームでの生活はここ半年で快適に変わりつつある。
 同時に、シイナの激務も減り、煩わしい事務処理に追われることもなくなった。
 驚いたことに、シイナには余暇さえ、できるようになった。
 そうして、空いた時間に、決まってフジオミは現れる。
 そうして、二人で時を過ごそうとする。
 時には、ただ同じ空間にいるだけ。
 時には、何気ない会話で。
 時には、食事に誘ったり。
 時には、今のように贈り物を持ってきたり。
 シイナが断れば、無理強いしない。
 そう――断るという、選択権さえ与えてくれる。
 それこそがシイナを驚かせる要因の最大の一つだ。
 あの、フジオミが、シイナの拒絶を許すのだ。
 自己中心的な以前のフジオミからは到底考えられない行動だった。
 以前には、第二ドームへ出かけたはずのフジオミを、シイナの部屋の扉の前で座って眠っているのを見つけたこともあった。
 理由を聞けば何のことはない。
 フジオミはただ、誰よりも早く彼女の顔が見たいと、ただそれだけだったのだ。
 そんなことが数度あり、起こしてもいいので入ってくればいいとシイナは何度も言ったが、フジオミは起こしたくないのだと決して部屋へ入ろうとはしなかった。
 それ以降、シイナはフジオミが帰る予定の日には眠らずに待つことにした。
「では、僕はもう行くよ」
「あなたは来るときも帰るときも、いつも唐突なのね。濡れた身体を拭いてからいったらどう?」
「――いいや。やめておくよ。こんな時間にいつまでも二人でいたら、何をするかわからない」
 冗談めいた口調だったが、シイナは身体を強ばらせてしまった。
 そしてそれは、フジオミにもわかった。
「――」
 気まずい沈黙を、シイナは感じた。
「――心配しなくていい。言っただろう。君を傷つけることは、もうしない」
 何事もないかのように、フジオミは微笑ってシイナの手をとった。
 そうして、優しく彼女の手にくちづけた。
 それが、フジオミが彼女から去るときのここ半年の儀式。
 紳士らしく一歩離れてから背を向けたフジオミの背中に、シイナはとっさに叫んでいた。
「待って、フジオミ!!」
 その声音の激しさに驚いて振り返る彼の視線を感じ、けれどシイナは言葉を失くした。
「シイナ――?」
「――いえ、いいの。花を、ありがとう」
「ああ。お休み、シイナ。よい夢を」
 微笑って、フジオミは自分に宛われた部屋へと去っていった。
 シイナはパネルのボタンを押し扉を閉めると、備え付けのバスルームに入り、空のバスタブへ薔薇をおいた。
 この部屋に花瓶などなく、ましてや花を生ける風習など耐えて久しい社会に育ったシイナには、辛うじて切った花は水に入れなくてはならないのだということしか考えつかなかった。
 そうしてバスタブに水を入れる。
 水位が上がるにつれて水の上をたゆとう深紅の薔薇を見ながら。

 よい夢を。

 フジオミの言葉が甦る。

 馬鹿馬鹿しい――正直、大声でそう叫びだしたい気分だ。

 よい夢など、もう自分は見ることはないかもしれないのだ。
 そう言ったフジオミのせいで。
 シイナは苛立たしげに水を止めた。
 眠れない夜をいくつ過ごせば、この痛みは消えるのだろう。

 胸が痛い。

 けれどそれは、肉体の痛みではない。
 原因はフジオミだ。
 彼がシイナを愛することが、苦痛で堪らないのだ。
 わかっていながら、シイナにはどうすることもできなかった。
 ただ苦しいだけであるのなら、切り捨ててしまえばよかった。
 けれどそれは苦痛以外のもどかしい焦燥も自分に自覚させる。

 いつまでこんな痛みを抱えていればいいのだろう。

 愛する、ということがわかれないのだ。彼女には。
 身体を重ねることだけが愛ではないと、フジオミは言った。
 心だけが感じる穏やかな愛もあるのだと。
 だがフジオミの行動は、肉体を求められることと同じくらい、シイナにとっては苦痛なのだ。
 寄せてくる想いと同じものを、返せるわけでもないのに。
 いっそ見返りを求めてくれたほうが楽だった。

 今までさんざんそうしてきたではないか。
 泣いて嫌がる自分を初めて犯したあの日から。

 あの時から、シイナは全てを義務だと諦め、割り切った。
 そうして、己の義務を果たしてきた。
 それなのに。

 こんな一方的で押しつけがましい愛情を、何故今更自分に与えるのだろう。

 意味のない優しさなどいらない。
 はきちがえた思いやりもいらない。
 放っておいて欲しかった。
 許されるなら、傍にも来てもらいたくない。
 それでも、身に染みついた義務感は、フジオミを邪険に扱えない。
 本来自分には、拒否権など無いのだ。

 彼は生殖能力を持つ完全な男性体だから。
 本来ならマナとの間に子供をもうける貴重な子種だったのだから。

 遺伝病を抱えた不妊の自分とは違う、特別な存在だ。
 未来を創れない、希望を残せない自分は、すでに生殖能力を持った女性体のいない社会では、男の欲望のはけ口として使役されるだけなのだ。
 そんな風に刷り込まれた自分自身にもまた腹が立つ。
「――」
 じりじりした思いを抱えたまま、時は流れる。

 そうして、また、朝が来る――




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