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2 人間とクローン

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 居住区から研究区へと移動するシイナは、二階から九階までをぶちぬいて作った実験用植物の温室の前で、フジオミを見つけた。
 樹脂ガラスの向こうの緑の群れに視線を注ぐ彼の横顔を、シイナは少しの間観察するように見つめていた。
「フジオミ――?」
 声をかけると、すぐに彼はシイナに気づき、穏やかな笑みを返した。
「おはよう、シイナ」
 フジオミはどうやらここの温室が気に入っているようだ。
 初めて彼をマナと会わせたときも、彼はここにいた。
「あなたはいつもここにいるのね」
「ああ。研究区域の中では、ここが一番おもしろいからね」
「おもしろい?」
「見るたびに、植物は外観が変わっていくだろう。僕等とは違う速さで成長と再生を繰り返す。それがとても、不思議に思えてならないんだ」
 新たに開発された光源の照射により、太陽の光がなくとも限りなく近い状態で成長する植物達。
 世代を重ねるごとに、ドーム内の植物はそれに慣れ、もはや外界の環境では生きられなくなり、今日に至っている。
「この植物達は、決してじかに太陽を浴びることはない。外界では、その環境の厳しさに耐えられないんだ。予測されない突然の風や雨、寒さや暑さの前では、赤ん坊に等しい。
 彼等はこの整備された、限られた空間でしか生きられない。その弱さが、僕には愛おしい」
 フジオミは、管理される植物に、自分達を重ねているのだろう。
 このドームから出ては生きられない、脆弱になってしまった人間を。
 だが、その言葉には慈しみが感じられた。
 以前の掴み所のないシニカルな彼を思うと、随分と変わったように思われた。
 シイナは、今のフジオミのほうが以前の彼よりはまだいいと思えた。
 以前の彼は、いつも投げやりな感で、義務や使命より、自分の楽しみを優先させ、それ以外の全てにおいてはどうでもいいように振る舞っていた。
 そしてそれは、シイナに彼への嫌悪と不快感を嫌が応にも掻き立てた。
 だが、今は違う。
 今のフジオミは、穏やかな瞳をしている。
 全てを許すかのように慈愛に満ちた瞳が、いつもシイナを追っていた。
 それを感じているのは決して不快なだけではないが、今までにない様々な感情と葛藤をシイナの内に沸き上がらせるのだ。
 もしかしたら、これが本来のフジオミだったのかもと錯覚に陥りそうになり、慌ててその思考を振り払う。

 そんなはずはない。

 そう思いたいのに、錯覚に呑まれそうになる。
 マナが――自分の最後の希望が潰えたという衝撃が感覚を麻痺させている間に、フジオミは以前とは全く違う形で自分の日常に入り込んでしまったのだ。
 この半年のフジオミの変わり様は、シイナから彼に対するあからさまな敵意を奪ってしまった。
 それほどに、フジオミは変わってしまった。
 そんな風に彼を変えてしまったのは、やはり、『愛』なのだろうか。
 その変化が、シイナには信じられないのだ。
 まるで、作り話のように。
 端から見れば、それはよい変化なのだろう。
 本来そうであるべきだったフジオミの姿なのだから。
 そう思う反面、心の何処かが冷静に、何を今更、とも思う。
 さんざん自分を傷つけてきたくせにと。
 フジオミの変化は、シイナを混乱させる。
 だから不安を拭いきれない。

 こんな事が起こるはずがないのに。
 こんな事は間違っているはずのに。

 フジオミは変わった。
 自分は変わらない――変われない。

 何もかもがとても大きな渦を描く流れとして動いていく。

 自分だけがその中心に滞っているようで。
 この穏やかな時間が、いつかどうしようもない激しさで壊れていくようで。

 シイナは、その事実に目を背けたかった。
「――もう、行くわ」
 会話を切り上げて、シイナはその場から離れる意志を告げた。
「ああ。僕のおしゃべりにつきあってくれてありがとう」
「いいえ。私のほうが教えてもらったわ」
「また、仕事の後で会えるかい?」
「……約束は、できないわ」
「じゃあ、終わる頃に行くよ。もし早く終わるなら、夕食を一緒にどうだい」
「――ええ。いいわ」
 背を向けても、フジオミの視線が自分に注がれているのをシイナは感じていた。
 きっと自分の姿が見えなくなるまで、彼は目を離したりしないのだろう。
 自分に割り当てられた研究室に入り、シイナは椅子に座り込む。
 朝からフジオミに会ってしまったせいで心は千々に乱れていた。
 片付けねばならない仕事を前にしても、なぜか切り替えられない。

 マナがいない今、研究を続けて何になる。

 そんな考えが頭を離れない。
 だが、研究を止めてしまったなら、自分はどうなる。
 何をすればいい。
 死ぬまで、こんな生ぬるい、フジオミとの時間を過ごせというのか。

 穏やかな会話。
 優しい心配り。

 けれど、燻る苛立ちと不安でどうしようもなくなる。
 そして思考は堂々巡りを繰り返す。
 周囲の全てがあまりにも、変わりすぎてしまった。
 マナもなく、自分達の存在理由さえ、もう定かではない。
 寿命さえも短くなってしまった今、残された人間達は穏やかに時を過ごすだけ。
 シイナにとっては、何の意味もないくだらない生活だ。
 彼女は常に求めていた。

 自分の存在する理由を。
 意義を。

 フジオミは、一体どうしたいのだろう。
 愛するということだけで、残りの生を過ごそうというのだろうか。
 それは、シイナにとってはとても奇妙なことに思える。
 自分に対する感情が愛とわかったから、生殖の欲求は消えたというのだろうか。
 だが、そうであるなら、それを愛とは言わないのではないか。
 肉欲を伴った愛があるからこそ、人は――人類は生き続けてきたのではないのか。
 だからこそ、マナはフジオミではなくユウを選んだのではないのか。

 精神と肉体の繋がりは、一体どちらが強いのだろう。
 どちらがより強ければ、愛といえるのだろう。

「――」
 いくら考えても答えの出ない問いを考えることに、シイナはうんざりしてた。
 だから、目の前の書類に無理矢理目を向け、仕事に没頭した。




「博士。新しい報告です」
 研究室に入ってきたクローンに視線を向けることなく、
「そこに置いていって。後で見るわ」
 そう告げた。
 ようやく書類に集中出来たところだった。
 この流れを乱したくなかった。
「失礼ですが、説明した方が早いかと」
 書類を机の横に置いて動こうとしないクローンに、訝しげにシイナは顔を上げた。
 自分の命令に従わず、尚かつ意見するようなクローンがいることに気を取られた。
「説明できるの?」
「はい。僕の担当ですから」
 受け答えさえ淀みない。
 作業用クローンが見せるどこか脅えた態度もない。
 シイナは先ほどまで読んでいた書類を置いた。
 すかさず手渡される端末を受け取る。
「あなた――」
「シロウ=オオキです」
「シロウ――」
 その名をどこかで聞いたことがあると、シイナは暫し考え、納得した。
 作業用クローンの中で唯一知能低下の起こらない、オリジナルの知能指数が非常に高いクローン体の名だ。
 背の高い、穏やかな雰囲気を持ったクローンだった。
 整った顔立ちの三十前後だろう容貌。
 クローニングの段階で起こる知能の低下を感じさせない理知的な瞳がこちらを見ている。
 白衣の左胸の所属を表すプレートを見ると、年齢は三十二歳と書かれていた。
 耐久年数を超えていることに驚く。
 きっと彼も、そう長くはないだろう。
 クローン体の寿命は、人間よりも短い。
 五十年を生きる人に対し、彼等は三十年前後。
 ユカの情報を全て写し取って、ユカ自身に産ませたマナでも、例外ではない。
 だから、急いだのだ。
 マナが、大人になって、フジオミとの子供を生んでくれることを。
 たくさんの子供を産んで、未来への希望を繋いでくれることを。
 それら全てが、今となっては無駄になってしまったが。

「シロウ、あなたのオリジナルは、とても優秀だったのね。何度クローニングされてもその頭脳に損傷が起こらない。あなたの頭脳は私達の研究にとても貢献しています。ありがとう」

 かけられた言葉に、今度はシロウの方が暫し考えるような目でシイナを見返し、
「――いいえ。あなたは、僕が思っていたのとは別人のようだ」
 そう感慨深げに答えた。
 クローンに特有の怯えと動揺は、シロウからは全く感じられなかった。
 それがかえってシイナには好感が持てた。
「気を悪くなさらないでください。クローンには容赦のない人だと伺っていたものですから」
 率直なシロウの言葉に、シイナは微笑った。
「私は能力が高ければ人であるかクローンであるかにはこだわらないことにしているのよ。私も、偉そうなことを言える立場ではないしね」
 シイナの厳しさは、自分でも自覚している。
 彼女は失敗を許さない。
 とくに、些細なミスであればあるほど。
 できることをしない存在を、彼女は嫌いだった。
「私が求めるのは有能な人間よ。役に立たないのなら要らない。それだけよ」
「ならば、私は必要ですか」
「ええ。あなたは有能だわ。その頭脳が我々人類に貢献しているかぎり、あなたは必要な存在よ」
「わかりました。では、研究の報告を」
 切り替えの早い彼を、シイナは好ましく思った。
 シロウはクローニングに関する研究に携わる研究員だった。
 本来なら人間の仕事であったが、研究者が高齢となり、代わりに研究を引き継いだのだ。
 シロウの報告はシイナにとって満足すぎるものだった。
 端末に入れられた資料もわかりやすく、それを読み上げるだけでなく丁寧な解説を入れ、かといってシイナが退屈することもない――他のクローンではこうはいくまい。
 すでに人間よりも、人間に代わってこのドームを維持し続けるクローンが多いことに、シイナは今更ながら気づいた。
 最早、人間よりも多いクローン。
 最後の希望であるマナさえ、クローンだった。
 もしも、マナやシロウのような特別なクローンを創り出すことができるのなら、人類も滅びたとは言えないのではないか。
 少なくとも、表面的には。
 そんな考えが頭をよぎる。

 今後は、クローニング技術に力を入れるべきなのかも知れない。

 そう思わせるに十分な報告だった。
 知能低下と生殖能力についての弊害が克服出来れば、また母体を得ることも可能かもと、シイナはシロウの報告を聞きながら改めて考えた。
「――以上です」
 報告がすむと、シロウはある希望を口にした。
「以前のクローニングの資料を見たいと?」
「そうです」
「何故?」
「クローニング処理について一つ気になることがあるのです。初期の段階から行われたクローニングの資料を見れば、気がかりも解消するかと」
 シイナの考えを踏襲するかのようなシロウの希望に、内心驚く。
「でも、あなたが希望する資料はデータではなく紙媒体よ。資料倉庫にあるのは間違いないけれど、何十年も手つかずのままで探すのは大変かも知れない」
「構いません。探す年代はすでに絞り込んであります。資料倉庫は年代別に分類してあると確認済みです。許可して頂ければ自分で探します」
 シロウは資料倉庫に入ったことがないから、そのように簡単に言うが、あそこは年代以上の細かな分類もせずに棚に押し込められた資料で溢れかえっている。
 以前、自分もマナに関する研究で資料を探そうとしてクローンを連れて行ったが、丸二日かかったことを思い出す。
 シイナは溜息をついた。
 端末の電源を落とし、立ち上がる。
「わかった。私も行くわ」
「博士? あなたの手を煩わすようなことではありません」
「あなた一人では、目的のものを探すには1週間はかかるかもしれない。それ以上に煩わしいことなど、今の私にはないわ。それに、あなたの話を聞いて、私も気になる資料をもう一度見てみたいの。これは決定よ」
「――わかりました。よろしくお願いします」



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