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15 答えの出ぬ感情
しおりを挟む控えめなノックの音に、シイナは気づいて目を開けた。
「――」
浅い眠りだったのか、眠っていなかったのか、わからない状態でゆっくりと身体を起こす。
時計は朝の五時を少し過ぎたところだった。
「フジオミ?」
「そうだよ。開けていい?」
「待って、私が行くわ」
手ぐしで髪を直して立ち上がる。
もう目眩はない。
真っ直ぐドアに向かい、開けると、フジオミが立っている。
昨日の今日で顔を合わせづらいのが本音だが、シイナは平静を装った。
「どうしたの?」
「朝早くにごめん。第二ドームで何かあったらしい。呼ばれたから、今から行かなければならなくなったんだ」
「――」
聞いた途端、胸がざわりとした。
フジオミがいなくなる。
「――長く、なるの?」
それだけが、ようやく問い返せた。
「わからない。詳しいことは来てからと言うことだったから。出来るだけ早く戻るつもりだ。だから」
フジオミはシイナに手を伸ばし、その手をを取った。
「僕が帰ってくるまで、決して研究区では一人にならないで。仕事部屋以外にも行かないで欲しいんだ」
温かな手は、いつもと同じだった。
「――」
「心配なんだ。シイナ、お願いだ」
「……わかったわ」
シイナの答えを聞いて安心したのか、フジオミがほっと息をつく。
「ありがとう。カタオカにはもう話したから、何かあったら彼を頼るんだ。じゃあ、行ってくる」
もう一度、やや強く手を握ってから、フジオミは自分の手を離した。
そうして、部屋を出て行った。
ドアの前で立ちつくしたまま、シイナは動けなかった。
なぜ動けないのか。
何も思いつかない。
妙な気持ちになる。
この感情は、感覚は、何なのだろう。
守ってくれるものがいないことから来る孤独感か。
ただ単に、熟睡できていない倦怠感なのか。
「……」
ゆっくりと、寝室のドアを閉める。
そうして、ベッドに戻る。
横になっても目を閉じる気にはなれなかった。
天井を見つめたまま、シイナはただぼんやりとしていた。
目を閉じてみても、結局起きる時間になるまで、眠ることはなかった。
カタオカの部屋の前で、シイナは暫し立ちつくしていた。
なぜ、ここへ来てしまったのだろう。
どんなにわめいて理不尽なことを言っても、彼なら黙って受けとめてくれると知っているからか。
フジオミがいない今、頼れるのは彼だけだということも、シイナにはわかっている。
冷静に、感情に流されることなく話をしなければならなかった。
答えの出ない問いを一人で考えることに疲れていた。
かといって、カタオカに答えを出してもらおうと思ってはいない。
ただ、聞いてほしかったのだ。
そして、自分の気づかない点、カタオカが見る自分とフジオミの関係を、知りたかった。
客観的に分析できるなら、何か違う打開策が立てられるのではないかとかすかな期待を抱いていたのである。
思い切って部屋に入ると、この前のことを気にしたふうもなく、むしろシイナの再来を喜ぶようなカタオカに、ほんの少し心が軽くなる。
受け入れられたことに安堵し、シイナは語り出した。
「愛せないのなら、はっきりとそう告げるべきだ」
「カタオカ……」
「何を恐れているんだい? 彼を傷つけることかい? だが、君の曖昧な態度が、一層彼を傷つける事態を招くかもしれない」
「わからないんです――愛していなくても、彼を拒絶することはできない。
それは義務だからです。その義務から、逃れることはできません。
自由にしてもいいといいますが、私にはそれは理解できないのです。
本来、私達女性に、自由などなかったではないですか。
そのように、あなたたちが、この世界が、私を育てたのではないですか。
私がマナと同じ少女であったなら、それを学ぶことも理解することもできたかもしれません。
ですが、すでに、私は理解することはできないところまで来てしまったのです。
あなたたちは男だから、真の意味で私達女性を理解することはできないでしょう。私達女性が、真の意味で男性を理解することが出来ないように」
だが、カタオカはゆっくり首を振る。
「シイナ。誰も、誰かを完全に理解できるなんて事は、有り得ないんだよ。そんなことは、誰にも出来ない。ただ、寄り添うだけだ。相手の心に出来る限り近づくために」
「それが、愛ですか?」
「ああ。それも、愛だ」
フジオミの心に近づく。
しかし、それは途方もない難題のように彼女には思えた。
「私のような欠けた人間にでも優しくしてくれる人を、傷つけたくないと思うのは、ただの弱さですか」
「そこに愛情がなければ、いつか君達は不幸になる」
カタオカは小さく息をついた。
「今はまだいい。フジオミは、君を愛するだけで精一杯だから。
だが、彼もいつか気づくだろう。
決して愛した分だけ愛されないことの辛さに。
同じ想いを返されぬ虚しさに。
君がこれから先、彼を愛せるというのならこんな考えは私の取り越し苦労ですむ。
だが、彼を愛せないことに君が苦痛を感じているのなら、優先すべきなのは君自身の気持ちなんだよ」
「――」
「シイナ、我々は君を大事に想っている。君を傷つけたが、それでも、今、我々は君をもう傷つけようとは思わないし、幸せになってほしいと思っている。だから、君は君の幸せのために、自分自身で決断していいんだよ」
「私の……幸せ?」
誰のことも考えなくていい。
自分の気持ちを優先していい。
それはとても、難しいことだ。
自分の本当の気持ちさえわからないのに。
自分の部屋に戻らずに、研究区へ入ると、シイナの仕事部屋の前に立っているシロウがいた。
「シロウ、なぜそこに」
「在来の印がなかったものですから。待っていればお出でになるかと」
「例の件ね――」
「はい」
シイナは息をつく。
「許可が出たわ」
シイナの言葉に、シロウは安堵の息をついた。
「ありがとうございます。早速実験を開始します」
シロウの静かな喜びを、シイナは感じた。
「嬉しいと感じているの?」
「今の状況なら、きっとそうでしょう。研究の成果が報われる時が来たのですから」
「そう、そうよね――」
かつて、自分もそうだった。
ユカがユウを出産してから、何度も行った実験。
期待に胸を膨らませ、失敗しては落ち込む日々。
マナが産まれた時の喜び。
マナが、自分を救ってくれると信じていた。
「――シロウ。あなたは、もしもたった一つだけ願いを叶えることができるとしたら、何を望むかしら?」
唐突に問われたシロウは、僅かに躊躇ったが、答えは淀みなかった。
「人類の復興。全ての再生と未来への希望です」
「そうね。当然の答えだわ――」
だが、シイナのその声音は裏腹だ。
「あなたは、そうではないのですか?」
「――」
その問いに、シイナは答えることが出来なかった。
シロウも、シイナの沈黙を察して、一礼するとその場を去った。
シイナは仕事部屋に入る。
「――」
入ったものの、入り口の前から一歩も進めなかった。
一人残された空間。
今は、フジオミもいない。
代わりに仕事部屋の外には監視カメラが据え付けられていた。
抑止力にはなると、わざわざフジオミがつけていったのだ。
傍にいなくても、守ろうとしてくれる。
心配だから研究区では一人にならないで欲しいというフジオミの言葉を思い出す。
慌てて、仕事部屋を出た。
今日はもう仕事をする気分にはとてもなれなかった。
研究区から、居住区の自分の部屋へ戻る。
ロックして、誰も入ってこられないようにする。
ここなら一人でも安全だ。
フジオミとの約束を、破ったことにもならない。
これ以上フジオミを傷つけることは出来ない。
ひどく疲れて、シイナは食卓の椅子に座り込んだ。
いつもフジオミと向かい合わせでしていた食事が遠い昔に感じられる。
今、彼は此処にいない。
優しく守ってくれる人がいない。
それが、落ち着かない。
あんなに尽くしてくれている彼に、どうして自分は応えることが出来ないのだろう。
フジオミの献身的な優しさに触れ、事実を知った今、フジオミに対する嫌悪感や不快感、怒りなど、負の感情は消えていた。
今では、フジオミはシイナの唯一の守護者だ。
フジオミがいなければ、自分は乱暴されかけた恐怖でおかしくなっていただろう。
今も、フジオミがいない空間に一人で居るのが怖くなる瞬間がある。
彼が傍にいれば、守られていると安心することが出来る。
だが、彼に応えたいと思うことは、義務感から来るものなのだ。
規則の遵守。
義務の遂行。
彼女の内に絡みつき、縛り上げ、雁字搦めにしているものは、彼女から心のままに感じるという自由を今も奪っている。
沸き上がる様々な感情が判断できない。
どれが自分の心からの気持ちなのか。
どれを優先するべきなのか。
「わからないわ――私には、もう、何もわからない…」
次の日、昨日来たのとほぼ同時刻に、シロウが仕事部屋にやってきた。
部屋には二人の他に誰もいない。
作業を頼むクローンを、まだ呼んでいなかった。
きっと報告だけだろうとシイナは気持ちを切り替えようとしたが、フジオミとの約束がやけに気になった。
「クローニングに入りました」
「そう――」
シイナのはっきりしない反応に、シロウが問う。
「何か、心配事でも?」
「いえ、何でもないわ。私も、様子が見たいわ。ラボに行きます」
ラボならば、クローンがたくさんいるはずだ。
シロウとこれ以上二人きりになることはない。
立ち上がったシイナは、足早に机を回る。
だが、いつもと違い急いでいたせいか、机の脇に足がぶつかった。
「!?」
体力が落ちていたために、ぶつかった衝撃で身体が容易くよろけた。
「博士っ!」
シロウが咄嗟にシイナの腕を掴んで引き寄せ、身体を支えた。
反動でシイナがシロウの腕にしがみつく格好になる。
「――」
「大丈夫ですか、博士」
「え、ええ。ありがとう。ごめんなさい」
しがみついた腕を支えに、シイナは身体を起こした。
その時。
「っ!!」
シイナは、声にならないシロウの僅かな身体の震えをとらえた。
まるで、腕の痛みを堪えるかのような、震え。
「シロウ――?」
軽く触っただけの筈だ。
直感が、シイナの身体を動かした。
シイナはシロウの腕を掴み直し、白衣の袖を服ごとまくった。
「!!」
すぐに腕を払われた。
しかし、シイナはそこに巻かれた包帯を、確かに見た。
シイナがペンを、突き刺したと思われる場所に。
「――」
血の気がひいていく。
身体が震える。
無意識に身体が後ずさる。
ゆっくりと、シイナは視線を上げた。
目の前の人物の顔を見ようとして。
「――今日、こっそり医局へ行くつもりだったのに。こんなことなら、昨日のうちに行けばよかったかな」
この場にそぐわない穏やかな声は、それでも全てを肯定していた。
「シロウ、あなたが……」
蒼白な顔で、シイナは呟いた。
「ええ。僕です」
平静な顔で、シロウは答えた。
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