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20 生と死
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「シイナ、起きて、シイナ」
肩を優しく揺すられて、シイナは目を覚ました。
「……フジオミ……?」
フジオミは、すでに身支度を整え、ベッドの脇に腰掛けてシイナを見つめていた。
「起こしてごめん。でも、研究区の医局からエマージェンシーがかかっていたんだ」
「エマージェンシー?」
フジオミは、シイナに着替えを差し出した。
「君の着替えを取りに部屋へ行って気づいた。端末も持ってきた」
そう言うと、フジオミはシイナに背を向けた。
シイナは起きあがり、ベッドの上で急いで服を身につける。
「着替えたわ。端末を」
背中を向けたまま、フジオミは膝の上に置いていた端末をシイナの方へと置いた。
「――」
端末を開きながらも訝しく思う。
どうして、こちらを見ないのだろう。
それでいて全身で自分の様子を窺っているのがわかる。
昨日のことを後悔しているのか。
いや、違う。
シイナ自身が後悔しているのではないかと、思っているのだ。
フジオミに問いかけたかったが、端末が起動して、すぐに通信に切り替わる。
シイナは端末に視線を戻した。
確かに、エマージェンシーは医局からだ。
コールを受け取り、医局との通信に入る。
待機していたクローンの姿が映し出される。
「何事なの。こんな朝早くに?」
『申し訳ありません。ですが、私達も初めてのことで、どうしていいかわからず――』
クローニングのことか。
だが、それなら医局からエマージェンシーが入るのはおかしい。
クローンの報告が、シイナに衝撃を与える。
「シロウが、倒れた――!?」
詳細は自分達も伝えることは出来ない。ただ、会って、報告しなければならない重要な事項があると伝えて欲しいと頼まれた。
クローン達の報告は、簡潔すぎて詳細がわからなかった。
深夜の研究区のラボで倒れ、医局に運ばれ、意識を失う前に頼まれたが、遅い時刻だったために、早朝にエマージェンシーコールしたということだった。
その報告に、シイナは蒼白になった。
まさか、シロウが倒れるなど思いもよらなかった。
自分が刺したあの傷口が感染症でも引き起こしたのか。
シロウからの衝撃の告白を聞いた後、逃げるように部屋へ戻ってから今まで、自分にはフジオミがいてくれたが、彼は、独りで研究を続けていたのだ。
逃げもせず、ただ、ずっと。
「――」
いても立ってもいられず、シイナは通信を終え、ベッドの脇に足を下ろして立ち上がる。
「医局に行ってくるわ。シロウの話を聞かないと」
寝室のドアに向かおうとするシイナの腕を、横に座っていたフジオミが止めるように掴んだ。
「フジオミ?」
「――僕とは? 僕も、君と話したいことがあるんだ」
フジオミはどこか不安げに見えた。
何を恐れているのだろう。
平静を取り戻した自分が、やはり彼を拒絶することを――?
自分も、フジオミと話をしなければと思っている。
だが、今はシロウのところに行かなくては。
シイナはフジオミの手に、自分の手を重ねた。
フジオミが驚いた表情で自分を見つめている。
「すぐに戻ってくるわ。私を待っていてくれる? 戻ってきたら、きちんと話をしましょう。私もあなたと話さなければならないことがあるから」
いつにない落ち着いたシイナの口調に、困惑しながらも、
「――わかった」
フジオミはそれだけを答えた。
フジオミが掴んでいたシイナの腕を放す。
完全に離れる前に、シイナはフジオミの手を握り返した。
そして、フジオミの部屋を出た。
シイナのいない部屋は、ひどく寂しく感じられた。
「――」
もともと、眠るだけのための部屋だったが、ここ半年はほとんどシイナの部屋で過ごしていたからか、空虚に感じられる。
空いたベッドには、ついさっきまでシイナが眠っていて、それだけで幸せだったのに。
たかがクローンの報告を聞くためだけに、行ってしまった。
否――たかがではない。
あのクローンはどこか普通のクローンとは違っていた。
だからこそ、シイナも行ってしまったのだ。
自分を置いて。
昨日の夜のことなど、何もなかったかのように。
「――」
落ち着きを取り戻したシイナが怖かった。
冷静になったなら、気づいたのか。
やはり、昨日のことは間違いだったのだと。
なかったことに、したいのだと。
「違う……」
出て行く時のシイナは、最後に自分の手を握ってくれた。
話すことがあると言ってくれた。
あの眼差しは、自分を拒絶していない。
昨日の夜だって、自分を受け入れてくれた。
昨日のシイナは、従順で、愛おしくて、素晴らしかった。
受け入れられて行うセックスが、あんなにも甘美なものだとフジオミは知らなかった。
だからこそ、無駄にしてきたこれまでの時間を悔やむ。
初めから、間違えていたのだ。
言い訳など必要なかった。
ただ、素直に、一途に、シイナを愛すればよかっただけだった。
「これが、罰か……」
子供の自分に忠告した、ユカの言葉が、甦る。
――フジオミ、愛するなら、自分の心に素直に愛しなさい。一途に、それしか意味をなさないように、見返りも求めずにただ愛しなさい。呼吸が止まるその瞬間まで、忘れないように。それができなければ、あなたはいつまでも不幸なままだわ
あの時から、ユカは全てに気づいていた。
愚かな者は自分の愚かさに気づかないということを。
何ということだろう。
ユカの忠告を聞かなかったばかりに、今、罰を受けているのだ。
愚かな子供が犯した過ちが、今、返ってきた。
何倍もの後悔と苦しみになって。
一人取り残され、不安ばかりが募っていく。
遅すぎるのか。
間違いを正すことは、もはや出来ないのだろうか。
「――」
物思いに耽っていると、シイナの端末に、また通信が入った。
今度はエマージェンシーではない。
通信元は、研究区のラボだ。
フジオミは、シイナの代わりに端末を開き、ラボとの通信を開いた。
医局は奇妙な静けさで満たされていた。
医局のクローン達は、皆一列に並んでシイナを迎えるために立っている。
「申し訳ありません、博士。急にお呼びすることになりまして」
「いいわ。それより、シロウは」
「はい。こちらです」
医局のリーダーであるクローンが先導し、奥の病室に案内される。
その後をぞろぞろとついてくる他のクローン達の様子は、以前のように怖がっている様に見え、シイナの違和感をますます募らせた。
奥の病室に入ると、規則正しい機械音が聞こえた。
そして、ベッドに横たわるシロウの姿が見えた。
シロウは、少し顔を向けて、シイナを見た。
「博士。来てくれたんですね」
言葉は、いつもより弱々しく聞こえた。
「シロウ、どうして」
「言ったでしょう? 僕の身体はもう、寿命なんです。実質二十二年、生きました。本当に、あっという間でした」
寿命。
言われてから、シイナはようやく気づいた。
クローニングの初期設定は十歳からだ。
基礎的な知識はそれまでに植え付けられるから、彼らにとって、実際に生きる時間はそこからなのだ。
だとしたら、シロウが言ったようにクローンは、実質二十年ほどしか生きていないことになる。
二十年。
たった、それだけ。
老いを迎えることなく、死に逝く者達。
それがクローンなのだ。
「――」
そして、今、シイナは死に逝くクローン体の臨終の場に立ち合うという行為ですら、初めてであることに気づいた。
病室で向かえる死。
クローン達は、このように死んでいくのか。
「最後に、どうしても話しておきたいことがあって、無理を言ってしまったんです。彼らを責めないでください」
振り返ると、病室からこちらを覗いているたくさんのクローン達の視線に、ようやく納得した。
医局のクローン達はシイナの叱責を恐れて怯えていたのだ。
無理もない。
クローンが臨終の場に〈人間〉を呼び出すなど、初めてのことであったのだから。
「責めたりしないわ。呼んでくれてありがとう。しばらく、二人だけにしてもらえるかしら。話すことがあるのよ」
安堵の気配とともに、一礼してクローン達が部屋から離れていく。
扉が閉じられてから、
「あなたを傷つけたいわけではなかった」
静かに声は響いた。
シイナが、静かに振り返る。
シロウは視線をシイナには向けなかった。
まるで、独り言のように、ただ、語った。
「ただ、僕は誰かに聞いてもらいたかったんだ。
とても苦しかった。
自分だけが、こんな苦しみを感じることに疲れていた――解放されたかった」
ゆっくりと、シイナはシロウの傍に近づいた。
シロウの言葉は、重く、だがまっすぐにシイナの胸に響いた。
彼の気持ちは、自分にはよくわかる。
かつては自分も、そうであったから。
ずっと世界を憎んでいた。
生きることを疎んでいた。
人間を嫌っていた。
カタオカを。
フジオミを。
そして、何よりそんなふうにしか感じられない自分自身を。
「――」
シイナの瞳から、涙が零れた。
それに気づいて、少し意外だとでも言うようにシロウは彼女を見つめた。
「シイナ、君――泣いているのかい……?」
零れる涙を、シイナは拭わなかった。
「もっと時間が、あると思っていたのよ。あなたと話せる、時間が――もっと……」
「そうだね。研究も、まだ途中だったね。僕も、もっと時間が欲しかった――でも」
安心させるように、シロウは微笑み返す。
「研究員の代わりならたくさんいる。この身体が死んでも、もう一度オリジナルがクローニングされる。いそいで成果をだす問題でもないんだから少し待てばいいだけだ。君が心配することは何も――」
「でも、あなたの代わりは、誰もいないわ」
その言葉に、シロウは一瞬、言葉を失くした。
暫しの沈黙の後、
「僕の、代わり――?」
囁くように、小さく漏れた言葉。
「そうよ。シロウ、あなたの代わりには、誰もなれない」
シイナの言いたいことは、シロウにも伝わった。
研究員としてではない、クローン体としてでもないあくまでもシロウ個人への、言葉だった。
生気のない瞳が、かすかな希望を見つけたように慄き、揺らいだ。
「――シイナ。僕には、意味があった? クローンでも、僕は、生きていた…?」
「ええ――ええ。あなたは素晴らしい人だった。
あなたは誰よりも生きることを愛し、その生の尊さに気づいていた。
そして生きることの意味を、私にも教えてくれた。
あなたには意味があるわ。あなたには、意味がある――」
それはかつて、フジオミがシイナに言ってくれた言葉だった。
意味があると、だからこそ、生まれてきたのだと。
そしてその言葉は、絶望に立たされていたシイナをかろうじて押しとどめた。
今死に逝くシロウをも救うだろう、厳かな、言葉だった。
シロウは静かに、息をついた。
「……できることなら、僕は〈人間〉として、産まれたかった。そうして――」
最後まで、シロウは言わなかった。
ただ穏やかに、シイナを見つめて。
「さあ、行って。僕ももう逝かなければ。ようやく、この長い苦しみから解放されるんだ」
「待って、シロウ。私にできることは? あなたのために、私がしてあげられることは?」
「本当に? 僕が無理難題を言ったら、どうするんですか――」
「あなたは言わないわ、そんなこと。優しい人だもの」
シロウは微笑った。
シイナは変わった。
相手を思いやる気持ちを、彼女はもう知っている。
変えたのはフジオミだ。
あの、自分にない全てを持った、美しい彼が。
「もう僕を、クローニングしないでくれますか……」
「わかったわ。他には?」
躊躇するだろうと思ったそれを、シイナはいとも容易く受け入れた。
穏やかで暖かい空気に満ちた今なら、どんなことでも叶えられる気がしていた。
シイナも。
シロウも。
「くちづけを。それだけで、いい」
シイナがゆっくりと近づいてくる。
かすむ視界を、シロウは無理に閉じた。
「――」
シイナの唇は温かかった。
こめかみに伝う涙と同じくらいに。
閉じた瞳を、シロウは開けなかった。
ただ最期に見たシイナの顔を閉じこめて逃さないように。
「さよなら、シイナ。フジオミと、幸せに……」
「シロウ、シロウ……」
そして静かに、呼吸を止めた。
彼の手が、自分の手の中で重くなっていくのが感じられた。
力のないその手がもう動かないのを確認した時、シイナは初めて死を知った。
死によって失われた命を悼むことを知った。
「――」
静かな衝撃で、動くことさえ出来なかった。
ただ、泣いた。
やがて、コムから控え目な声が漏れた。
外に出ていた医局のクローン達だった。
シイナは涙を拭い、立ち上がった。
「入ってもいいわ」
その声で、クローン達が何人か部屋へと入ってくる。
扉の向こうでは、残りのクローン達がそれぞれの持ち場で一日の作業を続けていた。
シロウの側に寄ったクローン達は、取り付けられた医療器具を外し、書類に何か書き込んでいる。
仲間が死んだというのに、彼らは黙々と作業を続けていた。
もはや死を何とも思わないのだろうか。
それとも、何かを感じるには、あまりにもたくさんの死を見すぎてしまったのか。
ただ、自分以外に彼の死を悼む者がいないのが不思議だった。
彼は、こんなに寂しく死んでいっていいのだろうか。
嘆くものもなく、ただ、医局の片隅でこんなにあっけなく通過儀礼のように死を迎えることがあってもいいのだろうか。
ただ、クローンだというだけで。
「遺体処理後は優先的に再クローニングの申請を――」
不意に、その言葉に我に返る。
「待ちなさい」
強い口調で、シイナはクローン達の動きを止めた。
戸惑った眼差しがこちらを見ていた。
「彼はもう、再生しないで。いいえ。これからはもう、全てのクローンを、再生しないで」
「ですが、規則では――」
「これは命令よ。もういいわ。もう、彼はいらない――」
言い捨てるようにして医局を出たあと、シイナは逃げるように足早にエレベータへと向かった。
ボタンを押すと、エレベータが動き出す。
だが、途中で堪えきれずに、その場にしゃがみこんだ。
一度開いたエレベータの扉が、もう一度閉まっても、シイナはしゃがみ込んだまま動けなかった。
身体の震えが止まらない。
激しい後悔と罪悪感に襲われる。
「――」
クローンには心などないと、思っていた。
そんな感情が、あるはずもないと思っていた。
だが、現実はどうだ。
同じ人間だったのだ。
自分達と同じ、心を持った、人間だったのだ。
なんて自分は愚かだったのだろうか。
自分の痛みしか、苦しみしか、見えていなかった。
クローニングを繰り返し、人間らしい扱いもせずに酷使してきた。
どうして、そんな酷いことができたのだろう。
どうして、何の疑問も抱かなかったのだろう。
虐げられた者の気持ちを、彼女こそが誰よりも理解できるはずだったのに。
遅すぎた。
痛烈に、シイナは感じた。
自分は彼を理解するのが遅すぎた。
もう、これ以上の報われぬ生は、彼にとってつらいだけなのだ。
生きることへの渇望と絶望。
それを抱えていくことに、すでに彼は疲れて果てていた。
そして、彼は死んでしまった。
例えどんなに再生を繰り返しても、それはもう、シイナの知っているシロウではない。
同じ遺伝子を持ち、同じ姿を持っていても、彼にはならないのだ。
もう二度と、彼には会えない。
それが、死ぬということなのだ。
そして、生きるということは、こんなにも切なく、苦しいものなのだ。
なぜ自分は、こんなになるまで自分以外の痛みに気づけなかったのだろう。
涙ばかりが、零れる。
なぜか、フジオミに、会いたかった。
肩を優しく揺すられて、シイナは目を覚ました。
「……フジオミ……?」
フジオミは、すでに身支度を整え、ベッドの脇に腰掛けてシイナを見つめていた。
「起こしてごめん。でも、研究区の医局からエマージェンシーがかかっていたんだ」
「エマージェンシー?」
フジオミは、シイナに着替えを差し出した。
「君の着替えを取りに部屋へ行って気づいた。端末も持ってきた」
そう言うと、フジオミはシイナに背を向けた。
シイナは起きあがり、ベッドの上で急いで服を身につける。
「着替えたわ。端末を」
背中を向けたまま、フジオミは膝の上に置いていた端末をシイナの方へと置いた。
「――」
端末を開きながらも訝しく思う。
どうして、こちらを見ないのだろう。
それでいて全身で自分の様子を窺っているのがわかる。
昨日のことを後悔しているのか。
いや、違う。
シイナ自身が後悔しているのではないかと、思っているのだ。
フジオミに問いかけたかったが、端末が起動して、すぐに通信に切り替わる。
シイナは端末に視線を戻した。
確かに、エマージェンシーは医局からだ。
コールを受け取り、医局との通信に入る。
待機していたクローンの姿が映し出される。
「何事なの。こんな朝早くに?」
『申し訳ありません。ですが、私達も初めてのことで、どうしていいかわからず――』
クローニングのことか。
だが、それなら医局からエマージェンシーが入るのはおかしい。
クローンの報告が、シイナに衝撃を与える。
「シロウが、倒れた――!?」
詳細は自分達も伝えることは出来ない。ただ、会って、報告しなければならない重要な事項があると伝えて欲しいと頼まれた。
クローン達の報告は、簡潔すぎて詳細がわからなかった。
深夜の研究区のラボで倒れ、医局に運ばれ、意識を失う前に頼まれたが、遅い時刻だったために、早朝にエマージェンシーコールしたということだった。
その報告に、シイナは蒼白になった。
まさか、シロウが倒れるなど思いもよらなかった。
自分が刺したあの傷口が感染症でも引き起こしたのか。
シロウからの衝撃の告白を聞いた後、逃げるように部屋へ戻ってから今まで、自分にはフジオミがいてくれたが、彼は、独りで研究を続けていたのだ。
逃げもせず、ただ、ずっと。
「――」
いても立ってもいられず、シイナは通信を終え、ベッドの脇に足を下ろして立ち上がる。
「医局に行ってくるわ。シロウの話を聞かないと」
寝室のドアに向かおうとするシイナの腕を、横に座っていたフジオミが止めるように掴んだ。
「フジオミ?」
「――僕とは? 僕も、君と話したいことがあるんだ」
フジオミはどこか不安げに見えた。
何を恐れているのだろう。
平静を取り戻した自分が、やはり彼を拒絶することを――?
自分も、フジオミと話をしなければと思っている。
だが、今はシロウのところに行かなくては。
シイナはフジオミの手に、自分の手を重ねた。
フジオミが驚いた表情で自分を見つめている。
「すぐに戻ってくるわ。私を待っていてくれる? 戻ってきたら、きちんと話をしましょう。私もあなたと話さなければならないことがあるから」
いつにない落ち着いたシイナの口調に、困惑しながらも、
「――わかった」
フジオミはそれだけを答えた。
フジオミが掴んでいたシイナの腕を放す。
完全に離れる前に、シイナはフジオミの手を握り返した。
そして、フジオミの部屋を出た。
シイナのいない部屋は、ひどく寂しく感じられた。
「――」
もともと、眠るだけのための部屋だったが、ここ半年はほとんどシイナの部屋で過ごしていたからか、空虚に感じられる。
空いたベッドには、ついさっきまでシイナが眠っていて、それだけで幸せだったのに。
たかがクローンの報告を聞くためだけに、行ってしまった。
否――たかがではない。
あのクローンはどこか普通のクローンとは違っていた。
だからこそ、シイナも行ってしまったのだ。
自分を置いて。
昨日の夜のことなど、何もなかったかのように。
「――」
落ち着きを取り戻したシイナが怖かった。
冷静になったなら、気づいたのか。
やはり、昨日のことは間違いだったのだと。
なかったことに、したいのだと。
「違う……」
出て行く時のシイナは、最後に自分の手を握ってくれた。
話すことがあると言ってくれた。
あの眼差しは、自分を拒絶していない。
昨日の夜だって、自分を受け入れてくれた。
昨日のシイナは、従順で、愛おしくて、素晴らしかった。
受け入れられて行うセックスが、あんなにも甘美なものだとフジオミは知らなかった。
だからこそ、無駄にしてきたこれまでの時間を悔やむ。
初めから、間違えていたのだ。
言い訳など必要なかった。
ただ、素直に、一途に、シイナを愛すればよかっただけだった。
「これが、罰か……」
子供の自分に忠告した、ユカの言葉が、甦る。
――フジオミ、愛するなら、自分の心に素直に愛しなさい。一途に、それしか意味をなさないように、見返りも求めずにただ愛しなさい。呼吸が止まるその瞬間まで、忘れないように。それができなければ、あなたはいつまでも不幸なままだわ
あの時から、ユカは全てに気づいていた。
愚かな者は自分の愚かさに気づかないということを。
何ということだろう。
ユカの忠告を聞かなかったばかりに、今、罰を受けているのだ。
愚かな子供が犯した過ちが、今、返ってきた。
何倍もの後悔と苦しみになって。
一人取り残され、不安ばかりが募っていく。
遅すぎるのか。
間違いを正すことは、もはや出来ないのだろうか。
「――」
物思いに耽っていると、シイナの端末に、また通信が入った。
今度はエマージェンシーではない。
通信元は、研究区のラボだ。
フジオミは、シイナの代わりに端末を開き、ラボとの通信を開いた。
医局は奇妙な静けさで満たされていた。
医局のクローン達は、皆一列に並んでシイナを迎えるために立っている。
「申し訳ありません、博士。急にお呼びすることになりまして」
「いいわ。それより、シロウは」
「はい。こちらです」
医局のリーダーであるクローンが先導し、奥の病室に案内される。
その後をぞろぞろとついてくる他のクローン達の様子は、以前のように怖がっている様に見え、シイナの違和感をますます募らせた。
奥の病室に入ると、規則正しい機械音が聞こえた。
そして、ベッドに横たわるシロウの姿が見えた。
シロウは、少し顔を向けて、シイナを見た。
「博士。来てくれたんですね」
言葉は、いつもより弱々しく聞こえた。
「シロウ、どうして」
「言ったでしょう? 僕の身体はもう、寿命なんです。実質二十二年、生きました。本当に、あっという間でした」
寿命。
言われてから、シイナはようやく気づいた。
クローニングの初期設定は十歳からだ。
基礎的な知識はそれまでに植え付けられるから、彼らにとって、実際に生きる時間はそこからなのだ。
だとしたら、シロウが言ったようにクローンは、実質二十年ほどしか生きていないことになる。
二十年。
たった、それだけ。
老いを迎えることなく、死に逝く者達。
それがクローンなのだ。
「――」
そして、今、シイナは死に逝くクローン体の臨終の場に立ち合うという行為ですら、初めてであることに気づいた。
病室で向かえる死。
クローン達は、このように死んでいくのか。
「最後に、どうしても話しておきたいことがあって、無理を言ってしまったんです。彼らを責めないでください」
振り返ると、病室からこちらを覗いているたくさんのクローン達の視線に、ようやく納得した。
医局のクローン達はシイナの叱責を恐れて怯えていたのだ。
無理もない。
クローンが臨終の場に〈人間〉を呼び出すなど、初めてのことであったのだから。
「責めたりしないわ。呼んでくれてありがとう。しばらく、二人だけにしてもらえるかしら。話すことがあるのよ」
安堵の気配とともに、一礼してクローン達が部屋から離れていく。
扉が閉じられてから、
「あなたを傷つけたいわけではなかった」
静かに声は響いた。
シイナが、静かに振り返る。
シロウは視線をシイナには向けなかった。
まるで、独り言のように、ただ、語った。
「ただ、僕は誰かに聞いてもらいたかったんだ。
とても苦しかった。
自分だけが、こんな苦しみを感じることに疲れていた――解放されたかった」
ゆっくりと、シイナはシロウの傍に近づいた。
シロウの言葉は、重く、だがまっすぐにシイナの胸に響いた。
彼の気持ちは、自分にはよくわかる。
かつては自分も、そうであったから。
ずっと世界を憎んでいた。
生きることを疎んでいた。
人間を嫌っていた。
カタオカを。
フジオミを。
そして、何よりそんなふうにしか感じられない自分自身を。
「――」
シイナの瞳から、涙が零れた。
それに気づいて、少し意外だとでも言うようにシロウは彼女を見つめた。
「シイナ、君――泣いているのかい……?」
零れる涙を、シイナは拭わなかった。
「もっと時間が、あると思っていたのよ。あなたと話せる、時間が――もっと……」
「そうだね。研究も、まだ途中だったね。僕も、もっと時間が欲しかった――でも」
安心させるように、シロウは微笑み返す。
「研究員の代わりならたくさんいる。この身体が死んでも、もう一度オリジナルがクローニングされる。いそいで成果をだす問題でもないんだから少し待てばいいだけだ。君が心配することは何も――」
「でも、あなたの代わりは、誰もいないわ」
その言葉に、シロウは一瞬、言葉を失くした。
暫しの沈黙の後、
「僕の、代わり――?」
囁くように、小さく漏れた言葉。
「そうよ。シロウ、あなたの代わりには、誰もなれない」
シイナの言いたいことは、シロウにも伝わった。
研究員としてではない、クローン体としてでもないあくまでもシロウ個人への、言葉だった。
生気のない瞳が、かすかな希望を見つけたように慄き、揺らいだ。
「――シイナ。僕には、意味があった? クローンでも、僕は、生きていた…?」
「ええ――ええ。あなたは素晴らしい人だった。
あなたは誰よりも生きることを愛し、その生の尊さに気づいていた。
そして生きることの意味を、私にも教えてくれた。
あなたには意味があるわ。あなたには、意味がある――」
それはかつて、フジオミがシイナに言ってくれた言葉だった。
意味があると、だからこそ、生まれてきたのだと。
そしてその言葉は、絶望に立たされていたシイナをかろうじて押しとどめた。
今死に逝くシロウをも救うだろう、厳かな、言葉だった。
シロウは静かに、息をついた。
「……できることなら、僕は〈人間〉として、産まれたかった。そうして――」
最後まで、シロウは言わなかった。
ただ穏やかに、シイナを見つめて。
「さあ、行って。僕ももう逝かなければ。ようやく、この長い苦しみから解放されるんだ」
「待って、シロウ。私にできることは? あなたのために、私がしてあげられることは?」
「本当に? 僕が無理難題を言ったら、どうするんですか――」
「あなたは言わないわ、そんなこと。優しい人だもの」
シロウは微笑った。
シイナは変わった。
相手を思いやる気持ちを、彼女はもう知っている。
変えたのはフジオミだ。
あの、自分にない全てを持った、美しい彼が。
「もう僕を、クローニングしないでくれますか……」
「わかったわ。他には?」
躊躇するだろうと思ったそれを、シイナはいとも容易く受け入れた。
穏やかで暖かい空気に満ちた今なら、どんなことでも叶えられる気がしていた。
シイナも。
シロウも。
「くちづけを。それだけで、いい」
シイナがゆっくりと近づいてくる。
かすむ視界を、シロウは無理に閉じた。
「――」
シイナの唇は温かかった。
こめかみに伝う涙と同じくらいに。
閉じた瞳を、シロウは開けなかった。
ただ最期に見たシイナの顔を閉じこめて逃さないように。
「さよなら、シイナ。フジオミと、幸せに……」
「シロウ、シロウ……」
そして静かに、呼吸を止めた。
彼の手が、自分の手の中で重くなっていくのが感じられた。
力のないその手がもう動かないのを確認した時、シイナは初めて死を知った。
死によって失われた命を悼むことを知った。
「――」
静かな衝撃で、動くことさえ出来なかった。
ただ、泣いた。
やがて、コムから控え目な声が漏れた。
外に出ていた医局のクローン達だった。
シイナは涙を拭い、立ち上がった。
「入ってもいいわ」
その声で、クローン達が何人か部屋へと入ってくる。
扉の向こうでは、残りのクローン達がそれぞれの持ち場で一日の作業を続けていた。
シロウの側に寄ったクローン達は、取り付けられた医療器具を外し、書類に何か書き込んでいる。
仲間が死んだというのに、彼らは黙々と作業を続けていた。
もはや死を何とも思わないのだろうか。
それとも、何かを感じるには、あまりにもたくさんの死を見すぎてしまったのか。
ただ、自分以外に彼の死を悼む者がいないのが不思議だった。
彼は、こんなに寂しく死んでいっていいのだろうか。
嘆くものもなく、ただ、医局の片隅でこんなにあっけなく通過儀礼のように死を迎えることがあってもいいのだろうか。
ただ、クローンだというだけで。
「遺体処理後は優先的に再クローニングの申請を――」
不意に、その言葉に我に返る。
「待ちなさい」
強い口調で、シイナはクローン達の動きを止めた。
戸惑った眼差しがこちらを見ていた。
「彼はもう、再生しないで。いいえ。これからはもう、全てのクローンを、再生しないで」
「ですが、規則では――」
「これは命令よ。もういいわ。もう、彼はいらない――」
言い捨てるようにして医局を出たあと、シイナは逃げるように足早にエレベータへと向かった。
ボタンを押すと、エレベータが動き出す。
だが、途中で堪えきれずに、その場にしゃがみこんだ。
一度開いたエレベータの扉が、もう一度閉まっても、シイナはしゃがみ込んだまま動けなかった。
身体の震えが止まらない。
激しい後悔と罪悪感に襲われる。
「――」
クローンには心などないと、思っていた。
そんな感情が、あるはずもないと思っていた。
だが、現実はどうだ。
同じ人間だったのだ。
自分達と同じ、心を持った、人間だったのだ。
なんて自分は愚かだったのだろうか。
自分の痛みしか、苦しみしか、見えていなかった。
クローニングを繰り返し、人間らしい扱いもせずに酷使してきた。
どうして、そんな酷いことができたのだろう。
どうして、何の疑問も抱かなかったのだろう。
虐げられた者の気持ちを、彼女こそが誰よりも理解できるはずだったのに。
遅すぎた。
痛烈に、シイナは感じた。
自分は彼を理解するのが遅すぎた。
もう、これ以上の報われぬ生は、彼にとってつらいだけなのだ。
生きることへの渇望と絶望。
それを抱えていくことに、すでに彼は疲れて果てていた。
そして、彼は死んでしまった。
例えどんなに再生を繰り返しても、それはもう、シイナの知っているシロウではない。
同じ遺伝子を持ち、同じ姿を持っていても、彼にはならないのだ。
もう二度と、彼には会えない。
それが、死ぬということなのだ。
そして、生きるということは、こんなにも切なく、苦しいものなのだ。
なぜ自分は、こんなになるまで自分以外の痛みに気づけなかったのだろう。
涙ばかりが、零れる。
なぜか、フジオミに、会いたかった。
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